*H・A* 前
あの人と、一番初めに出会ったのは、中学校入学式の三日前。金曜日のことでした。
お父さんのお仕事の関係で、小学校卒業と同時に夏臥美町へと引っ越してきた私には、まだ友達がいませんでした。
元々、あまり社交的でなかった私だから、引っ越す前にしても、友達はそう多くありませんでしたが。それでもやっぱり、一人でいるのは寂しくて。仕事で家にいないお父さん、引越後の片付けや手続きで忙しそうなお母さんに負い目を感じながら、私は近所の公園によく遊びに行っていました。新しいお友達ができたらいいなと思って、でもやっぱり難しくて。結局一人で、ブランコに揺られているばかりだったと思います。
ふと、気付きました。もうじき晩ご飯の時間で、帰ろうとする頃に。必ず、隣のブランコに座っている男の子がいたことに。
同い年くらいのその男の子は、隣の私には目もくれませんでした。詰まらなくてムスッとしたような、そんな顔をして、ただどこかを見つめていました。
どこかを。
楽しそうに公園を駆け回る子ども達だったでしょうか。
古びた遊具の動く様だったでしょうか。
いいえ、もっと。もっと遠くを。
どこかのマンションの窓だったのか。
夕焼けに染まる空だったのかも知れません。
あの子が何を見ていたのか、私には分かりませんでした。
ただ遠くを、ここではないどこかを見ていたようで。
誰かと遊ぶこともなく。
かと言って、一人で遊んでいる風でもなく。
もうじき暗くなるというのに、誰かが迎えに来るでもなく。
お腹を空かせて、帰る素振りさえまったく見せずに。
私が知る限り、ずっと、ずっと。この公園にいるあの子は、ブランコに座り続けていました。
そんなあの子に。私はいつも、目を奪われていました。あの子の目と、あの子の目が映しているどこかを、交互に盗み見ていました。
時間が経って。
その子が、中学校の同級生で、隣のクラスの生徒だと知ったのは、ひと月ほど先の話で。
その頃には、その男の子が公園に来ることはなくなっていました。
「ああ――×××くん、だよね」
私にも、少しずつ話せる友達ができて。
小学校からこの町に住んでいるという子に、その男の子のことを聞きました。
「あの人、なんか、……怖いよね」
正直あまり、いい評判は聞けませんでした。
期待に反して。
予想通りに。
決して、問題を起こすような、悪い人ではないようでした。暴力を振るうとか、授業を真面目に受けないとか、そんな噂は一つもなかったのに。
「なに考えてるか、分からないの。笑ったところを誰も見たことなくて、いつもみんなを睨み付けてるみたいで。怖い」
そう言われて。
私は初めて気が付きました。
確かに、怖い。
睨みつけられているようで、怖い
何を考えているか分からない。
普段の私なら、視線を送ることすらはばかられるような、そんなタイプの人たったんだと。
本当にそのとき、初めて気付いたんです。
それなら。それならどうして、あの男の子のことは平気だったのか。怖いと気付いたその時でさえ、それでも関心を失わなかったのか。――今でも、ちゃんと分かっているとは言えないかも知れません。
ただ、――そう、ただ。
単に物静かな生徒なら、男子にも女子にも必ずいます。滅多に笑わない男の子だって、私も今までたくさん見たことがありました。そんな子達のことを、時には、怖いなって、思うこともありました。
でも、違う。
あの男の子だけは、何かが違った。
雰囲気、というか。空気、なのか。
張り詰めた、思い詰めたような、その眼差しが。
何が違うのかはよく分からなかったけど、でも何かが違うのは確かだったと、今は思います。
だって、――そう、だって。
怖そうな人だと、思うよりも前に。
とても悲しそうな人だと。私には思えたから。
あの公園で遠くを見つめていたあの子の顔が、今でもまぶたの裏に焼き付いています。
口をしっかりと結んで。
乾ききった目尻を、時々こすって。
ここではないどこかを見つめていた、あの人。
気が付いたら、私は彼の姿を追っていました。
気が付いたら、私は彼のことばかり考えていました。
頭が良くて、でも運動はそんなに得意じゃなくて。
よく話す友達というのも、ほとんどいなくて。
自分のことを、誰にも話そうとしなかった。
彼が、父子家庭で育ったことも。
周囲に威圧感を与えるその瞳が、三白眼と呼ばれるものだということも。
私が調べて、人伝に聞いて、やっと知り得た、彼のこと。
彼のことが、少しずつ分かってきて。
でも、彼のことを知るたびに、どんどん彼から遠ざかっていくように思えて。
なんの迷いもなく、彼と同じ高校に進学して。ようやく彼と同じクラスになれて。
でも、彼を前にすると、気持ちがどんどん焦ってしまって。ずっと、声をかけることさえできませんでした。
ずっと、話がしたかった。
あのとき、あの公園にいたよね、って。
ずっと、伝えたかった。
本当は、あのときからずっと、ずっと友達になりたかったんだよって。
そして、知りたかった。
彼が、どこを見ていたのか。
そして、許して欲しかった。
彼と、同じ場所を眺めることを。
でも私には、勇気がなかった。
泣きたくなるほど、自分の臆病さが悲しかった。
いつまで経っても、一人じゃ何もできそうになかったから――
『ああ。それはもう、恋というやつで間違いないだろう』
意を決して相談した相手に、そんな風に断言されて。
私は、初めて気付きました。
私たちがすれ違った道のさき。
彼ではなく、私がずっと見続けていたもの。
あの日。夕暮れ時の、小さな公園で。
彼の横顔を覗き見た、あのときから。
私は彼に、恋をしています。
*H・A* 後
このとき、綾辻 華がその公園へと続く道を進みだしたのは、なにもでき過ぎた偶然というわけではなかった。
マンションの自室から、ぼんやりと夜の住宅街を見下ろしていた華の目が、人影を見とめたのだ。
ほんの一瞬、視界に入っただけで。それが知り合いの男子生徒であると気が付いた。それさえ、偶然だとは言い難い。
華が、無意識の中で彼を探していて。
彼の姿であれば、微かな輪郭しか見えない夜でさえ判別できるくらい、彼のことを目に焼き付けていた――そんな華だから。
しばらくのためらいのあと、パジャマから着慣れたワンピースに着替え、その影を追いかけたことは、決して偶然などではなかったのだ。
ずっと気になっていたから。
今日の別れ際。彼がまた、『あのとき』と同じ目をしていたことが。
胸騒ぎが止まらない中で、華は小走りに夜道を行った。
引きとめようとした母親に、コンビニに行って来ると嘘をついたことも、今の華には気にならなかった。
また彼に会うことができる、と。そんな期待が、まったくなかったわけではないが。
それ以上に。それを覆い隠して余りあるほどの不吉な予感が、彼女の脳裏を支配していた。
「チリ君……」
その顔を見るたびに不安だった。
そして次の日、彼の姿を見るたびにほっとした。
その表情は本当に、何かに迷っているかのようで。だから、目を放した隙に、いなくなってしまいそうで。
だから、彼の無事を確かめるたびに安堵した。
いつか彼が、どこかへ行ってしまうんじゃないかと思っていた。
自分を置いて。どこか遠くへ。彼が見ていた遠くへ、知らない場所へ、行ってしまうんじゃないかと。
そうなったらもう、二度と会うことはできないと。どうしようもないくらいに確信していたから。
募り募ったその焦燥が、或いは三鬼 弥生に目を付けられた原因なのかも知れないが。そんなことは、華にとってはどうでも良かった。
共に歩いていられたら幸せだ。
同じ時間の中で、お互いの姿が見えるなら、それだけでいいんだと。
控えめな少女の切なる願いが、しかしそれさえ霧散してしまう恐怖に、その細身を振るわせた。
一人の異性に対する執着。
その何もかもが、華にとっては初めてのことで。
甘く、とろけるような。そして苦く、胸を締め付けてくるような。痺れるような衝動に、彼女は何より夢中になっていた。
いま、華の背を押しているのは、そういったよく分からない感情だった。
頭でなど、何も理解していない。
理屈で説明するなど、とてもではないができそうにない。
赤点必至だ。普段の華ならば、それだけで青ざめてしまっていただろうが。
華はただ、進む。
どこへ向かっているのかも、行って何をしたいのかも、まったく分からないまま。
ただ、何事もなく明日を迎えるために。
彼と一緒に、同じ世界を生きていける明日を、迎えたいがために。
「――っ」
自分の目的地が、あの東夏木公園であると気付いた、その直後。
比喩ではなく、喉が引きつった。
間近で落雷でもあったような振動。それが錯覚であるという自覚はあっても、心も身体も追い付かない。反射的に身を竦め、宙に放り出されたような心地になる。
揺れる視線が、その先に何かを捉えた。
公園の入り口の前、向かいの塀にもたれかかるように。誰かが、道路に両脚を投げ出して気を失っていた。
誰かが。
それが追い求めていた人物であることに気付くのに、コンマ数秒の時間も要らない。
「チリ君……?」
華だから。
そして、彼だから。
華は衝動的に駆け出して、座り込み頭を垂れた人影に走り寄った。
華の足音に気付いたのか、その人影は身動ぎした。
その事実に口元を緩め、華は速度を落として、ゆっくりと人影に近づいた。
服装は昼間と変わらない。清潔感のある半袖シャツとジーパンのままだった。顔色はよく分からないが、特に苦しんでいる表情でもなく、いつもどおり眉間に皺がよっていた。
口が、動いていた。静かな夜だから――そこに僅かな違和感を覚えながら――耳を澄ませば、なんとか聞き取れるはずだと思った。
「だ、れ」
「あっ、わ、わた、わ」
名乗ろうとして、喉が詰まる。
初めて話をしたときもそうだった。今日も、だんだん慣れたとは言え、結局はそのままだった。
どうしてだろう、と華は自分が情けなくなる。
どうして、上手く話せなくなってしまうんだろうと。
誰かと話をするとき、いつもどもってしまう。それは昔からの悪癖だった。そんな自分が嫌だったから。友達に協力してもらって、接客業のアルバイトにも入れてもらって、少しずつ治ってきていると思っていたのに。
この人だけ。
この人の前でだけは、また、ちゃんと話すことができなくなる。
「わた、しは」
胸に手を当て、深く息を整える。
落ち着かなくちゃいけない。何がどうなっているのかは分からないけれど、もしも一分一秒を争うような事態だとしたら、慌てている暇はない。
自戒する。
己を律する。
そして華は意を決する。
泣いても喚いても変わらない、厳然たる事実――
ここには、自分しかいないのだから。
「綾辻、です。同じクラスの、綾辻 華です。チリ君、どうしたの? どこか痛いの? 具合が悪いの?」
努めてゆっくりと、そして聞き取りやすいように声を張って。急病の子どもと話すときのように、華は懸命に話しかけた。
「あや、つじ」
「そう。分かる、よね? わたし、私は――」
言いかけて、止まる。
――『私』とは、なんだろう。
彼にとって、『綾辻 華』とは、何者なのだろう。
問いかけるつもりのなかったその問いに、心が囚われる。
好きになってくれなくても良かった。
ただ遠くから眺めていられたら幸せだった。
彼の見ている先を知ることができたなら、それたけで。
それだけで、良かった、はずなのに。
舌が痺れる。
足の力が抜けていく。
血の気が引いていくのを感じながら、それでも華は向き合おうとした。
息遣いが聞こえるほどに近づく。
しゃがんで、その顔を覗き込む。
「ああ――知ってる。覚えてる」
彼は、そんな華から隠れるように、右腕で両目を覆った。
「お前、あのとき。この公園にいた、よな」
華の両目が、大きく開く。
声がでない。息もできていないかもしれない。
あのとき、とは。
それは一体、いつの話だ。
覚えてなんていない。
彼が、あのことを覚えているはずがない。
彼が、華のことを、見ていてくれた訳が――
「知ってるさ、見たんだから、何度も」
彼の声が、異様に歪んだ。
音が飛んで、トーンがぶれて、何か、何かが。
「何度も、何度も、何度も、何度も」
「チリ、君?」
彼の両手が、その顔を完全に包んだ。
何かがおかしいと、そう思いながらも。逃げ出せないという強い意志が、逆に華の命運を断った。
「だって、だって、だって――」
彼の手が、落ちていく。
そして現れた、その顔は――
「彼の全てはもう、僕のものなんだからねぇ!」
怒りに溺れ、血の涙を流す、異形の道化師に変貌していた。
華は思わず飛び退いて、強かに尻餅をついた。
その痛みも、下着が覗かれてしまいかねない体勢であることも、何にも構えないまま。両手両足をばたつかせるように、なんとか後退しようとする。
それでは遅い。間に合わない。
目の前にあるのは、明確な殺意。
両の脚で立ち、持ち得る全速力でその場を離れなければ――否。
そもそも、手遅れなのだ。
自宅を出て。人影を追った時点で。彼女は既に、蜘蛛の糸に絡め取られていた。
怪物の魔手が、華のか細い首に迫る。
それは、怪物の趣向である。
道化恐怖症を植え付ける行為は催眠術に近いが故に、本来触れる必要はない。
だからその手は、あくまで悪戯に、標的の首を締めてやりたいがために伸ばされたもの。息ができず、のたうち回るその様を。清純で可愛らしい少女の顔が、痛苦に歪む瞬間を見たいという、下卑た性癖によるものだった。
だが、それだけでは済まされない。
このときの怪物はあまりにも、傍から見ていても分かるほどに、興が乗っていた。
見せてくれよと、道化師が狂い嗤う。
好いた男の手によって、絞め殺される絶望の貌を――!
「ああ。だからそれが、三度目だよ」
華の目は、微かに捉えた。
眼前の道化師の顎を、黒いヒールが蹴り飛ばしたところを。
爆走する列車に追突されたかのように、道化師は宙を舞った。
それでもなお笑い続け、空中で態勢を立て直そうとした道化師の、その上に。
青色の巨人が、拳を振り下ろした光景を。