戯曲礼賛・喜劇王 -9-


*H・A

「ようこそ、我が家へ」


 そう言って、三鬼 弥生に招き入れられた華が見たのは、がらんとした黒い部屋だった。

 華は緊張した面持ちで、部屋の奥へと歩いていく弥生の後をついて行った。外観と室内との体積差に驚く平静さすら、今の彼女は持ち合わせていない。突如として襲い掛かった『チリ君』。気絶したらしい彼の身体を担ぎ、ここまで運んできた青い肌の異形。そして、華の身体を軽々と抱え、屋根伝いに跳んで町を横断した弥生。そんなものに囲まれていては、気を失うことさえ許されない。平常心などというものは、とっくの昔に紛失していた。

「聞きたいことは、まあ色々とあるだろうが」

 部屋に唯一あった家具らしきソファの前で、弥生はくるりと振り返り、華と対面した。

 相変わらず黒色のドレスをまとい、しかも一切の違和感を覚えないほど似合っている弥生の姿にも、華はいちいちうろたえていた。清流のように流れる白髪や、輝くほどの肌はもとより、弥生の瞬き一つにさえ、華の細い肩は反応してしまっている。

「私も君も、目的は一つ。彼を――チリ君を助けたい。その認識に相違はないよね」

 助けたい。

 その言葉に迷いなく頷きながら、華は床に寝かされた『チリ君』の姿を見る。

 今そこにある顔は、道化師のそれではなかった。見間違えるはずもない、彼そのものの顔だった。

 先ほど見た道化師の顔は、単純にそういうメイクをしたというだけではなかった。一瞬のこととは言え、見間違えるわけがない。明らかに顔の骨格が変わり、首から上が別人に変貌していたのだ。

 どういう仕組みなのかは分からない。分からないが、彼の身に何か良くないことが起きていることだけは、華にも確かに理解できた。

「何が、起きているんですか?」

 臆病に震える手足を押さえつけるように、華は問いかける。

 弥生は、ふむ、と。思案顔でチリ君を見下ろした。

「手短に話そう。君も目撃したという、例の道化恐怖症だがね。犯人は彼だよ」

「――彼」

 自分を襲った、あのピエロのことだ、と華は思った。

 だから当然のように、弥生は首を横に振った。

「ふん、少し誤解があるね。分かるかな、私はこう言っているんだよ。件の流行病をばらまいた元凶の正体は、この・・チリ君・・・なのだ・・・とね」

 華の中の時間が、止まる。

 彼女は――三鬼 弥生は、いったい何を言っているのか。

「道化師――上蚊野 秋佐屋という擬獣は一度、チリ君に敗れ去った。それは事実だった。だがその実、上蚊野は消滅しておらず、誰にも気付かれないままにチリ君の精神に宿り、再起の機会を窺っていた。強制的な共生、つまるところは寄生かな。それがついに動き出した。チリ君の身体を断続的に乗っ取り、無差別に恐怖を植え付け始めた。それが今回の件の真相なんだよ」

 聞き慣れない言葉に困惑を露わにする華を、弥生は一瞥しただけでやり過ごした。

 異常な事態である。

 華にはまだピンと来ないところではあるが、例えばチリ君が起きていて、先の『手短に話す』などという弥生の言葉を聞いたなら、泡を吹いて卒倒していたところだろう。

 事は一刻を争う。つまり、弥生は暗にそう言っているのだ。

「えっと、だから、その」

 ただならぬ雰囲気だけは伝わったから。華は両手でスカートを掴みながら、なんとか次の言葉を見つける。

「私に、できることは、ありますか」

 華の問いに、弥生は満足げに頷いた。

 弥生のその仕草によって、自分の中の何かが承認されたようで、華は大きく安心を取り戻す。

 理解など追いつかなくていい。自分は真相を知りたいわけじゃない。犯人が誰かなんてどうでもいい。悪いのは、彼に取り付いているという道化師なのだというし――いや、もしも彼自身に悪意があったとしても、華の願いは変わらない。

 彼を助けたい。彼が今危機に瀕していると言うのなら、そこから救い出してあげたい。そのために、自分にもできることがあるのなら、なんでもする。なんだってできる。溢れる想いも、揺れ動く心も、すべてはそこに集約される。

 自分が冷静でないことは、華にもよく分かっていた。このままでは、何かを取りこぼしてしまうかも知れないという予感もあった。

 けれど退けない。退くわけにはいかない。脇目も振らず、後も先も考えず、とにかく彼を助けたい。華の胸にあるのはその一点、ただそれだけ。

 恋する少女は強いのだ、と。華は、いつか読んだ小説のフレーズを思い出す。こんな場には似つかわしくない、間の抜けた感想だったが、それでも構わない。今の自分なら何でもできる。鬼退治だろうが二十里の走破だろうがなんだって。そんな心地だった。

 だから。

「君は本当に、彼のことが好きなのかい?」

 弥生の、輪を掛けて場違いとも思えるような質問に、華は一瞬呆けてしまった。

「そう不思議な顔をしないでくれよ。大事なことなんだ。そう、彼が彼として生還するか、それとも化け物として消滅するかの瀬戸際だ。そこで鍵を握るのが、君の想いだと言っている。さあ、どうなのかな。君の恋慕とは、いったいどの程度のものなのか」

 どの程度か、などと問われて、少しだけ頬に熱を感じる華だったが、しかし、やはり。弥生の真意が読み取れず、答えあぐねてしまった。

 もちろん、好きだ。その気持ちに偽りなどないのだから、そう答えればいいのかも知れない。程度の多寡など求めようもなく、そう答えるより他にないだろう。

 その決心を華がつける前に、問うた弥生の方が口を開く。

「私が思うにね。君の抱くそれは、錯覚なのではないかな」

「――え?」

 華の意識の外で、悲鳴のような声が上がった。

「そんな。そんなこと、ないです」

 声が上擦る。呂律も覚束ない。必死で否定する華は、自分で思う以上に動転していた。

「そうかい? なら理由を教えてくれよ。なぜ彼なんだ? 彼の何がいい? どうして彼を好きになったんだ?」

 弥生の言葉を受け、身体の芯が急速に冷めていく音が、華には聞こえるような気がした。

 理由を。確固とした理由を。答えようとして、言葉にしようとして、華は黙らざるを得なかった。

 理由などないのだ。

 恋愛小説にあるような、分かりやすい理由が。華の胸の中には、何一つとして存在しなかったのだ。

 例えば、彼に助けられたからだとか。趣味が合うからだとか。私のことを認めてくれたからとか。好みの外見的特長を持っていたからだとか。そういう明確な理由を、華は掴み取ることができなかった。

 ――気が付いたら、いつの間にか、彼のことを気にしていた。

 素直に言ってしまえば、本当に、それだけのことだったから。

「で、でも。私、ミキさんが言ってくれたから……。教えてくれたから、わたし。彼のこと、好きなんだって、気付いて――」

「ああ、済まないね。あれは私の勘違いだったようだ」

 裏切りのようなその言葉に、華は絶句するしかなかった。けれど弥生の表情を何度見ても、冗談を言っているようには、とても思えなかった。

「あのときは、相手がチリ君だと気付いていなかったんだ。でも今は分かっているよ。だから君に、彼を好きになる理由なんかまったくないということも、私にはよく分かる」

 よく分かる。

 その言葉を、華は小さく繰り返す。

「因果というものがある。火のないところに煙は立たない。あらゆる結果には相応の原因がつきまとう。君が彼のことを好きだと仮定しよう。その結果を生むためには、必ずそこに至るための原因、理由が必要なんだ。逆説的に言えばね、その原因や理由をもたない君には、彼のことが好きだという結果だってあり得ない」

 断言されていく言葉の全てが、華の心に突き刺さっていく。触れただけで引き裂かれてしまう、研ぎ澄まされた鋭利な刃物のように。

「錯覚なんだよ。君が――綾辻 華が彼を好きだなんていう感情は、本当はどこにも存在しない。君と彼の関連性なんて、客観的に見ればその程度のものなんだ。それを、昔少しすれ違ったというだけのことで、恋か何かだと間違えてしまった。そうだ、君はただ、一番寂しかったとき一番近くにいた彼に縋りたかった記憶を、未だに捨てきれていないだけだ。とどのつまり、誰でも良かった。たまたまそこに彼がいただけ。君は彼を好きだと言うが。その実それが、彼である必要性なんてない」

「――――」

 目尻が熱くなるのを、華は必死になって堪えた。

 反論ができない。

 彼のことを好きな理由。

 彼のどこが好きなのか。

 彼のなにが好きなのか。

 口に出そうと言葉を掬って、その一つ一つを文章に仕立てようとして。けれどそのどれもが、不出来な偽物のように思えてならなかった。

 納得せざるを得なかった。

 弥生に言われるまで、恋だと気付かなかったのではなく。

 それは本当に、恋だなどと呼べる感情では、なかった――

「ここまで連れてきたところ申し訳ないんだが、もう帰りなさい、綾辻 華。今の君では役者不足だ。この件に関しては私に任せて欲しい。私一人でも、コルロフォビアは充分に解決できる。ただし――」

 意味深に、弥生が言葉を止める。

 その先に、致命的な一言が待っていることが、どうしようもないくらいに分かってしまった。

 それでも、華には。それを遮る手立てなど、あるわけもなく。

「君が彼に会う機会は、もう二度と来ないがね」

 それは、瞬く間に侵食する猛毒のように。

 臓物を抉り出すような不快感と共に、華の堰は崩れ去った。

「――――」

 頬を、熱いものが伝う。

 華はそれを感じながら、泣きわめきたくなるのを必至で堪えた。

 意味の分からない涙だった。

 どうしてこんなに泣きたくなるのか華自身でさえ分からなかった。

 まず、役に立てないことが悲しいのだと思った。

 次に、それを容赦なく指摘されたことが嫌だったのだと思った。

 或いは、それまで宝物だと考えていた想いを、否定されたことが。

 静かに見つめてくる弥生の視線を拒むように、右手で涙を拭って。それでも溢れてくる涙の重さに、華はただひたすら、胸の芯を締め付けられるほどの痛みを感じていた。

『我慢できてえらいね、華』

 小さい頃、華は泣き虫だった。

 些細なことですぐに泣いてしまうから。それを鬱陶しがって、華を仲間外れにする友達も少なくはなかった。

 子ども心に、残酷な思い出。

 泣いてしまうきっかけの多くは、華が小心者だったからだが。

 泣き続けてしまった理由は、華が他人を思い遣れる人間だったからに他ならない。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 泣き虫でごめんなさい。

 嫌な気持ちにさせてしまって、ごめんなさい。

 悲しかった。苦しかった。

 誰かに辛い思いを強いてしまったことが、何より痛かった。

 華自身、そのことには気付いていたから。

 自然に涙が止まる前に、華は努めて泣くことを抑えるようになった。

 どんなに悲しくても。どんなに苦しくても。

 泣いていたって、何も解決なんかしないから。

 大切な友達を、不愉快にさせるだけなんだから。

 それは感情の動きを抑えることと同義で、だから華の人見知りは加速してしまったけれど。

 それでいいと華は思った。

 泣き虫な自分が嫌いだったから。

 大好きな友達には、ずっと笑っていて欲しかったから。

 笑っている姿だけを、見続けていたかったから。


 だからこそ。

 自分の涙が、いま、どうして止まらないのかが、分からない。


 泣いていたら、弥生は華を褒めてくれるのだろうか。

 彼が目を覚まして、優しく慰めてくれるのだろうか。

 そんなことはあり得ない。それは昔から何も変わっていない。

 泣いていても意味はない。

 ただ、周囲の人たちを辛くさせてしまうだけだ。


 だからもう、泣かないで。

 何度も、何度も。華は何度も、心の中でそう唱えた。

 泣くな、泣くな、泣くな。

 泣き虫なんか、とっくに卒業したのだから。

 お願いだから泣き止んでと。まるで小さな子どもをなだめるように、華は自分を抑え付けた。

 それは、ほんの数秒間だけのこと。

 噛み締めた唇から、血の味がして。

 ついに立っていられなくなり、華は力なく、黒い床に座り込んだ。

「――いや」

 華にはもう、訳が分からなくなっていた。

「いや。そんなの、いや」

 迷走して、困り果てて、何もできなくなっていた。

 あふれ出る激情にあっけなく飲み込まれる。

 行動の無意味さを説く理性と、わがままばかりの感情がせめぎあって。もう、すべてを放り出してでも、この辛苦から逃れてしまいたいと、華の中の大人がさじを投げた。

 そんなだったから。

 今の華は、そんな風だったから。

「もう会えないなんて、ぜったい、いやだぁ……!」

 零れ落ちたのは、いつか華が胸の奥にしまい込んだ、本当の気持ちだった。

「理由、なんてわたし、知らないよ。そんなの分かんないよ。でも、会いたいって、そばにいたいって、思うんだもん……!」

 授業の終わった学校、みんないなくなってしまった教室で、一人。茜色の空を見つめる、彼を見た。

 話しかけることもない。

 話しかけられることもない。

 笑い合うことも。

 嫌い合うことさえなかったけれど。

 ――彼を、見た。

 ただそれだけのことで幸福だった。

 そんな記憶を辿って、華は泣き叫んだ。

 無意味だし。

 みっともない。

 ただ迷惑なだけだと分かっていて。

 それでも感情は、滝のように流れ続けた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 分からないの、本当に分からないの。どうしてこんな風になっちゃうのか、分からないけど、でも……!」

 会いたいと思うのだ。

 話したいと思うのだ。

 その髪の手触りだとか。

 その胸の匂いだとか。

 その大きな背中の硬さだとか。

 そういったものを知りたいと、思うのだ。

 理由なんて分からないけれど。

 意味がないかも知れないけれど。

 どうしようもなく、思ってしまうのだ。


 ただ、そこにいてくれるだけで幸せだった。

 手を伸ばすことさえためらって、それでも満たされていた。

 どこまでも不毛なそれが、逃避でしかないことは分かっていたけれど。

 それが。

 他の誰にとっても、無意味で、無価値なその心こそが。

 綾辻 華の、たからものだった。

「――ああ。もう充分だよ」

 華の肩から、優しいぬくもりを感じる。

「ありがとう。本当にありがとう。その言葉が、その気持ちが聞きたかった。ああ、ああ、充分だとも。今の君なら、彼を助けられる。その気持ちが、彼を救う鍵になる」

 はっとして、華が顔を上げる。

 そこにあったのは、穏やかで、柔らかくて、けれどどこか悲しい目をした、弥生の顔だった。

 それは、どうしてか。

 華に、いつかの彼を、思い起こさせた。

「だから、華ちゃん。ここからは、君の選択になる」

 両腕に囲まれ、華の顔は弥生の豊満な胸部に包まれた。

「君にはあるかい? その気持ちを、その想いを――」

 綺麗なドレスが汚れてしまうと身動ぎする華に構わず、弥生は強く、抱きしめた。

「彼のために、捨てる覚悟が」

※Y・M

 重力のない水の中を、ミキは潜行していく。

 外の光はすぐに見えなくなり、藍色に染まっていた視界は、夜に移り変わる空のように、黒く変容していった。

 息苦しいのは、本当に水の中にいるからではない。

 いま向かおうとしている先において、ミキは異物なのだ。或いは、秩序を乱すために来訪せんとする侵略者かも知れないのだ。拒まれるのは当然のことで、だからミキは構わず進んだ。

 この道を拓いてくれた友のためにも、引き返すわけにはいかないと。ミキは強く念じて、前へと進む。

 この行動の先で、『チリ君』がどうなろうとも。

 それでも、死なせるわけにはいかなかったから――


『――だ、――が』

 ふいに、音が聞こえた。

 何重ものフィルターに阻まれたような、くぐもった音。それが誰か人の声であることに気付くのに、一秒を超える時間を要した。

 その声に、近づいていくように。ミキは耳を済ませて、その源へと進む。

『"それ"、いつまでそこに置いておくの?』

 しばらくしてようやく、言葉として認識できるまでになった。

 ミキも知らない、女性の声だった。何か、誰かと口論している風だったが、詳細は分からない。

 しかし一つ、確実に分かっていることがある。

 これは、記憶だ。

 この暗い世界で、今ミキが迫ろうとしている中心にある要――『チリ君』が、脳裏に刻んだ記憶なのだ。

『わたしもう、"そんなもの"の面倒なんか、見たくない』

 聞こえるのは、音だけだったが。

 それだけの情報でも、ミキが愕然とするには充分だった。

(そう。それは彼の、原初の記憶でございました)

 位相の違うどこかから、また違った声が聞こえる。

 芝居がかった物言いに似つかない、軽薄な声だった。口論する声とはまた違う、随分とクリアな音質に思えた。

 ――原初の記憶だと、ソレは言った。

 人間の個々人が記憶できる『始まりの記憶』は一律ではない。何気ない一瞬、衝撃的な出来事、穏やかなまどろみ。人それぞれ違うその経験の認知を、人は『物心がつく』というように表現した。

 だが、それはあくまで自我の発現、認識の話だ。

 記憶とは、この世に産まれたその瞬間から、蓄積されていくものだ。

 理解できるか否かは問題ではない。

 その目で見て。

 その耳で聞いて。

 蓄えた記憶を基に、人は一歩一歩成長していく。

 己を抱き。

 心を育て。

 その両足で、歩めるようになっていく。

 であるならば。この声は、『チリ君』が産まれたときの記憶だろうか。

 そう思い立ち、しかし躊躇いなくミキは否定する。

 もっと遅い。若干の誤差がある。個人差と言えるレベルの差異ではあるが、これはそんな緩やかな性質の違いではない。

 気付くのに苦労などない。明確な要因がそこにある。

 彼は、生まれたその瞬間に、母親を亡くしているのだから。

(産まれた直後に病で母親を亡くした彼は、そのすぐあと、親戚夫婦の家に預けられました)

 楽しげな声は、ミキの知らない事実を示しているようだった。ともすれば狂言の可能性もあったが、しかしミキには無視できない。『チリ君』の出生後一年間の出来事は、病的なまでに徹底して、隠蔽されていたのだから。

 完全に閉じられた情報。それが本当に『閉じられている』のならば、アオであっても収集は出来ない。

(もうじき一年経つというのに、彼は一言も喋れませんでした。パパも、ママも、何も喋ることができませんでした)

 物語をなぞるような言葉の裏で、なおも口論は続いていた。これだけの言葉が行き交っていれば、言語能力の発達も促されるはずである。それでも喋れなかったというその現象に、ミキは不吉な淀みを感じざるを得なかった。

(そう、なぜなら)

 ミキの心中が読めているかのように、その声はもったいぶって、言葉を区切った。

(彼は一度たりとも、話しかけられたことがなかったからです)

 嘲笑が漏れる。

 愉快げな感情が滲む。

 ミキは眉をひそめながらも、何も言わなかった。

 その不謹慎さに怒りを覚える前に、すべてを察してしまったから。

(そのとき。彼の名前は"それ"でした。或いは"もの"でした。本当の名前など、呼ばれたことがなかったのです。欠片の愛も情もない。悪意と、無関心と、この世の肥溜めのような世界の歪みに、奪われてしまったかのごとく。故に――)

 故に。

 そのときの彼の境遇こそ、『名無し』の根源。

 原初の記憶。呪われし力の源泉。

 これは紛れもない真実だと、ミキは理解した。

 ミキにも分からなかったのだ。彼の持つ『名無しの黒鎌』の理由が。

 何故、あのような形なのか。

 何故、あのような色なのか。

 何故、名前を狩るなどという特異な能力を有しているのか。

 ――鈍い音が響く。口論は怒声の張り合いに変わり、暗い空間の中に悲しみと苦しみが満ちていく。

 この世界の色こそが、彼の原点。

 他者から搾取されるだけの弱さこそが、彼の母胎。

 怒りを感じるのにさえ、彼は幼すぎた。

 その在り方は、或いは『空』より出でた呪いなのかも知れない。

(故に銘は『名無しの黒鎌』。一年が経とうというころ、彼を預かっていた夫婦は謎の失踪を遂げた。そしてほぼ無休で働き詰めていた実の父親に発見されるまで、何日も何日も、泣き続けていたのだとさ)

 その言葉とともに、視界が開けていく。

 目の前に、一人の男の顔が現れる。


『ごめん、ごめん、ごめんよ』

 それは疲労に削られ、悲壮に痩せ、不幸に曲げられていたが、しかし。

『もう、絶対に。お前を一人になんて、しないからな――』

 一人の父親として。痛ましいほどに、凄惨な覚悟を表していた。


「ああ――」

 ノイズが走る。

 記憶は加速度的に流れていく。

 嘆息と共にミキが見るそれは、『チリ君』の辿った軌跡だった。

 誰もいない授業参観。

 父親の帰りを待つだけの公園。

 学友との数え切れないすれ違い、大人たちの見下すような視線。

 没頭する何かを見つけることさえできず、ただ暖かな家庭から漏れ出た光に憧れながら逃避した、十六年という月日。

 ミキにとって、それはほとんど既知の情報だったが。

 こうして本人の記憶として再認すると、胸が張り裂けそうになった。

 こんなにも。

 こんなにも重く、苦しいものだと。他人には到底分かるまい。

 こんなにも辛い記憶を抱えて、どうして全うになど生きられる。

 しかも、そんな彼の記憶でさえ、特別ではないのだ。

 こんな経歴は、ありふれている。

 この世界に生きる人々はみな、こんな苦しみを背負い続けている。

 ――終点は、近い。

 それが分かったから。ミキは――三鬼 弥生は決意する。

 救うのだ。

 この世界に惑う哀れな人、そのすべてを救い出すのだ。

 こんな苦しみはたくさんだ。

 こんな辛さを繰り返すべきではない。

 不幸の連鎖に囚われ、なお泣いて逃げ出すことすら許されず罵られるような、この悪意に満ち満ちた世界を、見逃すわけにはいかないと――


『三鬼 弥生――あの女のことを、決して信じてはいけないよ』


 世界に明度が戻っていく、その狭間で。

 ミキは、いつか聞き慣れた、その声を耳にする。


『自分の名前を、自分のものと。認識したのは、いつのことだい?』


 そうして、ミキの中で、すべてが繋がった。

 掛けていたピースが、最悪の形で嵌っていく。

 取り返しのつかない過ちを自覚し、そしてこれから先に待つ現実に戦いて。


 溢れ出そうとする涙を押しとどめ。

 ミキは、この事態の元凶へと対面する。