戯曲礼賛・喜劇王 -7-


『コルロフォビアか』

 その症状を話して聞かせると、ミキは、今日の昼にマツイさんが言っていたのと同じ名前を口にした。

「間違いないのか?」

『断言はできないが、状況から推察すればそういう話になる。実際、最近それと似た症例が表れたという話を私は聞いているよ。七件というのは、聞いていたよりも随分と多かったけれどね』

 電話越しのミキの声は、なんとなく歯切れ悪く聞こえた。やはりまだ、体調が戻っていないせいなのか。

「一応聞いておくけど。上蚊野ってピエロのことを――覚えてるか?」

『上蚊野、秋佐屋だろう。ん、ああなるほど。彼の関与を疑っているのか。ふん、いい記憶力だよチリ君。よほど彼のことが恐ろしかったんだろうね』

 愉快そうに告げられるそれは、確かに半分は正解だが、しかし。

 ミキが、俺の真意に気付いていない。

 これもやはり、体調のせいか? それとも演技なのか?

『心配は要らないよ。あの道化師は確かに、君が浄化した。それはアオの目を以て確認している。この件に関して、彼という擬獣は無関係だ。別の要因があると考えるべきだろうね』

「――そうか」

 そう、なのだろうか。

 手を下したのは俺自身で、ミキのお墨付きまで貰って。ならば九分九厘、間違いのない答えであるはず。

 なのにまだ、納得できない自分がいる。

『とは言えまあ、それでは解決の糸口が見えない訳だ。私の方も状況は同じだよ。となると、君の見たという夢が唯一の手掛かりなのは、なるほど間違いないのだろう』

 俺とミキの、状況が同じ? そう言ったのか?

 ただの勘以下の情報で動こうとしている俺と、ミキが同じだと?

 それは、つまり――

「本気かよ。ただの夢だぞ」

『そのただの夢のことを、見過ごせないと感じたからこそ、私に電話してきたんだろう? チリ君』

 腹の立つ言い方だが、その通りだ。

 俺が見た夢。それはある場所・・・・を映し出していた。はっきり細部を認識できたわけではないが、あそこに違いないと、感覚で確信している。

 それは幻視だ。恐らくは、七人目の被害者が襲われた、その瞬間の。

 昼間一緒にいた女子大生と。

 ――上蚊野 秋佐屋に類するような、ナニカの邂逅。

 何故、俺がそれを夢に見たのかは分からない。本当に、単なる俺の夢だという可能性も当然捨てきれない。

 でも、だからって。気にせずにはいられなかった。

 それは。それは確かに、その通りなんだが。

 だけど。

『それで、どうするつもりだい? チリ君』

 少しだけ潜められたその声には、いつもの余裕がないようにも思えた。

 俺の答えを、それがなんであれ許容する寛容さはなく。

 ただ、俺の出方を探っているような。慎重さの窺える声のようで。

「とにかく今日、夜になったら行ってみるさ。何かあれば分かるだろ」

 俺の答えに、ミキは珍しく沈黙で返した。

「アオが動けないなら、これは俺の仕事だろう。違うのか」

 だから俺は、その予想に確信を持てた。

 十戒とやらの一件から、それなりの時間が経っているが。ミキの力は、未だ戻らないのだ。

 驚きはしない。ひのえが語っていたように、それだけの案件だったということだろう。

 アオの後ろ盾がないのは確かに不安だ。それはそうだろう、ミキに出会ってからこっち、死にそうになった経験は何度もあったが。それでもまだ生きていられるのは、アオを従えるミキの助力が大きかったに違いないのだから。

 ありがたい話とは言えないし、言いたくない。だからこそ思うところも当然ある。でも、事実は事実として受け入れなくちゃならない。俺は実際、これまで何度も、ミキに助けられてきたのだと。その助け抜きで、擬獣なんていう化け物や、それに類する何モノかに会いに行こうなんて、自殺行為にも等しいだろうと。

 それでも。動かなくちゃならないと思った。

 どうでもいい誰かのためじゃない。

 良し悪しはともかく、繋がった縁を。俺は、俺自身のために、守りたいと思うのだ。

 傷付くのを恐れて。

 見て見ぬ振りをして。

 失ったから取り戻せないと、諦めるのはたくさんだ。

 俺はもう、手を伸ばすことを躊躇いたくない。

『チリ君、君は――』

 何かを言いかけたミキは、それでも「いいや」と言葉を止めて、ありがとうと感謝を告げた。

「別に。お前ならむしろ、こんなときだからこそっつって、いつも以上にこき使ってくるんじゃないかと思ってたけど」

『勿論、そのつもりではあったよ。でもそれと、慎重さを欠くことは同義ではないだろう。君の申し出は本当にありがたいが、でもチリ君、どうか焦らないで欲しい。アオに頼らずとも、情報収集はしている。それが実を結ぶまでのあと少しの間、様子見に徹していたいというのが、私の願いなんだから』

 例えそれで、他の誰かが犠牲になったとしても――

 分かってる。私情を挟んでいるのは俺の方だ。焦りすぎだと言われても否定はできない。

 でも、動かずにはいられない。そうでなくちゃ、このざわめきが収まらない。

 忘れてはいけない。本当は、そういうものだ。それが当たり前のことだ。アオの後ろ盾に依存しちゃいけない。まだ知らない未来に不安がある――そんなのは当たり前のことなんだ。それに怯えて、縮こまっていたら、何も始まらない。何も守れないし、何もかも失うだけだ。

 何よりも。

 何よりも、俺はまだ。ひのえの件を、納得していない。

『――では、後押しになるか分からないが』

 諦観の込められた声で、ミキが切り出す。

『実のところ。現状でも、アオを行使することは不可能ではない。だがそれをしないのは、制御不備と過負荷を恐れてのことだ。何か事を成すために、手痛い代償を求められるかも知れない』

 鉛のような吐息に意思を込めて、『だが』とミキは続ける。

『君の命を守るためなら、私も、決断を迷うことはしない』

「…………」

『だから本当に。お願いだ、チリ君。無茶だけはしないでくれ』

 俺は今、どんな顔をしているだろう。

 ミキの真意は今も分からないが、それでも。

 今までの俺は、あまりに早計だったのではないだろうか。

 見極めが早すぎた。ミキはミキだからこうに違いないと、拙速に切り捨ててはいなかっただろうか。

 あらゆる感謝も、あらゆる思い遣りも、ありとあらゆる笑顔さえ。それは作り物だと、演技なのだと、全てそうに決まっているんだと、目をそらし続けていた。ミキのことが怖いだって? 当たり前だ。理解できないものは怖いんだ。よく知ろうともしないで、自ら分からないままで放っておいて、何を被害者ぶったことを抜かしていたんだ、俺は。

 諦めることに慣れすぎていたんだ。分かり合えるわけがないと。いや、分かり合う必要なんかないんだと。思考停止してしまっていたんだ、あれだけミキが言っていたのを、間近で聞いていたっていうのに。

 そのことに気付いた今だから。そうではない可能性だって、ちゃんと見えている。


 全部が全部、じゃなくっても。

 俺は本当に、色々と間違えていた。


『どうか、気をつけて。チリ君』

「お前こそ。無理してんなよ、ミキ」


 どうしても、謝ることはできなかったから。

 歯がゆい気持ちを押し込めたまま、通話ボタンを押し込んだ。

 東夏木公園。つい今朝の話、ウォーキング中の綾辻と遭遇したのが、この公園の前だった。

 むかしと、いま。俺の記憶にある公園の景色とは、随分と様変わりしてしまったように思う。背が伸びて、視点が上がったから、というだけでは決してない。

 俺がよく腰掛けていたブランコは真新しくなり、そこから眺めていた大きな滑り台は姿を消した。あとは砂場と、子どもが四人は座れそうなベンチがある、それだけの公園。木檜団地の公園と同様に、むしろ広場と呼ぶに相応しくなってしまった、いつか慣れ親しんだ灰色の記憶。

 今のような夜に訪れたことも、そう言えば何度もあった。帰りの遅い父親を待つ、自分の暗い家が怖くて。逃げるようにやってきては、無人の公園で特等席のブランコに陣取った。

 当然夜闇の方が暗いに決まっているのだが、それでも俺には家の中の方が怖かった。“自分だけしかいない家の中”が、どうしようもなく怖かったのだ。その恐怖は、十年経った今でさえ、時折蘇ることすらある。忘れられるわけがなかった。

 ここへ来なくなったのは、いつ頃の話になるのか。最後にここへ来たのは、中学に上がった時分だったろうか。よく覚えてはいないが、自分用のパソコンを買い与えられたのが、その頃だったように思う。暗い夜も、一人だけの家も、ネットが繋がっているうちは耐えられた。こんな深夜でも起きている人はいるんだと、俺のような人間は自分一人ではないのだと、それが分かっただけでも救われたんだ。

 あまり、褒められた手段だとは言えないが。そうやって、歪な関係性に安堵する人間は、その実この社会には溢れ返っているのだと分かった。俺たちにとってそれは微かな希望であり、そしてミキに言わせれば爛れた病巣に違いないのだろうが。

 だからこの公園の存在は、いつしか俺の中から消えていた。当時の俺にとって公園は必要な場所だったかも知れないが、でも掛け替えのない場所でもなかった。本当に欲しかったものとは全然違う。家でもなく、居場所でもあり得ない。

 俺は、そうだ。少しでも早く、父親に会いたかったのだ。駅から歩いて帰ってくる父に、さあ帰ろう――と、肩を叩いて欲しかったのだ。夜に一人で歩いていける範囲内、その境界ギリギリのところに、たまたまこの公園があったという、それだけのことだったんだ。

 俺にとって、ここはもう、要らない場所だ。

 訪れる必要なんてなかった。いや、今に至っては、訪れたくもなかったかも知れない。

 だって。

 だって。

 だって俺には、もう。帰りを待つ相手なんか、どこにもいないんだから。

「――いない、か」

 公園の入り口に立って、慎重に周囲を見渡す。この辺りで唯一の光源である、反対側に立つ背の高い街灯の光を頼りに、その風景を把握する。

 知覚できる範囲に異常はない。午前零時も近い深夜、音もほとんどない。夏は虫もそれなりに飛び交っていた記憶があったが、今はその気配さえない。 相変わらずの湿ったい空気を、やや強い風が押し運んできている。

 公園の中央に向けて歩いていく。地肌が剥き出しになった地面は若干でこぼこしつつも平坦で、踏み均されてきたためか雑草も少なかった。昼間も、ここで遊んでいる子どもは見かけなかったが、まったく使われていないという訳ではないのかも知れない。当然のように、俺のような・・・・・子どももいない。知らず、呼吸が深くなっていく。

 公園の中央でぐるりと全体を見回し、いつか俺が使っていたブランコへと歩み寄った。一人用のブランコが二つ、鉄の棒に吊る下げられている。腰を掛ける木の板を軽く蹴ってみると、僅かに鉄鎖がしなり、跳ねるように揺れ動いた。金属の擦れる音が、控えめに風に乗った。

(座らないのかい?)

 当たり前だ。俺にはもう必要のない場所だから。

(本当にそうかい? 今の君にはいるはずだろう、待っている人が)

 いるわけがない。もう四ヶ月音沙汰なしだ。死んだんじゃないか?

(諦めた?)

 諦めた――

 そうだ、諦めたんだ、俺は。

 ミキのことだけじゃなく。俺は、他にもたくさんのことを諦めてきた。

(なのにもう、諦めない?)

 無理なものは無理だ、それはいい。でもやれることが残っているうちに、手を伸ばすことさえやめるのを、もう終わりにしたいんだ。

 俺は、俺だから。

 もう二度と、自分自身を投げ出さない。

(ああ、はい、なるほど。じゃあ――)

 突風が、背後から叩きつけられる。

 一瞬よろめきながらも、臨戦態勢で振り返る。右手には黒鎌、不意打ちはなく、間合いに異物はない。ただ吹き荒ぶ、公園内を蹂躙するような突風から両目を守る。

「潔く諦めてくれ! はっはー! 決まり! 決まり! 決まりきった悪逆非道極悪無道! 君がここで地に伏して、冷たい肉人形に成り果てることはねぇ!」

 スポットライトを浴びるように。

 喜劇を名乗り悲劇を嗤う、惨酷の魔物が姿を現した。

 上蚊野 秋佐屋。

 その男が、もう二十年以上も前に死んだ人間であることは、いくら何でももう調べがついている。ネットで探せば、そういうことを話題に挙げる好事家は少なからず見付かるのだ。無論それは上蚊野本人、或いは彼が所属していたサーカス団の知名度あってこその話なのだろうが。

 それを、故人である上蚊野に伝えられたなら、彼はそれを喜ぶだろうか? 益体もない話だが、ふとそんなことが思い浮かんだ。

 自分という人間が生きた証を、この世界に刻みたい。そんな風に生きて、生き急いだ人間が大勢いたことは、過去の書物を漁れば幾らでもでてくるものだ。有名になりたい。自分の創作物を後世に残したい。己の生き様を誰かに告げて、語り継いでいって欲しい。そういう欲求その全てが、そんな大それた目的のために存在しているかと言えば、俺にはまったく実感の湧かない話ではあるが。そんなことを考えていた人間がいなかったと、否定することもまたできない。

 上蚊野 秋佐屋という男は、一体何を考えて生きたのだろう。

 生涯を道化師として、顔を隠し、正体を塗り潰し、大勢の目に留まろうと芸を磨いた彼は――何を思っていたのだろうか。

 ――益体がない。本当にない。

 ミキの影響だ。柄にもなく、詰まらないことを考えてしまった。

 俺が探しているソレが、或いはその答えを持ち合わせているかも知れないけれど。

 擬獣となったアレの言葉など、俺は断じて欲しない。

 彼の人生はもう終わったのだ。

 語り継ぐは生きた誰かの役割であり、死んだ本人の役目ではない。

 それが条理。それが道理。

 偶然にでも何にでも、選ばれた幾人かだけに許される例外なんて、俺は絶対に認めない。

 上蚊野 秋佐屋が、或いはその所属した一団が、どれほど素晴らしいものだったとしても。終わりは平等に訪れる。

 平等でなくちゃならない。

 例えば、そう。そのサーカス団に今も在籍している息子とかに、だ。

 秋佐屋について聞きたいなら、彼にコンタクトを取ればいい。

 幸いというか。そのサーカス団は、今もなお存在し、活動を続けているのだから。

 ただ、どうやら今とは名前が違ったらしい。

 サーカス団の名前が『大山シャイニーサーカス』に変わったのは、まさに二十年前。

 昔の、上蚊野が生きていた頃の、その団体の名称は――

「上蚊野曲芸一座」

 鎌を右手に、一歩距離を詰めながら、俺はその名を口にする。

 公園の中央に陣取った上蚊野は、口の端を吊り上げながら、ニヤニヤとこちらを睥睨した。

 血走った目は。あまりにも人間離れしている。

 今の心境はきっと、飢えた猛獣に捕捉されたときのそれに近い。

「――懐かしい名前だ。ああ本当に。遠い過去の、赤ん坊の頃に聞かされたおとぎ話に出てきたような」

 未知数の敵は遠くを見遣り、腫れ上がったような赤い鼻を撫でつけた。

「酷い事故だったそうだな。公演の本番中に、空中ブランコからの転落死なんてのは」

「ノンノン。事実は正確に把握してくれよ、お兄ちゃん」

 上蚊野は、そう言いながら指を振って否定し、恭しく一礼した。そして身体を起こした時には、どこから取り出したのか、真っ赤なボールを両手に掴んでいた。右手に三つ、左手に二つ。

「空中から転落し。地上に固定されていた本物の剣で、運悪く首を貫かれ。そして血の臭いにあてられたライオンの暴走になす術なく、半身を食い千切られた」

「――――」

 それは。自分の死に様を語る道化師の姿は。あまりに愉快そうで、あまりに痛快そうで、――だからこそ、恐怖を感じさせるものだった。理解できないものは思考を置き去りにし、その所在なげな在り方が怖いのだ。喜びに滾る、息遣いが聞こえる。

 一つ、二つ。やがては五つ。赤いボールが、宙を舞って。

 催眠術に使う五円玉のようだった。

 じっと見ていたら、一瞬で何かを奪われてしまいそうで。足元の地面が、消えてなくなりそうで。

「無精するなよお兄ちゃん。ちゃんと新聞を漁れよ、図書館とか行けよ。当時はそれなりに大事件として報じられたんだぜ。あれだろ、いんたーねっと? なんて胡散臭いものでお手軽に済ませてるから、正しい情報を掴み損ねるのさ」

「は、ろくに知りもしないお前に何が分かるんだよ」

 ここで、ジェネレーションギャップに因る現代人と高齢者のありきたりな論争を起こすつもりはない。話しながらジャグリングを始めるような人間と、そもそもまともな会話ができるとは思っていない。これは単なる場繋ぎだ。

 今度こそ確実に、間違いなく、あのピエロを倒せるように。

 また一歩、距離を詰める。

「そんなに気に食わないのかい?」

 なに、と脚が固まる。

 思わず、固まってしまった。

「死んだはずの人間が、殺したはずの擬獣が。こうして元気にお外で、のびのびやらかしているのがサ」

 それは。そんなことは。

 明らかに、どうしようもなく、正気などどこかに捨ててきたような化物が――

「見透かしたようなことを、言ってんじゃねぇよピエロ野郎が。分かってんなら話が早い。さっさと首を差し出せよ。綺麗さっぱりなくなれよ。ああ、正直言えば、そろそろ我慢の限界だったんだ。人の夢にちょろちょろと出てきやがって。おかげでちょこちょこと記憶が飛びやがるし。これ以上ないくらい、こっちは迷惑してんだよ」

 僅かに、胸の奥に熱が灯る。

 人の心中を言い当てるようなその言動が、やっぱり、どうしても、どうやっても。

 その憤怒が、忘れられない。

「性急だなぁ、お兄ちゃん。いいだろう? 少しくらい遊んでも。だって今日は、別に時間を決められている訳じゃないんだから」

 いつもと違って。

 そのピエロは、当然のように、嘯く。

「だから、言ってるんだ。お前の気持ち悪い顔なんか、もう一秒たりとも見たくないんだよ」

「悲しい! どして? どしてぼくこんなにきらわれちゃったのぉ?」

 ポロポロと、ボールが落ちて、跳ねて行く。

 徐々に遠のいていく音が、現実感を奪っていく。

 道化師は、どうして、どうしてと繰り返す。

 そこに何の意味があるのか。

 何か不吉な予感を抑えながら、おぼつかない足取りで歩を進める。

 道化師は。

 目を見開き、歪な両手で顔を覆い、

「僕は何にも悪くない! 僕じゃない、僕じゃない、僕じゃ――」

 大げさに震える声と身体で、糾弾するように、叫ぶ。

 どす黒い空気を震わせ。

 赤い涙を零し。

 刀剣のような鋭さでもって。

「母さんを殺したのは僕じゃないのに!」

「――!」

 心臓が、ボールを追って、跳ねて行きそうだった。

 頭の芯から背中にかけて、不快極まる掻痒感が、ぬめりと滑った。

 意識が剥ぎ取られそうになる。

 盾も城壁も、容易くすり抜けて。

 それほどの動揺が、確かに走った。

「ああ、そうとも」

 目の前で、上蚊野の声がした。

 黒鎌の射程など、とっくに踏み破られている。

「君はなぁんにも悪くない。仕方なかった。どうしようもなかった。お母さんも、そしてお父さんのことも」

 鎌が、重い。

 名前は分かっている。この距離なら空振りもない。

 斬り殺すなら今しかない。

 なのに。

 なのに、どうして。

 こんなにも、手足が震える。

「なんで、そんな……」

「そんなこと知ってるかって? 決まっているじゃあないか」

 肩に手が乗せられ。耳元で、内緒話でもするかのように。

「僕以上に、君を理解している奴はいないよ」

 血の匂いが、する。

 錆び付いた鉄でヘドロを掻き回すように。

 吐き気が湧き出る。

「おんなじさ」

 湿ったい空気が纏わりつく。

 それは微睡みのようでありながら、欠片の心地良さも感じない。

 まるで、墓場にでも来たような。

 知らない誰かに手招きをされて。

「結局みんな、アイツのせいだ」

「――アイツ?」

 自分の声が、自分のものとは思えないほど、震えていた。

 疑問符の先にある『アイツ』が、楽しげに笑っている姿を見た。

「君の不幸、君の不運、君の災難、君の絶望――すべて、すべてすべてすべてすべて、仕組んだ奴はおんなじさ」

 脳を直接こね回らせているように。視界がブレて、グチグチと鳥肌の立つ音が耳を苛む。

 逃げ出したい。

 ただ、ここから逃げ出したい。

 胸の中にあるのは、その一心だけだった。

「分かるだろう。そうだ、君になら分かるはずだ。君をこんなにした、その責任は全て、アイツが持っているんだ。君を『一人』にした元凶は、アイツ以外の誰でもない。だから――」

 君には、報復の権利があるだろう、と。

 目の前のピエロは、言う。いや――

 コイツは、本当に――俺の前に、いるのか?

 まるでもっと近くに、誰よりも近くに――いる、ような。

「おんなじ、おんなじさあ」

 全身の力が抜けていく。

 幾度となく倒れそうになるのを、食いしばって耐え抜いた。

 声が反響する。

 虫か、動物か、訳のわからない騒音が混ざって、原型さえ辿れないほどの爆音となりながら、何度も何度も、鼓膜を突き破ってきた。

「それは、そう、紛れもなく同じこと」

 視界が白濁する。

 一本の糸で辛うじて繋がっていた意識を、ついに手放してしまいたくなり――

「君がカミヤくんを殺したのだって、アイツのせいだ」

「カ――」

 激情が、蘇る。

「そ、れは――!」

 違う。

 それは。

 それだけは違う。

 認めない。

 渡さない。

 それだけは、絶対に。

 絶対に、誰のせいにもしないと決めた。

 誰にも渡さないと誓ったから――!

「上、蚊野ぉ――」

 全身全霊を以て黒鎌を振り上げ、刃を駆る。

 道化師の肩に落ちた黒刃は、何もなせずに静止して。

「秋佐屋ァ――!」

 絶叫と共に、世界は繋がり、意味は再構築され。

 ざくりと、肩から股にかけ切断された道化師は、おぞましい笑みのままで霧散した。

「づっ――、は――」

 吐き出しきった空気を、むせながらかき戻した。

 黒鎌も消え、一気に重くのしかかってきた負荷に耐えきれず、生暖かいような砂地に膝と手をついた。

 呼吸が整わない。まるで数キロを全力疾走した直後だった。

 汗が滴り、目の前に斑点を付けていく。

 夏の風が、冷たいとさえ感じた。

 終わった。

 終わった。

 これで終わりなんだ。

 何度頭の中でそう唱えても。心も、身体も、安堵することはなかった。

 焦りと、怒りと、恐れと、そして言葉にならない何かが。胸の中で、溶けることなく混ぜ続けられる。

 どれくらいそうしていたか分からないが、しかし。

 その間も、あの声が聞こえてくることはなかった。

 耳元で――いや。脳髄の内側から這い出してきたような、あの声は、もう聞こえない。

 今度こそ。

 今度こそ――

「終わった――」


「とでも思ったかい?」


 そこで意識は、完全に途絶えた。