Gracial Jardin -4-


 それは、夕立と言うには少し早く、そして強い雨だった。辺りの景色は薄らと灰色に染まり、どこか荒廃したような印象を抱かせる。雨粒が屋根や地面を叩く音が絶え間なく、急き立てるように鳴り続ける。眩しすぎて嫌になった、真夏の太陽が少し恋しくなるような、静かで騒がしい昼下がり。

 ミキは東堂組のオフィスを出た後、エレベーターを使わず、狭い非常階段を使って地上を目指していた。特別な意味があったわけではない。実は閉所恐怖症なのだとか、ダイエット中なのでなるべく歩くようにしているだとか、そういう事情があったわけでもない。

 三鬼 弥生は無駄なことをしない。だからその言動一つ一つには、必ず何かしらの意味がある。だが、それがいつでも、観測者の視点から明白になるとは限らない。その言葉が、その行動が、どのような意味と価値を持ち、未来を変えていくのか。その規模は、その種類は。未来とは一体いつの話なのか。そんなものは分かるわけがないのだ。蝶の羽ばたきがハリケーンを起こすという寓意は即ち、人間に未来視は不可能であるという指摘に他ならない。

 だが、それは悲観すべき問題ではない。無駄を積み重ねて生きるのが人間であり、人間とはそういう生き物なのだから。先の見えない不安から迷走する人間をミキは愛しているし、夜闇に強い目を持たないから、虐げられても仕方がないという考えも毛頭持たない。

 何よりも不幸なのは、そういうものだとありのままを受け入れられない、飽くなき欲望を持って生まれたことだと。ミキという人間は、頑なに信じている。

 ふと、ミキの足が止まる。二階から地上へと下りる、最後の踊り場をヒールで打ち付けて、階段の終端に立つ影を見る。

「よお、久しぶり。元気そうじゃないか、弥生」

 予測できなかった未来に、ミキの思考はコンマ数秒停止して、すぐ何事もなかったかのように動き出す。思い描いていた絵図面を一瞬で書き換え、そこへ続く道筋を再構築する。そして最後に、その姿を照合する。

 ゴシックロリータ調の黒いドレス。

 雨に濡れて輝く金の髪。

 勝ち気そうなツリ目に無機質な光沢を讃えて。

 その少女は、そこにいた。

「――ノアール」

「無理を言って済まないね、華ちゃん。お店にも迷惑を掛けてしまった」

 白いテーブル席に腰掛けて、二人分の水を配膳したウェイトレスの少女に、ミキは親しげに話し掛けた。

「い、いえミキさん、いいんです。ちゃんと店長の許可は取りましたから、気にしないでください」

 ミキに『華ちゃん』と呼ばれたウェイトレス――綾辻 華ははにかんで、ぎこちない笑顔を浮かべた。黒と白を基調としたロングスカートのエプロンドレスは、夏臥美町の駅周辺でも人気の高い、この喫茶店の制服である。

「ええと、ご注文はお決まりですか?」

「私はいつもの。ノアールは?」

 慣れた流れ作業のように答えてから、ミキは同伴者に振った。

「あー」

 ミキと向かい合うように座ったノアールは、不機嫌そうにメニューを眺めていた。

 そのノアールの服装も、今は喫茶店の制服である。ノアールが不機嫌なのはどうやら、服がだぼついて動きづらいかららしい。

 制服は華のスペアを借りたものだ。華も小柄な方だが、それでもノアールには余りある。

 そもそもミキとノアールがこの喫茶店へ入ったのは、この大雨の中、傘も差さずに平然と歩いていた、ぬれねずみのノアールとその服を乾かすためだった。そのままではバスにも乗れないと、ミキが連れてきたのだ。ノアールはかなり渋ったが、ほとんど強制連行である。

「牛乳くれ。人肌くらいにあっためたやつ」

「ん、そんなメニューあったかな?」

「あ、一応、裏メニューでありますよ、ホットミルク。注文するお客様、ほとんどいないんですけど」

 あって当然だろう、と言わんばかりのノアールを窺いながら、恐縮したように華が答えた。

「弥生はなんだ、何頼んだ?」

「わがまましろくまたいがー」

「は?」

「わがまましろくまたいがー」

「……お前、本当にそういう意味分かんないの好きだよな」

 深く言及するのは諦めたらしく、ノアールは脱力したように肩を落とした。

「あ、えっとね。『わがまましろくまたいがー』っていうのは、カプチーノなんだけどね。ラテアートで可愛いシロクマが描かれているのと、可愛いトラの模様が入った焼き菓子がセットになってる、このお店のオリジナルメニューなんだよ」

 見かねた華が説明を入れた。見た目が完全に小学生なノアールには、華も努めて優しく接しているように思える。どう見ても邦人には見えないノアールが最初に入店してきたときは、かなり恐る恐るといった接客だったが、言葉が通じることが分かってからは随分マシになっている。もっとも、元々ぎこちない口調や仕草が癖になっているらしい彼女だから、あくまでマシというだけのことではあるが。

「ふぅん。弥生はよく来るのか? ここ」

 華の話半分に、ノアールはミキに尋ねる。

「ああ。休憩や、誰かとくつろいで話がしたいときには、よく立ち寄らせてもらっている。いい店だろう」

 それを聞いて、華は照れたように微笑んでから、一礼して店の奥へ向かっていった。

 店内は落ち着いた雰囲気で満ちていた。二十席程度の少々手狭な店ではあるが、木目の壁と、それに溶け込むような調度品はどこか温かく、見ていて心が安らぐ。

 悪天候だからか客の入りは芳しくないが、その分静かで、雑談には丁度よい具合だった。

「ここってさあ、なに、メイド喫茶?」

「違うよ。普通の喫茶店。おかえりなさいませお嬢様、なんて言われなかっただろう」

「そういうものなのか。いや、服がなんかそれっぽいからさ」

 ノアールが、自分の着ている制服の胸元を摘まみ上げて言った。

「確かに、ヴィクトリアンメイドの仕事着に近い意匠ではあるがね。でもそれを言ったら、普段の君の服装の方が大概だろう。この国で言うところのメイド服という物は、君がいつも着ているようなゴスロリ風のイメージが先行している。まあ、愛好家に言わせれば、そこは一緒くたにしてはいけないらしいんだけど」

「あれは聯の趣味だ。オレに言われても困る」

 水の入ったグラスを口に付け、ノアールは窓の外に視線を流す。外は相変わらずの大雨で、無数の雨粒が耐えることなく、窓ガラス一面をナメクジのように這っていた。

「あれはあれで、彼女のお手製なんだろう? 大事にしてあげないと可哀想だ。雨具くらい、駅の中のコンビニで買えば良かったのに」

「ここへ来る途中の山中で降り始めたんだから、駅周りに着く頃には手遅れだったよ。まあ、傘だの合羽だのなんて邪魔なだけだから、別にいいんだけど」

「――山の中?」

 ミキは眉をひそめた。ノアールは昨日、結界の準備をしている最中に、電車で夏臥美町に来ていたのだと思っていたのだが、どうやら認識に間違いがあるらしい。

「ノアール、君いつこの町に来たんだ?」

「ん? 一時間くらい前かな。始発から電車が止まってたから、双町から線路伝いに歩いてきたんだよ。市街地に到着したはいいものの、お前の居場所が分からなくてさ。ブラブラしてたら銃声が聞こえて、見に行ったらビンゴ」

「いや……」

 ミキは顎に指を当て、思考を巡らせる。

 その時間であれば、結界は既に完成していた。電車が止まっていたというのだから間違いない。であれば、ノアールがここに来ることは叶わない。結界を越えられるわけがないのだ。

 だが現実に、ノアールは今ミキの目の前にいる。つまり、これはどういうことになるのだろう。もしも結界の機能に欠落があるとすれば、それは今件において、致命的な問題となり得るのではないだろうか。

「銃声――?」

 銃声が聞こえたというのも、よく考えれば不可解だ。この結界には、異常を異常と認識させない性質がある。あのカズという男の銃が立てた音は、本来ならばビルの外にまで鳴り響き、住民や警察官を呼び寄せる可能性も充分にあった。だが、この結界の雨が降り続いている限り、影響下にいる人間はどんな怪音も聞き逃す。あの銃声が耳に届いたとしても、それが何かの行動に繋がることは考えられないのだ。たとえ異能者であろうと、それを完全に無効化することはできない。例外は、結界を施した張本人であるミキを除いて、他にいない筈である。

「ああ、もしかして、聯の結界の話か?」

 察したように言うノアールに、ミキは頷いて返した。

「まさか、聯や君たちしか知らない、抜け穴のようなものがあるのかい?」

「それは……さあ、どうだろうな」

 ノアールは悪戯っぽく笑って答える。

「そういうのは機密事項だから、客にはそうそう漏らさないものだろ」

 そうだね、とミキは残念そうな顔をして、肩を竦めて見せる。

 情報を引き出す方法は幾らでもある。だが今ここで、無理をして手に入れるべきものではないと判断したのだ。と言うより、恐らくノアールも詳しいところは知らないのではないか、というのがミキの勘だった。

 このノアールという少女が、自分の興味のあるもの以外に対して、とことん無頓着を貫く性格であることは、ミキもよく知っている。そしてノアールが、二木の商売や商品に対しては、単なる稼ぎの手段以上の認識を持っていないことも。

 事は慎重を期する。正確性の欠ける情報を掴むより、全てを熟知している製作者本人から、商談を経て正規に入手した方が、間違いがないのは確かである。正しい情報というものは、そんなに安くはないということだ。

「お待たせ致しました」

 二人分のカップをトレーに乗せて、華が戻ってきた。

 自然な形で礼を言い、ミキは華に笑いかける。と、そこで唐突に思い出したかのように「ああ、そうだ」と声を投げた。

「例の件、首尾はどうだったかな?」

「例の件?」

 ノアールが小首を傾げる一方で、華は明らかに頬を紅潮させた。

「意中の彼と、少しは話せたかい?」

「あ、は、はい。期末テストの成績が良かったみたいだったので、そのお祝いを……」

 ミルク、カプチーノ、クッキーの乗った皿を順番に二人の前に置きながら、華は辿々しく言った。その手元が僅かに震えているのを見てか、ノアールが不満そうな視線を送っている。

「素晴らしいじゃないか。一歩前進だよ。相手もきっと、君に興味を持ったに違いない」

「そ、そうでしょうか。私、あんまり上手く喋れなくって、……変な風に思われたんじゃないかって、不安で」

 八の字の眉を更に傾けて俯く華に、ミキは「大丈夫だよ」と微笑んだ。

「完璧など求めなくていい。最初から上手くいくことばかりではないんだから、あれもこれもと欲張ってはキリがない。言いたいことが言えた、今まで一度も話したことのない相手と話ができた、それだけで充分成功だ。自分を褒めてあげていいだろう」

「そ、そうですか……?」

「そうとも。そういう小さな成功が、次の一歩を踏み出す力になるんだ。大事に、大切に、 記憶として仕舞っておくといい」

 失敗は成功の元であるという。失敗を重ねることを恐れるな、失敗の中から教訓を得ることが、成功に至る条件なのだと、そういう意味の言葉だ。ミキはそれを否定こそしないが、しかし万人が掲げるべき標語ではないとも考える。それは結局、限られた強者の理論でしかないのだと。

 失敗とはつまり、目標を達成できなかったということだ。その失敗からどれだけのことが学べたとしても、失敗したという事実は変わらず、本人の意志を強く揺さ振る。それこそ成功という結果を得るそのときまで、何年も、何十年も重くのし掛かる。成功者と呼ばれる人間が、ごく一握りしか現れないことを考えれば、一生その辛苦に苛まれ続ける者も、この世界には有り触れているのだ。

 その痛みに堪え忍んで挑み続ければ、誰しも必ず成功できる。成功者の多くはそう語り、諦めなくて良かったと、誇らしげに自らの武勇伝を歌い上げる。それにどれだけの人が励まされ、そして傷付けられてきたのか。それは、ミキにも分からないことだ。

 だからミキは言う。失敗の中から成功を捏造しろと。

 失敗など数えるな。

 それを失敗と思うな。

 時には目を背け、或いは逃げ出したっていい。

 以前と違う何かが得られたのなら、それは成功だと捉えるべきだ。

 誰に否定されようと構わない。それは成功だったのだと、自分だけは言い張っていればいい。

 自分は失敗などしていない。成功を積み重ねたのだ。そしていずれは大目標を達成し、本当に目指した成功を掴むのだと、己の背中を己で押すのだ。

 そうでなければ。

 そうでなければ、簡単に押し潰されてしまうから。

 いったい、いつになったら――という、その呪詛に。

 努力も挑戦も、とても辛いものだから。

 成功という燃料なくして、走り続けるのは困難なのだ。

「もう少し、自信を持って行動していいと思うよ。君は、とても可愛いんだから」

「か、かかかっか――っ!?」

 よく分からない、鳥が喚くような声を上げてから。ペコペコとお辞儀をしながら、華は去っていった。

「なに、お前、ウェイトレスの恋愛相談まで受け付けてるの?」

 挙動不審の華を見送ってから、暇なのか? とノアールは呆れたような顔で言った。

「別に、募集しているわけではないんだけどね。彼女は私の通っている学校の後輩で、ここに来るたび顔を合わせていたら、なんとなく親しくなってね。相談に乗って欲しいと、折り入って頼まれたんだ。私にとってもそこまで明るい分野というわけではないけれど、勇気を持って頭を下げてきてくれた彼女を、無下にするのも気が引けてね」

 ミキがこの店に来る理由は、大体誰かと会うためである。流石に『チリ君』以外の者をあの住まいに招くわけにはいかないし、落ち着いて話せる場所は必要だった。それに味も悪くない。たとえば松井嬢と話をするのもだいたいここ(か、もしくはミステリードーナツのイートイン席)で、そのときは珈琲の上に生クリームをたっぷり乗せて、さらにチョコチップをまぶしたりして、二人して楽しんでいる。甘い食べ物は、子どもの頃の数少ない娯楽だった。

 ただ、一人で利用することも珍しくはない。そういうときによく話すのは華のような店員だ。仕事中の相手を長々拘束するわけにもいかないから、ほんの世間話程度の会話だが、それでもこの店のバイトとは随分親しくなっている。華からの相談は、その延長線のようなものだった。

「ふーん。っていうか、お前まだ学校通ってたんだ」

「いや、それはそうだろう。まだってなんだい、まだって」

 真顔で言うノアールを見て、ミキは思わず破顔する。

「だって。お前その見た目でまだ学生とか、聯にトラウマを植え付けるだけだろ」

「彼女には是非とも現実を受け入れて欲しいものだよ」

 ミキがしみじみと言ってカプチーノを啜っていると、ノアールが「そうだ」と何か閃いたように切り出した。

「恋愛相談っていうならさ、聯の相談にも乗ってやってくれよ」

「え。彼女、男性に興味あるの?」

「おい、その発言はそこはかとなく誤解を招きそうなんだけど」

 ああいや、とミキは苦笑して首を振った。

「年齢的にはともかく、彼女ほどの仕事人間が恋とか愛とか、まだ考えてないんじゃないかなと思っていたんだけれど」

「あ−。まあ、そうなんだけどさ」

 二木 聯といえば、機関随一のワーカーホリックと揶揄されるほどの働き者である。事実機関に属する家々は、現代に唯一生き残った若き技師である彼女一人に対し、膨大という言葉では足りないほどの発注を掛けているはずだ。同様に、ドッペルゲンガーの件で二木に魔道具の生成を依頼しているミキからしても、とても恋愛にかまけている時間などないだろうという印象を持っている。

「やっぱりさ。今の聯は――上手く言えないんだけど、自然じゃないって気がするんだ。あいつはいつも独りだから。誰かと一緒にさ、もっと笑ったり、もっと怒ったり、しなくちゃ駄目だと思うんだよ、オレは」

「…………」

 自分の主のことを話すノアールの表情は、いつもの快活なものではなくて、微かな憂いを帯びているようだった。それが珍しくて、ミキはつい、そんなノアールに目を細めた。

「独り、と言ってもね。今は君や、ブランセちゃんがいるだろう?」

「いや」

 ノアールはガラス玉のような瞳をミキに向けて、

「あいつは独りだよ。ずっと独りだ」

 独り。一人ではなくとも、独り。であるからこそ、ノアールがこうして相談を持ちかけるような事態になっているのだろうと、ミキはそう理解した。

「……そうか」

 だからミキはそれ以上、追求する気を持てなかった。

 こうしてノアールとは懇意にしているし、二木家のある町を基本的に出ないノアールの妹分、ブランセ(彼女はまだ電車に乗れないらしい)に対しても、電話越しにではあるが軽く小一時間ほど談笑したりはする。しかし、彼女らの主である聯とだけは、あくまでビジネスライク、もっと言えば相互不干渉のような関係を保っていて、一定以上近付こうとはしていない。互いのスタンスは相容れないものだが、全ての利害が一致しないという訳ではない。だからある程度の交流は行いつつも、双方必要以上に踏み込まない、深入りしない。それが、三鬼 弥生と二木 聯の関係なのだった。

 そういう割り切った付き合いも、ミキは悪くないと思っている。二木 聯という少し年上の女性は、神業と言っていいその手先の器用さとは裏腹に、それ以外の事柄に対しては酷く不器用で、特に私事における他者との交流を不得手としているが。そんな己との直面に怯えながらも、懸命に立ち上がろうとしている彼女を、とても愛おしいと感じていたからである。

「でも、彼女だって見た目が悪いわけではない――むしろ、目を奪われるほどの美人だろう。言い寄ってくる男性の一人や二人、労せずして見つけられるんじゃないかい?」

「いや、見た目じゃあなぁ。あの外見に寄ってくるような男って、どうよ、逮捕待ったなしの変態犯罪者じゃん」

「存外君も辛口だね、ノアール」

 とは言いつつも、二木 聯の容貌をよく知っているミキは、唸らざるを得なかった。

「だってそうだろ。本人からしてあの身体は、コンプレックス以外の何ものでもないんだからさ」

「ううん、そこで躓かれてしまうと、正直助言のしようがないんだけど」

「そうなのか? だって、人間見た目じゃなくて中身だろ? 大事なのは」

 きょとんとした顔でノアールが問うた。彼女が普段、相手の容姿をほとんど無視しているのだろう様子が、思わず噴き出してしまいそうなほど、よく伝わってきていた。

「それはその通りで、見た目が決め手になったカップルなんてそれは長続きしないものなんだけど、かと言って度外視する訳にはいかないんだよ。第一印象をクリアして、初めて中身に興味を持ってもらえるんだ。だから、外見を磨くことだって決して怠ってはいけない、重要なステップなんだよ」

 事実として、背丈の高低や胸の大小に優劣はないし、ほとんどは生まれ持っての性質なのだから、気にしすぎるのはマイナスだが。かと言って捨て置いては何も得られない。実物大の自分を認め、愛し、長所と短所を知った上で自らを磨くこと。それなくして、人と人とが繋がることは困難なのである。そういった点で、今の聯が独りだという現状は、どこも不思議な話ではないのだった。

「……面倒臭いんだな、人間って」

 気怠そうに窓の外を見ながら、ノアールはカップに口を付けた。

「その面倒臭さと向き合ってこそ、人は繋がりを持てるんだよ。他者と関係を築くというのは、口で言うほどに簡単なものではないさ」

 誰もが当然のように、自分もいつかは伴侶を得て、子を授かり、家庭を築くのだろうと考える。それがあまりに当たり前で、あまりに常識的過ぎるから、誰にでもできることであると錯覚する。その果てが、離婚や虐待などに帰結する様々な問題だ。

 他者と隣り合うことの尊さ。常に互いを思い遣ることの大切さ。相手を、自らの身体の一部のように掛け替えのないものだと感じながら、しかし別の人間なのだという真逆の認識を生涯持ち続けること。人間関係とは、そうした曲芸じみた連携の応酬でできている。自覚の有る無し、向き不向きはあろうとも、それは万人共通の真理である。そこを思い違えたままで、円満など叶うべくもない。それは誰の目にも明らかなことなのに。相手との距離が近ければ近いほど、見えなくなってしまうようだ。

「拳で語り合えば分かり合えるものじゃないの?」

「それは漫画の読み過ぎだよノアール。殴られて分かるのは、殴られたら痛いということだけだ」

「いや、他にも色々分かるぞ。相手の力量とか、本気か手加減してるかとか」

「君も立派にジャンキーじみてきたよね」

 それが良いことなのか悪いことなのか、それはミキには分からない。けれどそれこそが、主をして『最強の自我』と称されるノアールが、己の全てを賭けて踏破しようとしている道ならば。軽々しく否定することなど、できようもなかったのだ。

「つまるところ、君が夏臥美へ来たのも、それが目的な訳かい?」

「当然だろ。十戒だっけ? 面白そうじゃないか。あの赤鬼を持つお前でさえ、ここまで入念に準備するほどの相手だ。オレの力がどのくらい通じるか、試してみたくなったんだ」

 冗談ではなく、ノアールは本気でそう言っているようだった。

「オレにも手伝わせろよ。少なくとも邪魔にはならないだろ」

「――まあ、全力の君なら、或いは」

 答えを明言しないまま、ミキの思考は別のところに及んでいく。

 ミキの知る限り、ノアールが夏臥美町を訪れる筈はなかった。そもそも双町に来ていたことすら、ミキにとっては予想外だ。二木 聯は、道具の製造はもちろん、その配達までも、全て自分一人で担ってきた人間だ。二木の仕事においては、自分以外の誰かに何も任せようとしなかった。厳格で、張り詰めた糸ような彼女の雰囲気を知っていたから、ミキもまた、それが道理だと感じていたのだ。

 なのに、今はノアールを使っている。聯に何か、心境の変化があったのか。それとも他に、ノアールを使わざるを得ない事情があるのか。――遠からず、聯とは直接会って話をする必要があると、ミキは痛感していた。

「いいのかい? それは、聯の指示というわけではないんだろう?」

「ふん。仕事はきっちり終わらせたんだ。その後でどう動こうがオレの勝手だよ」

「だが」

 これだけは言っておかないと、とミキは食い下がった。

「最悪、命を落とすことになる。今回ばかりは私にも、君を手助けする余力はないかも知れない」

「冗談だろ。助けなんて最初からアテにしてない」

 心底心外だと、ノアールは顔をしかめる。

「命の危機? 上等じゃないか。元々オレたち『ヒトカタ』は、命を懸けるどころか、度外視して戦うためにあるんだ。だってのに聯は、オレたちを置物扱いして、擬獣ともろくに戦わせようとしない。つまらないお使いばっかりで、いい加減身体が腐ってきそうなんだ。こんなんじゃいざってときに、聯を守って死ねないじゃないか。それだけはな弥生、オレは絶対に御免なんだよ」

 これは、どう言っても無意味だと、ミキは思った。

 ノアールの瞳に宿った強い意志が、一歩も譲りはしないと、雄弁に語っていたから。

 ノアールは自信過剰というわけではない。好戦的で、闘争を好む傾向はあるが、それでも身の程はよく知っている。ただあるのは、尋常ではないほどの向上心と、際立った目的意識だ。力を求める心が、彼女をここまで突き動かしてきた。己を研磨することに対する欲求は純粋で、だからこそ真っ直ぐに、彼女を鍛え続けてきた。

 強さではない。弱さでもない。彼女の理由はただ一つ、己が使命を全うするため。故に彼女は臆することを知らず、そこには欠片の慢心もない。彼女は決して、現実を見誤らないだろう。

「――分かったよ」

 そう思ったから。だから、ミキは。

「それじゃあお言葉に甘えて、今回は共闘させてもらうとしよう」

「ああ。いいな、共闘。いい言葉だ」

 だからミキは、一人の愛しい友人を、失う覚悟を決めたのだった。