「――運動不足かな」
取り留めのないオフィスで、唯一まともな椅子に腰掛けて。ミキ――三鬼 弥生は物憂げな声で独り言ちた。
部屋の中には、それこそ死屍累々といった光景が広がっていた。まともに身動きの取れない男が、このビル内で都合十二人。くぐもった雨音と、倒れたラジオが未だ健気に流す音に紛れて、時折うめき声のようなものが聞こえてくる。しかし意識を保っているのは、来訪者であるミキだけである。
もちろん、そんな地獄を作り出した張本人であるミキは、平時と変わらない微笑みを讃えている。『チリ君』あたりに言わせれば、悪魔の嘲笑、閻魔の鬼相といったところだろうが、残念ながら賛同者は少ないだろう。それは恐らく、今し方投げられたり蹴られたりしたオフィス内の者たちの大多数も同じで、その評価に同意することはないだろう。それほどまでに、ミキの表情は魅力的で、蠱惑的で、理想的に、形作られていたと言える。
まだほとんど何も置かれていない綺麗な机上を、ミキの瞳は満足そうに愛でた。すると、ふいに手を伸ばし、無造作に投げ出されていた手帳を拾い上げる。
「ああ、地図か。夏臥美町の子細も載っているね。これを見ながら、これから南工業団地へ向かおうとしていたと、そういうことで合っているのかな。――ねえ、アンリ」
誰も聞く者のいないオフィスに、ミキは声を投げ掛ける。
しばらく沈黙が流れてから、観念したように、小さな舌打ちが聞こえてきた。
「くそが」
アンリ――東堂 アンリは悪態をついて、後頭部をデスクに打ち付けた。アンリは、いまミキが頬杖をついているデスクに、ミキに背を向ける形でもたれ掛かり、床に座り込んでいた。
「その位置からどうして、俺が起きたことが分かる? お前は妖怪か何かなのか」
「妖怪!」
ミキは軽快に笑い出した。品良く口に手を当て、心底楽しそうに、上機嫌な赤ん坊のような声を上げた。
「――いや、失礼。最近はどうも、化け物だのお化けだの、愉快な比喩をよく受けるものでね。いいなぁ、誰か私を主役に据えて、B級映画の一本も作ってくれないかな。本人出演も辞さないよ私は。いいや、エキストラとしてこっそり心霊映像みたいに出演して、オカルト誌を沸かせるという方が面白いのかな。ねえアンリ、君はどう思う?」
ミキは弾むような口調で問い掛けた。アンリの無言が示す警戒とは裏腹に。ミキは既に、アンリたちに対する害意を喪失していた。と言うより、そもそも害意などと呼べるほどの意志が、最初からミキにあったかさえ不明だ。彼女にとってこの事務所の制圧など、道端の小石を退ける程度の些事でしかなかった。怒りや恨みなど毛頭ない。ミキの表情は、その点に関しては嘘偽りなく、心情を端的に表していたと言えるだろう。
ただ一つ。人からすれば計り知れないほどの膨大な感情が、彼女の中で渦巻いていたことだけは、徹底して隠されていた。
「ふん、少しは話に乗ってくれると嬉しいんだけどね。ああ、ではこういうのはどうかな、君の話なんだけど。ねえ、私は別に、君に対して手加減をしたというわけではないんだよ。他のお仲間と同じように、今日一日は目を覚まさない程度の加減で仕掛けたつもりだった。なのに、君はほんの数分ほどで目を覚ましたんだ。正直驚嘆に値する。胸を張って誇っていいよ。君は強い。天性の資質もあるのだろうが、それだけではない。単なる一般人とは違う――そう、気構えが違うね。或いは、浮いているとも言うのかな。向かい合って実感したがね。まるで君だけ、別の世界の住人のようだったよ」
それは、ミキにとっては惜しみない賛辞だったが、その気持ちをそのまま受け取れない人間がいることもよく理解していた。判定を下するのはいつも他人なのだと、先程自ら口にした言葉を、深く理解していたからだ。
そして、今話しているアンリという人物が、そういう捻くれた受け取り方をする人間であることも知っていた。顔も声も口調も価値観も、なにもかもが違うけれど――ミキは、『チリ君』と話している時のような印象を、強く感じていた。
「帰国して何年になる?」
「…………」
「そろそろ一年だろう。君が東堂組の長に拾われたのが去年の初夏だ。この平和な国で、少し身体が鈍ってきてはいないかい? 少なくとも、トランペットを持つ機会なんて、ここではまずないのだし。ああ、私の方は酷く運動不足だよ。今年の四月から実家を離れて、それからは基礎的な鍛錬しかやってこなかったんだがね。やはりそれだけでは足りないようだ。おかげでさっきは、少し乱暴になってしまったかも知れない。お仲間が目を覚ましたら、病院へ連れて行くことを勧めるよ。ああ、いやまったく。平穏とは、遅効性の毒にも似ている」
決して早口ではないが、ミキに意気軒昂としてまくし立てられ、アンリは長い溜息を吐いた。
「――お前は、何なんだ」
アンリは、低く呟くように、そう問い掛けた。
「さあ、何だろうね。実は私も探している。ねえ、何だと思う? アンリ」
挑発的に笑って、ミキが問い返す。
アンリは少し考えるように間を開けてから、吃々としゃっくりでもするように笑い返した。
「知ってるか? ジョンブルの英雄、シャーロック・ホームズは柔術の使い手なんだ」
「知っているとも。ライヘンバッハの終幕だろう。彼がただ頭でっかちなだけの犬ではないのだと読者に知らしめた英雄譚だ。まあしかし、なんだね。神が定めた彼の死という運命を覆した奇跡が、突然現れたバリツなる技だと彼が語ったのには、悲観を通り越して笑ってしまったものだよ」
通夜の潜み笑いのように、二人の乾いた笑声が交わった。
「皮肉だな。あいつはあそこで死ぬべきだったと思うか?」
「まさか。生き物に、死ぬべき時などありはしないよ」
そう断言したミキに対し、アンリはまた押し黙っていた。
「ただ、哀れだと思った。彼を愛する者たちの願い、その総算によって生まれた、神をもねじ伏せた力。それはとても尊くて、誇らしいものだったというのに。名探偵シャーロック・ホームズともあろう者が、その奇跡に気付くことさえできないという、その世、その理が。私は、憎らしいとさえ、思ったんだ」
その独白の意味を、アンリがどれだけ理解できたか分からない。ただアンリは、小さく鼻を鳴らした。
「そう言えば、明智小五郎も柔道の有段者だったね。どうなんだろう、アンリ。文武両道は英雄たる必須条件だと思うかい?」
「――さあ。人を殺すのに学は要らないが、頭の使えない奴を怖いと感じたことはない。ああ、久しく」
ミキは相手の、そんな歪んだ返答にも、気を悪くすることなく続ける。
「文武両道の極み――いや、それすら越えて、その最果て、人の枠を捨てること。ああ、何故人は、英雄に超人たれと願うのだろう。 完全無欠などリアリティの対極、人間性を著しく損なうだけの病だ。英雄もまた人の子、同じ人間なのだという当たり前の再認が、人を鼓舞し、己もまた英雄たらんと奮わせるのではないか」
「違うな。英雄なんて呼ばれる連中に人間性なんざお荷物だ。英雄を生み出す目的はいつだって人心掌握、要はプロパガンダだろう。世界はいつだって、自分とは違う高尚な何かの意向で動いてる。自分は弱者だからどうしようもない、仕方ないんだと、言い訳しながら目を塞いでは、自慰行為に浸って悦に入る。誰に強要されたわけでもない。他でもない人民一人一人が、そうあれと願ってきたことだろう」
その訴えは、深く根付いた怨恨を思わせた。ミキはそれを感じていながら、敢えて問い質すことに決めた。
「つまり、弱さは罪だと。そう君は言うのかい、アンリ」
「弱さは悪だ。いや、弱さを理由にして不平等を受け入れることは邪悪でさえある」
「だから、かつての君は強さを求め、軍属を志したのか。人であることを捨て、英雄に祭り上げられることを望んだのか」
「そんなことはどうでもいい。誰にどう呼ばれようが知ったことか。俺はただ、世に蔓延するクズどもに、理不尽に何かを奪われるのが気に食わなかっただけだ」
弱かったから。奪われないために、強くなった。その言葉の裏には、人は本来、誰しも平等に強くなる機会を持つのだという持論を内包していた。弱いなら、強くなればいい。強くなろうとさえせず嘆くのは間違いだと、弱者を糾弾する強い心。ミキには、それが眩しくて、そして痛ましかった。
「しかし今の君は、理不尽に何かを奪う側の人間ではないかな」
「渡世の義理を果たす。俺がここにいる目的はそれだけだ。俺に何かを奪われる誰かがいたとしたら、それはそいつが弱いからいけないんだよ」
ミキは目を閉じ、その半生を思う。果たしてどれほどの絶望を辿れば、弱さを呪おうなどという結論に至るのだろう。ミキはその考えを、理解こそできたが。そうしなければ、ただ生きることさえ苦痛だったであろう彼や、彼のような人々が後を絶たない現実を、極限まで悲観した。
「弱肉強食の世か。私は、あまり好きではないんだがね」
「ほざけよ。お前だって、それを受け入れて強くなったんだろう」
「――それは、まあ」
否定はしないがね、と。ミキは暗く微笑んだ。
「どこの武術だ。ただの護身術なんかじゃないし、スポーツとしての格闘技でもない。明らかに実戦を――殺し合いを想定した動きだった。あれは、本当にこの国の流派なのか」
ああ、とミキは、誇らしげに笑って胸を反らした。
「私の家に代々伝わる武術だよ。由緒正しく古臭い体系だから、実践的なのは仕方がない。まあ、私の型は大分アレンジしてしまっているが」
私には向いていなかったんだと、ミキは胸に手を当てて言う。アンリには、ミキのその姿が見えなかったから、言葉の意味が正しく伝わることはなかっただろう。
「実戦経験という意味では、恐らく君の方が上だよ、アンリ。特に短刀術では差がつくだろう。君のナイフは私にも奪えない。ああ、最後の一撃は見事だった。針の穴を通すような、鋭く冷たい、鮮烈な殺意。迷いも躊躇いも欠片もなく、私が
凶器を、ただの脅しの道具としてではなく、人を殺すために振るうということ。それは誰にでもできることではない。人を殺すという覚悟。他者の人生を奪うという確固たる意志。『
「だとしてもこのザマだ。お前がその気だったなら、お前の言うところの強い俺も含めて、今頃全員あの世行きだ」
「ふん。私がその気だったなら、あの世なんて場所には行かせないがね。ああ、もっといい場所へお連れすることを保証しよう」
「白い楽園にか?」
「クロの理想郷だよ」
「黒? それはどこの話だ」
「どこにもない。どこでもないよ」
ミキはアンリの質問に小気味良く笑い、そんな風に答えた。
アンリはミキを、秘密主義者のように捉えただろうか。しかしミキにとって、それは不満の残る評価である。なぜならミキの言葉は、事実をそのまま述べただけのものだ。嘘偽りなど、欠片たりとも含まれてはいない。迂遠な言い回しを好むミキにしては、直接的だったとさえ言えるだろう。
だが理解は得られない。真実を告げたところで、それが必ずしも受け入れられるとは限らない。相手の無知故にと、言ってしまえば確かにそうだ。しかし、構造的に、原理的に、その生き物が理解することができない事柄というものは、間違いなく存在するのだ。
不世出の天才によって、或いは科学の進歩によって。この世の謎という謎は、いつか余さず解明されるに違いないという、人間の驕り。それをミキは否定してはいないし、愚かだと断じもしない。逆に素晴らしい気概だと、心からの喝采を送りこそするが。
同時に思うのだ。
悲しいと。哀れだと。
そして、恐ろしいと。
「渡世の義理だと。さっき言っていたね、アンリ」
アンリは無言で肯定する。
「東堂
さも公然の事実であるかのように、ミキはアンリの事情を語る。その自信に満ちた様は、確かに探偵のようでもあったが。知られたくない、知られるべきでない秘密さえ暴きかねないミキの言葉は、多くは正義の味方として活躍する名探偵たちの在り方とは、まるで真逆のようだった。
ミキはしばしば探偵を自称するが――例えば『チリ君』に対して、安楽椅子探偵を名乗ったこともあったが――、しかし、探偵のように振る舞おうとしているわけではない。ただ、探偵の有する『真実の探求者』という側面だけを見、標榜していたに過ぎないのだ。
それが周囲の人間にどのような印象を与えるか、ミキには当然分かっている。分かっているからこそ、そんな自分の姿勢を見せる相手は限定する。
見せても悪印象を抱かない相手か。
疎まれようとも、見せるべき相手か。
「だが残念なことに、跡目には恵まれなかった。彼の亡き後、遠からず東堂組は瓦解する。きっと君には、それを止めて欲しいという願いも注いでいたのだろうが。それは不可能だ。君の力を以てしても、君たちの崩壊は止められない」
アンリは否定しない。アンリもまた、同じ意見だったからだろう。
そもそも、カズという男が手にしていた拳銃が、トカレフだったことがまずおかしい。
東堂組では、許しを得た一部の組員が、主に護身を目的として、拳銃を所持することがある。しかしそれはマカロフだ。過去、トカレフを暴発させひと騒動を起こした東堂組では、それ以降はまともな安全装置を常設するマカロフを使うようになっていた。性能が良い分高値にもなったが、それでも東堂はマカロフを選んだ。どれだけ使いやすい銃でも間違いは起こる。どちらにせよ非正規品で、粗悪品も混じる。だが現実に、マカロフ系に乗り換えて以降、暴発事故は目に見えて少なくなった。
一方で、カズのような新参の、まだ拳銃の所有許可が下りない若手の中で、拳銃に対する憧憬を持つ者は多い。もしも、組の許可を必要とせず、しかも安価で手に入る銃がある、という話が舞い込んだとすれば。それが違反であると分かっていても、飛びつく者は少なからず存在するのだ。
ミキは『現組長亡き後』東堂組は瓦解すると言ったが。その実、崩壊は既に始まっている。外界からの汚染が、末端から少しずつ浸透してきている。同じく外から来たアンリだから、そのことに気付くのに苦労はなかっただろう。
「義理を果たすとは、つまり何かな。このまま宿主が病に冒され、死に絶える様を見続けることが、筋を通すことに繋がるというのかい?」
「そうだ。あれの最期を看取ることが俺の恩返しだ。はみ出し者の末路としては相応しいだろう」
「本当に?」
ミキとアンリの視線が、向かい合うことなく交差した。唾競り合うように互いの意識をぶつけ、腹の底を探り合った。
「君に崩壊は止められない。だが、できることが何もないわけではない。腐り果て崩れ落ちる君という刃は、しかしその瞬間を迎えてさえ、輝きを失いはしないだろう。命の炎が燃え尽きる最中、最後の活力を振り絞ってでも。毒を振り撒いた、悪意に満ちた敵を突き殺す。ただでは死なない。刺し違えてでも一矢報いようとする覚悟が、君にはあるのではないか」
ミキの、確信に満ちた問い掛けに、アンリは答えない。一度落ちた地獄から這い上がり、自らを生きるアンリにとって。その思考にはきっと、疑問を挟む余地すらないのだろう。
「アンリ」
ミキは初めて、アンリを責めるような強い語調で、その名を呼んだ。
「君が今まで生きてきた理由は何だ。君が果たしたかった願いは何だ。最悪の泥を啜ってなお生き続けた、その最果てがそれか。君が望んできたのはそんな結末だったのか」
「黙れ、ガキ」
静かに、喉を引き絞るように、アンリは言う。
「お前が何者であろうと、俺の生き方に文句は言わせない。それが気に食わないというのなら――簡単な話だ。今ここで、俺を殺せばいい」
どうせもう、何度も死んだ命だから。アンリの言葉の裏にある感情で、ミキは己が身を傷付けた。
生きることは尊いのに。地獄を越えて、それでも生きてきたというのに。何故死にたがる。何故死に場所を求める。それを、その答えを、ミキは理解することができる。理解できるからこそ、際限なく悲嘆した。
これが、この煉獄のように淀んだ
ミキは、絶叫したくなる気持ちを殺す。
吐き出さず、魂に刻み、永劫、その痛みに耐え続ける。
悲しみが。
怒りが
恐怖こそが。
己の力になると知っていたから――
長いようで、短い沈黙のあと。ミキは立ち上がり、デスクを迂回して歩き始めた。
「今日はここまでにしよう。ファーストコンタクトとしては上々だった。ああ、君と話せて良かった」
アンリの視線を背中に受けながら、ミキは出口へと向かった。寝転がっている男たちを、器用に避けて進んでいく。
「お前、結局何しに来たんだ」
「何って、勿論君と話をしに――あ」
出口の目の前まで来て、ミキは停止した。そしてくるんと後ろを向き、座り込んだままのアンリを指差す。
「君が上司から命じられている件――南工業団地の調査、あれ止めてもらえないか」
「――なに?」
訝しげに睨むアンリを気にもせず、ミキは続ける。
「あの場所は駄目だ。特に今は絶対に。間違っても第二陣を送ろうとしてはいけないし、何が起きているのかを確認しに行ってもいけない。いや、そもそもに。夏臥美町は諦めろと、君が先頭に立って反対して欲しいんだ」
「…………」
アンリは承諾しない。当然である。アンリにとって、夏臥美町はなんら価値のない土地だが、だからこそどうなろうと頓着がない。
確かに、ミキのような人間が一々邪魔をしにくるとすれば、商売もやりづらくなるだろうが。だからと言って、大人しく引き下がるような集団ではない。彼らは面子が何よりも大事なのだ。舐められたらそこで終わりだと、当たり前のように全員が認識している。体面を保つためなら、理にかなわない行動を起こすこともよくある話だ。たかが女一人に出鼻を挫かれたと知れば、それこそ本腰を入れて、夏臥美町を制圧しに掛かるだろう。
「いや、何も計画を頓挫させるところまで、君一人にやってもらおうとは思っていない。あと三日、それだけでいい。その間だけ、お仲間の暴走とミイラ取りの
「ミイラ取り――」
何故組長から号令が掛かるのか、何故それをミキが知っているのか、ということよりも。アンリはその言葉に反応を示した。
「俺たちが送ったガキどもに、何があった?」
「さてね。干涸らびているのかも知れない」
ミキはもう半回転すると、出入り口に向かい立つ。
「じゃあね、東堂 アンリ。いずれまた会おう」
ドアノブに手を掛けて、しかしミキは扉を開かない。
俯いて、目を閉じて、その名を反芻していた。
「――やっぱり、どうにも違和感がある」
振り向かないまま、ミキは変わらない調子で語る。
「君が元いたあちらの国で『アンリ』は男性名だから、別段どうとも思われなかったのかも知れないが。ねえ、アンリ。この国では一般的に、その名前は女性名なんだよ」
名は体を表すというが。東堂 アンリと名乗る男は、ミキの目には、酷く不自然なものに映っていた。
本来あるべき姿ではなく。生まれながらの在り方ではなく。
その名で呼ばれたときの、悲哀に満ちた男の顔を思い描きながら。ミキは、最後の言葉を投げ掛ける。
「過去は決して覆らない。君にとって最愛の人の記憶が、君の中で日に日に風化していくように。この世界にとっても、彼女の存在は秒刻みで薄れていく。それが自然で、当たり前のことなんだ。君がそれを認めてやらなくてどうする。それでも足掻きたいという、君の気持ちもよく分かるが、しかし。彼女の最期から目を背けるのは、君自身が、彼女の存在を否定しているに等しい」
「……黙れ」
アンリの拒絶を無視して、ミキは口を開く。それが彼の源泉であり、絶望であり、彼という生に影を差した全ての元凶であると知りながら。
ミキは、告げる。
「
「黙れと言った――!」
背後で銃口を向けられる気配を感じながら。ミキは静かに扉を開ける。
雨音が強まり。締め切られ気怠い空気の蓄積した室内に、清涼な夏の雨の匂いが流れ込み。
「ああ――」
ミキは口の端を吊り上げ、嬉しそうに吐息を漏らした。
巡り会えて良かったと。
対峙できて良かったと。
心の底から安堵して、その行く末に祈りと祝福を捧げる。
「私を止められる誰かがいるとするなら。それは、或いは君なのかも知れないね」
その言葉に、どれほどの意味があったのか。
それを口にする機会が訪れないことを、切に願いながら。ミキはゆっくりと、その場を後にした。