Gracial Jardin -5-


「――おい、ここは」

 夕刻、それでも降り止まない雨の中の屋内。ミキの黒い部屋へ足を踏み入れたノアールが、周囲を見回しながら言った。木造の崩れかけた外装や、その割に小綺麗な玄関には何も言わなかったノアールでも、この部屋のことは見過ごせなかったらしい。

「三ツ鬼で見た、お前の隠れ家そっくりじゃないか」

「そっくりというか、まあ、そのものだよ」

 ノアールの反応を楽しむように声を弾ませながら、ミキはいつもの黒いソファに腰掛けた。

 ソファのスプリングが控え目に揺れる。それが主を歓迎している仕草のようにも思えるから、ミキはその感触を気に入っていた。

「ようこそノアール。この部屋の主として、君を歓迎するよ」

 ミキの挨拶に、ノアールは可愛らしく鼻を鳴らし、何の遠慮もなくミキの隣に座り込んだ。

 ソファは荒く揺さぶられる。座り方が乱暴なのは確かにそうだが、それ以上に。ノアールは、その小さな身体とは不釣り合いなほど、重いようだった。

「――空間制御? 聯の道具にもそういうのはあった気がするけど、これは違うな。赤鬼の力とも思えない。じゃあ、お前の持ってるもう一体の鬼の仕業か?」

 ノアールは無遠慮に問い掛けながら、柔らかいソファを撫で付けていた。

 ソファを労っているという訳では、どうやらないようだった。多分、いい素材使ってるなとか、家にもちょっと欲しいなとか、そんなことを考えているのだろうと、ミキは想像してみた。

「それこそ秘密だよ。君もさっき言っていただろう。そうそう喋るものではない」

「言ったけど。でも、聯の道具と、オレたちの手の内はまた別の話だ。十戒とかって奴と戦う以上、総力戦になるのは間違いないだろ? お前だって、赤鬼一体で片付けられる相手じゃない。オレたちは共闘するんだ、全くの秘密じゃあ噛み合わない」

 共闘という表現がよほど気に入ったのか、先程からノアールは、何度もその言葉を唱えていた。反論するその表情も真剣なものではあったが、端々から楽しげな色が見え隠れしている。

「そうでもないさ。我々は急拵えのタッグだ。理論立てて作戦を考えるのは逆に足枷となり得る。特に、君もアカも、直感的な近接戦闘特化だ。頭であれこれ計算して戦うタイプじゃないんだから、余計な手順はノイズになるだけだよ」

「まあ、それはそうだけど」

 納得いかなそうに口を尖らせるノアールを、ミキは穏やかに微笑んで見つめていた。

 喫茶店で服を乾かしてもらったあと、二人は一度、ここ――ミキの住処へと向かうことになった。決戦は零時の予定だから、それまでの間に情報交換をしよう、という話だ。町に張った結界が働いている以上、情報漏洩の心配はない、筈だったが。現れるはずのなかったノアールを目の前にして、ミキには楽観視することができなかったのだ。

「だから、共有すべきは相手の情報だ。まずは、そう、どこから話そうか。ノアール、君は十戒について、どの程度知っている?」

「大体のことは、家の書庫にあった資料を読んで知ってる。それに、なり損ないみたいな奴となら、一度会ったことがある」

 ほう、とミキは関心を示した。そのとき、ノアールの表情に、僅かな陰りが見えたことも、もちろん見逃してはいない。

「戦ったわけではないんだね。それでも、知識でしか知らない私よりは上等だ。なら、君の目から見て、十戒というモノはどう映った?」

「あれは――」

 ノアールは言葉を止め、記憶を思い起こすように、遠くの方を見つめた。

「出会わなければ良かったと、思ったよ」

 それは、キラキラと光るシャンデリアを睨み付けるように。

 ノアールのその瞳が、本当は何を映していたのか。それはミキと言えど、知る由もないことだったけれど。

 言葉は、後悔を示していた。だが、その機会が再び訪れるなら、必ず乗り越えてみせるという、強い自負があるように思えた。そのために、自分は今、ここにいるのだと。

 だとすれば。もし言葉の通り、過去を悔やんでいるのなら。それは他でもない、自分自身に対する悔恨なのではと、ミキは感じていた。

「今ならば勝てるかい?」

「勝つ」

 ノアールは簡潔に答えた。聞かれるまでもないと、言い捨てるように。

「まあ、お前の腕が落ちてなければな」

「ふん、言うじゃないか。そこは心配しなくていいよ。私も負ける気はない。君が力を貸してくれるなら盤石だ」

 だからこその手間もあるのだが、ということを、ミキは口にしない。これでは確かに秘密主義者だなと、いつものように自嘲した。

「けど、オレが知ってるのはそれくらいだ。お前たちが長年相手取ってきた十戒――原初の鬼姫とやらについては、ほとんど知らない。聞いてるのは」

 ノアールは口の端を不敵に歪ませ、大きな目を輝かせて、

「それが、最強だって呼ばれてることくらいだよ」

 歓喜で舞い上がるのを押さえ付けているかのような、震えの混じる声で言った。

「原初にして最強の鬼使い、三嘉神 朔弥。三鬼家の前身であり、最盛期を誇った一族の当主を務めた人物だ。八剣が、二木や六条、国中の能力者に協力を求め、辛くも討ち取ることができたという、最早伝説に近い存在さ」

 その敗北後、三嘉神は三鬼という名に変わり、八剣の傘下に入る形で、現代の機関の原型を作った。機関の中では、まさしく神話のごとく語り継がれる英雄譚である。

「ふん。まあ、昔の二木は弱っちかったって聯が言ってたしな。それよりその話って、軽く千年くらい前のことだろ? そのくらいに女当主って珍しくないか?」

「そうでもないよ。私の家は当時から、第三子を当主に据える風習があったんだ。それが男か女かは、ほとんど考慮されなかったらしい」

 女性が当主になり得たのは、何も三鬼家に限ったことではない。この国では有り触れた現象である。

 確かに実際のところ、例えば天皇などは、千年前――つまり平安時代あたりには、女性が即位する機会はほとんどなくなっていた。しかし、それは女性の能力が劣ってきていたからだとか、男尊女卑が始まったからと言うわけではない。事実として、明確な男女差別が始まるのは儒教が普及した江戸時代からである。それまでは区別程度の差しかない、むしろ世界的に見ても、ここは男女差別の少ない国であったというのが通説だ。

 当時の女性というものに対し、ミキはむしろ、より強かだったのだと考える。

 表向きの権力は男に譲り、自分は影から支える、という名目で男を操ったのだ。平和的な物言いをすれば、棲み分けが進んだということになるだろうか。一見して男が全面に立った社会のようでありながら、女性という存在が、なくてはならない機構の一つであるという事実は、何も変わりはしなかった。

 権力のような、意識の上にのみ存在する力というものは、ある種の欲求を満たす要因となり得る。だが、同時に恨みや嫉みの対象にもなり、時に命を危ぶむこともある。そんな危険な役は男に任せて、自分は安全な囲いの中で平穏に暮らす。それでも我が儘を通し、欲求を十二分に満たせる道筋はきちんと用意する。大多数の女性にとって、これほど理想的な生き方はなかっただろう。――その果てに、時代の流れが、彼女らから自由を奪っていったというのは、また別の話である。

 しかし、とミキは改めて思うのだ。

 全ての女性が、そんな理想を抱いていたわけではない。表立って一統を率いることを良しとした女傑は、いつの世も潰えることはなかった。それは、何よりも力を尊ぶ武士が台頭した後の時代にも現れたし、儒教伝来以降、最も女性の地位が低かった時代にさえ存在していた。そして、そういった世界の流動は、ある意味で世俗から隔絶されていた異能者達の社会においても、強い影響を及ぼしていたのだ。

 結局のところ、何を望まれ、何を望むかという原点に集約する。性別というそれそのものは所詮、子孫を残すための機能に過ぎず、それ以上の意味を持ち得ない。一族の頭目となる条件は、その時々で必要な能力を備えているか否かである。戦乱の世において、優しく穏やかな性分は相応しくないと断じられることもあるだろうし、御家の存続という目的が絡む以上、病弱な体質が望まれない傾向があるのもやむを得ない。

 一族の指導者こそが、未来の姿を形作る。それが紛れもない現実であるが故に、次代を率いる器の選定に間違いは許されない。だからこそ本来、女である、男であるなどという、無意味な括りに囚われている余裕などないのである。合理的に考えるのなら、その帰結は必然だと言えるだろう。

「まあ、その第三子というのも、験担ぎ、気運を高めるだなんだのと、結局意味のない哲学さ。真性の合理主義などほど遠い」

「ふぅん」

 第三子ねえ、とノアールはしげしげとミキの顔を見た。

「問題なのは、その例に漏れず第三子として当主を継いだ朔弥姫が、その根拠のない哲学そのままに、歴代最強の称号をもぎ取ってしまったという点だ。その時点で、最強の界装具使いを自称していた八剣からしてみれば、三嘉神が邪魔で仕方なかったんだろう」

 最強、などと呼ばれることに大した興味を示さない二人だから、ほとんど揶揄するような言い方になってしまっているが。力の証明が、そのまま自分たちの未来を左右してしまう時代の人間からすれば、己の力を誇示し続けられるかどうかは、本当に死活問題だったのだ。当時の能力者一族はまだ歴史が浅く、人間社会の表舞台にも、その存在は通じていたのだから。

「その姫は、どう強かったんだ? 単騎の武功とか群の統率能力とか、色々あると思うけど」

「当主として、基本的に穴はなかったらしいけれど、その二択ならば前者だろうね。朔弥姫は大戦時、たった一人で五千人の軍勢を下したという。これは八剣も認めている確かな記録だ」

 八剣とは、つまり敵対勢力という意味だ。戦争における輝かしい功績が、実は片方の陣営にしか公式記録として残っていないという話は、枚挙に暇がない。死人に口なし、とくれば、最早言いたい放題である。そういう意味で、朔弥のこの戦果は、記録として信頼に足ると言えるのである。

「五千? なんだ、意外と少ないんだな」

「当時の人口と、そこから動員できる戦力を考えれば、充分脅威だったんだよ。ともあれ、数の多い少ないはあまり意味を持たない。ここで考慮すべきは、五千の軍勢を殲滅したという彼女の能力だ」

 ミキは三本の指を立て、ノアールの目の前に提示する。

 ノアールは、今にも噛み付きそうなほど、その傷一つない指を凝視していた。

「八剣に敗北する前後、つまり三嘉神と三鬼の能力には、決定的な違いがある。知っているかな? ノアール」

「ああ、聞いたことはあるよ。二体の鬼を操る三鬼が、術者本人と鬼を合わせて『三鬼さんき』と呼ばれるのに対して。三嘉神は本物の三鬼さんき使い――つまり、三体の鬼を使役するってな」

 二体ではなく、三体。かつて三体だったのが、現代では二体になった。言葉にしてみれば僅かな差異だが、実際問題、その違いは天と地ほどの差を生み出していた。

 その差がなぜ発生したのかは、今を以て不明である。だが間違いなく、八剣を筆頭とした連合軍に敗れたことを境に、或いは三嘉神ではなく三鬼になったことを契機に、一族は力を失ったのだ。それ以後に生まれたほぼ全ての者たちも、三体目の鬼をその身に宿すことはできなかった。

 この事実を、『チリ君』が聞いたらどれほど驚いてくれるだろうと、ミキは楽しみでならなかった。今はそんな状況ではないというのはもちろん、重々理解しているのだが。ただ純粋に、まるで平和のように、そんな話ができる日がいつか来て欲しいと、そう願っていた。

「だから、私たちが倒すべき相手は、朔弥姫本人を含め四体ということになる。その中で、原初の鬼姫と呼ばれる十戒、その強さの基盤を成すのが――『氷鬼』」

 こおりおに、とノアールはオウム返しに呟いた。

 ノアールはあまり知らない様子だが、この国で生まれ育った人間ならば、その名前には少なからず聞き覚えがあるだろう。色鬼、高鬼、影踏み鬼などと同様に、鬼ごっこから派生した児戯である。海外でも、類似のゲームが『泥沼詰まり』などと呼ばれ親しまれている。それは、鬼に触られた人間は凍り付いて、みな動けなくなってしまうという、その手の遊戯のご多分に漏れず、考えてみれば非常に恐ろしいルールを持つ、子ども遊びである。

「氷鬼は、停止を司る結界系の界装具だ。それが、擬獣が本来持つ結界の力と融和し、より強力なモノへと進化している。結界は、時間経過で加速度的に拡大し、その領域を増やしていく。何もせず放っておけば、結界がこの町を覆い尽くすまで、およそ三日。それまでに、大元である朔弥姫を倒す必要がある」

 ミキが言い終わると、数秒、ノアールは思案するように黙りこくった。

 ノアールが思い描いている図はおおよそ見当がつく。結界とは、対象を人間に取らない能力である。つまり、その領域に踏み込んだ人間が、何人、何千人であろうと、普遍的にその影響を与えてしまう。記録の上では五千人だとミキは言ったが、確かにそれは少なすぎる数だ。生前の朔弥の結界がどの程度の規模だったかは計りようもないが、対する軍勢が万、或いは数十万だったとしても不思議ではない。結界とはそういう能力だ。機関にもかつて、対軍戦闘において群を抜いた強さを誇った結界師の一族が存在していた。

 しかも、その効果が『停止』だということは――

「弥生。お前、その結界をどうやり過ごす?」

「まあ、何事にも例外はあるものだよ。初見ではまず勝ち目のないように思える相手だが、幸い手の内はよーく分かっている。氷鬼以外の鬼にしても同じさ。伊達に我々三鬼は、何百年も彼女と戦ってきたわけではない」

 ミキは得意気に、そして誇らしげに言って笑った。

 数百年の間、原初の鬼姫と戦って帰らぬ人となった者たちは数知れないが、それでも生還者はいたのだ。そういった者たちによって後世に伝えられた情報が、今このとき、三嘉神 朔弥という相手に拮抗するための鍵となる。そしてそれさえあるのなら、三鬼 弥生にとって充分すぎる勝算に繋がるのである。

「この地に展開する結界は三つ。守護するは三体の鬼――吸血鬼、熊鬼、そして氷鬼。相手の能力は明らかだが、結局勝敗を分かつのは、彼我の地力の優劣となるだろう。ともあれ、まあ――一つ一つ丁寧に、叩き潰してやろうじゃないか」

「――と、私が持っている情報はこんなところだ。何か質問はあるかな、ノアール」

「おー」

 ミキは、頭上から降ってきた投げ遣りな声に思わず苦笑する。見上げれば、ノアールは天井のシャンデリアにぶら下がり、懸垂に勤しんでいたのだった。

「君たちでも、筋力トレーニングはするんだね」

「筋力は上がらないけどな、どんなに頑張っても。ま、身体は動かさないと」

 かなり気軽に、ノアールは掴んでいたシャンデリアの枠から手を離し、そのまま垂直に落下してきた。高さおよそ十五メートル、ビルで言えば四階建ての屋上から飛び降りたようなものだが、ノアールは難なく着地して見せた。派手に翻るスカートなど意にも介さず、黒いタイツで被われた腰部が大胆に晒されて、むしろ見ている側の方が恥ずかしいという有様だった。床を叩くハイヒールの甲高い音が、黒い部屋の中に吸い込まれていく。

「今何時だよ」

「午後八時を回ったところだよ。三時間くらい話していたかな」

「ああ、そりゃあ長話だったな。身体も動かしたくなる」

 要するに、話が長くて集中が途切れ、大人しく座っていられなくなったということである。情報交換には乗り気だったはずだが、やはり直情型、我慢は苦手なようである。第一ミキは、今した十戒の情報について質問はないかと聞いたのだ。現在時刻を聞かれるなど予想斜め上甚だしい。

「行くのは、日が変わる頃って話だっけ。なんだ、まだ四時間近くある訳か。どうするんだ弥生、なんかすることある?」

「まあ、夕食時だしね。腹拵えというのが妥当なんじゃないかな」

「肉ある?」

「冷凍庫に一揃い。ああ、あと美味しそうだったから、手羽先というのも買ってみたよ」

「あー、それはいいや」

 即座に肉を要求し、即座に手羽先を否定するノアールが可笑しくて、ミキは愉快そうに喉を鳴らした。

「肉料理なら何でも好きなんじゃなかったかい? ノアール」

「そんなこと言ってない。ああいう、食べにくいのは肉でも嫌いだ。手や口が汚れるだろ」

「洗えばいいじゃないか」

「面倒臭いこと言うなよ」

「ブランセちゃんの苦労が窺えるよ」

 二木家の台所を預かるのは難しそうだと、ミキは苦笑せざるを得なかった。ブランセが料理に凝り出しているというのは、本人の口から聞いて知っていたが、それも無理のないことだったのだろう。

「そう言えば、お前の好みって聞いたことあったっけ?」

「スパイシーツナロール」

 ミキも負けじと即答してみせると、ノアールが難しい顔をして首を傾げていた。

「え、なに、知らないの? スパイシーツナロール」

「知らないよ、スパイシーツナロール。あ、ひょっとしてパン? 辛いパン?」

 ミキは絶句して項垂れた。実は内心、軽く世界が滅亡してからの天地創造が三セット巻き起こるくらいの衝撃を受けていたのだが、ノアールは意味が分からないといった風に腕を組んだ。

「じゃあなにか。オレは今日、そのスパイシーなツナのロールとやらを喰わされる訳か」

「いや残念ながら、今日は材料が足りない」

「なんで。好きなんじゃないの?」

「好きだからって、予期せぬ来客に備えていつでも材料を確保しておくほど用意周到ではないよ」

 もしもそれを『チリ君』に言おうものなら、この嘘つきめ、という謂われのない罵倒を受けることだろうと、ミキは思った。そう思ったから、無性に試してみたくもなるのが不思議である。

「それに今は、近々、贔屓にしてるスパイシーツナロール専門店『コメヤ』の絶品スパイシーツナロールが手に入る目算だったから、ちょっと我慢してみようかと思ってね」

「専門店なんてあるのか……」

 もちろん、とミキは言うが、ノアールはいまいちピンとこないという様子で、眉間に皺を寄せた。

「ブランセちゃんは知ってると思うよ、スパイシーツナロール」

「嘘だろ、なんでアイツがスパイシーツナロールを……」

「私が教えたんだ」

「なに吹き込んでんだお前」

「今度そっちに行くときには、ブランセちゃんお手製のスパイシーツナロールが食べたいなって」

「完全にお前の食欲全開じゃないか」

 なんて図々しい客だと、今度はノアールが頭を垂らした。

「あのさあ、弥生。アイツが物知らずなのが一番悪いのは間違いないけどさ。あんまり、いいように使わないでやってくれよ」

「おや。スパイシーツナロールという異文化交流の生み出した英知について、教えることが何か拙いのかな?」

「そうじゃなくてさ。アイツは――」

 逡巡するノアールを、切羽詰まって言葉を選ぶノアールを、ミキは目を細めて見つめた。それは一体、何のために。それを知っているミキだから、自然とそうしてしまったのだ。

「アイツは、まだ赤ん坊みたいなものなんだ。人を利用するとか、悪用されるだとか、そういうドロドロした遣り取りに耐性がない。見え見えの嘘に簡単に騙されるし、ちょっとした矛盾にも気付かずに、誰だって信用する。あのバカは、初対面の、素性のまったく知れないような相手とさえ、お友達になりたいなんて口走りやがるお人好しなんだ。アイツはオレと違って、純粋過ぎるから。少しずつ慣らしていってやらないと、……いつか、壊れるんじゃないかって」

 不安なんだと呟くそれが、ノアールなりの優しさの発露なのだと、ミキは受け取った。ブランセから、ノアールが息をするように吐く嘘に本気で困っている、などという話を聞いていたから、ミキにはなんとなく予想できてはいたのだが。恐らく、この世界で誰よりも、ブランセという妹分のことを想っているのは、この粗雑で不器用な姉なのだろうと。ミキは納得して、その上で、心の中に仕舞い込んだ。

「分かったよ。今後は配慮しよう」

「悪いな。お前に注文付けられるような立場じゃないのは、分かってるんだが」

「何を水臭いことを。確かに私は、君たちの主とは、損得勘定だらけの関係を結んではいるけれど、それでも憎からず思っている。それに、君たちのことは、対等な友だと考えている。十戒の件だって、友でさえない、信頼に足らない者と共闘などする訳がないのだから。友の頼みを撥ねのけることなど、私は断じてしやしないさ」

 ノアールに、それを言ったことはあっただろうか。

 三鬼 弥生は、全てを愛している。

 誰一人、何一つの例外もない。分け隔てなく愛し、慈しみ、大切に想っているから。

「私は、キミも、ブランセちゃんも、聯だって。みんなのことが大好きだ」

 その言葉は、間違いなく本心からのもので。

 誰よりもミキ自身が、そう信じて疑わないことで。


 けれど――これも同じく、ミキの言葉である。

 自分がそうだから、相手もそうだと、そういう考えは間違っている、と。

 好きだ。大切だ。支えたい。見守りたい。愛おしい。

 そう呼ばれる気持ちが、感情が、願いが、心が、万人を通して同じモノ・・・・である・・・などという、そんな証拠はどこにもない。

 目に見えない、その形が、その色が、その重さが、その温かさが。全て等しく、同様だなどという証明は、未だかつてされたことがない。

 未来永劫、絶対に、不可能なことなのだと。

 それはミキ自身が、その芯に、根幹に、本質に埋め込んだ、理だったから。

「ああ――」

 ミキは、泣きそうになりながら、笑った。


「分かってるよ。少なくともお前は、オレたちを見下しはしなかった。オレたちの素性を知っていても、ちゃんと一人として見て、一人として扱ってくれた。それだけで充分だ。それが分かっただけでオレは、確かに嬉しかったから」

 ノアールはミキと視線を合わせる。

 小学生のような体格のノアールだ。ミキを見る顔は、どうしても見上げる形になる。そのことを、ノアールが苦痛に感じていることは、ミキもよく知っていた。

 ノアールが、今の身長から伸びることはない。

 ずっとそのままだ。

 何年後も何十年後も、ずっと変わらない。

 主である聯も似たような背格好だが、それとは全く事情が違う。

 ノアールは、生まれたときからこの姿で。

 いつか死ぬときが来ても、きっとそのままだから。

「勝とう、弥生。お前をこんなところで死なせやしない。十戒だとか、原初の鬼姫だとか。そんなぽっと出の使い捨てキャラみたいな奴に、お前の首は取らせない。あんな・・・モノ・・は使うな、後生大事に仕舞っておけ。自殺願望があるんなら、言ってくれればオレがいつでも散らせてやる」

 そう言って、照れ臭そうに笑うノアールを見て、ミキは。

 ミキは、眩しそうに目を閉じた。

 一時でも、彼女を犠牲にしようなどという考えを持ったことを、心から恥じた。

 ノアールは、ミキは自分を見下さなかったと評価したし。

 ミキも、ノアールを見下したつもりはなかったけれど。

 結局似たようなことをやっていたのだと、思い至った――いや。

 知っていた。

 知っていたのに。

 そうするしかないと、本当にそうするしかないんだと。言い訳がましく、それでも真実に、そう訴えた。

 今までと同じように。

 あの座敷牢から抜け出したときのように。

 或いは、朏 千里馬を退けたときのように。

 それでも、ミキのやるべきことに変わりはないし、ミキの目的が揺らぐことも、またないのだけれど。

 やっぱり、そんなものは慈悲には成り得ないのだと、ミキは思い、そして決意した。

「私は、いい友を持った」

 三鬼 弥生は、誓う。

 この局面を無事に打開して。

 必ずや、己が使命を果たすのだと。

「三嘉神 朔夜を倒そう、ノアール。これまでのように、一時的に封じるのではなく――これで終わりになるように」


 この世界を――救済してみせると。