Doppel Ganger 後編 -8-


「騙すつもりなんてなかったんですよ、先輩」

 俯いたまま、カミヤは独り言のように呟いた。

「ただ――なんだろう。弥生さんには、隠し事はできないだろうなって、思ったんですけど。だけど、ほら。僕はもう最初から、嘘だらけで。もう、バレていないことだけ祈って、ひたすら走るしかなくて。それでも、あの人から離れられたのには、正直ほっとしていたんですよ」

 でもやっぱり、こうなった。

「全部夢だって思ってた」

 いつも見ていた明晰夢。

 これは夢だという自覚を持って。

 その悪夢の中へ踏み込んでいった。

「思いたかった。そうに違いないって。だってそうじゃなきゃ、自分のしたことを認められなかった」

 あくまで、日常に溶け込もうとしていた、カミヤ。

 それは、現実から逃れるためだったのか。

 打算的にか、それとも、ミキが言うところの人間的な弱さ故にか。

「でも。僕がどんな風に考えたって、現実は、何も変わらない」

 それは夢なんかじゃないって、すぐに分かってしまったから。

「それじゃあ、カミヤ。やっぱりお前が」

「はい」

 亡霊じみた気配で、カミヤは頷いた。

「僕がひのえさんを――殺しました」

「……ああ」

 それはまるで、白昼夢のように。

 ついさっき、ミキとした電話の内容が、頭を過ぎっていった。

『やあチリ君。そろそろ目が覚めている頃だと思ってね』

 ミキは弾んだ声で、相変わらず見透かしたようなことを言ってきた。――少し、ほんの微かに、風の音がする。いつものあの黒い部屋、あの不可思議なシャンデリアの下にいるんじゃないのか?

「なんだよ。雑談なら帰ってからにしろよな。今はそれどころじゃないんだ」

 ふん、と短く笑う声がした。電話でさえ、一々が癪に障る。

『それどころじゃないというのは、具体的にどういうことかな。ひのえの安否が気になるのかい? それとも、いなくなったカミヤ君のことが気になるのかい?』

「――――」

 こいつは。一体どこまで見通しているんだ。

「ミキ、何を知っている?」

『大体の事は知っているよ。三点が定まれば一個の三角形が出来上がるのと同じ事でね。登場人物とその背景が明らかになっているのなら、筋書きが読めてしまうのも当然だろう』

 どんな理屈だ。こいつにとっては、幾つもの人生の折り重なりすら、穴埋め問題か何かにしか見えないというのか。まさに国語の教科書、教材に適当だと見繕われた当たり障りのない物語。

 は。読んでてて面白いのか、その人生はなし

「――ひのえのことは、大丈夫だ。大五郎さんが助けてくれる」

『うん、そうだね。ひのえが襲われて、そして・・・まだ・・生きて・・・いる・・。それが一つの鍵になる。無事条件は整ったということか。“導火線に炎が灯った”。あとは時間の問題だ』

「……なんだ、それ」

『ふふ。まあ、それはひのえ本人に聞いてみることだね。如何に口の堅いあの子でも、私からそう聞いたと言えば、答えざるを得ないだろう』

 何を言っているのか分からない。回りくどい言い回しは今に始まったことじゃない。とにかく、ひのえに関しては俺にも、この場にいないミキにもどうこうできはしない。そのことは、とりあえずはいい。

「ひのえは、ドッペルゲンガーにやられたのか」

『まあ――違いない、かな』

 ミキは言葉を区切り、こちらの反応を確かめるかのようにしてから、続ける。

『ひのえを刺したのは神谷 満だ。即ち――ひのえは四人目の犠牲者。そして北野 勇哉が五人目だ』

 やっぱり、そういうことか。ドッペルゲンガーはひのえを刺し、北野を殺した。確定だ。

『凶器は彼の界装具。チリ君もおおよそ見当は付いていると思うが、ナイフの形状をしている。――この国において、界装具は少なくない割合でナイフや、それに類する形をとる。何故だか分かるかい? それが、当人の想像する『武器』として、最も身近にある物だからだ。武術の心得も何もない一般人からしてみれば、それが戦う道具としてイメージしやすいし、扱いやすいのさ。青柳 晃一朗もそうだったし、そして神谷 満も例外ではないということだ』

「……それは、じゃあ、銃が合法の国では銃の形になりやすい、とかって話か」

『理屈の上ではそうなるね。ただし、界装具という系統で異能が発現するのはこの国の特色みたいなものでね。八百万神やおよろずのかみ――遍く全ての物質に神格が宿る。古き時代に構築されたその概念が、今なお影響していると言われている。だから、海外ではどちらかと言えば、魔法、魔術、まじないいといった系統の能力が一般的だ。まあ、宝具とか宝貝パオペエとかなくもないが、それは遠い遠い神話の世界の話だよ』

 話しながら熱が籠もりつつあるのが分かる。講釈は有り難いところだが、今はあまり歓迎できない。

「ミキ。話を戻してくれ」

『ああ、済まないね。ついいつもの癖で。チリ君と話しているとどんどん楽しくなってしまってね。まったく、実に飽きないよ』

 別に俺が相手であることに意味なんてないだろうが。またぞろ面白がっているのだろう。

『君の探しているカミヤ君は、まだ双町にいるよ。別段監禁されているわけでも、傷を負っている訳でもない。君たちに連絡しないのは、他ならぬ彼の意志だ』

「カミヤの、意志で? どういう事情だ」

 尋ねると、ミキはまた小気味よく笑って、俺の神経を逆撫でる。

『そうか。今に至るまで、君は気付かなかったか。五分、真相へ至る可能性もあると、私は見ていたんだがね、チリ君』

 気付かなかった?

 何にだ?

 俺は何を――見落としている?

『さて。それを君に説明する前に、チリ君。君は知るべきだろうね。神谷 満が何故殺人を繰り返すのか』

「――!」

 そんなことまで、知っているのか。

 殺人の理由。殺害の動機。

 カミヤ本人でさえ知らなかったドッペルゲンガーのそれを、ミキは既に知っている。

 あり得ない話、ではないだろう。単なるハッタリという訳でもないのだろう。この秩序を重んじる社会の歯車の中で、人を殺すなんていう尖った思想は一層際立って見える。特異な答えには、特異な理由がある。それを探し当てることこそ、三鬼 弥生の最も得意とする領分――であるはずだ。常時流れ出すような自信の裏付け。超越者の資格。ミキが有する、異能者としての奇跡の所行。

 ミキは、それを知り得る力がある。

 ……だが。おい。

 それは・・・一体・・いつからだ・・・・・?

『口で説明するより、実際に見た方が理解は早いだろう。一度通話を切るよ。アドレスを送るから、君自身の目で確かめるといい』

 そう言うと、本当に通話は終了してしまった。雑音のように不快な電子音が流れ出す。

 携帯電話の画面に目を落とした直後、メールの着信を告げる表示が現れた。送信者は勿論、ミキだ。

 メールを開くと、件名さえない簡素な文面に、一つのインターネットアドレスが入力されていた。本来なら絶対にアクセスなんかせず、何も言わずに削除してしまうメールだが、今は場合が違う。迷うことなく、そのURLを押下する。

 しばらく待つ。と、液晶画面の上から少しずつ、ホームページが読み込まれていく。白い背景の簡単な装飾――これは、電子掲示板か? 幾つものスレッドが長々と並び、短いやりとりがずらりと書き込まれている。見知らぬアドレスからしてそんな有名どころではない、利用者も精々数十人といった程度の、場末の一区画のようだが、これの何が――


『死ね』


 その文字列が目に付いた瞬間即座に電源ボタンを押し、そのページから脱出する。そういう書き込みはこういう場では付きものであるから、俺は普段から近寄らないようにしていた。自分と関係の無い、どこの誰が誰に向けて書き込んだか分からないようなコメントではあるけれど、そのくせ妙に記憶に残ってしまうのだ。無遠慮に、見境なく精神を抉ってくる。ホント勘弁して欲しい。新手のブラクラかよ。

 などと顔をしかめていると、すぐに再び携帯電話にコールが掛かり、それに応じる。

『凄いね、チリ君。今の一瞬で全てを閲覧し終えたというのかい? あれか、ネット版速読法というやつかな? 君にそんな特技があったとはついぞ知らなかったよ』

「アホか。あんなもんじっくりと見てられるか。なんだありゃあ、どこのくそったれな掲示板だよ」

『学校裏サイト』

 端的に、ミキはそう返してきた。

『校名は伏せてあったけど、カミヤ君の学校のね。これがどういうものか、それくらいは君も知っているだろう?』

「それは、まあ」

 学校裏サイト。学校非公式サイトなんて風に呼ばれることもある、最近話題になっているサイトの一形態だ。無論建前上の話ではあるが、基本的にコメント投稿者も閲覧者も対象の学校の生徒ということになっている。自分の所属する学校について、ネット上で情報交換をし、ユーザ同士交流するのが主目的の、数あるインターネットサイトの一種。多くは携帯電話からの利用を想定された物で、ブラウザ付き携帯電話を所持する子どもが増加している現代社会における、必然の産物とでも言うべき代物だ。多くは、子どもが携帯電話を持ち始める高校に付随するコンテンツだと思っていたが、最近は中学校のサイトまで出来ているのか。

 だが、裏であり、非公式である所以がある。親や教師の目の届く範囲を表とするならば、裏は、そう――いじめの温床と成り得るのだ。

 インターネットの特性である匿名性によって発言者の優位は守られつつ、特定の人物をほぼ実名で誹謗中傷するという行為が蔓延している。それも、多数派が少数派を。

 いじめという問題は古くから内在していたが、近年の情報技術の発達と共に大きく様変わりをした。身体が大きくて力の強いガキ大将とその取り巻きが、気弱な子どもを選んで虐げる――なんていうのはもう古くさい様式だ。そこにあるのは、薄汚くて狡辛こすからい、熟れすぎて腐ったような、曰く現代社会の縮図。いじめる側に、力は要らなくなった。必要なのは悪意と、それから無関心か。そしていじめられる側は、徹底的に逃げ道を塞がれてしまう。

 人間同士の交流を目的としたコミュニティでありながら、自分と同じ人間を相手にしているという意識の希薄さ。それは学校裏サイトに限らず、インターネットサイト全てに言えることであるが。しかし、利用者が未成年であることと、この国の情報化社会の進歩に対して当然行われるべき教育が、まったく釣り合っていないことが問題だった。誰でも自由に情報を発信できる――その有用性が、その自由度が、少なくない割合で生み出す『毒』。それを、抵抗力を持たない子どもが、大人の管理の行き届かないところで浴びるように飲み込んでいく。教える側の教師ですら、何をどうやって教えればそれを回避できるのか、理解できていないという背景もある。ネチケット(ネットワークとエチケットを合わせた造語)なんて言葉も生まれたが、特に若年層の中でそれが浸透することはなかったし、ならば何年経とうと変わらないのだろう。

『対面では口にできない本音を、立場や身分に関わらず、世界へ向けて伝達することができる。それは素晴らしいメリットであったはずだ。事実、単に大量の情報を収集するツールとしては、過去類を見ない利便性を誇っている。そして、まさに日進月歩と呼べる進化速度も素晴らしい。いずれは、我々人間の生活に必要不可欠なほどの大きな存在へと変化を遂げるだろうと確信できる。だが所詮、どこまでいこうとインターネットは道具に過ぎない。それは磨き込まれた鏡であると同時に、見通せない磨りガラスでもある。叩き割って破片を他者に突き立てれば、互いを傷付ける凶器にさえ変貌する。君に見せたページには、その典型例とも言うべき遣り取りが行われており、そして――』

 ミキはまたしても言葉を溜めたが、しかし。

 その先は、俺でも読めた。

『神谷 満はそこで、クラスメイトから迫害を受けた。お前なんか来るな、死んでしまえ、とね』

「…………」

 それは、つまり。

 カミヤはいじめの被害者であり。

 殺された三人のクラスメイトはいじめの加害者であり。

 ドッペルゲンガーによる一連の殺人は、そこに端を発する復讐劇だったということ。

『ねえチリ君、君はどう思う? 多くの人間にとって、他人に面と向かって“死ね”などと言う行為は、教育によって悪であると叩き込まれるはずだ。それは正しい。自殺教唆に至れば当然、法における犯罪であるし――それがなかったとしても、人の死を望むこと、或いは人を殺すことを許容した先にあるのは滅亡だけだ。なぜ人を殺してはいけないのか? その答えとは“人間という種が滅ぶから”に他ならない。人殺しが容認された世界――戦乱が蔓延した時代に、それは嫌というほど証明されてきただろう。

 それがどうして、ネットという仮想的バーチャルな世界に移行しただけで、こうも簡単に言葉にできてしまうのか。匿名性が人間を惑わせるのか? それとも、その悪性こそが人間の本性なのか? ねえチリ君、非常に興味深いと思わないかい?』

「……そんなもん、単に粋がってるだけだろ」

 面倒臭い奴だ。ここで倫理観だの人間の本質だのの議論を始める気は、俺には毛頭ない。

『そうでもないさ。ネットの人々の流動は曲がりなりに筋が通っている。人に対する誹謗中傷という行為の目的はね、他者を“貶める”ということにある。自分は誰よりも格上の存在でありたいという原始的な欲求、幼稚な万能感。他人を格下に引き摺り落としては悦に入る無意識下の欲望。その根底にあるのは、歪んだ認知、未成熟な自己愛だ。

 具体的な話をしよう。例えば、ねえチリ君、“厨”という言葉を知っているかい? 元々は厨房、調理場を意味する言葉だが――今ではありとあらゆる言葉の後ろについて蔑称を生み出す万能器と化している。分かるかな? 流行語なんてものがあるけれど、人々の間で長く、深く流行する言葉というものはね、笑いを誘う一発ネタでもなければ有名人の格好いい決め台詞でもない。汎用性に長け、より短い単語でより多数の相手を“貶すことができる”言葉だ。多種多様でありながら悉く型破りダーティなネットスラングは、それを如実に表しているといえるだろう。そしてその力とは言霊。名を狩る者である君ならば、本来それが決して容易く扱われていいものではないと理解できるだろう。真名を知り、人命を操る古の呪い――それは失われたのではなく、普遍と化し浸透したのだろう。深遠なる哲学の終着点、ではあるが、しかしその実態はどうだ。人が近代技術に惑っているのか、古くは荀子じゅんしの唱えた性悪説こそが真実なのか――それは定かではないけれど。どちらにしても、どうやらね、他人を犯し汚す行為は快感であるらしい』

「…………」

 反吐が出る。下らない話だ。一切合切興味が湧かない。そんな話を、ミキは至極楽しげに踊るような調子で言い切り、そしてそのまま続ける。

『低俗で、品性の欠けた行いだ。確かにそれは否定できない。だがねチリ君、勘違いしてはいけないよ。事の本質はただ一点――“自分を守りたい”という、生き物として当然の本能があるのみだ。大義がなかろうが論理整合性に欠けようが、他人を貶めなければ、嘲笑い非難しなければ、自己を保てないという歪な精神――そういう、とても人間らしい弱さだ。いたく庇護欲を覚えるよ。愛おしくて堪らない。群れ集まって表向き哄笑しながら、心の隅で怯えている現代人ユーザたちを、私は抱きしめ、慈しみたくて仕方がない。だから――』

 最高潮に達したミキの言葉尻が淀み、話題の転換を予感させる。

『だから、今回被害に遭った、カミヤ君のクラスメイトたちだって。決して、死んで当然だなどということはないんだ。復讐されて自業自得だななんて、そんな救いのない話ではないんだよ、チリ君』

 やれやれ、と息を吐いてやる。長話が過ぎる。迂遠な言い回しはミキの癖のようなものだが、だからといって許容してやる気にもなれない。

「ようやく着地したな。でもさ、どのみちその結論に至るとしても、まだ続きはあるんだろ?」

『ふん。それは、どういう意味かな?』

「ネットの掲示板で『死ね』、だなんて。そんなの発端でしかないはずだ。それだけでカミヤが人を――いや、殺人に発展する訳がない。そもそも、いじめはエスカレートするものだ。どんどん悪質に、どんどん陰湿に。殺人なんて結果があるくらいだ、言葉にするのも気後れするような非道いことを、件の三人はカミヤにしたんだろう? 別に、どうあろうと殺人そのものを肯定する気はないけど――ああ、いつもお前が言ってることだろ。礼節ってやつだ。法を犯した禁忌を破った、言い逃れようのない悪人だ、だからさっさと裁いて、はいお仕舞い……それじゃあ意味がない、ってさ。何故殺人を繰り返すのかを俺が知るべきだと、お前は言ったな。だったら言う必要があるだろう、その続きを」

 違うか、とミキに問う。

 違わないね、とミキが返す。

 そう。殺人を犯したカミヤのドッペルゲンガーを擁護する気はない。だが。

 ミキに言われなくとも、殺人に至った理由は知らなければならない。

 理解し、共感し、向き合う必要が俺にはある。

 それがどんな形をしているのか知らないままでは、いつかまた取りこぼす。

 そんなのは嫌だ。

 もう二度と、失いたくない。

 もう二度と、亡くすわけにはいかないから。

『だが――』

 ミキは言葉を選ぶように、白々しく躊躇うような気配を漂わせてから、

続きは・・・ないよ・・・

 ミキは言い聞かせるように、繰り返す。

続きは・・・ないんだ・・・・

 俺の頭の中が漂白されていく。

 白い文字の疑問符が花托かたくのように、僅かな隙間に詰め込まれていく。意味が分からない、なのに嫌悪感と不吉な気配が全身を隈無く駆け巡る。

『それ以上のことを、彼ら三人はカミヤ君に何も何も・・していない・・・・・。暴力も侵害も脅迫も嘲笑も無視も差別も、何もない。つまり――』

 やめろ。

 それ以上は、聞きたくない。

『神谷 満は、ネット上でただ三度“死ね”と言われただけで、その相手を殺したんだ』

 歪な黒い闇が、見えてしまった。

 歪み。欠落。不具合。心の闇。それは大なり小なり誰しもが抱えているものだと分かった上で。

 それが紛れもなく、あのカミヤの、ぎこちない笑顔を隔てた向こう側にあるものだと思ったら。

 底知れず、恐ろしくて堪らなくなった。

「どういう、ことだよ」

 なんとか言葉を絞り出す。

 聞きたくないという叫びと、聞かなければならないという意地が、不快な音を立ててぶつかり合い、互いを削り合っていた。

「だって、あり得ないだろ? そりゃあ、クラスメイトにそんなこと書かれたら傷付くかも知れない。ひょっとしたら、お前こそ死ね、とか、思ったりもするかも知れない。でも、だからって――」

 本当に殺すことなんかないじゃないか。

 そんなことを一度許容したら、してしまったら、世界にはもっと人殺しが溢れる羽目になる。

 そんなことが、あってたまるか。

 あいつが、カミヤが、そんな人間であるはずが――

「いや、違う」

 そうだ、また失念するところだった。

「ドッペルゲンガーだ」

 界装具の副作用。

 超常の代償。

 そんな不自然な生まれ方をしたモノが、真っ当に理解できる行動原理を持つ方がおかしいじゃないか。

 カミヤじゃない。

 殺したのはカミヤじゃなく、カミヤのドッペルゲンガー。

 二重に出歩く、得体の知れない怪物モンスター

 カミヤの意志に関係なく、もう一人のカミヤが、勝手にやったことで――

『チリ君。君は、四つの勘違いをしている』

 俺の思考を妨げる、最後通告のように断じる、ミキの声。

「だから――何がだよ」

 一々回りくどいんだ。

 真実?

 俺が見落としていること?

 そりゃそうさ、俺はお前みたいに完璧なんかじゃないんだ。

 何も知りやしない。

 知らないんだ。

『可笑しいとは思わなかったのかい、チリ君。ドッペルゲンガーとしてカミヤ君が二人存在し、それが界装具の副作用によるものだとしたら。君が行動を共にしていたカミヤ君が界装具を・・・・持っていない・・・・・・のは何故だ・・・・・ ? ドッペルゲンガーを生み出す原因となった筈の界装具を、何故・・彼は・・所持して・・・・いなかった・・・・・?』

「は――?」

 それは。

 八剣とやらが判断したことで――

 それはミキも否定しなかったし――

 昼神姉妹との騒動でだって、カミヤは死にかけても界装具を使わなかった――

 だから、カミヤは界装具を持っていない。

 ――だが、副作用のドッペルゲンガーが生まれ、界装具を扱っている。

 覚醒した異能を所持しているのがカミヤではなく、代償として生まれた筈のドッペルゲンガーの方……。

「あ……?」

 それでは・・・・副作用・・・たり得ない・・・・・

 ……いや、待て。待てよ。

 それじゃあ、話の根幹が、狂う。

 思い出せ。思い出せ。これはそもそも、どういう話だった――?


 ――事件の発端は一人の人間の覚醒、つまり界装具の発現から全てが始まった――


 ――殺人事件の犯人と断定された人物、神谷 満――


 神谷 満が、界装具を持ち、人を殺した。


 ――君の隣にいるカミヤ君は誰も殺してはいないよ――


 ――ただ、もう一人の神谷 満がやったというだけのことだ――


 でも、殺しをやったのは、俺と出会ったカミヤではない。


 ――界装具の能力を持っているはずだった彼には、それらしい力が全く宿っていなかった――


 界装具を持たない、カミヤ。だから、もう一人のカミヤが、界装具を持っている。


 ――彼ではない別の、しかし彼と同じ“神谷 満”が存在し、その人物が犯行に及んだのだ――


 ――結果、その仮説は真実だった――


 もう一人の、カミヤ――。神谷 満が二人いることは、真実。なら――もう一人のカミヤとは、誰だ?


 ――そう、ドッペルゲンガーという名だ――


 ドッペルゲンガー。本物の神谷 満と、ドッペルゲンガーの、神谷 満。


 ――ドッペルゲンガーとはそもそも何なのか――


 ――それは、界装具の発現に伴う副作用の一種――


 ――分化した精神が、何らかの要因によって可視の肉体を得、本人の身体から抜け出た結果。それが、機関に・・・おける・・・ドッペルゲンガー・・・・・・・・の定義だ・・・・――


 機関における、定義?


 ――彼らは、それこそがこの事件の真相であると結論付けた・・・・・――


 そしてミキは、『他に、それらしい解答がなかったから』と付け加えていた――


 ミキは・・・その結論が・・・・・真実であると・・・・・・断言して・・・・いない・・・


 つまり、俺がしている勘違いのうち、二つっていうのは――


「機関が定義している『ドッペルゲンガー』と、カミヤの身に起こっている『ドッペルゲンガー』は、別物・・。そして――」

 唾を飲む。息が乱れる。喉が渇いて仕方がない。

俺が・・一緒にいた・・・・・カミヤの・・・・方が・・ドッペルゲンガー・・・・・・・・だった・・・

 殺人を犯したのが、“本当の神谷 満”だ。

『正解だよ、チリ君』

 祝うように微笑む気配がして、ミキが言う。

『少し考えれば、誰でも辿り着くことのできた真相だ。だが誰も気付かなかった。戦犯は、まあ八剣だね。彼らが誤った判断を下したが故に、組織的配下である他の者たちが揃って思考停止し、黙したまま従ってしまった。疑うな、信じよ――とは宗教の基本だが、下手に超常などというものに接していると、性質まで似通ってくるのかな。それはともかく、あの一族はそこまで愚かではないとは思うのだが……まあ、一族郎党みな優秀という訳にはいかないのだろう。その点は、三鬼家とて他人事ではないのだし』

 酷い話だ。八剣は、真犯人を見つけ出すにあたって生じた矛盾を解消すべく、英断を下した筈だった。曖昧な情報、不確かな材料から、膨大な取捨選択を行い、方向性を定め舵を取るということ。そこに思い切りがなければ、それは優柔不断、消極的な暗君と罵られる結果になるが。だからと言って勇み足を踏めば、いわゆる『働き者の無能』と石を投げられる。最悪なのは、そのしわ寄せを喰らうのが、決断を下したトップではなく、配下末端という点であって。

 機関、とかいうものの実態が言わずとも知れてきた。ああ、これ、最近ネットで見かけるようになったアレ――『ブラック企業』、まんまだ。

『君が接していたカミヤ君こそがドッペルゲンガーだった。とすれば、どういうことになるのか――一つ仮定してみようか。神谷 満の本体は殺人鬼として徘徊するようになった。そして生まれたドッペルゲンガーは無自覚のまま本体に成り代わり、普通の生活を送ろうとしていた』

 本物の神谷 満は暴走し、行方を眩ませた。ドッペルゲンガーとして生まれたカミヤは、自分がドッペルゲンガーだという自覚さえなく、当たり前のように神谷 満本人になりきって行動を始めた。

「そう。それなら、筋は通るな」

『いいや、通らないね』

 間髪入れず、完全に予想通りだとでも言うように、ミキが否定する。

『被害者となった五人のことを考えてみようか。神谷 満はなぜ、彼らを襲ったのか』

「それは、さっき言ってただろ。ネットで、誹謗中傷を受けたからだ」

『では、三人目と四人目は?』

 三人目――名前は知らないが、機関の人間。そして四人目――ひのえ。ドッペルゲンガーであるカミヤと接触し、本体の神谷 満に死傷された界装具の使い手。この二人が襲われた理由は、恐らく。

「どっちも、本体に危害を与えようとしていたからじゃないのか。つまり、捕まえようと。本体は、殺人を犯したんだ。誰かに追われる予感くらいあって当然で、実際に追っ手らしい奴がいたから、襲ったんじゃないのか」

 三人目も四人目も、目的は神谷 満の凶行を食い止めること。つまり、神谷 満の目的を阻もうとした者たちだ。邪魔をしたから、しようとしたから、排除した。単純に、そういうことだろう。

『追っ手らしい奴がいた? ねえチリ君、彼はそれをどうやって知ったんだ?』

 疑問符を投げかけながらも、ミキは続ける。

『殺意を持ち、それを満たす手段を得た神谷 満。まず標的である二人を殺し、そして最後の一人の居場所も彼は知っていたはず。だというのに彼は、その一人を殺す前に、二人の予定外の人間を襲った。これは可笑しな話じゃないか。三人目と四人目は、なるほど神谷 満にとって邪魔だっただろう。排除すべき存在だっただろう。その邪魔者が、ドッペルゲンガーの周囲に現れた――即ち、自身の一歩手前まで迫っていた。確かにそのことを知れば、神谷 満が二人を襲ったとしても不思議ではない。でも』

 ミキはもう一度繰り返す。

 彼はそれを、どうやって知ったのか、と。

『一般的に言うところのドッペルゲンガーというものは、稀に双生児が見せるような共感テレパスなど備えているものではないよ。あくまで、本体とドッペルゲンガーは同一の二人・・・・・、別の存在なのだからね。だからさっきの仮定でいくならば、本体である神谷 満は、ドッペルゲンガーやその周囲の人間のことなど気にせず、或いはドッペルゲンガーの存在にすら気付きもせずに、最後の一人、北野 勇哉を殺しに、双町を目指していなければならないんだ』

「あ――」

 確かに、変だ。本体がドッペルゲンガーの様子を見に戻れば、邪魔者の存在には難なく気付けただろうが。しかし、わざわざ戻る理由がない。迷わず手近な一人目と二人目を殺した神谷 満ならば、ミキの言うとおり、真っ先に双町へ向かっているはずだ。戻って様子を見た訳じゃない? 本体の目の前に邪魔者が自ら現れたから殺したに過ぎない? いや、違う。三人目の被害者――機関の人間がドッペルゲンガーであるカミヤに接触したのは確か、二人目の被害者が出た後だ。明らかに、北野という最後の標的を狙わず、その場に留まっていた期間がある。

 そして、双町で起きた二件。これは――

「大五郎さん」

「お、おう?」

 急に話を振られて、運転中の大五郎さんが戸惑ったような声を出す。だがそんなことは気にしていられない。頭が全力回転している感じだ。

「ひのえが刺された場所と、北野の自宅の位置関係は?」

「ああ、遠いな。ひのえちゃんは駅近くの路地裏、北野君の家は町の北西だ。湖を迂回する関係上、車でとばしても二〇分弱は掛かる」

「じゃあ、ひのえが刺された時間と、北野の刺された時間は?」

「詳しくは分からないが、病院に連絡が入ったのはほぼ同時だったそうだ。だが、ひのえちゃんは偶然通行人に発見されたのに対し、北野君の方は、同じ家にいた母親が、物音に気付いて様子を見に行ったところ、ベッドで血を流している北野君を発見している。だから順番としては――」

 ひのえが先、北野が後。四人目がひのえ、五人目が北野。ミキが言っていたことは間違いじゃない。

 ひのえが偶然、もしくは待ち伏せて、北野宅へと向かう最中の神谷 満に遭遇した、という線はないだろう。ひのえの襲われた場所からして、それはどうにもそぐわない。

 つまり――

「神谷 満は、標的のいる双町に到着したにも関わらず、ひのえへと矛先を変えている」

『そう、それが決定的だった。三人目については詳細が分からないから何とも言えなかったが、ひのえに関しては間違いない。自分に危害を加える可能性を持つ者の存在を、彼は、神谷 満の本体は知っていた・・・・・

 それが、本当だとするのなら。

 神谷 満の本体は、ドッペルゲンガーであるカミヤがこの町にいるのも知っていたことになる。

 孤立無援である筈の神谷 満が、どうやってそのことを知った?

「――っ」

 いや、違う。

 孤立無援、じゃない。

 ドッペルゲンガーの存在、邪魔者の存在、その居場所、全てを知り得た者は、いた。

「カミヤが――ドッペルゲンガー・・・・・・・・のカミヤが・・・・本体である・・・・・神谷・・ 満に・・それを・・・知らせていた・・・・・・――!」

『そう。それが、君のしていた勘違いのうち、もう一つ』

 ……馬鹿な。

 誘導されてとは言え、自ら辿り着いた答えに、縛り付けられるよう。

 手足が震える。

 思わず携帯電話を落としそうになる。

 頭の中を、嫌な感覚の熱が満たしていく。

『つまり、ああ、こう言えばいいのかな。君と共に行動していたドッペルゲンガーのカミヤ君は、本体であり殺人鬼である神谷 満と“共犯”だったんだ』

 共犯。

 叩き付けられた言葉に打ちのめされる。

 あの、カミヤが。

 人殺しに、荷担していた。

 いいや、それだけじゃない。

 ひのえさえ、殺そうとした――

「なんだよ、それ」

 なんなんだよ。

 一体、どうして。

 カミヤ――お前は一体、なんなんだ?

 俺たちの前にいたお前は、何だったんだ?

 お前は、どういう心境で笑っていたんだ?

 俺たちは、ほんの僅かでさえ、通じ合えはしなかったのか?

 俺が間近に感じていたあの夢は、いったい――

『随分とショックを受けているようだね、チリ君。ふん、いいよ最高だ。今の君ならば、神谷 満と相対することも可能だろう。だが、問題はまだ残っているよ。ドッペルゲンガーのカミヤ君は携帯電話を持っていなかったし、持っていたとしてもひのえの目を盗んで本体と連絡を取り合うことは至難。二人の神谷 満が通じていたというのなら、手段はなんだと思う?』

 うるせえよ。

 嬉しそうに話しやがって。

「テレパシーでも使ったって言うのか? だけど、それはさっきお前自身が否定した筈だ。だから、なんなんだよ。一般的なものじゃない、機関が定義するものでもない、『神谷 満のドッペルゲンガー』っていうのは、一体何なんだ」

『ふん。そこまで分かっているのなら、チリ君。君なら分かるだろう』

「――――」

 ああ――

 ああ、ああ、ああ、ああ!

 そういうことかよ!

 分かった、よく分かったよ!

 だけどなぁ、ミキ――

 お前、さっきから――

「いつからだ」

 絶叫したくなる気持ちを抑えて、言う。

「あのカミヤが、本体じゃなくドッペルゲンガーで、それも機関が定義するものとは別物で、しかも人殺しの神谷 満と共犯で。そのことを――」

 ああ、駄目だ。

 やっぱり、抑えるなんて、無理だ。

「――お前は、いつから知ってたんだよ!」

 何でもお見通しのお前が、気付かなかった訳がないだろう。

 こうして滔々とうとうと種明かしできるお前が、予想できなかった訳がないだろう。

 全部、全部知ってて、その上で、お前は――

『無論、最初から――とは言えないかな。可能性としては考慮していた。が、確信が持てなかった。いざドッペルゲンガーのカミヤ君を目の前にしても、何よりあのアオの目を以てしてさえ、彼はただの、無害な一人の人間にしか映らなかったからね。でも、ひのえが四人目の被害者となった今は、もう揺るぎない事実として理解している。決定的だと言ったのはそういうことだよ』

 ああ、そうかよ。

 だから、つまり、お前は。

「よく知ってるよな、お前。流石だよ、大したもんだ。じゃあ、じゃあさ、ミキ――ひのえが今どんな状態か、それも当然知ってるよな」

 知っているよ、と。事も無げにミキは言う。

『酷い怪我を負ったそうだね。でも大丈夫だよ。手術は成功するし、後遺症も残らない。まあ、ひのえには暫く不自由を強いてしまうことになるけれど、それも永遠に続くわけじゃない。チリ君が心配するようなことは何も――』

「そんなこと言ってんじゃねぇよ!」

 電話越しに、鼓膜をぶち破ってやろうと思うくらいの大声で言う。

 破壊的な衝動に駆られ、心が揺れ動いているのが分かった。

「なんで、なんで言わなかったんだよ。ひのえか、俺に。せめて一言、カミヤと殺人鬼が繋がってるかも知れないって、どうして言わなかった。確信がなかった? 大事には至らないと分かってた? そんな、そんな理由で――」

 自分でも、何を言っているのかよく分からない。

 上手く言葉が繋がっているのか、口にしてから一拍遅れて確認している始末だ。

 それでも、どうしようもない。

 冷静でなんていられない。

「ひのえは死にかけたんだぞ! 死んだって、おかしくなかったんだぞ! ましてお前――お前の妹だろうが! 分かってんのかよ。お前は、確証がないとか、どうせ問題ないとか、そんなクソみたいな理由で、自分の妹を犠牲にしたんだ!」

 怒り、怒り、怒り(そう、君は)。

 これは怒りだ。怒りだろう(三鬼 弥生を)。

 凍て付くような怒りで、鋭く磨かれた強い意志(殺したいと思っているのさ)。

『犠牲か。ああ、結果的にそうなったことは確かだ。だがそうしなければ、この事件は本当の意味で解決しない。例え真実であろうとも、それを隠すこの選択こそ最善であると、私はそう確信したんだ。神谷 満のドッペルゲンガーを本物と信じ、共に行動することで、彼の君に対する信頼は強くなり。君もまた、彼の事件に対し真剣に取り組むようになった。そうして紡がれる君の言葉と行動こそ、彼を救う唯一の手段となる』

 ――君ならば彼女を守りきることが出来ると確信したからこそ――

 は。

 またそれか。

 また、何でもかんでもお前の思い通りか。

「いい加減にしろよ。お前の身勝手な思い上がりで、周りの人間に冒す必要のない危険を押し付けて――それでもしも誰かが死んだら!」

 アオの予測は神がかっているのだろう。未来が現在に変わる遙か前から、先を見通す力があって、それにミキは全幅の信頼を置いている。それを根拠として、常に最善手を選び取ることができる。超越の目、未来予知に迫る観察眼。

 ミキは、もしもそれが外れたら……なんてことは考えない。的中して当然だと思ってる。疑うなんて、そんな無駄なことはしないと見向きもしない。

 俺の見る世界と、ミキの見る世界は違うのだろう。

 俺の視界なんてものは、ミキのそれとは比べものにならないほど狭いのだろう。

 だけど。それでも分かることがある。

 ――ミキは嘘を吐いている。

 確信がなかった? そんな訳がないだろう。たかが数日先の未来を、アオが見通せない筈がない。まして、カミヤの殺人が始まったのは過去の話じゃないか。アオの力を以てすれば、精巧な史録が手元にあるのも同じじゃないか。

 ミキは全部知っていた。カミヤの嘘も、ひのえの犠牲も、今の俺の憤りと、その本質さえ。知ってて、その上で、その結末が最善だと判断したから、わざと放置した。探偵でも気取って、推理の材料が出揃うまで、手ぐすね引いて待っていた。それ以外のことなんか些事でしかないと切って捨てた。ひのえが殺されかけると分かっていても、それがどうしたと冷徹に断じ、見えていながら何もしなかった。

 なあ、おい。未来が見えるってのは、どんな気分なんだ? 人の生き死にも、希望も絶望も、成功も失敗も、喜びも悲しみも、何もかも全部、茶番に見えてやしないか?

 目の前の人間が、先の見えない不安を押し殺しながら、一生懸命努力して、馬鹿みたいに走り回って、少しでもいい未来を掴み取ろうと必死に頑張って……。そういう生き物の尊厳、凡庸の矜持を、お前が、お前という存在がゴミに変えている!

 ああ、別に、お前がそういう奴だなんてことは、どうでもいいさ。俺の知ったことじゃない。それで見ず知らずの他人が、得をしようが損をしようが関係ない。女神だと讃えようが、魔女だと罵ろうが、好きなようにすればいい。

 だけど、例えば。

 もしも俺が、誰かに殺される未来があったとして――

「そんなバカみたいな終わり方なんてあるかよ……くそが、冗談じゃねぇ、冗談じゃねぇんだよふざけんな! 俺は俺だ! 俺が死のうが生きようが、それは全部俺の責任で、俺のこの手で選んで決める! 神にだって渡したりしない――ましてや、お前の掌の上でなんて死んでたまるか! そんな馬鹿げた死に方、俺は絶対に御免だからなッ!」

 無駄に力を込めて電源ボタンを押し、通話を切った。

 それで、縁も繋がりもなくなってしまえばいいと、思いながら。

 ただ俺は、言葉を吐くだけで何も出来ない無力感に、苛まれていた。

「物心ついたときから、僕の世界は真っ白でした」

 カミヤの独白に、ふと意識が戻る。暗い裏道の背景と同化したようなカミヤの霞む姿は、まるで擬獣のようにさえ見えた。

「天井も白、壁も白。布団も白で、カーテンも白。それはまるで僕を包む揺り籠のようであって――でも僕にとってそれは、僕を取り囲む牢屋でしかありませんでした」

 カミヤの言葉が何を意味するのかを、平均台の上を渡るような慎重さで追い掛けていく。恐らくそれは、神谷 満という人間を知る上で、決して避けては通れない道だと予感したからだった。

「それは、つまり――病院か?」

 連想した景色を言葉にすると、カミヤは微かに笑みを作って頷いた。

「『フュルステンヴァルデ症候群』。先天性心疾患の一種でした。生まれつきの心臓病の中でも特に歴史が浅く事例の少ない症状で、心臓が奇形どころか、通常と全く違う形をしていながら、通常の心臓と同じ役割を担っています」

 フュルステン……? 知らない名前だ。ミキなら、或いはその語源とか事例とか、原因となった染色体の番号さえ空で答えられるのかも知れないが、俺には、珍しい難病だということしか伝わらなかった。

 ただ、理解した。

 それが、つまり、四つ目ってことか。

「通常の半分相当というひ弱な心機能は、時間が経てば経つほど、身体の至る所に異常を引き起こします。内臓も、筋肉も、骨も、満足にその役割を果たせないばかりか、栄養が行き渡らず成長が遅れてしまう。十歳の頃、少し歩く程度の運動にさえ、僕の身体は耐えることができませんでした」

 それじゃあ、ほとんど寝たきりだ。ぞっとするとしか言いようがない。カミヤはかなり噛み砕いて話をしているようだが――もしくは、カミヤもそこまで深く理解しているというわけでもないのかも知れないが。しかし、素人考えではあるけれど、人体の中心部である心臓の機能が半減して、まともに生きていけるようには思えない。要するに血の巡りが極端に悪いということなんだろうけど、それは言うほど単純な話じゃない。人間の身体は、それぞれの臓器や末端の機関、細胞の一つ一つに至るまで、奇跡と言うより他にない組み合わせの連続で成立している。その機械じみた精密さたるや、神様が一撃で生み出したと言いたくなるのも頷けてしまうくらいだ。そして、その最たるものが心臓。全ての大前提である心臓が止まってしまえば間もなく脳が死に、身体が死に、蘇生は絶望的になる。どんな人間であっても、そこに個性の介在する余地はない。

「一人ではベッドから起き上がることもできず、どこへ行こうにも車椅子は欠かせない。日ごとに増えていく薬と点滴。何度やったかも覚えていない修復手術。それでも、それを嘆いたことはありませんでした。だってあの頃の僕にとっては、それが正常で、それが全てで、どこが悪いのかなんて分からなかったんですから」

 産まれたときから視力のない人間に、『色』の概念は理解できない。いや、そんな大袈裟な例え話を持ち出すまでもない。背の高い人間と低い人間の常識は違うし、男と女、子どもと大人の常識だってまた違う。全く同じ人間がいないということは、つまりそういうことだ。

 俺には、カミヤの常識だったものが分からない。

 人間は、本人が思っている以上に、視野が狭い。

「現代の医学では延命しかできない。それを以てしても、十五歳まで生きることはできないだろう、なんて。そんなことを言われても、実感はほとんどありませんでした。他人より早く死ぬんだなと、理解はできたけど。でも僕は、最初からそういう人間だったんですから、仕方がなかった。それが当たり前なんだと分かったから。病院のベッドで日々を過ごすのが生きるということであるのなら、それを手放すのが惜しいなんて欠片も思わなかった。ああ、でも、ただ……やつれてしまっていつも元気のない、それでもなんとか明るく振る舞おうとしていた両親の、赤く腫れた目を見るのは、なんだかとても悲しかったな」

「カミヤ、それは……」

 口を挟もうとして、結局先が続かなかった。生きている実感が薄かろうと、命が続いている限り、それは心のどこかで生きたいと願っているんだということを。いつかミキが言っていたように伝えようとして、言葉に詰まった。そんなことを言って何になる? 産まれてからずっと、そんな不自由な生活を強いられてきた人間に、そうではない、運良く健康に過ごしてきた俺の言葉の何が届く?

 ここに来るまでにぶち当たった問題に、未だ答えを出せていない。

 俺に何ができる?

 ミキ――俺の言葉で、何ができるっていうんだ?

「心臓を、移植するって手はなかったのか? 確か海外では、そういう事例もあったって――」

「海外では、そうですね」

 苦し紛れに、話を切り替えようとした俺の問い掛けに、カミヤは溜息交じりに返してきた。

「僕たちの住むこの国は現在、十五歳未満の心臓移植を法律で禁止しています。だから海外に渡るしか方法はありません。でも、海外で手術を行う場合、その費用は億に届きます。単なる一般家庭の子どもである僕に、その選択肢はありませんでしたし。それに、例えば募金なんかでお金を何とかしたとしても、海外なら無尽蔵に移植が可能というわけでもない」

 ドナーの問題ですよ、とカミヤは付け加えた。つまり、移植しようにも、同じくらいの子どもの心臓が、この国にも、海外にも、ないということなのか。

「まあ、そんなことを言っても。信じられませんよね? 先輩。そんな重篤だという僕が、じゃあなんで今こうして立っていられるのか。いや、僕自身は――そう、ドッペルゲンガーな訳ですから、その枠に嵌まるとは限りませんが。本体の方は違う。心臓病を患っている僕に、人を殺すほどの力なんてあるわけがない」

 目の前のカミヤが、ドッペルゲンガーだというのなら。確かに、普通に飯食ってたし、全速力で走ったりもしてたし、見る限りは何も問題なんて抱えていないように思える。本当に、ただの一人の人間だとしか思えない。

 ドッペルゲンガーは、本体と瓜二つ――ではないのか?

「当然、心臓の奇形は今もそのままです。僕が十数年過ごした病院の先生のお墨付きです。それはドッペルゲンガーである僕も、本体の僕も、同じ事。ただし、それでも問題ないくらい、身体能力が向上したんです。そう言えば、これがどういうことか、先輩には分かりますよね」

「――界装具か」

 ええ、とカミヤは肯定した。

 界装具は、顕現することで身体能力が超人と呼べるほどに跳ね上がる。それは膂力の強化であり、体力の増強であり、生命力の活性化である。総じて『死ににくくなる』。それが、カミヤの身にも起きたということなのか。

「ひのえさんの前任者――つまり僕に初めて会いに来た機関の人。その人が言うには、稀にあるケースらしいですよ。重い病気を持っている人間が、界装具に目覚めることで、引っ張られるように回復に向かうということが。世に言う奇跡の治癒の正体が、これだったりするそうです」

 そこでカミヤは、口の端を吊り上げて笑った。

「そして僕は、自由な身体を手に入れた――!」

 それは、それまでのカミヤの笑顔ではなくて。

 心の底から喜び打ち震えている、そんな気配がして。

 それはどことなく、狂気を感じさせた。

「呼吸しても苦しくない! 身体が思ったように動く! ふいに胸が痛くなることもない! ちゃんと口から、戻さずご飯が食べられる! お父さんもお母さんも、先生も、看護婦さんも、みんな大喜びで、祝福してくれた! もう、今日寝たら明日目が覚めないかも知れないなんていう妄想に耽ることもない! そう、僕はもう、ちゃんと生きることができるんだ!」

 窮屈な路地裏に抗うように、カミヤの産声は鳴り響いた。

 ――それは。カミヤにとって『新生』に近かったのだろう。

 思い起こすだけで、そのときの感動が蘇ってくるような。

 悪夢から醒めた。そんな気分だったのだろう。

 純粋に生きることができるという喜びと、そして――

 それを否定されることで生まれる怒りと、殺意の膨大さ。

 それは、分かる。いや、正確に言うなら、想像はできる。だけど。

「でも、もう終わりだよ、カミヤ――いや、神谷 満の界装具の能力によって作られた『ドッペルゲンガー』。俺も大五郎さんも、何よりミキが、お前の正体を知っちまった。本体とドッペルゲンガーが共犯であること。お前の界装具の・・・・能力こそが・・・・・ドッペルゲンガー・・・・・・・・である・・・神谷・・ 満を・・作り出す・・・・ものだってこと・・・・・・・。こうなった以上、遠からず誰かがお前を捕まえに来る。そうなったら、もうしらばっくれることはできない。自由なんて、簡単に無くなるんだ」

 特別な力を手に入れたからって、できるようになったからって、人なんか殺すべきじゃないんだよ。そんな権利、誰にだってない。どんな理由があったって、他人の命を奪うべきじゃなかったんだ。

 ――ああ、それが。

 それが、こんなにも、悔しい。

「それがどうしたんですか、先輩」

 その声に驚いて、カミヤの顔を凝視する。

 カミヤは、意味が分からないという風に、きょとんとした顔をしていた。

「どうしたって、お前――」

「だって」

 続くカミヤの言葉に、俺は絶句するしかなかった。

「だって、どうせ殺される訳じゃないでしょう」

 殺されなければ、いい。

 死ななければ、いい。

 生きてさえ、いれば。

「国に、警察に捕まって罪状が明らかにされれば、幾ら僕の年齢でも死刑の可能性はあるかも知れませんけど、でも。機関? 彼らは殺せませんよ。あの昼神姉妹だってそうなんですから、僕だって殺せやしない」

 意味ないですよ、とカミヤは失笑する。

「ねえ先輩。僕思うんですよ。僕の界装具は、そのために、こういう能力なんだって」

「こういう……?」

「僕の能力なら、誰を殺そうが、僕自身に絶対のアリバイを作ることができる」

「……それは」

 それは、そうかも知れない。

 犯行時刻に、ドッペルゲンガーが全く別の場所にいることが立証されているのなら、その殺人が神谷 満に結びつくことはない。どれだけ疑われたとしても、例え目撃者がいたとしても、どんな名探偵であろうと絶対に崩すことのできない現場不在証明。

 真っ当な常識に従う国家権力に、神谷 満は逮捕できない。

 界装具が、持ち主の願望を叶える力だというのなら、そうなのかも知れない。

 だけど。だけどさ、カミヤ。

 そういう問題じゃ、ないだろう。

「カミヤ、お前は、……あの双子に言ったよな、『それは犯罪だ』と。お前がやってることが、悪いことだって、分かるよな……? バレなきゃ、裁かれなきゃ、やってもいいなんて、思ってないよな……?」

 カミヤは目を閉じて、少しだけ黙りこくってから――頷いた。

「そう、ですよね。悪いことです。おまわりさんに捕まらないからって、許されることじゃありません」

 でも、と。カミヤは、微笑んだ。

「仕方ないですよね、先輩。だって、彼らがいけないんですよ。人に、『死ね』だなんて。一生懸命生きてる人間に、死んでしまえ、だなんて。酷いよ、酷すぎる。そんなの、殺されたって、文句は言えない」

「カミヤ……」

 言葉が、なかった。

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 どんな言葉ならカミヤに届くのか、分からない。

 いや、違う、そもそも。

 俺はカミヤを、どうしたいのか。

 自首させたいのか?

 拘束して、ミキにでも引き渡す?

 罪を認めさせて、被害者たちを弔わせる?

 どれも必要なことのようで、するべきことの筈で、でも。

 本当にそれでいいのか、分からない。

 俺はただ、夢を、叶えたかっただけなのに……

「だから。ねえ、先輩」

 カミヤは、それまでの、それでも明るい雰囲気から一転して、けだるく酔い痴れたような声で、俺を呼んだ。

「昼神姉妹の居場所を、教えてください」

「は――?」

 縋るように俺を見るカミヤは、著しく弱々しく見えた。

 眼光から伝わる威圧に波がある。情緒不安定が見て取れる。それは、――その心情は、考えたくもない。人を殺した直後の人間が、安定している筈がないのだから。

「昼神姉妹は、彼女たちの故郷に連れて行かれたそうです。僕は、彼女たちを追わないと」

「なんで……? あいつらのことは、ひのえが片を付けたって」

「でも、まだ生きている」

「――――」

 底冷えするような重い声に、背筋が凍る。

 その目が、闇の中にあって、恐ろしく輝いて見えた。

「先輩は、ああ、もう気を失っていたから、聞いていませんでしたね。彼女たちは、僕らを――要らないと、死んでしまえと、言ったんですよ」

「それは――」

 つまり、また。

 お前は、人を、殺そうっていうのか。

 死ねと言われたから。

 生を否定されたから。

 あの双子に関しては、正真正銘の社会不適合者で、言語道断の悪人で、カミヤに至っては実際に殺されかけてもいるけど、でも、だからって。

「やっと、終わったんじゃないのかよ。お前を否定したクラスメイトを殺して、邪魔するからってひのえまで……。それが、それがようやく終わったんじゃないのかよ。お前一体こんなこと、いつまで続ける気なんだよ」

 吐き気がするのを抑え込んで、なんとか言葉にする。

 これで終わりにすれば無罪放免、なんて訳じゃ、決してないんだろうけど。

 だって、だって俺は、これ以上、お前に……。

「そんなの、知りません。僕を否定する、彼らに言ってくださいよ」

 カミヤは少しだけ、怒気を含んだ声でそう言うと、ゆっくりと歩き出した。

 俺は、反応することさえできない。金縛りに遭ったかのように身体が動かなくて、これは――

「明日の二十四時。またここで待っています。それまでに、そうですね、大五郎さんか弥生さんにでも聞いて、昼神姉妹の故郷を、僕に教えに来てください。それができなかったら、そのときは――」

 俺の横を通り過ぎていくカミヤの顔を、やっとの思いで、目だけで追う。

 その表情は、冷酷に沈んでいて。

「次は、大五郎さんと桜さんを殺します」

「――ッ!」

 胸の奥に、熱が滲んだ。

 身体が重くて、振り返ることはできず、歯を食いしばってから、叫ぶ。

「お前は! お前にとってはもう、他人なんか、幾ら殺したって構わないとでも思ってるのかよ! あの二人が、お前に死ねなんて言うとでも思ってるのかよ!」

「…………」

「答えろカミヤッ!」

 カミヤの足音が、背後で止まった。

 今の俺の耳には、町の雑音の一つも届かない。

 自分の心音だけが妙に大きく聞こえる中で、ただ、カミヤの言葉を待っている。

「僕は、僕を否定する奴を許さない」

 絶望の果てに手に入れたきぼうを、誰かに否定などさせはしないと。

「どれだけ時間を掛けても、邪魔者を何人殺してでも、絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に――地の果てまでも追い詰めて殺してやるんだ!」

「カミヤ――!」

 今更振り向いたところで、カミヤの姿は見えなかった。

 急いで追えば、すぐそこにいたのかも知れないけれど。

 俺はただ呆然と、力なくその場に立ち竦むしかできなかった。

 空を見上げると、夜空を覆う、大きく分厚い雲片の群れが、南へ向けてゆっくりと流れていた。

 それは、何かが始まる予兆のようでもあり、何かが終わってしまった証でも、あるかのようだった。