Doppel Ganger 後編 -9-


 カミヤと別れた後のことは、少し記憶が曖昧になっている。

 入り組んだ路地の脱出に少し手間取り、面倒臭くなって建物の上まで跳んでから、病院の方へ戻ったのは覚えている。駐車場にぽつんと停まっている大五郎さんの車は程なくして見付かったが、そのとき中には誰もいなかった。見上げる病院の建物は予想よりも大きくて、そこから大五郎さんを探すのも難しいように思えた。職員に所在を聞いて不審がられるのも嫌だし、何より今は、あまり無駄な話をしたいという気分になれなかった。

 病院から椿谷宅までも、界装具を持った状態で屋根伝いに走って向かった。ミキと電話してたせいで、車で走った道のりはほとんど覚えていなかったが、背の高い建物から町を俯瞰してみれば、地図で見た記憶の中にある地形と景色が合致する。多少迷いはしたが、問題なく目的地まで辿り着けた。

 その後のことが――曖昧だ。

 多分、桜さんには会ったと思う。そもそも鍵の掛かった家の出入り口は中の桜さんに開けてもらわなければ通れない筈だし、そうでなくとも、一人で戻ってきた俺を桜さんが放っておくはずもない。

 だが、特に言葉を交わした記憶はなく、俺は今、自分にあてがわれたベッドに腰掛けている。部屋は、暗い。電気は付けていないし、カーテンも閉まったままだ。携帯電話のディスプレイの光が、網膜に焼き付いて揺らめいている。

 ミキにメールで用件を伝えてから、どれだけ時間が経っただろうか。帰り際に電話が通じないことを確認してからすぐにメールを送ったのだが、未だに返信はない。さっきは狙い澄ましたかのように向こうから電話してきたくせに、こっちに用事があるときに音信不通とか、なんなんだアイツは。まさか、俺が怒鳴って一方的に通話切ったの根に持ってるとかなのか。そんなキャラじゃないだろう。第一、今度こそそれどころじゃないんだ。それはミキにだって分かってる筈だ。

「……分かってるんだろ、ミキ」

 早く昼神姉妹の故郷を聞き出さないと、大五郎さんと桜さんが、死ぬ。

 時間は、今何時だろうか。ケータイの画面が眩しくてよく見えない。日付はとっくに変わって、随分経ってような気もするし、そうでもないような気がする。眠気はない、つもりだが、視界がぼんやりしている。昨日変な時間に寝ていたから、体内時計が狂っているのだ。身体も気怠いし、あちこちがひりひりする。万全にはほど遠い。

 本当に、なぜこんなことになったのだろう。

 自分の命が危ぶまれるような事態には、心底なって欲しくなかったとは言え、なる可能性はあるかも知れないと思っていた。あのミキが言い出したことだし、不本意だが、そんなのはもういつものことだ。

 なのに、今俺が抱えているのは他人のことだ。大五郎さん、桜さん、ひのえ、そして、カミヤ。その中の誰一人として、死んで欲しくなんてない。

 俺はただ、夢を叶えたかっただけなんだ。それは失敗した。初めからそんなものはなくて、ガラスに写った虚像を掴もうと躍起になっていただけだった。

 なのに、こんなにも苦しい。

 欲しいものは得られなかった。それなのに、それにくっついてきたような負債だけが、へばりついてなくならない。

 ああ、忘れていたわけじゃない。ずっと前から気付いてて、でも知らない振りをしていた。自分が、ただの臆病者であるという事実を、受け入れたくなかったから。

 人と関わるというのは、こういうことなんだ。失うことに恐怖し、損なうことを忌避し、無くしてしまうことに慄然とする。だから俺は、自分の感情を殺し、必要以上に人と接することを拒絶してきた。

 それは、手に入れたからこそ生まれる代償だと思っていた。最初からそういう風に、表裏一体にできていて、必ず付きまとう呪いのようにさえ思っていて。どうしてこんな余計なものがあるのだろうと、泣きたくなったこともあった。

 なのに。初めて知った。その代償は、ただ手を伸ばしただけでも、這入り込んでくるものだったんだ。

 こんな理不尽があっていいのか。人は一人では生きられない。だから繋がろうとするのに、それにはこんなにも激しい痛みが伴って。求め合うほどに辛くなる。抱きしめるほどに苦しくなる。そう、ヤマアラシのジレンマとか言ったか。この世界を神様が創ったというのなら、どうしてこんな残酷なことをしてくれたんだ。みんながみんな、これは神が与えたもうた試練なのだ、なんて都合良く解釈すると思うな。生憎俺は、そんな被虐的な特殊性癖なんざ持っちゃいない。まして――

 それを乗り越えたところで、得られるものなんか何もないのに!

 俺は。俺は、どうしたらいい?

 このまま、昼神姉妹の故郷が分からなかったら。カミヤは本当に、大五郎さんたちを殺すのか?

 大五郎さんたちは条件を満たしていない。カミヤの禁句を破ったわけではないし、邪魔をする意思も力もない。わざわざ殺害を予告したのは、俺への要求を通りやすくするために過ぎない。

 だけど、あいつの殺意は本物だ。クラスメイトを迷わず殺したように、心の底から昼神姉妹を殺したがっているし、その障害となるのなら誰だって殺すだろう。ひのえにさえ、刃を向けたように。

 希望的観測はしない。要求は無視できない。大五郎さんたちを殺させるわけにはいかないのだから。

 だが、そうしたら今度は、カミヤは昼神姉妹を殺してしまう。

 相手が誰であろうとも、それが殺人であり、大罪であることに違いはない。それはどうやら、俺には看過できそうにない。

 これ以上カミヤに、誰かを殺して欲しくなんてない。

 やめさせなくては。止めなくてはいけない。なんでもいい、なんとかして、カミヤを説得して。

 ――なぜ?

 カミヤの存在はもう、俺の夢ではないのに?

 諦めずに求めたところで、もう何も手に入らないのに?

 そもそも、こんなことで悩んでいることの方がおかしいんじゃないか?

 掛け替えのない存在、だった。もう過去形なのだから。失った、もう戻らない。いつも通り、そうやって諦めて目を閉じてしまえば、それで済む話じゃないのか?

 試練とやらを乗り越えても、得るものなんて、何もない。

 なんだ、これは。

 意味が分からない。

 カミヤを止めたい。そういう心は確かに、間違いなく俺の中にある。

 だけど頭では、そうすることに意味なんてない、理屈が合わないと、静かに、しかし強く強く、訴え掛けてくる。

 俺は一体どうすればいい?

 俺は、本当は、どうしたい?

「――は?」

 そう問い掛けたとき、身体の奥底から、言い知れない鼓動を感じた。

 心臓とは違うどこかから、断続的に溢れ出てくる波。それは全身に新しく瑞々しい活力を宿らせる愉悦を与えながら、その傍らで、身体の中に別の生き物が紛れ込んだような、生理的な不快感を伴っていて。

 これは、そうだ。あの大鎌を呼び出したときの感覚に、似ているように思えた。

 ――なんだ?

 武器に意志を感じる、なんていう漫画じみたこと(この世界も既に充分漫画じみている気がしないでもないが)は今までなかったが、まるで界装具が何か自己主張をしているようだった。

 確かに、思うところはある。そう、『名無しの黒鎌』を、擬獣以外に・・・・・使ったら・・・・どうなるのか・・・・・・

 能力の発動条件は、対象の名前を知ることと、その上で相手を斬りつけること。擬獣専門の能力、なんていう噂が流れているようだけど、事実としてそんな前例はないのだ。試してみれば、擬獣以外に使える可能性はある。

 そう、例えば、人間相手に――

 思い至った発想を自ら嘲笑する。全く以て、下らない話だ。

 ミキはこの能力を浄化と称したが、そもそもその浄化の意味が分からない。擬獣を倒すことと、浄化することは違う。擬獣を浄化すれば、擬獣は消え去る。だが倒したところで、擬獣が消えることに変わりはない。

 倒すとは、殺すと言うことだ。既に死んでいる擬獣を殺すというのも可笑しな話だが、意味合いとしてはそういうことだ。力尽くで、この世から消し去るのだ。

 ならば、浄化とは? そして、それを人間に使うとすれば、何がどうなる?

 それは、殺すこととどう違う?

 ミキに聞いてみれば分かるかも知れない。或いは、またぞんざいにはぐらかされるかも知れない。いずれにせよ、今ミキには連絡が付かない。

 なら、試すか? 人の名を狩ることを、試すか。――『浄化』とやらをされた人間がどうなるか分からないのに? もっと言えば、死ぬかも知れないのに?

 そんなもの、試す価値もない。人殺しをされるのは嫌だが、殺すのだって当然御免だ。

「――――」

 俺は、どうしたい?

 カミヤを、止めたい。

 殺したくはない。でも、殺して欲しくないから。

 なぜ?

 それはもう、終わってしまった夢なのに?

 俺は。

 俺は、一体――

「いつまでそうしているつもりですか」

 唐突に、本当に不意打ちのように。それまで何もないところから、突然現れたかのように。

 三鬼 ひのえが、目の前に立っていた。

「あ、……え?」

「酷い顔。なんですか、幽霊でも見たように」

 不機嫌そうに軽く眉をひそめるひのえは、その真っ白い髪を堂々と垂らし、さらにその細い身体をすっぽりと覆うような、ゆったりとした桜色のワンピースを身に付けていた。首元から股の辺りまでチャックが付いている、多分、洒落た構造の服だ。

「似合わないとでも言いたいのですか?」

「まだ何も言ってねぇよ……」

 俺の視線が気になったのか、益々顔をしかめて、ひのえはつんと睨み付けてきた。

 それはまあ、物珍しくはあった。いつもの格好でイメージが固定されていたものだから、ボッとしていたのも相まって、ついしげしげと眺めてしまった。

 しかし、似合わないなんてことはない。服は若干サイズが大きめにも見えるが、少女らしく可愛らしい、年相応の姿に思える。ノースリーブで覗く小さな肩、長めの裾から伸びる白い脛。これで麦わら帽子でも被っていれば、夏っぽくて涼しげで、いかにもいいとこのお嬢さんといった風情の、絵になるシルエットだ。

 だいたい、似合う似合わないの話をするなら、普段のビジネススタイルの方がぶっちぎりで似合っていないのだから、ひのえの感性はどうかしている。

「これは、桜さんにお借りした服です。怪我をしているのだから、動きやすく脱ぎ着もしやすい方がいいだろうと」

「まあそんなことだろうと――怪我?」

 そう言われて、ようやくそのことを思い出した。

「そうだ。お前、大怪我したんじゃなかったのか? 死にかけたって。なのになんで、普通に立って動いてるんだよ」

 俺の知る限り、現代医学における手術というものはまだ、魔法みたいに怪我を一瞬で治癒させてしまうような域には達していないはずだ。それは、ひのえは人並み以上に頑丈で、冗談みたいに回復力も異常に高かったりするのかも知れないけど、だからって、あれから、数時間くらいしか経ってないんだから……。

「ああ、分かった」

「分かりましたか?」

「これは、夢だ」

「そうですか」

 ひのえは素早く俺の右頬を摘まみ、思いっ切りつねった。

 ぎゅーっと。

「痛い痛い痛い痛い! やめろ離せ!」

「夢でしたか?」

「分かったから! ちゃんと起きてるから! いいから離せ!」

「まだ伸びるわ、これ。ゴムみたい」

「遊んでんじゃねぇよ!」

 一頻ひとしきりやって満足したのか、やっとのことでひのえは手を離した。

 まったく、容赦がない。というかこいつ、最初の頃は口だけだったのに、俺に直接攻撃が有効だと分かるや否や急に手が出るようになってないか。最悪だな。

「意外と元気ですね、チリさん。暗い部屋でずっと塞ぎ込んでいるというから、変な物でも拾い食いしたんじゃないかと思いましたが」

「悪かったな」

「本当ですよ」

 ひのえの手が、今度は左の頬に伸びる。またつねられるのかと思い、びくりと身体が身構える。

 だが、思っていた痛みはなく、代わりに冷たい布地が触れた。

 ひのえの顔が、目の前にあった。大きな瞳が、少しだけ潤んで見えた。

「ちゃんと冷やしていないと、腫れが引きませんよ」

 自分で持ってください、と言われるがままに受け取ったのは、また氷のうだった。道理で、覚えのある感触だと思った。そう言えば、腫れてたんだったか。

「どうしたんですか、顔がこんなに腫れるなんて」

「転んだ」

「桜さんの着替えでも覗いたんですか?」

「ちげぇよ」

「じゃあトイレ?」

「俺もうそろそろ許されてもいいと思うんだ」

 凄い根に持たれてる……。一生このネタでいびられ続けるのだろうか。

「桜さんが、とても心配していました」

 ごく自然な流れだったので、まだいびり足りないのかと辟易したが、どうやら違うらしかった。

「突然帰ってきて、話し掛けても生返事ばかりで、挙げ句食事もせずに部屋から出てこなくなってしまって。大五郎さんも、まだ頬の診察ができていないのにと、気にされていました。昨日の怪我だって、軽症とは言えまだ残っているんですから。あまり、あの人たちを困らせないでください」

「……ああ、悪い」

 それ、カミヤにも、言ってやってくれよ。

「って、大五郎さん帰ってるのか?」

「ええ、随分前に。でもさっき寝てしまったから、しばらく起きないと思いますよ」

 無理をさせてしまったから、と、ひのえは俯き気味に言った。そうか、ひのえが無事に見えるのは、大五郎さんの功績か。

「そんな、疲れるようなことをしたのか? 大五郎さんは」

「疲れは、したでしょうね。夜中に西病院に押し掛けて、そのまま日が昇るまで院長と交渉を続けていたようですから」

「交渉?」

「交渉というより、喧嘩だったかも知れませんね」

 余計意味が分からない。人間が熊と喧嘩なんかしたら命がないだろう。

「それはそうでしょう。緊急手術を終えたばかりの重傷患者を、そのまま外へ連れ出そうというのですから。普通の医者なら反対して当然です」

「あ、そういうことか」

 医師会のお偉いさんというのならともかく、大五郎さんはあの業界内ではまだ若輩にあたるはずだ。そんな奴の言うことを易々聞いて、患者を渡してしまう医者はいない。というか、そんな医者に診られたい患者はいない。

「そうまでして、お前を搬送して。大五郎さんは何がしたかったんだ。あれだけ大きな病院なら、医療施設として劣ってるって訳でもないだろうに」

 というより、あそこはこの町唯一にして最大の病院の筈だろう。他に治療できる場所なんて、開院前のこの小さな診療所くらいで、それだって機器や技術で大病院に大きく勝るとは考えづらい。大五郎さんと車に乗っているときは特に疑問にも思わなかったが、大五郎さんの行動には謎が多い。

「あちらの病院は、あくまで普通の病院ですから。ここへ連れ帰るより他になかったのでしょう」

「普通の病院?」

「見た方が早いですね」

 と、言うや否や。ひのえは、ワンピースのフロントチャックを、表情一つ変えずゆっくりと引き下ろし始めた。

「待て何やってんだお前俺を殺す気か殺したいのか」

「このくらいで狼狽えないでください。裸まで見たくせに」

「やめて、もう忘れさせて頼むから」

 割と切実だった。

 が、変な心配をする必要はなく。ひのえの手は鎖骨の下、胸骨柄の辺りで止まった。そして。

「何だ? 赤い肌着――いや、包帯か?」

 幾重にも巻き付けられているらしい、細めの包帯が目に付いた。そう、確かに包帯としか言いようのない形態に見えたのだが、それらは全て血のように赤黒く、とても市販されているとは思えない色をしていた。ひのえの血が染みているのかとも思ったが、全身でそのレベルの出血が起きているのだとしたら、ひのえはとっくにミイラになっているだろう。

「ええ。今、私の胴体は全て、この包帯が巻かれています」

 それだけ見せると、ひのえは一番上までチャックを戻した。内心ホッと胸を撫で下ろす。

「私の怪我は、当然完治などしていません。私もまだ直に見てはいませんが、背中にある幾つもの傷は勿論、裂傷が内臓にまで届いているという、気の弱い方なら見ただけで卒倒するような有様だそうで。筋肉も神経もあちこち損傷し、しばらくはベッドから起き上がることもできないような状態のようです」

「内臓って……。よくそれで生きてたな」

「はい、致命傷で済みました」

 ひのえ、ギャグは無表情で言われても笑えない。しかも冗談じゃないんだよな、これ。普通の人間だったら致命傷だ。

「じゃあ、その包帯が、なんやかんやして動けるようにしてくれてると?」

「そうなりますね」

「んなバカな」

 あり得ない。二十二世紀の青狸でも呼んだのか。いや、ミキが絡んでいるとすればあるいはそれも……。

「二木の魔道具」

 ぽつりと、ひのえはその言葉を口にした。

 なんだ、またファンタジーじみた単語が出てきたな。

「二木の名は、流石に貴方も知っているでしょう」

「あー、聞いた覚えはある」

 ミキだったか大五郎さんだったか、ああ、アイツ――ノアールも言っていたか。何度か出てきた名前ではあった。

「二木家。三鬼や八剣と同等に古い歴史を持つ界装具の担い手であり、現代でも機関の主要家に数えられる一族です。ただし、他の家系とは明らかに違う役割を担っています」

「役割?」

「『ツクリテ』。その名が示すとおり、道具製造に長けた一族。その一点においてだけは、三鬼も六条も八剣も、決して敵うことはありません。神より託されたその両手は、この世界において唯一絶対の奇跡を可能にした。そう、彼らが造る魔道具の一つ一つが、界装具に匹敵する能力を持っているのです」

「界装具に匹敵する道具を、造る?」

 界装具と呼ばれるモノそれ自体、理解不能のオーパーツのような代物だというのに、それに近い物を造る?

 ええ。それは、なんだ。一体何千年先のオーバーテクノロジーなんだ。その二木とかいう連中は、ちゃんと人間なんだろうな。

 胡散臭そうだという感想が顔に出ていたのか、ひのえは若干不愉快そうに眉を寄せた。

「何も、可笑しな話ではないでしょう。表舞台の史実でさえ、容易に億単位の死傷者を出し得る兵器が存在しているのです。今や幾らでも量産可能となったその物の誕生は、かつてその界隈で超一流と呼ばれた研究者をして『有り得ない』と言わしめた奇跡の一つなのです。界装具を一技術として当然のように扱う私たちの世界にも、同じように特異な創造物があり、その作り手がいたとしても、不思議なことはないでしょう」

 規模も向きも全然違うが、事象そのものは図形的に相似である、みたいなことを言いたいのか。分かりにくいが、わざと迂遠な言い回しをするミキと違って、ひのえはなんとか言葉を尽くして、理解を促そうとしているような感じがする。そう言えば、相似って中学校で習うんだっけ。

「いやまあ、そうかも知れないけど。そんなのが作れる人間がいるんじゃあ、そのうちとんでもないことにならないか? その魔道具とやらで武装した軍隊が戦争を起こす、とか」

 思うに、界装具の能力者というものは、全体人口に対して圧倒的に数が少ない。だからこそ、普通に生きてるほとんどの人間は、その存在を知らずに一生を終えることができるのだろう。それが、そんな便利な道具が造れるのなら、いつ覆されるとも分からないのではないか。

 だが、ひのえはすぐに「それは有り得ません」と断言した。

「そう言える根拠は幾つかありますが、現状で言えるのは、二木の魔道具は基本的に使い捨てであるということです。一度使えば効力を失い、単なる置物、装飾品、或いは廃棄物と化します。例えばこの包帯も、継続して効果を発揮し続けられるのは一週間程度で、使用限界を超えた場合はその都度新しい物と取り替えなくてはなりません」

 ひのえは自分の胸元を手で押さえながら言う。

「加えて、量産に向かない。詳しくは秘匿されていますが、強力な道具ほど必要とする材料が稀少になる傾向があり、大量生産できないのだそうです」

「はあ、なるほど」

「あと、物にも因りますが値もかなり張って――」

「分かった、もういい」

 なんか生々しい話になりそうだったので止めておいた。

 ひのえは微妙に口惜しそうな顔をする。無表情に見えて、慣れると案外表情豊かなのかも知れない。

 正直理解に至るには程遠いけれど、とりあえず頷いておいて問題ないだろう。要するに、二木とやらが作った異常に便利な道具があって、それによってひのえは元気に見えると。そういう訳だ。

 それに、ここまで聞けば、大五郎さんが強引にひのえをここまで運んだ理由も納得がいく。そんな常識の埒外、非科学の権化みたいな代物を、真っ当な医者に見せるわけにもいかないのだろう。ひのえに処置を施す為にも、なんとかしてひのえを、彼らの管理下から連れ出す必要があったんだ。

「で、その包帯は、怪我の治りを早くしてくれたりもするのか?」

「そういう効果はないようです。大雑把に言えば非常に高機能な麻酔のような物だそうで、毎日の検診と治療が必要なのは変わりません。日常生活に支障がないと言うだけで、激しい運動や界装具の使用にも制限が掛かります。全治四カ月。夏休みが明けても、病院通いは免れないでしょう」

 ひのえには不自由を強いることになるとか、ミキが言っていたのはそういうことか。結局これも、あいつの思い通りだったわけだ。こうなることを予測して、二木に依頼したのもミキで、あのタイミングでノアールが包帯を届けに来ていたのもミキの計算通り。

 まったく本当に、頭にくる。

「ミキは、全部お見通しだったよ」

 告げ口をするような気分になりながら、ひのえに言った。

「全部知った上で手を回していたんだ。カミヤのことも、……お前のことも」

 ひのえは、少しの間視線を落とし、そしてゆっくりと、俺を見つめるように顔を上げた。

「良かった」

「…………」

 ああ、そうだよな。

 お前なら、そう言うよな。

「私の失態さえ、お姉さまの想定内だったのなら。私は安心して、治療に専念することができます」

 穏やかに、安らかに、柔らかく。親の庇護を得た子どものように。ひのえは言う。

「私がそう言うと、貴方は不満を覚えますか? チリさん」

「……別に」

 見透かされたように言われたのが少し癪だったが、見逃すことにした。

 俺が何を思おうと、ひのえを否定することはできない。何故ならそれが、ひのえの決めたことだから。痛かっただろう、悔しかっただろう、そして今も、これからも苦しいのだろう。でも、それでも、ひのえはミキを恨んだりはしない。もしもミキが別の選択をしていれば、ひのえがこんな目に遭うことはなかったかも知れないとしても。ひのえは受け入れるのだろう。他ならぬ『お姉さま』の決めたことであるのなら――

「ありがとうございます、チリさん」

「は?」

 すぐには、ひのえの言っている意味が分からなかった。

 ミキのことばかりが頭にあって、ひのえの内情なんて考えもしていなかったからだ。

「大五郎さんからおおよそ伺っています。電話で、お姉さまに怒鳴りつけたそうですね」

「……お前なら、そこは怒るとこだろ」

「ええ勿論、よりにもよってお姉さまに、反抗するに飽き足らず怒声を張り上げるなど万死に値します。それについては、バイカル湖よりもコルカ渓谷よりもマリアナ海峡よりも、深く深く反省していただきたいと思っています」

「もうそれほとんど死ねって言ってるよな」

「ですが」

 ひのえは、感情の薄い顔で、それでも真っ直ぐに俺を見た。

「私の身を案じて下さったこと、感謝しています。そして、私が至らないばかりに、貴方を不安にさせてしまって、申し訳ありませんでした」

「それは――」

 勘違いだ。確かに、ひのえを庇うようなことは言ったかも知れないが、その実、俺は俺のために怒ったに過ぎない。人から褒められるような、礼を言われたり謝られたりするような、利他的な言動だったわけじゃない。

 ああ、さっきから妙に、ひのえの言葉にいつもの棘を感じないと思ったら、そういうことか。大方、大五郎さんが何か大袈裟に伝えたのだろう。むず痒い、気味の悪いことこの上ない。

「このような事態を招いておいて、それも心配してくださった貴方相手に、頭一つ下げられないような恥知らずな人間に、私はなりたくないのです。だから」

 もう一度、ありがとうございますと言って、ひのえは頭を下げた。さらりと白髪が流れて、ひのえの表情を覆い隠す。

「やめてくれ。俺は、何もしていない。何もできてない。お前を助けたのは大五郎さんだし、カミヤのことも、……あいつを前にしても、俺には止められなかった」

 俺には、何もできない。消えていくものを守ることも、無くしたものを取り戻すこともできない。せめて、大五郎さんと桜さんを助けて――でも、それはカミヤの次の殺人を許すことになるだけだ。それじゃあ、何も意味がない。

 俺には、この状況を解決するだけの力が、ない。

「神谷さんに、会ったのですね?」

 顔を上げたひのえの言葉に、俺は僅かな逡巡の後に頷いた。

「彼は、なんと?」

「……昼神姉妹を、殺すって」

 大五郎さんたちのことについては、言うべきか少し迷って、しかし俺が持て余している状況を考えて、結局話すことにした。今更隠したところで、いいことなんか何もないはずだから。

 それを聞いて、ひのえは小さく溜息を吐いてから、そうですか、と呟いた。

「昼神の故郷ならば、私が知っています」

「えっ」

 一瞬、そんなはずはないと否定したくなった。それは大五郎さんかミキから聞かなければならないことだと。

 でもよく考えてみれば、ひのえなら知っていてもおかしくはなかった。昼神姉妹の素性については、ひのえは俺なんかよりずっと詳しいはずなのだから。

 今までそこに思い至らなかった原因は、大五郎さんかミキに聞けと、カミヤが限定したせいか。カミヤにとって、ひのえはもう死んだ人間だ。他ならぬ俺自身がそう仕向けた。だから除外されて当然で、無意識に俺がそれに引き摺られていたのか。

 だが、それなら助かった。ミキは連絡つかないし、大五郎さんもダウンして手詰まりだったんだ。これで少なくとも、最悪の事態だけは、避けることができる――

「でももう、それを彼に伝える必要はありません」

 予想外の言葉に驚いて、思考が止まって。

 視界が歪んで、断続的に目の前が点滅して。

 感じ得る全てのものが停止しながら。

「神谷 満は、間もなく死亡します」

 一気に感情が溢れ出した。頭の中で電波が混線して、ノイズに溺れて、言葉にならない声が口から漏れ出た。

「な、あ……」

「だからチリさん、貴方が」

「いや、待……」

「貴方がこれ以上、思い悩む必要はないのです」

「だから、お前、何……」

「この事件は」

 ひのえは、重苦しい言葉を吐き出すように、緩慢に口を開く。

「ドッペルゲンガーの引き起こしたこの事件は、もう、終わっているのです」

 多分それは、俺がノアールに言った諦観とは違って。

 本当に『終わった』という意味なのだと。直感せざるを得なかった。

 カミヤが、死ぬ?

 なんで?

 あいつは、死なないって、言ってたのに。

 一体何が、どうして、どうやって?

 どうして――いや、それは。

 罰だから? 人を騙し、人を殺し、傷付けたから?

 確かに、そうだ。それは、そうだけど。

 そうだけど――

「どうやって、死ぬ? 誰かが、殺すのか? 俺たち以外に、あいつを追ってる奴がいるのか?」

 ようやく言葉が出てくるようになって、それでも途切れ途切れになるのを、なんとか繋いでいった。

「まさか、ミキが――」

「いいえ。お姉さまは今、夏臥美町を出られません。神谷さんが死ぬのは、……神谷さんを殺すのは」

 唯一思い至った答えをすぐさま否定し、そしてひのえは、冗談など決して言わないだろう彼女は、続ける。

「神谷 満を殺すのは、私です」

「――――」

 首の辺りから血の気が引いていくのが、いやに頭に響いてきた。その音さえ、潮騒のように耳に届くかのようだった。

 寒いのは、空調が効きすぎているせいではない。身体の芯が、震える。頬の、全身の傷が、抉られるように痛む。

「いや、それは。可笑しいだろ。だってお前、その怪我で? 界装具だって、使えないんだろ?」

「界装具の在り方は千差万別。能力者の状態を無視して発動するものもあれば、異常事態にこそ真価を発揮するものもあるのです。界装具に、人が理解しやすい法則などというものはない。常識に囚われてはいけません。そんなことは『あり得ない』、幾ら何でもそれは『できないはずだ』。そういった思い込みは、いずれ死を招くことになります」

 これは例外だと。

 いや、そもそも例外なんていう概念そのものが存在しないのだと。

 界装具なんてモノがそういうイカれた代物だというのは、分からないでもない。

 だけど。

「俺が聞きたいのは、そういうことじゃない」

「分かっています。分かりますが、それでも」

 ひのえは一瞬言葉を飲み込むようにして、ゆるゆるとかぶりを振った。

「神谷 満は、確実に死ぬ。私の力によって。……私が言えるのは、そこまでです。それでは貴方が納得できないと分かっていても。それ以上は、言えません」

 自分の能力は教えない。他ならぬ、自分自身のために。ひのえは以前、カミヤにも同じことを言っていた。でもあのときの、冷たく突き放すように言ったひのえとは違った。ほんの僅かな差異で、ともすれば見間違いかも知れないが。そう、表情が、違った。まるで何かを、必死で抑え込むように。

「貴方は、神谷さんに死んで欲しくないのですね」

「え?」

 聞き返した俺に対して、ひのえは戸惑ったように身動ぎした。

 それは、何かを哀れむような表情で。

「私の能力を知って。私が、どうやって神谷さんを殺すのかを知って。それで、私を止める方法を見つけようと、そうしたのではないのですか?」

「――――」

 俺は、カミヤに、死んで欲しくない。

 その気持ちが、信じられないくらいすっと、心に落ちていった。これまでずっと、霧が掛かったように見えなかった視界に、少しだけ隙間ができたように。

 死んで欲しくない。

 例えどれだけ罪を重ねようと。

 例えあのカミヤが、もう戻ってこない者だとしても。

 死んで欲しいなんて、思わない。

 生きていて欲しい。

 生きていてくれと、願い続けた。

 ――そして、それだけじゃない。

 ひのえに、カミヤを、殺させたくない。

 それも、間違いなく、俺の本心だ。

 カミヤにも。ひのえにも。人殺しなんてこと、して欲しくないんだ。

 だって。

 だって、それが俺の――

「ああ――」

 夢を見た。

 子どもの頃からずっと見続けてきた夢を、これまでにないほど間近に感じた。

 それは所詮夢だから、いつかは覚めてしまう定めかも知れないけれど。

 抱いていたその記憶さえ、いずれは潰えてしまうのかも知れないけれど。

 夢を、見た。

 暖かくて優しくて、幸福だった。

 その気持ちは、ここにある。今もここに、この胸にある。

 無くしてなんかいないし、奪われてだっていない。

 夢なんて、覚めてしまえば無価値だと。現実の前では、触れられもしない蜃気楼に過ぎないと。ずっと思い続けてきた。

 でもそんなのは嘘だ。

 無くしたものは戻らない。そうやって諦めてしまえば、もうこれ以上苦しむ必要なんかないと、自分から目を塞いでいた。

 そうだ。

 死んだ人間は何もできない。それだけは真実で、だからこそこの夢を大事にできた。

 想い続け、そして真実、あと一歩で掴むところまで辿り着けたんだ。

 今回は、駄目だったかも知れない。掴むことはできなかったから。無駄だったと、無意味だったと、そう言われるかも知れないけれど、でも、今の俺になら否定できる。

 それは、あったんだ。

 どれだけ記憶が摩耗しても、俺はもう決して忘れない。

 それは確かに、ここにあったということを。

 この気持ちさえ、抱くことができたなら。それだけで、充分だったんだ。

 その夢が、偽りで、作り物じみていて、欺瞞に過ぎなかったとしても。

 何度叩きのめされて、己を傷付ける結果に終わろうとも。

 この気持ちさえあれば、俺はまた、もう一度望むことができる。

 俺が産まれて、今もこうして、ここで生きていられるように。

 ああ、……ああ、『母さん』。

 やっと、目が開いた気がしたよ。

「『導火線に炎が灯った』」

「!」

「あとは時間の問題、か」

 俺の言葉を聞いたひのえの表情が、僅かに、ではなく、明らかに変わった。それはつまり、ひのえも俺の言わんとしたことを察したということに他ならない。

 ひのえは数秒、思案するように、その柔らかそうな唇に手を添えていると、探るような視線を俺に向けてきた。

「私の能力の全貌を知る者は、私自身を含めてさえ、片手で数え足りる程度にしかいません。当然、貴方も何も知らない」

「そうだな」

「その上で、私の能力をそのように形容する人物を、私はたった一人しか知りません」

「だろうな」

 隠すまでもない。三鬼 弥生しかいないだろう。

 電話でミキがその台詞を口にしたとき、それが何の意味を持つのか、俺にはさっぱり分からなかった。今でさえ半ば当てずっぽうだったが――やはりあれは、ひのえの界装具の何かを指し示す言葉だったんだ。

「お姉さまは、なんと?」

「お前に聞いてみろとさ」

「それだけですか?」

「それだけだ」

 そう、それだけだった。恐らくは、ひのえの能力をも知り尽くしているのであろうミキが言ったのは、それだけだった。それがどういう意図だったのか、確信を持つことはできない。分かるのはそれが、ミキの言う最善の選択だったというだけ。俺もひのえも、あいつに踊らされている。だからこれは、酷く腹立たしいことだ。それは今に至っても、何も変わることはない。

 でも俺は、これ以上――自分を諦めたくないから。

「話してくれるか、ひのえ」

「是非もありません。それがお姉さまのご意向であるのなら。……いえ、ですが」

 ひのえは一つ深呼吸をした。小さな肩が、ゆっくりと上下する。

 そして改めて、ひのえは俺を正面から見つめた。

「チリさん。これは、私にとって重大なリスクです。この話が貴方から、私の敵対者――例えば美兎と美狐のような者たちに漏れたなら、それが私の命取りとなり得ます」

「分かってる。俺も俺にできる限りのことをする。例え殺されようが達磨にされようが、俺は絶対に――」

「いいえ、そうではなく」

 ひのえは俺から視線を外さないまま緩く首を振って否定した。

「貴方から私の情報が流出することによって、私がどれほどの危機に晒されようと。もしも貴方が敵となり、私に仇なしたとしても」

 それは、いつかの誓いのように。力強く繊細で、たおやかに精悍せいかんな、美しく気高い少女の顔で。

「私は貴方を、決して恨むことはありません」

 三鬼 弥生の意志ではなく。

 三鬼 弥生を言い訳にせず。

 三鬼 ひのえの選んだ道として。

「私は貴方を、心から信頼して。私の秘密を、開示します」

「…………」

 これがミキ相手なら、冗談お疲れはい帰れと一蹴してやるのだが、このくそ真面目で責任感の塊みたいな妹ではそうもいかない。なんでこうも違うんだ。髪の色さえ同じでなければ、絶対血の繋がりを疑っていた。

「そりゃあ、すごく有り難い話なんだが。流石に正直、身に覚えがない。俺は、お前には嫌われてると思ってた」

 露骨に酷い扱いだったし、特にミキ関連では閻魔も泣き出すレベルの形相で睨まれたこともあった。つい先日の話だ。さっき礼を言われた件を合わせて考えても、評価が一転するほどの出来事はなかった筈だ。

「印象が良くなかったのは否定しません。お姉さまと貴重な縁を結び、規格外の厚遇を受けているにも関わらず、それを迷惑がっているような不届き者。私は貴方を、粗暴で無神経で、人との繋がり、絆というものを馬鹿にしている、酷い人だと思いました」

 間違ってはいない。貴重な縁とか厚遇とかは何のことだかさっぱり分からないが、対人関係に熱心でなかったことには自覚がある。好くも嫌うも面倒だと無関心を貫いたところで、人間同士のしがらみから逃れられるわけではないのに。

「ですが貴方は、神谷さんを守って戦った。それは決して容易いことではありません。未知の脅威を前にして、明確な悪意と対峙して、恐れ戦くことなく刃を握ることだって、誰でもできることではありません。それだけでも驚嘆に値するというのに、貴方はそれ以上のことを、当たり前のようにやって見せたのです」

「…………」

 複雑な心境を思ってか、ひのえは俯き気味にそう話した。

「そうすることで、お前がカミヤに殺されかけて、カミヤが昼神姉妹に殺意を抱いたとしても?」

「結果論です。貴方に非はありません。そもそも私に関しては、最初から狙われていたはずですし、それを見抜けなかった私の落ち度です。そんなことより重要なのは、そのような結果を目の当たりにしてなお、貴方が立ち向かうことを選んだという事実です。ならば、私がその手助けを躊躇するのは、あってはならないことです」

 それは、本音だったのだろう。なんとなくそう思った。だからこそさっき、ひのえが『躊躇していた』ことを思うと。表に出さない心の中で、彼女がどれほどの葛藤を抱えていたのか、俺には分からない。

「私は貴方を信じます。そこに見返りなど求めはしませんが、でも。それでも一つ、願うことを許してくださるのなら。全てが終わったそのときに、どうか貴方は、貴方だけは、後悔をしないでいてください」

 胸元に添えられていた白い手が、ぎゅっと強く握られて。

 だから俺は、迷うことなく頷いた。

「私のことを話す前に、まず三鬼家の能力について話さなければなりません」

 言いながら、ひのえは流れるような動作で俺の左隣に移ると、「失礼します」と、ベッドに腰掛けた。ベッドのスプリングが控え目に軋む。……近い。肩が触れ合うほどではないが、体感温度が少し上がったような気がした。

「少々立ち疲れました。怪我の所為でしょうか」

 ひのえは真っ直ぐ、部屋の扉の方を見ながら言った。白い髪の隙間から覗く耳が、少し赤らんでいるように思える。なるほど、確かに不調なのかも知れない。

 まあ、重要な話とは言え、この位置関係で互いの顔を見ながら話すのは首が疲れるだろう。俺もひのえに習い、前を向いたまま話すことにする。

「三鬼家の、っていうのは、どういう話だ? 前にミキが、自分の能力は三鬼家の血が関わっている、みたいなことを言ってたけど、そういうやつか?」

「その通りです。貴方がそうであるように、原則として界装具の能力は、発現するかどうかも含めて、個人の資質や精神、環境に依存するものであり、遺伝によって継承されるものではありません。ですが、機関の中核を成さんとする主要家にとってそれでは足りなかった。私たちが担う役割上、現在ほど人材不足の問題が顕在化する以前から、自勢力に属する能力者の多寡、或いは能力の優劣が、そのまま能力者間での発言力に繋がっていたためです。どの家々も様々な目的の下、確実に、それも強力な能力者を増やしたかった。それ故に、それぞれが秘伝とする独自の方法で、競い合うように能力開発を行ってきました。三鬼家もまた、そうして生まれた異能者の家系であり、その結果創り出されたのが、現在『鬼』と呼ばれる界装具です」

 鬼。ミキの従えるアオがまさにそれか。確かにアレは規格外だ。当初俺は、アオのことを直視することさえできなかった。それ程までに格の差があったということだろう。恐らく、気の遠くなるほど長い年月を掛けて、そこまで力を高め続けてきた訳だ。

「界装具っていう名前からして、武器っぽい形が一般的なイメージがあるんだけど。機関の主要家とやらの界装具は、みんなああいう、化け物みたいな見た目なのか?」

「必ずしもそうとは限りません。私たちの用いるこの能力に『界装具』という名を付けたのは八剣家だと言われていますが、彼らは『刀剣』の界装具を扱います」

 三鬼だから鬼、八剣だから剣か。なるほど安直だ。だとすれば、二木は木、六条は条……条ってなんだ。

「三鬼家の界装具は鬼――と言っても、その姿、能力はやはりばらばらです。実の姉妹である私とお姉さまとで比べても、恐らく、似通っているとは言い難いでしょう。それでも一つ、共通項を挙げるなら。三鬼家の者が従える鬼は、一人につき二体いる・・・・ということです」

「二体?」

 ぎょっとして、思わずひのえの方を見てしまう。そこには、澄ましたような横顔があるだけだった。

「界装具っていうのは、一人に一つじゃないのか」

「繰り返しますが、そういった数式のような法則などは存在しません。他にも、二木の界装具は二体ですし、八剣は一つであるものの、その単一の界装具が有する能力は八つあると言われています。それらにしても絶対不変のルールではなく、時が経てば、或いは突然変異的に、更に増える可能性もあれば、逆に減じる可能性もあり得ます」

「……冗談だろ」

 信じがたい話だ。三鬼家の鬼は二体いる。それはつまり、あの三鬼 弥生もまた、アオ以外にもう一体の鬼を使えるという意味に他ならない。俺はアオ単体で既に気圧されているというのに、単純に言って、あれで半分の力しか見せてないってことじゃないか。開いた口が塞がらないとはこのことだ。三鬼家は――いや、三鬼 弥生とは本当に、どれほどの怪物なんだ。

 気が付くと、冗談ではありませんと、ひのえは律儀に返していたようだった。

「大昔の伝承には、一人で百の界装具を操った英雄の逸話まであるほどです。とは言え、それは流石に眉唾だと私は思います。保持する手札は当然、多ければ多いほど有利ではありますが、反面リスクも高まる。数が多いほど、強大な能力であるほど、使用者の負担は膨れあがっていく。界装具の副作用については、お姉さまが教えてくださいましたね。どれだけ強力な界装具を、如何に副作用を抑えながら、安定して発現させるかという命題に、一定以上の正解を見出した一族――それが、三鬼や八剣を含む、機関の代表として肩を並べた家々、『主要十家』と呼ばれた集団です」

 やたら過去形が多いのが気にはなったが、そんなことより。よく分かったのは、機関のお偉いさんは化け物揃いだということだ。俄然関わり合いになりたくなくなってきた。

「あー、要は、その主要十家に属する三鬼家のお前も、界装具――鬼を、二体持っているってことだよな?」

「はい。そしてそこまでは、機関を知る者ならば誰でも得ることのできる知識です。ここからが、私個人の話であり、私の命です」

 潜められたひのえの声に、若干の緊張が混じった。

 命。そう、これはひのえにとって、心臓を差し出すようなリスキーな行為だ。

 ひのえ、大五郎さん、そしてミキの話を統合すると、機関というものが決して一枚岩でないことは容易に想像できた。恐らく、三鬼である弥生ミキにもひのえにも、俺が思う以上の敵がいる。そしてその筆頭は八剣であり、俺はどうやら、そいつらに目を付けられている。馬鹿な話だと今なら言えるが。将来本当に俺が、ミキやひのえの敵となる可能性だって否定できないんだ。

 それでもひのえは、俺を恨まないと言った。俺の悪意一つで、ひのえを陥れることができてしまうかも知れないのに。信じると、信頼すると言った。楽観を通り越して、思考停止とも取れる。世界平和を謳って、いの一番に軍縮を敢行するような暴挙だ。言ってしまえば、ひのえのそれは明らかな愚行、賢い行いとはほど遠い。

 でも。だとしても、俺は。

 或いはそうして、ひのえを愚か者だとなじる者がいたならば。俺はきっとそいつを、決して許しはしないだろうから。

「その名は『ホオズキ』。手足のなく小型の、球体の一つ目鬼。通常、私が戦闘行動を取る際に使用するのがこの界装具です。美兎と美狐を鎮圧したときも、これを使いました」

「鬼灯?」

 確か、多年生植物の一種だったか。まあ、由来は字面からだろう。鬼に灯火。鬼らしい名だ。

「有する特性は、常温で酸素と化合し、極めて激しく燃焼し高温を放出する体細胞と、超高速再生。見た目の上では炎を操っているようにも見えるでしょうが、実際には自分自身の身体を動かしているに過ぎません。接触して発動する能力や、感染系の能力ならば、身体を炎として直ちに切り離せば無効化することができます。炎の温度は、測ったことはありませんが、恐らく最大四千度は下らないかと」

「人が気絶してる傍で四千度の火遊びしてんじゃねぇよ」

 太陽の黒点並じゃねぇか。やっぱりこいつミキの妹だ。

「直接触れさえしなければ大丈夫ですよ。普段は加減してますし。第一、その程度の温度、能力者ならば数十秒くらい耐えられる者もそう珍しくはありません」

 そいつら人間じゃねぇ。

「で、神谷 満と戦ったときに使ったのも、そのホオズキなのか? 正直、あいつが界装具の使い手で、やっぱり人間離れしてたとしても、それにお前が負けるとは思えないんだけど」

「いいえ。神谷 満とは、戦闘らしい戦闘はありませんでした」

「――ああ、やっぱり」

 不意打ちだったか。刺されたのが背中だというから、そうではないかと思っていた。ドッペルゲンガーが共犯であると分かっていなければ、引っ掛かっても可笑しくはない。想像だが、三人目の被害者もまた、そうやってやられたんじゃないだろうか。

「神谷さんと二人、ドッペルゲンガーの――いえ、本物の神谷 満を探して、路地裏を駆けていたのですが。神谷さんとはぐれていることに気付いて、急いで引き返したのです。そうして、袋小路に横たわっている神谷さんを見付けて、走り寄って。気が付いたら、背後から。……油断でした。敵が近くにいることは分かっていたのに。本当に、言い逃れようのない、私の失態です」

「そんなの。無理ないだろ」

 俯くひのえを、誰が責めることができる。必ず守るとまで誓ったカミヤが倒れていれば、動揺しても仕方がない。それどころか、ひのえは最初に刺されたときも、倒れているカミヤを守ろうとしたのではないか? ひのえなら、背中を一突きされた程度ならまだ動けただろう。それでも、自分が避けれることで敵の標的がカミヤに移り、無防備なカミヤが危険に晒されると思って、咄嗟に庇ったのではないか? だとすればそれこそ、非難しようがない。せめてミキが、真相を伝えていたなら……いや、それはもう、いい。

「私が確認した限り、神谷さんに外傷はなく。そして、眠っていたようでした」

「眠っていた? 狸寝入りとかではなくて?」

「はい、間違いなく。或いはそれが、彼の能力の制約なのかも知れません」

 ひのえは顔を起こし、そのときの光景を思い起こそうとするかのように、目を閉じて言った。

「あのドッペルゲンガーが、どのような原理で存在しているのかは未だ不明ですが。あれは、同系統の能力の中でも相当に精巧なものです。単なる分身能力とは一線を画している。六条が、ドッペルゲンガーを本人と誤認したことが何よりの証拠です。そして強い能力の使用には、それ相応の負担を強いられる。だから何かしら、リスクやデメリットを負っている可能性は高いのです」

 つまり、本体とドッペルゲンガーは、同時には動けない? 片方が活動しているとき、もう片方は眠っていなければならない、と。確かに、椿谷邸に泊まった夜、カミヤは随分早く眠っていた。あれが、本体の行動時間を延ばす為の行動だったと考えることもできる。ひのえの話と合わせても、証拠というにはかなり乏しく、過信はできない。でも、何かしら制約があるという点は着目すべきかも知れない。『もしも』のとき、それが意味を持つ可能性だってあるのだから。

「情けない話ですが。『ホオズキ』で迎撃する余裕は、あのときの私にはありませんでした」

 独り言を言うように、或いはどこか心細そうに、ひのえは呟いた。

「仕方ないだろ、そんなの。できたらできたで恐いわ。ゾンビかよ」

「でも」

 ひのえは、膝の上で握っていた両手を広げ、掌を見つめた。――その姿は、明晰夢を見ようとするカミヤを思い起こさせた。

「『ホオズキ』を使えていたならば。神谷さんを殺すことにはならなかったのに」

 その独白は、ひのえの心中を推し量るのに充分だった、と思う。そう思いたい。

「私が襲われたことによって動き出した鬼――その名は、『モウゾウ』。私の持つ、もう一つの界装具」

「モウゾウ?」

 それは、聞いたことのない名前だった。まあ、マイナーな地域伝承を含めれば、鬼の逸話なんてこの国のどこにでもあるのだろうし、その一種なのかも知れない。

「『モウゾウ』は、『ホオズキ』とは全く性質の異なる界装具です。私の意思に従って現れるということがない。存在を感知することさえできない。そもそも私は、『モウゾウ』がどのような姿をしているのかさえ知らないのです」

「透明な鬼ってことか?」

「そうではないようです。お姉さまが言うには、存在感というものが著しく欠けたモノなのだと」

 存在感がない。いるのに、いない。それは――少し、思い当たるところのある文句だ。だが、今は関係のない話だろう。

 重要なのは。神谷 満を殺すのが、その『モウゾウ』であるらしい、ということだから。

「『モウゾウ』は、自動発動型の界装具です。発動条件は、私が負傷すること。私を傷付けた相手に憑依、追跡し――死に至らしめます」

「――復讐鬼か」

 考えてみれば、鬼と名のつく単語は随分と多いものだ。血を吸う怪物は『吸血鬼』、人殺しは『殺人鬼』だし、鬼ごっこで人間を捕まえる役はそのもの『鬼』だ。総じて鬼とは、人に害を為すモノ、人間の敵として無意識に刷り込まれている。曰く、人の生み出した、恐怖の象徴。復讐鬼というのは、復讐に取り憑かれ、ただそれだけに執着する異常な精神状態を指すものだ。それが具現化し、本物の鬼として生まれたモノが、『モウゾウ』。

「『モウゾウ』に憑依された者は、その段階では無自覚です。ですが時間が経つにつれ、『モウゾウ』は復讐心を募らせる。相手を殺すためだけに、力を溜めるのです。力が増せば、標的は『モウゾウ』の気配を感じ取れるようになる。それでも居場所はまだ分からない。訳も分からず、ただ迫る死の予感だけが精神を追い詰める。そして標的が『モウゾウ』の姿を捉えたそのとき、絶命の一矢は放たれる」

 まるで時限爆弾だ。導火線っていうのはそういうことか。ひのえの二つの能力を両方知っていれば、なるほどミキの言い回しの意味も見えてくる。

 そして、時間が経つほど威力が増す。裏を返せば、それも一種の制約なのか。強い力を発揮するために、時間経過を必要とする。発動条件がひのえにとって危険なものであることも同じだ。『モウゾウ』という鬼が、どれほど強力な界装具なのかが窺える。

「憑依状態を途中で解除することは?」

「できません。『モウゾウ』が相手に憑依する直前ならば、私の意志で抑えることもできましたが、……気絶してしまっては」

「別の誰かが、『モウゾウ』を退けることは?」

「まず発見ができません。『モウゾウ』の気配を察知できるのは、憑依された本人以外では、探知系の能力者くらいなものです」

「お前でも見付けられないのか?」

「はい。私に分かるのは、『モウゾウ』が標的を攻撃した瞬間です」

「気付いたら攻撃するっていうなら、一生気付かなければいいんじゃ?」

「精神統一した高僧でも無理でしょう。そういう能力だというのならともかく」

「じゃあ逆に、力が充分に溜まる前に見付ければ?」

「それも難しいでしょう。やはり居場所の特定自体が難題ですし、何より今回はもう、発動から時間が経ちすぎています。お姉さまの謙遜でなければ、今の『モウゾウ』は……お姉さまですら殺し得る」

「は――」

 ミキですら!? ホントかよ。もしそれが事実なら、いよいよ八方塞がりだ。カミヤより先に『モウゾウ』を見付ける方法さえあれば、俺にも試せる手・・・・はあったが。それ以外はどうにもなりそうにない、というのが正直なところだった。

「今の『モウゾウ』を止めるには、どうしたらいい?」

 最後になるだろう問いを、ひのえに投げ掛けた。

 だけどひのえは、機械が定められた答えを返すように、告げる。

「術者である私が死ぬか、標的である神谷 満が死ぬか。二つに一つです」

 予想できていたその答えに、思わず溜息が漏れた。幾ら考えても結論は同じ、誰にも『モウゾウ』は止められない。カミヤを、助ける手段が思い浮かばない。

「終わっているのです。だから」

 ひのえも、俺が手詰まりであることを悟ったか、手持ち無沙汰に両手を組んだ。

「仮に『モウゾウ』を止められたとして、今度は神谷 満が止まらない。彼は昼神姉妹を、そして他にも多くの人々を殺す。それは貴方にとっても本意ではないのでしょう。このまま待っていれば、今晩中には全て決着します。ですからチリさん、少し休んでください。酷く疲れているように見えますよ」

 疲れている、のか。よく分からない。完全に生活のサイクルが狂っているから道理なんだが。時差ぼけというのは、こんな感じなのだろうか。

「貴方は、充分役目を果たしました。そして充分、傷付きました。だからもういいんです。悔やまなければならないことなんてないんです。後のことは私がやりますから。貴方はもう、休んでください」

「…………」

 色々、あったからな。慣れない土地で、慣れない人間関係の中で、走って、叫んで、一喜一憂して。

 ――本当に、色々なことがあった。苦しいこともあったけど、その見返りに、掛け替えのないものを得たんだ。俺にとっては、それだけで充分で、大きすぎるくらいなんだから。ひのえの言うとおり、そろそろ休んでもいいんじゃないか。俺がここにいた意味はあった。俺が果たすべき役割は、ちゃんと――


『そうして紡がれる君の言葉と行動こそ、彼を救う唯一の手段となる』


 ――いや、違う。

 まだ、終わっていない。

 俺は、何のためにここへ来た?

 ミキは何のために、俺をここへ送った?

 まだ、何かあるはずだ。

 このドッペルゲンガーの事件で、俺が成せる何かが、あるはずだ。

 俺の言葉で。

 俺の行動で。

 俺の願いで。

 俺の力で。

 例え結末を変えることができなくても、何か、……俺にも何か、できることが、残せるものが、ある筈だと――

「私からも一つ、聞いてもいいでしょうか」

 俺の思考を遮るように、ひのえが切り出してきた。

「貴方にとって、神谷さんは……何だったのですか?」

「何だった?」

 曖昧な質問だ。正直答えあぐねて首を傾げる。

 オウム返しされたひのえは、言葉を選ぶようにしばし天井を眺めてから、もう一度問うてくる。

「神谷さんは貴方を先輩と呼んで、とても慕っているようでした。それは恐らく、全てが全て、演技だったというわけではなかったでしょう。彼の境遇を思えば、その心情が全く理解できないということもありません」

「……まあな」

 生きて自分の目的を果たすため、その邪魔者さえも排除する。そう決意した神谷 満にとって、ドッペルゲンガーが無害であることのアピールは必要な行動だった。カミヤには、周囲に溶け込み、それなりの友好関係を築く理由があった。

 でも、それだけではなかったと、思う。

 そういう打算とは違うものに、カミヤは従っていたような気がする。

 そう、カミヤはきっと。夢の続きが、見たかったんだ。

「ならば、チリさんにとって神谷さんは、良き後輩だったのでしょうか。良き友人だったのでしょうか。それとも、本当の弟のように?」

「…………」

 ひのえの言ったこと一つ一つをカミヤに当て嵌めて考えてから、結局、首を振った。そして、何かを言い掛けたひのえを制して、俺は口を開く。

「多分、そういう、具体的なものじゃないんだと思う。俺には、良き後輩も、良き友人も、弟も、よく分からない」

 少なくとも。カミヤが追い求めていたであろう『先輩』と対になるような価値観を、同じように思い描いていた訳ではなかった。確固たる認識がない。それ故に、軽いと、浅いと。そんな評価を下す誰かがいたとしても、仕方がないのかも知れない。

 でも、それでも――

「それでも、重かった。大事だった。大切だと、守りたいと、思ったんだ」

 どうでも良かったわけじゃない。無関心ではいられなかった。その気持ちを、具体的なイメージと共に抱けなかったから、少しだけ気付くのが遅くなっただけ。

 憧れることに慣れて過ぎて、それがどういうものなのかを忘れてしまっていた。いや、そもそも知らなかったんだ。遠くから眺めているのと、本当に手にしようとするのとでは、意味合いは大きく違う。目の前に現れて初めて、それが俺の欲しかったものだったんだと理解できた。

 だから、無くしたくないと、強く思えたんだ。

「それは、今も変わりありませんか?」

「ああ」

「お互い分かり合えるほどの時間を、共に過ごしていなくても?」

「時間は、必要不可欠なものじゃない」

 その疑問は、カミヤも口にしていたか。

 大五郎さんの言葉が、今ならちゃんと実感できる。時間ではない。人と人との繋がりは、時間を掛けて積み重ねていくものだとは限らない。ほんの短い関わりが、人生を大きく変えることだって、決して有り得ない話ではないのだ。

「ひのえ。俺は」

「はい」

「カミヤを、救いたい。いや、本当はお前にだって、カミヤを殺して欲しくなんてない」

「……それは」

 分かってる。これは我が儘だ。今までずっと諦めてきた自分、そのものだ。何かを願うということは、他の何かを踏みにじるということだと。そう考えて願いを伏せて、結局自分を踏みにじってきた。そういうことは、もうやめにしたいんだ。せめて、自分の心からの願いくらい、我が儘を通したいんだ。

 例えそれで、誰かと対立することになったとしても。

 俺はそれを、もう恐れはしないし、逃げたりもしない。

「チリさん、まさか。私より先に、神谷 満を殺すつもりなのですか」

「そうなるかも知れない」

「いけません」

 そうぴしゃりと言い放つと、ひのえは腰を捻って、上半身ごとこちらへ向いた。

 吊られて、俺も顔を向ける。ひのえは、怒気こそないものの真剣な眼差しで、有無を言わせずに否定を示す。

「機関に属する人間にとって、相手が何者であれ、能力者殺しは大罪です。厳罰は避けられない。貴方だって例外ではありません」

「大罪?」

「知らずとも、貴方なら分かるはずでしょう。青柳 晃一郎と戦った貴方なら」

 それは、界装具を持った擬獣のことを言いたいのか。青柳 晃一郎――十を超える人間の首を刎ねた殺人者の成れの果て。自身が死んだことすら忘却し、人を殺し続けようとした亡霊。擬獣となってから被害者が出なかったのは奇跡だと、ミキが言っていた、あの。

 擬獣とは、元を正せば死者の思念であり、そして無念だ。生きることの妄執と化した神谷 満ならば、己が死を認めず、擬獣として永遠に現世を彷徨い、青柳と同じように殺人を続けても不思議ではない。それが分かっていながら能力者を殺すという行為が、機関という組織の中で禁則事項として明文化されていたとしても、なるほど可笑しな話ではない。

 確かに、あんなモノを生み出す可能性があるとしたら、それは俺にとっても何より我慢ならない問題だ。ああ、そうだな、考えたくもない。カミヤが、擬獣なんてモノに成り果てる未来なんて。

「だけど、それはお前が――『モウゾウ』が殺しても同じことだろう。神谷 満は擬獣になるかも知れないし、お前が罰を受ける」

「覚悟の上です、私の弱さが招いた結果、罰は甘んじて受け入れます。神谷 満が擬獣となるなら、いつか必ず私が――」

 そこまで歯切れ良く覚悟を語っていたひのえが、急に押し黙った。何かが耐えきれずひしゃげたように。敢えて見ないように装って、気丈に振る舞っていたことを思い出したように。苦しげに、悔しげに、視線を落とした。

「そのときが来たなら、俺も手伝うさ」

 当然だろう、と迷いなく答えた。ひのえにできないなら、俺がやればいいだけだ。相手がカミヤで、ひのえの頼みだっていうなら、ミキに脅されなくたって、どこへだって行ってやる。

 ひのえが勢い良く顔を上げて、再び視線が合う。大きな瞳を潤ませて、淡く唇を震わせて。どんどん頬が紅潮していくのが分かった。必死で涙を堪えて、でも堪えていることさえ恥であると、拭う素振りも見せずに顔を強ばらせている。

 それは、初めて見ることのできた、ひのえの年相応な姿で。こんなにぼろぼろになってようやく顔を出した、素のひのえを垣間見たような気がして。

 ――なんというか。少しだけ、驚いた。あれ、ひのえって、こんなに可愛かったのか。

「なんて顔だよ、お前」

「殴りますよ、また」

「少しは加減してくれよ」

 何故だか恨めしげに睨まれてるけれど、全然恐くない。――怖がる必要なんて、ない。俺が望んでいたのは、そういう関係ではなかったのだから。

「試したいことがあるんだよ」

 そう言って立ち上がる俺を、ひのえは視線だけで追い掛けていた。少しだけ、訝しげな色も浮かんでいるようだった。

「俺なら、カミヤを。擬獣にしなくても済むかも知れない」

 ずっと座ったまま動かずにいたから、喋りながらよろめいてしまったが。何とか歩き出す。氷のうは、もういい。

「貴方の能力は、擬獣専門だと、お姉さまが」

「機関に報告をした? ミキが? 八剣に?」

 まあ、ミキの性格なら、敵の欲しがる情報を無加工で垂れ流すような真似はしないだろう。とは言え、それならそれで全部隠して、青柳の件も自分の手柄にしてしまえば良かったのに。わざわざ俺の存在を明かしたのは、どうせいつもの遊びだろう。周りの人間の、特に俺の反応や降りかかる不幸を見て、面白がっているのだ。ノアールがいい例だったな、くそが。

 ドアノブに手を掛けてから、振り返る。ひのえはベッドに座ったまま身を乗り出して、不安そうにこちらを伺っていた。

「俺にも確信はない。だから『かも知れない』なんだけど」

 擬獣ではない、生きた人間の名を、狩る。

 試す価値はないと、思っていた。

 それは今まで、一度も実証してはいない。自分に何ができるのか、どこまでのことができるのか。そんなこと、ずっと興味を持てずにいた。界装具? 特別な力? だからどうした。馬鹿げている、どうでもいいことだろう。そう思って、試してみようとさえしなかった。好奇心が勝っても精々、軽く殴った塀が崩れ落ちるのを見て後悔したぐらいだったか。

 今は違う。

 全く違う。

 俺は決めたんだ。死力を尽くして、俺が見た夢を守り抜くと。

 もしも、ミキの言う浄化というものが、擬獣の思念を消し去る力なのだとしたら。

 それが、神谷 満の無念を晴らせる力だとしたら。

 ――希望的観測だ、笑ってしまうほどに。そんな上手い話、あり得ない。できるはずがない。

 でも。界装具が、持ち主の願いを叶えるものだというのなら。

 界装具に常識なんてない、『あり得ない』も『できないはず』もないというのなら。

 なあ。それくらい、やってみせろよ。

「試す価値はある。今は、そう思ってる」

 気持ちは充分上向いた。結論が反転したのがいい証拠だ。暗い部屋で塞ぎ込むのもそろそろ終わりだ。

「やらずに終わったら。きっと俺は後悔するよ、ひのえ」

 だから、ここはまあ、年長者として。反抗期真っ盛りの自称後輩と、一つ喧嘩をしてくるとしよう。

「分かりました。どうか無理だけはしないで」

 平静を装って、ひのえが言う。小さな両手が、ベッドのシーツを握り締めている。

「ああ。駄目そうだったらすぐ逃げるよ」

「居場所は分かっているのですか?」

「昨日会ったときと同じ場所だから、多分な。今日の二十四時までは、あいつはあそこで待ってる筈だよ」

「……あの。言いにくいのですが」

 何を言われようと、俺の意志は揺るがない。その自信を持って、これが最後だとひのえを見、言葉を待つ。

「今日の二十四時ということは、あと五分です」

「…………」

「あと、五分しかないです」

「…………」

 とりあえず。そんな絶妙な時間設定をしやがったカミヤに文句を垂れながら。

 俺は、寝坊した平日の朝さながらに大急ぎで、あの場所に向かうことになった。