Doppel Ganger 後編 -2-


 ――現在時刻、二十五時十分。指定された時間のおよそ十五分前。

 うんざりする話ではあるが、時間には間に合った。ここは木檜団地端の公園。初めて来たが、入り口の看板を見たから間違いない。

 広さはテニスコート一個半といった程度だろうか。公園とは言うが、遊具はそれほど多くなかった。滑り台もない、ジャングルジムもない、ブランコもない。あるのは砂場と、ベンチと、よく分からないカバの置物(おまるみたいだ)があるだけだった。昨今、子どもの安全のためとかいって少しでも危ない遊具は消えつつある、なんて話を聞いたことがあったが、これもその余波だろうか。安全性を度外視しろとは言わないが、こうまで徹底していると流石に過保護だろうと思わないでもない。仮に怪我したとしても、どうせ使い方が拙かったんだろうし、まずはそこの指導から入るべきだろう。なんて、公園で遊んだことなんてほとんどない俺が言っても大した説得力もないか。

 ――七分経過、残り十分。

 ベンチの上の砂を払って腰掛ける。今日も充分すぎるぐらいの夏日だ。夜ともなればよどんだ空気が蔓延して呼吸すら辛い感じがする。せめてもう少し風があれば多少なりましだろうが……いや、生温い風が気持ち悪いだけだろうか。

 空は、快晴。と言っても満天の星空など望むべくもなく、残念なくらいに少ない星と、若干欠けた月が見えるだけ。地上が明るすぎる所為だと言うが、少なくともここら一体はさほど光を放つ場所はない。ごく普通の家庭はこんな時間まで起きていることはないだろうし、周りを見渡しても、マンションやアパートの部屋で電気が付いているのは二割もない。そこでは賑やかな家庭風景が繰り広げられている……ことは、ないだろう。残念だ。

 明るさと言えば、この町で言えば駅回りだろう。あの辺りは基本的に眠らない。明かりも、節電がどうこうとか完全に無視した感じで煌々と付いてるし。

 ――五分経過、残り五分。

 今日対峙する擬獣はどんな形だろうか。下手なホラーより怖かったり、直視できないグロさを誇っていたり、あんまりいい思い出がないので、正直憂鬱である。ミキ曰く、生き物の死後という話であり――それも人間の要素を多分に含んだのが俺の相手する擬獣であるのだが、しかし、普通の人間のようでいて、一部が人ならざる形をしている相手というものは根源的に恐怖を煽るものだ。それは擬獣に限らず、アオ――潰れた両目を持つ、ミキの界装具 も例外ではないのだが。

 ――三分経過。残り二分。

 立ち上がり、界装具を現出させる。大きさに比例せず重さの感じない、手にしっくりと馴染む名無しの黒鎌。名前を狩る漆黒の鈍器。俺の知る限り、ミキができないことで俺ができる唯一のこと――擬獣を浄化させるという役割。界装具――例えばミキの鬼は、擬獣を倒す ・・ ことはできる。だが、ミキはその行為を忌避している節がある。それが、俺がこの役割を、報酬を受け取る『仕事』とすることができる理由だと、どうやらそういうことらしい。その辺、ミキはまったく説明しないので、言葉の端々から推察するしかできないんだけれど。

 ――一分五十秒経過。残り、十秒。

 心音がにわかに高くなる。果たして今回の相手は、突如襲い来るナイスガイだろうか、それともキンキンうるさい地縛霊さんだろうか。それとも予想の斜め上を行く不思議ちゃんだろうか。開けてびっくり玉手箱、というかミミック確定の宝箱。嫌すぎる。今日も幕切れは最悪な形で締めることになりそうだ。

 ――二十五時二十七分ジャスト。

 明滅が反転する。一陣吹き抜けた風と共に、周囲が眩いばかりの光に包まれていく。イルミネーションのように色とりどりの光が、何もない住宅街を彩っていく。

 こんな変化は、初めてだ。これまでの擬獣は、どこか陰鬱な気配を纏うモノばかりだった。こんなにも燦然とした場所に変容することはなかった。この相手が、今までにない類のモノだという直感。知らず鎌を構え、まだ姿を見せない相手を警戒する。

「レディースエーンジェントルメーン! くひひ、ひゃっははははははははー!」

 突然、この光に満ちた公園にあってなお場違いな声が鳴り響いた。声は公園の中央、幾重ものスポットライトが降り注ぐ一点から聞こえたようだった。

「おお神よ! 薄れ行く愛憎と共にいざもたらされん深紅の欠片! 踊り狂え道化の如く、高らかに歌え人魚姫のように! 生きとし生ける者共よ、いまこそこの瞬間に吠え誇ろう! 私はここに、誕生せり!」

 徐々に露わになっていく姿を見る。それは、これまで一度たりとも見たことがない特異なモノだった。

 その姿、まさに道化である。黒く塗りたくられた顔に、真っ赤な丸い鼻が付けられている。服装も被り物も、左右も上下もいびつに歪んだ、しかし幼児をあやすためにあるようなファンシーな意匠を含んでいる。――一言で言うならばピエロだ。よく見ればその化粧は泣き顔を表し、器用にも片足で全身を支え、ふらふらと揺れながらも直立している。

「赫々たる夢の権化、黎明を生きた偉大なる蠱惑に充ち満ちて、汚泥を啜り腐臭をばらまけ。されば諦観することを良しとせん神々の、欲望と諧謔の渦巻く天の海に堕落せんことを!」

 ――なんだ、これは。これが、擬獣なのか? 言葉が交わせないことは不自由だと思うが、かといってここまで流暢に語られるとつい尻込みしてしまう。それにしても、言っていることは滅茶苦茶だ。意味が分からない。双眼は明後日の方向を向き、目の前にいる俺のことなど見えていないかのようだった。が――

「――やあ、お兄ちゃん。今日の観客は君一人かい? 寂しいじゃあないか、うん?」

 突然、ピエロは俺に向き直った。

「あ……」

 あまりの異様さと唐突さに言葉が出てこない。

 チカチカと眩しい光を背景に、真っ黒ピエロは興味深げに、にやついた顔で俺を眺めている。

 気を取り直さなければならない。ここで突っ立っていたって、何も解決しないんだから。

「そんなことは、どうでもいい。俺はお前の名前が知りたいだけだ」

 嘘である。事実はその先にあるということを、俺は当然のように隠して言った。理性ある相手に手順を踏みたがるのは病理かも知れないが、こればかりはどうしようもない。

「んんー、ノンノン」

 ピエロは指を――随分と長い爪を生やした人差し指をちっちと振ると、真っ白い歯を露出してにっと笑って見せた。

「だめだなぁ、お兄ちゃん。人に名を聞くときはまず自分からって言うの、知らないの?」

「知らないな。少なくとも最近の流行じゃない」

「うっそだー、流行とか気にするタイプじゃないでしょーおたく」

 うるせえよ。

「やだっ、そんな目で僕を見ないでっ、恥ずかしいッ、きゃっ」

 両の手で顔を覆うピエロ。その手は皺だらけで――顔と比較して随分と大きかった。何か手袋のようなものをはめているようにも見えた。

「…………」

 仕方がない。名前くらい名乗ってやろう。自己紹介なんて何年ぶりだ……いや、ついこの間したばかりか? 記憶があやふやだ。入学式のことが随分昔に感じられる。主にミキのせいで。

「俺の名前は、チリ――」

 ――い、の形で、口が固まる。

 どうした? 名前が、出てこない。

「――――」

 このときは。

 まだ、少しだけおかしいなと、感じた程度だった。

「地理? いやお兄ちゃん、僕ぁ別に得意科目を聞いたわけじゃ」

「俺もそんなつもりは毛頭ねぇよ。そっちじゃなくて」

「あ、じゃあ国の名前か。世界史かぁ。俺こんな国の名前知ってるんだぜっていう自慢? いや、国名のチリと科目の世界史と地理を合わせた三段活用自己紹介ということか。センスあるなぁお兄ちゃん。あ、今のセンスは扇ぐ方の扇子って意味じゃなくてね」

「…………」

 とりあえず、話していてものすごく疲れる相手だということはよく分かった。一秒たりとも相手していたいと思わない。

「あだ名だ、あだ名。ほら、名前言ったんだからお前も教えろよ」

「ええー、んん、どうしよっかなー。フツーに言ったんじゃつまんないなー」

 この野郎。下手に出ればいい気になりやがって。

「はっはー、じゃこういうのはどうだい」

 ピエロは声を潜ませて、

「好きな女子の名前教えてくれたら教えてやるよ」

「お前どこの中学生だ!」

 刃を首元に掛けてやる。

 だが斬れないことはお見通しなのだろうか、ピエロは全く気にした風ではない。

「ひゃっふふふふーぅ! どうしたどうしたお兄ちゃん、いいじゃないかよー、好きな女子の話で盛り上がろうぜー。さながら修学旅行二日目夜の中学男子のごとくさー」

「わかった、お前少なくとも中年以降だったな!? そういうノリを今感じたぞ!」

「おやおやおやおや。それが分かったなら口を慎んでくれないかなお兄ちゃん。年長者に対するスタンスってものがなっちゃいないぜ」

「黙れ人間未満。そういうことは生きてるうちに言っとくもんだ」

 いい加減、頭の奥がチリチリしてきた。いつかの頭痛がぶり返しそうだ。

「んん、今のチリチリは自分のあだ名と掛けているわけだね?」

「人の心を勝手に読むな! もういい、もういいんだよこのピエロ! さっさと名前を言え! これ以上お前と話してたら頭がどうかしそうなんだよ!」

「頭が同化? いやいやお兄ちゃん、僕と君の頭が同化してしまったら、それはもう合体ロボみたいじゃないか? 売れるのか? 全国のちびっ子に」

「そんな愉快な合体ロボがいてたまるか! 戦えねぇだろうが!」

「僕ロボ太くん。恋に恋する乙女なの」

「まさかの恋愛モノ!?」

 流石にもう意味が分からなくなってきた。こんな馬鹿な会話ミキとすらしたことねぇ。もういいや、浄化がどうとかもうホントどうでもいいだろ。斬れないなら殴り殺してしまおうか。それくらいなら俺にだってやればできるだろう。

「この……!」

 鎌を振り上げる。

 脳天からの一撃を加えてやろうと、全身に力を込める。

 ――と。

上蚊野 かみがの 秋佐屋 あきさや

「なっ……」

「それが僕の名前だよ、お兄ちゃん」

 またしても、唐突に。

 ピエロは、自分の名前を口にした。

「どうした、お兄ちゃん。僕の名前を知りたがっていただろう? それとも、嘘だと思って警戒いるのかい? そんな心配は無用の長物さ。僕は上蚊野で僕は秋佐屋だ。その事実に嘘偽りはない、欠片たりともね」

 ピエロは、愉快そうに口元を歪ませて、言った。

「お前、一体何だ?」

 俺は、恐怖していた。

 得体の知れない怪物を相手にしている気分を、ようやく思い出したと言ったところか。

 場があまりにそぐわなくて、相手があまりに軽薄で、理解が追いついていないだけだった。

 こいつは、怖い。

 こいつは、何かが、恐ろしい。

「僕かい? 僕は見ての通りの素敵なピエロ、曲芸師さ。普段はボールの上で皿を回したり西洋刀を飲み込んだりしている、どこにでもいるごく普通の道化師さ。知名度は、まあそれなりだったけれどね」

 それだけか?

 本当にそれだけのことなのか?

「疑るなぁお兄ちゃん。大したことじゃないだろう。さあ、その大鎌でざくんとやっておくれよ。僕はそのために出張ってきたと言って過言ではないのだから」

 道化師は首を晒した。そこを斬れと、言わんばかりに。

「……『上蚊野 秋佐屋』」

「はい、はい。そう、僕の名前だ。ようやく繋がったね、繋がることができたね、お兄ちゃん」

「これで……さよならだ」

 本当に、これで終わりなのだろうか。

 そう思わずには、いられなかったけれど。

 ようやく、終わりにできる。

 その一念に、本当にほっとしながら、俺は黒の凶器を振り下ろした。

「おや、なんだ。無事じゃないか、チリ君」

「…………」

 ミキの――いつもの黒い部屋の黒いソファで青鬼と共に待っていた、三鬼 弥生の第一声がそれだった。

 無事じゃないかって。

 無事じゃないと思われていたのか。

「五体満足で帰り着くとは、流石チリ君だね。私も鼻が高いよ」

「俺は五体不満足で帰ってくる可能性のある仕事をしていたのか……?」

 危なすぎるだろ。

 いつか気付かないうちに九死に一生を得ているかも知れない。

 嫌すぎる。

「さて、今回は随分と毛色の違う相手だったじゃないか。上蚊野 秋佐屋か。知る人ぞ知るなかなかの有名人とは言え、よく名前を聞き出せたね」

 今こうして聞いてみると、なんだか名字も名前もどっちも名字みたいな変な名前だな。芸名か?

「そうだよ、なんだあのふざけたピエロは。すげぇ怖かったぞ」

「……毛色が違った割に、感想はいつもと大差ないようだね」

 きみ、怖がりすぎ、とミキに指差された。

 こいつ……自分に怖いものが何もないと思って言いたいこと言いやがって。

 いや、しかし。本当に怖いものが何もないのか?

 鬼を従えておいて怖いものなどないだろう、という俺の先入観だったが、しかしコイツもたかが高校二年生、それも女子。何かしら弱点が、突くべき盲点があるのではないか?

「ふむ……」

「うん? どうしたんだいチリ君」

 鬼が出るか蛇が出るか。というからには、蛇は鬼と同じくらい怖いものの筈だろう。

 試してみる価値はあるか。

「ミキ、足元に蛇がいるぞ」

「え?」

 がつん、とミキの足が踏み込まれた。

 ヒールの高いドレスシューズで床を蹴り飛ばした。

 こいつ、いるかどうか確認する前に踏み殺そうとしやがった。

 怖い。怖すぎる。怖がりすぎとかじゃなくて怖いものが回りに有り触れすぎてることが問題なんじゃないか。

「とまあ、蛇なんかどこにもいないことは当然分かっているわけだけれど。弁明を聞こうか? チリ君」

「……いや、まあ」

 正直に言うわけにも当然いかないので、話を戻す方向で考える。

「カミガノアキサヤってなに、有名人なの? 俺、全然知らないんだけど」

「南の方で活躍していたとあるサーカス団でそこそこね。まあ幾ら世間を知らないチリ君とは言え知らなくても無理はなかったろうね」

「世間知らずで悪かったな。しかし擬獣ってのはなんなんだ? 生前ピエロやってたからってああもピエロじみた外見になるものなのか?」

「そこはそれ、当人の思い入れ次第だからね。有りとも言えるし無しとも言える。道化師の仕事が好きだったんじゃないかな、彼」

「夢、だもんなぁ、擬獣の跋扈も連中からしてみれば。仕事の夢見るっていうか、夢でまで仕事してるって、俺ら学生からすれば生き地獄みたいなもんだよな、実際」

 いや、死んでいるから生き地獄というのはおかしいのか。むしろ死んだから地獄へ……? うん、よく分からない。

「夢と言えばチリ君、今朝私はこんな夢を見た」

「突然なんだ突然」

「チリ君が学校の屋上から『俺はスーパーマンだ!』と言いつつ飛び降りたのち、四肢爆散して死ぬ夢だったんだがね」

「なんつー夢見てるんだよ! 夢の中で人を勝手に殺すな!」

 五体満足云々はその夢から来てたのか。

 正夢じゃなくてホントに良かった。

「まあそれは置いておいて」

「置いておくな。まずそんな夢を見てごめんなさいと俺に謝れ」

「君は自覚しなければならない。夢とは欲求の映し鏡。つまり君は、実は空を飛びたいと願っているのだと!」

「仮に俺がそう願っていたとしてもお前の夢に出てまで叶えようとは思わねぇよ」

 あれ、おかしいな。今日は随分と話がそれる。

 話が逸らされている?

「つまりだねチリ君。擬獣が夢見がちなのだとするならば、我々界装具使いもまた同様であると言うことだ」

 疑念を抱きつつ、首を傾げる。どういう意味だ?

「界装具もまた鏡映しなんだよ。界装具の外見、能力、そういったものは全て、使用者の現状や願望、夢や希望や絶望といったものから形作られているんだ」

 更に反対側に首を傾げてみせる。

「いや、そんなことはないんじゃないか? だってそんなこと言ったら俺、意味分かんないだろ。鎌で、名前狩り? 現状でも願望でも夢や希望や絶望でもないだろ」

「深層心理というヤツだよ。夢だって同じだろう? 夢を見て初めて、ああ自分はこんなことを願っているんだなと分かる。君にも何か、心当たりがあるのではないかな?」

「うーん」

 黒。

 鎌。

 名前。

 さっぱりだ。

「それを言ったら、お前こそどうなんだ? アオが界装具で、何か思うところはあるのか?」

「私の場合、私個人というより私の家柄、三鬼の血が由来だからね。あまり君の参考にはならないと思うよ」

「例外中の例外ってわけか」

「例外の方が多い法則というやつだよ」

 どんなふざけた法則だ。ザルにも程があるだろう。

「というかミキ、腹減ったんだけど。夜食は?」

「君ね、確かに私は夜食をご馳走すると言ったけれど、だからって夕食のみならず昼食まで抜いてくるというのは、流石に節制が過ぎるんじゃないかな」

 ミキは哀れみを込めた目でこちらを見てくる。見下しやがって。

「うるさいな。本命の収入が不定期じゃ、金はありすぎても困らないんだよ」

「ふむ。仕方が無いな。ちょっと待っていなさい」

 言ってミキは立ち上がり、向かって右手側の扉へと歩いて行った。かつかつと規則正しく鳴る靴の音が小気味良い。間もなく扉の前に辿り着いたミキは、するりと中へ入っていく。

 残されたのは、俺とアオの二人。二人という表現が正しいのかどうかは分からないが

とにかく今ここに影は二つ分しかない。

 アオ。ミキの従える青い鬼。いつ見ても潰れた両目がグロテスク。筋肉隆々の大木みたいな手足からは岩をも貫くほどの拳術が繰り出され、その一蹴は竜巻を起こす。そして何より目を引くのが、額に伸びた二本の角。天へと突き出された両角は鋭く、頭突きだけで人が殺せそうなほどである。

 ミキの界装具――異能者へと与えられた、尋常ならざる力。その姿を、俺はついこの間まで直視することすらできなかった。鬼とは恐怖の象徴。常人では視界に入るだけで硬直してしまうのだろう恐ろしい怪物。それをどうして、今になってこうして観察できるまでになったのかは……その理由は、目下にして不明である。

「おい、アオ」

 沈黙に耐えきれなくなった訳ではない。そもそも俺はミキやマツイさんなんかと違い沈黙を苦に思わない性質 タチ だ。だからそれは、ほんの気まぐれ。発声器官は見る限り付いているのだから――といってもその口は常に真一文字に閉じられ、開いたところを一度として見たことはなかったが――声が出るのなら、言葉を解すのなら、何を口にするのか。そんなありきたりな疑問、好奇心故だった。

 だが、ほとんど予想通りではあったけれど、アオが口を開くことはなかった。岩のように佇んだまま、微動だにせず仁王立ちを続けている。

 ミキはアオと頻繁に意思疎通を繰り返している節があるけれど、俺なんかは一生掛かってもそんなことはできないだろうと予想できる。別に、それをどうと思うこともない。ああ、そういう現象なのね、という感想を抱くだけだ。アオと――いいや、誰かと仲良くなりたいなんて思ったことは、ここ最近は全くと言っていいほどになかった。

「おまたせ、チリ君」

 そこで、ミキが戻ってくる。立ち去ったときと同じように靴音を立てながら、つかつかと近寄ってくる。

 それを半歩下がって迎え撃つ。自然と縮まる距離にどぎまぎする。

 これ以上無いくらい整った顔立ち、それを撫でるように下りる最高級の絹のように美しい白髪。女性的な凹凸に満ちた肢体と、それを強調して映えさせるようなシックな黒のドレス。美人という言葉さえ安っぽく感じてしまうほどの、徹頭徹尾完成されたシルエット。

 夢を見ているというのなら、今こそが夢のようだ。夢と現の境界が曖昧になる。どうして俺はミキと、こんな関係を続けていられるのだろう。いや、決して良好な関係ではないけれど、しかしそれにしたって、俺の人生の中で言えば数えるくらいしかない、太く存在感のある間柄だ。決して良好ではない――とは言っても、悪くはないとは、思う。それは、思うところは幾らだってある。不満なんて数え切れないほどだ。

 でも、それでも。

 いなくなって欲しい、とは……今のところ、思わないな。

「で、何これ」

 はい、と手渡されたのは、半透明のビニール袋にぎゅうぎゅう詰めにされた、掌サイズのパンの山だった。

「見ての通り、あんパンだよ。夜食にはあんパンと聞いたから、ちょっと気合いを入れて沢山作ってしまった。味は保証するから、形が不揃いなのは見逃して欲しい。なにせ初めて作ったものだからね、失敗作も幾つかある」

「げえ、手作りかよこれ」

「げえって、大概失礼だねキミ」

 あんこがたっぷり詰まっているのか、袋はずっしりと重い。触れてみると、作りたてなのかまだ温かい。

「まあ、折角だ、頂くよ」

 よっ、とその場に腰掛ける。それを、ミキはちょっと驚いた顔で見た。だから白々しいって。

「あれ、ここで食べてく? 持ち運べるように袋に入れたんだけれど」

「あんまり食うの遅くなると眠れなくなるしな。第一こんな量、一人じゃ食べきれねぇよ」

 立っているミキに、袋から出したあんパンを一つ差し出す。

 ミキは少し躊躇ってから、ゆっくりとパンを受け取った。そして少し離れた俺の正面に回ってから、品良く脚を折り畳んで、俺と同じく床に座った。

「別に、お前はソファで座って食べればいいのに」

「それを言うならチリ君、きみこそ私の隣に座るべきだろう。いつだって私は誘っているというのに」

 当然のように無視して、でこぼこしたあんパンを囓ってみる。パンはふんわりと柔らかい。一口目から溢れるあんこはほどよく甘く、口の中で溶けていくようだった。

「うん、旨い」

「そうかい? それは、うん、良かった」

 ミキは柔らかく微笑んだ。よく見る慈愛に満ちあふれた笑み、ではなく。自分の行いを褒められた少女のような、嬉しそうな笑顔。作り物じみていない、綻んで、はにかんだような笑み。

 あまり見ない顔だ。ちょっと得した気分になって、でもやっぱり思い直して、もう一口、パンを頬張った。

「擬獣の話って、もう終わりなのか?」

「え?」

 沢山あったパンも底が見えてきたころ、俺の方からそう切り出した。

「ほら、いつもなら、擬獣になった人間のことを良く考えろ、みたいなこと言うだろ。今回はその辺、ちょっと薄かった。それどころか、話をそらされてる気さえしたぞ。何か言いにくいことでもあるのか?」

「それは……」

 ミキは言い淀んだ。食べかけのあんパンに視線を落とし、しばし黙り込んでいた。

 そして顔を上げて、不安そうな表情のまま語り出す。

「チリ君、きみは覚えているかい? 今日のことを、私が不吉な予感がすると言ったことを」

「そりゃ覚えてるけど。それが、何か関係あるのか?」

「あの時はまだ曖昧だったが、今となってはその理由がはっきりしている。……見えなかったんだ。あの道化師、上蚊野 秋佐屋の生前の姿が。まるで辿るべき道筋が、根こそぎ抜き去られてしまったかのように」

 見えなかった。それで、いつもの種明かしができなかった訳か。

 今ではお馴染みになった、ミキの種明かし。俺が対応した擬獣がどんな人物で死の直前何があって、この世に未練を残したのか。それを事細かく解説するのがいつものミキの役割だ。

 それにどんな意味があるのか分からない。ミキは、それは給料の一環であると強制しながらも、俺のためにやっているんだと言っていた。

 将来何が自分のためになるかなんて、普通の人間は分からない。どんなプロフェッショナルだって、手探りで前に進んでいくしかないし、それが正しいかそうでないかなんて、後になってみないと分からないものだ。誰だって後悔する。後悔なく生きるなんて、本当はできないんだ。誰もが後悔なく生きたいから、そうあろうと努力しているだけだ。

 だから、手段が分かれば結果も分かる、結果が分かれば原因が分かる、なんていうミキは化け物じみている。その化け物のミキが言うのだから、意味があるのだという言葉に嘘はないだろう。

 そのミキが、分からなかったと言ったのだ。あの擬獣――上蚊野 秋佐屋の過去が、結果が分かったのに原因が分からなかったと、そう言ったのだ。

「見える、っていうのは、具体的にどういう感じなんだ? アオの能力なんだろう?」

「実際には、見えているのはアオで、それを私が教えてもらっているという構図だ。そこに言葉は要らない。――だから少し、私には物足りないのだけれど」

 でも、とミキは強く言った。

「こんなことは、私も初めてなんだ。アオと私の間で認識の齟齬が生じることは稀にあったけれど、アオにもまったく読めないなんてこと、今までになかった」

「…………」

「私は、怖いんだ」

 苦しげに瞳を閉じるミキの行動は、それでもやっぱり白々しさが抜けなかった。

 怖い、怖いだって? そんな感情は似合わない。一体何のトラップだ。鬼も蛇も平然と従えてこその三鬼 弥生じゃあないか。アオの力が及ばないくらい何だ。そんなのミキにとっては、日常生活のスパイス、あんパンに乗ってる桜の塩漬けみたいなものだろう。

 そんなことを言うミキの声が、酷く不安定なものに思えた。でも、それだってミキの思惑通りなはずなんだ。遊びで、同情を誘っている。きっと、そうに違いないのだから。

「怖い、なんて言うなよ。そんなの、全然似合わないから」

「チリ君……」

 思ったままに口にして、立ち上がる。あんパンはあと一つ。最後の一つに手を出すほど神経図太くはない。

「じゃあ、俺は帰るよ。あんパン、ご馳走様」

 そうするとミキは、慌てたように懐から茶封筒を取り出して、渡してきた。

 用件は済んだ。もう夜も大分深い。明日は休みとは言え、さっさと帰ってベッドに入りたい。

 そうして足早に、帰路を急いだから。

 何かをしてやったつもりなんて、欠片もなかったから。

「ありがとう」

 そんなお礼の言葉は、ずっと、聞き違いだと思っていた。