Doppel Ganger 前編 -9-


 赤い炎に包まれた巨大な何かが、天井から手を突っ込んだかのような光景だった。

 突如目の前に現れた炎の柱は膨大な熱気を孕んでいた。大昔には、その神秘性故に炎を神の御技として崇拝した文化があったそうだ。その気持ちが少し分かるくらいに、炎からは畏怖の念を感じさせた。

 自分は、痛む身体に鞭打って、何とか身体を起こす。もしもこの炎が、先ほどの水の巨人のように、双子の仕業であったとすれば、すぐにでも先輩を連れて離れなければならなかったからだ。

 けれど、この炎が現れたのと同時に聞こえた声が――頭の片隅で、逃げる必要はないと認識してもいた。

 前触れなく現出した炎は、唐突にその姿を消した。ほんの僅かな火の粉と、物が焦げる臭いだけ残しながら、忽然と姿を消したのだ。

 天井には、先程まではなかった大きな穴が空いていた。見事に綺麗な円形の穴だ。断面が黒く焼け焦げていて、炎が上階から出現したことを示唆していた。それどころか、炎は二階も三階も貫通して穴を開けており、切り取られたような青い空が見えていた。

 そして。

 若干黒く焦げた床を足場にして、白髪の少女――三鬼ひのえが、自分と先輩を背にして立っていた。

「監視者としての役割を放棄してのこの狼藉。何か申し開きでもあるなら聞くけれど?」

 ひのえは、いつものように、積み重なった作業を片付けていくように、淡々と喋っている。どこまでもいつも通りだ。狼藉だなんて言っているけれど、その実、怒っていたり、悲しんでいたりという感情は見えてこない。

 冷たい少女だ。

 燃えるような、冷たい少女だ。

「――――」

 ふと、ひのえがこちらを見ていることに気がついた。

 顔の片側だけ見せたひのえの顔は、昨日の――自分たちを守ると言った夕日の誓いを思い起こさせた。

 ひのえの視線が切れる。

 そうだ、先程の炎に驚いて飛び退いた双子、倒れた自分と先輩、その間に立つひのえ。それはどう見ても、双子から自分たちを守る為に立ち塞がってくれている構図だ。

 ひのえが、助けに来てくれた……。

 自分たちは、助かったのか……?

「まあ、ごきげんよう、ひのえさん」

「……ごきげんよう、ひのえさん」

「けれどどうやら、何か思い違いをされているみたい」

 双子は――流石に怪我をした美兎の方は少し声色が揺れていたが、努めて平静を保っていた。

 ここまで来て、言い逃れなんかさせるわけにはいかない。自分は、全身に残った力を総動員して口を開く。

「ひのえさん、その人たちは――」

「分かっているわ、神谷さん」

 そんな自分の言葉を、ひのえは振り向きもせず制した。

 ひのえはポケットから真っ白い携帯電話を取り出すと、折り畳まれたそれを勢いよく開いた。

「お姉さまからお言葉を賜ります」

 そう言うと、ひのえは携帯電話に何かの操作をして――間もなく、あの声が聞こえてきた。

『あー、あー。……やあ、私の声は届いているかな?』

 電子音の向こう側にあったのは――間違えるはずがない。弥生の声だった。

 ひのえの携帯電話から、三鬼 弥生の声が聞こえてきた。

「……誰?」

「貴方は、誰?」

 美兎と美狐は警戒心を露わにした表情で、その声に応える。

『ああ、そう言えば君たちとは会ったことがないんだったね。初めまして、昼神姉妹。私は三鬼 弥生という者だ。そこにいるひのえの姉だよ』

 双子は、信じられないことを聞いたとでも言うように驚愕で塗り固められた。その名前が出たことは、ひのえが現れた以上の衝撃だったようだ。

『まずは、そうだね、初対面なのにこんな形で遣り取りを交わすことになった非礼を詫びようかな。本当は面と向かってその場に立ち会いたかったんだが、いや、なかなか思い通りにはいかないものだよね』

 弥生は今、あの笑顔を浮かべているのだろう。電話越しでも、それがはっきりと分かる。

「……それで、何のご用事?」

「どのようなご用向きかしら?」

『ふん。まあ、そう急ぐことじゃないだろう。折角の機会だ、もっと楽しい話をしようじゃないか。例えば――』

 弥生はそこで言葉を切った。まるで、相手の反応を窺って、楽しむかのように。

『兄弟姉妹の話なんてどうかな』

 双子が顔を見合わせ、首を傾げ合う。

 兄弟姉妹の話だって? 弥生は一体、何を言わんとしているんだ? まさかこの場面で、いつか自分が考えた隣の芝云々の話を繰り広げようとしているのか?

『私には、ご存じのように妹が一人と、二人の兄がいる。だが、双子の姉妹というものは持ったことがない。だから分からないんだが。ねえ、美兎、美狐。双子というのはどれほど通じ合った間柄なんだい?』

 どういった仲であるのか。しかしその問いかけがどういう意味を持つのか、自分にも、美兎と美狐にも分かっていないようだった。

「……あたしたちは、二人で一つ」

「あたしたちは、ずっと一緒。これまでも、これからも」

 それは、祈りを捧げるかのように。双子の二人は、神妙な面持ちでそう答えた。

『――うん、なるほど。羨ましくないと言えば嘘になる。まさに一心同体という訳か。ああ、それは君たちの界装具からも分かる。そう、二重催幻――デュアルヒュプノス。美狐が声を聞かせ、美兎が触れる、その両条件を揃えさえすれば、人であれ物であれ催眠を掛けられるというその能力は、機関の――いや、かつての最盛期だった“十字 クロア 機関”から見ても特異な能力だ。応用すれば、双子間の交感 テレパス さえも可能だろう。素晴らしい能力だ。私の手元に置いておきたいくらいに希少な能力だ。――だからこそ惜しい。私は君たちを、許す訳にはいかなくなったのだからね』

 双子が息を飲むのが分かった。能力を知られている――という事実も充分に衝撃ではあっただろう。しかしそれだけではない。弥生の言葉には、言い知れない重みがある。相手を威圧するような何かが、確かに伝わってきていた。

『どうしたんだい? 押し黙ってしまって。君たちは本来、もっとお喋りなはずだろう。ああ、それとも美兎の方は、満君に潰された目が痛んで萎えているのかな? それが、それこそテレパシーで美狐にも伝わっているのかな? 面白い事象だね、実に興味深いよ』

 弥生は心底楽しそうに語尾を弾ませる。その態度にか、双子は揃って、だんだん苛つきを隠せなくなっていた。

「貴方の目的は? 何が言いたいの?」

「貴方は一体、何がしたいの?」

 二人はぎゅっと両手を握り、静かに吠えるような剣幕で言った。

『は、だからそう急くなと言う。どうしたんだい、そんな切羽詰まった声を上げて。ふん、仕方がないな、じゃあこういう話題はどうかな』

 弥生は、またしても言葉を切り、そして含み笑いをしてから、続ける。

『君たちの故郷の話とか』

 双子は、心臓を鷲掴みにされたように苦々しげな表情を浮かべた。

『君たちの故郷では今、行方不明が多発しているそうだね。小さな子どもから若い男女まで――特に関連性の見えない失踪事件が、かれこれ七件、それもこの数ヶ月の間にだ。これは随分と多い。警察が事件性を嗅ぎ付けたのも無理からぬことだったが、しかしつい昨日まで何一つ手掛かりを得ることができないでいた。そう、つい昨日までは』

 今度の話題では、双子の反応が明らかに違う。どこか怯えたような――そう、まるで弱みを突かれたような感じだ。

『それにしても、双子タワーブリッジの破壊か。あれだけのことができるだなんて、いよいよ君たちの能力が欲しくなってくる、が。少々悪戯が過ぎたね。あの事件から、私は君たちが今日その双町で何をしようとしているのか、全て分かってしまったんだよ。誘蛾灯につられた虫のようにチリ君たちがそれを見に行くのも、それで行動を捕捉され襲撃されることも。だから私は確信を持って、三鬼に縁のある刑事さんにお願いをしたよ。昼神家の屋敷に行方不明者が幽閉されているから、それを解放してあげて欲しい、とね』

 ついに、昼神の二人は悲鳴を上げた。

 双子の秘密が完全に看破され、音を立てて崩れ去ったのだ。それを、他ならぬ三鬼 弥生がやってのけたというのだ。この場にいない人間が。美兎と美狐に、会ったこともない人物が。

 いや、待て。弥生は『つい昨日まで』と言ったか? 何を言っているんだ。双子タワーブリッジの崩壊が転機だったとするなら、それは今朝の話じゃないか。時系列が合わない。何かが確実に狂っている。

 つまり、こういうことか? 弥生は、昼神姉妹の双子タワーブリッジ破壊を、計画段階であった昨日の時点で察知していたということなのか? だとしたらそんなもの、未来予知以外の何ものでもないじゃないか。そんなこと、できるわけがない。できていいはずがない。

『言うまでもないと思うけれど、催眠で傀儡と化した使用人や君たちの家族の抵抗に期待するのは無慈悲というものだよ。強硬手段に出た警察の実力を甘く見てはいけない。そろそろ制圧が終わる頃なんじゃないかな。――理想郷 ユートピア はその日、突如として終焉を迎えた。ねえ、なかなか叙事詩的だとは思わないかい?』

 蒼白になった頬をすり寄せるように、双子は寄り添い合いながら震えていた。それは、ついさっきまで楽しげに、自分や先輩を追い詰める『狩る側の人間』だったとは思えないほどの豹変ぶりだった。

『ああ、また静かになってしまったね。可哀想に。悪い悪魔に囁かれたのだろうね。だが、自業自得と思って諦めて欲しい。君たちは、何ら特別なんかじゃない。他者の自由を奪う権利なんか、自分たちにはなかったんだと理解して欲しい』

 その言葉は、子どもに言い聞かせるようで――

 いや、真実、子どもに言い聞かせているのだ。

『もう一度言おう。君たちは特別なんかじゃない。人の子として生まれ、当たり前のように育ち、そして少し変わった力を持ったという、それだけのことだ。そこに正しいも間違いもなければ、善いも悪いもない。あるのは行いが、誰かの何かを奪うものだったという、それだけのことなんだ』

 常識を弁えない無知な子どもに。

 根拠のない全能感に突き動かされた愚かな子どもに。

 言い、聞かせて。

「――――」

 ――あれ。

 それは。

 それは、誰のことだ。

『さて、私の出番はこれでおしまいだ。後の処理は妹に委ねる。さようなら、昼神姉妹。最早会うこともないだろうが、礼節として挨拶くらいはしておこう』

 これで終わりだと告げる弥生に、双子が追いすがる。

「待ちなさい、三鬼 弥生!」

「こんなことをして、ただで済むと――」

「無駄よ、そんなことを言っても」

 ひのえが、携帯電話をくるりと翻して、双子に画面を見せる。

 一瞬だけ、自分にもその画面が見えた。だから、双子と同時に驚愕することができた。

もう ・・ 再生は ・・・ 終わって ・・・・ しまった ・・・・ ・・

 ひのえの携帯電話が表示していたのは、オーディオプレイヤーの再生画面だった。

 さっきまで話をしていたのは、『録音された三鬼 弥生の音声』でしかなかった。

 だから、『話をしていた』という認識そのものが間違っている。既に完結した三鬼 弥生の台詞に、双子が勝手に言葉を添えていただけだった。

 そんな馬鹿なことがあるだろうか。弥生は、自分が美兎の目を潰したことまで言い当てた。そんなことが、一体どうやって、夏臥美町にいる弥生にできるというんだ。

 相手の台詞を予測して? 会ったこともない相手の言葉を予見して? そんなことが、実在する人物に、できるはずがない。だというのに、三鬼 弥生はやってのけた。あれだけ自然な会話を成立させた。実在する人間でありながら、不可能を可能にした。

 それは、奇跡の代行のようでありながら。

 その実、悪魔の所行としか思えなかった。

「貴方たち二人を、拘束します」

 ひのえが言い放つ。

 その直後。ひのえのすぐ隣に炎が灯った。

 ひのえの頭と同じくらいの大きさの、炎に包まれた岩。燃え上がる一本角の丸い物体。それはくるくると回転して――

 目が、合った。

 その火球には目玉があった。まるで、それ自体が眼球であるかのようにも見えた。ぱちくりと瞬きを繰り返すそれはなんとも言えず不気味だった。

 双子が身構える。

 双子のアクセサリが、二人の界装具であったように。

 その目玉が、ひのえの界装具なのだ。

 三鬼の操る、炎を纏いし、異形の鬼。

「簡単に、捕まるわけにはいかないわ」

「そうよ。まだ、終わりなんかではないわ」

 双子は、まだ諦めていない。ひのえを打倒し、この場を逃走するつもりだ。数で言えば二対一、そう分の悪い戦いではないと踏んだか。

「この場に、三鬼 弥生がいなかったことは幸運だったわ」

「そして、貴方たちにとっての不運だったわ。あの怪物ならばいざしらず、その妹なら」

 突破することは可能であると。

 不敵に笑う双子に対し、ひのえは溜息で返した。

「若いというのは、罪なのかしら」

 物憂げに、ぼやくように。

「これは、ストレスだわ」

 その意志を反映させたかのように、炎が一層、強く滾る。

「格下に安く見られるというのは」

 双子の片割れ――目を押さえた美兎が駆ける。そしてあちこちに散らばった、先輩に斬り割かれた破片に次々と触れていく。

「――貴方たちは、磁石。人間に吸い寄せられる磁石! 再び飛び交い、その女を押し潰して!」

 美狐の一声と共に、残骸たちが動き出す。言葉通り自らを、磁力を帯びた石であると思い違えた物たちは、吸い寄せられるようにひのえに殺到した。

 弥生が言っていた通りだ。美兎が触れ、美狐が声を聞かせることで、二人の催眠能力は発動する。二人で一つの特殊能力。それが、双子の『二重催幻』という力か。

「――『ホオズキ』」

 対するひのえの、炎が拡大する。というよりも、燃えさかる岩がその身をスライムの如く引き延ばしたように見えた。岩のような見た目に反して、実際は変形自在の物質なのだろうか。岩は瞬く間に蜘蛛の糸のように格子を組み、文字通りの炎の壁を作り出す。

 飛んできた物は悉く、炎に触れた瞬間に火を伝播させ、灰になっていった。

 焦げ付いた異臭が激しい。比喩ではなく数段上がった室温。その中で、涼しい顔をしたひのえが髪を払う。

「――火炎使い パイロキネシスト

「正解に近い、とだけ言っておこうかしら」

 引き延ばされた岩もろとも灰となり朽ちていく。そして元の球体に戻ると、また目玉がきょろきょろと周囲を見回すように回転し始める。

「三鬼 ひのえ――!」

 美兎は更に、様々な物体に触れ続ける。その間にも、美兎と美狐は徐々にひのえとの距離を詰めていた。

 ――双子は、ひのえに催眠を掛けようとしている。つまり、ひのえに触れようとしているのだ。もしもそうなれば、勝負は決まったも同然だ。自分にならば解ける――なんて希望的観測は抱かない。本気を出した双子の催眠だ。掛かってしまえば、次こそ終わりだと本能が告げている。

「ひのえさん――!」

「いいから。貴方は寝ていなさい」

 いいわけがあるか。自分はなんとか立ち上がろうと足掻いたが、足に力が入らない。情けない話、女の子に素直に任せておくしかできなさそうだった。

 さっきから、自分は守ってもらってばっかりだ。情けないと思うが、今はそんなこともどうでもいい。

 ひのえの敗北。それはどうしたって、自分たちの破滅へと繋がるのだから。

「あっ!」

 幾つもの残骸たちと共に、ついに美兎が、ひのえへと進路を取った。

 注意を呼び掛けるまでもなく、ひのえが回避の体勢を取る。

 ひのえも能力者だ。その瞬発力は少女のそれではない。ひのえが警戒してさえいれば、そう簡単に触れられる心配はないはずだ。

 だが。美兎の予想外の行動に、ひのえは動くことができなかった。

「……!」

 美兎が狙ったのは、ひのえではなく。

 燃える岩――ひのえの界装具である、一つ目の化け物の方!

「――ッ!」

 炎に手を突っ込んだ美兎が、悲鳴を押し殺す。当然だ。触れれば火傷することぐらい、火を見るよりも明らかだった。

 美兎が後退って美狐と並ぶ。すぐに引っ込められた美兎の左手は真っ黒に焦げていた。だが、それでも、美兎は、美狐は、狂気に満ちた笑みを浮かべていた。

「やった、やったわ――!」

「触れた、触れたわ――!」

 その様子を見て、ようやく思い至った。

 美兎が触れ、美狐が声を掛けた対象に、催眠術を掛ける。弥生がさっきしたばかりの種明かしを、もう一度心の中で唱える。

 催眠が物にも有効だというのなら。

 催眠は、界装具にだって有効なはずじゃないか。

「ひのえさんっ!」

 迂闊だった。

 触られてはならないのは、ひのえ本体だけではなかったのだ。

 ひのえが、危ない!

「さあ、炎よ! その女を焼き殺しなさい!」

 ひのえの傍らの炎が、一瞬にして大きく膨張した。

 炎に包まれ、先程燃えていった椅子やテレビのように、ひのえが焼き尽くされる光景が目に浮かんだ。

 必死で手を伸ばす。引き寄せて、いや突き飛ばしてでもいい。ひのえを逃がさなくては――。そんなことをしても無駄かも知れないけれど、何の意味もないかも知れないけれど、それでも何かせずにはいられなかった。

 ひのえを失いたくないと思った。気のせいではなく、確信を持って、そう思った。

 あのとき、自分たちを守ると言ったひのえ。遊んでいたところを見付けて怒ったひのえ。先輩のことが嫌いだと言っていたひのえ。弥生のことを心から心配そうに、窓の外を眺めていたひのえ。その時々に、ひのえが見せてくれていた顔が、幾つも頭をよぎる。

 女の子と、生まれて初めて、あんなにも話をした。言葉を交わすことで、きっと、心を通じ合わることができた。それは継ぎ接ぎだらけで、不器用なやりとりでしかなかったかも知れないけれど。自分にとってそれは、先輩や、大五郎さんとの語らいと同じくらい、大事なものになっていた。

 自分たちの距離は、初めて出会ったときと大して変わっていないかも知れないが。

 それが掛け替えのないものだと、大事にしてはいけないないなんて誰が決めた。

 絶対に、失いたくないと思った。

 やっとの思いで紡ぎ上げた繋がりを、手放したくないと思ったから。

 沢山の妥協を重ねても。沢山の諦めと失望の中にあってもなお。

 彼女となら、きっと、友達になれると、そう思えたから――!

「ひのえ――!」

 大声で、その名前を呼んだ。

 もっと必死になって手を伸ばす。

 でも、だめだ、届かない――

 炎が、渦を巻く。今にもひのえに襲いかかろうとするように、爆発的な勢いでもって炎上する。

 それを、その様子を、ひのえは――

 なんら焦った風でもなく、眺めていた。

「……え?」

 炎は、すぐに元通りの勢いに戻った。

 炎が、ひのえを襲う気配は、ない。

 ぎょろりと、周囲を睥睨する瞳。

 そこに、敵意は見えない。

「どう、して?」

「催眠は、効いたわ。確実に。なのに、どうして?」

 双子は、哀れなほどに狼狽していた。

 手応えがあったのだろう。

 なのに、動かない。

 炎は、あくまでひのえのものだった。

「……本当に、つまらない人たち」

 心底、詰まらないものを見たという風に、ひのえは言った。

「芸がないわ。貴方が触れた『ホオズキ』なんて、とうの ・・・ 昔に ・・ 燃え尽きて ・・・・・ いるのに ・・・・

 芸がない。見飽きている。ひのえは双子の能力を熟知しているが、双子はひのえの能力を詳細に知らないのだ。それは自分も同じだから、よくは分からないが。だから、こうなったということか。

 ひのえの言葉を思い出す。どんな能力にだって弱点はある。弱みを知っていれば、どれほど強い能力にだって対抗策は打てる。ひのえにとって双子の力は、見慣れた曲芸に過ぎないのだ。

 どういう仕組みかは分からないが、ともかく、ひのえの界装具に催眠は無効だ。

 ひのえは、動けなかったのではない。

 動かなかっただけだった。

「そろそろ、終わりにしても?」

 ひのえが、右手をかざす。

 炎が、炎を纏った岩が、膨張していく。

 双子は、いや自分もまた痛感する。

 三鬼 弥生でなければ敵うなんて幻想だ。

 二対一なら勝てるなんて、見当違いも甚だしい。

 三鬼 ひのえ。その実力は、弥生をして特異と言わしめた双子を、完全に凌駕していた。

「いや、いやよ……!」

「うそ、うそよ……!」

 双子が、踵を返して駆けだした。

 それを炎が追い、一瞬にして取り囲んだ。

 最初に見たような巨大な炎の柱が、双子を包む。

 最後に双子の、悲鳴のような叫びが聞こえた。

「怪我はないかしら? 神谷さん」

 ひのえが、全て終わったと言わんばかりの顔で、自分たちの方を見下ろしていた。

「チリさんも、外傷は大したことがないようね。私が来るまで、よく持ち堪えてくれたわ。――お疲れ様」

 そんなひのえの言葉を聞いて、自分は――

 炎の燃える音を聞きながら、意識を失った。

 目が覚めると、自分は今朝目覚めた寝室にいた。

 自分のベッド――患者向けのベッドらしいが――に仰向けになって、天井を見上げていた。

 涼しくて、過ごしやすいくらいだった。空調が効いているのだろう。本当に、一診療所にしては勿体ないくらい、設備が充実している。これだけの場所を手に入れるために、大五郎さんはどれくらい奔走したことだろう。その苦労を思うと、少しだけ――

「目が覚めた?」

 顔を右にずらす。そこには、椅子に座ったひのえがいた。相変わらず感情の見えない、けれどどこかあどけない少女の顔。帽子を取って、真っ白な髪を惜しげもなく晒した、不思議な少女。

「……何度目でしたっけ。こうして、ひのえさんに寝起きを見られるの」

「さあ。何度目だったかしら」

 首を傾げるひのえに、気になっていたことを切り出す。

「あの、先輩は?」

「左隣よ。ご覧なさい」

 言われて、首を反転させてみると、先輩が静かな寝息を立てていた。知らず、顔が綻んだ。「良かった」と、正直な気持ちを口にできた。

「というか、ひのえさん。僕たちをここまで一人で運んできたんですか?」

「ええ。ひょっとして、肩か腰か、どこか痛かったりする? そういうところ、あまり配慮できなかったから」

「い、いえ、大丈夫ですよ……多分」

 一体どういう体勢で運ばれたのだろうか。気になると言えば気になるが、聞かない方がいいような気がしてきた。

「ひのえさん」

「なあに?」

「ありがとございました」

 感謝の言葉を口にする。

 来てくれてありがとうと。

 助けてくれてありがとうと。

 先輩にも言わなければいけないけれど、最後は結局、全部ひのえが持って行ってしまった。自分と先輩のピンチに颯爽と現れたひのえは、掛け値なしに格好良かった。これが、自分と大して年齢の違わない、それも女の子だというから驚きだ。

「ひのえさんは、命の恩人です」

 素直な気持ちを口にする。

「……別に。そういう仕事だから」

 少し、驚く。

 ひのえは、頬をほんのりと朱色に染めて、バツが悪そうに視線を逸らした。それは、差し込む夕日が眩しくて、目を背けたという訳ではなかっただろう。

 きっと、褒められることに慣れていないんだろう。ひのえみたいに、感情を表情に出さず(姉と関わると話は別なのだが)淡々と仕事をこなすタイプの人間は、その苦心や苦労さえも表に出さないから。労ってもらうことも少ないのではないだろうか。どんな仕事も、できて当たり前だと、思われてしまうのではないだろうか。

 それに、まだ子ども、ということもある。きっとひのえの周りにいる大人たちはみんな、大なり小なりひのえを見下して応対するだろう。昼神姉妹を圧倒した、あれだけの力を持っていたとしても、若いというだけで下に見られる。時にあからさまな庇護を受けたり、時に口汚く迫害されることだろう。どんな形であれ、それはひのえにとって、そう、ストレスなのだ。

「ひのえさんは、どうしてこんな仕事をしているんですか?」

「え?」

 それは、ひのえにとって意表を突く質問だったのかも知れない。

 ふっと真顔に戻ったひのえの、その真っ直ぐな視線を、自分は受け止めた。

「お家が、そういう家柄だからですか? お姉さんと同じ仕事を、したかったからですか?」

「…………」

 ひのえは、自分の真意を確かめるように、じっと自分の瞳の中を覗き込んでいた。

「どちらも、そうね。そのどちらでもあったわ」

 でも、とひのえは続けた。

「本当はね、家族には反対されていたの。私は、今はそれほどでもないけれど、昔は身体が弱くて。機関の仕事をこなすのは無理だと言われていたの」

 独白のように、ひのえは語り始めた。

 恐らくは、生まれて初めて、自分以外の誰かに、告白するように。

「でも、私、そんな自分が嫌だった。自分だって役に立てるはずだって、自分にだって、自分にしかできない何かがきっとあるって、信じてた。自分を、証明したかった」

「……自分を、証明?」

「神谷さん、貴方は」

 そこで言葉を切って、ひのえは自分のことを見つめ続けた。

「……自分がここにいていいのかって、疑問に思ったことはある?」

 何か、酷く心を傷付けられたように、眉をひそめて。ひのえは続けた。

「自分なんか、生まれてきたのが間違いだったんじゃないかって、思ったことは?」

「……それは」

 視線を落とす。それは、いつだって感じてきたものだったから。自分がここにいていいという承認。それが薄くて、不確かで、泣きたくなる気持ち。それは、誰よりも知っているつもりだから。

 顎を引いて、頷いた。するとひのえは「そう……」と、目を閉じて応えた。

「私もね、そうだったの。ずっと疎まれて生きてきた。本当は生まれてきてはいけない人間だった。私は、四人目の子どもだったから」

「四人目?」

 意図の見えない言葉に、疑問符を浮かべる。ひのえは「ええ」と頷いて、続きを話す。

「三鬼の家はね、昔々は、三人目の子どもを当主に選ぶ習わしがあったの。科学的な根拠も何もない、詰まらない験担ぎだけれどね。でもずっと、長い間、その三人目が産まれなくて。私の父や祖父、曾祖父もみな、一番目の生まれだった。――お姉さまがお生まれになるまでは」

 ずっと生まれなかった三人目、それが三鬼 弥生。それは、どれほど切望された存在だったことだろう。この話を聞いただけの自分でさえ、それが窺えるようだった。渦中にいた本人に集められた期待は、相当なものだっただろう。――反動に、その下に生まれたひのえは、まるで要らないもののように扱われたのだろう。

「私は、両親が愛し合って生まれたと、そう聞かされたわ。でも、周囲に反対意見があったのは確かなの。そんな中生まれた私は、周りの人間にとっては、いてもいなくてもいい存在だった」

 姉との対比。第三子と第四子との決定的な差。それをひのえは、まざまざと見せつけられてきたのだ。それは、ストレスなんて言葉で表すことができないほどの苦悩だっただろう。

「勘違いしないで欲しいのだけれど。お姉さまは、そんな私にも優しく接してくださったわ。色んな、大切な事を教えていただいたし、時には家族を相手取って私を庇ってくださったこともあった。私が機関の仕事をするのだって、一番に推してくださったのはお姉さまだった。今、『私はここにいていいんだ』と思えるのは、お姉さまがいたから。――それ以前に。三人目の子どもがずっと生まれなかった三鬼家そのものを変えてくださったのは、他ならぬお姉さま。三番目にお姉さまが生まれてくれたからこそ、四番目の私が生まれることができた。だから、お姉さまには幾ら感謝しても感謝し足りないの」

「……それが、ひのえさんがお姉さんを慕う理由、なんですね」

 思っていたより、ずっと重かった。姉を慕わない妹なんていない、なんてひのえは言っていたけれど。そんな簡単な問題じゃないよ、ひのえ。普通の兄弟姉妹の絆なんて、それほどまでに強いものじゃない。ひのえのそれは、もう崇拝に近い。自分が生まれたことを、両親以外の誰かに感謝するだなんてこと、普通じゃきっとあり得ない。昼神姉妹は特殊な例だっただろうけれど、弥生とひのえの関係が、あれに劣っているとは、自分には思えなかった。

 でも、分からなくなる。こんなにもひのえに好かれている、弥生。自分にとっては、恐ろしい存在でしかない、弥生。どちらが本当の、三鬼 弥生なのだろうか。誰に聞いたら、それは分かるのだろうか。

 かちかちと、時計の鳴らす音が妙に大きく聞こえた。それが、何かを急かしているような気分になった。

「どうして、こんな話を、僕に?」

「……どうしてかしら」

 ひのえは、自嘲気味に笑った。

「少しだけ、似ているんじゃないかと思ったの。私と、貴方」

「僕たちが、似てる?」

 そんな気がしただけよ、とひのえは呟いた。そしてこの話は終わりだとばかりに、立ち上がって、立ち去ろうとした。

「あっ、ひのえさん!」

「なあに?」

 どうしても聞きたいことがあって、手を伸ばして引き留めた。

 どくん、と心臓が鳴る。身体を起こして、ひのえにすがる。

「……昼神姉妹は、どうなったんですか」

 あのときは、それを確認する前に、自分は気を失ってしまった。きっと、疲労と緊張が極まって、意識を手放してしまったんだ。それは、それだけは、きちんと見届けなければならないことだったのに。

 そうして、ひのえが口を開く。

「今頃は、彼女たちの故郷に向けて走っている頃ではないかしら」

 そこで出てきた言葉は、自分の期待したものとは一八〇度違うものだった。

「え……?」

 聞き間違いではないかと、その台詞を何度も反芻する。でも、間違いではなかった。

「あの双子は、まだ、生きているんですか?」

 自分の言葉に、当然だと言わんばかりにひのえが頷いた。

「あの場では、炎で酸素を奪って気絶させただけよ。あとは、お姉さまが手配してくださった車が到着したから、ある程度拘束してからそれに乗せて」

「に、逃げ出すかも知れないじゃないですか。あの双子は催眠術が使えるんですよ? 第一、故郷に運んでどうするんです。あの双子がやったことを、法で裁かせることができるんですか?」

 自分の剣幕に、ひのえは困ったように眉を寄せた。

「彼女たちの能力は穴だらけなのよ。触れられさえしなければ催眠術は掛けられないし。それに、送り届けた先は私の管轄ではないの。法律で罪を償わせることは難しいかも知れないけれど、私たち機関なりの罰し方はあるわ。命を奪うほどでは、ないと思うけれど」

「そんな」

 ――あの双子が、生きている。

 動悸がする。右手で自分の顔を押さえる。

 胸の奥が痛い。身体の芯が痺れる。

 生きている。生きている。生きている。

 生きている――!

「神谷さん? どうかしたの?」

 ひのえの声が、届かない。今自分は、どんな顔している? 酷く歪な、今にも壊れそうな顔をしているように思う。

「どうして」

 どうして――

 どうして、殺して ・・・ くれなかった ・・・・・・ んですか ・・・・

 貴方になら、それができたはずじゃないですか。

 貴方になら、簡単だったはずじゃないですか。

 その言葉を、すんでの所で飲み込む。胸を掻き毟って。震える両手で両耳を塞いで。

「疲れているようね。もう少し休んだ方がいいわ」

 ひのえは自分の両肩を押して、もう一度ベッドに寝かせようとする。それはとても優しい仕草で――とても残酷な、裏切りだった。

「ひのえさん」

 静かだ。

 心が、感情が、どこまでも、無音の世界。

 裏切り? 何を言っているんだ。

 最初から、味方なんかじゃなかったじゃないか。

 友達になれるかも知れないなんて、馬鹿げた話だったじゃないか。

 必死で目を背けていただけだった。

 現実から。真実から。

 願望から。夢から。

 自分のすべきことから、ずっと。

「ひのえさん、聞いてください」

 だから、絶望なんかしない。

 できないなんて思わない。

 “無理”も“できない”も、何もない。

 やるからには徹底的に。

 自分の力を信じて、突き進むだけ。

「もう一人の僕が、現れました」

 時刻は午後八時、双町の路地裏で――。

 ――血塗れの少女が、発見された。

夏夜の鬼 第三章「Doppel Ganger 前編」 ―― 完 ――