Doppel Ganger 前編 -8-


 湖に沿って北進し、ぐるっと町の北西部へ来ると、これまでと違った風情の市街地へと入っていった。駅から離れた町並みは、ぎゅうぎゅう詰めの住宅街だ。ほんの僅かな隙間さえ無駄にすまいと居宅が並び立つ光景は、窮屈というか、何か急かされているようで落ち着かない気分になる。お昼にはまだ早い時刻、都会にできたささやかな団地は静まりかえっており、駅周辺の賑やかさからは反転したような印象を受けた。

 その辺りへ至る頃になると、またしても会話が途切れてきてしまっていた。自分はともかく、先輩はあまり口数の多い方ではないのだ。

 途切れた会話の代わりに、緊張感が表に出る。これだけ閑散とした場所だ、危険人物が潜んでいても可笑しくはない。突き当たった袋小路に、目的の誰かがいるのではないか。そんな予感が、自分たちの心音を静かに突き上げていた。

「……いないな?」

 2人で確認する。これで幾つ目の裏通りだろうか。やはりそこに目的の人物――自分と同じ顔をした人物などいることはなく、捜索は空振りに終わっていた。

 先輩が一つ大きな溜息を吐く。目的が果たせないことの焦り……というよりも、早くもこの捜査に飽きてきたというような感じだ。自分としてもその方がありがたい。

「お疲れ様です先輩。ジュースでも買いませんか?」

「そーだな。休憩にするか。いい加減喉も渇いたしな」

 先輩から賛成を取り付けると、早速自動販売機を探す。しかし見える範囲にそれらしい物はない。記憶にある限りコンビニもなかったし、こちらも少し探さなくてはならないようだ。

「自動販売機なら確か、ちょっと前にあったぞ。そこまで戻るか」

 はい、と先輩に続こうとした、――そのとき。

「お兄さん方」

 弾むような声がして、自分たちは振り返る。

 ――見たことのある女の子だった。自分と同じくらいの背丈。和人形のように切り揃えられた髪。首から提げられた球体の銀飾り(昨日とは形の違うアクセサリだな――)。そして、上等そうな茜色の和服、足袋と下駄。間違いない、双町の駅で会った女の子だ。

「ああ、昨日の。こんにちは」

 自分が挨拶をすると、女の子は向日葵のように微笑んで、挨拶を返してくれた。年相応の表情と声の調子は、やはり温かい気持ちにさせてくれる。

「また会えるなんて思ってもみなかったわ。きっとあたしたち、運命の赤い糸で結ばれているのね」

 女の子がくすくすと冗談めかして笑うと、自分もつられて笑ってしまう。運命の糸は言い過ぎにしても、再び会えたことは確かに、偶然ではない何かを感じてしまう。

「そうそう、お兄さん方は、あの橋、もうご覧になった?」

 あの、という抽象的な言い方ではあったが、この場合それが何を指しているのかはどうしようもないくらい明白だった。タコなんとか橋……ではなく、本日倒壊した双子タワーブリッジのことだ。

「ええ、見ました。ニュースでそのことを知って、朝から見に行ってきました。すごかったですよ。……貴方も、見てきたんですか?」

 そう言えば、まだ自己紹介もしていないな、と思いつつ、聞いてみた。すると女の子は、ぎゅっと両手を握って、勿論、と力強く頷いた。

「あんな大きな橋が、一晩であんな風に壊れてしまうなんて、とってもびっくりしたわ。まるで映画のワンシーンを生で目撃してしまったみたいで、あたし、とっても興奮してしまったの」

 彼女もまた野次馬の一人であったらしい。ミーハー気質だなぁと思いつつも、こんな可愛らしい女の子ならそれも美点と言えるだろう。

 そうですね、と相槌を打つと、女の子は更に熱気に当てられたように話し始める。

「お兄さん方は見ました? 鉄骨がねじ切れていたのよ。鋭利な刃物で切り裂いた訳でもなく、高熱で溶解した訳でもなく、本当に、力一杯引っ張ったみたいに千切れてしまっていたの。事実は小説よりも奇なりとは言うけれど、橋が自然にあんな風になってしまうなんて、面白いとは思わない?」

 喋るうちにどんどん昂ぶってしまったのか、頬がほんのり上気して朱色が差していた。温和そうな瞳に熱い色が灯ると、女の子は微笑ましい姦しさを見せた。一緒に盛り上がれる話題を見付けられたら楽しそうな人だ。

「随分詳しくご存じなんですね。近くまで見に行ったんですか?」

「ええ。歴史的大事件だもの。朝一番に見に行ったわ。まだ太陽も昇りきっていない頃で、人も少なくてね、警察の方が忙しそうに走っていたわ。その表情がまた面白いの。みんなね、何か恐ろしいものを目の当たりにしたみたいに怯えた顔をしているのよ」

 本当に、愉快なものを見たとばかりに満面の笑みで、女の子はそう語った。自分には共感できなかったけれど、女の子が面白いというのならそれでもいいのかな、と思ってしまう。

「ニュースを見て、見に行ったんじゃないのか?」

 そこまで黙って聞いていた先輩が口を開いた。

「え?」

「俺たちはニュースを見てから行ったけど、その一報目だってせいぜい六時くらいだろう。この季節、朝の五時にはもう日が出てるはずだ。太陽が昇りきってもいないってことはそれ以前ってことだろ。あの辺りは不慣れみたいなこと言ってたけど、実はあの近くに住んででもいるのか?」

 先輩の口調は、何かに怒っているかのように、またそれを隠そうとしているかのように、平坦で冷ややかな感じだった。まだ好きでも嫌いでもない筈の相手なのだから、そんな態度を取ることはないのに、とちょっとだけ不満に思ったけれど。ひょっとしたら先輩は、初対面の相手には誰にでも、そんな風なのかも知れない。そんな考えが浮かんだ。自分の時はどうだっただろうかと記憶を辿って、あまり覚えていないことに落胆した。

 自分の感情を抑える。抑えなくては、人と対話することができない。それは一体、どのような精神状態なのだろう。どのような経緯を辿れば、そのような行動に出ざるを得なくなるのだろう。それを考えると、少しだけ、ほんの少しだけ、先輩のことが哀れだった。

「お兄さんって、まるで探偵さんのようなことを言うのね。なんだか素敵だわ」

 女の子は、先輩の物言いに気を悪くした風でもなく、相変わらず上機嫌に目元を緩めていた。

「あたしはこの町の人間ではないわ。だから、あの場所に行ったのも偶然だった。偶然、出会 でくわ してしまったの。ここで貴方たちと出会ったように。ね、不思議なことは何もないでしょう? 偶然だもの。よくあることでしょう?」

 女の子が小動物のように首を傾げる。

 先輩は納得できたのかどうかは分からなかったけれど、短く「そうか」とだけ言った。

「そんなことより、お兄さんたち、お昼はどうするか決めたの? よろしければ、私たちとご一緒しない?」

 女の子は花のように微笑んで、昨日と同じように、自分たちを昼食へと誘ってきた。確かに、そろそろお腹の空いてきた頃合いではあった。

「町の東に、素敵なお店があるの。あたし、お兄さんたちとごはん、一緒に食べたいな」

 女の子が近づいてくる。とても自然に、流れるように。

 自分と先輩の腕を、掴んだ。

「行きましょう? おにいさん」


 ――途端。


「あ――」

 世界が、ぐるんと宙返りをした。急速に、乱雑に、この場所に立っているという意識が希薄になっていく。転がり落ちるように、掻き消されるように、精神が、潰えていく。

「一緒に、行きましょう」

 女の子の声が、両耳から入り込んで、反響する。頭の芯にまで滑り込んで、浸透して、全身に満たされていく。

 僅かに残った自我が警笛を鳴らす。

 それでも、落ちていく。

「行きましょう」

 どこまでも、落ちていく。

 白濁した意識 せかい の中で、灰色の景色に辿り着いた。

 見たことはある――けれど、よく知らない場所だ。閑散とした町並みの、住宅街、その片隅。小さな一軒家。

 扉は開かない。鍵が掛かっているんだ。ノブを回してもびくともしない。苛立って、思い切りノブを引く。ガチャリと、呆気なく扉は開いた。というか、壊れた。初めから鍵など掛かっていなかったのではなかったのではないか。なんだ。そんな風に思いながら、僕は一歩一歩踏み出して、中に入っていく。

 目的の場所は、どこだろう。なんとなしに、視界に入ってきていた階段を上る。薄暗い家の中。住民の寝静まった家屋。それを土足で踏み破っていく。ぎし、ぎしと足音だけが響く。

 また扉がある。ノブを回す。今度は力を込めずとも、簡単に扉は開いた。

 それまでと同じ、暗い部屋。

 耳を澄ませば、辛うじて聞こえる、寝息。

 世界が、視界が、その一点に収束していく。


『――――』

 覚えている。

 間違えない。


 こいつだ ・・・・

 こいつが ・・・・ 僕を ・・

 僕のことを ・・・・・


 右腕を高く振り上げて、落とす。

 ざくん、と野菜でも刻んだような音がした。

 ざくん、ざくん。

 ざくん、ざくん。

 ざくん、ざくん、ざくん。

 何か赤いものが、視界に映る。それを呆然と眺めながら、もう一度、右手を振り下ろした。


 ……ああ。


 どうしてこうなってしまったんだろう。

 どうして、こんなことを。

 こんなこと?

 こんなこととはなんだ?

 僕は、一体、何をした?


『――違う』

 両手が震えている。

 それを堪えて、両手を見る。

 凝視する。手相でも見るように、じっと見つめる。

『――これは』

 右手は、ペンキに手を突っ込んだかのように、真っ赤になっていて。

『これは、夢だ』

中―1

 はっと、目が覚める。

 ふらつく足をなんとか制して、その場に立つ。

 ――この感覚は覚えがある。

 ――何だ? 自分は、立ったまま眠っていたのか。

 場所は、記憶にある、先輩と2人で歩いていた先程と同じ、どこかの住宅街だ。

 その先に、赤いものが、二つ。

「あたしは、先輩さんの方がいいわ。瞳が気に入ったの。鋭くって、なかなかいないわ」

 着物を着た女の子が、二人 ・・ 、手を繋いで歩いている。

「それじゃあ、あたしは後輩さんの方がいいわ。ドレスを着せてあげるの。女の子みたいな顔立ちだもの、きっと似合うわ」

 足取りは軽やかだ。

 スキップでも踏んでいるかのようにも見えるほどだった。

「あら、それだったらあたしも後輩さんが欲しいわ。この間頂いた素敵なワンピース、似合う子がいなくてがっかりしていたところですもの」

「だめよ。美兎 みと ったら、すぐに飽きて壊してしまうんだもの。この間だって、素敵な方だったのに、立てなくしちゃって……」

「まあ、美狐 みこ の趣味に比べたら可愛いものじゃない。あんな風に ・・・・・ しちゃったら、もう二度と、自分で動くことができないわ」

 何でもないような、世間話でもするような雰囲気で、何か恐ろしいことを口にしているようだった。

 その後ろを――歩く二人と止まった自分との間には、ふらふらと幽鬼のように揺らめいて歩く、誰か――いや、先輩が、いた。まるで操り人形のように、ゆっくりと、前へ進んでいる。

(これは――)

 散り散りになった記憶を掻き集めて、総動員で現状を把握しようと努める。

(何が起きた? 何が起きている? 僕たちは、一体……)

 女の子に話しかけられた。覚えている。

 女の子に手を取られた。覚えている。

 そこからの記憶が、はっきりしない。

 なおも、二つの着物姿は進んでいく。

 その後を、先輩が、糸でくくられているかのようについて行っている。

 まるで、二人に、先輩が連れて行かれるように、見えた。

 ――ダメだ!

 直感する。これは絶対に、看過してはならない事態だ。

 だが、どうすればいいかが分からない。何がどうなっているのか、少しずつ掴めてきたけれど、どうすれば現状を打開できるのかが分からなかった。

 ――でも!

 頭の奥の方がまだ痺れている。上手く言葉を発せいられるか自信がない。

 それでも。拳に、脚に、腹に、力を溜める。

 大きく息を吸って、大地を踏みしめ、溜め込んだ空気を力に変えて、一気に吐き出す――!


「せんぱいッ! それは夢ですッ!」


 視界は急激に変わっていった。

 二人の着物姿が振り返る。その表情は全く同じで、全く同じ、驚いた顔が張り付いていた。

 そして、先輩は。

 電流が流れたかのようにびくりと、一瞬全身が震える。

 嗚咽が漏れる。先輩が顔を手で押さえながら、自分の方を、弱々しい視線で見た。

「カ、ミヤ……? 何が……」

 今にも倒れそうなほどだけれど、先輩はどうやら、意識を取り戻したようだった。

 意識を取り戻した。それは、とりもなおさず、先輩も自分と同じ状況にあったという証左に他ならない。

「先輩! その人たちは危険です! 離れてください!」

 言いながら、自分は先輩の腕を引いてこちら側に寄せる。

 先輩が転びそうになるのを、精一杯受け止める。

 先輩は目を擦りながら、辺りを見回していた。

「なんだ……? 俺、寝てたのか?」

「あの人たちが何かしたみたいです。とにかく、あの人たちは危険です。この場からも早く離れないと……」

 危険だと繰り返すほどに、確信があるわけではなかった。いや、杞憂だというのならそれで良かった。間違いだというのなら謝れば済む話だった。だがそうではない。それはありえないという結論が、次の瞬間に叩き出されることになる。

「ふふふふふ」

「うふふふふふ」

 二人の女の子が、怪しく笑う。それは、まるで新しい玩具を見付けた子どものように、無邪気で、残酷な笑いだった。

「驚いた。本当に驚いたわ、美兎」

「そうね、美狐。これはとても驚くべきことだわ」

 二人は顔を見合わせて、愉快そうに笑う。

「私たちの『二重催幻 デュアルヒュプノス 』を打ち破る人なんて、初めて」

「そう。やっぱり、お兄さん方は特別なんだわ」

 冷たい笑い声が、静かな住宅街に響き渡る。

 じりじりと後退る自分と先輩。だが一向に、その両者の距離が狭まる気配は見えなかった。

「何なんですか、貴方たちは! 何の目的で、僕たちに何をしたんですか!」

 虚勢を寄せ集めて、なんとか声を絞り出す。言葉尻が震えているのが分かる。けれど構ってなんていられない。今自分たちはとても危険な状況にあると、第六感が告げている。……第六感なんて不確かなもの、今までろくに信じたことはなかったけれど。今回ばかりは、絶対に無視してならないという予感が消え去らない。

「……どうする? 美狐」

「仕方がないわ。次の手札を切りましょう」

「そうね。それもいいかも知れないわ」

 くすり、と笑って、二人――美狐と美兎は恭しくお辞儀をした。

 自分と同じくらいの背丈。切り揃えられた黒髪。茜色の着物。

 その所作は、まるで鏡あわせのように、まったく同じだった。

「初めまして、お兄さん方。私の名前は昼神 ひるがみ 美狐。よろしくね」

 円錐形のアクセサリを首から提げた、少女が言った。

「初めまして、お兄さん方。私の名前は昼神 美兎。よろしくね」

 球体のアクセサリを首から提げた、少女が言った。

「双子……だったのか」

 瓜二つの顔が、愉快そうに口の端を歪めた。

 よろめきながら何とか言葉を紡ぐ先輩の息は荒い。その様子に、胸が裂けるような想いを抱く。けれど、そんな場合ではないのだ。どうしようもないくらい、今が危険だというのは、もう明らかなのだから。

「さて、名前を明かしたところで……あたしたちが何をしたのか、だったかしら」

「そうね。お兄さん方に何をしたのか、とても知りたがっていたわ」

 二人して顔を合わせると、悪戯っぽく微笑み合った。そして呼吸を揃えて、二人同時に口を開く。

「あたしたちは、催眠術師なの」

 その言葉自体が、まるで何かの暗示であるかのように、脳裏に響く。

「お兄さん方も知っているでしょう? 界装具の力」

「とても素晴らしい力。あたしたちもね、同じ力を持っているの」

 二人は、それぞれ首から提げたペンダントを持ち上げてみせる。親指ほどの大きさの、。金属の塊――あれが、あんな小さな物が、界装具だというのか。

「お兄さん方を、あたしたちのお家に招待したかったのだけれど」

「お兄さん方を、あたしたちのお家に置いておきたかったのだけれど」

 無理矢理行われるそれはつまり、拉致監禁か。

 最悪じゃないか。

「いいじゃない。ちゃんとお世話してあげるのよ。毎日ご飯を食べさせてあげるし、お風呂にだって入れてあげるわ」

「ベッドで寝かせてもあげるわ。あたしたちと一緒だけれど……嫌なことではないわよね?」

 既に、どちらが喋っているのか区別が付かない。反響する言葉が、重い力を持っているかのように身体の芯を揺るがしてくる。

「それがどういうことか、分かっているんですか」

 連れ去って、幽閉する。そんな勝手が、この社会で罷り通るものか。押し通されて堪るものか。

 何故か苦痛で顔を歪める先輩を守るように、一歩前へ出て、言った。

「そんなの、犯罪だ。そんなの、異常だ」

 絞り出すように言って、思い切り双子を睨み付ける。けれど二人は全く意に介したようではなかった。

「犯罪?」

「異常?」

 二人は顔を見合わせて、そしておかしそうに笑った。

 心底面白い言葉を聞いたかのように笑った。

「不思議なことを言うのね、後輩さん」

 円錐形の首飾りをした、美狐が言った。

「あたしたちは――お兄さん方もだけれど――とても、特別なのよ?」

 特別。繰り返しになるその言葉を、球体の首飾りをした、美兎が言った。

「社会?」

「法律?」

 玉を転がすように、二人は笑い合った。

「あたしたちには、関係のないことでしょう?」

「あたしたちには、関係のないことだわ」

「法はあたしたちを裁けないわ」

「律はあたしたちを罰せないわ」

「だったらそんなの、気にしなくてもいいじゃない?」

「だからそんなの、無視したっていいじゃない」

 ――既に破綻している。常識を、常識と思っていない思考。狂気に充ち満ちた意思だ。

「それに、ねえ」

「そう、ふふ、それに」

 二人は、自分の方を真っ直ぐ見据えて。同時に口を開く。

「貴方がそれを言えるの? 神谷 満さん」

「……!」

 痛感した。この二人と先輩を、これ以上同じ場所に置いておいてはいけない。

「先輩、逃げましょう。この二人は、危険すぎます」

「ああ……」

 先輩の顔色が優れない。額が汗でびっしり濡れていた。一体どうしたんだ? 先輩はまだ、この双子に何かされているのか?

「まあ、どこへ逃げようというの?」

「逃げる場所があるというの?」

 逃げる場所なら、ある。

 ひのえに言われていたことを思い出す。

 そう、ひのえが言っていた、もしもの時に逃げ込む場所。

 ――町の東、今は使われていない廃病院へ。

「さあ、先輩!」

 先輩の手を引いて、自分たちは脇目も振らずに走り出した。

中―2

「待て、カミヤ――」

「先輩、もう少しで着きます! 急いでください!」

 自分たち二人は双町を駆け抜けた。

 双子が追い掛けてくる様子はなかったけれど、それでも安心はできない。

 ひのえに言われたとおり、町の東の、廃病院へ行かなくてはならない――!

「待て、カミヤ。何かおかしい」

「おかしいって、何がですか」

「俺たちは、東の廃病院に向かってるんだよな?」

「そうです。それの何が――」

「なんで俺たちは、廃病院の場所を知ってるんだ?」

 後を行く先輩の声が追い掛けてくる。先輩の表情は相変わらず優れない。時折、頭の痛みを訴えるように、眉間の辺りを抑えている。

「それは――」

 地図で確認したんだろうと言葉が出てきて、消える。いいや、違う、地図は見ていない。ひのえに道を聞いて――? そう、そのはずだ。そうでなければおかしい。

「とにかく、今は急ぎましょう。もしかしたらひのえさんがもう待っているかも知れません。とにかく急いで、病院へ辿り着かないと――」

 そうこうしている間に、それらしい建物が見えてきた。少しだけ、他の建物よりも背が高い。最初は真っ白だったのだろう壁は、今では亀裂や植物の蔦のようなもので全体を覆われていた。窓ガラスはところどころが割れ、文字通り廃墟の様相を呈していた。

 辺りに人影は、ない。町を横断するのだから、途中何度も人とすれ違ったが、病院に近づくにつれてそれもなくなっていた。本当に静かな町並みに、自分と先輩の足音だけが忙しなく響いていた。

 心の中は、早く、早くと急かす声ばかりが反響していた。ひのえに言われたとおり、危険な目に遭ったなら、廃病院を目指さないといけない。その一念が、強迫観念のように重く、精神を圧迫するほどに自分を責め立てていた。まるで、見えない何かに追い掛けられているかのように。

「着いた――! 先輩、早く中へ!」

「ああ――」

 正門は鍵も掛かっておらず、招かれるように自分たちは中へと滑り込む。ボロボロになった幾つもの座椅子が並んだ、待合室兼フロントといったところだろうか。そこで自分たちは、ぜえぜえと息を切らせてへたり込んだ。汗が滝のように流れ出るのを、桜さんに持たされたハンカチで拭う。

 一体どれだけの距離を走ったのか。こんなに走ったのは生まれて初めてだったが、体力はなんとか保ってくれたようだ。少しだけ、自分を褒めてやりたい気分になった。

「……ひのえさんは、いないようですね。誰もいない」

 当たり前のように、病院内はしんと静まりかえっていた。電気はついておらず、窓の外から差し込んでくる太陽光だけが光源で薄暗い。空調機能も生きてはいないだろうが、外よりも幾らか温度が下がったような気がした。

「カミヤ。やっぱりおかしい」

 まだ息の整わない先輩が、声を絞り出すように言った。

「俺たちは、危険に遭ったら町の東の廃病院に来いと、ひのえに言われた。そうだな?」

「ええ、そうです。それが――」

「それは、一体いつの話だ?」

 淀みなく答えようとして、言葉に詰まる。

「え……? どういう……」

 確かに、ひのえに言われた記憶がある。

『危ない目に遭ったら、町の東、廃病院へ逃げ込みなさい。そこなら――』

 言われた記憶がある、のに、その前後関係が見えてこない。そのひのえの言葉だけが頭の奥に突き刺さるように残っていて……だけど、それはどういう脈絡で、そういう話になったのか? まったく見えてこない。記憶が抜けている……? いや、違う。そんな記憶、初めからなかった……?

『ふふふふ』

『うふふふふ』

 ばっと、自分と先輩が同時に背後を見た。向かい合っていたから、互いに反対方向を見たのだ。

『ようそこお兄様方、あたしたちの借り家 アジト へ』

『ろくなおもてなしもしてあげられなくてごめんなさいね』

 辺りを見回す。相変わらず人の気配はない。一瞬誰か視界に入ったように思えたが、それは献血を促すポスターに映ったモデルの顔だった。

 声の主は、間違いなくさっきの双子だ。でも、姿が見えない。それなのに、明瞭に声が聞こえる。まるで壁が喋っているかのように、はっきりと。

「先輩。まさか、僕たちは」

「やられたな。催眠術、記憶の操作か」

 ご明察、と、双子のどちらかの声がした。

『あたしたちは用心深いの。万が一催眠が破られたときのために』

『記憶を少しだけ変えさせてもらったわ。お友達の声が鮮明に聞こえたでしょう? あたしたち、そんなこともできるのよ』

 記憶の操作――恐ろしい能力だった。嘘の記憶をでっち上げて、まんまと自分たちを、双子の罠の中へ自分から飛び込ませた。

 今思えば、さっきまでの自分は少しおかしかった。本当に、病院へ辿り着くことしか考えられなかった。そこに異を挟むことを良しとしなかった。疑問さえ浮かばずに、この場所へと駆けつけてしまった。

 先輩と自分が同時に走る。先程入ってきたドアを開けようとして――しかし、扉はびくともしなかった。

「離れてろ、カミヤ!」

 先輩が、手近にあった一人掛けの座椅子を持ち上げた。何をするのか――を問いかける前に、先輩は全身を使って思い切り椅子を投げつけた。

 ガン、と冗談のような音がして、椅子は跳ね返った。信じられないという思いで、椅子がぶつかった場所を見る。それはどう見ても、ひび割れて脆くなった窓ガラスだった。あれだけの衝撃があれば、簡単に破れてしまいそうな窓が、巨大な山のように屹立していた。

『うふふ、無駄よ、先輩さん』

『無駄よね、後輩さん。だって今そこは、壁だから』

『絶対に破れない厚い壁。窓も扉も、全ては壁。自分が壁だと信じて疑わないの。だから、開かないし、壊れない。壁は、そういうものだから』

 声が、自ら種を明かしてくれた。

 詰まるところ、これも催眠術か。信じがたいことであるが、双子の催眠は『物にも有効』ということだ。

 だとしたら、まさか――

「双子タワーブリッジを壊したのも、貴方たちですか!?」

 くすり、と双子のどちらか、或いは両方の笑い声が聞こえた。

『おかしいのよ、後輩さん』

『そう、おかしいの。橋にね、“貴方は人間だ”と暗示を掛けたら』

『独りでに動き出して、勝手に壊れてしまったのよ』

『おかしいわ』

『そう、おかしいわね』

 軽薄に、しかしそれでも可愛らしいと思ってしまう双子の声が、不気味に病院内に響き渡る。

 全て、計算通りだったということか。自分たちが誘い出されたのはこの病院にだけではない。最初から、双子に行動を制限されていたんだ。

 となると、偽の記憶を植え付けられたのはあくまで保険だったというわけか。これについては助かったと言わざるを得ない。もっと致命的な記憶を刻み込まれていたなら、自分たちはこうして反抗することさえできなかっただろう。――或いは、そういうレベルの記憶改ざんはできないのか……。

「これならどうだ――」

 思考に意識が沈む最中、先輩の右手周辺がぶれる。

 手品のように現れたそれは、トランプに描かれた死神の持つ『鎌』のような形をしていた。それも真っ黒だ。暗い背景に沈み込むように、真っ黒な大鎌。長い柄に、三日月型の刃。それは問いかけるまでもなく、先輩の界装具だった。

 先輩は大きく振りかぶり、鉄壁と化した窓へと刀身を打ち付けた。しかし――

「ぐっ」

 先程の椅子の再現のように、先輩の鎌は弾き返された。響く音は椅子の時よりも遙かに大きく――でも、窓ガラスは破れない。

『まあ、怖い』

『怖いわ、先輩さん。そんな無粋な物は、どうか仕舞ってくださらない?』

「ふざけるな! 俺たちをここから出せ!」

 笑い声が響く。注意深く声の元を辿ると、天井に備え付けられた放送用のスピーカーから流れているようだった。この廃墟で、放送設備が生きている、とは思えない。となると、これも双子の催眠で何かしたのか。なんでもありだな。

『もう一度、お二人に催眠を掛けるわ』

『今度は時間を掛けて、念には念を入れて、絶対に破れない催眠を掛けるわ』

 死刑宣告のようなその言葉を、先輩と自分は歯ぎしりをしながら聞き流すしかなかった。

『だからそれまでは』

『そう、それまでは』

 がたん、と調度品が倒れたような音がした。

 がたん、がたん、と。それは幾重にもなって聞こえてきた。

 音のする方を見て、愕然とした。

『お兄さん方のダンスが見たいわ』

 壊れた椅子が、ガラス瓶が、スリッパが、電灯が、松葉杖が、クリップボードが、万年筆が、テーブルが、オーブンが、ベッドが、テレビが、包丁が、幾つも幾つも幾つも幾つも、飛んできた。

「はっ、は、はっ――」

 先輩の息が上がっている。

 どう見ても間違いないくらい、体力の限界など疾うに過ぎていた。

 四人掛けくらいの大きな長椅子を、先輩が鎌の石突で突き返す。弾き飛ばされた椅子はしばらく沈黙したあと、また動き出して先輩を狙って飛んでいく。

 実際見てみて、先輩の膂力は尋常ではないくらいに上昇していた。自分と同じか、それ以上に大きな家具が電車もかくやというスピードで飛んできているというのに、先輩はそれを難なく一蹴してしまえるのだ。素直に凄い。界装具の恩恵というものは、本当に人知を凌駕していた。

 鳥か何かのように、凄まじい勢いで飛んでくるあらゆる物を、先輩が手にした鎌で打ち落とし続けていた。

 それにしても、それだけの先輩の活躍があったとしても、物の攻撃は決して止まなかった。これだけ多くの物が、打ち捨てられた病院に残っているのはおかしい。恐らく、双子が予め用意しておいた物なのだろう。

 幾ら叩き落としたところで繰り返しだ。ぶつかればただでは済まない物も多量に含まれている中で、一つとして見過ごせない。それに――

「先輩っ、もう――」

「いいから、お前は耳塞いで頭下げてろ!」

 先輩は、自分のことまでも守って、戦ってくれている。

 飛来する物が狙うのは先輩だけではない。当然のように、自分のことも狙ってきているのだ。自分は、迂闊に動くことさえできない。何せ、どこから何が飛んでくるか、直前まで全く分からないからだ。たった今、床のタイルが剥がれて自分を狙い、それを先輩が驚くべき反射神経で以て打ち落とした。どこの何が、凶器として飛来してくるか、一切見当が付かない。

「先輩が自分一人を守るだけなら、体力の消耗を少しは抑えられる筈でしょう? 無理はしないで、僕のことは――」

「そんなことして何になるんだ!」

 怒鳴られてしまう。そんなことを言われなくても分かってる。こんなの時間稼ぎだ。こんなことを続けていたって、先輩の体力が尽きるだけだ。

「殺される訳じゃないんです。少し大怪我するくらい、僕は平気ですから……」

「そうじゃない」

 三本同時に飛んできた包丁を、刃の根元で弾き返すと、先輩はこちらを一瞬だけ見て言った。

「怪我も、疲労も、多分、催眠を掛けやすくする条件なんだ」

「……! そんな、だったら……」

「お前が催眠に掛かったら、誰が俺の催眠を解いてくれるんだ」

 ……そうか。二人同時に催眠に落ちるのが拙いんだ。そうでなければ、最初の時のように、もう一人の催眠を解くことができるから……。

「お前は、俺の様子が少しでもおかしくなったらすぐに大声を出せ。そうすれば、少なくとも催眠には掛からない」

「だとしても――」

 結局のところ、時間稼ぎだ。

 自分だって、いつまで催眠に掛からないでいられるか分からないのに。

 次に催眠に掛かったら、また目覚められる自信なんてないのに。

「界装具の力だって無限じゃない。この攻勢にも限界はある筈だ。それまで耐えろ!」

 先輩の声が、どんどん遠くになっていく。

 永遠に、双子の操り人形になったまま、眠り続ける。

 そんなのは、嫌だ。

 折角自由になったのに。

 またその自由を奪われるなんて、絶対に――

「らぁ!」

 先輩の声で意識が引き戻される。発声して踏ん張らなければ力が足りなくなるくらい、先輩は追い詰められていた。

『うふふふ、頑張るわね、先輩さん』

『でも、先輩さんばっかり。後輩さんは何もしなくていいの?』

「聞くなカミヤ! お前はじっとしてろ!」

 先輩がまた、大きな何かを吹き飛ばす。

 高さニメートル強のガラス棚だった。地面に叩き付けられたそれはガラス片を大量にばらまいて横たわる。

 すると、今度はその粉砕されたガラスが先輩めがけて雪崩れ込んだ。

「あっ!」

 不意打ち気味に飛んだガラス片が、先輩の肩口に突き刺さるのが見えて、自分は泣きそうになった。

(くそ、くそっ! どうしてっ、どうして僕には、何もできないんだ……!)

 界装具を持っていないから。そんなの、どうしようもないことなのに、手が震えて仕方がない。

 辺りは立ち込める埃で一層薄暗くなっていた。

 先輩は歯を食いしばって、自らを飛べる何かだと勘違いした物たちを払っていく。

『そろそろかしら?』

『まだよ、もう少し……』

『でも……』

 囁くような声が耳に届く。あの双子は遊び気分で、自分だけでなく先輩まで、傷つけた。

 ……許せない。あの二人の喉元にナイフを突き立てて、呼吸できなくして苦しめて、できることならそのまま――

 靴に、何かが当たって止まる。視線を落とすと、大振りな鋏が転がっていた。先輩に弾かれてきたんだろう。

 自分は、いつ動き出してもおかしくない、その刃物を手に取った。そして先輩が金属音を立てながら戦う中で、嘘みたいに静かな意識で、周囲を見渡した。

 ――双子は、どうやってこちらの様子を伺っている?

 双子は言っていた。『後輩さんは何もしなくていいの?』と。それはつまり、自分たちの姿をどこかで見ていることになる。そうでなくては口にできない台詞だ。

 監視カメラの類いは――ない。だとすれば、スピーカーから声を出してるのと同じように、何かを目の代わりにしてこちらを見ているのではないか?

 視野を広げる。視点を端から端へ飛ばして、広い室内を見渡した。

 スピーカーが口代わりだとするなら、音を発する機器しか口の代わりにできないということではないか? そうだとすれば、目の代わりにできるものだって、もともと映像を映す役割を帯びている物か、あるいは――

 視界が固まる。

 一点を集中して見る。

 この空間で、双子の目の代わりを果たしている物は――

「そこ――!」

 拳を突き出して、鋏で突き刺したのは――

 献血ポスターに写った、モデルの『目』そのもの――!

『ぎゃああああああッ!』

 辛うじて双子のどちらかのものだと分かる絶叫が、病院中に鳴り響いた。この世の終わりのような、地獄でさえ滅多に聞けなさそうな凄まじい叫声だった。

『いやあああ! 美兎ッ! しっかり、しっかりして!』

 何が起きたのかよく分からない。自分に見えるのは、ポスターの中心を鋏が穿つ光景だった。

「カミヤ! 何やってるんだ!」

 非難するような声を上げて、先輩が駆け寄ってくる。

「ぼ、僕は、ポスターの目を、突き刺して……」

 鋏の刃は、壁に突き当たって止まっていた。引き抜くと、笑顔で写されたモデルの右目に、ぽっかりと穴が開いてしまっていた。

 手元の鋏を、危ないと言うことを思い出して、思い切り遠くへ投げる。激情に駆られていたことに気がついた。本当に双子が目の前にいたら、ポスターではなく、双子相手に同じ事をやっていたかも知れない……。そう思うと、背筋が凍った。

「ポスターの目? そうか、これが目の代わりを……」

 先輩も察したようで、穴の開いたポスターを見つめている。

 周囲を見渡すと、実に色々な物が散乱していた。散乱したまま、沈黙していた。双子の身に何かがあったんだ。でも、一体何が……?

「拙いな」

「え?」

 先輩が眉間に皺を寄せて、鋭い視線で周囲を見渡した。

「このポスターを自分たちの目にするために、あいつらはどんな催眠を掛けたと思う?」

 どんな? それは、この目が双子の目の代わりになるように……。

「ポスターに『目になるように』催眠を掛けたって、それを自分たちが見ることはできないだろ。あいつらはそれに加えてもう一つ、催眠を掛けたんだ」

「もう一つ?」

「『自分たちの目が、このポスターの目だ』っていう催眠だ」

 ……つまり、ポスターを映像機代わりにする催眠と、それと自分たちの目をリンクさせるための催眠を、自分たちの目に……。

「あっ、だから双子は痛がって……」

「どっちかの……多分美兎って方の目を潰したんだ。拙いな、相手を手負いにしちまった」

 言われてから、どうして拙いのかに思い至った。

 相手は遊び半分だったのだ。そうしている内に、なんとか活路を見出さなくてはならなかったのに。

 痛みに対する報復は、痛みだ。先に仕掛けてきたのはあっちなのに……なんていう理屈は通じない。この場合、次の相手の行動は……。

『……ゆるさない』

 雑音のような呻きと共に、双子の声が聞こえた。そこには温かさも無邪気さもなく、怒りに震えた感情が目に見えるようだった。

 そこで、妙な音がした。それまで一切しなかった、びしゃりという水の音。それも一度や二度ではない。蛇口が壊れて、断続的に水が流れているような、そんな音だった。でもそれだっておかしい。こんな廃墟のような場所に、水が流れている筈がないのに……。

「なんだ、アレは」

 先輩が目を見開いて、自分の背後を見ていた。自分は振り返り、そしてきっと、先輩と同じような顔をしていたと思う。

 それは『水』だった。けれど流水ではない。半透明の水の塊。その場に留まり、形を成していた。

 それは『巨人』のようだった。イメージとしては、『アラジンと魔法のランプ』に出てくる『ランプの精』だろうか。全長は四メートルほど、天井に届くか届かないかというほど巨大な水の塊。腕があり、自身の両足で、びしゃびしゃと音を立てながら歩いてくる。

 それが、双子の生み出した化け物であることは考えるまでもなかった。

「カミヤ……離れてろ」

 自分たちは一目で、ただならない雰囲気を感じ取った。先輩は鎌を構えて前に踏み出し、自分は恐ろしくて一歩下がった。

 先輩と化け物を交互に見る。果たして、先輩はアレに勝てるだろうか? 恐らくは双子の奥の手だ。アレを打倒すれば、ここから出る隙の一つも生まれるかも知れないが……。

「……先輩?」

 先輩は、手で頭を押さえていた。息が荒いのは極度の疲労のせいだろうが、それだけではないように思う。そう言えば、さっきも同じように思わなかったか? 先輩が頭痛を訴えるように、頭を押さえて……。

 戦いは、前触れなく始まり、そして終わった。

 一息に数メートルを越した先輩が鎌を横に薙ぎ、水の巨人の胴体辺りを斬り割いた。大振りなその一撃は円を描くようだった。

 それを受けた水の巨人は呆気なく形を崩し、一瞬で霧のように細かい水の粒となって消滅した。

「先輩!」

 勝った。霧散した敵を前に、そう確信して、自分は駆けた。

「離れろカミヤ! 逃げるんだッ!」

「え――」

 先輩の叫び、その直後。

 散ったはずの水が再び寄り集まり、露と消えた筈の巨人は再誕した。

 それも、自分の目の前に。

「あ、ぐ……!」

 木の幹ほどもあろう腕が伸び、自分の首に纏わり付いた。それは、水というのが信じられない強い力で自分の首を絞めていく。腕を振り払おうにも、相手は水だ。触れることすら叶わず、水の中に手が沈み込むだけだ。

 苦しい……! 息が、できない……!

 両脚が、地面から離れる。万力のように首を締め付ける水に一切抵抗できない自分は、ただ一心不乱に脚をばたつかせた。

「カミヤッ!」

 先輩の鎌が、再び巨人の胴を切り裂く。しかし巨人は何事もなかったかのように身体を再生させると、変わらない力を腕に込め続けた。

「せ、んぱ……」

 もう脚も動かない。全身から力が抜けていくのが分かる。

 巨人の双眸に目が留まる。本来目があるのだろうその場所は暗く窪み、表情の一つも分からないが、何故か、怒りに震えているように思えた。

「くそ、くそッ! てめぇ、離しやがれ!」

 水の巨人を滅多斬りにする先輩。水越しに、その必死な顔が見えた。

 ……もうやめて欲しい。そんなことしたって、疲れるだけじゃないか。そんなことより、逃げて欲しい。双子の意識が、自分に集中している今なら、もしかしたら、外にだって出られるかも知れない。そういうことを試す絶好の機会じゃないか。

 いつものように現実的に、合理的に考えてよ、先輩。『自分』なんて見捨ててくれて構わないんだ。『自分』なんて、たかだか数日、顔を合わせただけの人間じゃないか。『自分』がこれで終わったって、先輩には何も関係ないことでしょう? だから先輩……。

「てめぇ、何諦めた顔してんだ、カミヤ!」

 先輩が、吠える。

 そんな言葉すら、どんどん遠くへ離れていく。

「こんな、こんな詰まらない終わり方があるかよ! あんなふざけた奴らに殺されて、お前本当にそれでいいのかよ!」

 ノイズが走る。けれどそれももう関係ない。『自分』は、これで終わる。

「ふざけるな、ふざけるなッ! 俺は認めねぇぞ! こんな、こんなことで――」

 先輩は、――どうして、泣いているのだろう。いや、水越しの話だ、きっと見間違いだろう。視界が霞んでいる。もう、まともに前も見えない。

「せっかく、見えかけてたのに……! 手に入るかも知れないって、そう思えたのに……!」

 ……でも、ああ。先輩にとって自分は、どんな人だったんだろう。

 自分が死んだとしたら、泣いてくれるくらいには、大事に思って、くれていただろうか――

「カミヤ――」

 意識が、もう。

「カミヤ――!」

 さようなら、せんぱい……。


「生きていてくれ、カミヤッ!」


「あ――」

 ノイズが晴れる。

 意識が、ほんの少しだけ浮上する。

 腕に、脚に、身体に、力が、僅かだけれど戻ってくる。

 一瞬だけ。

 ほんのコンマ秒、繋がれた意識が。

「――『二重催幻 デュアルヒュプノス 』」

 ざくん、と肉を斬るような音が届く。

 急に首の支えが剥がれて、呼吸が戻る。

 急激な変化にむせ返りながら、ガラガラと全身が崩れていく。

 痛い――頭を、いや、身体のあちこちを地面に打ち付けたのか。

 喉からこみ上げる衝撃を吐き出すように咳き込む。

 身体がびしょびしょに濡れているのが気持ち悪い。

 呼吸が回復して、意識がはっきりしてくる。

 水の巨人は、いつの間にか姿を消していたようだった。

 視界の解像度が戻ってくる。

 その先に映ったのは、先輩だった。

「せんぱい……?」

 一瞬、見間違えたかと思った。そう思えたほど、先輩の姿は、直前までとかけ離れていた。

 鎌が、踊っているように見える。先輩の身体を基点に、目にも留まらない速さで回転している。

 鎌の一薙ぎが、複数の対象を『斬り割いている』。

 迫り来る椅子を、ガラスを、刃物を、叩き落とすのではなく、両断している。

 それだけではない。鎌を振り回して、刃や石突を鈍器としてただ叩き付けていたさっきまでとは違う。刃の付け根、長い柄を梃子のように扱って、常に最大速で刃を振るう。目の前の物体を斬ってから、柄から手を離し、腕や身体を伝ってぐるりと鎌を回転させたかと思えば、いつの間にか逆手に持ち替えて、背後から迫っていた障害物を打ち払った。

 それはきっと、長柄の得物の正しい使い方だ。一撃一撃が、舞踏のように美しく、重く、速い。一定の間合いから、一歩たりとも敵を踏み込ませない。それが本当の、あの鎌の使い方だとでもいうように見えた。

 鼓膜の振動が伝わる。まるで目の前で戦争でも起こっているかのようにけたたましい音が、病院内を駆け巡っている。それほどまでに高速な戦いが、目の前で繰り広げられていた。

 気がつくと、先輩の足下にはバラバラになった残骸が幾つも転がっていた。それらが――動かない。さっきまで、何度払い除けても再始動した物たちが、まるで魔法が解けたかのように、一つ残らず沈黙している。

 最後の飛来物を一刀のもとに斬り捨てると、縦横無尽に奔っていた鎌がようやくその動きを止めた。動から静への、呆気ないほど容易い切り替わり。それまでの一挙手一投足に、自分は目が離せないでいた。

「あっ」

 一瞬ぐらついたかと思った先輩が、急に倒れ伏した。鎌は途中で視界から消滅した。糸の切れた人形のように、一切の動きを停止させた。

「先輩っ!」

 ふらつきながら立ち上がり――目眩と吐き気で躓きそうになりながら、先輩のもとへと駆け寄ろうとする。

 それを。

「ぐ――」

 あと少しで手が届くというところで、左から、ダンプカーでも突っ込んできたかのような衝撃が走る。かと思えば右側からも似たような衝撃――壁にでもぶつかったのか、両の肩がじんじんと痛む。玉突きのように壁から跳ね返って、自分は先輩のすぐ近くへと倒れ込んだ。

「……随分と、好きに暴れてくれたわね」

 双子の声だ。身体に残った力を結集して顔を上げる。そこには、本当に――人形のように無表情な、同じ顔の二人が、立っていた。

「そう、とても驚いているわ」

「ええ、とても驚いているわ」

 片方の――円形の飾りを首に掛けた、確か美兎の方の右目が、右手によって塞がれている。一見外傷はないように見えるが、自分によって潰された視界はまだ戻っていないと見て間違いなさそうだ。

「飼い犬に手を噛まれた」

「いいえ、足元を掬われたと言った方が合っているわ」

「そうね、素晴らしい健闘だったわ」

「憎たらしいほどにしてやられたわ」

 双子は際限なく言葉を行き来させながら、自分たちを見下ろしている。そこには、何の感情も窺えなくて、それが逆に恐ろしかった。

「殺しましょう」

「そうね、殺しましょう」

 ――ノイズが走る。

「貴方たちなんか、もう要らないわ」

「貴方たちなんか、死んでしまえばいいわ」

 視界が赤く染まっていく。双子を見上げる視覚に電流のような砂塵が流れていく。


 たったいま。


 僕は、この二人を、絶対に許さないと決めた。


「さようなら」


 凶刃が振り下ろされる。


 その、直前――


「――その言葉、全部私の台詞なのだけれど」


 視界が、降り注ぐ炎に覆われた。