Doppel Ganger 前編 -7-


 ――駆ける。駆ける。

 暗闇に、追いつかれないように。

 慣れ親しんだ微睡みに、足を掬われないように。

 その先に、一縷の光が残されていると信じて――

 ぼんやりと見慣れない中空を見つめて、自分は自我を取り戻した。この目覚めの瞬間というものは何度体験しても嫌なものだ。夢の中では、現実とは比べるべくもない圧倒的に狭い規則に緩く縛られ、それこそ夢見心地の気分で世界を俯瞰できる。

 やはり広い、大きいというものは、ただそれだけで恐怖を覚えるものなのだ。広大な世界に突然放り出されて、心細い思いをしないで済む方法などないように思える。

 今日などは、あまり夢見が良かったとは言えないが、それでも、自分だけの世界に引き籠もっていられる時間には、一日の三分の一を費やす価値があると断言できるものだ。

「ようやくお目覚めね。本当に、朝は苦手なのね」

 ぼやけた頭の中に、清涼な響きが流れ込んできた。それがひのえの声だと気付くのに、数秒の時間を要した。

「……おぁようございます、ひのえさん」

「おはよう。酷い顔よ。早く洗ってきた方がいいわ」

 ひのえは少し呆れたように、それでも可愛らしく小首を傾げた。何度見ても、頭髪から眉毛まで真っ白の彼女は芸術品めいていると思う。陶器のように滑らかな肌と合わせて、新雪のような清らかさは一枚の絵に留めておきたいと誰もが言いそうなものだ。

 そんなひのえの顔が見えると、なんだか無性に恥ずかしくなってきた。だらしない自分の格好を見る。触ってみれば寝癖もあるし、狐色のパジャマは少々着崩れている。慌てて取り繕っても、もうどうしようもないのだった。

「うう、すみません」

「謝らなくてもいいわ。さあ、支度をして朝食を頂いてきなさい。桜さんが首を長くして待っているわ」

 ひのえは、誰が待っていると言ったのか。これも一拍おいて理解に至った。本格的に寝ぼけているようだ。最近は夢見が悪いせいで、目覚めも最悪なものばかりだ。

 時計に目をやる。時刻は七時。少し早いが、確かに朝食の時間だ。さほど空腹感はないけれど、居候の身分としては、そろそろ起きなくてはならない。

「はい、目が覚めました。ひのえさんは、もう朝食は済ませたんですか?」

 目を擦りながら尋ねる。ひのえはもちろんだとばかりに頷いた。

「私はこれから仕事です」

「例の、監視者さんと?」

「ええ。急遽話を聞かなければならない案件ができてね」

 そういうひのえの姿は、いつもの凜々しいスーツ姿だ。出かけ際に、わざわざ自分に声を掛けに来たと言うことか。誰かに頼まれたのだろうけど、そういうのを面倒くさがらずやってくれる辺りはひのえの美徳だと思えた。

「すみません、お忙しいところ」

「謝らなくていいと言ったわ。……じゃあ、また」

 それだけ言って、ひのえは部屋を出て行ってしまった。最後に一瞥をくれたひのえと目が合ってしまったのが、やっぱり少しだけ気恥ずかしかった。

 ……気恥ずかしいついでに、女の子に朝起こしてもらうという恋愛小説の一幕じみたシーンを体験してしまった。そういえば、女の子と一つ屋根の下というのも充分ショッキングな出来事ではないか。色々と考えが追いついていないな、自分。

 さて、とベッドを抜け出る。ベッドは、昨日泊まったホテルとは比較にならないものの、それなりに柔らかくて寝心地が良かった。夕べはご馳走を食べ過ぎて寝苦しいかと思ったが、すんなり入眠してそのままぐっすりだった。自分にはこれくらいが分相応だと感じた。

 ベッドを降りてから、一つ伸びをして、部屋を見渡す。見渡すと言っても六畳程度のよくある寝室で、ベッドが二つある以外は特に目を引く物もない。普通の家として変わっているところと言えば、それぞれのベッドがカーテンで仕切れるようになっているというくらいか。部屋全体が白で統一されているところから見ても、病院にある病室にしか見えない。というか、そういう使い方を想定しているのだろう。診療所を開こうという大五郎さんの言葉が思い起こされる。

 借りた寝間着から普段着に着替える。昨日着ていた服とは別の着替えだ。昨日着ていた物は洗濯してもらったから今手元にはない。

 ……よく考えてみれば、それも結構恥ずかしい事なのではなかろうか? いや、旅の恥はかき捨てよというらしいから、あまり気にしない方向で行った方がいいんだろう。

 そうだ、どうせいつものことじゃないか。気にしない気にしない。


 洗面所を借りて、顔を洗って、鏡を見る。顔は、大丈夫、大分しゃきっとした。

 寝癖は大したことなかったので手櫛で整える。するとなにやら緊張らしき気持ちが上ってきた。よく分からない。自分は何に緊張しているのだろう。胸の辺りが緩く締め付けられるようだ。これは……?

 ともあれ、洗面所から廊下に出る。そして、幾つも扉があるのに少し迷いながら、人の話し声らしきものが聞こえる部屋へと入る。

 すっと深呼吸をして、身体の中の空気を入れ換える。

「おはようございます」

 ドアを開けて真っ先に挨拶する。すると「おはよう」という声が三つ。テレビを見ながら朝食をとっている先輩、大五郎さん、それから……。

「満くん、夕べはよく眠れた? 患者さん用のベッドじゃ寝苦しかったんじゃないかしら」

 自分より少し背が高い華奢な身体で、緩いウェーブの掛かった長髪の女性が、そんな声を掛けてきた。キリッとしたひのえとは正反対のふんわりとした声色で、聞いているだけで安心できてしまうというか、顔が綻んでしまうような声だ。

「いいえ桜さん、ぐっすり眠れました。おかげでちょっと寝坊しちゃって……」

 自分で口にしてから確認する。目の前の女性は椿谷 桜さん。大五郎さんの奥さんで、ともすれば十代にすら見えるほど若々しい美貌の持ち主だ。だから自分にとっては、奥さんやおばさんというよりお姉さんと言った方がしっくりくるのだけれど、照れるのでよして欲しいと昨日言われてしまった。

「そっか、それはよかったわ。朝ご飯、すぐに準備するから、座って待っててね」

「はい、ありがとうございます」

 桜さんはキッチンの奥へ軽い足取りで歩いて行く。それを見届けてから、先輩たちのいる食卓へとついた。

 先輩たちは、何か面白い番組でもやっているのか、先程からずっとテレビの方を見ながらご飯を食べていた。

 自分に割り当てられた席に着きながら、つられてテレビの方を見ると、やっているのはニュース番組のようだった。見出しは……『双町で歴史的大事件! 双子タワーブリッジの崩壊!』……って。

「え、双町って、地元じゃないですか。これ全国ネットですか?」

「いいや、地方局のニュースだよ」

 大五郎さんは目玉焼きを堪能しながらも応えてくれる。あ、大五郎さん髭にケチャップ付いてます。

「双子タワーブリッジっていう、この町のランドマークみたいなものがあるんだがね。それが昨夜ぶっ壊れちまったって話だ。ほら、また映像が流れるぞ」

 言われて画面を注視する。

 夜の暗闇の中、煌びやかな橋の全景が映し出される。画質はそうとう悪い。解像度は低くてぼやけ、手ブレも酷い。突発的な事態だったのだろう、満足な撮影器具が用意できなかったと見える。

 五秒ほど、ゆらゆら動く一枚絵のような状態が続いていると、突如として橋が揺れ始める。『揺れてる』『地震か?』といった声が入った――直後、橋はぐらんぐらんと信じられないほど大きく揺れ初める。単純な横の揺れだけでなく、波が立つような揺れ方をしているところも出てくる。まるで橋が生きているかのようだ。周りが騒然とする中で、最後に大きく跳ね上がると、橋は真っ二つに割れ、そのまま崩壊していった。

 テレビの向こう側の出来事だからか、あまり現実に起きたことだという実感が湧かない。映像が惚けているのも原因の一つだ。出来の悪いドラマのCG映像だと言われても納得できてしまいそうだ。

「あれって鉄橋でしょう。何をどうしたらあんな壊れ方するんですかね」

 先輩はアジの干物に醤油を掛けながら言う。

「ううん、私はちょっと見覚えがあるなぁ」

「と言うと?」

「タコマナローズ橋」

 先輩の問いかけに、大五郎さんは聞いたことのない橋の名前を口にした。よく分からないので、黙って聞いていることにする。

「たこ……なんですって?」

「タコマナローズ橋。海外にあった橋でね。五十年かそこら前、風に煽られて壊れたんだ。あれの壊れ方にそっくりなんだな」

「へえ」

 先輩は首を傾げている。

「風で壊れるなんて、よっぽど柔な造りだったんでしょうね」

「いや、まあそれは、確かに最近のに比べれば脆かったんだろうが」

 大五郎さんは口髭を撫でつけながら――あ、ケチャップに気付いて拭いた――、思い出すように瞼を閉じる。

「風速としては大したことのないものだったんだ。ただ、風によって生じた渦と、橋のねじれが周期的な力を生んで、橋の揺れと共鳴してしまったというんだ。これを『共振』と言うんだが、そうして生まれた大きな力によって橋が壊れてしまった、と」

 自分と先輩は顔を見合わせ、「へえ」とよく分からない感想を漏らした。タコなんとか橋が壊れたのだろうということだけは理解できたが、その原因を語られてもそれ以上の感想が出てこないのだ。先輩も同じような反応をしているということは、単に自分が不勉強だという訳ではないはずだ。ちょっと安心する。

「もちろん、今では共振の対策も取られているし、そもそも橋の構造が全然違う。自然に同じ現象が起きるはずはない」

「見た目が似てたってだけなんですね」

 自分の台詞に、そうだよ、と大五郎さんがあっけらかんと返してくる。謎知識を披露したかっただけなのではないだろうかこの人。

 ただ、先輩は何か思案げに腕を組んでいた。

「お待たせ満くん。はい、どうぞ」

 お盆の上に朝ご飯が並べられている。話も一段落したことだし、早く食べてしまうことにしよう。

「はい、じゃー行きますか」

 明らかに気乗りしていない感じの先輩が伸びをしている。相変わらず暗めの配色の服で飾り気のない格好だ。飾り気という点では自分も人のことは言えないが。

「僕らは駅の向こう側、西を担当するっていう話でしたよね」

 確認のための自分の台詞に、先輩は律儀に頷いてくれる。

「潜伏してそうな場所、といってもなぁ。どこから手をつけたもんだか」

「とりあえず、行ってから考えてみませんか?」

 それもそうだな、と先輩は歩き出す。自分もそれについて行く。


 時刻は午前、まだ太陽は昇りきっていないが、充分に暑いいつも通りの猛暑日だった。照り付ける日差しに音を上げた貧弱な自分たちは、僅かな日陰を選びつつ、西へと歩き始めた。

 虫たちの合唱はうるさいくらいだったけれど、話し声を邪魔するほどではなかった。短い生を謳歌しようとする彼らを悪いとは言えない自分がいる。でももう少し、音量を下げて欲しいというのが正直なところだった。

「今朝のニュース、実は今でも、何かの冗談だったんじゃないかって気がするんです」

 歩きながらする話は、とりとめのないものばかりだったが、やはり今朝のニュースの話題は多かった。自然と「じゃあ、見に行ってみるか」という話になるのも、やはり時間の問題だったと言える。

 先輩は自分の鞄から桜さんに持たされた双町周辺の地図を取り出して広げる。先輩も土地勘は皆無だそうだが、これなら迷わず進めるだろう。

 二人で歩いていると、ぽつりぽつりと、話とは関係ないことが思い浮かんでくる。先輩って背が高いなとか、やっぱり目つきは鋭いなとか、よく見ると黒目が小さいかな? とか。先輩は昨日いつ寝て、今日いつ起きたんだろうとか、昨夜はどんな夢を見たんだろうとか。話題に出そうとして、でもちょっと躊躇って、こっそりと胸の内に仕舞ってしまう。話題の選択は重要だ。昨日の大五郎さんが言っていた、傾聴と共感。コミュニケーションは一方通行ではありえないという考え方。思えば、自分は少し自分を押しすぎていた感があった。別にそれ自体必ずしも悪くはないと思うけれど、やり過ぎは傾聴にも共感にも支障を来してしまう。相手の言うことをちゃんと聞いて、相手の気持ちを考える。それはきっと、今までの自分になかった何かを与えてくれる、そんな予感がするのだ。

 あれこれ話しながら歩くこと一時間とちょっと。昨日使った駅を通り過ぎ、お目当ての橋の近く辺りまで来る。今いる通りは商店街になっているようで、民家よりも商いをしているお店の方が多い。丁度いい時間なのか、ほとんどの店舗が戸を開き、活気づいて商売に勤しんでいた。この辺りは昨日、大五郎さんに案内されて少し見て回ったが、歩いているだけで店員から声を掛けられるくらい賑やかで、一つ一つ見て回るだけでも結構な時間が掛かってしまう。勿論、今はそういう目的で来ているわけではないので、並んでいる商品にちょっとだけ目を奪われながらも、足早に目的地へと急ぐ。

「うわ、なんだあれ」

 と、先輩が何かに気付いて嫌そうな声を上げる。

 先輩の見る先には、なにやら人だかりができていた。これまでの道も結構な人の往来があったが、そこは満員電車のごとくより一層の混み具合で、見ているだけで胸焼けがしそうだった。

「考えることは皆一緒、ってことですかね」

「暑苦しいなぁ。まあ、あんな風に報じられれば野次馬も湧くか」

「近くまで行くのは大変そうですね。遠目からでも、壊れた橋が見える場所がないか、探してみましょうか?」

「なら、湖沿いに北東方面へ行ってみるか。この辺」

 地図を見せて貰う。橋は北から南へ真っ直ぐ架かっていたはずだから、東から見れば全貌が見られるだろう。

 湖の方へ向かいつつも、自分たちは本来の目的を果たすべく、人が隠れられそうな裏道やら裏路地やらを覗いて回っていた。勿論、大方の予想通り、そこには猫ぐらいしかいなかったのだけれど。

 暗がりを眺めていると、夢の出来事を思い出す。真っ黒い何かに後ろを取られ、延々と追い掛けられる夢だった。怖さはない。怖いけれど、それ以上の何かに追い立てられていた。

 追い掛けられる夢。だが、それ以上に何かを果たそうとする夢。違う。そもそもあれは夢などではなく――

「これじゃあ、逆さまだ」

「ん? なんだって? カミヤ」

 つい、考えが呟きに出てしまったらしい。

 しまった。先輩が、怪訝そうな顔をしている。

「いえ、その。――そう、夢です」

「は?」

 袋小路から引き返してきて、先輩がこちらへ歩いてくる。

「夢を見たんです」

「夢ぇ?」

 あ、怪訝そうな顔から胡散臭そうな顔に変わった。傷付くなぁ。先輩の顔でそういうことされると本当に傷付く。この人ホントに自分で分かってないのかなぁ。

「追われている夢を、見たんです」

 だから自分は、つい本当のことを言ってしまう。

「ああ、そりゃあ確かに逆さまだな。本当は追い掛けてる側だってのに」

「――ええ、本当に」

 自嘲で笑ってしまう。どうしてそんなことを言ってしまったのか。一手遅れて、何もかもが遅いのに、取り繕う言葉を探してる。

 一体何が逆さまなのか。それは、それだけは、先輩には知られてはいけないことだったから。

「そうだ先輩、明晰夢って知ってます?」

「明晰夢」

 オウム返しに言って、先輩は頷いた。唐突に変な話を持ち出してしまったが、幸いにもまだ使ったことのない話題だったから、話は続けられた。自分自身のことだったけれど、これなら先輩も興味があるだろうという心算もあった。

「夢だと自覚のある夢だ。それがどうかしたか」

「僕、ある程度ですが、明晰夢を自由に見ることができるんですよ」

 ちょっと自慢げに、自信を持って言う。でも先輩はそんなに驚いた顔をしてくれなかったので、ちょっと残念だ。

「なに、そういうの流行ってんの? 俺の知り合いの大学生が、似たようなことやろうとしてるんだけど」

「さあ、流行っているかどうかは分かりませんけど」

 ちょっとどころではない、がっかりだ。自分以外にもこの特技を持っている人が、よりにもよって先輩のすぐ近くにいたなんて。

「けど、結構半信半疑なんだよな。あんなもの、そうそう狙ってできるもんじゃないだろ? 普通。忘れた頃に、ほんのたまに見るくらいが関の山だ」

 活路を見出してはっとする。

「訓練すれば見られるようになるんですよ。僕も今の精度――週に三回見られる程度まで上げるのに五年は掛かりましたが」

 話している内に熱が籠もり始める。今まで話題にしなかったのが不思議なくらい、これまでの自分の大部分を占める話だ。自分のことを知ってもらいたいという欲求が勝る。それでも、先輩の様子を窺う余裕だけは残しておくように心がけた。

「ははあ。まあ、好事家の楽しみだよな」

 先輩は興味があるのかないのか、どっちつかずの様子だった。もう少し食い下がっても大丈夫だろうか?

「でも、先輩だって思うでしょう? 自由に明晰夢が見たいって。夢の中なら何もかも、思いのままですよ」

「そりゃあ、悪夢を見せられるよりはいいだろうけど」

 少し先輩のイメージがぶれる。というより、やはり先輩は現実主義者的な物言いをする。文字通り夢見がちな人ならば、明晰夢の話には食らい付いてくると思ったんだけど。

「じゃあなんだ、追い掛けられる夢も、見たくて見たって話?」

「あ、いえ、その」

 言われてから、ああそう聞こえてしまったのかと思った。確かにそういう話の流れだった。

 だが実際は、違うのだ。

「今日のは失敗でした。というか、最近はちょっと失敗続きで、明晰夢、なかなか見れなくて」

「なんだそりゃ」

 先輩が呆れた顔をしている。またちょっと傷付いてしまう。

 自分は頭をかいて笑うしかない。

「ちょっと訓練をサボるとすぐ精度が落ちちゃうんですよ」

「ふーん。訓練って、どんなことすんの?」

 上手く先輩を誘導できた。心の中でガッツポーズをしてみる。

「簡単ですよ。ちょっとやってみましょうか」

「ここで?」

 そう聞かれて、先輩と自分は立ち止まって向かい合った。

 日向だったので、どちらともなく日陰にスライドする。風のない暑い日で、自分も先輩も時折汗を拭きながら遣り取りを続けていた。

「自分の手を見てください。じーっと凝視してください。手相を見るような感じで」

「うん」

 2人して自分の手を見つめる。端から見ても怪しい2人組だが、少しくらいは勘弁して欲しい。

「そしたら、頭の中で唱えても、口に出してもいいから、こう言うんです。『これは夢だ』と」

「これは、夢だ」

 半信半疑が表に現れた声だったけれど、先輩は真面目に付き合ってくれた。それが本当に嬉しかった。自分の言葉が相手に届いていると実感する。これまでの人生で乏しかった恵みが得られたようで、心からの喜びに打ち震えた。

「これを、ふとしたときに繰り返すんです。現実で徐々に慣らしていけば、夢の中でも同じ事ができるようになる。そうすれば」

「明晰夢になる、か」

 先輩は自分の手を見つめながら、また歩き出した。自分もそれについて行く。

「凝視するっていうのがポイントなんですよ。夢の中で、意識がはっきりするんです」

「ふーん。やること自体は確かに簡単だけど、続けるのが難しそうだ」

「まあ、暇で暇で困ったときにでもやってみてください。明晰夢、見られるようになると面白いですよ。こう、生きる気力が湧いてくるというか!」

 そうだな、と先輩は返してくれた。

 それが嬉しくて、自分は小走りに先輩の隣へ駆け寄った。

 そうこうしているうちに開けた場所に出た。人だかりができていた場所からぐねりくねり入り組んだ小道を北東方面へ抜けると、件の湖が見えてきた。湖の周辺は遊歩道になっており、思っていたよりも広い場所になっていた。犬の散歩をしたり、ランニングに勤しむ人の姿がちらほらと目に入る。この暑い中恐れ入る行為であることは間違いなかったが、自分たちの興味が彼らに注がれることはなかった。その段階で、左手方向――北西に位置する問題の橋は、充分に見えていたからだ。

 先程よりは少ないとは言え見物人は多かった。ニュースを見ていなければ何事かと驚いたことだろう。ともすれば、はてこの国内で二番目だか三番目だかに広大な面積を持つ湖には、拝観することで何某かの御利益があるのだろうかと思ったかも知れない。どこかの国には、硬貨を投げ入れることで幸福になれるとか、そんな感じの湖だってあったはずだし。……もちろんそんなことは、事実として一切ないわけではあるけれど。

 自分たちは少しでも人の少ない場所を見付けて、湖の端に立って、橋の方を見た。

「……本当に、すごい有様だな」

「ええ」

 呆気にとられて、ひどく簡単な返しをしてしまった。

 昨日パンフレットで見た橋の全景を思い出しながら、今目の前に広がっている光景を比べてみる。どうも、巨大な何かに ねじ切られた ・・・・・・ ようにしか見えないのだ。巨人が現れて、橋を掴んで、力一杯引っ張りでもすれば、あんな惨状にもなるだろう。本来繋がっていたのだろう橋の両端が、今では共に湖に突っ込んでしまっている。橋の下の鉄骨も全て滅茶苦茶に折れ曲がっていて、どう贔屓目に見ても復旧は遠い未来のことだろうと思えた。ニュースによれば、事が起きたのは深夜だったために死傷者ゼロ人だったというが、それが信じがたいほどの悲惨な情景だった。

 破損した巨大な橋の有様は、不吉な何かを予感させるものだった。あの砕けた鉄骨の一部が蛇のように動き出して、今にも自分たちを襲ってくるような……あるいは、あの橋の影から何か良からぬモノがこちらの様子を窺っているような、そんな妄想すら抱いた。……そう、妄想に過ぎない。橋の上には、一つの人影さえないのだから。

 知らず立ちくらみを起こして、一歩後ろに下がる。だがすんでのところで踏みとどまって、足を元に戻す。あの程度の不吉がなんだというのか。だって自分はすでに、あれ以上の恐怖の塊を目の当たりにして、踏み込みさえしたではないか、と。

「何をどうしたら、あんなことになるんでしょうか」

「それは……」

 先輩は相変わらず鋭い目つきで、壊れた橋を見つめていた。先輩は何かを考えるように一拍置くと、考えをそのまま口にするように、話し出した。

「とても自然にああなったとは思えない」

「ええ、そうですね」

「となると、人為的な何かだったと言うことになるけど」

 先輩は腕組みをして、何か秘密を語るように、声を潜ませて言った。

「まず考えられるのは、擬獣の仕業ってことだ」

「擬獣……」

 擬獣。フォーベット。闇夜を背景に跋扈する怪物。それの仕業を、人為的というのは少しだけ違和感があったけれど、確かに先輩の言うことも分かる。例えば、空を覆うような巨大な何かがいたとすれば……。例の映像には映っていなかったけれど、そもそも擬獣なんてものがビデオカメラなんかに平然と映るものだったとしたら、今頃擬獣は一般に知れ渡っているのだろうし、問題にならない。

 考えてみれば、この国には山を動かした巨人の伝説もあったはずではなかったか。今風に言えば都市伝説に近いのだろうけれど、そういう話が今でも残っているというのはつまり、そういった存在の証明になるのではないだろうか。

 ……考えただけでもぞっとするけれど。神話の時代から遠く離れた現代、目の前にそんな巨人が現れたらと思うと、身が竦む思いだった。

「次に考えられるのが――俺としてはこっちの方が現実味あるんだが」

 先輩は少し遠回りした言い方をして、ちらと自分の方を見た。

「界装具を持った誰かの仕業」

 先輩は、先程よりも確信を持った強い声色でそう言った。

 だが、先輩の言うような現実味は、自分には分からなかった。人為的とは言ったけれど、本当に実在の人間に、あんな真似ができるだろうか? それだったら、巨大な怪物が橋をへし折ったといった方がイメージできる。

 自分がその考えを口にすると、先輩は静かに首を振った。

界装具 あれ も充分人知の埒外だよ。何でもありだ。橋を潰すくらい幾らでもやってのけるさ」

 それに、と先輩は続けた。自分は油断しきって、その言葉を受け入れる準備をしてしまう。

「神谷 満のドッペルゲンガー。その仕業なんじゃないか?」

 心臓が、どくんと強く打った。何も考えられなくなって、先輩の方をじっと見つめた。

「……なんの、ために?」

「さあ」

 呆気なく先輩は言い放って、橋とは反対方向へ歩き出してしまう。自分は慌てて、先輩の後を追う。

「それが分かったら苦労しないさ。まあ、その辺はひのえが見付けるだろ」

「それは……そう、ですね」

 そうか、ひのえはこの件を調べるために朝、……そう、『急遽話し合わなければならない案件』というのがこのことだったんだ。だとすれば、ひのえも考えている可能性は高い。橋を壊した犯人が、神谷 満のドッペルゲンガーである、と。

「複雑だな、カミヤ」

「え?」

「お前は何もしてないのに、もう一人の自分とやらが好き勝手動いてさ。迷惑な話だろ」

 自分は、何も答えられなかった。そうだ、先輩の言うとおり、これは複雑な問題だ。多分、先輩が思っているよりも、ずっと、ずっと。

「現実味はないってお前は言ったけどさ。例えばミキなら、あれくらい簡単にやってのけるよ」

「え、まさか……」

 言ってから、いや、と思い直した。相手はあの三鬼 弥生だ。それこそ赤子の手をひねるように、鉄橋を真っ二つにさせてしまうだろう。

「……怖い人ですね、弥生さんは」

 何でもないように自分は呟いた。それは心からの言葉だった。

 それを、先輩は立ち止まって、信じられないものを見たような目で、自分を見た。

「先輩? どうかしたんですか?」

「お前、今怖いって言ったのか」

「はい」

「ミキが?」

 はい、と頷いた。しかし先輩は、なおも自分のことを、観察するかのように見つめていた。なんだか恥ずかしくなって、朝の寝癖がまだ残っていたのかな、なんて思って、頭を撫でてしまう。

「……珍しいんだぜ、そういう反応ができる奴は。大抵は一から十まで、馬鹿みたいにべた褒めするばっかりなんだ」

「そうなんですか? ああいえ、そういえばそういう話でしたね。誰にでも好かれてる、とか……」

 自分には信じられない話だ。あの三鬼 弥生が、そんなに人気者であるだなんて、至極おかしい話だ。リアリティがない。犬が盆踊りをするような笑い話だ。

「お前、変わってるな」

 そう言った先輩の顔は、これまでより少しだけ、柔らかいものになっていた、ような気がした。

「そんな、普通ですよ。先輩だって、あの人は苦手でしょう?」

 まあな、と先輩は肯定してから、頭を掻いた。そうして二人、また歩き出す。

「複雑なんだ、色々」

「そうですね、複雑ですね」

 なんだかおかしくなって、ぷっと吹き出してしまう。世の中、複雑なことばっかりだ。自分たちが幾ら考えても、分からないことだらけだ。大五郎さんはなんで医者になろうとしたのかとか、どうして桜さんは大五郎さんを選んだのかとか、あのひのえでも年相応に恋なんかするのだろうかとか。考え出せば分からないことばっかりじゃないか。

 分からないことは、面白い。分からないと言うことは、これから知ることができるということだから。学校の授業みたいなものだ。新しい知識を教えてくれる。図書館なんて宝物庫と同じだ。

 未知というものはどうしようもなく、怖いのと同じくらい、魅力的なものに、自分には思えるのだ。

 ……もちろん、手を尽くせば知ることができる範疇で、という縛りはあるけれど。

 三鬼 弥生が、その例外であるように。

「三鬼 弥生親衛隊って知ってるか」

「なんですかそれ。子ども向けにしてもつまらないアニメに出てくる集団みたいな」

「うちの高校の馬鹿どもが馬鹿やらかして作り上げた末に崩壊した馬鹿みたいな組織だ」

「あはは、崩壊しちゃったんですか」

 ざまあみろ、なんてことは自分の口からは言えなかったが。

 なんというか、胸がすっとした。

「空回りしちゃったんですね、ファンの間で。よくある話ですよ。本人より、応援している周りの方が白熱しちゃって失敗するなんてこと」

「そうだな。端から見てて痛々しいんだ」

「でも、ちょっとだけ微笑ましいですよ。それに羨ましいです。そんな風に、一生懸命になれちゃうのって」

「お前にだってあるだろ? そういうの」

「まあ、多少は。でも僕の場合、色々と制約が付いちゃって」

 へえ、と先輩が言う。先を促されているようにも思えたけれど、それはまだ言えそうになかった。

 言えなかった。

「先輩こそ、何か打ち込めることがあるんじゃないですか? 例えばそう、部活動とかはやってないんですか?」

「部活は、やってないな。打ち込めるものも、特にない」

 そうですか、と返す。ちょっとだけ意外だったけれど、そこまでのことでもないのかな、と思い直す。自由だからといって自由に振る舞えるかどうかは別問題だ。昨今、自分の適性や天性というものに悩む若者は多い、という話も聞いたことがある。自分が何に向いているか分からない。もっと言えば、何をすれば楽しいのかさえ、分からない。何をやっても無味無臭、興味も湧かなければやる気も起きない。地図がない、というより目的地のない旅。それは確かに、苦しいものなのだろう。

 でも、自分からすればそれはおかしな悩みだ。分からないのなら、とりあえずやってみればいいではないか。何をやるにも自由なのだ、やれるだけのことをやってみればいいんだ。まさか、世界にある全てが既知である、なんていう訳でもないのだろうし。自分のやってみたことのない、遊びでも仕事でも趣味嗜好でも、やってみればいいではないか。苦しいのなら、歩き出せばいいだけではないか。歩けるのだから、歩けばいいじゃないか。

「きっと見付かりますよ、先輩にだって、打ち込めるものはできます」

 だから、自分は確信を持って、そういう言葉を口にできた。

「……そうだといいな」

「そうですよ。どうせ歩けるなら前へ、です。先輩ならきっとできますよ」

 応援したい。先輩が、先の見えない旅路に迷い、苦しんでいるというのなら、少しでも早くそこから抜け出して欲しい。精一杯生きて欲しい。そう、心から思えたから。