前
「あぁそりゃあ、君のことが好きなんだろうなぁ、ハハハ」
カーン、と白球が弾け飛ぶ。ライナーは一、二塁間を鋭く抜ける文句なしのヒット性である。
「気色の悪いこと言わないでくださいよ、っと」
キン、と白球は詰まる。当たり損なった内野ゴロは緩やかにピッチャーマウンドへ転がっていく。
「お、とっ、えいっ!」
バスン、と後方で音がする。ボールはバットに掠ることすらなく、キャッチャーミット……ではなく、バックネットに突っ込んだ。
「第一ね大五郎さん。好意のある奴が相手なら優しくなりませんか普通。まさかアレが、好きな男には意地悪したくなるようなガキ臭い性癖持ちだとか言わないでしょうね」
カン、と今度は三遊間あたり。ただし球速の乗りが悪く完全ゲッツーコース。
「感情の表し方は人それぞれだよ。それに私に言わせれば、弥生ちゃんはかなり惚れっぽい方じゃないかな」
「まさか」
即座に否定する先輩。
「彼女は他人のいいところを見つけ出すのが上手いんだ」
カーン、ともう一発。今度は綺麗な弧を描く、優等生のようなセンター前ヒット。
「だから誰でも好きになれる。弥生ちゃんは今の学校でも人気者だろう? 人気者というのは得てして、そういう性格の人間が多いんだよ」
褒められるのは嬉しいからね、と大五郎さんが語る。その二つ隣で、自分は三球目の空振りをかます。出来ることなら振り逃げしたい。
「八方美人ってのはそもそも悪い意味の言葉ですよ。というか、なんだ。俺、ミキからまともに褒められた記憶なんか一個もないんですけど」
「良くない方向へ行きそうになったら回れ右して軌道修正、人生の基本だぞ。つまりそれは、君が彼女にとって特別だという証拠に他ならないじゃないか。可もなく不可もなくという評価が一番拙いんだ、喜んでいいよ」
「嬉しくねぇ」
カーンと一直線、ピッチャー強襲コース。まるで親の仇でも狙い打ったかのような迫力満点の打球である。
「好かれるのも嫌われるのも面倒が多すぎるんですよ。それを考えれば無視してくれた方がむしろ有り難い。アイツが俺のことなんて呼ぶか知ってるでしょ。『チリ君』ですよ、塵ですよ。罵倒なら罵倒らしく正面から殴りつけるみたく言いやがれってんだ」
ああ、やっぱり気にしてたんだ先輩。同情の余り……という訳ではないけれど、自分の振ったバットは初めてまともにボールを捉え、大凡ピッチャーの頭上を通り抜けていった。
「塵ねぇ。それは弥生ちゃんが言ったのかな」
「そうじゃないですけど、他に何があるんです。仮に他の意味だったとしても、そう呼ぶときのアイツのにやけ顔見たら、とても友好的なもんじゃねぇことは確かですよ。何が酷いってあの野郎、知り合い全員にそのあだ名広めるもんだから、もう俺を本名で呼ぶ奴なんか零ですよ零。真に受けた全員ってのは端から端まで一人残らず、ミキヤヨイファンクラブとかって邪教の一員なんだぜ。まったくそれは、一体何の呪いなん、だっ!」
先輩が盛大に空振りをかます。静かで、話し声も良く通る開けた空間に、フルスイングが木霊する。芯に命中さえしていれば、相当な飛距離を叩き出したに違いない。
ふむ、と大五郎さんはバットを地面と水平に構え、バントの体制を取る。何かと思えば、そのままバットを引いて普通にバッティング。ちょっとした技術が要るらしいバスターというやつだけど、それはそれでちゃんと前に打球が飛ぶし、一連の動作にも一朝一夕のぎこちなさはない。やっぱりあの人は経験者だ。バッティングセンターでわざわざバスターやるあたりもう間違いなく。
「対人コミュニケーションの基本は二つあるって知ってるかい」
内野を抜けていく打球を気持ちよさそうに見届けてから、大五郎さんが自分たちの方を向いて言った。
「距離感と選択」
「ええと、優しさと笑顔?」
それぞれの答えに、大五郎さんはうんうんと頷いた
「専門的なところではね、『傾聴と共感』と言われている。互いに相手の言葉に耳を傾け、理解に努めること。そしてその心に共感し、自分のもののように思えること。そうやって徐々に自分と相手の距離を縮めていくことが、最良の人間関係を作っていく訳だ。そういう意味では二人とも正しいな。適切な距離感を持とうとする意識は、人を優しくさせるものだから」
自分たち二人も大五郎さんに向き合う。お構いなしに放られてくる白球があと何球か続くはずだけど、放っておいて良さそうだ。
「人間は十人十色だ。他人に対して一つの接し方しか知らないのでは、理解し合える相手も自ずと狭まってしまう。だから、より多くの人といい繋がりを持つためにはね、相手を正しく理解しなくちゃいけないんだ。その理解無くしては、つまり互いに誤解があっては、表面上で上手く付き合ってるように見えても、どこかで食い違いが生まれてしまう。相手への思い遣り、自分に対する戒めが、自分の思う通りの結果を生まない原因はそれだ」
自分にも――そして恐らくは先輩にも――思うところはあり、返す言葉が浮かばない。だって、そのすれ違いを経験したことのない人なんて、いるはずがないんだから。
「重要なのはね、それらは決して一方通行では成り立たないという点だ。お互い上手くやって行くには、お互いにそういった意識を持たなくちゃならない。それを知っている人間は、自ら傾聴と共感を実践すると共に、相手に促そうともする。
弥生ちゃんはさ、チリ君。きっとその名前をすごく気に入っているから、他のみんなにそれを共感して貰おうと、一生懸命働きかけたんじゃないかな」
にかりと、真っ白い歯を見せて笑う。その笑顔には迷いがなくて、自信に溢れていて。頼もしすぎて涙が出てくる。あの弥生を直に見た後でさえなければ、今の言葉だけで、彼女の印象を大きく間違えて抱いてしまっていたことだろう。
逆に言えば。こんなにも信頼に足ると思える大五郎さんの言ですら、あの三鬼 弥生から感じた恐怖を、覆すことはできなかったのだ。
だって。どんな人にも優しく、どんな人とも仲良くなんて、ただただぞっとするしかない。人と繋がりを持つのは、そんなに簡単なことではないはずだ。
大五郎さんの言うことは正しいのかも知れないけれど、それはあくまで理想論。実践しようと思えば、その苦労は半端なものではない。多くの人が挑戦して、結局その理想を諦め、妥協するしかなくなって、囲いを狭めた自分なりの領域を定める。そしてその領域の中ですら、成功と失敗を重ねて重ねて、重ね続けて。そこで味わった挫折と後悔の連続を以て自分たちは、やっとのやっとで紡ぎ上げた人と人との繋がりの大切さを、胸の奥の奥に刻んでいくんだ。
だが。ひのえは、弥生は誰にでも優しいのだと言った。先輩の話からすれば、弥生の影響は先輩の知る全ての人に及んでいるという。まったく環境の違う二人が、それぞれの持つ領域全てにおいて、三鬼 弥生はその理想を叶えていると言っている。もしかしたら、影響された全ての人にとっても、また同じことかも知れない。
まるで子ども向けファンタジーに出てくる“立派な王様”だ。空想上の人物。尾ひれ背びれの付いた大昔の偉人。絶対に存在してはいけないフィクションキャラクター。背の高い建物の屋上から広い外界を見下ろした時のように、全身が竦み上がり、意識が飛びかける。非現実の世界に生きる彼等はヒーローとして称えられるが、現実の世界に這い出してきたソレらは、常識を滅茶苦茶に蹂躙する、恐ろしい怪物でしかない。
三鬼 弥生はその類だ。決して有り得ないことを叶えてしまう規格外。目の前にあってなお信じがたいその所業。漠然とした恐怖は、明確な理由を得ることで更に強調される。いや、単に常識外れというだけであれば、ここまでの重圧は感じない。
そうだ、あの顔だ。あの弥生の顔を思い浮かべると、その奇跡のような理想の姿すら、何か別の思惑があって演じているかのように思えてしまうのだ。自分たちには想像も及ばない、きっと、良くはない思惑があって……。
「ううん、なんだな。なんで二人とも、そんな微妙な顔するんだ」
長いようで短い沈黙が、半笑い漏れた大五郎さんの声で破られた。と言うと、後頭部しか見えていない先輩もまた、自分と同じような思考を巡らせているのだろう。非常に嬉しいことである。
「むしろ、聞きたいですよ。なんでそんな風にアイツを見られるんです。ひのえも、学校の連中も全員そうだ。なんで、何か裏があるんじゃないかって思えないんだ」
先輩の言うとおりだ。現実の分を超えた理想を叶えられるという恐怖を、崇拝に結びつけられたとしても。そこに裏があるのだとすればただのペテン師だ。ひのえや大五郎さんのように、信用なんか出来るはずがない。
疑問を投げ掛けられた当人は、当惑した顔を――浮かべるどころか、至極幸福そうに、声を上げて笑っていた。
「信じたいと、思うからじゃないかな」
マウンドの方を見据えて、大五郎さんが言った。なんてロマンチックな台詞を吐きやがるあのクマゴロウ、と陰口を叩いたのは後の先輩である。
「裏は、勿論あるだろう。それは彼女に限らず、誰にでもあるものだ。それでも、少なくとも私は、彼女の出した一つの結果を見ている。そして私も、彼女は信じられると答えを出した。彼女の、他人を想う気持ちは本当だと、そう思えたから」
言いながら、大五郎さんは再びバットを構える。見ればカウントは“1”、最後の投球を前にして、厳のように力強くずっしりと、この上なく安定したフォーム。身長にして二百に迫る巨体が、まるで獲物を待ち構える肉食動物のように静止して、
「そう。彼女が信じられる人間か否かじゃない。私は、私の出した答えを、信じているだけなんだ」
ふわふわと、弱々しく泳ぐ白球が吸い寄せられ、打者の眼前で捕らえられ、銃声のような快音と共に、鋭角を刻んで弾け飛ぶ。
空は、僅かに朱色に染まり始めていた。蕎麦屋を出てから、この双町の色々な場所を案内してもらっていた。それがあまりに楽しすぎて、もうそんな時間なのかと、今更に驚いてしまうくらいだった。そうして他所に気を取られ、見失っていた打球は、実際の球場ではバックスクリーンのあるだろう位置に備え付けられた円形の板にぶつかって、鈍い音を響かせた。特に何が起こった訳でもないのだが、その板には申し訳程度に『ホームラン!』なんて、掠れた文字が書いてあったりした。
「あれ、可笑しいな。ホームランになるとファンファーレが鳴るって聞いてたんだけどな」
この寂れた、自分たち以外は誰も入ってこないようなバッティングセンターで、期待できるようなファンファーレがあるとは思えないが、それすらも電池切れか何かで不発に終わった。洒落にも皮肉にもなりきっていない。
シーンと、誰も何も言わないどころか、誰も何も考えてすらいないだろう、漫画のような時間が流れる。寒い。色々と夢中で忘れていた、恐ろしく暑い中で運動などして三人とも汗だくだというのに、身体が震えるほど空寒い。
「うん。じゃあ、そろそろ次行こうか」
何事もなかったかのように言い放つ大五郎さん。先輩は可哀想に、ガックリと力なく項垂れる。あの様子だと先輩、大五郎さんの最後の言葉にも納得していないのだろう。
とにもかくにも、こんな感じで自分たち三人の話し合いは、面白いくらいにちぐはぐだった。大五郎さんはいいことを言っているんだろうに、なんだか格好付かないし。先輩は意外と食いつくのに、そんな様子だから毎回脱力してるし。本当に締まらない。ぐだぐだだ。喜劇にも使えない。
でも自分には新鮮で、そうやって聞く話も、町で見る物も、何だって楽しめた。だって何もかも、全部、初めてのものだったんだから。
一陣、からりと乾いた風が吹く。頬を伝う汗を拭う。熱の籠もった身体が誇らしい。いい運動をした。いい汗を流した。そう、それさえも、そんなことですらも。自分には、本当に、初めてのことだったんだ。
「楽しいですね、先輩」
ふと、口が開いた。それが自分の言葉であることに、一瞬気が付かなかった。それは本心で、紛れもない心からの気持ちで。
「こんなに楽しいのは、初めてです。本当に」
先輩を見る。こっちを見ている。いつも疲れているみたいで、いつも何かに怒っているみたいで。でもきっと、同じ気持ちなんだと思う。そう思いたい。今日一日で疲れたけれど、大五郎さんとの会話は大変かも知れないけれど、それでもきっと、先輩だって、今が楽しいって思ってくれているって。
「先輩?」
先輩は黙って、凄く面倒臭そうな顔をして、僕の方を――いや、僕の後ろの方を見ていた。僕も振り向く。そして、その意味を理解した。
「カミヤ、大五郎さんに伝えてきてくれ。お姫様がご立腹だ」
柵の向こうに、凄く怖い顔でこちらを睨み付けている、ひのえが立っていた。
後
「いやぁ、すっかり楽しくなっててな! つい帰りが遅くなった!」
ひのえを加えた四人、夕焼け空の下を歩いて行く。ただし並んでいる訳ではなく、スタスタと先を行こうとするひのえを、自分たち三人が追っている形だ。ひのえの足取りは些か乱暴で、ちらりともこちらを見ようとしない。
「な、なんかかなり怒ってませんか? ひのえさん」
「そりゃあな。椿谷邸に、先に向かった筈の俺達がいなかった上に、わざわざ探しに来てみたら遊んでたんじゃなぁ」
「ああ、一緒に遊びたかったんですね」
「それ、聞こえたら益々怒るぞ」
何故だろう、と一瞬思ってしまった辺り、自分も浮かれすぎているようだ。
ひのえの顔は見えない。だがその背中を見ていると、なんだかもの凄く責められて、あれこれ罵倒されているような気になってきた。気安く声を掛けようものなら、ドカンと爆発してしまいそうな。冷静になってみると、ひのえには悪いことをしてしまった。誰だって、真面目に働いたり勉強しているときに、周りで遊んでいられたら怒るだろう。たぶん、きっと。
せめて一言謝ろうと口を開く。だが、
「ところでひのえちゃん」
奇しくも、遮る形で響いた野太い声にたじろいて、完全にタイミングを逃してしまった。
「夏臥美町では、弥生ちゃんに会ってきたんだろう? 元気だったかい」
ぴくりと、ひのえの肩が反応を示した。
「ええ、勿論お元気そうでしたが。それがどうかされましたか」
「初めての一人暮らしだ。まだ日も浅いんだし、色々と困り事があるんじゃないかと思ってさ」
「まさか。大五郎さん、一体誰のことを話しているのですか。弥生お姉さまですよ? 学業や運動は当然にして、家事だって昔から完璧でしたもの。例えばそう、大五郎さんも、お姉さまの手料理を口にして、絶品だったと高く評価していたではありませんか」
「そうそう、あれは旨かったなぁ。いつだったかの正月に出されたお節料理だったか、最近忙しくてご無沙汰だったんだが。なあ、二人とも知ってるか? 三鬼の家の正月料理作りには弥生ちゃんがメインで参加してたんだが、毎年二十段重ねの重箱が綺麗に空になるんだぜ」
「にじゅうだん?」
先輩と自分で声が二重になった。何と返すべきなのだろう。数字的にも信じられないのだが、あの三鬼 弥生が台所に立って腕を振るう姿が想像できず、とんと実感が湧かない。
「家内はそう、結婚する前に一度会ったとき、弥生ちゃんに洋菓子の作り方を教わっていたかな。まあ、なるほどそうか、それなら心配は要らなかったか」
「当たり前です。そうそう、料理長の三宅さん、今年とうとうお辞めになったんですよ。一流の料理人だからと住み込みで働いて貰っていましたが、なんでも一から修行し直したいとか」
「うん、あの人も生真面目だものなぁ。私も一度相談を受けたよ、自信がなくなってしまったんだと」
何気ない世間話のようで、しかも大五郎さんはにこやかに話しているから騙されそうだが、内容はまさに雲の斜め上の話である。どこから突っ込んでいいのか分からない。実は流行のアニメの話をしているんだとか、そういうオチが付いて欲しいとすら思う。それは兎も角、いつの間にかひのえが饒舌に話したりしている辺り流石大五郎さんである。
「いやいや安心したよ。それはそうとひのえちゃん、今日の首尾はどうだったんだい」
二つ三つの三鬼弥生武勇伝のあと、ようやく自分たちにも関わる話が回ってきた。スイッチが勝手に切り替わるように、知らず意識が集中する。ひのえの小さな後ろ姿からは怒気が薄れ、その落差のせいか、羽でも生えたのではないかと錯覚するくらい、軽々としているように見えた。
「どうもこうも、退屈な平穏そのものでした。監視者からして暇を持て余していると公言する始末で。喜ぶべきなのかどうなのか」
「うん、まあ。それは喜んでおこうか。事が事だからね。それに良かった。このまま一日二日でとんぼ返りとかになったら、流石に私らも寂しいよ」
約束された一週間、何事もなく過ぎて欲しい。ごく当たり前の願いであり、それは誰しもが思うことだろう。自分だってそうだ、今日一日過ごしただけでその想いは強く増した。一日でも長く、こんな楽しい日々が続いて欲しい。それを否定するなんてこと、冷酷無比の殺人鬼にだってできやしない。
「ですが、そう言って油断する訳にはいけません。そのために私たちがここへ来たのですから。カミヤさん、チリさん、それから大五郎さんも。あまり気を緩めすぎないようにお願いします」
合意する男三名。とりあえず嵐は去ってくれたようだ。案外呆気ない。目の前にいるのが妹の方で良かった。本当に良かった。
「それで、目的地まで少しの間、今後のことを話しておきます」
一瞬だけ、ひのえが後ろを振り返る。睨まれるのではないかと思ったから、可愛らしい横顔を見られて、どきりとしつつも少しだけ安心できた。
――それなのに。とても複雑な気持ちを抱えていることにも、気が付いてしまった。
「明日からの行動は、基本的には今日と同じです。まず、私は監視者と一緒に対象の周辺に張ります。日中は手分けして、夜間は私一人で、襲撃者に備えます」
ひのえの言葉に、すぐさま「いや」と意見するのは大五郎さんであった。
「夜間ってそれ、徹夜する気だろうひのえちゃん」
「健康に悪い、なんて忠告は結構ですよ大五郎さん。前例からしても、今件の犯人は、人混みの中堂々と殺人をやるほど大胆ではありません。ですから夜こそ、最も警戒すべき時間なのです」
誰でも分かるくらいの正論であるが、それをやろうとしているのがひのえであるというのが普通ではない。
「逆にすればいいんじゃ? 夜間こそ交代制にしとけよ」
「それは」
先輩に指摘されて、すぐ突っかかるように反論するかと思ったが、ひのえはそれ以上続けなかった。違和感だ、まったくひのえらしくない。だが丁度そう思ったとき、
「警戒すべき夜だからこそ、私一人で良いのです。監視者は戦闘には不向きですし、足手まといはいない方が、私としては助かりますから」
自信に満ちたような台詞を彼女は、先ほどの違和感そのままに口にした。大五郎さんは「頼もしいなぁ」などと笑っているけれど、自分にしてみれば受ける印象は真逆だった。
「そんなことより、私が心配しているのは貴方たちです。チリさんとカミヤさん、お二人には明日からも二人で行動して頂きますが」
「やっぱり俺も手伝うのか」
「担当は主に町の西側となります」
途中の先輩はやはり無視され、ひのえは先へ進んでいく。
「と言うのは、今回の監視対象の住居が東側にあるためです。私たちとチリさんたちで、駅を境にした東西を分担することになります。そして、襲撃者と思われる怪しい人物を捜索します」
襲撃者と思われる怪しい人物を捜索します。ひのえはそう言った。
「町の東西、って。町だぞ町。とても三人四人でカバーできる広さじゃない」
「何も、端から端まで徹底的に探す必要はありません。見つけ出して捕まえろとも言いません。この町の中でも、潜伏しやすそうな場所を巡って頂ければそれでいいのです。それだけで充分です」
ひのえがこちらを向かずに話しているのは、或いはわざとなのかも知れない。そんな風に感じつつも、一応疑問を投げることにする。
「それって、意味があるんでしょうか? いるかどうかも分からないただ一人の相手を、こんな少人数で探すんですから、難しいことではあると思いますが」
「探す意味があるかと言えば、ありませんね。真剣に探しては頂きたいですが、私としてはそれで成果が出るとは思っていません」
大五郎さんと先輩が疑問符を投げる。でも自分は何となく察した。
「牽制するんですね、その、ターゲットを」
「そうです。それで襲撃者に『自分を探している誰かがいる』と思わせることができれば、精神的ショックを与えられる。相手は決して、特殊な訓練を受けた暗殺者ではないのです。恐らく現時点でも、精神状態は極めて不安定なはず。つつくどころか、息を吹きかける程度の細工で、あぶり出すことも容易いでしょう」
都合のいい話だと思う。だが効果は覿面なのだと、自分には分かる。なにせ自分のことだから。もしも立場が違ったらと、そう思うだけで、ひのえの提案が悪魔の囁きにすら聞こえてしまう。それは、ひのえの経験則なのか。それとも、本当に悪魔の入れ知恵なのか。
「それは、少し心配だな」
大五郎さんの言葉であった。たった一言で、自分の気持ちはふんわりと軽くなったような気がした。
「あまり刺激し過ぎるのはどうかね。仮に、相手の目的が我々の想定通りなんだとして、しかしその目的通りに行動してくるとは限らない、だろう? 追い詰めた結果、無関係な誰かを襲わないとも言い切れない。そうなれば本格的に、数千人規模の動員が必要になる」
確かに、大五郎さんの言うとおりだ。事実犯人は、目的として今定めている同級生三名以外の人間を殺している。目的以外の人間も手に掛けたのだ。大五郎さんはそれを危惧している。
「それなんだけど」
先輩が言う。前を行くひのえを睨み付けるように、その目つきはとても鋭く見え、少しだけ、怖い。
「大五郎さんが言うところの『目的の相手』っていうのは、この町で監視してる奴と、それから一人目と二人目の被害者のことだろう? で、三人目が『目的外の相手』だったと」
大五郎さんが頷く。一人だけ仲間外れなのは言うまでもないことだ。
「三人目の被害者は本当に『目的外』だったのか? 例えばそう、実はずっと前からの知り合いで、何か恨みでもあったとか」
それはない。自分とあの人は間違いなく、この件で初めて関わった相手だ。そのことを先輩に告げる。だが先輩の視線は緩まない。
「そもそも、被害者はなんで殺されたんだ。もし人間関係の恨みとかでなく、何か条件、基準があったとすればどうだ。それを満たしたから三人目は殺されたんだということになる。つまり、被害者になった三人は全員『目的の相手』だったってことになる」
先輩が言いたいことは分かる。単純に、殺しの動機は何だったかと言っているのだ。自分たちがこの町へ来たのは、被害者と繋がりがあったからというだけ。動機が明確になっていた訳ではない。
「犯人が目的の相手以外を襲撃しないと確定すれば、大五郎さんの異見は問題にならない。守るべき相手が特定の数名か、それともこの町の人間全てになるのか。いずれにせよ警戒は必要だとしても、いざというときに判断を間違えないためには、とても重要な問題です」
ひのえが続ける。今度は先ほどのような違和感はない。先輩から引き継いだはずの台詞には、確かにひのえの自信を感じた。
「チリさん、思いの外考えているのですね。お姉さまのお側にいるだけはあるということですか」
「今凄くバカにされた気がする」
「そんな今更なお話は置いておいて」
心底どうでもいいと言わんばかりにひのえは繋げる。
「残念ながら、犯行動機は未だ曖昧です。ですが、犯人なりの基準があるのではというチリさんの指摘は恐らく正しいでしょう。条件を満たしたから、三人目――機関の人間は標的となり、殺された」
「なんでそう言い切れる。根拠はあるのか?」
言い出した本人である先輩が問う。しかし無理もない。先輩としてはあくまで可能性を提議しただけのつもりだったんだろう。それが無根拠に肯定されては不安にもなる。
「とても簡単な話ですよ。邪魔な物を排斥したい、動機としてはそれで充分です」
「邪魔だって?」
ええ、とひのえは答える。
「機関がカミヤさんに接触した目的は、犯人を確保し、これ以上の被害者を出さないことでした。それが犯人の元々の目的を阻害していたとすれば、後の話は早いでしょう?」
「そりゃあ、捕まったら人殺しどころか、何にもできなくなるだろうけど」
酷い話だ。不用意に近付きすぎた者は殺される、物語の王道ではあるが。犯人に都合が悪かったからという、ただそれだけの理由で殺されてしまう人間が、実在して良いのだろうか。
「三人目の被害者がやっていたこと、それがつまり、これから私たちがやろうとしていることなんですよ。犯人が隠れられる場所を全て潰した。そういう行動に適した能力だったそうなのですが、その結果、周辺の無関係な人間やカミヤさん本人ではなく、実際に動いていた彼が被害に逢う形となった」
相手の持つルールは分からない。だがその手順であれば、関係のない誰かに矛先が向くことはないと、他ならないターゲット自ら実証した、ということか。
「と、最悪な形で裏目に出た訳か。しかしその某もまた、随分と迂闊なことをしたもんだなぁ」
呑気そうに言う大五郎さんも、思案げに顎髭を撫でている。
「甘く見ていたのでしょう。相手はただの元一般人、それもたかが中学生なのだと」
つまり、ひのえは確信している。犯人は目的のための殺人しか犯さないと。この町の、本当に無関係な人たちに、害が及ぶことはないのだと。
だがもし、それが大きな間違いだったとしたら? そんな問いを投げようとして、躊躇った。そのもしもが現実になったとき、それは大惨事を招くだろうと想像できる。そうなったらひのえはどうするつもりなのか、その答えを聞くのが怖かった。
「さて、何か言いたいことがありますね? チリさん、カミヤさん」
心を読まれたのではないか、と微かにたじろいでしまった。
「じゃあ聞くけど。四人目の被害者に、ここにいる俺達の誰かがなるかも知れないっていう可能性は、考慮してるんだろうな」
先輩は、自分の考えていたこととは全く別の疑問を口にした。だが言われてみて、初めて気が付いた。そういう可能性があるのだと、考えなくてはならないことに。
「その答えが、つまりは私の、先ほどお話しした方針に繋がるんですよ」
淀みなくひのえは返す。
「あぶり出すとはそういうことです。私、機関の監視者、もしくはチリさん、恐らくこのうちの誰か。標的をこちら側に定め、姿を見せてくれたなら、目論見は大成功ですよね。ここ数ヶ月、足取りすら掴めなかった相手を、捕捉することができるのですから」
「いや、だからさ。俺の前に出てきてくれちゃ困るんだけど。俺を、お前ら機関とやらのビックリ人間共と一緒にしないでくれないか」
先輩が心底嫌そうに主張した。
「おいおいチリ君、そこは男としてこうだ、『俺にどーんと任せとけ!』」
「全力でお断りします。俺は嫌だぞ、ひのえ。万が一にも、命が危なくなるような状況に追い込まれるなんて」
とんだ貧乏くじだと、先輩はそう吐き捨てた。無理もないことだとは思う。事実とか実績とか、そんなの関係無しに、先輩は普通の人なんだから。誰だって死にたくないんだ。いや死ぬどころか、ほんの少し怪我する可能性だって、できる限り排除したいと思うのは当たり前のことだ。命の危機なんか、喜んで受け入れられる訳がないのだから。
でもまた、ひのえが張り合って声を上げるのではないだろうか。嫌な予感がして、ひのえの後ろ姿を見る。
沈黙が流れていた。どこかから、複数の子どもの声が聞こえる。自分よりも大分年下の男の子たちだろう。無邪気にはしゃいで、明日も会おう、今日の続きをしよう、なんてことを言い合っている。その方向にゆっくりと、ひのえは顔を向ける。空の端が藍色に染まりつつある夕暮れの下で、穏やかな空気が広がっている。それをひのえは、自分の危惧とは裏腹に、遮ろうとはしなかった。
「そんな心配、要りませんよチリさん」
華奢な身体で。幼い女の子が。揺るぎない自身の意志を背に、笑っているのではと思うほど明るい声で。
「私がみんな、守りますから」
とても頼もしくて、とても力強くて、とても悲しいことを、口にした。