名無しの -2-


 耳鳴りがする。一歩踏み入れただけで空気が変わる。居心地が悪いと言うことはないが、それは多分、俺が彼女達に敵だと認識されていないから。そうでなければ此処は、ついさっき遭遇してきたヘドロ少女の結界と大差ない。ミキ曰く、構造的には全く違う代物らしいのだが、話を聞く限り“ 縄張り テリトリー ”という意味では同じなのだと、そう思えた。

 201号室。屋外階段を上ってすぐのところにある扉が隔てる空間の名前。此処へ来るのは、確か、もう六度目になるのか。

 異常は目に見える形でそこにある。

 建物そのものは見るからにボロッちい、築ウン十年は堅い木造アパート。201の部屋に到着する直前、階段を上るときなど、腐りきった床板がギシギシギシギシ、絶え間なく悲鳴を上げ続け、いつ抜け落ちるかと心配でならなかった。下手したら戦禍すらかいくぐってきた英雄かも知れない。家賃安そうだな、って聞いてみたら、二万ポッキリだそうな。

 それなのに201。此処はまさしく異世界。別世界。魔境の地。扉を開けたそこには年季の入ったボロい木材など一切存在しない。新築同然の真っ白な壁と天井、ワックスで磨き込まれたフローリングの床。初めて此処に来たときなんて、一瞬別のお宅にお邪魔してしまったのではないかと焦りを覚えたものだ。

 とは言えこんなのはまだ序の口だ。宅配のお兄さんとか大分年老いた大家さんとかを欺くための立て看板だ。……まあ、こんなので一体何が欺けるのか、と思うけれど。ミキがにこやかに『この部屋だけリフォームしたんです』と言うだけで、みんな納得して帰っていくらしい。世の中絶対間違ってる。

 玄関から先にあるのは、五メートル程度の廊下と、奥にドアが一つ。それは此処の住人にとって都合良く作られた形。この空間への出入り口は、今し方通過した玄関の扉一つだけ。どんな侵入者だろうとこの一本道以外に進路はない。そして進めば否応なく、此処の主と遭遇する。

 黒の背景に白が映える。初対面シーンが脳内で鮮明に再生され、間もなく停止する。一瞬、生首が浮いているように見える意図的嫌がらせ。頭の中と目の前の光景が、完璧なまでに整然と伸びた彼女の頭髪の、その新雪のような純白を基点に合致する。


「いらっしゃい、チリ君」


 窓一つ無い立方体の一室に響く鈴の音。どこの催眠術か、気を抜くと惚けてしまいそうになる。咲き誇った花が人間の声を持ったとしたら、きっとこんな声なのだろう。

「いつも通り何もない部屋だが、ゆっくりしていってくれ」

 この不思議空間の主、ミキが、部屋の最奥に座し、どこか遠くを見ながら微笑んでいた。

 ――傍らに、鬼を従えて。

「ゆっくりしていくつもりはないんだけど。金貰ったらさっさと帰るよ、俺は」

「そうか。じゃあ結構居て貰えそうだ」

 つまり、満足するまで金は渡さない、と。すぐにでも帰りたかったのだけれど、まあ、仕方がない。

 異常の続き、起承転結の流れで言えば間違いなく此処が転。最上級の不思議ワールド。何てったって、この部屋だけで先程入ってきた建物の土地面積を超えそうなのだ。その上、左右両方面の壁には、更に別の部屋に続くのだろう扉が設けられている。思うに、あの建物の中にこの部屋を存在させるためには、某館シリーズの建築家でも連れてこないことには始まらないだろう。

 そして、この部屋の色。床、壁、天井、全てが黒に染まっている。光源は、天井に吊されている、恐ろしい程豪華で場違いなシャンデリアだけ。それでもこの黒い世界を照らすには十分だ。そもそもにこの黒い部屋で、唯一の話し相手であるミキの姿を探すのに、苦労なんて絶対ないんだが。

 ――それから、これは異常ではないけれど。そう、異常ではない。現実的に有り得るレベル、だと思う。それでも、目の前の、冷めた笑みを浮かべた白い女は、俺にとって微妙過ぎる位置にいる。

「で、いつまでそんなところに突っ立っているつもりかな君は。もう少し近寄ったらどうだ。大声を出すのは苦手だろう、チリ君」

「ああ。だからその隣にいるヤツ消して」

 ミキにはすぐに理解出来なかったのだろうか。隣、と言われてキョロキョロと見回し、その台詞が指したモノに漸く気が付いていた。

「はは、恐がりだねチリ君。心配することはない。“アオ”は君に危害なんて加えない。今までだってそうだったろう?」

 ――アオ。ミキの隣でひっそりと佇むソレを、俺は未だに直視出来ないでいる。

「危害を加えないから怖くない、ってんなら、お化け屋敷やホラー映画なんて成り立たないだろ。ミキはその辺、何か勘違いしてるんじゃないか?」

 というか、危害を加えないと言うのも怪しい。何たってワタクシ、あの御仁に首根っこ掴まれた記憶がゴザいマスのデスよ。

「ん、いや、概念的には理解しているつもりだ。ただ、実体験が伴っていないからね。ある程度の誤認は見逃して欲しい」

「…………」

 何やら恥ずかしげに頬を染めるミキ。良からぬ企みが見え隠れする笑みである。

 それは兎も角。要するにこの人、おぎゃーと生まれてこの方、怖いもの知らずで育った訳だ。そりゃそうだ、恐怖の化身従えて、一体何に怯えろと言うのか。

「――ふん、成る程ね。君の言い分はつまり、恐怖とは“物理的危害の可能性”のみならず“精神的危害の可能性”を頭が察知したときに生じる感情だ、と言うことか」

 気を取り直したか、話が進められる。ミキが言葉を発する直前に僅かな間を感じるのは、気分のいい話じゃないが、多分、アオから電波を受信してるんだろう。

「あぁ……まあ、そんな感じ。一々ンな小難しいこと考えてる訳じゃないけど」

 怖いモノはただ怖いのだ。その種類が何だとか、程度がどれくらいだとか、そんなことはどうだっていい。――ぐ、嫌なモノを思い出しちまった。おのれヘドロお化け、夢に出てきたら承知しないぞ。

「私はねチリ君、つくづく面白いと思うんだよ。人間というのは大凡、皆脆いものだが、それは人間という存在を形作るモノ全てに対して当て嵌まる訳だ。名刺みたいな紙切れでも傷付く肉体、冗談みたいな暴言一つで 発狂する こわれる 精神、と。だからこそ、防衛本能は過敏に恐怖を訴える。まとめて保身本能とでも言うものかな、よく出来ているものだ。受を以て、愛に歪み、取を見出す……うんうん」

 この場所限定、学校とかじゃ絶対に見られない光景なんだが、ミキは随分と機嫌良さげに口を動かす。意味不明な言葉が並んだらもう赤信号。こう言うときは二、三時間の長話を覚悟しなければならない。早く帰りたい、とは思うのだが、現在進行中だとそれ程嫌って訳じゃない。悔しいけど、こういう時のミキの笑顔は正直気に入ってしまっている。あーやばい、いつの間にかまともな対話に相応しい位置にいるよ、俺。

 近づけば何のことはない。生首の原因は、何の気紛れか、背景に溶ける小洒落たパーティードレスなど着ていたミキの、やっぱり意図的嫌がらせ。

 黒と白しか収めたくない視界の四分の一くらいに、微動だにしない青色が侵入してきていやがる。

「それで、君がアオに対して感じている恐怖はどちらに起因するものだと言うのかな。やっぱり精神の方か?」

 興味津々という顔が、酷く白々しく思える。それは紛れもなく不快という感情。

「いや……多分、両方。ちなみにアオって、どれくらい強かったりする?」

「身体能力で言えば、 界装具 アルム 現界時の君とほぼ同等だろう。まあ、K−1ヘビー級でチャンピオンベルトが貰える程度と思って欲しい」

「わー、俺って凄ぇー。でもってやっぱアオ怖ぇー」

 そんでもって、いい加減その奇妙な単語の意味を教えてくれ。今までの話の流れからして、その名詞が何を指すのかくらいは分かる。が、それについての説明を受けた覚えが一切ない。聞けば聞いたで、どうせ『大丈夫、君は知らなくてもいいことだ』とお預けを喰うから聞かないけども。

 君は知らなくていいことだ、なんて言われると、どうにも陰謀めいた何かしらを感じたくなったりするが、実際はただ単にミキが説明するのを面倒臭がっているのではないかと俺は睨んでいる。いや、むしろワザと隠して、困惑する俺を見て税にいるって魂胆なのか。うわぁ、洒落にならねぇ。

「まあ、そう、ついでだから言っておくがね。力によって与えられるものに善悪の区別なんてないものだ。そこだけは肝に銘じておいてくれよチリ君。例え、どんな恐怖に襲われようとね」

 一言以上足りない、さり気ない忠告。だが感謝なんて絶対してやらない。その恐怖とやらの元凶が、目の前の美白美人以外思い付かない。

「俺だって厄介事はゴメンだしさ。人前でアレは使わないようにしてる」

「ん、みたいだね。やっぱりいいよチリ君。君にして大正解」

 辛うじて誉められているらしいことが伝わってきた。が、俺が気にするのはまた別の言葉。

「ちょいミキ、『みたいだね』って、まさかアオに終始俺のこと監視させてる訳じゃないだろうな」

 悪寒が走る。プライバシー侵害で訴えるぞコノヤロウ、と内心凄んでいると、ミキの苦笑が返ってきた。

「いやいや、流石にそこまではしていない。したいけど。ただ、界装具の発現にアオが敏感でね、誰彼構わず察知し次第、即座に報告してくれるんだよ」

 物凄い健気だなアオ。外見も中身と釣り合ってたら良かったのに。……ついでに主人もな。不吉な言動ヤメロ。

「君にして正解、の続きだけど。君は、力を使って何かしよう、と思ったりしないのか?」

 なんだそれ。

「人間誰しも、新しく手に入れたモノは試しに使ってみたくなるものだと思っていたからね。自分の力を他者に誇示し、優越感に浸れるような類のものなら尚更。ほら、核戦争の引き金になりそうなある種の欲求」

 いい笑顔で嫌な例え持ってきやがる。

「別に、ないと思う。そりゃ、最初の内は好奇心っつーか、そんな感じのものもあったけどさ。今は、だからなんだ、それがどうした、って方向で」

 と、それもあるんだが。本音を言えば目立ちたくないってのが一番だ。憧れ、疎み、そして同情。想像するだけで吐き気がする。だからこの仕事のことだって誰にも言ってない。……言ったら言ったで誰かしら必ず昇天するだろう。あらゆる意味で。

「ああ、うん、やっぱり正解。運がいいよ、私も君も」

 何やら満足そうに何度も頷くミキ。でも残念。俺の今年初めのおみくじは大凶だったよ。

 俺は未だに、昼と夜の判別もつかない不思議空間の中。ケータイ見てみたら案の定、ミキの無駄話は約二時間にも及んでいた。アレだね、こういう奴が学校長とかになると絶対嫌がられるよ。でもアナウンサーとかは合うかも知れない。うん、そこは保証してやる。

「――おっと、もうこんな時間か。少し話しすぎたかな」

 とか言いつつ、本人はまだ喋り足りなさそうな元気顔してやがる。俺なんかそろそろ両足ががくがくしてきてるのに――って、いつまで立ってるんだ俺。

「では、そろそろ本題に入ろう」

 足がボキリと折れた。いや、関節だけども。

「ちょっとチリ君。そんなところで倒れられても困るよ。疲れたならこのソファに来なさい。柔らかいぞ」

 自分が座っている黒ソファを指して手招きするミキ。しかし退こうとする気配は皆無だ。

「絶対に嫌だ。でも疲れたのは本当なんで床に座らせて貰う」

 照れることないのに、とかほざいてる鬼女を無視し、そのまま、黒絵の具をぶちまけたような床に腰を下ろす。ザッとと見渡すが、床には埃一つない。流石は潔癖性。俺が帰った後は大掃除でもするんだろうかこの鬼さん達は。

「まあ、いいがね。……給料はこの話終わったら渡すから、そんな顔しないでくれ」

 ミキはやっとのことで、俺の不機嫌に気が付いたらしい。しかし、顔に出していた覚えはないんだけど。駄目だな、緩んでるみたいだ。

「本題というのはねチリ君、分かっていると思うが今日の仕事の話だ。恒例のね」

「あのさ、何で一々そう言う話するんだよ。なんか精神科医にでも掛かってるみたいでいやなんだけど」

「ああ、言い忘れていたが、これも仕事の内だ。やらなくても構わないけど、給料減らすぞ」

 ……イタい。仕方ないって分かってるのにイタのはナーゼーだ。

「ヒノ アカリ。日付の日と野原の野で日野、明るい里と書いて明里と読む。君が聞き出したとおり、今日君が対峙した 擬獣 フォーベッド の名だ」

 毎度、俺のことなんかお構いなしに、非日常的な単語を使いやがる。だが、その擬獣とやらがあのヘドロ少女を含めた“連中”の総称である、ってことくらいはすぐに分かる。まあ、まともな人間でないことは一目で確定出来る訳だが。

「で、俺に感想を言えと?」

「そう言うことだよ、チリ君。彼女を見て、どんな印象を受けた?」

「かなり怖かった」

 あ、溜め息吐きやがった。悪かったな、それ以外思い当たらないんだよ。即答してやっただけ有り難く思え。

「君ね、これでもう四度目じゃないか。いい加減、私の聞かんとしていることを察してくれないか」

 だったら何が聞きたいのかちゃんと言え、と言いたい。しかしそれは無意味だと俺は知っている。だって、ミキは無意味だと思ってるから。

「ではヒント。日野 明里の言葉に不可解な点はなかったか」

 ――変成器の音が鳴り響く。逆巻き沸き上がる血。ふと、青色が動いた気がした。

「えと、自分の名前忘れるなんて馬鹿だなー、……とか?」

 殊更に深い溜め息が吐き出される。だーから何が不満なんだアンタは。

「いいかチリ君。擬獣とは元々はただの思念体。嘗て死した多種の生き物の意志が寄り集まり、一種混沌として現界しているものだ。あらゆる動植物の要素を内包し、千差万別の形態を取る擬獣の内で、ヒト型は人間としての要素が強く、人間だった頃の経験も多く残している。が、それでも何かしら不完全で、喪失した記憶もある。それが今回はたまたま、自身の名前だったというだけの話だ」

 流石に必要有りと判断したか、珍しくミキが仕事関係の説明を口にした。それはいいんだが、何だか俺の頭が悪いって言われてるみたいで腹立つんですけど。

「なに、じゃああのヘドロ、蝋燭の思念でも交じってたわけ?」

 ミキ吹き出す。失礼千万、終いにゃ殴るぞお前。

「チリ君、もしかして君、アレか? 蝋燭は燃えて縮んで変形して、燃やした人間に対する怨念を持ってるとか、そう言うメルヘンチックな想像してる人か?」

 どんなメルヘンだ。――思わず天を仰いで、視界に現れた物体のあまりの豪華さに目が眩む。あー、ここで大地震でも起きたら確実に死ぬよな、俺。

「あれは感情の暴走に端を発した現象だ。そもそもに連中は抽象的存在の具現体。物理的には極めて不安定な存在なのだから、激しく心を乱せば、外見を変形させるくらいはやってのける」

「抽象の具現……はあ。分かったような分からないような」

 微妙に話がズレてる気がする。とは言え折角の不思議授業だし、横槍入れるのも無粋か。

「それでチリ君、本当に覚えていないのか? 彼女の言葉を」

「んー、断末魔の叫びみたいな声なら今でも頭ン中でガンガン聞こえるんだけど、他には……、ああ、怒られるー、とか言ってたような気もする」

 はて、ヘドロ少女は一体何を怒られると言っていたのか。内心それどころじゃなかったんでちょっと記憶してない。

「チリ君、一度病院で精密検査でもして貰うといい。その記憶力のなさは人として危機的問題だ」

「真っ当に生きていけてるんで平気です」

「そういう思考は老後の自分を苦しめることになると思うんだがねチリ君」

 全く以て大きなお世話だ。何が悲しくてこんな奴に老後の心配までされなければならないのか。写真一枚でも頂いたら、その後はもう二度と会いたくないくらいだってのに。――そもそも、仕事の度にこんなところまで呼び出されるのも億劫だ。ミキが、銀行振り込みとかよくわからないー、とか言いやがるから、仕方なく来てやってこれ六度目。それくらい自力で覚えろ。

 大体ね、将来の健康を気にしてたらこの社会は生きられないよ。何事も、いつかの先より今この時、どれだけ便利で楽に生活できるかが重視される、そういう時代だ。人一人抗ったところで、時代錯誤と鼻で笑われるのがオチだ。

「本気で考えて貰いたいんだが……、まあ、今はいい」

 ――白髪にか細い指が通る。物憂げな表情が、少しだけ気味悪い。

「ほら、思い出さないか。『名前を忘れた、お母さんに怒られる』という奇妙な台詞だ」

 耳にしてみると、ボンヤリとだが思い出した。雰囲気は全然違ったと思うが。

 確かに奇妙な話だ。名前を忘れたから母親に怒られると泣き叫ぶ少女も、そもそもに名前を忘れた子どもを叱る母親も、普通に考えればいるはずがない。それとも、そんなことが現実に起こり得る家庭が存在するというのか。俺も正しい家庭風景なんて見たことないんで何とも言えないんだが。

「思い出しはしたけどさ。連中ってそういう奴等なんじゃないのか? 見た目ああなんだし、言動がちょっと奇怪でも別に違和感ないだろ」

「そう言うのを思考停止と言うんだよチリ君。存在が“擬き”だから、行動原理も同様だと決めつけるのは短絡的すぎる。火のないところに煙は立たず。現象の発生には相応の理由があり、原因の後には然るべき結果が訪れる。ならば考察の余地は十分にあるだろう。人間、考えることを止めたら真っ当に生きているとは言えない。――何より、それが彼等へ対する唯一の礼節だ」

 なんか重い話題っぽいので、合わせて神妙そうに頷いてみる。でも納得とかは全然してない。だってそれ、かなり面倒臭いだろ。

「その理由は何だと思う? ……と、聞きたいところだが。少し難しいだろうから私から話そう」

 うん、全然分からない。でも先に言われると何かムカつく。……そんなこと、お前は最初からわかってんだろうが。わざわざ言うな腹黒め。

「某日某時、日野 明里は母親に頼まれて夕飯の材料を買いに、最寄りのデパートへ使いに出ていた」

「随分とほのぼのした出だしだな」

「世の中そんなものだよ。だがその時、日野 明里は買い物の内容を忘れてしまった。まあ普通に考えれば、家まで戻ってもう一度聞いてくればいいことで、事実日野 明里もそうした訳だが。彼女は責任感の強い子で、滅多に問題を起こさない、と学校でも評判の優等生だった。過去経験のない失態を晒したと感じた彼女は、一時的な錯乱状態に陥ってしまった。そう、通り慣れない交差点の信号機が、警告色を灯していたことにも気が付けない程に」

 一息に説明されたが、大まかには掴めた。要するに、よくある子どもの交通事故が死因か。

 難儀な話だ。普段完璧と呼ばれ、失敗に不慣れな人間程、僅かな綻びでいとも簡単に態勢を崩す。日野 明里にしても、もう少し楽観的に事態を見ることが出来たなら、そんな事にはならなかったろうに。

「轢いた車の運転手はなかなかに冷静で、すぐに救急車と警察に連絡を入れ、その後も至極穏便な事運びとなった。しかし、強い焦燥と自責の念を抱えたまま絶命した日野 明里の思念は現世に残り、この 夏臥美 なつがみ 町まで漂う羽目になった訳だ」

 その遺族には悪いが、尻拭いさせられる側としては迷惑な話だ。我が子のお使いにゃ買い物メモくらい渡しとけ。

「ここまで聞いて疑念を抱いたなら正解だよチリ君。今の話からは例の奇妙な台詞との関連性が見えないからね。――時軸は今日八時、幾つかの必然が重なり合い、日野 明里はあの永礼団地に擬獣として顕現した。当然、当人にそんな自覚は皆無であり、彼女にしてみれば、毎夜見る夢と大差ない心地だっただろう」

 それはまぁ、あの空間の不思議度はこの場所とイコールで結べるくらいだから、意識の鮮明さに関わることなく、無意識のうちに夢と思い込むのも大いに頷ける。しかし待て、生命の危機に晒された立場から言わせて貰えばそれはとんでもない。人を殺した夢を見たと思ったらリアルで殺してましたよアハハハハ、とかマジ洒落にならない。

「日野 明里は、まあ擬獣としてはというレベルだが、それまでは至って平常な状態だった。一切の感情を胸の奥で眠らせ、自らの置かれた状態すら把握出来ず、ただ佇んでいるだけだった。だが、その朦朧とした意識の中でとある声が聞こえた。他ならぬ君の、自分の名を問う声がね」

 淡々と語られる中で、思わぬ自分の登場にびっくり。嫌な予感が止めどなく、ザバザバと滝のように雪崩れ込んでくる。

「君の言葉は、本来ならば何ら差し支えのないものだった。だが不運にも、彼女は自分の名前を忘れてしまっていた。そして、君の問い掛けでそのことに気付いてしまった。忘れていたのは“買うべき品”、だからその失敗を母親に咎められてしまうのかも知れないと、慣れない責め苦、精神の危機を予感し戦いた。それが事実。だが、自身の名前を忘れていることに気付いた彼女は、生前忘れてしまったものは“自分の名前”なのだと錯覚した。分かるかな、チリ君。原因がすり替わってしまったんだ。『名前を忘れた、母親に怒られる』。言動に矛盾が生じたのはその為だ。――多くの思念と共生している彼女の精神には、その矛盾に気付けるだけの判断力もなかった訳だ。これは日野 明里に限らず、全ての擬獣に当て嵌まることだがね」

 一通り話し終えたらしく、ミキは眠るように瞼を落とし、またすぐに目を開ける。視線は俺の方に向けたまま、さあ感想を言い給え、と言わんばかりに口元を緩める。ええ、言いたいことならありますとも。ありますともさ。

「あのヘドロは全部、俺の所為ってこと?」

「ご名答」

 パチパチパチ。腹が立つから拍手をやめろ。

「ああ、怒らないでくれよチリ君。ちょっと不運なアクシデントというやつだ。擬獣の名を問うのは君にとって必須条件であるからして、君に非があった訳じゃない」

「冗談じゃない。思いっきり怖がり損じゃねぇか」

「うん、でも私としては少し物足りないくらいだ。圧倒的な恐怖を全身で浴びた君の絶叫は、大いにソソられるのだろうに」

 名実共に危険人物が目の前でニタリと笑いやがる。その内、アオを けしか けて自ら実行しそうで怖い。

「ところでチリ君。彼女が、君の言うヘドロになったとき、何やら身体が動かなくなっていたようだけれど。金縛りにでもあったのか?」

 いい加減にウンザリする。答えを知っている問い掛けの何が面白いのか。

「さあ。それどころじゃなかったから、何も――」

 覚えていないと、そう思っていた。でもそれは未だ、感覚として脳裏の焼き付いていた。足が麻痺したとか、震えて思うように動かなかったとか、そう言うんじゃない。――そうだ、まるで身体を動かすという手段そのものを忘れてしまったような、そんな――

「っていうかアレって、その、擬獣とやらの所為じゃないのか? そういうサイコっぽい力持ってるヤツもいるんだろ?」

「サイコ」

 そのにやけ面は、あれか、馬鹿にしてるのか。見下してるのか。仕方ないだろ、それしか思い浮かばなかったんだから。額に指当ててやって動けないだろーとか、神秘のはんどぱわーとか、そんな陳腐な紛い物じゃないんだ。兎にも角にも、存在自体が筆舌に尽くし難い連中だ。奴等を指してしっくり来る言葉なんてそうはない。

「ああ、済まない。君にしては面倒な言葉を使うものだと思ってね。――確かに、擬獣の中にはそう言った超常能力を持つ者も少なくない。しかしチリ君、今回のは擬獣の力とは無関係だよ」

「え。なにそれ、何故に」

「必要性がないんだよ。分かるかな、チリ君。先程『自責の念』と称したように、日野 明里は自身の不甲斐なさに悲観していた。名前――実際は使いで頼まれた品だった訳だが――を忘れてしまい、母親に怒られてしまう、とね。中には身勝手にも責任転換してくる理不尽な者もいるが、彼女は違う。さっきも言ったが、元々が責任感の強い子だった。怒りや憎しみ、焦りや悲しみ、そんな負の感情を向けていたのは自分自身に他ならなかった。だから、無関係な君を束縛しておく必要はなく、その意志もなかった。加えて、直前の君の台詞『痛いことや怖いことは絶対にしない』を、本気で真に受けていたから」

「…………」

 言われてみれば、そんなことも言ったような気がする。慣れてない癖に、緊急時には口が良く回るものなのか。でも、それじゃあ何故あの時、身体は動かなかったのだろうか。今考えれば考える程、あれは自然に起きるようなものとは思えないのに。

「そう考え込むような事じゃないよチリ君。常日頃、動かなくなる可能性がある訳ではなし」

「いや、それ当たり前。交差点のド真ん中で身動き取れないとか、下手したら死ぬから」

「はは、気を付けてくれよ。色々と」

 こっちの原因説明はなしか。ってことは、別に重要じゃないんだろうな。

「さて、給料だったか。改めてお疲れ様」

 やっとの事で、俺にとっての本題に入る。この部屋ともお別れが近い。願わくば、二度とここへは来ることがありませんように――と、まー無理なんですけどねー。