『喜べ、チリ君。君の仕事だ』
と、ミキから通達があったのはつい三十分程前の話だ。夏の夜長をネットサーフで楽しもう、という純インドア派な俺を野外へと駆り立てた鬼女は、今頃借宿でペットの世話でもしているに違いない。
仕事の内容は多分先月と同じ。いやもういいように使われちゃってますね俺ってば。町の西から東まで三十分。人使いが荒い、とかってレベルじゃない。俺はアナタの右手か左手ですか、ってくらい。それでも文句一つ言ってやれない自分の立場が嘆かわしい。何たって力ずくですよ奥さん。言うこと聞かなきゃ殺すよーとかぬかしやがったんだあ鬼は。
まあその辺りはどうでもいい。決まりきった力関係、俺のとアレでは仕方のないことだ。理不尽この上ないが、タダ働きさせられるよりはマシと思えばそれ程苦にはならない。問題なのはその仕事内容だから。
現場に到着。直ぐさまケータイで確認、時刻は指定された二十時の五分前。いい具合に間に合った……いや、俺としては間に合わされたと言った方がしっくり来る。
最初の仕事でたった一分遅刻した為に死にかけて以来、俺の身体はミキの指定した刻限に遅れるという事が出来なくなってしまったのだ。ちなみにその時難を逃れたのは、どういう訳か先回りしていた鬼女様々の御陰だったりする。で、俺の窮地を救った鬼の一言が『君、分かり易過ぎ』。言い換えると“お前が遅刻することなんざ百も承知で来てやったぜ感謝しやがれ”になる。一応は助けて貰ったんだし文句も言えないよな、と実際血迷っていた俺はささやかな反論すら諦めてしまった訳だが、後日それすら奴の策略だったことを知って言葉を失った。本来自分が片付けるべき危険な仕事を敢えて俺の初仕事として与えることで、今現在の“刻限を破りたくても破れない”悪癖を恐怖と共に俺に植え付けたのだ。事実効果覿面だった為に報復はし辛い。そもそも報復なんてしようものなら、最低でも三倍くらいにはなって返ってくるだろうからやるにやれない。そういう力関係。ああホント、完璧手足のように使われちゃってる俺でした、ちゃんちゃん。あぁ、めでたいめでたい。
――三分前。びゅう、と生暖かい風が頬を撫でる。似たような一軒家が小綺麗にずらりと並び建つ、何処にでもある普通の団地。
――二分前。ぐぅ、と虫が鳴く。思えば今日は昼飯のハンバーガーセット以外何も喰ってなかった。夜のお供に、とポテチは用意してあったのだが、そんなモン持って此処に来ようものなら、またミキに“ポテチ大好き・ポテ”的な妙なあだ名を付けられるに決まっている。
折角、本名から取った“チリ”というミキにしては割とまともなあだ名に定着しつつあるというのに、今更ねじ曲げられて堪るか。何が嫌ってあの女、学校ですら俺のことを自分の決めたあだ名でしか呼びやしねぇ。それがどういう訳か他の連中にも伝染して、まるでそのあだ名が俺の本名であるかのように扱われてしまうのだ。担任までもが俺をあだ名で呼びやがった時は本気で不登校を考えたね。
―― 一分前。ああやばい、ちょっと震えてきた。気が付いたら藍色のコンクリで足を痛めつけていた。滑稽だぞ俺。足の裏痛ぇ。ついでに今気が付いたんだが、なんだか妙に寒い。師匠が忙しくなるらしい季節並にヒンヤリした空気がまとわりついてきている。滅茶苦茶暑い時はたまに、冷蔵庫に顔突っ込んでうわ涼しー、とか家計に全っ然優しくないことやるんだけど、あれに近い感じがする。いや勿論、あれは暑い時に少しの間だけやるから気持ちがいいのであって、こんな、お肉の保存庫に放り込まれたような状況はどんな猛暑でも御免被りたい。
――三十秒前。何処からかやって来た恐怖心が目を開ける。どうしようもなく身体が震え、どうしようもなく身が縮み、どうしようもなく血がたぎる。全身を流れる液体が、一滴残らず火中に注ぎ込まれて沸騰しているような感覚。心臓がバクバク言ってるのは何が原因なんだか――と、自然と右手に意識が行く。
――五秒前。
辺りは不気味な程静まりかえっている。これから起こることが俺の予想通りなら、此処はなんてお誂え向きな場所なのだろうか。
――四秒前。
この空間は昼間でも怖いモノなんだけど、月明かりだけで照らされた人気皆無な街路はそれだけで十二分におっかない。あーもー、街灯くらいさっさと直せよ町内会。
――三秒前。
心の臓は身体全体を揺るがすほどに元気満々、超エネルギッシュ。これが次の瞬間鳴り止んでしまうのではないか、と正味気が気ではない。
――二秒前。
今更だが、俺のケータイの時計が間違ってた場合、初仕事の時みたいな状況に陥る可能性がある訳だ。……やばい、今になって不安になってきた。電波時計ってのはちゃんと正確なのか? 今日に限って一秒ずれてるとかそういう――
―― 一秒前。
今日はお月様が綺麗だなぁ。
――悲鳴が聞こえた。それはアスファルトの悲鳴。さっきまで自分の足下でだって聞こえていた音と同じ筈で違うそれは、まるで悪魔の潜み笑いのようにどんよりと、右の鼓膜から左の鼓膜へ流れて薄れて潰えて失せて。消えた筈の音は頭の中で途轍もない存在感を抱えていて――しかしそれはきっと、無音の中に響いた唯一の音だったからで。そういう些細な理由から有り得たものなのだから、俺が注意を払うべきモノは別にある。音のした右側に首を向けるのは殆ど意識の外の行動、でも後で肯定してやるから構わない。障害物と呼べるものがほぼ視界になく、ずぅっと向こうまで続く街路は途中で暗闇に喰われている。……どういう訳か今俺がいる場所だけが真昼並みに明るくなったけれど、光源は太陽でも月でもそこらの民家でもない別の何か。辺り一帯、およそ日常では有り得ない別次元へと成り変わっている。
鈍い頭がようやっとそこまで理解した時、闇の中にポツン、と人影があることに気が付いた。それは明らかに今現れたものだ。そう思えない、まるで今までずっとその場所にいたような気がするのは……あれが、此処の主だから。
「おーい」
何処にか反響する自分の声にすら緊迫する。
俺の呼び掛けは届いた筈だが、人影は身動き一つしない。まあ、問答無用で大口開けて襲ってくるナイスガイよかずっとマシだ。それ、鬼の嫌がらせだから胸糞悪いし。
「今そっち行くから。大人しくしとけよー」
本当ならあんまり向かいたくはないけど、今回分の給料なし、プラス“負け犬・マケ”的なあだ名は免れないだろう。
意を決し、人影に向けて一歩踏み出す。一歩、また一歩、俺が進む度に足音が広がるけれど、やっぱり悲鳴はない。愚かしきかな、あの人影は恐れられている。そりゃあ、こんな人工の足場に意志なんかないだろうけど、何となくそう思える。事実俺は恐れている。アレにとって味方であるこの空間で、アレにとって敵である俺はもしかしなくとも異物だから。
連中が取る異物への対応は俺の知るところ二つ。“兎に角襲ってみる”か“様子を見てみる”である。前者は初日俺が引き合わされたタイプで、危なさマックス、小規模に激危険なザ・獣。後者は今まさに俺が目を離せないでいるアレであり、それなり理性みたいなもののあるタイプ。主に俺が担当する連中だ。
対象との距離は最初の半分くらいに狭まった。依然として俺の周囲だけが明るいが、それは安心できる類のものではなく、なにか、ミサイルの照準が俺に引っ付いて一緒に動いているような感触で落ち着かない。
対象に近づくに連れ、徐々に人影が俺の視界で実体を持ち始める。髪は輪郭がぼんやりしてる辺り一般的な黒系統、結構長いから多分女。背丈は俺の胸までくらい。俺の身長が百七十だから、多分百四十かそこらか。……って、どう考えてもガキじゃん。ねちっこいオッサンとかギャアギャア喧しいヒス女とかと同じくらいタチ悪い部類かもじゃねぇか。
突如襲いかかられても逃げられるくらいの距離で停止する。なまじ人間に近いと、相手を騙すことを忘れていないからタチが悪い。思考するまでもなく、行動は限りなく慎重になる。
「言葉は分かるか」
今更な問いかけをして――と言うか、話せない時点で俺お手上げなんだが――漸く、ソイツ、まあ少女でいいか。その少女は、ギギギ、と錆びた音でもしそうなくらい鈍く、首を回してこちらを向いた。いや、お化け屋敷じゃないんだから、無理にそういう不気味な仕草しなくても。ああ、目なんか真っ赤じゃないか。泣き疲れた子どもでもそこまで充血しないだろう。そんな限界まで開ききってたら目が乾くぞ。せめて一回くらい瞬きしとけ。
「オニーサン、ハ、ダレ」
背筋が凍る。だってコレ、女の子の声でないどころかもう殆ど人間の声ですらない。刑事ものドラマとかでたまに出る変成器の声を十数倍濃くした感じ。まあ、マネキンっぽい見た目には丁度いいのかも知れないが。人間の形をしておいて人間と違う部分を持つモノってのはどうしてこうも恐ろしいのか。いや、話せることは確からしいから、少しは喜ぶべきなのか。
「あー、怯えなくていい。痛いことや怖いことは絶対にしないって誓うから。な」
もしこんな台詞を言いながら自分に近づいてくる野郎がいたらまず信じないだろう、と我ながらに思う。絶対下心あるもの。事実俺は金目当て、下心満々な訳で。ヘマしたら即お陀仏。心臓の音うるせぇ。でも鳴り止むな。
「ホン、ト?」
「ああ、本当だ。だから、おにーさんの聞くことに答えて欲しい」
ついでに、その妖気が漲ってますって感じの赤目を俺に向けないでくれ。俺を見つめたまま微動だにしないって尚更怖い。暗闇の黒と肌の病的な白が二点の赤といい具合にコラボして恐ろしさ五割り増しだ。
「それじゃあ、君の名前を教えてくれないか」
――ピキッ。
「ワタシ、ノ、ナマエェ……ハ――」
何か音がしたような――と視界を広げた瞬間、パッと明度を増した。空は真っ黒なのに、今なら何処までも見渡せる程――まず錯覚だが――に明るくなった。
そして次にはゾッとした。先程とは立場が反転したようなもの。この不可解な明かりの中で、少女を囲む空間だけが暗黒に支配されていた。……いや、この身の震えはそんなモノの所為じゃない。血そのもののように朱色に染まった眼球が、零れ落ちるのではないかと思う程に瞼を押し広げる。少女の口が、首以外微動だにしなかった身体が、カタカタと揺れ動き始め、魔物の呻きが洩れて伝わる。
そして――破顔。いや、笑ったんじゃない。文字通り、顔が破れ始めた。
「ア――アゥァ、ゥァアア! アアアアアアッ! ナマエ! ナマエッ! ワダジ、ノ、ナヴァヘェッ!」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいマジ怖いです怖いから! ヤバイ、俺、確実に地雷踏んだ。こういうヤツが必ず一つは持ってるタブーをピンポイントでぶち破ってしまったらしい。思わず右手のブツで叩っ斬りたくなるが、それじゃ俺が来た意味がない。……あれ、なんか、あれれれれ、身体が動かないんですけど。
「ワズレジャッタ……、ワズレジャッダノォッ! オカアサン、オガアザンニィィ、オ、オ、オゴラレルノォォォァァァッ!」
少女は――いや、これはもう少女どころか人間でもない。人間の真似すらできてない。叫び散らしてる口は疾うに裂け、裂け目は首筋まで侵蝕している。次々とひび割れていく真っ白い皮膚は、奥に巣くうどす黒い物体を覗かせている。かと思えば、そのどす黒はあらゆる隙間からドロドロと溢れ流れ出し、全身で以て泣いているような惨状が出来上がる。ヘタなホラー映画よか恐ろしい。
「待った、待ってお願い待って、怒らないから、ほら俺怒ってないから――ってもう聞こえてませんねぇおたく」
言っても無駄だと途中で気付いたが、それ以前に俺の言葉は目の前で発生してる叫喚に全部掻き消された。こうなったら一刻も早く――そうは思うが身体が動かない。バクバク言ってる胸とは裏腹に、頭の中は吃驚する程冷静なのに。動かないと殺されることは理解しているのに。なのに、俺は――
『いいかチリ君。結界は彼等の心象そのもの。もしもの時は、そこから材料を捻り出せ』
……ああヤだヤだ。こういうシーンでどうして鬼の言葉なんて思い出すのだろうか。
目の前の少女だったモノは、例のどす黒に覆い尽くされ、気味悪いヘドロのお化けみたいになっていた。それでも赤い双眼と口の形は視認出来るからコイツ嫌い。ヘドロの塊は藻掻き苦しむように身体を揺さぶり揺さぶり、その度にネッチャネッチャと吐き気を催す音をばらまいている。
そして……ソレは未だ、薄暗い闇の中に囚われている。
――こんなにもただ明るい空間で。
――光源は見えず、それが視認できるものでないことだけは理解出来る。
―― 一角、暗い眼前では、名を忘れたと嘆く少女の名残。
――多分、答えは……。
「アカリ」
「――ァ」
ヘドロお化けが停止する。再び明暗が入れ替わり、雲合いから覗く日のような、一筋の光が立ち上る。そして今照らされているのは、紛れもなく人間の少女だった。
「名前を、教えてくれるか」
俺の言葉に、相変わらず見開かれた目を俺に向ける。だがさっきまでとは違う。まるで本物の子どものように純粋な、可愛らしい顔をしている。それを見て、尚のこと思う。俺の、思い付く限り最高の笑顔が、本心を隠してくれていますように、と。
「ワタシ、ノ、ナマエハ……」
少女を照らす、眩しい程の光の柱。それ以外はもう、元の夜闇に戻っていた。
「ワタシノナマエハ“ヒノ アカリ”」
熱い脈動を感じる。心臓じゃない、これは右手の……月光を反射する、真っ黒い“――――”。
『日野、明里』
復唱しつつ、理解しつつ、繋がったことを実感しながら、右腕を高々と振り上げて――
「さよなら、アカリ」
音なく、悲しみなく、俺は少女を斬り殺した。