朏 千里馬 -8-


 件の工業地帯を含め、夏臥美町の南部は基本的に寂しい景色ばかりである。駅周辺の賑やかな町並みを見ているのならば尚のこと、僻地としか言いようのない南部の在り方には、地元の住民である俺ですら目を背けたくなってしまう。自然豊かと言えば確かにその通りなのだが、青青と茂った木々を見るにはまだ早い。視界の大部分を占める田畑にしても、今は種蒔きの時期なのだろう、緑色よりは柔い地肌の茶色の方が目立っている。夕暮れにはまだ少し間のある時間帯でも、この場所に来るだけで暗さが数段増したように感じてしまう。

 田圃を視界の両端に置き、真っ直ぐ南下するコンクリ道路を行く。建物は農家らしき小さな住まいがほとんどで、それもぽつりぽつりと目に映る程度しかない。いずれはこの辺りにもマンションが建ち並び、田畑は次々と姿を消していく事になるのだそうだが、今見た限りではそんな裏があるようには思えない、至って静かな風景である。まったく、静寂という言葉は今この時のこの場所を表現する為に存在しているとしか思えない。

 道を進むにつれ、辺りは人の手が加えられた土地から、雑草の生い茂る自然そのままの土地へと変化していく。此処まで来ればもうすぐ、地図で言うところの山に相当する区域に踏み込む事になるのだが、そうなる数歩手前、境界を守るように建っているのが、三鬼が借宿としているアパートである。見るからに傷みきった木造建築は嵐でも来れば容易く倒壊しそうで、恐らくはアパート名が刻まれていたのだろう表札は今や擦り切れて読めたものではない。大都会の高層ビルなどは勿論のこと、そこらの民家と比べてもずっと古い。ぼうっと眺めていると、辺りの風景と相まって、タイムスリップでもしてしまったような気さえしてくる。

 思えば、どうして三鬼はこんなところにいるのだろう。金がない訳ではないはずだ。なら、街の喧騒が嫌い? だからってこんなところを選ぶ事はない。中心部さえ避ければ、夏臥美町は静かな町なのだ。人の多い場所が――人が嫌いだから? いや、そうは思えない。むしろ彼女は、人と触れ合う事を喜んでいるように見えた。

「人……」

 奇異の目に晒された事もある、と彼女は言った。やはりそれを気に病んでいるのだろうか。学校という閉鎖された世界ならば、そんなものはいずれ消え去る。だが不特定多数の人が行き交う町では、そんな終わりはいつ来るか分からない。いや、来るかどうかも分からないのだ。

 ……彼女が、そんなものに怯えて自身を隠すような性格なのだとは、俺には思えない。けれど、俺は彼女を知り尽くしている訳ではない。印象だけなら、俺から見る彼女は、如何なる脅威にも動じない強さを持っていた。だが実際は、何かを恐れる事もあれば悲しむ事もある一人の人間なのだ。その一端を昨日、俺は垣間見た筈じゃないか。

 もしも彼女が、何かを嫌って、こんなところに追いやられているのだとしたら、俺は。俺は、きっと――

「何か見えるのかい?」

 真横からの声に息が止まる。頭を真っ白にしたまま、声のした方に顔を向ける。そこには、俺が向いていた方を小さな子どものように真っ直ぐ見つめる、三鬼 弥生の顔があった。

「ふん、私には分からないな。何か面白い物でも見えたのかな」

「いや、別に」

「なんだ、じゃあただぼうっとしていただけなのか。いけないな。いくら人気がないとは言え、こんな道ばたで惚けていては。私が、例えばナイフを持った殺人鬼だったとしたら、今頃君は倒れ伏していたことだろう」

「それは、ああ、悪い」

 普段の調子で楽しそうに話す三鬼に、俺は言葉を詰まらせるばかりだった。気の利いた応答の一つもしてやりたかったが、どうにも動転しすぎているらしい。そんな俺に、彼女はいつものように微笑みかける。それはまるで、俺の心中を見透かされているようで。こんなに近づかれるまで彼女に気付かなかった事よりも、今はそっちの方が気恥ずかしい。

「いや、驚かすつもりはなかったんだがね。むしろ驚いたのはこっちだよ。随分と早いじゃないか」

 そういう三鬼は制服姿で、どうやら今帰ってきたところらしい。本当に、あと一分遅く来るべきだったのに。

「ああ……他に用事がなかったからさ。迷惑だったか?」

「そんなことはないよ。話をしに来たんだろう? 君は」

 おいでよ、と手招いてから、三鬼はアパートへ歩を進める。安堵しながら俺は後ろに従う。歩幅の割に大分速い三鬼の歩みに遅れないよう気を付けながら、三鬼の後ろ姿を盗み見る。一点の曇りもない、艶やかな白髪。黒のブレザーを背景に、腰にまで伸びた後ろ髪は極めて滑らかに揺れている。

 こんなにも間近で見ているのに、心のどこかでは未だ、その存在を認識出来ていない気がする。本当に彼女は此処にいるのか。全ては一夜の夢なのでは。三鬼と出会ったあの夜から、何度も何度も繰り返した自問が再び押し寄せる。あのアパートを眺めて、タイムスリップでもしたようだなどという感想を抱いたが、彼女を眺めている今は、まるで完全な別世界に来てしまったかのような、妙な心地になってしまっている。

「君、今朝のニュースは見たかい?」

 突然話し掛けられて、ぎくりと身動ぎする。三鬼は進行方向を向いたままこちらを振り向く素振りをみせないので、そっと胸を撫で下ろす。

「今朝は、そう言や見てなかったな。ちょっとゴタゴタしててさ。何かあったのか?」

「いや、見てないならいいよ。今はね」

 くすり、と楽しげに含み笑いをする三鬼を前に、足を踏み外しそうになる。気付けばアパートに到着していて、危なげな階段を登ろうとするところだった。

「あのさ、全然関係ない話なんだけど、一つ聞いていいか」

「うん、なんだい」

「なんでこんなとこに住んでるんだ?」

 なんとなく、先程の疑問を口にしてみた。

「ああ。それはね、立地条件が良かったからだよ」

 答えた三鬼が、玄関の前で俺に向き直り、俺の左側――町の北東を指差す。

「鬼門という言葉を知っているかい? 陰陽道に纏わる概念で、万事において縁起の悪い方角を表しているんだが」

「ああ、丑虎の方角ってやつだろ。ならここは南西、ええと、未申だっけ? 反対側の縁起のいい場所を選んだってことか」

「それは違うよ。鬼門の反対である未申は裏鬼門と呼ばれ、鬼門と同様に縁起の悪い方角だと言われている。しかし、成る程、他の対概念で考えれば、縁起の悪い鬼門の裏は縁起が良いものに思えてくる訳か。ただ、根元が実害の伴う話だからね。対になっているのは言葉の上だけで、実際は同じ意味を持たされているんだよ」

 つまり、この建物もまた縁起の悪い場所に建っている訳だ。アパートのこの有様を見ると頷きたくもなる話だが、それならどういう意味で、立地条件がいいなんて言えるんだろうか。

 俺の疑問に先んじて、三鬼が二本の指を立てる。

「私がここを選んだ理由は二つだ。まず一つ。鬼門とはそもそも、鬼――主体となる人間にとっての外敵が来る方角を示す言葉だろう。外敵を防ぐための砦なら、その侵攻を封じるべく、同じ方角に築くのが道理。ただ、この町の丑虎と言えば学校のある方位だ。平日のほとんどを学校で過ごすことで、鬼門はほぼ完璧に塞ぐ事が出来る。だからあえて裏鬼門に住まい、町の守りを盤石にした訳だ。

 もう一つは、私との相性だね。鬼門と裏鬼門は、それぞれ男鬼門と女鬼門という別名を持っている。女である私が居を構えるなら、東北より南西の方が合っている、という解釈が出来るんだよ」

 分かったかい、と三鬼が問う。理由は大体分かったが、それにしたってこんなボロい建物に住む必要はないんじゃないか、とも思う。まともな住居を探すならもう少し北上しなければならないから、鬼門や裏鬼門を気にするなら仕方のない事だろうが、そこまで注意する価値のあるものなのだろうか。

「やっぱ、風水とかは重要なものなのか」

「どうだろう」

 意外に素っ気なく答えられた。三鬼は苦笑して、ドアノブに手を掛ける。

「三鬼家の伝統、と言うのかな、これも。そういう非科学的な縁起担ぎが大好きなんだよ、私の家系は」

 今にも壊れそうな扉が開く。その向こう側を見ると、分かっていても一歩退いて外装を見直してしまう。それくらいに中と外は違うのだ。どうしたらこう、内側だけ新品のまま外側を朽ちさせることが出来るのだろう。

 内側は、空調が効いているのだろう、過ごしやすい暖かさを保っていたが、人の気配がないだけにまだ寒い気もする。一人暮らしというのはこういうものなのだろうか――いや待て、この家の中で空調らしき機器など見掛けた覚えがないだが、これはどういう訳だ。

 何も気に留めず進んでいく三鬼を慌てて追う。今はまだ、見た目こそ普通の家の体を保っているが、それが逆に不気味に感じる。見失ってしまったら二度と此処から出られないような、そんな錯覚を抱いてしまうのだ。

 二つ目の扉をくぐる。その先ではきっと、錯覚では済まないのだろう。

「ただいま。変わりなかったかな」

 黒い部屋に三鬼の声が響く。その言葉の先は、この場を守るように佇んでいた赤い鬼で間違いないだろう。

「おっと、しまったな。椅子を用意するのを忘れていた」

 立ち止まった三鬼が、考え込むようにして辺りを見渡す。

「え、ああ、お構いなく。俺は立ったままでいいよ」

 相変わらずの部屋と赤鬼に少しばかり気圧されながらも、なんとか返事をした。

 俺の立ち位置はだいたい部屋の中央。四隅、天井、足下、さっと見渡してみたが、やはり部屋の中には家具らしき物など一つしかなかった。その唯一のソファに、三鬼はゆったりと腰を掛ける。その無駄のない動作にまたしても見取れそうになったが、

「……あれ?」

 ふと気が付いた。三鬼が手に何も持っていないことに。

「さて、何を話してくれるのかな」

 尋ねてみようかと迷った矢先、期待に満ちた三鬼の目で金縛りにあった。

「あー、……ただの昔話だからさ。つまらなかったら、悪い」

「悪びれることはないだろう。君は私に『言っておきたいこと』を言うだけなんだから。違うかな?」

 確かに違いはしない。だが俺としては、彼女の期待には最大限応えたいのだ。

「じゃあ」

 そこで一呼吸入れる。思えば、あのことをこんな風に他人に話すなんて初めてのことだ。あれから三年経ってようやく、一人二人なら話してもいいかな、なんて気紛れを起こすようにもなったけれど。詰まりはその三年間、何を聞かれてもずっと口外しないでいた、俺だけの秘密なんだ。出来ることなら、誰にも知られないまま終わりにしたいと思っていた。あれは、俺にとっての汚点だから。

『千里馬、剣道をやる気はあるか?』

 その一言が、俺を始動させた。

 父親の古くからの友人が持ってきた話だった。その男はとある道場の師範で、俺が幼稚園に入学する年になったのを機に、道場入りを持ちかけてきたらしい。『らしい』というのは、当時の俺がその構造を理解するだけの頭を持っていなかったためで、詳しい話を知ったのは大分後になってのことだった。だから俺がその話に応じたのは、親の面子を立てるためなんて理由じゃない。憧れの選手がいるとか、自分を鍛えたいからとか、そういう尤もらしい理由があった訳でもない。俺が頷いたのは、本当に、ただなんとなくのことだった。

 今思えば、父親は俺が断ることを期待していたように思う。道場に入るとなれば月謝があるのは当然だし、道場があるのは隣町で、通おうと思えばそれなりに費用も嵩んでくる。俺の家は決して貧乏ではなかったけれど、余計な出費を許容出来るほどの余裕もなかった。当時の俺はそんなこと気にもしなかったし、俺の返事を聞いた父親がどんな顔をしたかも覚えていない。ただその遣り取りが、俺の方向性を決める出来事になったことは間違いないと思う。あまりにも早い、人生の分かれ道だった。

 総勢十数人程度の小さな道場だった。俺と同じ年代の子どもはおらず、一番近い年齢の門下生でも小学三年生。実際の規模は小さくても、幼い俺にとっては、広い道場の中で大きな人達に囲まれた夢のような舞台だった。だからだろう、それからの日々を越えることが出来たのは。

 今だから分かることだけれど、あの時俺がしていた練習はかなりズレていた。

 幼稚園の頃から剣道を始める子どもは少なくないが、大抵の場合、やるのは剣道の練習というより遊びに近い。五歳にも満たない子どもに中高生並の集中力を要求するのは酷であるし、身体が未発達なため、まともに竹刀を構えることすら覚束ない。だから遊びの中から剣道の楽しさや必要性を学び取り、以降の練習効率を高めるのである。あとはコツコツと礼儀作法を学んでいく程度で、厳しい練習などほとんどやらないのである。

 だが俺の場合は違っていた。俺は件の小学三年生と常にペアを組まされて練習していたが、小学三年と言えば本格的な練習を始められる年齢である。その小学生も入門は俺と同時期の初心者だったため、基礎や作法を学ぶことから入ることが出来たが、なにぶん成長の度合いが違う。稽古が進むにつれ、実力差は目に見えて開いていった。そればかりか、稽古内容にすら差を付けられ始めた。当然の結果だと今は言えるけれど、当時の俺にとってそれは、あまりに屈辱的な境遇だった。なまじ運動神経が良かったために、妙なプライドを持っていたのだろう。俺が小学校三年になる時分には門下生も増え、打ち込み稽古や掛かり稽古で多くの相手と打ち合うようになったが、中学二年に上がったかつての相方には、密かに、しかしいつまでも、分不相応な闘争心を滾らせていた。

 その頃、俺にとって剣道は楽しいものではなかった。年上の上段者との稽古では相手の手加減が不満の元だったし、同世代の 後輩 ・・ 達相手では張り合う気すら起きなかった。噛み合わない年齢と経験。心と身体の成長が、夢見がちだった俺の目を覚ましたのだ。道場通いを続けたいという気持ちはもうなく、しかし長年続けてきたものをやめるというのにも活力が要るもの。詰まるところは惰性で、ただ何となく、面白くもない稽古を続けていたのだ。

 転機は小学校五年の年。師範からの勧めで、ちょっとした大会に出場したことだった。金の掛かる話だし、大会への参加は個人の自由意思だったが、明らかに身の入っていない俺の様子を見かねたのだろう、その勧めは半ば強制的なものでもあった。外の門下生との真剣試合によって俺のやる気を取り戻そう、なんて腹積もりだったのだろう。同世代の子どもと競い、負けることで、世間の厳しさを教え、更なる向上心を持たせよう、というなんとも使い古された手である。

 結果だけ言えば、師範の目論見は大成功だった。大会の後、俺の剣道に対する関心は跳ね上がり、より一層稽古に気合いを入れるようになった。ただ、師範や周囲の大人達の予想と大きく外れたのは、俺がその大会で、呆気なく優勝してしまったという点であった。

 普段、俺の試合相手は同門の上段者ばかりで、当然敗北の積み重ねだった。だから、あの大会一回戦での勝利は、俺にとっては信じられないくらい大きな初勝利になった。誰もが優勝を目指す全力の打ち合い、そしてその後に掴み取った一本。その調子だ、と誇らしそうに俺を誉め、声援を送ってくる知り合い達。その勝利、その賞賛、その激励は、まるで砂漠に降り注ぐ雨のよう。勝ち進み、最後の一撃が相手の急所を捉えた時、胸の内から沸き上がった歓喜。一礼を終えた俺はその気持ちを抑えきれず、我知れず叫んでいた。

 それから幾つかの大会に出場し、俺はその全てに勝利していった。勝利に酔いしれ、しかし油断も慢心もなく鍛錬を続けた。当然の実力。そしてそれを実感する為の当然の勝利。二年の時を経ても喜びは色褪せることはなく、当時の俺は、剣道にこそ天賦の才があると信じて疑わなかった。


 そして、中学校に入学した年。全国中学校剣道大会の県大会でもまた、俺は優勝した。次はどんな試合になるだろう。その勝利は、どれだけ気持ちのいいものだろう。大会後の帰路、先行きに一点の曇りすら感じず、俺は心躍らせながら、人気のない夜道を歩いていた。そんなとき、


『朏 千里馬というのは、お前か』


 闇夜からの、死神の声を耳にした。

 輪郭は溶け、姿は朧気ながら、見掛けた顔でないことは間もなく分かり、背丈は中一の俺よりもずっと低かった。声は女性、それも少女――恐らくはまだ小学生の――としか言いようのない程幼い質。しかしそれにしては随分と大人びた言葉遣いで、彼女は俺に、今し方大会で優勝を果たした朏 千里馬に対し、剣道の勝負を挑んできた。

 得体が知れないとは言え、年下の女と打ち合うなど気の引ける話だったが、大会の熱気も冷めず高ぶりきった精神は、そんな憂慮を容易くはね除けた。何より俺は、公式では絶対に有り得ない、サバイバルゲームじみた野外戦に興が乗ったのだった。

 相手は年下で、女で、当然体躯もそれ相応。絶対に負けるはずのない試合。だと言うのに俺は、その名前も知らない少女に、完膚無きまでに叩きのめされたのだった。

 胸の奥で、針が刺さったような痛みがあった。それでも最後まで、話をやめる気は起きなかった。

「俺は、それでやっと気が付いた。身体能力じゃどう考えても劣っている相手に負けて、現実を知ったんだ。井の中の蛙。才能なんてない。十二分な稽古をしてきた筈だったのに、それに釣り合うだけの技術が、俺には身に付いてなかったんだ。……虚しかった。今までやってきたこと全部を、完全に否定されたみたいで」

 たかが一度の敗北で。この話を聞けば、誰でもそう思うだろう。だが、最後の相手が悪すぎた。或いは、それまでの相手が良すぎた。手も足も出ず打ち負かされた俺にはもう、剣道を続けていく気力は残っていなかった。

「この話は、今日まで誰にも言ってない。だから周りの奴らは、俺が剣道をやめるって聞いて、凄い剣幕になってたもんだ。どういうつもりだとか、勿体ないとか、ああ、勝ち逃げする気か、とか言ってる奴もいたな。けどとうとう言えなかった。小学生の女子に負けたからなんてさ、そんな情けない話、誰かに話すなんて絶対に出来なかった」

 誰にも言えなかったが、それが、多くの人が知りたがった、俺が剣道をやめた理由だ。嘘みたいな話。だが、嘘だったらどれだけ良かっただろう。明るい光が突然消え、視界が闇に塞がったなら、誰しもすぐには目が慣れないもの。天国から地獄の最中に叩き落とされた俺は、もう二度と、同じ場所を目指すことは出来なかったんだ。

「けど、ようやく言えた。言えるようになったんだ」

 言うつもりのなかった台詞が、呟きになって外に出た。

 三鬼を見る。三鬼は終始静かに、たまに頷きを返したりしながら聞いていてくれたが、途中で、まるで眠るように目を閉じた。話を終えた今もそのままで、声を掛けるべきだろうかと逡巡していると、三鬼はまたゆっくりと、その透き通った瞳を光らせた。

「気分はどうだい。少しは気が楽になったりもしたのかな」

「いや、別に」

 努めて何気なく、俺は答えた。三鬼は口元を吊り上げる。

「何も感じなかった。そういうことかな」

「……ああ」

 そうか、と三鬼は呟く。信じて貰えていないような気がして、慌てて繋ぐ言葉を考える。

「大体さ、元々もう忘れかけてたような話だったから。ずっと誰にも言わなかったことだから、何となく言い辛かっただけだったんだろうな、きっと」

 そう、思いたい。俺はいつまでも、あんなことに女々しく拘り続けていたくはないのだ。だから今日は、一歩前進出来た。多分、感じてるよりもずっと大きな一歩。こんな機会を与えてくれた三鬼には、感謝の言葉も浮かばない。

「でもさ、三鬼さんはこのこと、知ってたんじゃないか? 俺がなんで剣道やめたかってことをさ」

 おや、と三鬼は首を傾げる。

「ああ、その通りだよ。どうしてそう思ったんだい」

「絶対知り得ない話じゃないから。確かに俺は口外しなかったし、あの場には他に誰もいなかった。だから俺の周りには、知ってる奴は誰もいなかった。でも俺の相手をしたあいつがいる。あいつが俺のことを、誰かに話さなかった保証はない」

 尤も、もしあいつが俺に勝ったことを自慢げに言い触らしていたとしても、俺はどうとも思わない。大会で優勝するような人間に年下の女が勝つだなんて、普通は信じられないものだから。あいつの実力を知っている者ならば信じるかも知れないが、あいつはそんな有名人ではない。あいつの噂なんて、会うまでも、会ってから今日までも、どんなに調べても一度だって聞いたことはないんだ。それじゃあ信憑性は生まれない。噂が流れたとしても、誰も信じない。誰も信じなければ、噂は広がらない。何の意味も生まれない。

 ただ一人、広がらない噂の真偽すら調べ当ててしまうという三鬼だけは、例外なのだと思い知ったのだ。

「成る程ね。事の顛末は大体知っていたのだけれど、流石に君の心情までは想像しか出来なかったからね。いや、なかなか有意義な話だったよ」

 頬が緩む。話して良かった。そんな風に思える日が来るなんて、今まで考えたこともなかった。

「ねえ。誰にも口外しなかったと君は言うが、これからはどうするんだい? 答えを求められたら、君は応えるのかな」

 少し間を空けてから、何も言わず頷く。きっと出来るから。いや、そうすべきことなんだから。

「いや、実はさ。三鬼さん以外にも、この話はするつもりだったんだ、今日。ほら、覚えてるか? 昨日も話した、俺の右の席に座ってた奴」

「ああ、目崎君か。成る程、彼は今日学校に来なかったからね、話すに話せなかった訳だ」

 そう言う三鬼が、少し悲しげな顔をしていたように見えた。その意味が分からず、俺は問うた。

「いや、可哀想だと思ってね、彼」

「可哀想?」

 どうやら三鬼は、目崎が欠席した理由を知っているらしい。可哀想とはまさか、本当に重病を患ったりでもしたのだろうか。

「分からないだろう、君には。ニュースは見た方がいいよ。君ならきっと、予想出来たに違いないのだから」

 苦笑してから、三鬼は俺の方を向き直す。彼女の、何かを責めるかのような、その鋭い瞳で。

「本日未明、新たな自殺事件があった。自殺したのは二人、やはり夏臥美町の住人だ。……その自殺したうちの一人の名が、目崎 そら 。君のクラスメイト、目崎 陸の実姉だよ」