朏 千里馬 -7-


 草木も眠る丑三つ時。ソレは動いた。

 時間にして一秒足らず。その僅かな蠢動を察知した者は誰もいない。何十年と掛けて集束され現界した思念は、その濃密さに耐えられず一瞬にして霧散した。

 夏臥美町は一つの境界を越えようとしていた。まだ越えていないが故にソレは消え去った。だが時間の問題である。バランスは疾うに崩れている。朏 千里馬という人間が現れたこと、三鬼 弥生という人間が訪れたこと、それこそがこの異常の証明足り得る事実である。

 それは数多くの偶然が重なった結果。この世界という規模で以て考えても滅多に有り得ることではない、数奇なる運命の交差。切っ掛けには例外なく人間が関わっていたが、何かしらの悪意が働いたという訳ではない。一つ一つはどうということのない、ありきたりな事象だった。問題はそれが、あまりに短期間の内に、誰かが対処する間もなく起きてしまったという、ただそれだけの話なのだ。

 いつも通り、何の罪もない健気な目覚まし時計に不当な怒りをぶつけてから起床した。不要な注釈を加えるならば、その怒りはいつもの五倍は膨れあがっていた。眠れなかったのだ、昨夜は。ミキと別れた後も、高ぶった気持ちが落ち着く気配はまるでなかった。だがそれも仕方のないこと。何の意味もなく、これから探さなければならなかったこの人生が、百八十度一変した。ただ漠然と続いていただけの化け物退治が、これ以上ないくらい重要な役割を帯びた。強い眠気は依然として消えず、しかし間もなく掻き消えるだろう。それくらい、俺の身体は喜びに満ちているのだ。

 欠伸を噛み殺しながら、身支度を整え、制服に着替えている最中。唐突に、携帯電話が俺を呼んだ。

「……メール?」

 メールである。着替え終えた後にケータイを手に取ると、メール着信を告げる手紙マークが液晶に浮かんでいた。

 俺の連絡先を知っている人間はそこそこいるが、その中で、平日の忙しいこの時間帯にわざわざ連絡してくる礼の欠いた人間は一人しか知らない。ぶっちゃけると慎太のことなんだが、アレはメール作成というちんまい作業が性に合わず、どんな下らない用事でも通話で済ませる典型的にアレな奴なので最初から除外。特に登録もしていないのでメールマガジンとやらの線もなし。とすると心当たりがいなくなってしまうので、俺が首を傾げるのも必然というものである。

 送り主は目崎だった。今の今までアドレスを教えていたことすら忘れていた人物で、性格的にもやっぱり除外対象。大穴中の大穴である。しかしながら彼がメールを寄越したというのは間違いのない事実であるので、取り敢えず内容を読んでみる。

 文字数は大したこともない。難しい漢字が多用されているとか、別の国の言葉が羅列されているとか、そういうことは勿論ない。簡潔に用件だけを述べた文章だった。

 飾り気のない黒い字で、『今日は学校を休む。ごめん。』と。

「……なんというか、まあ。俺なんかメじゃないくらい律儀な奴」

 学校を休む、という連絡なら問題なく納得出来る。担任への連絡は本人かその家族がするだろうからいいとしても、授業を欠席することについては休んだ人間にはどうしようも出来ない。目崎は勉強出来そうだったから、真面目に授業ノートとか宿題とかの心配をしている、と考えていいだろう。

 けれど、それなら『ごめん』はどうだろう。“迷惑を掛けてごめん”という意味でもとれるが、それならその通り文にしないとニュアンスが迷ってしまう。そもそも、例えばこのメールが、目崎が俺に対して送った、次会った時に授業のノートを写させてくれ、という依頼文だったとして。ならば目崎は、それを言葉にして頼むという大切なプロセスをぶっちぎって、あたかもそうして貰えることが当たり前のように話を進めているということになる。昨日一日の振る舞いから考えて、あまりに彼にそぐわない思考だ。

 だから、最後の『ごめん』は、もっと違うことに対する謝罪なのであって。

「……律儀、じゃ生温いか。あれはいつか詐欺にやられるぜ」

 馬鹿正直というか何というか、そういう意味では慎太といい勝負してる。俺の知り合いには、どうにもお人好しが多すぎる。


『気にしなくていい。あとノートとかの心配はするな、俺がなんとかする。プリント類は机の中に入れといてやる。早めに知っておいた方がいい知らせとかあったらちゃんと伝えるし』


 でもまあ、こっちの心配をしていないとも限らないので、一応手当たり次第フォローを入れておく。やはり忙しい時間なのでそう長文を作っている暇はないのだが、何故だか今は機嫌がいいのだ。……いや、別に、例の話を今日目崎にする必要が無くなってホッとしてるとか、そういうんじゃないんだ。

 返事は少し間を空けて送られてきた。丁度玄関の鍵を閉めたところでだ。今度もまた、何とも簡素に『ありがとう』と一言だけ。詰まり、今朝のメール受信はこれで打ち止めだ。少なくとも目崎はそう思い、今のメールを送った訳なのだろうが。目崎、お前は肝心なことを言い忘れている。

 今の短い遣り取りには、重要な要素が一つ、完璧に抜け落ちていた。曰く、何故目崎は学校を休むのか。理由があるなら元より、理由がなくても欠席理由は添えるものだ。そうでなければ、不名誉極まりない狡休みではと疑われてしまう。ならば、ないよりはあった方がずっとマシなはずだ。

 だが目崎のメールにはそれがなかった。恐らく理由はあるのだろう。ただし俺には、いや、外には一切漏らしたくないような理由だ。要するに、理由が書かれていなかったのは、目崎自身が書くのを拒んだから。そう考えるのが一番自然だろう。だから俺も敢えて聞きはしなかったが、本当にそうだとしたら、その理由とは一体何なのか……。

「お、すげぇ。ばっちり目ぇ覚めてるじゃん」

 どうでもいいことに気が行った。

 目崎の欠席理由まで行き着いてようやく、それまで考えていたことが些細なことだと気がついだのだ。目崎がとんでもない難病を患い、その所為で頭が回らず、穴だらけの文を送ってしまったという可能性もある。深く考える意味はない。そんな価値、どこにもないじゃないか。所詮は昨日知り合ったばかりのただの級友だ。そこまで熱心に心配してやる義理など、俺にはないじゃないか。

 浮かれた気分を取り戻し、人気のない通学路を行く。時間が合わないのか、それとも他にこの道を使う人間がいないのかは知らないが、昨日と今日の通学時に他の生徒を見たことがなかった。校舎が見える頃には流石に見掛けるのだが、今いる遊歩道には、まるで俺以外の全ての人間が死に絶えたかのように、本当に俺一人しかいないのだ。

 夏臥美町北部の外縁には、町を囲み立つ山々に沿って東西に走る細道がある。地元の年寄り連中はクオ道だのクオの道だの呼んでいるが、由来などはよく知らない。響き的に道教とかと関係がありそうな感じもするけれど、そんな由緒正しい立派なものではないだろう。こうして実際目にしてみても、ただの寂れた一本道としか言いようのない場所だから。

 由緒正しくはないが、それでも割と昔からある道だそうで、車が満足に通れる程の道幅はなく、利用者があまりいないためかアスファルト舗装もされていない。整備の行き届いていない土の足場だけに、大雨の日の後ともなるとぬかるんで歩きづらくはなるが、そもそも夏臥美町はさほど降水量の多くない地域にある。静かで涼しげで車に轢かれる心配もない、散歩には最適と言ってもいい道なのだ。

 南には川が見える。昨日見たのもこの川の一角だ。少し高低差があって、ここからだと川を見下ろす格好になる。夏臥美町を横切る形で東に流れるこの川は、どっかの高い山から流れてきてどっかの海に流れているらしい。そういう事実を、中学の地理で都道府県名を覚えさせられる際ついでに確認したのだが。生憎とその辺りは苦手分野で、川の正式名称なぞはまともに覚えちゃいない。クオ道と違って記憶に残らないような、とても詰まらない名称だったということだろう。

 澄んでいるとは御世辞にも言い難い川も、眺めていると身体が冷えていく錯覚がある。朝の肌寒い空気が身に染みる。制服の襟を寄せつつ、目線を前に戻していく。と、川の上の鉄橋が視界に入る。赤く錆びた橋は、国道を跨ぐ歩道橋並のささやかな規模だが、一山のアーチはちょっと洒落た感じがしないでもない。学校まであと少しの地点にあるその目印は、夏臥美町と外界を繋ぐ上下線路である。まだ距離はあるが、しばらく歩けばこの道もその線路と交差する。当然と言うか何と言うか踏切や遮断機などという親切な物は設置されていないが、今のところはご愛嬌ということで済まされている。時間の問題だと思うのは俺だけではないだろう。

 線路を越える。学校ももうすぐ見えてくる。時間は予定通り、ホームルームの十分前には教室に着けるくらい。校門を間近に控えれば、俺と同じく登校中の生徒や、朝の部活動を終えた運動部勢で賑わってくる。だからそろそろ気持ちを切り替える。この幸せを、この喜びを、あんな連中に分けてやる訳にはいかない。ただでさえ、さっきのメールにも勢いを殺がれてしまっているんだ。宝物を持ち運ぶように、大切に隠しておかないと。

 放課後が待ち遠しい。授業が終わったら真っ直ぐ家に帰って、多少身形を整えて、それからまた出掛けよう。ひょっとしたら、途中で彼女に会えるかも知れない。少しでも早く会って、少しでも多くのことを話して。

 いつかこの喜びを伝えたい。他の誰にでもなく、世界でただ一人だけに。

 やはりと言うべきか。休み時間中、周囲から三鬼 弥生の話題が途切れることはなかった。この町は自殺多くて嫌ですねとか、なんか今日は一段と人が減ってますねとか、そういう話はほとんどないのにだ。みんな娯楽に飢えていたのか、それとも三鬼の話題性が飛び抜けているのか。まあ多分両方だろうと簡単に納得出来た。出来ない奴は、この場には誰一人としていなかった。

「ウチのマネジかチアか。それが問題だ」

 例えば目の前のイガグリとか。

「お前も好きだね慎太。そんなもん本人が決める事だろ」

「これだから帰宅部の暇人は。そんな呑気に構えてたら、三鬼さんがどっかの変な部に取られちまうじゃないか」

 どうにも話がずれる。勧誘なんかに流される人じゃないだろうに。

「変な部ねぇ。夏高ってサッカーが強いトコだろ? 毎回序盤で消える野球部に変呼ばわりされるってどうだよ」

「いや、今年はウチもいけるから絶対。三鬼さんが応援してくれるなら、今年の夏から来年の春夏と甲子園三連覇も夢じゃないんだぜ」

 どう考えても夢だとしか思えないのが夏高野球部の実績である。が、まったく希望がないのかと言えばそうでもない。夢みたいな話も、ちゃんと実力が伴っているのなら現実に成り得るのだ。

「そういうのはマスコミの前で言ってやれよ元四番。喜ぶからさ」

「ダメダメ。連中は話題優先だから、チームでそこそこ勝ってないと寄ってこないんだ」

 これだからゾクブツは、と慎太は呆れた顔でほざく。なんだかスポーツ記者の皆さんが物凄く可哀想に思えてきた。

「そりゃお前が悪い。俺言ったよな、真剣にやる気なら強いチームに入れってさ。リトル入りの頃から数えたら三度もだ。話題性ならあるだろ、恵まれない体格は努力で補う、みたいなさ。足りてないのは頭の方だ」

 身長百六十五という小柄故に、慎太には長打力がない。つまり 本塁打 ホームラン なんてどう考えても打てないし、会心の一打ですら二塁打級が精々だから一人では点も取れない。それでも四番打者なんて大役を任されていたのは、彼が並以上の打率を誇っていたからと、そして彼のチームメイトがひ弱だったからである。

 何度か観戦に出向いた事もあったが、確かに打線は慎太を中心に回っていたし、加えて守備もなかなかだ。三塁方面に飛んできた打球は悉く防ぎきる。その俊敏さたるやエサに群がる猿に匹敵する。そんな具合に実力は充分なのだから、しっかりしたチームに入ってさえいれば、今頃は期待の新人として持て囃されていた筈なのである。

「だから、それじゃつまんないんだって。弱小チームから強豪チームに駆け上がってく展開ってのが面白いんじゃないか」

「で、結局今の今までやりきれなかったのはどこのどいつだ。実力ないのに夢ばっか言って結果が出せないってのも馬鹿な話だけどさ。実力あるくせに結果が出せないなんてそれ以下だ」

 優れた技術がある。それはとても立派で、無条件に歓迎すべき事である。が、そこには義務が付きまとう。誰より優れていても、それを証明する為には、自分より優れていない人間の存在が不可欠だ。つまり、俗に言われる天才なんて連中は、数え切れない凡人がいなくちゃ何も誇れない脆弱な奴らだ。それでも誹謗されないでいられるのは、やはり凡人達の賞賛があってこそ。連中には責任がある。天才なんて抽象的なカテゴリでなくても、例えば実物の組織であっても同じことだ。上に立つ人間は、例外なく責任を負わなくてはならない。そこに夢だの理想だの、甘い幻想を語る余地なんて、決して許されはしない。誰かの上に立つというのは、誰かを蹴落として上がっていくというのは、そういうことなんだから。

「ああもう千里馬、話逸らさないでくれ。入学しちまったもんは仕方ないんだし、今はそんなのどうでもいいんだ。重要なのは、三鬼さんが野球部に関わる部活に入ってくれるかどうかってことなんだから。あ、吹奏楽部でもいいよな」

 迷惑そうな顔をしていながら、その目は輝きに満ちている。まったく二の句が告げない。どうしてこう、恥ずかしげもなくそういうことを口に出来るんだろう。それは、三鬼のチアリーダー姿なんて想像しただけで卒倒しそうだが、そういうのは隠すもんじゃないのか、普通。

「吹奏楽ねえ。そういうのは楽器扱えないと駄目だと思うが。そういや、その手の情報はないのか?」

「その手?」

「習い事だよ。トランペットとか、ピアノ――はないけど、経験者なら吹奏楽に入るかもだろ。でなきゃ、前の学校や中学で入ってた部活にそのまま入るかも知れないし。なんかないのか? そういう役に立つ情報」

 唸りながら、慎太は梟か何かのように首を傾けていく。全く以て野生動物で形容しやすい奴である。

「……ないのかよ。ホント馬鹿らしいなぁ」

「いや、ある! あるぞ。えっと確か、三鬼さんの実家はなんか、古武術の道場やってるとか、なんとか……」

 あ、うずくまった。人の机に顔を近付けるな汚いから。

「まあ、武芸十八般どこを探したって野球も応援も掠りもしないな。にしても、古武術ねぇ」

 確かに、何か心得はあるのだろう。あの無駄のない動きを見ていれば、それくらいは俺でも察しが付く。宗家のお嬢様という肩書きも、成る程三鬼にはお似合いだ。

「終わった。俺の高校野球は終わったよ」

「早ぇよ」

 温度差激しくて扱いに困る。なんでこういう連中は、つまんないことで簡単にテンション切り替えられるんだろう。ある意味羨ましい精神構造ではあるが。

「大体、部活に入ってなきゃ応援に行っちゃいけない訳じゃないんだ。そりゃマネージャーほど付きっきりじゃないだろうけどさ。甲子園にでも出てみろよ、全校総出で応援してくれるし、それくらいまで勝ち進めばあの先輩だって観に来てくれるかもだろ」

「マジで!?」

 前言撤回。こいつほど扱いやすい馬鹿はいない。

「いや、マジでって……。毎回テレビで見てるだろ、甲子園。国中が注目してるイベントだぜ? 応援席なんていつも満員だ」

「ああ、そう言やそうか。いやでも、俺の試合ってあんまり応援来なかったから、なんか別世界の話みたいな気がするんだよな」

 別世界……確かにそれは分からくもない。一つの場所に五万人以上の人間が詰め掛ける。日々雑多に行き交う人々が、ではない。共通の目的を持った人間が、それだけの人数で同時に存在している。いつも自分が見ている世界とは違う、違いすぎる世界。多すぎる、広すぎる、厚すぎる、大きすぎる、高すぎる。現実味が薄れて見えるというのも頷けてしまう。

 だが、違う筈はない。自分の見ているこの世界とその夢のような世界は、決して別世界などではない。どこからだって繋がっている、紛れもない同一の世界だ。それを違うなどと錯覚してしまう人間は、あまりにも無知だ。視野が狭い。世界が狭い。その狭さがあらゆる場面で邪魔になるというのに、誰もが自覚することすら出来ていない。

 本当に、哀れだ。

「よっし分かった! やってやるぜ三連覇! 待ってろよ甲子園!」

「……いいけど。その三連覇に高校最後の夏は入ってないのな」

 邪道め。普通一番大事にするものだろうに。まあ、こいつが甲子園に行こうが行くまいが、俺には一切関わりのない話である。応援席に俺一人出向いたところで、チームの勝敗が覆ることはない。俺が関心を向けたところで、誰かがやる気を出すわけでもない。考えるだけでも無駄な話。全く意味のない話。だったらこの話題は、ここで区切っておくべきだ。

「おい、もうすぐ始まるぞ次の授業。さっさと席戻れ」

「え、あー。そうだな、早めに戻っとくかな。あ、お前の隣って今日がら空きじゃん。移ってこようかな」

「ふざけんな」

 冗談じゃない。こんなのが隣に居着いたら授業にならん。まあそうでなくても、真面目に受ける気なんてサラサラないけど。

「ちぇー。でもなんでこんなことになってんの? まさか、また?」

「さあ。少なくとも目崎は生きてるよ。今朝メール来た」

 まさに生存報告メールである。あれがなければ、また嫌な想像させられるとこだった。……今思えば、目崎はそれを気にしていたのかも知れない。

 慎太は「ふーん」と目崎の席を変な顰めっ面で眺めている。不機嫌、という訳ではないだろうが、なんでそんな顔をするのだろうか。

「あいつ、なんで休んだの?」

 そのまま、慎太が尋ねてくる。

「知らないって。何も伝えてこなかったし」

「いや、それならこっちから聞くだろ普通。気にならねぇの?」

 さっきの会話での熱意が冷めないのか、慎太の声は少し喧しい。まったく元気な奴である。

「ならない。朝なんて忙しいし、正直どうでもいいだろ。俺が気にしたってどうなる訳でもなし」

「……まあ、そりゃそうだけど」

 コイツのテンションの上がり下がりは、どうも酔っぱらいに通じるところがある。基準が全然分からない。扱いやすかったり扱いにくかったり、相手にするのが兎に角面倒臭いんだ。

 ……酔っぱらいね。ああ、だからこんなに鬱陶しく思うのか。ようやく得心が行った。

 恙なく全ての授業は終了した。少し期待してたけれど、また三鬼が俺達の教室に来る事はなかった。本当に平凡な、詰まらない時間だった。

 意気揚々と教室を出ていこうとする慎太をふん捕まえてから、俺は清々しい気持ちで下校した。帰りの足取りはこれ以上ないくらい軽かった。辛気くさい風景も、よく見れば花の蕾や筑紫なんて風流な物で彩られているもの。どうせ住むなら人間関係の薄い大都会がいい、と思っていたけれど、こういうのも悪くはない。

 そうだ、どのみちあと三年間はここにいなくちゃいけないんだ。新しい指針も得られそうだし、これからは少し、視点を変えて暮らしていくのもいい。そう大した結果になんてならないかも知れないけれど、でも、きっと悪い事にはならないだろうから。