朏 千里馬 -9-


「なんだって?」

 思わず聞き返した。しかし三鬼の口からは全く同じ台詞。昨夜、目崎の姉が自殺を図り、そして死亡したというのだ。

「身内が、血を分けた姉が、物言わぬ骸と化してしまった。他ならぬ自分自身の手で。失踪したのではない。単に姿が見えなくなっただけではない。本当に、この世界からいなくなってしまった。ああ、この世とは、どうしてこうも残酷なのだろうね」

 静かに、黙祷でも捧げているかのように、淡々と語る三鬼。その言葉が俺には、小説を朗読されているようにしか聞こえなかった。

「うそだ」

「残念ながら事実だよ。君は今朝、弟である陸君と連絡を取り合った筈だ。その時の印象はどうだったかな。姉が自殺しただなんて嘘だと言いたくなるほど、彼は元気だったのかい」

 そんなの分かるもんか。分からないけど、だけど信じられない。信じられる訳がない。目崎の話に出てきたあいつの姉はそんなんじゃなかった。とても自殺なんてするような様子じゃないって、一緒に暮らしてるあいつ自身が言ってたじゃないか。そんな、自殺する筈のない人間が自殺しただなんて嘘、嘘でなかったら、それは――

「『自殺したなんて、今でも信じられない』」

 俺の心を代弁するかのような台詞に、思考が妨げられた。

「自殺した者達の遺族が揃ってそう口にしていたこは、昨日話したよね。なら君、その時遺族は、どんな表情をしていたと思う?」

「……どんなって言われてもな。悲しそうとか、泣いてたとか、そういうことか?」

 昨日見た、目崎の顔が浮かぶ。彼も悲しんでいるのか。泣いているのか。……後悔しているのだろうか、何も出来なかったことを。責めているのだろうか、察してすらやれなかった自分を。

「悲しい、か。確かに悲しかったろう。涙だって溢れただろう。でもそれだけじゃない。私の目に彼等は、どこか放心状態のように映った。大切な人を失った喪失感に因るもの、だけではない。悲しいだろうに、それを自分で実感していないのではないか、そんな風に思えるような、妙な様子だった。これが、どういうことか分かるかい」

 三鬼の片腕が、自らの身体をそっと抱きしめる。その表情は、或いは、掛け替えのない誰かを失ってしまったことを、悲嘆しているのだろうか。

「それはね、自殺に理由がなかったからだよ。自殺に理由があったら、遺族はどうする? その理由にありったけの感情をぶつけるだろう。それは悲しみかも知れないし怒りかも知れない。そして、なぜ救ってくれなかったんだと訴えるかも知れないし、同じ被害者を二度と出さないようにしてくれと願うかも知れない。そうしないと耐えられないのさ。如何なる理由であれ、人が死ぬというのはとても大きな――いや、身近な人間にとってそれは、大きすぎる出来事なんだ。どれだけ強大な力を以てしても、無かったことになんて絶対に出来ない……そういう代物なんだ。そんなものがいきなりさ、しかも理由もなく訪れたらどうなると思う。大事な人が死んでしまったという事実を前に、行き場のない気持ちは募るばかりなのに、自殺に理由がないから、どこにも吐き出すことが出来ない。それが結局、自殺するまで気付いてやれず、自殺してもなお気付いてやれないという重い自責に行き着いて、永遠に精神を苛む結果になる。そこに救いはないよ。なにせ、彼等は何も得ていない。彼等はただ、失っただけなのだから」

 失っただけ。本来得られる筈だった感情の行き場すら得られなかったのだと彼女は語り、嘆く。……だが俺には理解出来なかった。

 感情の行き場など必要なのだろうか。感情は、心は、本人が感じるもの。本人以外には分かり得ないもの。何処かへ吐き出すものではない。誰かにぶつけるものでもない。誰かにぶつけられないからといって、自らに強く突き立てるものでもない。誰もが感情のままに行動すれば、人の社会など成り立たない筈だろう。感情が自己完結するものだったから、今の俺達はあるのではないか。知り合いが死んでしまえば、それは悲しいだろうし、場合によっては大きな憤りを覚えるかも知れない。だが、それで自分を責めるなんてどうかしてる。自分の感情を自分で処理しきれない、それは一つの弱さではないのだろうか。放心と自責なんて、死んだ人間を使って、自分の弱さを肯定しているようなものではないのだろうか。本当に死んだ人間を想うなら、もっと他に、やるべき事があるのではないだろうか。

 そこまで考えて、悲しみのあまり眉間を拳で突く。自殺した誰かへの悲しみじゃない。俺は、三鬼の言葉を、三鬼の悲しみを、理解してやれないことが、悲しくて、堪らなく悔しかった。

 ……それに、異論もあった。三鬼が、こんなにも悲しむ必要なんてないんだと。

「自殺に理由がない。本気でそう思ってるのかよ、三鬼」

 三鬼が俺を静かに見据える。言葉を選ぶことはしない。それでは届かないと、そう思ったから。

「君は、そうは思わないんだね」

 そう言う三鬼の顔は、最早悲しみに歪んでなどいかなった。

「三鬼だって言ってたじゃないか。生き物は、本当は自殺なんかするもんじゃないって。それでも自殺する人間には、それだけの理由があるんだって。自殺する奴の気持ちなんて、どうしたって俺には分からないけどさ、それでもそっちの方は理解出来たよ。……理由がない訳ない。こんな異常な事件、どう考えたって自然じゃない」

 あの時の三鬼の言葉は、俺の気持ちに拍車を掛けた。一つの町で、こんなにも自殺が起きるなんて普通じゃない。まして、自殺に動機がなかったなんてそんなの、どう考えたって不自然だ。

「そして俺達は、そんな不自然なことを平気でやらかす連中を知ってる筈だ。分かるだろ三鬼。あれは自殺事件なんかじゃない、立派な他殺だ。理由なら、気持ちの行き場ならちゃんとある。それを目崎や、遺された連中に教えてやることは出来なくても、もう二度と、こんなことが起きないようにすることは出来る。俺達なら出来る筈だろ、三鬼」

 踏み込んで、訴えかける。否、訴える必要などはないのだ。三鬼ならば既に真相に気付き、最善の行動だって分かっているはず。だから俺がすべきなのは、俺の意志を示すこと。この事件に対して、俺自身が導き出した答えを、三鬼に伝えることだ。

「ならば問おうか、朏 千里馬」

 しんと静まり返る。そもそもに雑音など一切ない黒の部屋だが、今は何故か殊更閑静に、三鬼と、そして俺の声を、待っているような気がした。

「一連の不可解な事件。その元凶とは、何だ」

 問い質す声は無色。抑揚のない言葉の羅列に背筋が凍る。だが躊躇うことはない。俺は疾うに、正解へと辿り着いているのだから。

「それは、この町に巣くった化け物。……擬獣だ」

 そうして三鬼は、満面の笑みを湛えた。

「金が欲しいってのは確かだ。……気に障ったなら悪かった」

 どうせ三鬼には全てお見通しなのだと、俺は包み隠さずに白状する気になった。三鬼相手ならば特に、正直に話した方が信頼されると悟ったからだ。

「それは構わないよ。と言うか、なんだね、目論見としてはお互い様だったから。で、使い道の方は聞いていいのかな、朏君」

 隠さなきゃならない理由じゃない。頷いて返すと、三鬼は嬉しそうに微笑んだ。

「俺さ。高校出たら、一人で暮らしたいんだ。誰からも、親からだって、援助なんて貰わずに。自分だけで、生きていきたいんだ」

 あの家はもう、俺にとって居心地の良いものではない。原因が場所なら引っ越すだけで事足りるが、親となるとそういう訳には行かない。それに俺は、単に親と一緒に暮らしたくないのではない。親と子の関係であることが、どうしようもなく我慢ならないのだ。

「……それ程までに嫌いかい、自分の親が」

「嫌いだ。大嫌いだ。顔を合わせりゃいつだって大喧嘩。やれ浮気しただのやれ金遣いが荒いだの。人のこと言えた義理じゃないくせに、相手の欠点ばっかり突き合ってさ。なんであんな連中が未だに一緒にいるのか、俺には理解出来ない」

 その続きを話したくなる。多岐に渡る喧嘩の内容。飛び交った罵詈雑言。それをいつも、同じ家の中で聞いていた俺。その時の心境。……これもきっと、さっきの剣道の話と同じだ。誰かに詳しく話したことなんてないから、話し出すとつい口を滑らせたくなる。けどそれはいけない。こんな話、誰も聞きたがらない。聞いたって嬉しくも楽しくもない、単なる俺の愚痴だから。それも、分かってるから。

「俺は一人で生きたい。それに、誰にも後ろ指なんて指されないような、……あんな連中なんかとは違う、真っ当な人間になりたいって思ってる。その為には充分な金が必要だ。三年間、バイトでもなんでもして、なんとか金を貯めて。出来るだけ遠くの大学に入って、そのまま、親子の縁を切ってやるんだって。意気込んだはいいけど、言うほど簡単な事じゃないってのも分かってた。どう計算したって金は足りないのに、勉強だっていつまでも疎かなままじゃいけないから、バイトばっかやってりゃいい訳でもない。最悪どこかで、妥協しなきゃいけないかも知れないって思ってた。……でも三鬼さんが来てくれたから、俺は」

 ちゃんと、自分の道を歩むことが出来るのだと。感謝の言葉は口にはしない。口にしてしまったらそれは、酷く安っぽいものになるような気がしたから。

「金は、正直喉から手が出るほど欲しい。でも、今はそれだけじゃない。俺はあいつらを、擬獣を放っておけない。知らん顔なんか出来ないんだ」

「例の感知能力が理由かな、それは」

「他にもある。連中は有害だ。現に、とんでもない被害を出しやがった。だから倒さなきゃいけない。……三鬼さんのことが、信用出来ない訳じゃないんだ。でも、俺にだって出来るのに、見過ごしておくなんて無理なんだ」

 いつかの思考をなぞるように、言葉を連ねていく。本当は、本当はもう一つ、理由もあったのだけれど。それだけは、どうしても口に出来なかった。

「無理だとは、大袈裟なことだね。それはどうしてだい」

「え?」

「だから、どうして見過ごしておくのが無理なのかな? 朏君」

 すぐに言葉が出てこない。なんでそんなことを聞くのだろう。俺はただ、当たり前すぎて省いただけなのに。

「だって、……だってそりゃあ、危ないからだろ。放っておいたら、また犠牲者が出る。誰かが死ぬ。誰かが悲しむ。それをなんとかしたいって思うのは、変か?」

 真摯に訴えている、つもりなのに。三鬼は片手で口元を隠し、そして小さく笑うのだ。その様はあまりに愛らしくて、でも、意味が分からなくて。

「いや、済まない。考え方自体は何も変ではないんだが、ああ、それはどうにも、可笑しな話だよね」

 何が、可笑しいのか。自分の言葉を必死になって辿る。何か言い間違えただろうか。勘違いされるような言い回しを含んだだろうか。……やっぱり分からない。どうして、なんで分からないのだろう。

「何よりも、放っておけないから。危険を顧みず、自分も擬獣を敵に戦いたい。君が擬獣を倒すのならば、私はその礼をしなければならない。そしてそれが、君が君の望むままに生きるための糧になる。ああ、心配することはない。君の望みは理解したよ、朏君」

 安堵する俺を前に、「だが」と三鬼は続ける。

「私はそれを受け入れる訳には行かない。これで 三度目 ・・・ になるがね。今まで言ってきたとおり、君は擬獣に手を出してはいけない。全て私に任せ、君は常識の中にありなさい、朏君」

 笑顔のまま示されたのは、明かな拒絶の意志。呼吸が乱れる。視界がどんどん暗く重くなっていくような、そんな錯覚。足が折れそうになるのを、すんでの所で制した。

「なんで、だよ。擬獣と戦ったら、俺はどうなるって言うんだ。何が危険だってんだよ」

「それは、そうだね、あと一つ条件が揃えば、君にも教えなければならなくなるだろう。でも駄目だよ。私にとってもあまり、気の進まないことだからね」

 理由は教えられないが、それでも俺の望みは叶えられない。これでは理不尽さを感じずにはいられない。そんなことで、諦められる訳がない。折角見つけたチャンスを、絶対に逃したくない。

「納得してくれては、いないようだね、朏君」

「当たり前だろ」

 納得は出来ない、が。三鬼の意見を撤回させる方法も思い付かない。味方にして頼れるということは、敵にしたら恐ろしいということ。頼るということは、対立してはいけないということ。こんな筈じゃなかったと嘆く反面、どこかでこの結果を予想していた自分がいる。三鬼は決して揺るがない。彼女は常に正しくあり、そして彼女自身それを確信している。寸分の狂い無く芯を貫く、一本の堅固な線。手折ることは出来ないと分かっていた。敵う筈がないと分かっていた。それでも挑んだのは、俺にとっても譲れないものだったから。今の俺にとって、何よりも大切なことだったから。

 ……早すぎたのか。もっと時間を空けてから話せば、いや、だとしたら、一体いつまで待っていたら……

「……出直すよ、三鬼さん」

「そうか。もう少し話が出来れば良かったのだけれど」

 今は早く、此処を離れたい。結局俺はスピードを出しすぎて、カーブを曲がりきれなかった。ちゃんと減速したつもりだったのに、感覚が疾うにいかれてたんだ。元々旨すぎる話だった。本当ならもっと、確実に進めていくべきだったのに。

 やり直さなくちゃ。どれだけ掛かるか分からないけど、それでもなんとか、立て直さないと。

「朏君」

 呼ばれて、すぐに振り向く。そこにいるのは、惚れ惚れする微笑みを浮かべる三鬼と、傍らの赤い鬼。

「今日は早く寝なさい。そうすればきっと、君の望みは潰えないから」

 そう言ってくれるのが、嬉しくて、でも同じだけ悲しくて。まともに返事も出来ないまま、重い身体を引きずって、三鬼の部屋をあとにした。

 ――四月九日、午前二時。


 息遣いが聞こえる。