「おやチリ君、どうかしたのかい、顔を机に貼り付けて」
ミキの、それはもう頭に来るくらい上機嫌な声が聞こえた。どうやらやっと、昼休み恒例講座が終わったらしい。
「腹が痛いらしいんですよチリってば」
「痛かねぇっつってんだろアズマ。頭可笑しいよお前」
つい口調が荒立つ。痛いとか痛くないとかそんなのはこの際どうでもいい。単に、ミキを引き留める結果に繋がるのが嫌だったんだ。
「元気そうでいいんだがね、チリ君。心配してくれている学友にその態度はどうだろうか」
「……いいからさ。ほら、早く教室戻らないと遅れるだろ」
予鈴はとっくに鳴っているので、追い返してもそれは善意に見える。好都合である。ミキの家にいる時みたいな調子で会話なんかした日には、教師公認集団リンチの後裏山に埋められた挙げ句無惨な死体を野良犬に掘り返されるのがオチなのである。
「それは勿論だが。ねえチリ君、私がいつも使わせて貰っている席の主はどの子かな。お礼を言いそびれているのが気になってね」
キョロキョロと教室を見渡す三鬼は、なんて白々しいのだろう。全部知っているからこそ、わざわざそこに座っているんだろうに。
「そいつはずっと来てない。理由は聞くなよ。自主退学でもしたんじゃないかってマツイさんが言ってたけど、実際どうだかは誰も知らないんだから」
「それはまた。名前は何というのかな」
「…………」
にやりと笑うミキ。最悪だ。こいつと話すと本当にろくなことがない。
「チ、チリお前、名前分からないのか? 仮にもクラスメイトの名前が分からない?!」
若干引き気味にアズマが言う。こいつのオーバーリアクションは慣れてないと精神的にキツイ。
「お前にだけは言われたくないなアズマ。仕方ないだろ、席が右隣っていっても、会ったのは入学式の一日だけなんだぞ、俺。ちょっと顔合わせただけの相手の名前なんて一々覚えられねぇよ」
「あー……あ? いや、もっといたと思うぞ。ええと、いち、に、さん……そうそう、入学式入れて三日は学校来てたもの」
「だからさ、そこは俺の方がいなかったんだよ。どうせ忘れてるんだろうけど。
思い出す度に、嫌なスタートを切ったものだと溜め息の出る話だが。その、隣の席の某かが、入学式の日を入れて三日間しか来ていなかったというのなら、俺が復帰した時にはもういなかった訳だ。学校に来て、隣の奴も休んでいると聞いた時には、ああ仲間がいて良かったなぁなどと呑気に安心していたものだが。まさかそれ以降、一度も会わないことになるとは思わなかった。
「しかしねチリ君」
ここぞとばかりにミキが切り出してくる。お前は早く帰れ。
「同じクラスなら、名前を聞く機会は何度もあったろう。それを覚えていないとなると、それはやはり、記憶能力に深刻な異常があるのでは、ないだろうか?」
心配そうな顔に苛々する。先輩は優しいなぁと惚れ惚れした顔で眺めている周りの連中も同上。ほんとに嫌だこのクラス。
「……覚えればいいんだろ、覚えれば。なんだよ、名前くらい」
「こらこら。相手の顔と名前を覚えるのは人間関係の初歩だろう。兎角、名前とは単なる記号ではない。その人間、ひいては一つの個を表す大切な要素の一つだ。決して蔑ろにしていいものではないんだよ、チリ君。
それで、どういう名前なのかな、アズマ君」
「おう」
これでアズマも言えなかったら面白かったんだが。やっぱりアズマは空気を読まず、
「朏。朏 千里馬」
そう、確かに聞き覚えのある名前をスラスラと口にして。
「……?」
視界の端で。いつかの白い月を見た気がした。
*Y.M*
「……気持ちの良い風だ。
夜風に吹かれ白が舞う。この界隈で一番背の高い工場の、その天辺に彼女はいた。純白の頭髪と、対照的に真っ黒なスカートを手で押さえながら、煌びやかな町並みを眩しそうに眺めている。眠らない町の光と、それを取り囲む闇の夜景。人の成した咎の形とも言うべきその光景を、弥生は心から美しいと評価していた。
「――ああ、おはよう、アオ」
いつの間にか、彼女の背後には青い影があった。何を口にするでもなく、微動だにしないまま立っていた。
「……と言うのも変なのかな、こんな夜中に。まったく、朝の挨拶と目覚めの挨拶が同じだなんて。言葉とはよくよく、どこかが抜けているものだよ。ねえ、アオ」
その笑顔は、詩的な人物が見たのであれば、花や星や宝石のようだなどと、持てる言葉の全てを尽くして褒め称えるような表情だったろう。誰もがその評価に共感し、そして唯一、そこに異を挟むモノがいるだけであろう。
「――なに、案ずることはない。私は大丈夫だよ、アオ」
誰もが賞賛するであろう笑顔で、彼女はそう応えた。その言葉通り、彼女の思考は既に別の方向へと向けられていた。彼女の視線は、天を突く程に輝く町並みの、いくらか
「――ふん、彼の体調も正常に戻りつつあるようだね。しかし、病弱という訳ではなさそうだが、これは少し注意が要るかも知れないね」
手間の掛かる話だと彼女は笑う。誰が知ろう、その笑顔が、先程のそれとは全く別物であろうとは。
「残された
そう呟いてから、彼女は狭い足場から一歩を踏み出し、
「さあ。今度こそ、当たりを引きにいこうか」
その細い身体を、宙へと投げ出した。
夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 ―― 完 ――