名無しの -8-


「こら、いつまで寝ている気だ、チリ君」

「え――」

 その一言で目を覚ます。沈んでいた自我が跳ね上がって、急速に広がる視野に軽く目眩を覚えた。

「ミ、キ」

 その声の主はいない。いや、見えない。視界は青い鉱物のような何かに占められていた。何気なしに少し見上げて――

 見てはならないモノを見た。

 金属を思わせる鈍い藍色の肌。およそ常人では有り得ない全長と筋肉質の体躯。自ずと金剛力士像を連想するその形はしかし、禍々しく潰れた双眼と、額から伸びる二本の角が否定する。身体の一部が欠けた“異形”と象徴たる“角”――その姿は“鬼”そのもの。ミキの使役する怪物、それこそがこの 青鬼 アオ なのであった。

「……あれ」

 不思議だった。

 あの時、初めてアオを見た時、俺は昏倒しかけた。アオの手が俺の頭蓋を鷲掴みにしていた。アオの拳が俺の心臓を貫いていた。アオの口へ俺の両腕と両脚が呑み込まれていった。そういう夢を見た。

 なのに今は、不思議と平気だった。というか、そもそも……

「なんで俺、アオに斬り掛かってんの?」

 そういう風にしか見えないのである。

 俺の右手にはいつものでかい“鎌”が握られてて、どう考えても思いっきり振りかぶってから振り下ろした感じで右腕が持ち上がってて、身体全体を見ても力一杯踏み込んで踏ん張って何かしら叩っ斬ろうとしていたようにしか思えない。アオはアオでド太い腕で以て鎌の長柄を受け止めてる。それも、いつも通りの物凄い形相で。

「うわぁ……」

 待てよ待て待てちょっと待て。失神までいかなくともアオってば十分怖いのに! なんで俺こんなことしでかしてんのよオイ!

「凄い汗だぞチリ君。……ふん、その様子だと、やっぱり覚えてないんだね」

「覚えて、って……あ」

 覚えてない。青柳晃一朗だった擬獣を前にして、やたらビビってたあたりは覚えてるんだけど、いつの間にかぱったりと記憶が途絶えてる。覚えていないってことが、不自然なくらいに自覚出来る。……何か、かなりショッキングなモノを見たような、見てないような。

「まあいいだろう。覚えていないと言うことは、覚える価値がないと、その必要がないと、君自身が思ったから……かも知れないのだからね。ああ、もういいよ、アオ」

 芝居がかったようなミキの台詞の後、アオがのっそりと腕を下ろして、そのまま定位置――ミキの向かって左側に移動する。

 そうして漸く、俺の雇い主が目に入る。

 長い――立ち上がれば腰まで十分に届くのだろう白い髪。半ばまで露出した肩から、病的に細い身体を包む暗色のドレス、そして同じ黒のソファに垂れるそれは、幻想的な虚ろさで以て輝いている。

 繊細な眉の上で切り揃えられた前髪が、その端正な顔立ちを引き立てる。それこそ作り物にしか見えない綺麗な肌。顔の輪郭は邦人らしく控えめなのに、西洋人じみて冴やかに栄える。歳で言えば一つしか違わない筈だが、落ち着き大人びた雰囲気がそれ以上に年上であるように見せる。

 そのミキの顔が思いの外近くにあって、今更ながらに驚いた。女神でも真似るかのように微笑む紅唇と、髪の色に反した深い深い漆黒の瞳。直視し続けていたら本当にどうにかなってしまいそうで、耐えられず視線を落とす。と――

「――ッ」

 つい先刻の、憎悪と激情を思い出す。

「離せ、ミキ」

「うん? 何をだ」

「その人を離せ」

 ミキの足下に膝を付き、縋るような格好で、ミキの膝に顔を乗せ眠る女性――マツイさんがそこにいた。

「――ああ、成る程、そういう飛び方をした訳か。厄介、だけど興味深くもある。記憶を改ざんする術があれば、即ち感情を操作することも可能である、と。どう思うね、チリ君」

「なにぐだぐだと詰まんねぇことを。『君なら彼女を守ることが出来ると確信した』? だからどうした。なんだってお前のペットの予想通りになると思ったら大間違いなんだよ」

 苛々と、右手の鎌でガツガツと黒の床を叩きながら、俺が斬りかかった本当の相手に思い当たった。とは言えこの角張った刃じゃあ、生身の人間を斬ることなんて出来ない筈なんだが……。いやきっと、そういう問題じゃなかったんだろうな。

「――うん、思ったよりも重傷だぞチリ君。無論この子にはお帰り願うけれど――というか、別に拘束してる訳でもないんだが。ほらその前に、君の課題をやってしまわないと」

「課題? いつものお前の種明かしはいらねぇよ。俺はもうほとんど知ってる」

 青柳 晃一朗。首切り殺人鬼。確かにまだ分からないことはある。一生考えたって理解出来ないことなんて幾らでもあるだろう。一人の人間について考えるってのはそういうことだ。

 それでも、もういい。自分を殺して、人間をやめてまで女の首を斬りたかった理由なんて、そんなのはもう知りたくもない。

「――そうだね。確かに、青柳 晃一朗について君に語ることはそう多くない。彼は本当に、あらゆる点で特例だったからね。でも、君が知らなければらないことはある」

「……それって、アレが首だの女だのに拘ってた理由だろ」

「ハズレ」

 思わぬ否定にまたも驚かされる。俺にとって一番重要なのは多分、それだったから。

「言っただろうチリ君。彼は特例だと。その理由を知ったところで、何一つ意味のあることはない」

 一番重要なのは、それだったから。

「……なんだ、それ」

「顔が怖いぞチリ君。意味がないというのはね、君にとっては、ということだ。なにも蔑ろにした訳じゃない。……本当にね、私には君の思考過程が理解出来ないんだよ、チリ君。そこでそうやって怒ることが出来るのに、どうして私の言葉は理解してくれないのか」

 ミキの言葉が理解出来ない理由なんて分かりきってる。というか、何かしら含み持たせなきゃ会話も出来ないのかコイツは。

「じゃあ、何なんだ。俺は何を知ればいい」

「ああ、済まないがチリ君、前言撤回だ。君の知るべきことは今、確かにないよ」

 否定の意味で手を横に振ってからそう言って、ミキは憂えるように息を吐く。

「いや、今の今まで決断しきれなかった私も私だが。君には言霊で知らせるだけじゃ足りないんだ。ちゃんと理解しなくては、本当にそうだと納得しなければ、そう、意味がない」

 それはまるで、自分に言い聞かせるような声だった。らしくなさすぎる。ミキはいつだって、自信に満ちているのが当たり前なのに。そんなのを聞いているうちに、苛々しているのが虚しくなって、折角だから冷やかしの一つでも言って反撃してやろうかな、なんて思ってる。

 こういうのを、毒気が抜かれる、と言うのだろうか。意図せず、右手に握っていた物を何処かに仕舞って、そして全身の力が抜けていく。世界が縮まり、平常に戻っていく。それにつられて心の方も、どんどん疲れ果てていくような気がして、

 ――可笑しいよな、こんなの。

「と言うことは、だ。動機について語るのも然りな訳で。……ねえチリ君。青柳 晃一朗の能力を、君はどう思う」

「どう……?」

 表層に意識が引き上げられる。なんとなく、ちょっと前まで頭痛に悩まされていたのを思い出したが、今はなんともなかった。でもすっきりしてる訳じゃない。何とも言い表せない靄が、どれだけ振り払っても晴れず、漂う。

「……そうだった。あいつが握ってたのは――」

「ああ。彼は元々、君や私と同類だ。一番厄介な擬獣というのがね、ああいう連中なのさ。界装具のもたらす異能を有した人間が、擬獣化によって更なる力を得る。今までにもそういった事例は報告されているけれど、今回のように実害なしで済ませられるなんて実に稀なケースだ。だからチリ君、君はある意味英雄だよ」

 ねえアオ、などとアオに同意を求めたりしているミキ。当然アオは微動だにせず、俺も俺で嬉しくも何とも思えない。

「それでチリ君、さっきの話だけれど」

「ああ、それは――」

 青柳の能力をどう思うか。実際のところ良くは分からない。こんなモノを持ってる人間なんて自分以外ではミキしか見たことないし、そもそもミキと俺のとじゃかなり違ってる。なにせ“鎌”と“鬼”、まるで共通するところがない。界装具やその能力についてほとんど理解していない俺では、それこそ金縛りとか空中浮遊とか、異能と言うよりは手品で起こせそうな現象しか思い浮かばない。……少なくとも、他人の首とを消す能力なんて。

 取り敢えず思った通り答えてみると、ミキはまた、人を小馬鹿にするように口元をにやけさせた。いつもなら腹を立てるところなのだろうが、今は落ち着いている。きっとガスでも切れたんだろう。

「そうだね、確かに彼はそういう風に使っていた。……いや、『使っていた』というのは正しくないか。まあ何にせよ、彼の能力は“首を斬る力”なんてモノじゃなかった。どういうコトか分かるかな、チリ君」

「いいや」

 分かる訳がないので即答してやる。対してミキは、気を悪くした素振り一つ見せず続ける。

「それじゃあもう一つ質問しようか。青柳 晃一朗は生前、十五人もの人間を殺した殺人鬼だ。しかしどうして、十五人もの人間が死んでしまったと思う?」

 これまた分かりにくい言い回しだ。“何故殺したか”ではなく“何故死んだか”という問い掛け。こういうのは大抵、深く考える程泥沼に嵌る。

「それは、多分、警察が捕まえなかったから」

 俺の答えに、うん、とミキは満足そうに返した。

「無差別殺人っていうのはねチリ君、文字通り殺せればいいんだ。行為自体は“誰かを殺す”ってことなんだが、重要なのは“誰を”ではなく“殺す”という行動そのもの。まあ、青柳の場合は女性って枠があったけど、人間の約半分を括る条件なんて、この際無視しても構わないね」

 と言うことは、本当に“女性”だった訳だ。小柄とか凹凸とか髪型とか無関係に、兎に角“女性”がターゲットだった、と。

「だから一番手っ取り早い解決法は、本人が誰も殺せなくしてしまうこと――簡単に言えば、本人を殺すか捕まえるかすればいいんだ。でもそんなのは誰にだって分かることで、実際警察や他の人間だって分かってた。だから、青柳 晃一朗という殺人鬼を認識したその時から、彼を捕らえることに全力を注いでいた。にもかかわらず、十五人もの被害者を出してしまった」

 本当に、哀れだ。殺すことそのものに意味があるのだとしたら、それは永遠に終わらない。せめて殺したい相手がもっと限定されていれば、終わりはあったかもしれないのに。何人殺しても満足なんて絶対出来ない。終わりなんか絶対来ない。ずっとそのまま。もし人間に永遠の命なんてものがあったなら、ひょっとしたらあいつは、永遠に人を殺し続けていたんじゃないだろうか。

「そうそう、やっぱりニュースくらいは見るべきだと、私は思うんだよチリ君。君に理解出来るかな? 殺害現場がバラバラの殺人を十数回も犯した、というこの事件の特異性が」

 思わず首を傾げてしまう。

「人数の話? 珍しいのか、それ」

「普通はないよ。例えば、特定の場所で犯人が暴れ回って死傷者が二桁、というのはまあ有り得るだろう。それは運の良し悪しの話だ。が、今回は範囲が広すぎるし、時間も掛かりすぎている。大まかに言ってこの国の四分の一、決着までは半年近く掛かってる。単独犯、如何なる後ろ盾もなしに十五の被害者を出したなんて、出来すぎているにも程がある」

「でも、あいつは普通じゃなかったんだ。界装具を持ってるって時点で、身体能力は跳ね上がってるんだから」

「断言するがねチリ君。君でも彼の真似は出来ないよ。殺しながら遠くに行こうと思ったらその前に、半年間捕まらないように殺し続けようと思えばその前に、確実に捕まっている」

「…………」

 試してみる訳にはいかないが、多分ミキの言ってることは間違ってない。殺人鬼として世間に知られるってことは詰まり、自分が社会に“敵”であると認識されるってことだ。自分以外は敵しかいないって状況で逃げ回るなんて、そういつまでも続いたりしない。世間の目をかいくぐるってのが如何に大変な話か。肉体が、それ以上に精神が保たない。

 ミキが『十五』と断言しているあたり、被害者は十五人に間違いないのだろうが、要するに警察もそれを把握出来るだけの能力は持ってるってことだし。探偵小説じゃ不遇の警察だが、情報戦、人海戦術なんかに関しては下手すれば最強、一個人が太刀打ち出来るような組織じゃない。

 殺人鬼が捕まりたくないと思ったなら、無闇に殺そうとせず、影に潜んでいるべきだ。広範囲を渡り歩きながら半年間、誰かを殺し続ける。言われてみればそんなのは、自在に姿を消して移動する手段でもない限り絶対に無理な話で……

「……ああ」

 そこで漸く、ミキの言わんとしていることが分かった。

「――うん、気付いたみたいだねチリ君。青柳 晃一朗の有する能力は首を消すことじゃない。首に限らず、“人体の一部、及び全部を別の場所へ移動させること”――それが、彼の能力“ 次元隧道 カブリオル・ポルテ ”の正体だ」

 自分をそのまま別の場所に移動させることで、青柳は追跡の手を逃れていた。だからこそ今回の事件も起こせた訳か。……にしても。

「なに、その、カブルとか、ポルテとかって」

次元隧道 じげんずいどう 、カブリオル・ポルテ。彼の能力の名前さ」

 いいだろう、と言わんばかりの自信たっぷりの顔を見て、一言。

「考えたのお前か」

「うん」

 平然と頷かれて戸惑った。なんで一々名前を付けたがるんだろうコイツは。

「ただし、彼は自分の能力を知らなかった。発現はしたが、その存在も使い方も一切、把握していなかった。当然の話だ、誰にも教えられなかったのだから」

 こちらの戸惑いなどまぁったく気にした風でなく、さくさく話を進めやがった。いや、別にいいんだ。どうせ突っ込んだって無視されるのがオチだから。

「だから青柳は、無意識のうちに能力を行使していたことになるんだが。考えてごらんよチリ君。相手の首が消えて欲しいと願ったら本当に消えたり、警察に追われていたらいつの間にか全く別の場所に移動していたり。そんなことが何度も起きたら、どんな気持ちになると思う」

 考えるまでもない。仰天し混乱し、その度精神が削られていく。十五人もの人間を殺した後の青柳の心境は、流石にちょっと想像したくない。

「変幻自在の移転発光体。機関が目を付けるのがもう少し早ければ、或いは対策も……いや、大差なかったかな。まったく不運な話だよ。 性質 タチ の悪い悪魔に囁かれなければ、彼もあそこまで苦しむ必要なんてなかったのに。しかも世間には全く理解されないんだ。したことがしたことだけに、仕方がないことではあるんだが……」

 やるせないね、と呟くミキは、酷く切なそうに顔を歪ませた。その表情は、これ以上ない程完成した芸術を傷つけるような背徳感と共に、底知れぬ甘美感を覚えさせる麻薬にも似た中毒性を孕み――

 しまった、と思うより前に、どくりと一つ心臓が鳴る。ミキから感染でもしたのか、キシキシと心が痛む。何で早めにもう数歩下がっておかなかったんだろう。いやだいやだ、ファンクラブの連中の気持ちなんて分かりたくないのに。

「にしても、アレだな。青柳のやったことって、事件って言うよりは怪談話だよな。えーと、怪人首切り男、っていうか……、なあ」

 気を紛らわせる為、思い付いたことをそのまま言ってみた。

 口にして改めて思ったが、やはりマツイさんが目を付けただけはあるのである。殺すだけなら、単なる通り魔事件だったろう。だが青柳は首を落としていた。真っ当な社会通念で考えれば実に妙な話だ。人間なんて殺そうと思えば割と簡単に殺せるもの。それをわざわざ、首を斬るなんて手間の掛かる手段を選ぶ意味が分からない。首には骨という物があって、漫画みたく手軽にスパッといけるわけもなく、鋸かなにかでギコギコやらなきゃ切断出来ないのが現実だ。

 何か拘りがあったのかな、なんて推測も出来るけど、人間ほどほどが大事というか、うっかり手間取ってる間に通報されてお縄を頂戴されたらと思えば普通はやらない。なのに都合十五回、そんな隙だらけかつ怪しすぎる狂人の首切り作業が罷り通ってきた。この国の警察は一体どれだけずぼらなのだ、と訴えたくもなる。

 だが実際、警察の力というのは偉大である。その警察側に言わせれば、青柳の方が異常だったという訳で、別の意味で青柳の人間性が薄れていく。おまけに、どれだけ必死で探しても、切り取られた首は見つからないのだ。青柳が死んだ今ですらそれは変わらない。そんな悪い冗談は、怪談に出てくる怪人か何かの所業だとしか思えない。

「ああ、それは間違っていない。事実、事件以前は青柳のことなんて一切知らず、報道で始めて知ったような人間にしてみれば、彼はテレビの中、フィクションの世界の住人と何ら変わりない存在だ。被害者の遺族にしてみれば冗談じゃないだろうが、世間というのは得てしてそういうものでね。社会の記憶からも薄れ、いずれ過去に見た推理ものドラマの事件と判別ができなくなってくる。すると、表面とは別のところ、誰も知らない裏路地のような場所では、噂が噂を呼び、手当たり次第に尾ひれを擦り付け、新しい怪談話――都市伝説が誕生する訳だ。“首切り怪人・次元隧道”なんて、語呂のいい題だと思わないか、チリ君」

 それはお前が勝手に付けた名前だが。しかし、確かにそういう名前、異名は一種のトドメだ。トイレの花子さんじゃないが、怪談話にしても都市伝説にしても相応しい呼び名が付いているもので、それが現実から離れていればいる程喜ばれる。

 本当に笑えない話だが、青柳の得た異能は、その正体を世間に知られぬまま、青柳を犯罪者から伝説へと押し上げていくのだ。

「でも、実際それは悪い話じゃないんだよチリ君。犯罪は人間が起こすもの、だから他の人間も真似出来る。この手の大きな事件で最も厄介なのは模倣犯というヤツでね。報道によって知れ渡った事件が、ただの悪戯から本気の殺人鬼デビューまで、面白いように伝播していくんだ。

 でも、都市伝説というのは真似をされない。精々子どものやる幼稚なごっこ遊びに利用される程度だ。そもそも、まともな人間に実行可能な都市伝説なんて面白くもなんともないだろう。犯罪の都市伝説化。一部の人間にすれば、犯罪者を祭り上げるみたいで気に食わないんだろうがね。それが今のところ、一番の抑止と成り得るのさ。過去に実在した犯罪をモチーフにした怪人伝説なんかを考えれば、至極当たり前なことなのにね」

 それは大分特例だと思うけれど。いやもしかしたら、その認識そのものが、既に抑止足り得ているのかも知れない。下手に“超常”なんてものに陥れられると、容易く社会から抹殺される。肝心なのは、これが人為的ではなく無意識的、しかもずっと前から少しずつ蓄積され、結果深く根付いた概念によるものである、ということ。呆れつつも感心してしまう。そうやって人間社会は、常識の通用しない“異端者”を、物の見事に排除してきた訳だ。

 首の根本当たりが妙に重苦しくて、溜め息を吐いた途端、重心が傾いて蹌踉けた。こういうのを虚脱感と言うのだろうか、どうにも身体に力が伝わりづらい。

「さて、私の話は此処までだけれど。給料はどうする、チリ君」

 突然声を掛けられて――ミキの方はそう思ってなかったようで、不思議そうな顔をされてしまったが――一歩後退った。だがすぐに立ち直り、かぶりを振ってから頭を切り換える。

「……ああ。別に、いい」

 何となく、気分じゃなかった。と言うか、あまりに疲れすぎていて、他のことがどうでも良くなっていた。いいじゃないか、金なんか貰えなくても。普段の生活を維持するくらいの貯金はある。これから町一つ横断しなきゃいけないんだ。家についてベッドに入るまでに“しなければならない”行動は、ほんの僅かでも少ない方がいい。

 そう言えば、と思わず呟いてしまう。小首を傾げるミキを前に、誤魔化すのすら億劫になって、そのまま話すことにする。

「あのさ、此処に来る前に、 擬獣 あいつ に遭った時に」

「うん」

 頭の中で言葉が上手くまとまらない。選ぶ間もなく、勝手に喋ってしまっている。いや、すぐにでも帰りたい今は、それで丁度良いのかも知れない。

「ずっと、違和感って言うか、そういうのがあったんだけどさ。なんでマツイさん、 俺のことが見えてたんだ ・・・・・・・・・・・ ?」

 それだ、と気が付いたのはいつだったろうか。

 全ての擬獣は、本体を中心に固有の結界を展開する。意味や構造なんか知れたもんじゃないが、その中は紛れもなく異世界であり、普通の人間は一切の干渉を許されない。踏み込んだところでそんなものの存在を認識出来ないし、結界の中にあるモノを視認することも当然出来ない。だから、普通の人間は擬獣を知らない。

 ……筈なのに。マツイさんはあの時確かに、結界内に踏み込んだ俺を――擬獣に遭遇し、マツイさんを突き飛ばすまでの僅かな時間、驚きで硬直していた俺を――マツイさんは、不思議そうな顔をして見つめていたんだ。

「他にも妙なことはあってさ。あの時点でマツイさん、擬獣にもあの空間にも、全然気付いてなかったんだ。何かの間違いでマツイさんが擬獣の、あのヘンテコな場所に入り込んでたとしても、なら俺だけじゃなく、他の全部も見えてなきゃ可笑しい。マツイさんの性格上、アレに気付かなかったとか、敢えて無視したとか、絶対ないから」

 それだけ言うと、なんだかどっと疲れが増した。ああ、少し口を動かしすぎた。やっぱり多少、機能の制御が効かなくなってるみたいだ。

 そんな俺の状態には何も突っ込まず、ミキはそうか、と神妙に呟いてから、

「成る程、それに気付いたのはあの時ではなく、最初からだった訳か。何か別のことに頭が行っているな、とは私も思ったけれどね」

 と、何か関連性の見えないことを言い、ミキは思案するように目を閉じた。かと思えば、すぐに戻って口を開く。

「重ねて言うが、ただの人間が擬獣を視界に捉えることは有り得ず、また結界内に踏み込むことも叶わない。そして間違いなく、このマツイ嬢はごく普通の人間だよ」

 じゃあ、どうして。

「ふん、では私からも聞こうか。擬獣と化した青柳 晃一朗の目的とは何だ、チリ君」

「……あ」

 なんて的確な切り返しだろうか。それだけで、俺の求めた答えとの距離が、あと半歩の所まで縮まってしまった。

「ひょっとして、擬獣は結界の外にいる人間には何も出来ないのか?」

「勿論。結界とはそもそも、ある境界の中と外を完全に隔絶するための装置だ。どちらか一方からでも干渉出来てしまうのならば、それは結界とは別の何かだよ」

 そういえば、最初の仕事の時とかも確かにそんな感じだった。うっかり遅刻した所為で酷い目に遭った訳だが、そうか、あのまま外で待ってりゃ良かったのか。多少なり引け目を感じて一歩踏み越えた俺が馬鹿だった。

「じゃあ青柳の結界は、普通の人間でも出入り出来たってことか」

「女性ならば、ね。その侵入すら拒んでしまったら、自身の目的を遂行することすら不可能になってしまう。擬獣の結界とはね、その姿形がそれぞれ異なるように、性質も決して一様ではないんだ。だから、結界内に踏み込んで尚、その変化を認識しづらくする、なんて細工も施されていた訳だ。何故って勿論、やりやすいように。……尤も、それだけ複雑なことが出来たのは、界装具という形で人間としての“個”が強く残っていたからこそ、なんだが。死んでも尚保身を考える……全く以て呆れてしまう。擬獣の結界とは、例えるならそう、まるで磨き込まれた鏡のようだ」

 これ程疲れる話がどこにあるだろう。何でもアリったって限度がある。真性の無差別殺人鬼でも擬獣になってみろ。もう都市伝説がどうこうって話じゃ済まない。町単位で死人が出たって全然可笑しくないじゃないか。

「……あれ」

 ふと。思った。

 人が死ぬ。想像出来ないくらい沢山の人が死ぬかも知れない。青柳の事件以上に世間でも騒がれて、……でも、だとしても、


(それって、何か、困るのか?)


 世界はこんなにも広くて、一個の人間はこんなにも小さくて。世界のどこかで誰が何人死んだところで、俺には(俺には何の関係もないじゃないか)――


「ミィィィィちゃんバァーカタレェェー!」

「ひぃッ」

 何事だ、何奴だ、何物だ、何者だ!

「ウソツキはぁ、ハリセンボン、丸飲みなんだぞ、このヤロー……」

「…………」

 突然轟いた声は、どうもマツイさんらしい。それも寝言だ。非常識というかどこの漫画のキャラですかみたいな寝言だった。信じられねぇ、今までそこにいることすら忘れるくらい場違いな存在だったってのに、なんでこうもノビノビとやらかしてくれるんだこの人は。

 くく、と必死に押し殺しているような笑い声が耳に届く。犯人はまあ、言うまでもなく。

「……『ひぃ』って。ねえチリ君、『ひぃ』って君」

「わ、笑うな! お前、これ以上笑ったら金取るぞ!」

「ひやぁ、ハリセンボンっつってもお笑いの方は流石にムリ、特に眼鏡の……」

「意味不明な寝言をやめろ!」

 やばい、なんか顔がめちゃくちゃ熱い。無駄に声が張り上がる。穴があったら入りたい。そして早々に冬眠したい。人間やれば何でもできるって教育関係の偉い人も言ってたことだし、夏に冬眠するくらいはやってやるさ、ああやってやるとも!

「なんだね、君の愉快な失態がもう一度見られるのなら、金くらい幾らでも払っていい、いやむしろ払いたいくらいなんだが、まあ今日のところは許してあげるとして。いいオチ付いたところでそろそろお開きとしようか、ひぃ君」

「……その名前は本気でやめてくれ。つーか、頼むからもうこれ以上疲れさせないで」

 ミキは「分かったよ」と頷きつつ、器用にマツイさんの上体を上向きに起こし、俺に向けておいでおいでと手招きを――いや、しゃがめ、という意味か。……非常に今更なんだが、あんなとんでもないところでよく眠っていられたよな、マツイさん。

「……あのさ、別に背負わなくても。叩き起こせばいいと思うんだ」

「構わないけれど、諸々の説明は君に任せるからそのつもりで。ほら、そっち向いて跪きなさい」

 いいように操られているようにしか思えないが、この際仕方がない。言われたとおりにミキに背を向け、跪――じゃなくてしゃがむ。黒い平面、ただっ広く何もない部屋の床は、気味が悪い程整然として、相変わらず塵一つない。

 重りがのしかかる。重心が上がり、しっかり踏ん張っていなかった下半身が多少ぐらつく。可笑しいな、マツイさん、こんなに重かったっけ。

「ぐ、暑苦し」

 そしてこの体温。この部屋では問題ないが、だからこそ外に出た時の地獄は覚悟した方が良さそうだ。

「ねえ、チリ君。最後に一つ、教えてくれないか」

 立ち上がり様、後ろからミキが声を投げてきた。

「君は何かの存在を許せなくなった時、……消えて欲しいと願うモノを見つけた時。どんな行動を起こす?」

「別に何も」

 また意味のないことを、と思いつつ、出口に向かいながらぞんざいに答えてやる。外界へと通じる扉は、今はちゃんとそこにあった。

「――本当、に?」

 返ってきた言葉が、これまたあまりに似合わない……なんというか、心底驚いたような声だったから、思わず立ち止まり、振り返ってミキの顔を見た。

 信じられない、という顔。眼差しは真剣そのもので、目があった瞬間、ギクリと肩がひきつった。

「……なんだよ。お前に嘘なんて言ったって意味ないだろ」

「ああ、いや、嘘だとは思っていないよ。思ってはいないが……そうだ、何故そんな風に思うんだ、チリ君」

 魂胆が読めたんでだんだん苛ついてきた。そりゃ人一人背負ったまま突っ立ってたら疲れもするワケで。

「色んな人間がいるんだ。身近に気に入らない相手の一人や二人、いたって可笑しくない。いや、いて当然だ。だからって邪魔に思っても、一々反応してたらキリがないだろ」

 例えば目の前のアレとか。背負ってるコレとか。どんなにソリの合わない相手でも、それなりに折り合いを付ければやっていけないことはない。人間一人じゃ生きていけないってのは本当だ。好きな奴とだけ連んでいられるに越したことはないだろうけど、そんなことを言ってられるのは何も知らないガキくらいだ。

「私はねチリ君、不安なんだよ、こう見えてもね。どうにもピントのずれた返答を寄越してきたのもそうだけど、許せない存在、消えて欲しいモノ、と聞いて、何も言わず“人間”に限定した辺りとか、特にね」

 そう言えばそうだが。テキトウに答えてやったんでどうでもいい話だ。さっさと外へ出よう。そして家帰って寝よう。

「お願いだチリ君。青柳 晃一朗の二の舞を演じるようなことだけは、絶対にやめてくれ」

 徐々に遠ざかる声。黒の壁に反響し、全方位から誘惑する独奏。迂闊にも惚れ惚れしてしまいそうな音色を頭の片隅で聞き入りつつ、それでも、最後の返答を間違えることはない。


 何が『お願いだ』だ。要するに自分の仕事が、面倒事が増えるからやめてくれ、って言ってるだけじゃないか。


 扉に手を掛け、ようやく平和な日常への第一歩を踏み出す、その直前。振り向かずとどまらず、挨拶代わりの言葉を放つ。


「それ、大きなお世話だ」


 ……自分で言っておいてなんだが。何というか、今のはどう考えても、小物の捨て台詞にしか聞こえなかった。