前
額が痛い。まずそう思った。
意識が浮上していく。頭が重く、血が偏って詰まっているようだ。腰回りにも充血したような硬さがあって、この上ないほど不快だった。それらは全身から発生して脳髄へと走る。身体のあらゆる筋が軋んで、身を捩っても逃れられない痛痒が、ぬかるんだ眠気を疎らに吹き飛ばした。
「……またか」
既知感を覚えた。そうだ覚えがある。つい最近だったか遠い過去だったかはさっぱりであるものの、確かに覚えがあった。だが、それがつまり何なのか、すぐには分からなかった。これ、この状況、前にも経験したことがあるなと、そう思いはしたけれど。それがいつのことだったのか、俺の記憶から読み取ることはできなかったのだ。
これではもう、記憶があったというこの認識そのものを疑いたくなってしまうが、そこまで考え始めたらもうキリがないことに気が付き、俺はこの件について考えることを放棄した。
俺は思うのだ、思いたくなるのだ。デジャビュなんてものは案外、忘れ果てた夢に少し似通っていただけの、本当に本物の虚構に過ぎないのかも知れない、などと。
怠さと戦いながらもなんとか顔を上げると、かなり乱暴な筆跡の英文が目に入った。読めなくはないが、規則性もまるでなく、丁寧さとは無縁である。まるで稲妻のようだとさえ思ったが、筆記体というわけではない。俺はそんなもの習った覚えはないし、その必要性もまるでわからない。俺もまあ面倒くさがりな方だという自覚はあるけれど、書きやすさと読みやすさを天秤に掛けるような本末転倒なことをやるほど面白おかしい性格ではない。
単なる書き取りだ。ただノートの白いページを埋めるだけのかったるい作業である。とは言え、量が過剰であることを除けば、比較的楽な部類の宿題で助かっている。クラスの中では不評を買っていたようだが、こんなもので教師の覚えが良くなるのなら安い取引だろう。
或いは、ああなるほど、その単純作業が眠気を誘ったのか。どうやら俺は突っ伏して、勉強机に体重を預けて眠っていたようだった。小学校の頃から使っている椅子が快適なわけも当然なく、身体の痛みが無視できないレベルで駆け回っているのも道理というものだろう。
机の上の置時計は六時半を指していた。閉じたカーテンの隙間から日光が差し込み、今が朝であることを告げている。そう言えば確かに覚えている。ちょうど六時間前、寝る前にもう少し宿題を片付けておこうと思い立ち、ベッドに入らず勉強机の席についたのだ。
脳に記憶するという作業に関しては、寝る前と起き抜けが最適だという小ネタにあやかった――わけじゃあない。なにせ夏休みの宿題消化計画が、丸々一週間分遅れているのだ。最終日になって大慌てで手を付け始める類の愚挙は、生憎と俺の趣味ではなかった。新しいバイトをせずに済ませられたことで、幸いにも生まれた余暇を
ただ。
ただ、この――既知感が。
「…………」
頭痛が、酷い。
疑問が浮かびかけ、そして押し潰された。それが何だったのか知らないが、しかし思い出せないということは、その程度のことだと言っていいだろう。昔誰かが言っていた――ミキだったろうか? 今思えばらしくない無責任さではあったが、だからと言って納得し難いというわけではないのだから、わざわざ追求しないでおこう。
そう、確かに。よく分からずどこかにある疑問より、いま目の前にある課題の方が問題だ。なにせこの宿題、どう見ても予定より進んでいない。双町から帰還してこっち、なるべく無理なく遅れを取り戻す計画を立てたつもりだが、それさえ達成できていないのだ。こうなると、どこかで更なるテコ入れが必要になってくる。例えば、このまま継続して、もう少し進めるとか――
そんな算段を思い浮かべながら、なんとなしに机の上のケータイを拾い上げ、今日の日付を確認し、
「……いや、だめだ、今日は」
思い出す。思い出す。思い出す。
今日は午前から、約束があったのだ。いや、別に大事な約束ではないのだが、意味もなくすっぽかしても、後でろくなことにならないのが目に見えている。次の日がのんびり寝ていられないというのに、宿題などに手を付けた昨夜の自分の判断を呪いたくなる。
まだ急ぐ必要はないが、もう一眠りするほどの余裕もない。仕方なく、一階へ朝食を調達しに立ち上がることにした。
だが、そう、それでも。
その日付をして、またしても鬱陶しい既知感が、余計なお節介を始めるのだ。ボケたような誤認と言わざるを得ない。若年性の痴呆だなどと、マツイさんあたりに意趣返しを貰いそうな話だ。電波時計を搭載した携帯電話が今日だと告げているのだから、そこに疑念を持つなど無駄以外の何ものでもないだろうに。休みボケというのは、休み明けに来るものだったはずではないか。悪い冗談だ。こんな錯覚は容赦なく後腐れなく、さっさと切り捨ててしまうに限る。
約束の日付は、明日だと思っていたのに、――なんて。
中
緊急事態、すぐさま行動を起こさなくてはならないとき、逆に身体が動かなくなることはあるだろう。脳の信号が身体に伝わらない――というか、脳から信号を出したつもりが、実は出ていなかったとか。思い返すに、過去何度か記憶にある例の金縛りも、ひょっとすればその手の現象だったのかも知れない。
もしくは、そう。睡眠時間が不十分であるとき、日中の判断能力が酔っ払いのそれまで低下する、という話を聞いたことがある。この炎天下で、その類の異変が発生したとは考えられないだろうか。高々数十メートル先の動体が、視界に入っていたにも関わらず、意識の中に入っていなかったという失態。ミキあたりには病院を勧められる、ないし大五郎さんを召喚される可能性さえあるかも知れない。あの熊先生も、ミキには明確に劣るものの、語り出すと止まらないタイプの人間なので、できれば避けて通りたいルートである。
避けて通るルート。
というか、まあ、今まさに歩いていたこの道こそが、避けて通るべき道程だったのだ。
自宅から駅方面へ降りていくには幾つかのルートが存在し、当然の如く俺は最短距離を行く、ほとんど直線の道を選んだ。
その途中、団地の真ん中にある小さな公園――
「あ」
「あっ」
俺たち二人はアホみたいに口を開けて、互いの顔を見合わせた。
頭の中では、単なる通行人として処理していた。身体を締め付けない程度にゆったりとしたスウェットの半袖と九分パンツで、紺色に身を包んだ一人の女子。元々肩までしかない後ろ髪は軽く結わえられ、それでも前髪の端をまとめるリボンはトレードマークとしての役割を果たしたまま。ジョギングかウォーキングでもしている、よくいる暇を持て余した健康志向な人だろう、くらいだと思っていたのだが。
「こ、こっ、こここここっ、こっ」
その女子――綾辻 華は、両腕の肘から先をぶんぶん上下させながら、何やらニワトリの物真似をし始めた。愉快なやつである。
「――まあ」
なんだ。本来なら遠回りしてでも遭遇を回避していたところだが、出会してしまったものは仕方がない。前回の謎の連行は、どうやら俺のテスト成績を祝うことが目的だったようで、何かしら悪意があるというわけではなさそうだったし。軽く挨拶くらい、しておいてもいいんじゃないだろうか。
「おはよう、綾辻」
なんとも。自分でも分かるくらいに、ぎこちない挨拶だった。口にした後で、若干の後悔と気恥ずかしさに背中をつつかれているようだ。
綾辻とは、まともに話したことなどない。前回初めて口を利いたのだが、あれを一回とは数えられまい。入学から四ヶ月経って、未だに話したことがないクラスメイト――なんていうのは、別に珍しい存在ではないだろう。男女問わず、そういう相手は一人二人いるものだ。縁がなければ、卒業までの三年間で見ても、そういう相手はいる。実際中学時代にそういう奴はいた。
まあ俺の場合は、それが一人二人どころではなく大量にいるという話だが、だからどうというものでもない。損もしないし、得もしない。
そういう人間もいる。
いて、構わないのだ。
「えっ? あ、あの、こんにち、じゃなくて、あっ、そっか、ええと」
綾辻はまた、忙しなく挙動不審な仕草を繰り返してから、小さく、おはようと返してきた。
ここまで会話に支障があるイメージはなかったが、恐らく。男相手が慣れてないとか、そういう話なんだろう。女子相手になら、いつも普通に挨拶してるみたいだったから。
いや、委員長あたりとは普通に話していたか? ……まあ、委員長だからな。
「散歩か? いいな、健康的で」
このクソ暑い日に、というのは言わないでおいた。ミキやマツイさんと同じ感覚で話す程には、これまで接点もなかったし。その手の距離の取り方は、そこそこ上手いもんだと自負している。
綾辻は、小さく頷いてから、ありがとう、と言ったようだった。
「チリ君も、その、お出かけ、とか?」
「ああ」
呼び方にいちいち落胆するのも疲れるので、テキトーに流しておくことにする。
「ちょっと知り合いと会う約束があって。駅の方まで行ってくる」
「あっ、そ、そうなんだ」
視線が右往左往して定まらない。顔が紅潮しているのは、運動中だからというわけでもないようだ。
特に話も広がらなさそうだなと思い、俺は手を上げて立ち去ろうとする。それを、
「あっ、あの、チリ君っ」
綾辻は、普段では考えられないほどの大声(と言っても普段から小さいので、別にうるさくもない)で、俺を引き留めた。
「なに」
「あ、その、えっと」
綾辻は、何故か怯えたように一歩退き、八の字の眉を震わせながら数秒言い淀んでいたが。ようやく意を決したように、視線を上げてきた。
「知り合いって、その、東君?」
「アズマ? いや、あいつじゃないよ」
やっちゃった! と言わんばかりに絶望的な顔で目を見開き、綾辻は口をパクパクと動かして、動揺を露にした。魚類か。
「あー、なんだ。隣に住んでる大学生に呼ばれたんだ。多分、綾辻は知らないと思うけど」
「う、ううん、知ってる! 隣のアパートの女子大生だよねっ」
なぜ知っている。
綾辻はまたしても頭を抱え、早口で謝りながら身を小さく縮めた。これでは追求する気も失せる。
しかしまさか、マツイさんのことが知られている? 言い知れない不安が沸き上がってくる。変な噂とか広まっちゃいないだろうな。そんなもの、それこそアズマくらいしか知らない話の筈だが、綾辻とアズマがそこまで親しい印象はない。
あと知ってるのは、ミキくらいだが。最早恒例となってしまったミキの授業でも、俺についての話は出ていないはずだ。なにせいつも隣で聞かされているから知っている。
綾辻に、ミキと直接的な繋がりがある訳じゃないだろうし、そこから話が漏れるという線はないはずだ。
綾辻には、知り得ない情報のはず。
綾辻が、独自に何らかの目的を持って、俺の身辺を探っている――ということでもない限り。
「…………」
あの日。綾辻に手を引かれ、初めて向かい合うことになった、そのすぐあとで。
アズマに言われた忠告を、思い出す。
思い出す。思い出す。思い出す。
「……?」
何を、思い出す?
なにか、……何か、妙な、異質感がある。
砂丘に混じったガラスの破片。
データに潜んだ小さなウィルス。
何事もなく溶け込んで、けれど何かが決定的に違っている。目には見えない、けれど明らかに不吉な、その異物。
それは、これは、一体、何が――
「あ、あのっ」
俺が思案している間も、何かおどおどして小さく唸っていた綾辻は、
「あのね、チリ君」
頭一つ分ほど低い位置から、上目遣いにこちらを見る。
それはあまりにも素朴で、ありふれた顔の造形だ。まったく同じ顔をした人間など、世界中探しても三人しかいないというくらい、その個人特有のものであるはずなのに。この、まさにどこかその辺の量産型女子高生とでも言えてしまいそうなほど、印象に残らない顔立ちは逆に不可思議でさえある。学校の連中が、校則違反にも関わらず、染髪やら化粧やらで無駄に飾ろうと迷走するのは、この無個性からの脱却を図っているからなのかも知れない。
だが、俺に限って言えばそれは好ましい性質だ。なまじ何もしなくても強烈な個を押し出してくる奴らに付きまとわれている影響か、反転現象が起きているのだ。こういう目立たない、目立ちようのない人間の有り難みが、俺には痛いほどよく分かる。是が非でも、大切にしてもらいたいと思う。
「そ、その。失礼かも、知れないんだけど」
目を潤ませ、唇を噛み、綾辻は懇願を口にする。
何の不純物も混じっていないような朝の風に、綾辻の前髪がさらさらと揺れる。夏の太陽の下にあって、ともすれば陰気とさえ言える綾辻が、何か犯し難い気配に包まれたようで。
その様に、その気概に。一瞬だけ、気圧された。
「お邪魔で、なかったら。私も、付いていって、いい、……ですか?」
どうにも。俺はまだ、綾辻 華という人間のことを、よく分かっていないらしかった。
後
付いてくると言ってどうするのかと思ったが、綾辻はそのままの格好で俺の斜め後ろを歩き始めた。それは運動着で、これから賑やかな中心街へ繰り出そうという格好ではないように思えた。
それについては綾辻本人も少し気になっているようで、居心地悪そうに周囲を見渡していた。
「家近いなら、寄ってもいいけど」
「いっ、いえ、お構いなくっ」
結構力強く断られた。まあ、構うなというなら構わない。服装も運動着とは言え、それが今風のデザインなのか割と見映えはよく、野暮ったい印象は薄かった。俺ならこれくらいは気にしないし、綾辻にとっても許容範囲なら、他の――例えば周囲の目などは、例えあったとしても、気にする必要はないだろうと思った。
というか、俺も人のことを言えた格好ではないが。外出の気楽さで言えば、女子は損をしていると言えるかも知れない、などと。多分そんなことを漏らすと、マツイさんあたりには『非常識だ』とか言われるんだろうなと思った。あの人のあの台詞は未だに堪える。万年ドレスのミキになら、何を言われたところで、クソほどにどうでもいいんだが。
「隣のアパートの女子大生――マツイさんっていうんだけど。あの人のこと、どれくらい知ってるんだ?」
「ええと、その、あんまり……。どこのアパートなのかも、知らなくて」
一応聞いてみたが、そこまで酷い噂が流れているわけでもないようだった。マツイさんもある意味(もちろんぶっちぎりで悪い意味で)有名人だが、流石に住所や本名まで晒されてはいないらしい。当然と言えば当然の話か。
とは言え、念は押しておいた方がいいだろう。新たに知己を得るのは、一般的には歓迎すべきことだろうが。ともすればミキと同等の変人であるマツイさん相手では、心の準備など幾らしてもし足りないのだ。
「基本的に
「
「は?」
「あっ、ううん、ごめんね。続けて続けて」
いま確実に、絶対にされたくない勘違いをしかけたな、綾辻。ホント勘弁して欲しい。夏休み明けの俺を不登校にするつもりか。
「だから、なんていうか、あの人は、こう。変っぽい、っていうか。気が飛んじゃってる、というか、微妙にヤバいというか……」
あ、ダメだ。なるべく当たり障りのない表現にしたつもりだったが、上手く言い表せない。いやむしろ焼け石に水な気がしてきた。綾辻の、首を傾げる気配が伝わってきた。
「とにかく、出会わなければ良かったと思うこと請け合いな人だから、気を付けてくれ。というか、俺としてはむしろ敵前逃亡をお勧めしたい」
「て、敵なんだ……?」
紛うことなき敵である。そして後から俺を責めないでくれ。
「い、いいの、私は……。あっ、そうだ。あのね、私もともと、駅前に行こうと思ってたから! 気にしないで! ついでなの、ついでだから!」
「……そうなのか」
せめて『あっ、そうだ』は心の中で言えよ。という言葉を、俺はちゃんと心の中で呟いた。
うん! と笑顔で綾辻は言ったが、なんでそんなあり得ない嘘を吐くのだろうか、俺にはさっぱり分からない。
「あの。それで、何のご用事なの?」
「ん? ああ」
知らない、と正直に答えるも、綾辻も意外そうな声を上げる。
「知らないの?」
「いつものことだ。用件つきで呼び出しされることの方が珍しい」
忌々しいことに事実である。泣いていいだろうか。
「そっか。仲がいいんだね」
「…………」
どこをどう取ったらそういう感想に行き着くのか? それははにかみながら言う台詞なのか? さっぱり分からん。それともこれが今風の女子の反応なのか? そんな訳はないよな。
「まあ、どうせ下らない用だ。あんまりに下らなかったら、いつでも帰っていいからな」
うん、と綾辻は微笑んで、そしてありがとう、と続いた。礼を言われるようなことではないのにと、くすぐったい気分になる。
実際、本当は俺もそうしたい。下らない用事でなくても今すぐ帰りたい。のだが、やはりマツイさんの機嫌を損ねると後が怖いので、ある程度は付き合ってやらなくてはならない。ご近所付き合いというのは、本当に面倒臭いものである。
それに。
「…………」
それに。恩もあり、義理もあり。引け目もあり、負い目もある。
非常識の権化だなどと、普段から煙たがってはいるのだが。それでも俺からすれば、あの人はまだ常識の、そして日常の側に属する人だ。俺に比べれば、まだまともな部類なんだ。
本当なら、こんな風に付き合いを続けるべきじゃないんだって、分かってる。
いつ何があるか分からない。擬獣の件があり、そして八剣の件、昼神の件、カミヤの件――。更に青柳の件に至っては、実際に巻き込んでしまってさえいる。
どうでもいい誰かじゃない。単なる他人なんかじゃない。万一何か不幸でもあれば、無関心ではいられない、そんな相手を。他ならない俺自身が、危険に晒してしまう可能性がある。
今までは、単なる惰性だった。だから――というだけの理由でもないが――いい加減な態度を取りがちだった。
でもこれからは、きっと。覚悟を持って付き合わなくちゃならない。危険だと分かっていながら、それでも切ることができない繋がりなら。一生背負い続けるほどの意志を、持たなくてはならないんだ。
そして、或いは。
今こうして出会った、新しい縁も、もしかしたら――
「えっと。いつもっていうと、今までにもあったんだよね」
「ん、ああ、まあ」
「その、どんなことがあったの?」
しまった、墓穴を掘った。気を付けろと注意を引いた後であんな言い方をすれば、当然興味を持たれるだろう。聞かれてもおかしくはない問い掛けだ。正直なところ、あまり話したいものではないんだが。
「下らない話だよ。買い過ぎたから荷物持てだの、新しい噂の検証するのに手を貸せだの、暇だからとにかく来て相手をしろだの、本当に――」
本当に。
本当に、平和で。やたらと構ってきて。家に籠りがちな俺を引きずり出して、吐きかけるほど飯食わせたりして、本当に、本当に――
「迷惑な話だ」
「……そっか」
綾辻はそれ以上なにも言わず、しばらく黙って歩いていた。
だから俺も、それに習って歩き続ける。
「…………」
何をやっているのだろうか、俺は。
時折、自分のことが分からなくなる。何を考えているのか、何を言っているのか、何が大事だと思っているのか。すべきこと、したいことの絶望的な格差。その本心、その本性、『本当』のところが、よく分からなくなってくる。
考えれば考えるほどドツボに嵌まる、それが常だった。
自分とは何か? いま自分について考えている自分は本当に自分なのか? なんていう哲学もどきみたいな思考に、延々と耽っていたくなるときさえある。
正しいのは記憶か、それとも記録なのか。
その答えを得ることは、少なくとも今までは、一度たりともできなかった。
もう嫌なのに、もうやめたいのに、止まらない。無駄な事柄。考えるだけ時間の無駄。思考停止は悪だという考えを貫き通すミキに教えてやりたい。答えの出ない問い掛けの不毛さと、やるせなさと、底なし沼のような性質を。
考えたくない。語りたくもない。無駄、無駄、無駄なのだ。そんなものは存在そのもの否定して、永久にどこか知らないところへ閉じ込めておけたなら。そんな風に思ってしまうことは、俺にとっては珍しいことではなかった。
何故なら、その無駄な思考が。生まれた瞬間から、奇形腫のようにへばりついて、無くなってくれないのだから。
――終わってほしい。
今すぐに終わってほしい。
それを取り除くことができないのなら、いっそ。
眠りの延長線上で、いつか全て終わってくれたらと、微睡みのように夢想して――
それでも。
「あ、あの」
それでも、結局は。
未練がましく抜け出して、また別の可能性に縋りたくなる。
「その、はなし。もう少し、聞かせて欲しい……かな」
綾辻に、引き上げられたような形になって。
目的地につくまでの短い間、今までにあったマツイさん絡みの惨事について、語り明かすことになったのだった。