戯曲礼賛・喜劇王 -2-


「やあチリ君。初めまして」

 そんな風に、初対面の相手にフランクに話しかけられて、緩みきっていた俺の身体が一気に強ばったのが分かった。チリ君呼ばわりのせい、というのも多分にあっただろう。

 暇をもて余して、双子タワーブリッジの惨状でも見てくるかと、一人で双町西の湖畔までやって来た午後。いつもは大抵、誰かの買い物や話に付き合わされていたのだが、この日はたまたま誰にも捕まらなかったのだ。それなら、久し振りに一人になって、最近フル回転しっぱなしの頭を休めてやろうと思い立った。そうして散歩に出て、結果がこれである。なんというかもう、自分だけの部屋の有難みというものを、これでもかというほどに感じてしまう今日この頃である。聞くところによると、経済的な問題とかで、高校まで上がっても自分一人の部屋が貰えない家庭もあるらしい。同性の兄弟でもいれば確かにあり得る話なんだろうが、そんなんでちゃんと生活できるのか、俺にはどうにも疑問だった。不便すぎるだろう、それは。

「ああ、すまないね。一応、初めて会うのだから、もう少し別の挨拶があったかな」

 俺を呼んだその男は、柔らかい笑顔を称えてそう言った。健康的な細身で、身長は俺よりも高く、百八十前後はありそうな青年だった。歳はまだ若者の部類で、俺よりは上だろうが、二十五まではいっていないだろう、くらいしか分からない。顔立ちはずいぶん整っており、清潔な頭髪は長すぎず短すぎず、いかにも今風といったように整えられている。

 何ら不審なところのない、好青年然とした容姿と態度。それだけなら、単に朗らかな感じの人だという第一印象を持ったのだろうが。どうにも、警戒心のようなものが芽生えてしまった。

 何故か。

 何故だか。

 その表情、その声、その仕草は、あまりに――三鬼 弥生に、似通っていたから。

「改めて、初めまして。妹たちが世話になっているね」

「――妹?」

「弥生とひのえだよ。私は彼女らの兄だよ、弥生の二つ上のね」

 何となくそんな気はしたけど、それで合点がいった。男だし、白髪でもないが、顔の作りがミキにそっくりだ。下手をしたら、同性のミキとひのえより、この人とミキの方が似ているかも知れない。とは言え、予め聞いていたにも関わらず、あのミキが『妹』だという事実には、些か面食らってしまった。

 ミキより二つ歳上ということは、つまり――

「ええと……光曜、さん?」

「――おや」

 その人は少し戸惑うように視線を揺らしてから、また微笑んで俺を見た。

「私のことを知っているのかい? ひのえが話したのかな」

「いえ、それは――そう、弥生の方が」

「へえ」

 少しだけ驚いたように、目の前の男――光曜さんは瞬きを繰り返した。

 正確に言えば、聞かされたのは四歳年上だという長男のことについてで、次男である光曜さんのことは名前くらいしか聞いていない。いずれにせよ、ミキの警告を流してしまうわけにもいかず、記憶には辛うじて留めてあった。それが若干、役に立ったということか。

「あれが兄のことを話すなんてね」

「はあ。珍しいんですか」

「ひのえのことはよく自慢しているらしいがね。まあ、そのことはいいさ。それよりチリ君、今少し時間あるかい? お茶くらい奢るからさ」

 返答もろくに聞かず、光曜さんは「こっちだよ」と手招きした。穏やかな気質に見えて、結構強引な性格のようだ。

 ミキの血縁者という時点で正直あまり気乗りはしない(どころか、三鬼家との距離がどんどん近付いてきていることに脅威さえ覚える)のだが、確かに今は暇だった。この後ただブラブラするだけしか予定がないことを思うと、誘いを断るのも気が引けてしまう。まあ、ひのえがそうであったように、ミキの兄妹だからミキのような化け物である、ということにはならない筈だ。多少変な感じ、というか、嫌な予感のようなものはあるけれど、次男の方なら問題ないだろう。


 そう思って、一歩前に進む。

 光曜さんは、ずっと背を向けていた。何か気になるものでも見つけたのかと、視線を追いかける。

 その先には、

 そのさきには、

 ソのサきにハ――


「やあお兄ちゃん、また会えたね!」


 怒りに歪んだ蒼白のピエロが、赤い涙を流して笑っていた。

 という、夢を見たんだ。

 思いの外疲れているのだろうか。ほんのわずかな時間、電車の座席で居眠りなどしてしまっていたのだが、夢見はおよそ最悪に近かった。

 途中までは、実際にあった記憶の再現だったように思う。しかし最後に出てきたのは、いつかのピエロ――カミガノアキサヤに違いなかった。何だかんだで、擬獣の夢を見るのはこれが初めてのことだった気がする。いや、単に、夢に見たことを忘れているだけという可能性も否めないが。

 確かに、どいつもこいつも夢に見そうだなとは思っていた。ホラー映画が可愛く思えるほどグロテスクで、そしておぞましいツラの大安売り。かなり深刻に改善を求めたい共通項である。

 その、インパクトという点では負けず劣らずな奴等の中で、あのピエロは一際異質だった。言動もそうだが――そう、幽霊っぽくなかった。幽霊が、さ迷わざるを得ない者だとすれば、アレは明らかにその枠を越えていた。自ら望んでそこにあろうとしているような、そんな自身の意思というものが、強く強く感じられた。あれからしばらく経った今では、そんな風にも思うのだ。

 そのくせあっさり退治できてしまったものだから、逆に不安になってきている。そもそも俺は、その『退治』の仕組みがよくわかっていないのだ。嫌な予感など尽きなくて道理である。

 例えば――もしも、本当にもしもの話。あのピエロは未だ、この町のどこかに潜んで、良からぬ企みを抱いているのではないか、とか。

 嫌な予感ほどよく当たる。それは未来視が成せる予知とは違う。存外、その望ましくない展開に至る材料は、もう視界の中に揃っていたりするのだ。けれどそれらから、これから先のことを推理するのは、実は難しい。探偵が懇切丁寧に、理論立てて説明できるほど明快な証拠が揃っていようと。そこから正解を導き出すというのは、彼らが言うほど簡単ではないのである。

 はっきりとは分からない。だが経験と、無意識下で行われる記憶の整合によって、その未来へと続く道が垣間見えてしまうから。理由は判然としない、うまく説明もできないが、とにかく嫌な予感がする。そういうのは、本当にありふれた現象だ。

 もちろん、その予感が現実になるとは限らない。矛盾しているようだが、人間の認識なんて実際そんなもんだ。だから記憶に残ることは中々なく、結局杞憂に終わることの方が多い。勘が鋭いとか、なんなら未来が見えるとか、そういうのは大抵、気のせいでしかないものだ。

 だから、今回もそうあって欲しいと俺は祈る。宝くじが当たるような大きな幸福は要らないから、どうかそんな最悪の未来だけは寄越さないでくれと。そんな風に、思わずにはいられない。

 しかし、それでも、こう思わざるを得ない。そんな切なる願いは、恐らく、きっと。これから会う人間によって、一笑に付されることになるのだろう。


「……ミキ?」

 いつもの黒い部屋へと踏み込むと、予想に反して、当然のような顔で待ち構えているミキの姿はなかった。いつもなら、舞台の上で披露するような調子の台詞を携えて、一々大袈裟に出迎えてくるはずなのだが。

 白髪の主を失ったソファも、黒の背景と完全に同化して、その存在感を削がれていた。頭上の場違いなシャンデリアも精彩を欠き、どこか色褪せてさえ見えた。

 鍵は開いていたのだから、留守ということはないだろう。この現代、こんな寂れた場所の幽霊屋敷のようなアパートでも、そこまで無用心にはならないはずだ。ウチは鍵なんてろくに閉めないよ、なんていう田舎の話を聞くたび、そんなもの僻地の農村くらいだろうよと俺は思う。治安がいいというのは、無防備でいていいという意味ではない。

 前もって送ったメールも、夏臥美の駅とこの家の前で掛けた電話も、応答はなかった。それでも家の鍵が開いていたのだから、ミキは十中八九、ここにいる筈なのだ。

「――いるんだろ、ミキ」

 少しばかり声を張って呼び掛ける。その声が反射して、呻きのような音となって耳に返ってくる。何かがこちらを覗きこんでいるような気がして、思わず背筋がぞっとした。辺りを見回したが、特に変化はないようだった。

 すると、その反響音に紛れて、微かな物音が差し込まれた。気のせいではなく、確かに。硬質な――木材か何かを打ち付けたような、軽快な音が聞こえた。それはどうやら、ソファの向かって右側――何度かミキが出入りしていたのを見たことがある、扉の向こうから聞こえたようだった。

 ミキへの手土産以外を床に置き、扉に近付いて、中の様子を探る。しかし当然、特別何かの気配を感じるとか、そんな漫画のようなことはなかった。界装具を出せば結果は変わるかも知れないが、そこまでする気にもなれない。

 僅かな逡巡。不本意ながらも入り慣れたこの黒い部屋ならばいざ知らず、入ったことのない、許可も降りていない扉を開けるのは気が引けた。ここが曲がりなりにも女性ミキ ヤヨイの住処であることを思い出し、なんならつい最近のトラウマまで蘇ってくる。鳩尾が痛む。

 しかし俺は、いま手にしているミキへの土産を、何としてでも届けなければならないのだ。そうでなければ、後でひのえに何を言われるか分からないし、弁償も、腐った食料の後始末などもしたくない。この手にした紙袋を、何としてでもミキに押し付けなければ帰れない。

「入るぞ、ミキ」

 もうどうにでもなれ、というほどの投げ槍感でもって、その扉を開けた。或いは、開けた瞬間大岩や剣山が迫ってくるようなトラップもあり得るだろうと身構えていたが。いつまで経っても、そういう悪意の塊が現れることはなかった。

 代わりにそこには、普通の部屋があった。

 白と、それからピンク色が構築する小振りな部屋だ。机も家具もみな丸みを帯びていて、どうにも可愛らしいと言わざるを得ない。隅々まで手入れの行き届いた部屋は、主の潔癖さ加減をよく表していた。それでいて、部屋の奥に干された服が、申し訳程度とは言え生活感を醸し出していて、なんともくすぐったい。まるで立ち入りを禁止されている秘密の部屋に足を踏み入れてしまったような気持ちに――ならないのは、その干してある服というのが、ミキがよく着ているような黒いドレスだったからだ。なんというか、どちらかというと、悪い冗談、笑い話のようだった。

 でも。だけど。

 戸惑わずにはいられなかった。

 これが。こんな、ありきたりな部屋が。

 まさか、あの三鬼 弥生の、私室だとでも――?

「――ん」

 微かな人の声と衣擦れの音、そして目の端で動いた何ものかに、思わずギョッとしてしまう。喉がひきつり、悲鳴が上がりそうになるのを、すんでのところで堪えた。

 声の主は、ベッドに横たわっていた。

 白く、清潔で柔らかそうな布の上を、ともすれば銀色にも見えるほど輝いて映る絹の糸が流れている。それは紛れもなく、三鬼 弥生の頭髪だった。黒い二つの目が、ゆっくりと開いて俺を捉える。たった今、ミキは目を覚ました様子だった。

「ああ――やあ。いや、んん……まあ、やあ」

 まだ半覚醒なのか、両目を擦りながら、ミキはぼやけたような挨拶をした。

「久し振りだね、チリ君。久し振り……うん、無事で良かった。よく、来てくれた」

 いつになくボソボソとした、それでも川のせせらぎか何かのような心地のいい声で、ミキは言った。そしておもむろに上半身を起こし、首から下を覆っていた布団が落ち、

「おま――」

 思わず俺は背を向けていた。

 ミキが来ていた寝間着はどうも、趣味の悪い黒のワイシャツ一枚きりだったらしい。半ばまでボタンの外れたシャツは、辛うじてその役割を果たしていたが。だとしても、とてもそのまま外を出歩けるような格好ではなかった。

「ん、……ああ」

 短く、ミキの笑い声が聞こえた。それは、俺に対する嘲りというわけではなく、照れ笑いのようなものだった、気がした。

「済まないね、チリ君。見苦しいところを見せてしまった。ほら、ひとまず隠したから、こちらを向いて大丈夫だよ」

 言われるがまま、恐る恐る振り返る。

 ミキは白い――心なしかいつもよりも白い――手でベッドカバーを掴み、首もとまで引っ張っていた。

「なんだよ、寝てるなら鍵くらい閉めろ」

「ああ、閉まっていなかったかい? そんなつもりはなかったんだが……、しかし、そうか。やはりまだ、本調子にはほど遠いようだ」

 柔らかそうな、しかし癖のついていない髪に手櫛を通しながら、ミキはぼやくように言った。

 それを聞いて、やっと気がついた。ミキの顔は、いつも通りなどではなかったのだ。よくよく見ればはっきり分かるほど血色が悪く、青白い、死人のような顔をしているのだ。ミキは元々肌が白いから、意識しなければ見落としてしまうような差異だが。見慣れた人間からすれば、驚くほどの違いが見て取れたのだった。

「お前、まさか」

「ああ、どうも風邪を引いたらしい」

 ダウトダウトダウト。嘘だろそんなの、幾ら何でもあり得ない。ミキが、あの三鬼 弥生が風邪? 冗談じゃない、きっと明日にはこの列島の半分が海に沈むほどの大災害が起きるに違いない。鬼の撹乱なんて言葉も聞いたことはあるが、それもここまできたら異常事態と呼ぶより他になくなってしまう。ミキが、たかがウィルスごときに悪戦苦闘しているなんて、どこの三流作家が書き殴った童話だというのか。

「まったく、困ったものだよ。一人暮らしで身動きがとれなくなるのは、想像以上に厳しいものがあるようだ。食料も日用品も買いに出られないし、寝ても寝ても怠さは取れないし。なにより、心細くなってしまう。精神的にも不安定になっているのだろうね、君が訪ねてきてくれたことが、ここまで嬉しいと思えたことは、流石に今までなかったよ」

 などと笑うミキは、一見すれば普段通りにも見えるほどだった。でも、よくわからないけど、確かに何かが違ったんだ。ミキの自己申告を真っ向から否定し、信じられないと捨て置いたとしても。この違和感は、どうやったって消し去れない。確かにミキは、どこかをおかしくしているらしかった。

「心細いとか。笑えない冗談だな。アオはどうした。いつも通り仲良く悪巧みでもやってればいいだろ」

「人聞きの悪いことを言わないでもらいたいねチリ君。なんだい悪巧みって」

 なるほど、これは本当に不調だ。返しにいつもの勢いがなく、若干歯切れが悪いように思える。しかしまあ、いつもがいつもだけに、これくらい参ってくれていた方が丁度良いと思わないでもないが。流石にそれは、口にできない。

「アオは――出られないよ」

 恐らくそうなのだろうと、予想していた通りにミキは答えた。

「体力が尽きていれば走れないのと同じことだよ。界装具だって、消耗しきった状態では出すことかできない。ひのえにそう教わらなかったかい?」

「それは」

 確かに、ひのえも似たようなことを言っていた。ただしそれは、重い怪我のときには界装具の使用に制限が掛かるというだけの話だ。たかが風邪で、使えなくなったりするなんてことは聞いていない。だとすればどんだけデリケートな人類なんだよ。

「お前、本当にただの風邪かよ。別の病気や、どこか、怪我してるとかは」

「怪我は、幸いになかったね。何かの難病というわけでもない。いや、本当にね、ただの風邪なんだよ」

 そう言って、ミキは気怠そうに息を吐き、額を押さえた。

 見れば見るほど、その姿はどうにも、弱々しすぎた。薄着だからだろうか、ミキの肩がこんなにも細いということに、今更ながらに驚くほどだ。普段ならば、何か意図あっての演技なのではないかと疑うところだが、流石に今回はそんな気も起こらなかった。

 ――本当に。カミヤとひのえの件があって、次会ったら一発ぶん殴ってやると、それくらいには思っていたのに。毒気を抜かれるというのは、なるほどこういうことを言うのだろう。

 具合が悪いなら横になったままでいいのに。そう言うと、ミキは小さく礼を返してから、また枕に頭を乗せた。

「まったく、情けないことだ。笑っていいんだよチリ君。体調管理もろくにできない愚か者めと」

「馬鹿言ってんじゃねぇよ病人が。おとなしく寝てろ」

 笑うわけがないだろうが。

 一人暮らしで患う病気が辛いだなんて、そんなことは――

 この春、とっくに実感してる。

「双町にコメヤがあることをちゃんとリサーチしているあたり、流石は我が妹だと思わないかいチリ君」

 と、ひのえからの土産を受け取ったミキは一気に元気になっていた。今にも小躍りを始めそうなほどの笑顔で、腹の上に置いた紙袋を大事そうに抱えながら、布団の下で脚をバタつかせているのが分かった。これはもう、さっきまでのは演技以外の何ものでもないだろうと、前言を撤回したくなるほどだった。

「コメヤって、なに、何の店?」

「スパイシーツナロール」

「なんだって?」

「スパイシーツナロール」

「そうか」

 なんだ、パンか。全然ナマモノじゃなかった。しかし、ミキは辛い物が好きだったのか? まあ、甘いチョコレートを頬張るミキなど見たら失神しかねないし。例えば地獄のように真っ赤な麻婆を旨そうに嚥下している姿の方が、ミキのイメージにそぐうというものだ。

「さあチリ君、早くお皿とお箸を持ってきてくれ。そこの棚に全部入ってるから」

 早速人をこき使い始めた。さっきまで死に体だった奴がどんだけ活き活きしてるんだ。

「いや、箸? っていうかちょっと待て、今から食うのか? やめとけよそんな消化に悪そうなやつ」

「無粋だなあチリ君は。早く食べなければ傷んでしまうだろう。本当は作りたてを食べるのが一番美味しいんだが、そうでなくても、可能な限り早く口にするのが鉄則というものだ。それを軽視するなど、この至高の料理を手掛けた料理人、そしてこの奇跡とも言うべき料理の誕生に携わった全ての偉人たちへの侮辱に他ならない」

 何をそんなに熱く語ることがあるのか。どこがどう奇跡なのかも分からない。大体、対価を支払って手にいれた物を、どう扱おうと自分の勝手だろう。それでその品の質を上げるも落とすも、自身の自由で、自己責任だ。作った人間に対する侮辱になどなるわけがない。

「分かったから、ちょっと待ってろ。大人しくしてろ。風邪悪化させても知らねぇぞ」

「ああチリ君、ちなみにそっちのクローゼットの下には私の下着なども入っているんたが」

「クソどうでもいい追加情報をどうもありがとうよ」

 まさか、土産一つでここまで調子を取り戻すとは思わなかった。実妹のチョイスというだけのことはあるが、ひのえめ、余計なことをしやがって。

「醤油も忘れずに持ってきてくれよ」

「は、醤油? 醤油なんかかけんの? どこの食い方だよそりゃあ」

「何を言ってるんだいチリ君。醤油のないスパイシーツナロールなんて、砂糖の入っていない卵焼きのようなものじゃないか」

「いや、普通にあるだろ、そういう卵焼き」

 むしろ元気になりすぎてちょっとウザい。風邪で頭朦朧としてるのかも知れないが、まあひとまず言われた通りにしてやろう。それでミキが後悔したところで、何ら俺の責任はない。

 指定された棚の引き戸を開くと、大小様々な白い皿が十枚と少し、箸やフォーク等が入った棺のような木製箸入れ、そして調味料らしき瓶がやたらとたくさん収納されていた。調味料は砂糖、塩、醤油と見慣れたものと、それから香辛料だろうか、よく分からない言語がびっしり書かれたラベルの、馴染みのない瓶。一人暮らしとは思えない充実ぶりだ、とも思ったが、そこは俺も人のことを言えないだろう。

「ちゃんと二人分持ってきてね」

「いや、俺は要らないよ、折角だけど。昼はさくらさんから弁当貰ってるし。大体、それはお前への土産で、お前の好物だろ。変な気を遣うなよ」

 馬鹿な話だ。そんな奴じゃないだろうお前は。そんな配慮をするくらいなら、さっさと報酬を渡して俺を解放しろという話だ。

「なるほど」

 と、ミキは意外にあっさり引き下がった。

「私に『あーん』してもらいたいわけだね、チリ君」

 と思ったら最悪の曲解をしていやがった。

 突っ込みを入れるのさえ面倒臭いので、言われた通り二人分の食器を持って戻る。そのあと後どうすべきか迷ったが、きちんと整頓された勉強机らしい場所が目につき、そこに食器を置くことにする。「面白味がないなあ」などとミキは面白がっていたが、当然無視する。

「飲み物がないか。なんかある?」

「チリ君ってお茶は淹れられるのかな?」

「インスタントなら」

「ああ、じゃあ冷蔵庫にミネラルウォーターがあるから、それとコップを持ってきてくれ。二人分ね」

 くそ、なんかちょっとムカついた。男子高校生に茶道の心得を要求するな、ハードル高すぎるのが分からないのかこいつは。いや、分かってて言ってるんだろう。だから腹立たしいんだ。

「で、お前はどうやって食べる?」

「ふん、寝たままでは食べられないだろう」

「…………」

「無言で退室しようとしなくていいよ。シャツのボタンは留めた。それからチリ君、そこのカーディガンを取ってくれ」

 指差された先にある椅子の背もたれには、薄いレモン色の毛糸の衣服が掛けられていた。厚手というほどではないにせよ、あまり夏らしくない服である。

 部屋は隣室同様、空調が効いていて快適に思えたが、ミキには少し寒いのかも知れない。そう納得してからつまみ上げ、ミキに手渡す。

「さて、いよいよだねチリ君。思えば、ずっと何も口にせず寝込んでいたから、好物を食すには最高のコンディションと言えるだろう」

「言えねぇよ。さっさと食ってさっさと寝やがれ」

 気を遣うべきなのかぞんざいに扱うべきなのかまったく分からない。本当に、面倒臭い奴だ。

 隣でミキがカーディガンを着ているうちに、俺は持ってきた土産の包装を解き、中身を確認する。

 と、

「……んん?」

 そこに入っていた物は明らかに、俺の想像していたものとは百八十度違う代物だった。

 まず、パンではない。むしろ米料理であることが一目で分かった。高さも直径も五センチにも及ばないほど小振りの、円錐形にぐるりと丸められた料理が三つ、箱の中に収まっていた。米に巻かれているのは、まず目につくのがマグロか何かの刺身。他にも、なんだかよく分からないが、色々と綺麗に配置されている。全体にまぶされた黄色い粉のようなものは、どうやら鰹節のようだ。これがあって、キラキラと輝いてさえ見える。

「えっと、何これ、寿司?」

「当たらずも遠からず……というか、えっ、君も知らないのかい? この素晴らしき至高の発明品、スパイシーツナロールを!」

 ミキは珍しくショックを受けたような顔を見せて、がっくりと項垂れた。相変わらずの白々しさだが、それにしても頭に来る。悪かったな、物知らずで。

「なんだよ。寿司じゃないのか?」

「だから、スパイシーツナロールだよ。海外に輸出された寿司が、現地人の手によってアレンジされ、今度はこちらに渡ってきた料理。要するに逆輸入品というやつだね」

 なるほど、じゃあ寿司の親戚みたいな物か。確かに、ツナロールと聞いてロールパンを連想したのは早計だったかも知れない。

「なぜ本場の人間が認識していないのか、私には不思議でならないよ。この国の寿司と言えば、海外では並々ならぬ人気を誇る郷土料理だ」

 などと語り始めたミキを見て、危機感を覚えた俺はすぐさま止めようと手を挙げたのだが、すでに遅かった。

「そもそも生魚を食すという文化に抵抗があった彼らは、当初寿司というものを受け入れなかった。和食の料亭も数多く出店されていたが、訪れる客は皆こちらの国の人間ばかり。知名度で言えば天ぷらあたりにも負けていたかな、ともかくメジャーには程遠かった。まあ要は、彼らの口に、或いはセンスに合わなかったんだろう」

 時折小さな咳を挟みながらも、ミキはいつも通りの饒舌さで、まだまだ続ける。

「そこに一石を投じたのは健康ブームだ。食生活の乱れによる肥満、生活病を克服したがった彼らは、すぐに和食のヘルシーさに着目した。火付け役の著名人もいたらしいが、ともかくそれによって和食の人気は爆発的に高まった。同様に、魚肉は体にとても良いという観点から、彼らは寿司の魅力にも気付いたわけだよ。そうして関心が高まったからこそ、より自分達の口に合うような料理を生み出すまでに至った。人間の手による素晴らしい創意工夫、その情熱は称賛に値して余りある。ねえ、素晴らしいと思うだろうチリ君。この国でもよくやるよね、独自のアレンジというものは」

 ああ、魔改造ね。やるやる、と言ってやると、ミキは「まったく別の食べ物を錬成するのはアレンジとは言わないよ」などと、珍しく面白くもないことを言った。

 それにしてもまあ、らしいと言えばらしい話だ。あちらの国々に医食同源の文化が浸透してきたのは最近の事だというが、人気の源が味ではなく形の無い概念だったというのは、どうも皮肉めいたものを感じる。よく分からないが、嘲笑ってしまいたくなるような、妙な人間臭さがあるように思えた。

「もしも、あらゆる食材に味がなかったら?」

 スパイシーツナロールを箸で皿に移しながら聞かせた俺の感想に対して、ミキはそんな風に返してきた。

「食生活というものへの関心を強く成立させている第一要素は『味』だ、それは疑いようがない。それ以外のあらゆる要素を押し退けて存在している、そのことに異論はないだろう。そうでなければ『食べる』とは、生きるために、腹が満たせればそれでいいという、まさに『味気ない』行為に堕ちるだろう」

 それは、いつかミキがしていた、感情と理性の話にも繋がるだろうか。理屈で言えば、食事なんて空腹を解決できさえすればいいんだ。無味無臭の乾パンみたいなものだけでも、食べられさえすれば死ぬことはないのだ。

 けれどそれでも、味というものの必要性は揺るがない。旨いものを食えば幸福なのだ。食べることが幸せに繋がるからこそ、人は貪欲に食を追求し、結果として飢えを避けるのだ。感情も理性も突き詰めれば、自身らの種がより長く存続するために働くもの。味なんかなんでもいいから食べて生きたい、なんていうのは、生き物として相当に追い詰められた状態から来る考えだ。

「だというのに、味以外の――健康だとか、見た目だとか、ともすればどうでもいいと思える事柄に注目が集まり、ここまで振り回された。味が一番大事だったのなら、三十年ほど前、ロスでこのスパイシーツナロールが生まれることはなかっただろう。これはどういうことなのかな」

 皿を太股の上あたりに乗せてやると、ミキはにやにやしながら、スパイシーツナロールを色々な角度から眺めだした。まるで愛好家が、上等なワインを飲む前にやるスワリングのような仕草だったが、当然のごとく寿司にそんな準備動作は必要ない。

「『満たされている』んだろうさ、味に関してはね。好きな食べ物は何か、幾つでも答えよ。まっとうな衣食住の整った生活圏で、その問いかけに答えられない人間は珍しいだろう。そのくらい、この世界における食は恵まれている。実のところ私たちに、不幸を嘆く資格など無いのかもしれない。それほど、充実した食というものは贅沢で、尊いものなんだよ」

 そこまで言って、ようやくミキは箸を取り、行儀よく手を合わせて「いただきます」などと言ってから、スパイシーツナロールを挟み、食べた。……食べた。一口で。女性の小さな口では若干大き過ぎるそれを、なんの躊躇いもなく。しかも口を開ける所作は一瞬で、見苦しいと思う隙さえない。寿司一つ食べるだけの動作をどれだけ洗練させているんだコイツは。

「好きな味の食べ物が好きなだけ食べられる、それだけでも充分に幸福なはず。なのに、その視線はもう別の場所へと向かっている。満たされたから、別の関心を満たそうとし始めた。――実に、実に酷い話だ。食に限った話ではない。飽くなき欲望というものは、私には呪い同然に見える。やはり、この世界に生きる人間には、本当に満たされるときなんてものは、永劫来ないのかも知れないよ」

 悲しげにそう言って、ミキは皿の上に醤油を垂らした。布団に飛び散りそうで不安になったが、別にミキの布団が汚れたところで俺には何の関係もないのだと気付き、なにも言わないでおいた。

 たかが好物を食べるというだけで、何をそこまで語ることがあるのか、俺にはまったく理解できない。旨いものは旨い、好物を食べられるのは嬉しい。人間だって動物なのだから、それで充分てはないのか。

 ミキはどうにも、考え過ぎな気がしてしまう。思考停止は良くない、と普段から口にしているミキにすれば当たり前のことなのかも知れないが。そんな、考えたって仕方がない、考えれば考えるほどドツボに嵌まるような議論を脳内で繰り広げて、お前それ辛くないのかよと言いたくなる。他人の嗜好なんて分かったもんじゃないし、自分の尺度だけでは何も見えないかも知れないが。思いやるなんて行為は、そもそもそういうちぐはぐさが付きまとっているものだ。それが美徳だと教えられたからといって、簡単にやれることなんかじゃない。

 ……思いやる。支える。ミキの隣に立つ。俺には本当に、その覚悟があるのだろうか。

「さあチリ君。残り二つだ、一緒に食べようじゃないか」

「ああ、……ああ。じゃあ、貰うよ」

 屈託のない笑顔など向けられては、繰り返して断ることもできやしない。

 その顔も、声も。

 そう、俺は。

 ミキのことが、嫌いなわけではないんだ。

 ただ、ただ一つ。彼女を受け入れることができない理由がある。

 それは、他ならぬミキ自身が――。

「醤油は要るかい? チリ君」

 思考が途切れる。自分の皿に乗せたスパイシーツナロールを見つめて、食べ方を悩んでいたようにでも見えたのだろうか。

「つけた方がいいんだろ?」

「コメヤのスパイシーツナロールはどちらでも美味しいよ」

「砂糖の入っていない卵焼きの比喩はどこ行った」

「まあまあ。私なら、最初はそのまま食べることをお勧めするかな」

 それなら、と断って、料理を口に突っ込む。俺にとっては一口サイズなので、そのままで何の問題もなかった。

 そして、

「――おお」

 そして、その多彩な味わいに、思わず感嘆の声をあげてしまった。

 まず舌に広がるのは鰹節の塩気だ。強いのは嫌いではないが、しかし強すぎては他の味が消えてしまう。強すぎず弱すぎずの絶妙な塩加減だ、これならばどんな料理にも躊躇いなく振り掛けられる。

 続いて感じるのは、セロリの食感だ。寿司とは思えない感覚が新鮮で、一噛みする楽しみが生まれる。見た目ではほとんど目立たなかったセロリがここまで存在感を出してくるなんて、一体誰が想像できただろうか。

 そしてメインはやはり鮪だ。色合いも見事だったが、この食べ慣れていなくても分かる生鮮さはどうだ。この料理の主役の一角であることの自負を持って、他に活かされ、更に他を活かし尽くす完璧なバランス。これには感服せざるを得ない。

 合間に挟まった調味料はマヨネーズだろうか。独特のまろやかさと、ぴりりとした辛味が絶妙だ。安い寿司などは、たっぷり塗りたくられたワサビがネタとシャリの味をも塗り潰してしまって好かないのだが、これは明らかに違う。辛味は確かに感じるのに、それが他の味を邪魔しないのだ。まるで味が、綺麗に住み分けられているかのようだ。これならば幾らでも食べられる。

 そして最後、もう一つの主役、シャリだ。この歯応え、いつも食べている米とは一線を画す。品種も良い物を使っているんだろうが、握り具合も完璧だ。セロリとはまた違う噛み応えが、口の中をより一層華やかに彩る。噛む度に甘味が増し、なお食欲を掻き立てる。

 たった一つ、ただ一口、こんなにも小さな一品が、ここまで食を楽しませてくれるものなのか。三鬼 弥生かねもち御用達の名店、その本気をいま垣間見た。間違いない、言い訳の余地もない。これは――美味である!

「気に入ってくれたかな、チリ君。何か、難しい顔をしてもぐもぐしているけれど」

「ん、いや。旨いよ。ああ、悪くないんじゃないか」

 そうだろう、とミキは得意気に笑った。いつもの、演技のように整えられた笑顔ではない。本当に、年頃の女子のように、垢抜けない笑顔で。

 そんな風に、人間らしい理由でだけ笑っていれば、こんなにも複雑で悩ましい関係になんか、俺たちはならなかった筈なのに。


 ――あんなことに、ならずに済んだ筈なのに。