Gracial Jardin -10-


 目が覚めると、ミキはいつもの癖で、ベッド脇のサイドテーブルに手をやった。

 爪の短く切り揃えられた指先が、木製テーブルの表面を突く。あるべきものがない、ということに気付いてから、ミキはようやく、現在の状況を思い出した。

 自分の部屋の、自分のベッドで目覚めたのだ。それも、十戒との戦いを終えた直後に。

「なんだ、何探してんの?」

 声のする方へミキが顔を向けると、ノアールが興味深く観察するような視線を正面に捉えた。思わずミキの表情が固まったのは、ノアールがいつもの黒いゴスロリ服を着ていなかったからだ。というより、全裸だった。平坦ながら、ほとんど人間と変わりない身体を惜しげもなく晒し、ノアールはミキが勉強用に使っている椅子に行儀悪く座っていた。女性的な魅力とは縁遠いが、穢れ一つ見当たらず、砂糖菓子のように柔らかそうな見た目の肌には、不思議と目を奪われてしまう。床に着かない裸足が、退屈そうにぶらぶらと揺れていた。

「ええと、ノアール。私の携帯電話は無事かな?」

「ああ、これか? ほら」

 ミキが差し伸ばした手に、馴染んだ重量が乗せられる。ミキの黒い携帯電話はいつもと変わらず、かすり傷さえ見当たらない。外面のサブディスプレイに表示されている時刻は、午前四時を回ろうとしていた。

「悪いな、着信あったから動かしたんだ」

「いや、それは構わないが――おっと」

 掛け布団を押し退け、上体を起こそうとして、ミキは自分が上半身に何も身に付けていないことに気が付いた。いや、どうも下半身も同様らしかった。

「ああ、脱がしたぞ。ずぶ濡れだったから。その方が良かっただろ?」

「……そういうことか。まあ、手間を掛けたね」

「ホントだよ。どんだけ面倒臭い服着てるんだお前。いやまあ、オレも人のこと言えないけど、でもあのコルセットはない。なんだあのカッタイの、防弾ジョッキってヤツかと思ったぞ」

「そんな面白い服を着ていたつもりはないんだけれども」

 ミキは掛け布団で胸元まで覆いながら、部屋を見渡した。

 あの黒い部屋の奥にある部屋としては全く釣り合いの取れない、ごく普通のワンルーム。白の壁面と木製の調度品、それらに大小様々な桃色の布が添えられている。キッチンとの境はなく、調理道具が寝室を浸食しかけている。間違いなく、ミキがいつも寝泊まりしている、窓のない彼女の私室だった。

「朔弥姫を、倒してからの記憶が曖昧だ。ノアール、何があったか教えてくれるかな」

「何って、オレにもよく分からないよ。気が付いたら結界は消えてて、敵の気配はないし。お前はお前でぶっ倒れてるし。雨はまだ止まないし。とにかく急いでここまで運んだんだ」

 ミキが倒れた。最後の敵を討ち取ったのち、体力の限界を迎えたということか。いや、限界などとっくに踏み倒していたのだから、当然と言えば当然の話だ。二鬼を維持する力も途切れ、アオも消えていたことだろう。

 詰めを誤ることなく済んだようで、ミキは再び安堵を取り戻した。

「顔色が最悪だぞ。徹夜明けの聯より酷い。大丈夫か?」

「疲労困憊だよ。頭が重いし、中に異物が這入り込んで鼓動しているように痛む」

 力の使いすぎだ。すぐに目が覚めたのは奇跡としか言いようがなく、だとしても向こう数日は身動きが取れないだろう。そうミキは自己診断に結論を出し、携帯電話の着信履歴を確認した。

「……二木 聯?」

 着信履歴の最も新しい箇所に、その名前はあった。向こうから掛けてくること自体珍しいが、今このタイミングというのが、ミキには予想外だった。

「ああ、さっきな。あいつ、また夜更かししてやがる」

 顔を顰めて、ノアールが吐き捨てる。彼女にとっては不愉快極まりないことらしいが、ミキにはそこに介入する理由がなかった。

「驚いていなかったかい? 私の電話に君が出て」

「いいや? 普通に想定の範囲内だっただろ。連絡も来ないし帰っても来ないとなれば、最後に立ち寄る予定だったお前のところに留まっているだろう、ってくらいはさ」

「無断外泊じゃないか……。せめて一報くらい入れてあげなよ、家出少女じゃあるまいし」

 えー、とノアールはいかにも面倒臭そうな顔をした。

 その様子は、まるで思春期の子どもじみていたから。これが本当に、十戒の鬼と渡り合ったあの獣のような戦士なのかと、ミキは呆れて笑ってしまった。

「まあいいさ。要件は何だって?」

「別に、大した話じゃなかったよ。今回の首尾と、オレの損耗度合いを聞かれて、あとは……まあ、そんなものかな」

 それを聞いて、ミキは少し拍子抜けした。というより、微笑ましい気分になった。結局聯は、ノアールが心配で電話を掛けてきただけだったんじゃないかと、ミキには思えた。

「ちゃんと言ったかい? 十戒の鬼を一体仕留めたと」

「言うわけないだろ。札ありきの勝ちだったし、本体相手でもないんじゃ自慢にもならない。そもそも今回は、お前がいなければ、オレには何もできなかったんだから」

 若干ふて腐れたように、ノアールはそんなことを零した。謙遜というわけでもなく、心底そう思っているようだった。

 筋金入りだ、とミキは思った。それも、恐らくは主譲りだ。その思考傾向は、二木 聯がよく見せるものと酷似していたのだ。自分に厳しい、と言えばそうなのだろうが、ミキにすれば厳しすぎるように映る。それではあまりに、自分が可哀想じゃないか、と。

「じゃあ、私から伝えておくよ。色々と聞きたいこともあるし。そのためには、君のことを話さないわけにはいかないからね」

 ミキの言葉に、ノアールは苦い表情のまま頷いた。

 反発しないのは自制が働いているからだろうか。そのちぐはぐさは、ミキには痛ましいとさえ映った。見た目通りまだ子どもなんだから、もう少し子どものように、わがままを言ってもいいのだと――許されるのなら、そう言ってやりたかった。

「とは言え、それももうしばらく後になるだろう。正直、しんどい。少なくとも一週間前後は療養に専念するだろうから、アカも出せないな」

 ミキが言うと、ノアールは露骨に残念そうな顔をした。またアカと組み手がしたかったのだろうと、ミキはあたりをつける。

「大丈夫なのかよ、そんな有様で」

「大丈夫だよ。夏臥美町周辺で彷徨っていた思念は、朔弥がほとんど吸い尽くしてしまった。当面のところ、擬獣の心配は要らない。他のことについても、幾つか手は打ってある」

 他のこと――例えば、八剣のこと。

 彼らは、三嘉神 朔弥の再臨を恐れているのだ。擬獣としての朔弥ではなく、朔弥の負った役割を、再び担う誰かの出現を危惧している。だから、十戒を討った三鬼 弥生の力を危険視する一派が、強硬手段に出ないとも限らないのだ。

 天災と呼ぶべき十戒を三鬼が倒したところで、それを心の底から祝福する者など、八剣にはほとんどいない。三鬼からすれば心外な話だが、しかしそれはやむを得ないことだとミキは思う。三鬼にとって八剣は正義の対極であるが、ならば三鬼は正義なのかと言えば、それも違うはずだ。所詮、この世界に生きる全ての者は――聖人、神と呼ばれた存在を含め――絶対正義たり得ない。それは、『鬼』と呼ばれた三鬼と、『正義の代弁者』たろうとする八剣が、共有できる数少ない認識の一つである。故に、三鬼の行いを疎んじる者を、排除しきることなどできない。命有る限り、背負い続けなければならない宿命なのだと、ミキは定義する。

「それに、もうすぐチリ君も戻る。私が動けない間は、彼に頑張ってもらうことにするよ」

「……そ」

 と、ノアールは素っ気ない返事をした。まだ気持ちの整理が付いていないのだと、ミキは察した。

 そんなことはどうでもいい、考えるだけ面倒臭いと、普段のノアールならば言い捨てただろう。それをしないのは、ノアール自身、彼に何か思うところがあったのかも知れない。小さいが、しかし無視しきれない違和感を、無理矢理捨てて前を向いた。思うとおりに動いたはずなのに、何故か消えない不快感があって。――本当に、本物の人間のような葛藤だ。そう思って、ミキはまた胸を痛める。作り物の身体で、人間そのものの感情を持て余す。それは一体どれほどの苦しみなのだろうと、思わずにはいられなかった。

「どこから来て、どこへ行くのか」

 唐突にそんな呟きをしたミキを見て、ノアールは軽く首を傾げた。

「ノアール、君は」

 ミキはノアールの、澄み切った青い瞳を覗き込むようにして、言う。

「自分が生まれる前のことを覚えているかい?」

「なに?」

 ノアールは左手で髪を梳いた。半分呆れ、半分は真剣に考えるように、佇まいを整えた。

「そんなの、覚えてないよ。お前だってそうだろう。自分の顔が彫られてるときのことなんて、記憶にあるわけがない」

「私の顔は彫られてこうなったわけではないんだがね」

 そう言って笑ったミキだったが、すぐに頭を押さえて俯いた。脊髄を爪で思い切り引っ掛かれたような、そんな音が、ミキの頭の中で反響した。

「おい、大丈夫なのか、本当に」

「いいんだ、話をさせて欲しい」

 大事なことだから。そう言って、ミキは下手くそな笑顔を晒した。

「君も、朔弥姫の鬼たちも。形は違えど、私のアカも。生き物としての自分を持つ君たち界装具は、一体何モノなのだろう。君は、何か疑問に思ったことはないかい?」

 それは、何のために生き、何のために戦うのか、という問題よりも、更に根源に迫った問い掛けだった。

 その自我は、どこから来たのか。

 その心は、どこへ行くのか。

「前世というものがある。この世界が、質量保存の法則という真理を基に動いているのなら、人の命、或いは魂もまた同じに違いないという説だ。即ち、人は死後、あの世と呼ばれる別世界で、肉体を失った魂だけの存在となり、記憶を洗い流して、また新たな赤子として蘇る。あらゆる生き物はそれに従い、永遠に流転を繰り返す。そう、輪廻転生というやつだ」

 あらゆる生命は生まれ変わる。生まれる前、自分は全くの別人だったのだという説。ミキもまた、それを本気で信じないまでも、興味深く原点を探ったことがあった。

 死生観というものの根源は、恐怖であるとミキは思う。

 人――即ち生き物に、死という概念を理解することはできない。だというのに、生き物は生き物であるが故に、死という終わりから逃れることができない。時の流れに身を任せ、一本道を進んだ先には、理解の及ばない終幕が控えている。徐々に近付いてくる何かよく分からない、しかし確実に良くないそのものに、恐怖を覚えられない人間は壊れているだろう。死とは、あらゆる生物が等しく恐れ、忌避するおぞましい概念である。

 理解などできはしない。それでも恐怖に屈し、無理にでも理解しようと働きかけた人間たちがいた。彼らの導き出した答えは、根拠の欠片もない作り話でありながら、それでも多くの支持を得て、人々の生活に根付いていった。人がどれほど、潜在的な恐怖を抱いていたかという証明だったろう。

 死が、理解できないが故に恐ろしいならば、理解できるよう形を与えればいい。そうして生まれたものが死生観だ。転生や、成仏や、その在り方は様々だが、目的は一つだった。『私が死んでいる』という矛盾に光を指し、『死んだ私』にも道を示すこと。

 ノアールならば、くだらないと一蹴するだろう。そんなもの、現実から目を反らす妄想に過ぎないと。

 だが、その妄想に救われた人間が、数え切れないほど存在したことも、また真実なのだ。

 輪廻転生。たとえ今生が悲観に塗れていたとしても。来世はきっと、より良い人生になるはずだから。それが救いとなるのだ。手の届かない世界に希望を託し、そのために、今を一生懸命に生きるのだ。

 それが、まやかしに過ぎなかったとしても。そうして前を向き、歩き続ける人間を、ミキは、とても尊いものだと感じながら、今まで見続けてきた。

 見ることしか、できなかった。

「君は、前世はなんだったんだろう。来世は何になるのだろう。或いは、本当の人間になることも有り得るのだろうか」

 人の生まれ変わりが、人であるとは限らない。だが、人でなくなった自分を想像できる者がどれほどいるだろう。或いは己も、生まれ変わって界装具となったなら――その気持ちが、痛いほど分かるようになるのだろうか。頭の中で、ミキはそう呟いた。

「ふん、知らないよ。オレはオレだ。オレがオレ以外だった頃があったとして、それはオレじゃない、ただの他人だ。興味の欠片も浮かんでこない」

 仏頂面で答えるノアールを見て、ミキは苦笑した。ああ、ノアールならそう答えるだろうな、と。あまりにらしすぎて、拍子抜けするくらいだった。

「前世の自分が、今の自分に影響を与えていたとしても?」

「誰だか知らない前世のソイツがいつどこで何をしようが、オレには関係ない。一発殴ることさえできないなら、悩むだけ無駄だ。そうだろ」

 ノアールは迷いなく答えた。それが、それこそが、ノアールが強者である証だとミキは思う。その強さもまた美しいと、ミキは心からの喝采を送った。

 だが、やはり。それは、誰にでもできることでは、決してないのだ。

「私はね、ノアール。何度もあるよ、前世に思いを馳せたことが」

 ミキの、独白のような言葉を、ノアールは黙って聞き入った。

「きっと世界は幾つもあって、色々な世界があって。魂の転生は、それら全てを跨いで行われているのではないかと、そんな風に思うことがある。そして――」

「弥生、それは」

 ノアールが口を挟もうとしたのを、ミキは手のひらで制した。機関の主要格、二木家に属するノアールだから、止めざるを得ないのは仕方がなかっただろうが。それでも、ミキは続ける。

「輪廻転生が本当に、前世で積んだ徳を反映して起こるものなのだとしたら、きっと。この世界は、数多の世界における、流刑地なのだろう、と」

「これからどうするんだい、ノアール」

 ノアールが、乾いた自分の服を着終えてまた座ったところで、ミキはそう切り出した。散々話をして、ノアールの表情には若干の疲労が見えたが、ミキの方は逆に元気になっていた。

「まあ、帰るよ。もう用事はないし、あんまり長居するなって聯にも言われたしな」

 時刻は間もなく六時になろうとしていた。外は雨も上がり、久し振りに日が昇っていることだろう。電車も、安全確認が取れ次第動き出すはずだ。長かった暗闇が、ようやく晴れるのだ。

「お前こそどうするんだよ、弥生。ここにはいつまでいるんだ?」

 言われて、ミキは思わずハッとしてしまった。

 三嘉神 朔弥を倒す。それが一つの大きな節目だったのは間違いない。倒してから先をどうするか、という諸問題を全て後回しにして、この決戦に望んでいたのだ。戦いが終わることで、ようやく視界が開けて、脇に寄せていた課題が押し寄せてくる。ミキはこれから、それらと直面しなくてはならないのだ。

「どうかな。少し様子を見たいところだが、……恐らく、冬はここで越すことになるだろう」

 そうか、とノアールは素っ気なく返した。

 それを見て、ミキはまた、少しだけ心が痛んだ。

「聯は、しばらく住処に留まるんだね?」

「ああ、多分な。いつまでとは保証できないけど」

 つまり、ノアールもまた、聯の仕事を手伝って、あちこち飛び回るのだろう。そこに不満しか感じていないノアールだから、今回の滞在は、主に対する一種の抗議だったのかも知れない。

「まだ先の話だと思うけれど、そのうち訪ねると伝えておいてくれるかな」

「いいけど、ならオレのいるときにしてくれよ。行き違いは詰まらないだろ」

 ミキは快諾して微笑んだ。ノアールのそういうところが、ミキは好きなのだ。ノアールの好意は、不器用で間接的な、信頼という形で表れる。それが分かっていると、ノアールが他人のことを真面目に考えているのも分かってくる。自分のことが何より大事だから、自分を取り巻く周りの人たちの大切さも、よく知っているのだ。

「まあ、とりあえずは電話するよ、何事もね。直近、今回の件についても話があるし」

「ああ、それなんだけど」

 ノアールは上半身で伸びをして、椅子から立ち上がった。

「この先、ひょっとしたら、家には誰もいない期間があるかも知れないんだ。聯のケータイも繋がらないかも」

「ふん、そうなのかい? 旅行にでも行くのかな」

 問われて、ノアールは少し思案する風に腰に手を当て、目を閉じた。

「あんまり、詳しくは話せないんだけどさ。――依頼だよ。つい最近、一臣かずおみの野郎が聯に会いに来てさ。持ち込んできた調査案件があるんだ」

「一臣? まさか――八剣 一臣?」

 その名はミキも知っていた。いや、知らないわけがなかった。その名を聞けば、嫌でもその人物の顔が思い浮かぶ。

「それは、流石に聞き捨てならないね。調査とは言え、八剣家現当主直々の依頼か――いい予感はしないな」

 八剣流師範代、神剣『八握剣やつかのつるぎ』の継承者。強者揃いの八剣家と言えど、ミキが特別に警戒するほどの相手などそうはいないが、一臣だけは例外だった。文字通り格が違う。齢にして二十代後半、まだ年若い青年だが、既に機関の年嵩衆と同等に渡り合っている――いや、ミキが独自に集めた情報からすれば、掌握しているようにさえ思えた。辣腕家という周囲の評判は、ミキに言わせれば過小評価もいいところだった。

「オレもよく知らないよ。今聯が下調べしてるところだから。ただどうにも、八剣家的に相当気に食わない問題らしい。なんせ、オレとブランセに調査協力を指示してくるくらいだからな」

「それは――また、珍しいことだね」

 聯からすれば筆頭株主の八剣と言えど、聯のやり方にまで口を出すことなどそうそうあるものではない。そしてそれは、聯にためにならないとミキは思う。主である聯が、自らの意志で彼女らを伴うことに意味があるのだ。仕事として、必要に駆られて動く。それだけでは、聯はいつまでも、前に進むことができないだろうと。

「聯がブチ切れてるところは久々に見たよ。まあそれでも、金ふんだくって受注はちゃんとするのが聯なんだけど」

「商魂逞しいよね、彼女」

 ミキはそう言って朗らかに笑う。内心の微かな憤りなど、ノアールには微塵も漏らさなかった。

「ホントだよ。嫁のもらい手いるのかね、あれで」

「いやまあ、頼もしい女性は需要あるよ、きっと」

「そう願いたいもんだ」

 実際のところ、ミキの目から見ても、聯は充分に魅力的な女性だ。少しくらい高望みしたところで問題にならないくらい、彼女が手に持つ宝石は輝かしいのだ。伴侶と巡り会うのに必要なのは、彼女自身の心。彼女が本気で望んだなら、手に入れられないとは思えない。

 だから聯が、いま何より優先してすべきこと。それは誰に遠慮することもなく、自分の願いに正直になることなのだと。旧友として、ミキは思うのだ。

「――そうだ、弥生。お前が前に、聯に依頼してたっていう件だけど」

「うん?」

 いきなり別の話を振られて、ミキは空返事で返してしまった。思った以上に疲労しているのだと、ミキは改めて自覚した。

「あれだよ、あれ。ええと、なんて言ったかな。……ああそうそう、『ソラナキノタネ』」

「!」

 ミキの顔つきが、目の前のノアールにさえ判別できないレベルで、しかし確かに変わった。それは或いは、三嘉神 朔弥と対峙した時よりもずっと、真剣な表情だったかも知れない。

「八方手を尽くして、やっぱり見つからないって、ほとんど諦めてたらしいんだけどさ。その、八剣から来た調査の過程で、ひょっとしたら見つかるかも、ってさ」

 ソラナキノタネ。その在処については、ミキがこの町に来るよりずっと前、二木 聯に依頼した件だった。アオでさえ見付けられないソレも、聯ならば心当たりがあるかも知れないと、そうミキは思っていたが――。

「それは有り難い。正直こちらは手詰まりだったんだ。もし見付けてくれたなら、追加報酬を約束すると伝えて欲しい」

「そういうのは聯と直接やってくれよ。ああ、ちょっとニュアンス違ったかも。その調査が最後のアテだから、それで見付けられなかったら諦めろよ、って話だった気もする」

 それでもミキにとっては、藁に縋るより上等だ。そもそもそう簡単に見つかるものではないと、初めから分かっていた。だからこそ意味があるのだ。そういうものだからこそ、ミキにとっての切り札になり得るのだと――アオは、言ったのだ。

「期待して待っていることにするよ。健闘を祈ろう、ノアール」

「はいよ。お前も無理するなよ、弥生。お前は、人形じゃないんだからさ」

 そう言って、ノアールは後腐れなく、ミキの私室を後にした。

 最後の言葉が、皮肉めいて聞こえたのは、……きっと、ミキの勘違いだっただろう。

 その日、ミキは夢を見た。

 朔弥姫と、そして氷鬼が並び立ち、目の前に立ち塞がる夢だ。

 記憶を反芻しているだけだった。その日起きた出来事を思い返し、整理して、脳の効率化を行っているだけ。ミキは夢の細部を観察しながら、あの戦いの全貌を見つめ直した。

 視線が、あの氷結の鬼に定まってから。現実で同じように対面したときに、何かが頭の中を過ぎたことを、ミキは思いだした。

 今ならば、それが何なのかが分かる。朔弥にとって氷鬼は、間違いなく彼女の鬼だったが。それでも朔弥は、氷鬼をその名で呼ぶことはなかった。

 朔弥が気付いていたかどうかは五分だと、ミキは思う。だが少なくない割合で、あの氷鬼には――朔弥が愛したという、異邦人の男の思念が、混じっていたようだった。

 どこから来て、どこへ行くのか。ミキがノアールにそう問い掛けたのは、あの鬼の姿が瞼にちらついていたからだ。誰かを愛するが故に、鬼――界装具にまでなって、その相手を守ること。それは、ミキには紛れもない、奇跡のように思えてならなかった。

 だが、祝福には値しない。朔弥の願いは報われないものだったし、恐らくは彼女を守るため側にいたのだろう氷鬼も、根本的に矛盾した存在、擬獣に過ぎないのだ。ミキにとっては、数ある悲観の種の一つでしかない。それが分かったから、夢の中のミキは、現実の世界でそうしたように、涙を堪え、ただ立ち尽くすしかなかった。


 ――其の行く末に、呪い在れ。


 朔弥の最期に遺した言葉が、再びミキの耳に届いた。それを切っ掛けとして、天邪鬼が、そして熊鬼が、消滅の寸前に放った言葉を思い出す。

 そしてミキは、安堵するのだ。

 ただの偶然だっただろう。しかし、それらは確かに、ミキが投げ掛けられるべき言葉だった。

 ミキはその目的のため、その誓いのため、誰かのためであろうと常に考えてきた。後輩の恋愛相談から、被災地の食料の心配まで、その範囲に制限はなかった。

 だがそれでもミキは、自分が感謝されるべき存在などでないことを理解していた。罵倒され、呪われ、殺意を抱かれることこそが、本当の姿だと思えて仕方がなかった。

 だから、ミキは安堵する。自らの行いと、その評価が合致して、胸の奥にすっと落ちる。


 朔弥姫はどうだったのだろう。夢の中の鬼姫の姿を見て、ミキは回想する。

 例え誰に恨まれようと、それでも戦い続けた彼女の覚悟は本物だった。疑う余地のない、強者の心。ミキは確かに、あの在り方に憧れを抱いた。たとえその瞳が、叶わない夢しか映していなかったとしても。長い長い年月を走り抜けた、その強さが欲しいのだ。


 ミキもまた、決意を新たにする。己の夢、己の誓いを、必ずや叶えてみせると。

 だからそのために、ほんの少しだけ。彼女のようになりたいと、彼女のようにあれたら良かったと、そんな風にも思って――

 また、黒い瞳を潤ませたのだった。


夏夜の鬼 第五章「Gracial Jardin」 ―― 完 ――