前
遠くの景色が緩やかに流れていく。先程までは市街地だったのが、いつの間にか人気のない雑木林に変わっている。暫くギスギスした都会の風景ばかり眺めていたせいか、少しだけ落ち着きを取り戻したような気がする。
清々しい青空の下、列車は順調に運行している。乗り込んだ駅を出発してからそろそろ二時間が経過しようというところだが、車両には終始自分たち二人しかおらず、異常なまでに重苦しい空気が漂っている。ぽつぽつと他愛ない会話などはしているのだが、なかなか長続きしてくれなかった。馴れない相手との会話にそう抵抗はないつもりだが、足りていないのは自分のユーモアか、それとも相手の愛想の方か。とにかく今はこの雰囲気を解きほぐしたい。その為の手段を探してかれこれ一時間。いっそ列車が事故にでも遭えばいいのに、という危険思考に至ったところで、
「疲れた?」
乗車して初めて、向こうの方から声を掛けてきた。車内でも被ったままの、つばの広いベージュ色の帽子から、真っ黒な瞳が覗いていた。
「夏臥美町へはもうすぐ到着する筈よ。ただでさえ長旅なのに寄り道をする形になって、貴方には無理をさせてしまうわね」
ごめんなさい、と少女は言う。けれど言葉とは裏腹に、謝罪の意はさほど含まれていないように感じられた。別段、それを無礼だとかは思わない。心配されるほど疲れている訳ではないし、……何より、あまり気遣って貰わない方が、自分としても有り難いことなのだから。
問題のないことを告げると、彼女は「そう」と興味無げに呟いた。次いで、彼女は小さな溜め息を吐き、窓の外へ静かに目をやった。それは、自分が長旅をしていると言うのなら、その自分に付き添う彼女も同じなのだから、疲労の色があっても可笑しくはないのだが。先程から何度も続く彼女の溜め息は、果たしてそれ故のものなのだろうか。
歳は自分と同じ、学年は一つだけ上ということらしいが、はっきりとした物言いやきびきびとした身のこなしは、自分より一回り以上も大人びて見える。糊の利いたワイシャツと黒のストレートパンツなど、そのまま出勤出来てしまいそうな服装だ。それだけなら、凛々しいと評しても差し支えないのだろうが、年相応の細い身体と可愛らしい顔立ちが不釣り合いで、その表現はどうもしっくり来なかった。上目で淡々と話す彼女を見て、生意気な妹がいたらこんな感じだろうか、なんて風にも思ったものである。勿論そんなことは、どんなに会話の種に困っても、口に出したりはしないつもりだが。
「…………」
ふと、彼女の双眼が完全にこちらを向いている事に気が付いた。不機嫌さを隠そうともせず、桃色の唇は不満げに曲がり、形の良い眉は、――真っ白なその眉は、僅かに吊り上がっている。
「なにか?」
「いいえ。ちょっとだけ、ぼうっとしてただけですよ」
貴方を観察していましたなどとは言えない。出会ったのはつい一昨日の話であるが、あまり冗談の通じる相手でないことはすぐに分かったからだ。
「それならいいのよ。でもあなた、これから向かう先でもそんな風じゃ困るわ。寛大なお方だけど、くれぐれも失礼の無いように」
にこりともせず彼女は言う。既に何度か言われたことだが、殊更のように繰り返されると余計に緊張してしまうものだ。
「お姉さん、なんですよね。これから会う人って」
少しでも気持ちを紛らわせるつもりで話を振る。するとほんの一瞬、彼女の表情が緩んだ気がした。
「ええ、四つ年上のね。……興味があるの?」
「凄い方だと聞かされたので、少なからずは。どういう方なんですか?」
その問い掛けの途中から、彼女は硬い表情のまま、何事かと驚くくらいに目を
「そう、そうね、素晴らしい方よ。博識で、優雅で、お綺麗で、誰にでも好かれて、それから……」
持ち得る限りの褒め言葉を精一杯並び立てたその台詞からは、やはり子どもじみているなという印象が汲み取れた。それはともかく、知りたいのは姉の方であるのだが、少女の言だけではどうにも要領を得ない。直接会ってみた方が早いだろうと見切りを付けて、話の方向を変えてみることにする。
「お姉さんは、夏臥美町にはお一人で?」
「……ええ。四月から夏臥美町で一人暮らしを始められて――」
そこで彼女は言葉を区切り、列車の進行方向を見据えて、
「そう、もう三ヶ月以上もお会いしていないのね。猛暑の厳しい地域だと聞いたけれど、お身体を悪くしていないかしら」
不安そうに眉を顰めた。そしてまた、さっきと同じように溜め息を吐く。もう少し広げられる話題だと思ったのだが、こうなってはもう無理だろう。
それにしても、……ああ、ひょっとして、彼女は疲れているのではなく、ずっとその姉の身をを案じていたのだろうか。
これから会う人物。自分が巻き込まれた――と言うのもおかしな話だが――事件を解決してくれると紹介された、とにかく有能な女性らしい。詳しいことはまだよく知らない。知っているのは、その人が、“三鬼 弥生”という名前であるということと、目の前に座っている少女――“三鬼 ひのえ”の実姉であるということ、それだけであった。
後
「暑い……」
車外に降りて、自分の第一声がそれだった。日も傾き掛けた時分、真昼よりは大分マシになっているのだろうが、八月の上旬、真夏も真夏なこの時期に、冷房の効いた列車内から突然太陽の下に出たりしたら、それはもう致命的な大打撃である。
「すぐにホテルへ向かいたいところだろうけれど、時間が惜しいわ。伺うのが遅くなるのは避けたいの。暫く我慢出来るかしら」
涼しげな顔でそう言うなり、ひのえは四輪付きの黒いソフトキャリーバッグを引いて改札口へ歩き出した。“我慢出来るか?”というより“我慢しろ”という意味合いに取れたのは気のせいではないのだろう。
「あの、暑くないんですか。いや、そりゃあ夏ですし、向こうも結構暑かったけど。こっちは三十度とか三十三度とか……ひょっとしたら三十五度くらい超えてそうなんですけど」
リュックサックを背負い直し、ひのえの後を追いながら聞いてみる。彼女は振り返りもせず「暑いのは平気なのよ」と返してきた。無駄話をしている暇など無い、と小さな背中が語っているようだ。
夏臥美駅はどうやらそれなりの規模があるようで、プラットホームからエスカレーターで上ったところの駅舎は思ったよりも広かった。ホームは二面しかなかったから不釣り合いな気がしたが、掲示板によれば隣接ビルの百貨店にも繋がっているらしい。見る限り建物内は真新しい感じで、最近改築でもしたようだった。しかし空調は効いていないのだろうか、気温は未だ高いままである。なんという怠慢か。
自動改札を抜けた先では、広さに見合った数の人が行き交っていた。仕事帰りらしき社会人が早くもちらほら見えるけれど、大半は着飾った若者たちである。夏休みの学生も多いのだろうけど、これだけ集まっているということは、近場に何かしら遊べる場所があるのだろうと予想が付く。長期休暇中の学生と言えば自分たちも当て嵌まるが、そういった遊び場に立ち寄る機会はまずないのだろうなと思い、少しだけ気が萎える。分かってはいるが、やはりそういう場所に興味はあるのだ。
賑やかな駅舎を横切り、広い下り階段に差し掛かる。面白いギミックで手持ち鞄に変形したひのえのバッグを眺めつつ、一段ずつ早足で進んでいく彼女に付いていく。この先が出口らしい。ホームからここまで、列車の進行方向と同じ方へほぼ真っ直ぐ歩いてきたから、ここは南口ということになるだろう。
「お姉さんのところへは、タクシーを使って行くんですか? それともバス?」
階段を下りきる直前で尋ねてみた。夏臥美町の規模や駅の場所、これから向かう先の位置と、自分はほとんど知らないわけだが。やはりこの炎天下、自分の足で歩きたいとは思えないのだ。
「それは――ああ、ちょっと待って」
喧噪に紛れて電子音が届く。携帯電話の着信音だろう。ひのえはバッグの脇ポケットから白い携帯電話を取り出し、壁際に寄ってから応答した。
「はい。――はい、三鬼 ひのえですが、貴方は?」
壁を背に通話するひのえの側で、自分は辺りを見回していた。人の行き来が頻繁な出入り口、その向こうにある、やはり人の多い駅前公園。公園の中央には小規模ながら噴水が設けられていて、きっと幾分か涼しいのだろう、噴水を囲むように配置されたベンチで何人もの人たちが休んでいるのが見えた。
「――ええ、お話は伺っています。約束通り南口の、今は階段の辺りにいますが、そちらは?」
そのベンチに座って携帯電話を耳に当てていた一人の青年が、重たげに立ち上がった。電話はそのままで、駅の出入り口へ――というより、真っ直ぐ自分たちの方へ歩いてくる。
「――はい、確認しました。では、通話を切らせて頂きます」
ひのえが電話を切ると、その青年も同じく携帯電話を下ろし、ズボンのポケットに仕舞う。そのまま無言で近づいてきて、自分たちの目の前で止まった。
「初めまして、弥生の妹のひのえです。これから案内をよろしくお願いします、チリさん」
ひのえのその挨拶を聞いた青年は、なんだかものすごーく、疲れたような顔をしていた。