*第2話:イビツ
前
雑木林に覆われた丘は、灰色の風景に緑をもたらしている。ただしそれは良い意味ではなく、人の手の及んだ住宅街の一角に自然のままの土地が存在するという、ある意味怪談じみた現象である。元よりこの周囲一帯の地主が保有する土地であり、植物などが刈り取られずに残っているのもその影響であったのだが、地主たる二木家の衰退と共にその認識も薄れ、今ではその事実を知る者も徐々に減りつつある、というのが現状である。丘の頂上にあるご神木の存在など、最早誰の記憶にも残ってはいまい。
その洋館は、丘を半ば程まで登った先にそびえ立っている。
白い壁と青い窓枠が特徴の建物であり、国内最北地方における旧英国領事館を思わせる佇まいをしている。遠目には分からないが煉瓦造りとなっており、和風の瓦屋根と合わさった和洋折衷の建築物だが、その実内装は完全な洋風造りである。そもそも純和風建築であった住居を、流行好きで知られた何代も前の家主が当時の風潮に習って改装し、現在に至るのだという。ちぐはぐではあるが、長い歴史を積み重ねてきた立派な邸宅だったのである。
その建築の、今では手入れも行き届かずに荒れ果てた哀れな姿を、黒いドレスを身にまとったノアールは眺めていた。
彼女自身は洋風人形――ノアールが
ノアールはぼんやりと、自らの住処である洋館を眺めている。恒例となった散歩の帰りであり、本来ならば迷うことなく扉を開け、夕食の支度に精を出しているであるブランセを急かしていただろうが、このときはそうしなかった。知っていたからだ。自分が留守にしていた間に、この家の主――
「さて、なんて言ったもんかなぁ」
一つ舌打ちをしてからそう零し、計算尽くに整えられた顔を歪める。頭にあるのは、能面じみた顔を浮かべる自らの主と、つい最近交流を持ったとある人物のこと。まずは主の真意を確かめなければ始まらないのだが、またぞろ厄介な話であるとノアールは溜息を吐く。
そして、そんな思考に嫌気がさす。結局のところ自分は、主の願うとおりに動くしかない。ならば自身の意志に意味はなく、こうして逡巡していること自体無意味なのだと。納得のいかない、しかし納得するしかない現実に苛立ちを募らせ、それを活力にしてようやく、ノアールは両脚を動かし始めた。
中
「おかえりなさーい」
ブランセの間の抜けた声が届く。声量が若干大きいのは、主の帰還を喜んでいるからか。暢気なものだと、ノアールは苦笑混じりにまた溜息を吐いた。
廊下を渡り、リビングへの扉を開く。清潔と静寂を象徴するような白を背景に、木製の茶色い家具が並べられている一室。そんな見慣れた部屋に溶け込むかのごとく、食事用のテーブルにつく青白い影がある。左半身をこちらに向けたまま、色素の薄い瞳だけをノアールに向ける、童顔の女性――聯であった。
「おかえりなさい、ノアール」
聯はそう言ってノアールを迎えた。無感情な声と姿は、人形であるノアールよりも人形らしく見える。青みがかった頭髪につられるように、その肌色は不健康な青に染まっていた。随分無理をしたのだろうと一目で看破したノアールは、誰にも悟られないよう密かに、ギリと奥歯を噛んだ。
「……随分手間取ったな」
「まあ、ね。留守中、何か変わりなかったかしら」
「ああ、問題ない」
簡素な遣り取りだけが続く。そのとき既に、聯の視線はノアールではなく、両手で包むように持った白いコーヒーカップに落ちていた。
「それより聯、ちゃんと休んでたのか? 顔色が悪いぞ」
「そう? 電灯の替え時かしらね」
「この……」
いつもの調子で怒鳴りそうになるのを堪え、ノアールは台所へと足を向ける。行く先ではエプロン姿のブランセが鍋を掻き混ぜていた。食欲のそそる匂いはどうやら、今朝方言っていたとおりカレーのものだろう。最近のブランセはただのカレー調理にも凝りだし、妙な名前の香辛料を買い漁っていたようで、なるほど前回よりも微妙に甘い香りが混じっている。しかし今のノアールはそんなことには関心を見せず――平時であれ変わりはなかっただろうが――、荒々しく冷蔵庫の扉を開いた。
「あ、ノアちゃん。お夕飯、もうすぐですよ」
ノアールの姿を見留、ブランセが声を掛けてきた。
「分かってるよ。喉が渇いたんだ」
「ミルクで良ければ、温めたのがありますよ。レン様が飲んでるのの余りですけど。でもノアちゃん、ちゃんと手洗いうがいしてきました?」
手を動かしながら、ブランセは非難の目を向けている。台所は彼女には高すぎて、何をするにも台座が必要である。オタマを手に食事の準備をする今も、高さ十五センチほどの台に乗っているのだが、ブランセはそのせいでノアールを見下ろす形になっている。それがノアールには、なんとなく気に食わないところだった。
「お前なぁ。人形がどうしてそんなことしなくちゃいけないんだ」
「ダメですよばっちい。それに、ノアちゃんや私が平気でも、レン様にバイ菌が飛んだらどうするんですか」
「オレはゴキブリか何かか」
何もかもが自分を苛つかせる。そんな妄想にノアールは頭を振り、大人しく洗面所へ向かう。その際聯を一瞥したが、彼女は興味なさ気に目を閉じ、カップの縁をさすっていた。
後
「聯。お前の客の話だけど」
手洗いとうがいを済ませ、聯と揃いのカップを手に、ノアールはようやくテーブルに着いた。
「……ああ、例の。監視は続けているかしら? 明日辺り、改めて招くつもりでいるけれど」
「監視? そんな面倒なことしてないよ。不定期だけど、時々ここに顔見せに来てる。わざわざ連絡しなくても、向こうの都合がいいときに訪ねてくるだろ」
ノアールの言葉に、聯は「そう」とだけ呟いた。
「次はいつ頃来るのかしら」
「知るかよ。そんなことより聯、あれは一体どういうことなんだよ」
ノアールは最大の疑問を口にする。会えば分かると、全てを知ってそう言ったのだろう聯に対して。
「それはもう貴方も分かっているでしょう、ノアール。あの人の中に、ルージアの思念が潜んでいる。それだけのことよ」
信じられないほどに淡々と、聯はその名前を示した。“ルージア”。かつてノアールと共に、聯によって作られた人形であり、……今ではもう、存在するはずのない仲間の名である。
「だから、なんでそんなことになってるんだって聞いてるんだ。ルージアが消えたっていうのは嘘だったのか?」
「嘘ではないわ。一年前、確かにルージアは消滅した。ブランセが起動していることが何よりの証拠よ。でも事実、生き物でない人形――ルージアの思念が未だ、この世界に残留している。あのときは考えもしなかったけれど、今思えば有り得ない話ではないわ。やはり貴方たちは、私の知る自動人形とは異なっているのね」
思念とは、無念である。あらゆる生物が死する際に残すという、実体なき魂の欠片。それがいずれ害ある獣と化す現象はノアールにとっても既知であるが、それは今語るべきことではない。
「あの人の中に思念が入り込んだのは、恐らくルージアの防衛手段でしょう。不安定な思念は引かれ合うもの。幾つもの思念が混ざり合っていけば、彼女という個は間もなく消え去ってしまう。それを避けるために取った行動が、完全な個体として存在するあの人を隠れ蓑とするというものだった」
確証はないけどね、と聯は加える。だがノアールも、概ね聯の意見に同意していた。知りたかったのは、あのような事態を直接招いたのが聯であるか否か、その一点だけだったのだ。
ホットミルクを一気に飲み干してから、ノアールは再度聯を見据える。
「それで、これからどうするんだ。そのままにしておくのは拙いんだろ?」
「拙いかどうかは、まず会ってみないと分からないわ。思念なんて不確かなものが、完全な個体といつまでも共生出来るとは思えない。自然に消滅しきるのならそろそろ。未だ消滅の気配すらないというのなら少し厄介。そのどちらかね」
「厄介?」
聯の言い方に、ノアールは僅かに身を震わせる。
「何らかの理由で、思念が再生を始めているという可能性もあるわ。そうなると危険なのはあの人。ルージアの思念が大きくなれば、それはあの人の精神を圧迫していく」
「圧迫って……」
「前例が少ないから、確かなことは言えない。でも影響がない筈がないの。人一人の身体に二つ以上の精神……異常以外の何ものでもないのだから」
異常を来すのは間違いないと口にする聯。しかしその姿勢には焦りも悲しみもない。それがまた、ノアールを憤らせた。
「……万一その厄介な状態になったとしても、なんとか出来る術がある。そういうことでいいんだよな?」
「ええ、幾つかね。最良の手段は、実際に会ってみなければ選べないけれど。二木の名にかけて、一般人であるあの人に被害を及ばせるようなことはしないわ」
それだけ言って、聯はカップとソーサーを手に立ち上がり、台所へと歩き出した。聯の言葉に安堵したノアールは、聯の左足を見てぎょっとした。
「聯……? どうしたんだ、その足は」
座っている状態では見えなかったが、聯の左足首には見覚えのある装飾具が巻かれていた。ノアールは、聯から聞いたその効力を思い起こす。その朱色の紐は確か、自分の意志では動かせなくなった身体の一部を強制的に動かすための術具ではなかったか。例えば足の骨が折れたなら、間違いなく数ヶ月という長期間を安静にして過ごさなくてはならないが、あの紐を巻いていれば、足に負担を掛けることなく、通常通りに行動することが出来るという、そういった特殊な代物だ。
常識外の能力を備えた、聯が作り出した特別な道具の一つ。そんなものを何故聯が用いているのか。その上、その紐に括られるように着けられた二つの小さな鈴。まさかただの飾りということはないだろう。左脚が、普通の歩行すらままならない損傷を受けている。それだけでも大事だというのに、聯は、それ以外の問題も抱えているのだ。
「少し挫いてね。問題はないわ」
「じゃあ、その鈴は何だよ」
「治癒を早める術具よ。即席だけどね」
「嘘じゃないな?」
「ええ、誓って」
嘘を吐け、とノアールは内心叫ぶ。あれで騙せているつもりでいるのだから始末が悪いと、幾度そんな風に思ったことだろう――。今日何度目かの溜息と共に、ノアールはがっくりと項垂れた。聯が真実を話さない以上、ノアールはその意志に従わなければならない。痛感するのは、聯の非情ではない。思い遣りでもない。ただ自身の無力を。聯に認められない、自分自身の弱さを……。
「ノアちゃん、ごはん出来ましたよ。サラダを運んで下さいな」
そのとき背後から、底抜けに明るい声が跳ねてきた。ブランセが両手に、カレーの皿を一つずつ持ち、台所から出てくるところだった。その後ろから、やや小さめの皿を手に聯がついて来ている。その歩く姿には、挫いたという言葉すら信じがたいような安定感があった。
「ノアちゃん、どうかしました? お腹でも痛いんですか?」
皿をテーブルに置いたブランセが、心配そうにノアールの顔を覗く。人形であるノアールが腹痛など起こす筈もないが、ブランセは本気でそう案じているのだ。
「痛くなるかよ。サラダだな、ちょっと待ってろ」
調子が狂う、とノアールは呆れて席を立つ。青い目の端には、優しげに口元を緩めた聯の顔が映っていた。
件のルージアの消失以来、ノアールと聯はぎこちない仲だった。必要な言葉を交わすことはあっても、親しく談笑するようなことはない。時には無言のまま対立することすらあった。それを取り持つのは常に、屈託のない笑顔を振りまくブランセであった。まだ心幼いブランセを想う気持ちには、ノアールと聯に大差ない。その重なりにブランセは応え、二人を等しく、心からの愛を向ける。三人の関係が、歪ながらもこれまで続いてきたのは、ブランセという緩衝があったからこそだった。聯を問い詰めるのは後だ、今は旨い飯を蓄えよう――。そうノアールに思わせたのはブランセの、その想いに他ならなかったのだ。
「重っ。おいブランセ、なんだこの量は。一番でかい皿に野菜山盛りって、一体誰が喰うんだよ」
「だって、久しぶりにレン様が帰ってきたんですよ。栄養のある物、いっぱい食べて貰わなくちゃ。ね、レン様」
「いえ、流石に私もそこまでは……」
「え、えぇ?!」
大量に拵えたサラダを前に、慌てふためき涙ぐむブランセを見、聯は口元を抑えた。そんな二人を見て、ノアールは一人苦笑する。その心中は決して快いものではなかったが、だからこそ彼女は彼女でいられる。迷いなく、強さを求め続けることが出来るのだ。
「いいよ、オレも喰うから。お前もちゃんと手伝うんだぞ」
「ノアちゃーん!」
「いたい!」
涙で顔をグシャグシャにして、ブランセはノアールに突っ込んできた。……それはまるで、本当の姉妹のように。本当の、家族のように。
――この日より、聯は足の怪我を理由に、二木家にて療養を始める。
――そしてノアールは、聯の仕事の大半を請け、国中を行き来するようになる。