夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 幕間・前  突然だが、俺とミキはクラスメイトではない。そもそもに同じ学年ではない。今日日、学年が一つ違えば相手の名前を知る機会すらそうそうない。小中学校ならばまあ兎も角、高校の、しかも俺みたいな帰宅部万歳人間にとっては縦の繋がりなんて皆無であり、事実、名前を知ってる二年三年の生徒なんてミキと生徒会長くらいだ。尤も、学校なんてクラスメイトと担当教員数名の名前くらい知ってれば幾らでも生活出来るもんだ。例えば俺は校長の名前を一文字も覚えちゃいないが、入学して五ヶ月経った今の今まで困ったことなど一度としてない。ぶっちゃけ顔すらうろ覚え。辛うじて禿げ散らかしてたことだけは記憶しているが、話のタネにもなりゃしない。  話が逸れた。何が言いたいかって、学校生活における先輩と後輩の関係なんてそのくらい薄っぺらいものなんだということだ。  しかし俺はミキを知っている。名前や顔はそれなりに有名だからこの学校にいる奴は大体知ってるだろうが、俺はどう考えてもその遙か上を行っている。少なくとも、ミキがあんな正真正銘の化け物を飼い慣らしていることなど、他の生徒じゃ想像すらできないだろう。何故にこんなことになったか。ナゼに、どうして、俺だけが、あんな異次元の住人に目を付けられてしまったのか。答えられる奴がいるのならば今すぐ答えて頂きたい。ついでに歯なんか食いしばってて貰えれば幸いである。  それはそうと、今は昼休み。のほほんとして然るべき食後の一時だ。そんな時間に俺がこんな嫌なことを考え始めるに至った経緯はなんだったろう、などと思いつつ顔を真横に向けてみると。  がやがやと、一メートルと離れていない場所に人集りができている。何が面白いのか、見知った顔のクラスメイトと見慣れない他のクラスの生徒が三十人ほどで丸く固まっている。……改めて見ると異様な光景だ。人気アイドルに群がるファンに似ている。それ自体傍迷惑な存在だが、俺の顔の至近距離ある野郎の尻とか蹴り上げてやりたいくらいウザイ。うん、人集りよりゴミ山と言った方が合ってる気がする。 「うん、だからね、感情で動かない人間はいないということなんだ」  そしてその中心からは、人が多すぎて顔は見えないが、ガッコの先生よろしく教鞭を執る、一際高く響く女子の声が。 「言ってしまえば、感情は人間にとってのガソリンだ。ガソリンないと動かないものだろう? 自動車とか」  分かり切ったことだが、その声の主はミキだ。昼休みになると、どういう訳かミキがやってきて、誰彼構わず雑談だか講義だかよく分からない話をしていくのだ。なんで一年の、しかも決まってウチの教室に来るのか全く以て意味が分からないのだが、いや多分毎回あの席に座ってる辺り俺への嫌がらせか何かなんだろうが、ミキを病的なまでに慕うアホ共は一切気にする様子がない。一度問い質してみたことはあるんだが、その時は『ミキ先輩が後輩想いの素晴らしい人物だからだ!』と、見事なまでに盲目的な答えを返された。集団催眠か何かなのだろうか。 「無感情な人間、なんて表現を聞くけど、それはどうかと思うね。無感情と言えば、言葉通りの意味なら、感情がない、何も感じない、ということだけど、そんなのは有り得ない。何故って、感情のない人間は何も出来ないから。手足を動かすことも思考することも、また眠ることも勿論出来ない。そもそも、肉体を活動させているのは“生きたい”という感情が身体に働いているからじゃないか。だから無感情な人間とは、本来死人を指して言うべき言葉だ」  にしても、一体何の話をしているのだろう。ミキの台詞があまりに長いもんだから、最初の方が全然記憶にない。聴いて尤もらしく頷いてる連中だって似たような状況だと思うんだが、なんだろう、隙間からチラチラと見える、あの活き活きとした顔、顔、顔。普段の授業もあれくらい真面目に受けたら成績もガンガン上がるんだろうなぁきっと。 「――ああ、そうだね、そうすると自殺する者の心理と食い違うように思えるだろう。生きたいという感情があるのに自分を殺してしまうなんて可笑しい、とね。でも問題はない。本当に“生きたい”という感情を失った人間は、その時点で何もしなくても滅びるものだ。そうならないのは、心の奥では生きたいと願っているから。生きると言うのはそういうことで、だから“生き物”と呼称されるんだ。自殺とはつまり、“死にたい”という感情が“生きたい”という感情を上回ってしまった時に起こす行動な訳だ」  果たして、これが高校生、それも先輩が後輩にする話なのか。――否。有り得ない。どう考えても普通じゃない。座布団合戦を展開する着物のおじさん達が洒落たカフェで談笑してるくらい普通じゃない。その心は、有り得るんだろうけど実際見るとちょっと微妙、ということなのである。 「少し脱線したね。無感情とは別に感情的でない人間と言うと、理性的な人間という言葉が浮かぶ。けれど、理性的な人間は感情で動かないかと言えば否だ。理性的な人間は感情的な人間を嫌悪するきらいがあるが、その“嫌悪”は感情だろう? 自分たちは動物的、感情的にはならない、という主張はまさに感情的。理性的な人間だって感情で動くんだ。  しかし、じゃあ理性的な人間は存在しないのかと問われればこれも否。定義が違うんだ。理性的な人間とは、感情で揺れる自我とは別に、もう一つの自我を持っている。感情的に動こうとする自我を、もう一つの自我が監視し束縛し、その動きを緩慢にさせる。これが理性的という状態。――え、よく分からない? はは、君は感情的な人なんだね」  どうにもミキの話は強弁っぽく聞こえるんだが、誰も指摘しないあたりこの教室は既に異界化している気がする。それともここに集まってる全員が、ミキの言う感情的な人間なのだろうか。あ、多分それだ。 「……なんかやだな、それ」  途端に喉元が苦しくなる。溜め息ででも吐き出さなきゃ窒息しそう。……信じられない。蚊帳の外の俺がどうしてこう鬱にならなきゃならないんだ。  腕で頭を覆って机に突っ伏す。珍しいことにあの集団だけは見ていたいと思えない。どうせあと五分もすれば昼休みは終わるんだから、それまでは寝て過ごしてやる。 「おーいチリー。どしたー? 頭痛いのかー?」  気色の悪い猫なで声とともに旋毛が突かれた。一瞬驚きはしたが、込み上げてくる妙な苛立ちが勝った。 「痛かない。つーかアズマ、旋毛はやめろ旋毛は。なんか不安になるから」  頭を持ち上げて上目伝いに犯人を睨んでやる。予想通り、むさ苦しい頭をした男子が見下ろしていた。 「あー、旋毛押すと下痢になるんだったな。じゃ腹が痛いんだ」 「いや、それは迷信なんだろうけど……兎に角もうやるな。それ以前に他人を突くな」 「なんだよー、心配してやってんのに」  非難しつつ、アズマは膝を曲げて顔の位置を合わせてきた。人懐っこい笑顔で、懲りもせずに細長い指で俺の眉間を突く。 「いきなり人の家に押し掛けて、挙げ句ピッキング仕掛けるような奴に心配される筋合いないデスよ」 「しょうがないだろー。究極の節約法はお友達の家にお泊まりすることだって悟ったんだから」  手段も目的もぶっ飛びすぎだ。あと、いい加減その指を引っ込めろ。 「この、ホントにヤメロ。へし折るぞ。今スゲェ気分悪いんだから」  指を追い払う。僅かな沈黙の後アズマは、ふーん、とか言いつつこっちを眺めてくる。その顔が、何故だか知らないが猫のように見えた。ちなみに猫にとって、見知らぬ相手と目線を合わせる行為は威嚇に相当する為、そこら辺を歩いている野良猫の目を見つめたりなんかするとあからさまに警戒してくるので気を付けるべきである。 「チリさー、なんでそんなにミキさん嫌いなの?」  お前はなんでそんな唐突に核心を突いてくるのか。 「……なに、お前もそこの連中と同類なのかよ」 「ううん、興味は全然ない。でもお前程嫌ってはない」 「じゃあいい加減俺を名前で呼べ。本名で」 「忘れた」  ……今凄いこと言ったなコイツ。 「あんまり態度悪いと睨まれるぞー。それも全校規模。教師公認集団リンチが勃発して一時社会問題に発展――」 「してたまるか。……ってか、え、全校? いつの間にそこまで拡大してんだよミキ軍団」  ミキの転入当初、確かにそういう勢いはあった。ミキの容姿か、それともあの妙に達者な弁か、物珍しさに駆られて大騒ぎになり、親衛隊なる胡散臭い隊を作るべく奔走したバカが大勢いた。でもそれは最初の頃だけのこと。何事も流行り廃りが目まぐるしいのは通説で、最近は比較的静かになってきてる……と、思ってたんだが。 「まーねぇ。根強いぜ、あの人の人気。五月くらいにさ、配られたろ、親衛隊員募集要項」  限りなく無意味に近い自衛隊募集運動の一環みたいな。でもそんなヘンテコな物の記憶は、残念ながらバッチリあるのであった。 「あったあった。先生が妙な冊子配ってるなーとか思ったらアレだ。もうホント目が点になったよ、俺」  言わないけど、教師を本気で殴りたいと思ったのはあの時が初めてだった。ちなみに二度目は不登校を考えたとき。 「あの時に、生徒と教師含めて全校がほとんど参加して、で、今までずっと続いてんの」  本当に頭が痛くなってきた。流石はあの人の母校と言うべきなのか、知らない内に新たな奇妙奇天烈伝説が進行していたとは。痛い、イタ過ぎる。猟奇殺人! とかって何の違和感もなく普通の会話で言えるようになったらもう後戻りできないですよキミら。 「……アホかよ。親衛隊って、どこのギャグマンガだ」 「あー、今は普通のファンクラブってことになってる。なんかミキさんが、周りの護衛が気に障るって言ったらしくてさ。なんか目的見失って、そのまま降格」  護衛。末期だよ、それ実行した奴等。 「……もしかしなくてもさ、今そこでミキ取り囲んでるのも、そのファンクラブ会員なんだよな」 「うん。でもミキさん此処にしか来なくて、場所狭くて全員来るのは無理だから、三十人くらいでローテーション組んで、ああやって集まってんの。ほら、別のクラスからも来てる」  間もなく予鈴が鳴るが、ミキの弁舌は終わりを見ない。そして誰もが飽きもせず聴き入るこの状態は、成る程好事家の集まりだったか。 「どうでもいいけどアズマ、イヤに詳しいなお前。ミキには興味ないんじゃなかったのか?」 「うん、ない。でも俺も会員だから」 「――――そ」  出来る限り自然な動作で、頬杖を付いて顔を背けてやる。窓の外は快晴の青。あまりに清々しい空にはあまりに何もなくて、なんとなく虚しい気分になった。  俺は、アズマのこういうところが苦手だった。人の嫌がることだろうが驚くことだろうがあっさりと口にして、言った本人はケロッとしてる。俺や、仲の良い友人にのみではない。話す相手全員にこんな調子。それが俺には、ずっと分からないでいた。  人と人の間には、実に色々な関係が生じる。傍から見たらケンカしてるみたいに強い言葉をぶつけ合う関係。一方のみが楽しげに話し、もう一方はただ頷いているだけの関係。ただ側にあるだけの、会話のない関係。それらに応じて最良の言動を選ぶこと、それこそが、一番いい人間関係を築く方法だと思っていた。  なのに、そういうのを無視する者は少なからずいる。上手くいく場合もあるだろうが、絶望的に食い違うことだってあるのは、目に見えて明らかだ。  別に、他人のやり方にケチ付ける気はないが……そう、そういう連中を見ているのは、酷く疲れてしまうから。  ――だから。俺には、ここまでが限界なんだ。 「一応聞いておいてやるけど。それじゃなんで会員やってんの」  無理をしてでも話を繋げる。あまり感情を表に出すと、こういう奴はすぐ無用な心配をしてくる。原因が自分にあったとしてもそんな具合だから、逆に鬱陶しく感じてしまうのだ。 「投資さ、トウシ」  意味を掴みかねる。俺の心中など知りもせず、アズマはなにやら自慢顔で語る。 「なんでもミキさんの実家、実は金持ちらしくって。会費一杯払っとけば、その内なんか見返りありそうだろ」 「はあ――いや、待て、会費まで取ってるのか」 「うん。学年毎に責任者が―― 一年はウチの委員長だけど、同学年会員から会費集めて、一年の会費は二年責任者が回収して、さらにそれを三年の責任者が回収してるんだって」  なに、そのヤクザみたいな上納金システム。それ、回収じゃなくて徴収って言うべきだと思うぞアズマ。しかも『してるんだって』って、調書取ったら酷いことになりそうな予感。 「……その金が何に使われてるか、とかって聞いてもいいか」 「知らない」  平然とそう言い放ってから、でも役に立ってるよきっと、なんて脳天気に付け加える。開いた口が塞がらないとは、今みたいな心境のことなのだろうか。スピーカーから流れる馴染み深い電子音に耳を傾けつつ、俺の心中はまた、鬱ぎ込んでいた。