*とある少女*
「ひゃー。真っ暗だー」
ある初春、まだ息の白い寒空の下。少女は幸せの絶頂にあった。ついこの間まで、世界の不平等なんて柄にもないことを嘆いていたのが信じられないくらいに。
もし、生まれて初めて、心から愛し合える恋人が出来たら。その恋人が、誰もが羨む美青年だったら。しかもそれが、誰でも一度は聞いたことのある有名会社の御曹司だったなら。
少女は一人、そのあまりの幸福に身を震わせた。正直、他人から見れば気持ちの悪い仕草だったと本人ですら思う。だがこれ程の、まさに人生最大とも言えそうな規模の幸運を一遍に浴びて、誰が昂らずにいられるというのだろう。幸い今は夜、闇を照らすのは月くらい。どうでもいいじゃない、だって幸せなんだもの。と、ある種吹っ切れて、捨て鉢になっていた。自宅までの道のりを、鼻歌など交えながらふらふらと進んでいた。
幸せとは実に明快なものである。
“幸”か“不幸”かの判定は個人に委ねられるものの、結局はその二つしかない。単純な加法と減法の性質である。例えば一日に、非常に不幸な出来事に直面したとして、これをマイナス十点と数える。不幸なことがあったのだから、その一日は不幸な日だったと言えるはずである。だがその後、それを越えて幸せな出来事があれば、つまりはプラス十一点以上の幸福があれば、後から振り返るその一日は幸せな一日だったと感じられるのである。そして勿論、逆も然り。
現金なものだ、と思うかも知れないが、これは自覚の度合いに違いこそあれ、万人共通の心理なのである。
……故に。
「あれー、誰かいるー」
静まり返った住宅街路を対面に、誰かが歩いてくる。身を隠すかのように黒のロングコートを纏った、見るからに普通ではない人物である。
少女にもう少し、ほんの少しでも、それを警戒する意思があったなら。或いはそのまま、幸せな一日で終わったのかも知れない。
擦れ違いざまに、
男は、一言。
『消えろ』
「ぁ――」
少女は何かを言おうとしたが、それが辺りの人間の耳に届くことはなかった。驚きの声を上げたかったのか、悲鳴を上げたかったのか、それとも助けを呼びたかったのか。いずれにせよ、何もかも手遅れだった。
――ゴツリ、と両膝をつく音。次いで胴体が崩れ、びちゃりと液体が弾ける。
その光景を見て、まだ助かると思う人間はまずいない。脳髄の死が人間の死の一つならば、脳が頭部ごとなくなれば言うまでもなく。
その時、既に大量殺人犯と称されていたその男による、丁度十三人目の犠牲者だった。少なくともその男に対しては、何の罪もなかった筈の。
……労しくも。少女のその、人生最大の幸せを得た筈の一日は、人生で最も不幸な一日になってしまった。
*K.Y*
全身が逆上せたように熱い。必死で酸素を吸収する呼吸器官は、どうやら既存部位だけでは足らないらしい。
潤いを求めている。
それは疲れ果てた四肢の。
それは磨り減らし続けた心の。
『……消えろ』
見るからに年季の入ったコンクリートの床にこの男が座り込んでから、まだ一分と経っていない。だが、尻下の石床は多量の水分を吸い込んで変色し、まるで座布団か何かのような形に広がっている。
疲れ果てた頭の片隅で驚嘆する。これ全てが、自身の身体から流れ出たものなのか、と。
『消えろ』
うだるような暑さの夏夜。騒がしい虫の合唱が灼け切れた聴覚を苛む。
最初の頃は、凍えるような冬夜だった筈だ。あれから、アレを見てしまったあの日から、一体どれだけの月日が流れたのだろう。あの地からどれだけ離れたのだろう。……その問はしかし、男には分からなかった。比喩ではなく、目に映る風景は幾度となく、それも一瞬を以て変容し、その都度、見たくもないものを見、そして消滅していった。
『消えろ』
ふと限界を覚ったことは何度かあった。点滅し続ける視界、鉛を埋め込まれた五体、世界を覆うイメージ上の白。日常を捨て置いた罰か、或いは見てはならないモノを見た代償か。際限なく減速していく自我は、しかし潰えることを許されなかった。
何故なら。例え自我の喪失で精神が死滅しようと、肉体は生きている。人の言う“心”がある場所は薄く広く、脳を基点にして全身に行き渡る。精神を失ったがらんどうの肉体が、己を討ち滅ぼさんとする魔に恐怖しているのだ。
今でも鮮明に思い出せる。
首のない最愛の骸、
血にまみれた
色彩の抜け落ちた純白。
まるで悪魔に魅入られた天使のよう。
およそこの世のモノとは思えない、あの妖美な畏怖は――
『消えろ』
助走は恐怖。――見慣れないナイフを握り締める。
『消えろ』
加速は嫉妬。――首筋に凶器が齧り付く。
『消えろ――』
行き着く先は死をも越えて――
『消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ――!』
ただひたすらに、走り続ける。