7  そうして、両者は対面した。  チリ君と呼ばれた少年と、ミキと呼ばれた少女が、来るべくして此処へ来た。  それはいつもの黒い部屋で、二人で話していたときのように。  長いようで短かった、ひと夏の微かな思い出。  歪で。  非日常で。  それでもどこか穏やかな幕間劇だった。  今は違う。  漂う悲壮感は果たして、終幕の訪れを知らせる鐘なのか。  二度と戻らない日々に募らせる夢想の、その無意味さを知るための試練なのか。  報われない嘆きは、何重にも折り重なって、呪いのように浸み込んでいく。  終わらせたかったのはどちらだったのか。  終わらせたくないと願った一瞬はなかったのか。  雨は、迷いも悲しみも洗い流すこともなく、ただ腐敗させ爛れさせる猛毒のように降り注ぐ。  それでも――  それでも、両者は対面した。 *  立ち並ぶ残骸のようなコンクリート群と、それらを殴り付けるような強い雨。  未だ日が昇る気配はない夏の夜。気だるい湿気は冷たく、季節の移り変わりを予感させる。  自然ならざるモノたち――鬼の糸も、鬼の黒も、今は消え去っている。チリ君の持つ黒刀と、ミキを守るように立つ赤鬼と青鬼。その対面に喜びはなく、安堵はなく、幸福もなく。  ただ、静かな雨音が、鳴り響く。 「やあ、チリ君。よく来たね――いいや。よくぞ来たね。お疲れさま」  労いの言葉を掛けるミキの表情は、いつも通りだった。  ミキは、あの黒い部屋で待つときの、慈しむような笑みで、チリ君を迎えた。 「今回の仕事はどうだったかな、チリ君。また毛色の違う戦いだったろうが、君ならば乗り越えられると、私は信じていたよ」  少年の瞳が、鋭く細められる。それは自戒であるようで、そして警告であるようだった。 「なんだよ。またぞろいつもの種明かしでもしようってのかよ」 「ああ、そうとも」  言ってから、それもいい、一興だと、ミキは呟いた。 「おめでとう、チリ君。君はようやく完成(・・)したわけだよ。ああ、何って、最早言うまでもない。擬獣を越え、先代を越え、強力な能力者を越え――新たな私の、最強の矛となった」  すべて、アオが予測した通りだと、ミキは言い切った。  名無しの黒鎌の覚醒。  二重存在(ドッペルゲンガー)。二重催幻(デュアルヒュプノス)。怒りの吸血衝動(ストリガ)。三つの能力の獲得。  そして。  そのために捨ててきたもの。通ってきた茨の道。二度と取り戻せない大切な何かも。  すべて、予見した通りだったと。  ミキは、宣うのだ。 「まったく、苦労したものだよ、こう見えて私もね。はっきり言えば、最初に会ったときの君は、まったく使い物にならなかった。あまりに弱すぎた。異能自体に可能性はあったが、戦う者としての君はあまりに貧弱で、あまりに脆弱だった。ああ、育成には時として鞭が必要だが、相手が耐えられるギリギリを見極めなくてはならない。もどかしいものだったが、しかし壊れられても困るからね」  饒舌に。完全に復調したように。ミキはつらつらと弁を連ねていく。 「良かったよ、ああ、本当に嬉しい。朏 千里馬を蹴ってまで、君に賭けた甲斐があったというものだ」  黒い刀の柄が、軋む。  チリ君の中に、刀の持ち主の意志は既になかったが、それでも伝わるものはあった。  必要とされないことは、痛いのだ。 「だからありがとう、チリ君。君が私の傍らにいてくれるなら、恐れるものは何もない。目障りな八剣の連中も、邪魔をする愚か者たちも、片端から潰していこう。私と君ならそれができる。そして私達は、望むものすべてを得られるだろう。ああそうとも、チリ君。君が望むなら、君を囲んでくれる温かな家族だって、いつか。それをまた、何かが遮ろうとするのなら――一人残らず、殺してしまえばいいんだから」  それだけの力が、今の君にはあるんだよ、と。  誘う言葉は、聞く者の脳髄を直接撫で付けるようだった。欲しくても手に入らない、手を伸ばしても傷んでしまう――そんな苦悩を持った者にとって、それはあまりに蠱惑的な囁きだった。  手に入らないなら、奪い取ればいい。  痛むなら、傷つける何かを排除すればいい。  叶わない望みなど、その存在自体を蹴落とせばいいと。 「勿論私も応援している。私の敵は君の敵、君の敵は私の敵だ。支え合って生きていこうじゃないか。君が私の味方でいてくれる限り、私も君の味方であろう。君がすべてをくれるなら、私もすべてを君にあげよう」  たとえ、何を敵に回そうとも。 「愛しているよ、チリ君。君のことを、決して捨てはしないから。――終幕の鐘が鳴り響くその時まで、私と一緒に生きてくれ」  告白と言うには、あまりに凄惨な台詞だったが。  そもそも彼女に、愛の告白など不可能だ。  三鬼 弥生は、全てを愛している。  敵も味方も、善も悪も、生者も死者も、分け隔てなく。彼女は全てを愛おしみ、全てを慈しむ。何故ならそれこそが、三鬼 弥生という人間の動力に他ならないからだ。 「は」  だからこそ、真に特別なものなどない。  愛という定義が、そもそも自然から逸脱している。  そんなことだから―― 「だからお前は、誰かを切り捨てることを厭わなかったんだよ」  重みの分からないものを人は守れない。他ならぬミキの言である。  重みとは、比べるものだ。  より重いものを重視し、より軽いものを軽視する。即ち、何かを重視するためには、何かを軽視しなければならないのだ。  であるならば。  すべてが(・・・・)重い(・・)などという三鬼 弥生にとって、掛け替えのない存在など一つたりともあり得ない。仮にそんなものがあったとするならば、それは彼女自身の自己否定に他ならないのだから。 「それが本心だって言うなら。お前は、やっぱり腹黒(うそつき)だ」  刀が、幻のように霧散する。そして取って代わるように、黒い鎌が現出する。  愛してくれるならそれでいい。いつか捨てられたとしても、今この時を共に歩んでくれるのなら――  そういう思想はあるのだろう。殊更際立った思考というわけでもないのだろう。  何より、愛というものに飢えた人間には、いつか来るかもしれない破滅を恐れる余裕さえないのだから。  心の中の、理性的な自分を失ったチリ君にとっても、それは同様だった。  ただ怒り、ただ嘆き、ただ求め、ただ(・・)進むしか(・・・・)ない(・・)――そうなり果ててしまった彼にとって、共に歩む誰かの存在は、決して無視できるものではないのだと。誰より、彼自身が理解している。我武者羅に進み続けたその先で、それでも側にいてくれる誰か、その安堵、そのぬくもり――。そんな夢を見ることを、愚かだなどと誰が言えるのか。  だが、それでも。  それでも、それでも、そうだとしても。  彼が唯一抱き続けた想いが、その矛盾を突き放す。  これまでずっと、そう叫び続けてきたのだから。 「俺は俺だ。お前の手のひらの上にい続けるなんて真っ平だ。まして、お前の気分次第で、いつ切り捨てられても文句が言えないなんてそんなもん、生きてるなんて断じて言わねぇ。だから――」  自分が自分を生きるため。  だから、矛盾、矛盾なのだ。たった一人で生きていける自分を演じたがった彼はしかし、支え合う和を尊ぶ家族というものを欲した。孤高の強さに憧れても、孤独の寒さには背を向けた。その相反する在り方が、自身を傷つけるものだと分かっていても。  誰かとの絆を保つために、身勝手に望んだままの自分であり続けるのは不可能だ。時にはぶつかり、そして折り合って生きていく、それが人間というものだから。彼自身、そういうものだと思い知ったから。  どちらかを選ばなければならないとしても。どちらかを捨てなければならないとしても。その答えは、今の彼の中にはない。  本当に願ったのはどちらだったのか。より強く欲したのはどちらだったのか。本当に必要だったのはどちらだったのか。  分からない。未だ幼い少年には全く分からない問題だった、けれど――  一つ確かな真実が、彼の胸には息づいている。 「答えは、俺自身の手で叩き出す。お前はここで消え失せろ、『三鬼 弥生』!」  名無しの黒鎌が駆動する。  歓喜とともに、声なき咆哮を轟かせる。  憧れだったから。  羨ましいと思ったから。  それが自らの障害となり得るならば、喜んで喰らい尽くそう。  邪魔者は、消さなくてはならない。  その点だけ、チリ君は理解を示すことができた。  善悪など知ったことか。論理も倫理も無価値でしかない。あの激情は、対象が自分だったからこそ生じたものでしかない。  自分が消されようとしているのなら。その前に、相手を消さなくてはならない。手を伸ばすとは時に、そんな選択を迫られることも、あるのだから。 「それは、賢い選択とは言えないな」  赤と青、二体の鬼が臨戦態勢に入る傍らで、それでもミキは動かなかった。  ただ悲しそうに、長い睫毛を伏せただけ。  チリ君に言わせれば白々しすぎるその仕草で、ミキは続ける。 「君の力は万能じゃない。容量には当然上限があり、そんなものはとうに(・・・)超過して(・・・・)いる(・・)。――ましてチリ君、分かっているのかい? 私を殺すということは、このアオとアカという二体の鬼を、その鎌で狩らなければならないということだ」  人は、鬼には敵わない。  単純な力比べの話ではなく、概念。根本からの性質の問題だ。 「そもそもに負担の大きい能力だ。人一人の心に複数の精神など、本来ならば耐えられない。私が手厚く調整したからね、幾つかの能力を扱う程度ならば騙し騙し使えるかも知れない。しかし、三鬼の司る鬼となれば話が違う。君が御するには、鬼の力は強過ぎる。つまり、それがどういうことなのか、君には本当に分かっているのかな」  駄々をこねる子どもを諭すようなような笑みで、ミキは丁寧に言葉を紡ぐ。 「君の心は鬼に負ける。君は、内なる鬼を消化しきれず、逆に精神を飲み込まれることになる。ああ、君にはこう言えば分かりやすいだろうね――遠からず、君は君ではなくなるんだ」  アオのように。  アカのように。  物言わぬ鬼と成り果てる。 「名をつけるならば、そう――『夏夜の鬼』。ひと夏で人から鬼へと駆け上った君には、そんな名前が相応しい」  名無しの黒鎌に通じる、ミキにしては控えめな名付けだったが。  そういうモノが生まれる未来も、選択次第ではあり得ると。ミキは明確に示してみせた。  分岐路は、今このとき、目の前に存在している。  人として生きるのか。  鬼として生きるのか。 「しかしそれは、君が最も忌避する結末であるはずだ。よしんば私に勝てたとして、その後君が自分を失っては本末転倒だろう。一時の感情に酔って見誤ってしまってはいけない。真に君が君を生きられる道がどちらなのか、よくよく考え直してごらんよ」  ミキを殺し、自分を失うか。  ミキの思うまま、自分を生かすか。  ミキに苛立ちはない。焦りもない。どちらを選ぶべきか、とちらが正しいのか、考えるまでもないという顔だった。 「ああ――」  構わず、チリ君は目を閉じる。  この夏、長いようで短い灼熱の日々を思い出す。  自分は何を願ったのか。  自分は何に憤ったのか。  人が、思い思いに生きていこうとする様を見て。時に、その結末を見届けて。自分は、何を感じたのか。  思い出して、考える。  本当の意味で、自分を生きるということは、どういうことなのかを―― 「決まってるだろ」  答えは、決まっている。  それが正解かは分からない。自分のためになるのがどちらかなんて分からないし、結果だけ見れば愚かな選択でしかないかも知れない。  それでも、選ぶ。  自分の選択の責を負う――その覚悟だけを標(しるべ)と握り締め、自身の未来を選び取る。 「たとえ俺が、鬼になって。自分を失うことになっても。――それが、俺の選んだ道の果てなら」  文句はない。  決意は変わらない。  誰かに生きることを望まれても。  それがどれほど嬉しかったとしても。 「俺は、お前を殺して逝く」  チリ君は、ミキを殺すことを選んだ。 「――――」  ミキが、何かを口にしたが。同時に駆け出したチリ君の耳に、それが入ることはない。  赤鬼が迎え撃つ。  踏み出した赤銅の脚によって地面が震える。一歩一歩が土砂を巻き上げ、瞬く間に最高速へと至る。驀進する鉄の塊以上の圧力で以て、黒鎌の死神に拳を繰り出す。  つい数刻前であれば、その一撃でチリ君は消し飛んだだろうが、しかし。  ノロマめと、彼の中の傲慢がうそぶく。  ほんの少し身体を反らせた。それだけで、赤鬼の一突きは空中を殴り付けた。 「『耳無しの赤鬼(キカズ)』」  その名前を、誰かの記憶から借り受けて。  何人をも寄せ付けない肉体を、刃なき鎌が斬り伏せる。  赤鬼は断末魔一つ残さず、露と消えた。 「――だ」  ミキが再び、何かを呟く。  それが何であれ、チリ君を止めるには弱々し過ぎる。  前衛を失った青鬼が、ミキを守るため前に出る。  完全認識能力。赤鬼に劣る戦闘技術でも、それさえあれば覆せる。あらゆる攻撃を予測して回避し、敵の微かな隙さえ見逃さず弱点を貫く。 「『目無しの青鬼(アカズ)』」  その名前を、記憶の底から引きずり出して。  赤鬼さえ遅いと断じた死神からすれば、それは単なる棒立ちに等しかった。神域の異能を活かす間もなく、青鬼はこの世界から姿を消した。 「――め、だ――!」  ミキの立つ場所まで、およそ十歩。  それは今まで、あまりにも遠いと感じられていた距離だったが。  今ならば、届く。  その刃は、三鬼 弥生に届き得る。  それが確信できる中で、チリ君は。  静かに、己の中に浮かび上がっていく言葉を見つめていく。  一歩――  その顔が好きだった。その声に聞き惚れた。その言葉が、大嫌いだった。  ニ歩――  その眩しさに憧れて、だからこそ目障りだった。理想を叶えたところで、それ以上を見せつけてくるだろう彼女が、ずっと疎ましかった。  三歩――  その感情さえ、彼女の思惑通りだった。誰にでも好かれてしまう彼女は、自分にだけは嫌われることを望んでいた。  四歩――  それは、彼女なりのけじめで。後悔と贖罪の成した形だったのかも知れないが。何を勝手にと罵倒してやりたかった。  五歩――  あと少しで、届く。  そこまで来て、ふと。ミキが今どんな顔をしているのか、気になった。  それは、自分が見慣れたあの笑みなのか。  それとも、朏 千里馬の嘆いた悲しみなのか。  六歩――  けれど、速すぎて。  その顔は、見えなくて。  いつか見た夢の、授業参観の光景を思い出した。  七歩――  何かが、台無しになっていく。  地面を蹴るたび、何かが崩れていく。  八歩――  勝つことに期待はない。  後悔するにも先がない。  掴もうとして、掴み損ねる。  手を伸ばして、心が痛む。  繰り返す。繰り返す。何度も何度も、繰り返す。  暗闇を駆ける。これから先、一寸先も見えない中を、どこまで続くかも分からない道を、たった一人で進んでいく。  最後まで。  最期まで。  九歩――  それを、考えたら。  少しだけ、怖かった。  十歩――  最後の、重い重い一歩を踏み出し。凍えるような身体で、『チリ君』は鎌を振り上げる。  距離が、少し遠い。それでも刃は『ミキ』の身体に届くだろう。  断ち切るのだ。  決して自分を奪わせないために――奪うのだ。  奪って。全部、終わりにしよう、と。  半ば自棄を孕んだその一振りは、しかし。 「――――」  一瞬、少年の目の前に。それは立ち塞がった。  白い髪。白い肌。白い着物。  そして青い瞳をした、幼い少女の幻影が。  訳が分からないまま、チリ君は大鎌を止めた。  止めなくてはならないと思った。  そのときにはもう、少女の影など跡形もなかったが。 「――お前」  代わりに、チリ君は見た。 「お前、なんで――」  さっきは見えなかった、その顔が。 「……なぜ、止めたんだ。チリ君」  ミキは、笑う。 「私を、殺すんじゃなかったのかな」  先ほど見えた、白い少女が見えなかったのか。ミキは問い掛ける。  けれどチリ君の耳に、それは届かなかった。  それどころではなかった。  なぜなら。  雨に濡れ、白い髪の張り付いた、その頬を。 「なんで、泣いてるんだよ――ミキ」  涙が、伝っていたから。 「は」  ミキはいつも通り、揶揄するように笑って――しかし、笑いきれずに。  その目は、赤い。雨粒とは明らかに違うものを、黒い瞳から溢れさせている。 「なにを言っているんだい、チリ君」  ミキは。  三鬼 弥生は。  確かに、泣いていた。 「私は、泣いてなんて、い――」  声が、裏返る。  形の良い唇は青白く、わななく。 「いや。違う。私は」  堪えようとしていた。  いつもの(・・・・)ように(・・・)。泣くのを、我慢しようとしていた。 「わ、たし、は」  けれど。堰を切った涙は、止まらない。  ドレスの袖で、拭っても。拭っても。零れ続けて。  信じられないようなものを見るように。予期しないエラーを起こしたシステムのように。目を見開いて。 「あ――ああ、あああ――!」  ついには、崩れ落ちた。  強く膝をつき、スカートの裾が泥に濡れる。整った顔は、強張って歪む。  濡れた髪は波打って、柳のように枝垂れる。  そして、叫ぶ。叫ぶ、叫ぶ、泣き叫ぶ。  いつも毅然としたミキが。  いつも超然としたミキが。  それこそ幼い少女のように、泣き喚いた。 「ごめ――ごめん、なさい――」  その合間に。ミキは、懇願するように謝った。  叱られた子どもが、親に許しを請うように。しきりに、哀れなほど必死になって。 「わたし、わたしは――! こうならないために、頑張ってきたのにっ。こうなることが、アオの言う通り、こうなることが、怖くて……怖くて、怖くて、こわくてっ、ずっと、ずっと!」  それを目の当たりにしたチリ君は、立ち尽くすしかなかった。  これが、あの三鬼 弥生なのかと。  こんな演技があるものか。こんな、恥も外聞もない、なりふり構わない演技を、知りえる限り彼女はしない。 「チリ君、には――生きて欲しかった! 鬼なんかに、私の鬼なんかにならなくていい、いいからっ、だから――人として、しあわせに、生きて欲しかったのに……!」  こんな。  こんな、年齢以上に幼く、取り乱す彼女のことを。  チリ君は――いや。この世界の誰一人として、知らなかったのだ。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――! チリ君、兄さん、母さん、みんな、みんな、みんな――! わたしなんか、生まれてこなければよかったのに! ずっと閉じ込められていればよかったのに! 誰も救えない、何もできない、わたしは、弱い、弱い、よわいから、だから、だから、だからあのとき、あのときに私なんか、わたしなんか――」  わたしなんか。  死ねば、良かったのに。 「…………」  どんな声を、かければいいのか。  誰もいない廃工場に囲まれて。  雨音で余計に、声は遮られて。  その言葉を聞き届けられる、たった一人となったチリ君は。  壊れていく彼女を――いや、とっくに(・・・・)壊れていた(・・・・・)彼女を、ただ、見下ろしていた。  殺す気など最早ない。  鎌も刀も、手にはしていない。  ただ、がら空きになったその両の手でもって。  目の前の少女に、何をしてやれるだろうと。  彼女が泣き止むまで、ずっと。  雨が上がり、朝日が空を照らすまで、ずっと。  ずっと、考え続けていた。 エピローグ  そしてまた、夜が来た。  いつもの呼び出しである。今日の指定場所は、あの南工業団地だ。  廃れた工場群――なんて呼び方をするのも、もうじき終わりになるだろう。長らく放置されていたのだが、今年になって目に余る荒らされ方をされるようになったため、ついに行政の手が入ることになったらしい。  というかまあ、荒らしたのはミキだし。介入の進言と資金提供をしたのもミキなので。なにやらマッチポンプ的な臭いがするのだが。  今更過ぎる。  考えるのも億劫なほど今更な話だ。  もう好きなようにしてくれ、というのが最近の俺のスタンスだった。  止める気もないし。  礼を言われても、どうやら彼女は、別段愉快でもないらしかったから。  目的地まであと少し、といったところで。  ぽつん、と。頭に冷たいものが当たった。  雨だろうか、と思って見上げた。  そして視界に入ったのは。ふわふわと舞い降りてくる、無数の白い粒だった。  雪である。  季節はもう、冬になった。 ※ 「これは、積もるかも知れないね」  いつの間にか隣を歩いていた少女が、空を見ながらそう言った。 「そうなのか? そんなに勢いはなさそうだけど」 「勢いの話じゃなくて、雪の質の問題なんだよ」  そんなことを言われても、俺にはさっぱり分からない。そもそもこの夏臥美町では、雪なんかほとんど降らないんだから。 「積もったら、雪合戦でもしたらどうだろう。彼女も喜ぶんじゃないかな」 「げえ。嘘だろ、なんで俺がミキとそんなんしなきゃならないんだよ」  ものすごく疲れる絵しか浮かばない。  いや、そりゃ喜ぶかも知れないけども。  あっちは二十歳目前なんだぞ。 「ところでそれ、寒くないのか。着物一枚か? 凍死なら俺の知らないところでやって」 「きみね。こんないたいけな子どもに他所で死ねとか、よく言えたものだね」 「ナリだけだろ」  見れば分かる。  その青い瞳の少女――確かに小学生かそれ以下の背丈しかない――が、見た目通りの子どもでないことは、すぐに分かった。 「擬獣じゃあ、ないよな、お前」 「そうとも。似たようなものではあるけれど、そんな曖昧なものは大して重要ではないよ。今の私は、まあ、君の中にある残留思念、といった程度のものだ。もうじき消えそうだから、最後に挨拶でもしておこうかな、と思ってね。もう一度、顔を見せに来た」  ふうん、と返しておいたが、よくは分かっていなかった。それに、興味もさほどなかった。  白昼夢みたいなものだ。  どうせろくでもない話しか振ってこないのだろうから、最初から見限っておこうという算段だ。 「分かっていないようだから付け加えるけれど。私は、かつてアオと呼ばれていた鬼が、鬼になる前に持っていた人格だ」 「……アオ」  多少の意表は突いてきたが。そういうことか、と。頭の中で、大体の流れが掴めた。  これはつまり、あの夜と同じ現象なわけだ。 「そうだね、便宜的に『青の求道者』とでも呼んでくれ」 「呼びづれぇ」 「ふん、じゃあアオでいいよ」  苦笑しながら、少女は少しだけ歩調を緩めた。 「なんだよ。アオって女だったのか」 「いや。性別の区別など疾うに擦り消えたよ。この姿は、まだ私が一個として存在していた当時の、弥生の姿を写し取ったものだ。いや、正確ではないな。思念体に過ぎなかった私が、彼女と意思疎通をしているうちに影響を受けた結果、といったところか」  どのみち、何らかの形は必要だったがね、とアオは言う。  確かに面影はあった。白く長い髪、不思議な魅力のあるツリ目、邦人らしい卵型の顔、あと何が詰まってでもいるような胸部――いや、この身長でこの胸囲は奇形の域だろ。何を食ったらこんなに育つものなのか。  ともあれ。  そのアオが、今では自分の中にいるというのも妙な話だ。  その上この少女が、どういう経緯であの青鬼に化けたのかというのも、確かに知らない話だった。 「どうということはないさ。私は彼女に取引を申し込んだだけ。ギブアンドテイクというやつだ。ありふれた、どこにでもある話だろう」  胡散臭い、という印象しかない。口調がミキそのものなのも、間違いなく拍車をかけている。 「座敷牢に閉じ込められたキミを出してあげよう。そのための知識も与えよう。その代わり、私の願いを叶えておくれ。それだけのことさ」 「…………」  そういえば、何かのおとぎ話でそんな闇取引があったよな、と思った。甘い餌で釣っておいて、後からとんでもない要求をしてくるヤツだ。俺はああいったものを、詐欺以外のなんでもないと、昔から考えていたわけだが。 「なんだい、その顔。別に変な願いは言っていないよ。私は至極善良に、こう願ったんだ。この世界を、救ってくれとね」  思わず、ため息が漏れた。  ああ、だから、ようするに。  コイツが、すべての元凶か。 「何が善良だ、さも世界の平和でも願ってるかのように言いやがって」 「願っているとも。そして嘆いているとも」 「第一それはあいつにとって、呪い以外の何ものでもなかっただろうが」 「――けれど、彼女以上の適任はいなかった」  冗談だろう、と。つい声を荒げてしまった。  ミキが適任だなんて、俺にはまったく思えなかった。  彼女の本質は、あまりに脆く、弱いから。そんな無謀な役割を負わせたというのは、あまりに酷い話じゃないかと。  きっとミキは、取り繕うのが上手いだけで――いま目の前にいる少女の姿だったころから、心はまったく成長していない。  あのとき。あの夏の夜。泣きじゃくるミキの、あの姿を、思い出す。  それ以降、ミキの涙は見ていないけれど。  でも、毎日のように、泣くのを我慢しているミキの姿を、ずっと見続けてきた俺だから。  正直に言って。そんなこと、もうやめて欲しいとさえ、思っていた。  ――けれど。アオは、静かに首を振って答える。 「弱き心にて救世を望むからこそ意味がある。『色(シキ)』のルール、弱肉強食なんてものに従っていてはアレは崩せない。弱き存在が、絶対的強者、八剣の言うところの『界(かみ)』を倒し――我らが理想郷たる『空(カラ)』へと至る。その条件を満たす者を、私はようやく見つけたんだよ。数千年という長い年月をかけ、やっとね」  偏執的な輝きを秘め、青の瞳が夜闇に揺れる。 「呪いでしかないと言ったね。そうだよ、その通りだ。だからこそ私が生まれ、そして弥生が、救世主として立ち上がらざるを得なくなったんだ。私を咎めるなんて、お門違いも甚だしい。この流刑地(・・・・・)において、私たちは等しく被害者だろう。私を、弥生を、そして君をここまで追い詰めたモノを討つこと、それの何がおかしいと言うのか」  声が反響する。  遠くの音が聞こえなくなる。  話せば話すほど、現実感が希薄になっていく。  ああ、確かに――コレは、少女ではない。  いや。人間でさえ、ない。 「お前は、何なんだ」  問い掛ける。核心を突く。  この目の前にいる『何か』が、全ての起点であることに間違いはないのだ。  であるなら。それは一体、どこから来た、何者なのか。 「人間だよ。解脱を望み、救世を望み、肉体が朽ちてなお求道を志した高僧たちの、成れの果て。私という存在の原型は、確かにそういったものだった」  色即是空、空即是色。  どこかで聞いたことのあるその言葉の、本当の意味を。俺は、ミキに説明されるまで知らなかったし――それにきっと、アオを取り込む以前の俺であれば、説明されても理解できなかっただろう。  知っていたとして、ミキがやろうとしているほどの手段に至る可能性になんて、誰も辿り着かなかったはずだ。  それが。  その源泉が今、目の前にある。 「弥生が座敷牢を出るにあたり、赤鬼の精神力と、私の知識と人格を分け与えた。結果、赤鬼は常に恐怖し続ける不憫な鬼となり。私は、打てば鳴る音叉と化した。アカについては何とも言えないが、私に関してはまあまあ業腹だ。弥生のお喋りなあの性質は、本来私のものだったのに」  ミキの、本来の性質。それがきっと、あの夜に見たミキであり。そしてその性質は、決して消えたわけではないのだと。だからこそミキが適任なのだと。――あんまりな話だ。ミキは本当に、そこまで理解した上で頷いたのだろうか。 「そして今や、私の力は君の中、と。経緯はそんなところだが、まあおおむね予想通りの展開だったよ」  すべては、アオの願いを叶えるため。  アオの千里眼は全てを見通した。  そしてまんまと。可能性のある未来を、その手に掴み取ったのだ。 「――ミキは、望んでいなかったみたいだけどな」  殴っても、意味がないだろうと思って。  精一杯の強がりで、皮肉めいたことを言ってやった。 「気の迷いさ。それが最善だと、彼女だって分かってる」  分かっているから、辛いんじゃないか。  それが分かっているから、ミキは―― 「君には、感謝しているんだよ、チリ君」  アオは、俺の目の前に立っていた。  青い瞳は、吸い込まれそうに暗く、底のない穴のようだった。 「結局のところ、弥生の精神は三鬼(さんき)の力に耐えられなかった。なにせ、弱いからね。鬼を御する才覚を持っただけ(・・)の、枯れ木のような少女に過ぎなかった。あのまま放っておけば、いずれ潰れていただろう。君がその一部を肩代わりしてくれたから、今も彼女は真っ当に生きていられる」  まあそれは、君も同じことなんだけどね、と。  全てを見通す青鬼だったものは、幼い少女の顔で、老獪に笑った。 「今や同一存在となった私たちだ。いい加減、本音を聞かせてもらいたいものだ」  どういう意味だと、問い返す。  アオは背を向け、一人で歩き始める。 「今の君を止められる者はそうそう現れないだろう。思いのままに、この世界を闊歩できる。であるならば、ねえ、チリ君」  君は、なにを望むんだい。  アオは、囁くように聞いてきた。  この世界を、壊すのも。  或いは、ミキを止めることだって。  やろうと思えば、なんだってできる、その上で。  俺が、何を望むのか。 「――決まってるだろ」  雪に紛れるように、薄れていくアオの背中に向けて。静かにぶつけるように、言葉にする。 「俺は俺のありたいように生きる」  それ以外の望みなんか、どこにもない。  父親はもういなくて――最期の願いを叶えてやろうとか、死んだ誰かに報いてやろうとか、そういう心変わりがあったわけでもない。それはただ、記憶の底に眠らせておくだけにした。  だから、今は。  今は、違う。  今このときを、俺と一緒に生きて。その上で、俺が俺であることを大切に思ってくれる人がいる。  いつも涙を堪えて、でも平気そうな顔で笑って。  誰より苦しいのに、誰より辛いのに、誰かのために自分を殺し続ける、弱い女を知っている。  そいつのために。俺は最後の最後まで、俺であり続けると誓ったから。   「なんか、全部自分の思い通りだったみたいな言い草は聞かなかったことにしてやるから。叱られたくなかったら、もう俺の前に出てこないことだ」  俺は、俺だ。  どんな力を得ようが、失おうが、それは何も変わらない。  あえて今、願いがあるとするなら。  それを邪魔したって宣う目の前のガキを、ぶん殴ってやりたいってことだけだ。 「――ふん」  含むように笑って、アオは、 「難儀だね、君(ひと)は」  そう言い残して。  俺の疑問に、すべて答えてから。  二度と、俺の前に現れることはなかった。 ※ 「待たせた、ミキ」  そう声をかけて、辿り着いた。  工場群の中で、最も背の高い鉄塔の、頂上に。  彼女は腰かけていた。  相変わらず大仰な黒いドレスを着て。  まるで生きているかのように見える、白い髪をなびかせて。  白い雪の降る中で、初めて見る彼女の姿は。  見惚れるほどに、美しいと思った。 「やあチリ君。いらっしゃい、待ちかねたよ」  彼女は、いつも通りに俺を迎える。  余裕たっぷりの笑顔で。  その下に隠れたものなんか、おくびにも出さずに。 「さて。今日は、どんな話を聞かせてくれるのかな」  俺たちの関係は、どうも。  あと二年くらいは、続くらしい。