夏夜の鬼 第一章「名無しの」 7  狙うは一撃。  例え技量が皆無だろうと、たった一撃喰らわせる程度なら、俺にだって出来るはず。  黒塗りの床を全速力で走り抜ける。広いこの部屋でも隅から隅まで一秒弱、そしてそれだけで終わりにしてやれる。  いつも通りだ。見た目が最初から多少妖怪じみていても、結局のところやることになんら変わりはない。分かってる。ミキがやるまでもなく、俺がアイツを殺してやれる。 「――また」  覚えのある揺らぎを観測、しかし初動から終結までを見据えた動作は最早止める術を持たず、始点から終点までを一直線に駆け抜ける。顔面に突き刺さる冷気に眉を潜めながら、それでも速度は緩めない。  この一息で終わらせる。鎮まることのない速い心音は、その意気込みが勝ちすぎているのか……。だがそれでも、望む結果さえ出せればそれでいい。  ――或いはそれが、油断というものだったのだろうか。  対象まであと僅かというところで、ソレは動き出した。右手に在る、例の青白い刃物のような輝きが、俺の進路を阻むようにゆらりと流動する。視界を舐める青の残像。それが何なのかを考える前に、漆黒の鈍器が薙ぎに掛かる。  ぎん、と広がる金属音――防がれた一撃の沈む音――、それに乗って俺の中に流れ込んできたのは、全身を縛り付けるような危険信号。脳内で鳴り響く警鐘に促されるがまま、武器と脚に力を込めて、一気に後退する。急速に縮んでいく影絵は、反撃に掛かる素振りも見せず、だらんと腕を下ろした。  ――今の感覚は、まさか。  あの手の発光体が何なのか分かりかねていた。だが実際に接してみて――いやそれ以前に、集中して感じてみればあれが、覚えのある気配を漂わせていることに気付く。  巷を騒がせた首切り殺人鬼、青柳 晃一朗。殺した人間の首を必ず切断し、その首の行方は不明という怪奇事件の実行犯。漸く合点がいった。あのナイフのような光はきっと、否、間違いなく―― 「……界装具」  ――くすり、と、何か不快な声が聞こえた。つまりは正解ということか。  常識を越えた存在。常人の上限を超えた能力。死を迎え、人外と成り果てた今でさえ、その力は健在だというのか。 「――くそ、どうした俺……」  身体が強張っている。全身の骨が鉛にでも変わったか、或いは筋肉が岩になったのか。外温によって急激に侵されていく体温。重たい四肢、目に見えて震える手足。感情の揺らぎが、こうも簡単に肉体を殺ぐ。  界装具。その恩恵は身を以て知っている。異能の付加と肉体の強化。異能とは恐らく、首を斬り裂き、消滅か転移をさせる力。初見、猛進してきた様を思い出せば、発動条件は近づかなければ満たされない類。アレの標的が俺でない以上、近づかなければやられない。だが近づかなければ、この世界は永遠に終わらない。  勢いに任せた初撃は、ただその一閃に全身全霊を込めて放った。集中力が最大限に高められた状態だったからこそ、その後の反撃を即座に察知し飛び退くことが出来た。  しかし、今は。自らに起こり得る危機性を悟った、今は……。  ――恐怖。終わらせなければならないという使命感、終わらせようとすれば殺されるという現実。保身本能とはよく言ったものだと今更ながらに感嘆する。人間とは、本能的に臆病な生き物なのだ。 「……だから、何だよ」  ――例え。例えそうだったとしても。  震える右腕を、震える左手で握り締める。骨の軋む音が弱気を振り払う。頭部を侵す痛みは、今までの苛烈さが嘘のように消え失せている。より鮮明さを増した視界の中で、改めて標的を定める。  その赤眼が睨め付けるのは、やはり俺ではない。俺よりも後方にある、背景に溶ける黒のソファ。そこには何者も座してはおらず――しかし一瞬たりとも目を反らさず、その一点のみを見つめるその姿勢はまるで、言葉無き怨恨で以て訴え続けているかのよう。目の前の現実を必死で否定して、『そこにいる筈なんだ』と。 「……なあ、お前」  その行為。その姿。『女』。『首切り』。あんな、あんな惨めな姿になった今も尚、執着し続けている。それは何故。一体何が、一人の人間をそこまで追い詰めたのか。  単なる好奇心か。それとも恐怖を紛らわせたかったのか。  ふいに、疑問が漏れて出る。 「何で、そんなことするんだよ」                                         *K.Y*  自分にとって一番大切なものは何か。その問に答え倦ねた経験は、記憶にある限り一度もない。  尤も、流石に物心ついたばかりの頃にそんな質問をされたところで答えられる訳がない。それなりに成長して、それなりに知恵を付けて、そうして確立させた自我なのだから。  ……でも、いつからだったんだろう。こんな風に考えるようになったのは。  子どもの頃の思い出を巡っても面白味はない。学生の時分、昔から僕を知っている何人かにもそう言われたし、僕自身もそれを否定しない。  詰まらない奴だと嘲笑われ、決まってそれを苦笑で返す僕は、心の中では、まるで何処かの小悪党のようにほくそ笑んでいた。何故ならそれが、自分の思惑通りの反応だったからだ。  僕の人格と僕に望まれた人格はまるで正反対だった。誰よりも真面目で? 誰にでも優しく? 今でも時折、思い出して笑ってしまう。誰よりも素直で? 誰よりも勤勉で? そんな損な生き方、好きでもないのにやろうとする人間なんていやしない。  真面目でなくても生きられる。優しくなくても愛される。素直じゃなくても幸せになれる。勤勉でなくても成功出来る。この世の中で、わざわざそんな、自分を苦しめる生き方をするなんて。  ……でも、何故だったんだろう。それが、僕の生き方になったのは。  高校受験を無事に終えた頃、家から父親がいなくなった。  僕にしてみれば突然のことだったけれど、当人達にしてみればそうではなかったらしい。それはそうだ。さっさと離れたいなら書類だけで済む。時期が時期だけに内密に進んでいたらしい。  ショックだったか? まさか。自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。  ……でも、どうして。  境目は分からない。けれどいつからか、変わり始めていたことは確かだった。数字とは便利な物である。上がり下がりが非常によく分かる。統計を取って、それが試験毎に下降していれば、嫌でも現状を把握出来た。  耐えられない重圧、重すぎた積荷。途絶えることのない悪心(おしん)が、着実に僕を蝕んでいった。  いつからか、僕は“塔”の存在に気付いていた。  そびえ立つ巨大な塔。そこに住まう人間がいて、そうでない、そこに住まえない人間がいて。住まうことの出来た人間は、出来なかった人間を見下ろして、笑う。それはいつかの嘲笑と同じものだったけれど、それを受ける僕の立ち位置が、数年のうちに変貌していた。  塔の根本に寄り添う僕。地に落ちた影を見て笑う塔の住民。  塔の根本にすらいられなくなった僕。影と共に地に落ちた僕を笑う塔の住民。  笑い声。笑い声が聞こえる。僕を笑っている。嘲笑っている。蔑んでいる。僕の影ではなく、僕自身を。  ふと地に伏して天を見上げる。ああ、なんてことだろう。巨大な塔とは、単なる巨大な張りぼてではないか。奴らはあんなものに必死で登り、しがみつき、満足しているというのか。  愚か者めと声を上げる。だが、彼等は知らないのだ。自身の足下が、どうしようもなく脆い紛い物であることに。  だから彼等には、僕の姿は滑稽にしか映らない。脱落した、負け犬の遠吠えだとしか、彼等には解釈されない。  笑い声が聞こえる。  笑い声。  僕を笑っている。  僕を笑わないで。  僕を。  僕を笑うな。  僕を笑う資格なんて、お前達にはない。  僕の方が正しいのに。  正しいのは僕なのに――!  いつしか僕は牙を研いでいた。  あの塔を、あの張りぼてを破壊してやりたい。そうすれば奴らも、自分の愚かさに気が付くだろう。そうすれば、どちらが笑われる側なのかを理解するだろう。根底から切り崩してやろう。それが奴らの為でもあるのだから。  ……それでも心の片隅で、自らを制止していた。僕もまた、その塔に依存した存在であることに変わりはなかった。塔を壊してはならない。拠り所を失うのは、彼等だけではないのだから。  職を追われた時、僕は大人しく地面を舐めた。  ――お疲れ様。  僕は躓いただけ。道はまだ繋がっている。  ――大丈夫だから。  その道の先にはあの人がいて、今でも僕に手を差し伸べていてくれる。  ――さあ、晃一朗。  ……母さん。  ―― 一緒に頑張ろう、晃一朗。  ああ、母さん。  知っているよ。あの日、家の中が少しだけ広くなったあの日、貴方がこっそり泣いていたことを。  知っているよ。僕のために、親として貴方が何をしてくれたのかを。  昔から貴方は僕を導いてくれていたね。  貴方は僕を自分のいる場所に――それよりも上、自分の望んだ明るい場所に、僕を連れて行こうとしてくれた。幼い時からずっと、僕がどんな人間であるべきかを諭してくれた。  僕の自我も。僕の生き方も。僕のこの命だって。貴方がいたからこそ生まれたものだ。何が正しいのかを知ることが出来たのも、貴方がいてくれたお陰だ。  ならば僕はもう一度、あの塔を目指そう。  例え張りぼてに過ぎなくても。地に這いつくばった者として、一生笑われ続けたとしても。  貴方が望むのならば、僕は何度だって挑んでみせる。その為に僕は走り続ける。その為に僕は生き続ける。その為に、僕は――――  ――夢のような心地だった。  日差しが赤く染まった頃。いつも通り、何の成果もなく帰宅したその時。いつも優しげな笑顔を浮かべて迎えてくれる母は、もうそこにはいなかった。 「――は、気持ちの悪いものだ」  存分に咀嚼した後、ソレは酷く愉しげにそう口にした。何かで真っ赤に染まった、その口で。 「人間のナズキは旨い筈なのだが……、にしても頭蓋が交じって喰えた物ではない。はて――」  白。全身が白。白い髪。白い肌。狂おしい程の白。空恐ろしい程の白。網膜から侵入して、眼を、脳を、身体全てを蹂躙する、その白。 「いいや、不精だったか。気を利かせたつもりで首ごといったのが拙かった。ああ、やはり次はちゃんと切り開いてから……」  それが何を言っているのかは分からない。ただ、ずっと目について離れないのは、もう僕を導いてくれない、僕に何の声も掛けてくれない、胴と四肢だけになったオカシなナニか―― 「君もそう思うだろう? ――ヤナギ、コウイチロウ」  白の顔は怒りに歪み、その姿は最早、化け物にしか見えなかった。  どこかで上がる悲鳴に耳を塞ぎながら、面も振らず掛けだした。どこへ行けばいいかなんて分からない。だって僕にはもう見えない。道もなくて導もなくて、ただあの化け物から離れたくて、走り続けた。  振り向けばまたあの光景が広がるような気がして、目を閉じればまたあの悪夢を見てしまう気がして……自分の脚だというのに、決して止めることが出来ない。それ以前に、止めようとすら思わなかった。  そうだ、ただ怖かったんだ。  直視したくなかった。掛け替えのない礎を失ったという現実を。それ以上に、あの白い化け物を。  僕はもう生きられない。僕はもう走れない。礎を失った僕はもう、あの場所へ辿り着くことが出来ない。  ……それでも、僕はまだ生きている。僕はこうして走っている。どこかへ辿り着こうと、必死でその場所を探している。  なんてこと。ああ、なんてことだ。  僕を支えていた唯一の存在は消え失せた。得体の知れない何かに奪われたのだ。にもかかわらず僕は何もしない。死ぬことすら出来ない。死ぬ必要がないからではない。それは死ぬことが、この生を失うことが、ただひたすらに怖いから。  ……結局僕も、間違っていた。  自分にとって一番大切なものは何か。その問に答え倦ねた経験は、記憶にある限り一度もなかった。  ……一番大切だった筈なのに。  助けられなかったのは誰だ。全てを捨てて逃げ出したのは誰だ。一番大事なのは自分の命。綺麗事ばかり言ったって、一番可愛いのは自分じゃないか。  ……ああ、こんなにも僕は汚かったんだ。  ――ふと、右手に握っている何かを感じ取った。見るからに端の鋭い、ガラス片のような物。それはまるで自分の身体の一部のようで、自分の思ったとおりに形を変えた。しかし、長く気付いていなかったそれの正体を、僕は終ぞ知ることはなかった。  思い切り、その右手の何かで、自分の首を、引き裂いてしまおうとして……けれど喉元に突き立てたそれは、そのまま動かなくなった。  それ以上はいけない。だって、だってそれ以上は、僕が死んでしまうから――  卑しい思考に泣いてしまいたくなった。もう生きてはいけないのに、死ぬことも出来ないなんて。  途方に暮れて手を戻した、その時、  ――見つけてしまった。  素性は知らない。声も顔も何も知らない。姿形すら曖昧で、何の関わりもない筈の誰か。  それは女だ。それには首がちゃんと着いている。それは歴とした人間であって、当たり前の姿であって、 「……駄目だ」  歪む視界。重なる悪夢の光景。 「……やめて」  首のない最愛の骸。首のある目の前の誰か。 「……いけ、ない」  なぜ、あれには首があるのだろう。 「……や、だ」  あの人にはもうないのに、あれには、何故。 「嫌だ……!」  振り上がる右腕。劈く悲鳴と静かなる怒号。 「……ぁ、あ、あぁ、でも」  そんなの、決して許さない。 『消 え ろ』  そうしてやっと、夢と現は合致する。                                         *  変化は突然始まった。  黒塗りの壁に掛かる赤い靄が濃度を増し、霧深い森の中さながらの光景が現れる。殺意すら孕んだ冷気は極寒、主以外の何もかもを拒絶せんと荒れ狂う。  室内とは信じがたい暴風と、それに乗って襲い来る暴音。それは悲鳴なのか、或いは怒声なのか。しかし疑問は疑問のまま。感情が溢れすぎて獣の咆吼と化している。救いようのない断末魔。だがそれでも、俺なら……。 「……駄目だ」  どうしようもないのはお互い様か。  身体が動かない。筋肉の弛緩、情報伝達機能の不具合……いや違う。まるで“身体を動かす”という手段そのものを忘れてしまったような感覚。前にも感じた、正体不明の金縛り。  寄りにも寄ってこんな時に。他の誰にも出来ないのに。俺じゃなきゃ出来ないのに。俺じゃなきゃ、アイツを終わらせてやれないのに――  ――ゴトリ。  斬り付けてくるような鋭い叫びの合間に、何だか鈍い、硬質の音が聞こえた。壺か何かの調度品でも床に落ちたのか――と思ってから、そもそもそんな物はこの部屋に無かったことを思い出す。一体何が、と音のした方へ視線を飛ばして、 「ひ――」  喉が引きつって、情けない悲鳴が漏れる。  ――なんだ、あれは。  いいや、あれが何かなんて分かりきってる。だって毎日、当たり前のように見てるんだから。それよりも、何故あんなものが此処にあるのかが問題なのだ。  床を這う新たな黒。だらんと覗いた紫。剥き出しにされた白。そして深い悲しみの色に塗り潰されたそれは、紛れもなく人間の―― 「っ――」  逆流する酸味を、左手で口を覆いつつ抑え込む。あれが、本当に自分と同じ人間なのか。あんな姿になっても、まだ人間と呼べるのか。  再びごとりと音がする。そしてもう一度。もう一度。もう一度。もう一度――。部屋のあちこちで同じ音がして、それはまるで雨のように絶え間なく降り続け、そして――  積もり積もった“首”の山。恨ましげにこちらを睨む数百対の目玉。生気の抜けた表情なのに、今にも動き出しそうな畏怖の念。  確信する。死屍累々、此処は地獄という世界そのものである。 「あ、う、ぁ……」  身体の怯えが、心にも伝播したかのよう。一刻も早く此処から立ち去りたい――そう思うのに、それでも逃げ出せない。だってそうしなきゃいけないから。出来るのは俺だけなんだから。此処にいたくないのに、此処から逃げてはいけなくて、此処を終わらせないといけないのに、終わらせることが出来なくて、それで――  ――見つけてしまった。  それはつい先刻の違和感。隣を歩く俺を見るその目。突然立ち止まった俺を、不思議そうに眺めていたその目。俺が守ったはずの見知った女。それは積み上がりすぎた山の上から転がり落ち、そして俺の足下までやってきて――  思わず、自らの目を潰してしまいたくなった。 「おい」  脳裏で、夥(おびただ)しい赤が点滅する。物凄い勢いで血液が全身に行き渡り、萎縮した筋肉は病的なまでに腫れあがる。より鋭くなる叫び、明度を増す暗黒。それは即ち、再び、より深く”繋がった”証。  辛うじて残った自我が悲鳴を上げる。それでも衝動は止まらない。一瞬で距離を詰め、血眼に切っ先を突き立てる。  顔のないソレの姿に、いつか見た肉親の表情が重なった時、拙い自我は遂に潰えた。                                         *Y.M*  肉体、精神、魂。それぞれが人間を構成する為に必須となる絶対要素である。この中の何れが欠けようと、その人間にこの世界での活動は許容されない。何故ならば、それこそが人間に与えられた権利であり枷であり、そして命だからである。  だが、それだけでは決してない。今一つ、掛け替えのない要素が存在する。  かつてそれは過ちとされた。それが在るが故に、人間は真理に辿り着けないのだと。しかしそれは一つの結論。それがなければ存在出来ない我々人間にとって、それ故に至ることの出来ない境地ならば、詰まりはそれが限界であるという真理に他ならない。  それは命にも物にも当て嵌まり、そしてあらゆる存在をも束縛する究極の要素。それがなければ存在を認められず、それがあるからこそこの偽りの現実に身を留め続けることが出来る。  先人、これを“真名(マナ)”と称す。  物事を定義づける第一要素。言葉という手段を備えた人間が、初めて生み出した至高の宝。  古の時代には、真名を知ることでその存在の全てを支配出来るとすら考えられていた。それだけの影響力を持つ要素であり、信仰が風化した現代も尚、その力は世界へと干渉し続ける。  そして今。真名を狩る死神を前にする。  擬獣の結界は悪夢そのものだ。空想の願望を限定的に現界させる自然現象。苦悶の投影、人間の負の感情を忠実に視覚化した此処は、常人には耐え難い奈落の最奥。  その地獄を、死神が駆け抜ける。  疾走は芸術。天空を舞う鳳(おおとり)のように。重力による縛りなど微塵も感じさせない程軽やかに、鮮やかに。  右手には凶器。何一つ斬り裂けぬ漆黒の鈍器。しかし今宵、死神に握られたそれは、あらゆる存在を斬り殺す最凶の刃と化す。  黒きその身に関わらず、他の如何なる闇にも溶けない絶対的な存在感は、全くの異質であるという何よりの証。背丈程に長大な柄、その先端に突き刺さった三日月の刀身。それはまさしく、死神の得物に相応しい界装具だった。  標的を見据える冷えた眼差しは死の宣告。如何に機敏な半獣であろうと、突き付けられた運命から逃れる術などありはしない。  その業(ワザ)は存在の略奪。真理に近いからこそ授けられなかった“真名”に執着し、与えられたモノ達に嫉妬する。それ故にその存在を否定し、死に物狂いで求め、搾取し続ける罪業はしかし、決して自身の欲望を満たすことはない。幾千の真名を奪ったところで、自身の物とすることは叶わないのだから。  故に銘は“名無し”。永遠に満たされない欲望の権化。皮肉に満ちたその呼び名は呪詛の暗示。永久に名を得られぬ運命を定める非業の呪縛だ。  だがそれは矛盾である。名無しと言えど、そう呼ばれたからにはそれが真名なのだから。  それに気付かない。気付こうとしない。そうして他者から奪い続けるその様は、愚昧以外の何ものでもない。  ――それでも。それこそが“名無しの黒鎌”の所以だった。  斬、という音無き一閃によって、悪夢は此処に完結する。  全てはまやかし。因を失った幻影は、いとも容易く空想へと還り行く。  空間は元の黒い部屋に戻る。何事もなかったかのように悉く。あるべき姿へ須く。  ああ、それにしても――と、彼女は嘆く。  浄化とは所詮一つの結果。  これは改善でなく改悪。  この情景は彼女の思惑通りであったと同時に、起こり得る最悪の結末でもあったのだった。