前
玄関に入ると、味噌と、魚の焼けた匂いがした。
この自宅でそんな匂いを嗅いだのは、一体いつ以来だったろうか。
自分で食料を買ってこられるようになってからは、朝早く夜遅い父親が食事の準備をしてくれることはなくなった。というより、俺の方から申し出たのだ、それはもう自分でできると。過労気味だった父親を少しでも楽にしてやりたいという、子どもなりの思いもあったにはあったが。結局のところ、朝の出社時間が早まり、夜の退社時間が遅くなっただけだった。
明かりのついたリビングを覗くと、食事の乗ったお盆を運んでいた父親と目が合った。おかえりと、父親は微笑んだが、俺は何も返せなかった。そんなやり取りは随分と久しぶりで、何と言えばいいのか、とっさに出てこなかったのだ。
「ちょうど夕食ができたところだ。さあ、座りなさい」
そうやって促す父親の、顔色は相変わらずだった。元気そうに振舞ってはいるが、疲労が顔面にこびりついていた。
俺は、どうしようもなく目を逸らした。机の上には、言葉通り料理が揃っている。
明るくて、暖かい食卓。湯気の立つ白米、色彩豊かなサラダに、脂で光る魚の切り身、みそ汁にはジャガイモと玉ねぎ。最後にこんな光景を見たいつのことだったろう。何年前の話なのだろう。
俺は、そう。父親がこんな手料理を作ることができることさえ、忘れていたのだから。
空腹は感じなかったが、自室に鞄を置きに行くのも億劫になり、そのまま座布団の上に腰を下ろした。
ふと父親の方に視線が戻ると、そこには驚いたように目を開いた顔があった。
「大きくなったな、
「――――」
俺の、名前。
そんな風に呼ばれるのは、本当に久しぶりだった。
親しげに名前を読んでくれる相手なんか、他にいないから。――いや、それ以外にも何か理由があったような気もしたが、今は思い出せない。
「背はいくつになった」
「……百七十」
そうか、と父親は俯いた。笑っているようだったが、それは嬉しそうにも、寂しそうにも見えた。息子に背丈を追い抜かれるのは、どういう気持ちなのか。俺には、うまく想像することができなかった。
「本当に、立派に育ってくれた。そしてそんなことに、
父親は深々と頭を下げた。頭髪はくしゃくしゃの白髪交じりで、実年齢より十歳は老けて見えるかもしれない。
「そんなお前の姿さえ、ちゃんと見ていられたのなら。私はまだ、まだ、いくらだって頑張っていけたのに」
――泣いていた。
目が充血して、その奥が濡れている。
初めて見る顔だった。親とは、強くて、絶対的で、揺るぎないものだという先入観が、驚くほどに心身をかき乱す。
無論、そんな先入観は誤りだ。親となった者は、強くなくてはならず、絶対的でなければならず、決して揺らいではいけないという、強迫観念に苛まれるただの人間なのだから。
だとしても。
俺の中の子どもは、そんな虚像を、いつまでも見続けていたかったのだろう。
「やめてくれ」
だからこそ。
それに気付くことができる今だからこそ。
俺はそれを、受け入れるわけにはいかないのだ。
「結局アンタは死んだんだろ。俺を理由にして、俺を言い訳にして、そのくせ最後は俺のことなんか何も考えずに、身勝手に踏み出したんだろ」
春、入学式を間近に控えたころ、父親は突然行方不明になった。
ろくに家にも帰ってこない父だったから。職場から電話がかかってくるまで、俺はその事態に気付くことさえできなかった。
「なんでだよ。なんでそこまで自分を追い詰めた。仕事が忙しかったって? 自分の身体より大事な仕事なんかあるかよ。子どものため? 顧客のため? 上司恩師のため? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。アンタのことを一番大事にできるのはアンタしかいないだろうが。そんな、アンタのことなんかなんにも心配せずに、無理難題押し付けてくるようなクソどものためなんかに、なんで――なんで、アンタが死ななくちゃならなかったんだよ!」
思わず、問い質すような語調になった。途中でそう感じても、もう止めることはできなかった。
「だが、どうしても。無理をしてでも、そうやって稼ぎを上げるしかなかった」
「は。それでどうなった? 地獄の沙汰でも解決できたのかよ。死んだら意味ねぇだろうが。何にもならねぇだろうが。分かんねぇよ、ぜんっぜん分かんねぇ。そこまで悪い財政状況じゃなかっただろ、うちは。贅沢言わなきゃ、どうとでも生きていくことはできたはずだろ」
腹立たしい。身体の芯が熱を持ち、燃えるように滾っていく。
理由など知れている。なぜこんなにも苛々するのか。そんなの、俺にとっては当たり前の話なんだから。
だから、
「少しでも、多く。お前のために、貯えておきたかったんだ」
だから、今更、そんなことを言われても。
「知らねぇ」
俺にはただ、抱いた憤りをぶちまけるより他になかった。
「知らねぇ知らねぇ知らねぇ!」
拳が痛いほどに、何度も床を殴りつける。
「責務だと思った。母親のいない分まで、お前の人生に尽くしたかった。お前がいつか分岐路に立った時、片親だからとか、貧乏だからとかで、本当に歩みたい道を諦めずに済むようにしてやりたかった」
それは。
その告白は。
「今更――」
父親面をするんじゃない。
死んだ人間が。もう何もできない分際で。
「大きなお世話なんだよ」
母親がいなかったから? 満足に育ててやれないから? だから
「勝手なこと抜かしてんじゃねぇよ」
そのために。じゃあそのために、アンタは死んだのか。
母親だけでなく、父親まで、俺に――殺させるつもりなのか。
「俺は、俺だ」
俺のことは俺が決める。
誰に何と言われようと、俺が。
「たとえ俺の人生がどん底だろうと、それを何とかするのは俺の役割なんだ。どの分岐路で、どんな選択をするかも、全部俺が、俺自身の手で選び取る」
そうでなきゃ――自分の不幸を誰かのせいにしてたら、本当にもう、自分では何もできないじゃないか。思い通りにできない誰かが自分を救ってくれるのを、指を咥えて待っているより他になくなるじゃないか。
自分ではどうしようもできない不遇なんて認めない。それがどれだけ遠回りでも、死にたくなるほど辛い道のりでも。俺の責任を俺自身が背負うからこそ、俺が俺を生きる価値が生まれるんだ。
俺の道は、誰かに選ばせてもらうものなんかじゃ断じてない。
俺が決めて、その結果の幸も不幸も、背負うのは俺以外の誰でもない。
だから、それは。それだけは。
「それは誰にも譲らない。アンタに――実の父親にだって、絶対に、渡してなんかやらねぇよ!」
部屋が。世界が、暗くなる。
食卓に並ぶ料理も、その気配も。痕跡一つ残さず、消えてなくなった。
ただ、一人で何度も見た、何もない夜の家で、向き合う。
「だから」
独りよがりに過ぎない。或いは、やせ我慢か。
たとえ一人でも生きていける。なんていう自我を貫き通せるほどの強さなど、俺にはないのだろう。
でもそうせざるを得なかったから――いや、違う。
確かにそういう状況ではあったが、しかし、差し伸べられた手はあったんだ。
それを拒んだのはなぜだったのか。
自分は一人でなど生きていけないと、それを誰よりも知っていたくせに。誰かに頼ることをせずに、自分から人の輪から外れて、ただ憧れているだけに甘んじていた。理想を掴み取ることより、理想を綺麗な理想のまま置物にしておくことを選んだ、その理由は。
「だから……アンタにだって」
後ろめたさだ。
俺は強がり続けなくちゃならなかった。
誰の目がなくとも。
その姿を一番見せたかった相手が、俺を見ていなかったとしても。
目の前から、いなくなってしまったとしても。
俺は、一人で生きていける俺であることに拘り続けた。
自分のことは自分で決められる自分であろうと固執した。
ああ、だから。そんなだから。
矛盾してしまった。いなくなった――死んだ誰かのために何かをしてやりたい。かつて受けた恩がどうしようもないほど大きすぎて、結局返しきることができなかったから、せめて。せめて報いてやりたいという、食い違いを起こした本心からの願い。
死んだ誰かは何もしてくれないし、何もしてやれないという俺の思想を、指針を、信念を、致命的なまでに歪めてしまう傷。それを俺は、やっとのことで自覚する。
手を伸ばしたとき、あんなにも痛かった場所を、初めて理解した。
「父さんにだって」
伝えたかったことを、やっと伝えられる。
俺は俺で生きていけるから。
俺もようやく、自分から手を伸ばす大事さを知ったんだ。
まだ心配かも知れないけど、でも絶対に、なんとかするから。
だから。頼むから。
「自分の人生を、生きて欲しかった」
そんな辛いだけの、苦しいだけの人生を。どうか手放して欲しい。
俺は俺で。
父さんは父さんだろう。
お願いだから。
俺じゃなくて、自分自身の幸せのために。
生きて欲しかった。
生きていて、欲しかった。
「…………」
長い、長い長い沈黙が過ぎた。
父さんは眠るように――死んだように目を閉じていた。
伝わったのか。
伝えることができたのか。
そこに意味はあったのか。
分からなかったけれど、ただ。
父さんの口が、動く。
「大きくなったな、ミズキ」
さっきと同じ言葉を繰り返して。
父さんの顔は、その姿は、少しずつ薄れていって。
「どうか許して欲しい、ミズキ」
繰り返す。同じ言葉を繰り返す。
やはり意味はなかったのか。
何も伝えられはしなかったのか。
死んだ人間には、何一つしてやれることはないのか。
それとも――ああ、思い出した。
心臓を、貫かれたんだ。
だとすれば、そうだ。
俺自身もまた、死んでしまっているのなら。
何もできないのは、当たり前のことだったんだ。
「これは私の、私自身の、最期のわがままだから」
瞼を閉じて、このまま暗闇に流されてしまいたくなる、そんな衝動を跳ねのけて。
「最後に、本当に最後に。
鼓動の音が、響き渡った。
中ー1
寒さと全身の不快感で、泥沼のような眠りから覚める。
固く傾いた寝床は安眠どころではなく、濡れた衣服は重くへばりついて気持ち悪い。雨音は急かすように打ち鳴らされ、意識は急速に浮上していった。
屋根もない場所で眠っていたようだった。絶えない悪寒に耐えながらなんとか首を起こして、周囲の様子をうかがった。
その場所には見覚えがあった。何度か見たことがあったのだ。そう、界装具で家に帰るとき、必ず終着点となっていた場所――屋根のない場所どころか、自宅の屋根の上だ。
隣にはマツイさんの住むアパートが経っており、ちょうど同じ高さの位置に、誰かの部屋の窓がある。まだ夜明け前だから、締め切られたカーテンが開く気配はないが。
連鎖的に、記憶が明確になっていく。
朏 千里馬に襲われ。
心臓を貫かれ。
そして――
それから、何があった?
どうして、こんな場所にいる?
ふと気になって、俺が刺された場所を探した。本来俺が倒れているべき場所で、――或いは本当に、俺の身体がそこに倒れていて、今ここで見下ろしている俺は幽霊や魂のような何かであるんじゃないか、という発想もあったが。
そこには当然、俺はいなかった。
ただ。刀を持った男――朏 千里馬が、こちらに背を向けたまま、ゆっくりと周囲を見渡していた。
思わず、慌てて身体を引っ込める。脚がバタついて若干音を立ててしまったが、雨音が遮ってくれたらしく、こちらに気付かれる様子はない。
よく、分からない。朏のあの挙動はまるで、俺を探しているようにも見える。俺は、誰かにここへ運ばれたのではないのか? まさか、胸を刺された俺が、一瞬でここに移動したとでもいうのか?
「――あれ」
そういえばと、胸のあたりに手で触れる。
確かに衣服には、貫かれたような穴が開いているのに。
探った手には、べっとりと血が付いているのに。
身体には、傷一つ付いていなかった。
心臓の鼓動を、感じる。
『あの子に、感謝した方がいい』
唐突に、そんな声が聞こえた、気がした。
自分の思考とは明らかに違う、別の何者かの声。
『これでもう二度目だから。君の怪我を癒して、彼女の思念は今度こそ潰えてしまった。ただ、伝言だけ。"お兄ちゃん、ありがとう"と』
幻聴にしては、あまりにはっきりと聞こえる。妄想にしては、あまりに言っていることが突飛すぎる。雨音に遮られることもなく、どこからともなく、その声は聞こえてくる。
『彼女はきっと、君を照らしたかったんだ。"アカリ"という名を与えられた心優しい彼女は、きっと見ていられなかったんだろう、君が傷付いているところを』
困惑する俺のことなどお構いなしに、その声は続いていく。耳を塞いでも聞こえるし、頭を押さえても止まらなかった。
「誰、だ」
覚えのある声ではあった、と思う。けれど、それが誰の声なのかは分からない。
ただ。
ただ――『アカリ』という名前は、確か。
『私は、頼まれただけだ。君を助けて欲しいと、他でもない君のお父さんに。だから君をここまで
父さんが。
死んだはずの、人間が。
『私からも、ありがとう。君にはそんなつもりなんてなかったかも知れないけど、私たちはみんな、君に感謝している。本当に怖かった、本当に苦しかった――悪夢から、目を覚まさせてくれたから』
頑張って。
負けないで。
生きて。
次第に遠退いていく声の主は、そんな言葉をかけ続けていった。
意味が分からない。状況が全く飲み込めない。
だけど、どうしてか。
目じりが、熱くなる。
生きて欲しいと。他人にそう望まれることが、ただ単純に嬉しかった。
死んだら何もしてくれない。そんな諦観を裏切ってくれたことが、なぜだか今は嬉しかった。
こんな。
こんな俺でも、まだ。
そんな言葉を、かけてもらえるのか。
『これは夢です、先輩』
心臓が、痛んだ。
先ほどのものとは違う、別の誰かの声――それは。
その声を覚えている。
その声だけは、忘れない。
ずっとずっと覚えていると、そう誓ったから。
『きっと今、僕はやっと、あのときの先輩の気持ちを分かることができた気がします』
周囲に、その姿はなかった。それでも確かに、そこにいる。どこかに消えてしまった、もう取り戻すことはできないと思っていたそいつは、そう。
こんなところに、いたんだ。
『それでも、ごめんなさい。僕には、先輩と同じことなんてできない。先輩を止めようなんて気にはならない。だって、生きていて欲しいから。先輩には、もっとずっと、生きていて欲しいから。それを邪魔するなら。先輩を殺そうとする誰かがいるなら。僕は先輩の力になる。先輩が拒んだって、先輩を助ける』
もう、喧嘩はできないけれど。
『起きてください、先輩。先輩が死んでしまうなんて、そんなの』
きっと、あのぎこちない笑顔で。
『悪い夢でしか、ないんですから』
だから、生きてと。
希望は、繋がる。
名前が、繋げる。
名前も。言葉も。人と人とを繋げるために生み出されたロジックだ。
名無しの黒鎌が名前を欲するのは、或いはそう、人と人との繋がりを求めるためなのか。
求める、求める、果てもなく。地図もなく、目的地もなく、終着点さえその視界に映さず、ただひたすらに駆け抜ける。その飢えを満たすため、しかし何をもって満たされたかも定めず、永久に暴走を続ける筒状の伽藍洞。幾ら繋がりを得ても、大切なものはすべてすり抜けてしまう――そういう形に作られた。真黒の刀身は、俺の心に無数に空いた穴、そのものだった。
だとしても関係ない。すり抜けてしまっても、掴み取ることができなくても、得られるものはあるのだと、今の俺には理解できるから。縁とは、見ることも触ることもできず、しかし確かにそこにあるものなのだから。
立ち上がる。敵を見下ろし、そして視線を交わす。
「朏 千里馬」
繋がる。より深く、より鮮明に、かつてないほどに。
右手には凶器、人を斬り殺す酷薄の刃。そこに正義はなく、そこに道理もなく、ただ求めるままに手を伸ばし続ける愚者の求道。
「これで、最後だ」
中ー2
力量差に変化はない。
あの朏 千里馬を前に、さっきよりは時間も稼げるだろう。だけど結局、俺の方が弱いことに変わりないし、逃げることだってできやしない。力も下、速さも下、技術なんか下の下。これっぽっちの勝ち目もない。
でも、 俺は死ななかった。
俺は生きることを望まれたし、俺自身生きたいと願った。
だったら、生きてやる。
強がりじゃない。負い目もなければ引け目もない。
絶対に生きるという覚悟がある。
何を背負っても、どんな障害も乗り越えるという、覚悟が。
「――分からねぇ」
朏が、ぼやくようなことを言った。
雨音がうるさくて、距離もさっきより離れているから。お互い、怒鳴るように話さなくては、相手に言葉が届かない。
「ずっと考えてた。でもやっぱり分からない。なあ、教えてくれ。俺とお前は、一体何が違ったんだ」
そんなの、全部だろう。内を見たか外を見たか、思考したか行動したか、好いたか嫌ったかの話だ。同じところを探す方が難しい、それくらい、俺たちは違っていたはずだ。
「そうじゃなくて。なんだろうな、いや、最後のヤツか。なあ、なんでお前は嫌ったんだ、あの人のことを。そしてどうして、そんなお前の方が選ばれて、あの人の側にいられたんだ」
ということは、つまり。お前は好いた側だったってことか。つまり学校の、他の連中のような。
「一緒にして欲しくはないが……。だけどお前はそうやって、あの人を好いている人間を見下してきたんだ。騙されている哀れな奴らだと切り捨てて、思考停止した」
思考停止――
それは一つのキーワードだった。ミキが何度も繰り返し咎めてきて、俺自身自覚することもあった、悪癖。またそれをしていると指摘され、何も知らないくせにと耳を塞いでしまうには、これまでの俺はあまりに考えなしだった。
「確かに間違ってはいない。ほとんどの奴らは、あの人の素性なんかろくに知らないし、知った気でいるだけだ。それもあの人の狙い通りで、だから哀れだってのも分からなくもない。だけどお前は、そこで全部シャットアウトした。あの人の――三鬼 弥生の一面から目を逸らして、理解することを放棄した」
ミキを、理解する?
それは、だって。あんなに近くにいたんだから。意識して理解しようとする必要さえない、勝手に分かってしまうようなもので――
「それが思考停止だって言ってんだよ」
明らかな怒りを向けられ、心臓が跳ねた。それはきっと、貫かれた記憶が、その感触が、今でも生々しく蘇ってくる。
「分かんねぇ」
膨れ上がる怒気は、違和感しかなかった。アイツはなぜ、こんな話をしているのか。朏 千里馬は、自分に取って代わった俺に復讐しにきた――そうじゃないのか。
「なんでだよ、なんで――」
分からない。朏がここにいる理由を、俺は何も分からないでいたから、
「なんであの人のこと、もっと理解してやれなかったんだ!」
その叫びに、雨音が聞こえなくなった。
「あんなに近くにいただろうが! あんなにたくさん話してただろうが! なのにお前、どうして、あの人を理解しようとしなかった! あの人が苦しんでるのを、悲しんでいるのを、痛がっているのを、なんで、なんで分かってやれなかったんだ!」
ミキが。
三鬼 弥生が。
苦しんで。
悲しんで。
痛がっていた。
「そんなわけないって思っただろ。あの超人が、そんなことするわけねぇって考えただろ。――だから! それが! 思考停止なんだろうが!」
あまりの剣幕に、殴りつけられているようだった。なんとなく――あの刀で斬られるよりも、痛いような気がした。
「お前は、あの人を助けられる場所にいたのに! あの人を、支えてやれる立場にあったのに! どうして踏み込まなかった? どうして手を伸ばさなかった! 一番近くにいる人間の顔さえ見ないでおいて、何を前進してるつもりになっていやがる!」
ふざけるな、とか。馬鹿げてる、とか。
散々に投げつけられる罵詈雑言が、頭の中に入ってこない。
だって、それどころじゃない。
ミキの顔を思い出す。
ミキの姿を思い出す。
なんだってお見通しで。いつだって自信に満ち溢れて。誰もが苦労して通る道を、楽し気におしゃべりなんかしながら楽々踏破して。自分の邪魔をする人間は、何のためらいもなく排除する、そんなミキは、
――済まない、チリ君。
――こんなことになるなんて、私は――
――待ってくれ、チリ君。話を――
あんな顔を、する奴だっただろうか。
分からない。
分からない。
どっちが本当のミキなのか。
ああ、確かにこれは――不甲斐ない。
あれだけ会って。
あれだけ話して。
どっちが本当かも分からないで。
三鬼 弥生とは『こういう』人間なんだと、勝手に決めつけていた。
それは良くないことだと、とっくに気付いていたのに。ちゃんと理解したつもりでいたのに。それでさえ、まだ足りていなかった。
諦めることに慣れた思考は、捨てたつもりでもまだ、心にへばりついていたらしい。
「今のお前は、あの人をただ苦しませるだけの存在だ。お前がいたら、あの人はまたあの顔をしちまう――だから! もう、お前なんかに任せておかない!
殺すしかないんだよ、と。
朏 千里馬は刀を構える。
紛れもない本気で。人を殺す覚悟をしている。
そこまで。それほどまで、俺は間違っていたのか。
俺は死ぬべきだと、アイツは言うのか。
――その通り、なのかも知れない。
そんなことない、俺は生きているべき人間なんだ――なんていう主張ができるほど、俺は自信過剰じゃない。
俺が死ぬことで、喜ぶ人がいるかも知れない。
俺が死ぬことで、悲しまなくて済む人がいるのかも知れない。
でも――
でも、そうなんだとしても。
「そうかよ」
生きていることが間違いだと言われ、それを易々受け入れるような、潔い性格でもない。
俺はもう、そうやって諦めることをしない。
朏の言うことが、本当なのか思い違いなのか。或いはミキの本心がどうなのかとか。そういうのは多分、一人で悩んでたって何にもならないんだ。
「それじゃあ」
俺がやるべきことは、たった一つ。
「確かめに、行かなくちゃな」
手を伸ばすことを臆さない。そう決めた俺だから。
そうだ、順番を間違えていた。それは否定しようがない。
まず手を伸ばすべき相手が、もっと近くにいたことを、忘れていた。
だから、ミキのところに行かないと。
アイツの胸ぐら引っ掴んで、わめいて、本当のところを聞かせてもらわないと。
そうしなきゃ俺は、きっとまた手を伸ばすことを恐れてしまうから。
俺が俺であるために。
思うように、生きるために。
俺は、ミキに、会いに行かなくちゃ。
屋根から飛び降りる。
朏が走る。
狙うは互いに一撃。
名を狩るか。
首を落とすか。
油断なく。恐怖なく。
目の前の相手だけに、全神経を集中する。
朏。朏 千里馬。
お前は結局、なんだったんだろう。
何を願って、どんな夢をもって、実際どんなことを語る奴だったんだろう。
こんなことが起こらなくて。
俺が、手を伸ばすことをやめなかったら。
お前みたいな奴とも、何か繋がりを得ることができたのだろうか。
友達みたいな何かに、なることができたのだろうか。
分からない。分からないから、俺はこれからも生きていこうと思う。
心臓は腕へ。腕は黒鎌へ。黒鎌は全身へ。
深淵の果てまで繋がり。
刃は過去最高の鋭さでもって振り下ろされる。
幕を引く一撃は、しかし弾き飛ばされた。
黒鎌は回転しながら、朏の背後へ転げ落ちる。
返す刀が、首元に吸い込まれていく。
黒鎌と同じような軌道で。人の首が、人体から切断された。
「『朏 千里馬』」
その顔を、二度と見ることもなく。
手にした名無しの黒鎌は、朏 千里馬を斬り裂いた。
後
身体が動かない。
朏 千里馬を下し、ミキを探しに行こうとした、その矢先。立ったまま、指の先さえ動かなくなってしまった。
精神的なものではない。例えば、朏を斬ったことに対する罪の意識とか、そういったものではない。それは、不思議となかった。カミヤのときのようにブレることもない。慣れたのだろう、と思った。
であれば、またいつかの金縛りかとも考えられたが、それにしては随分と勝手が違う。ここまで明確に、外部の何かに押さえつけられているような感覚では、なかった気がした。
ともすれば迷宮入りになりそうなその自問は、
「素晴らしい戦いだったよ、チリ君」
呆気ないほど簡単に、解決を見ることになった。
水気を帯びた拍手とともに、目の前に現れたのは、二人。
上蚊野 冬笠。そして会ったことのない、黒のスーツ上下に身を包んだ秘書風の女性。冬笠さんは濡れるのも構わず笑っていたが、女性の方は鬱陶しげな顔で、黒い傘をさしていた。
傍らの女性の年齢は二十代後半ほど。ひのえと違って、ビジネススタイルがよく似合う、短髪の美人である。――などと、突然現れた大人二人を前にして、随分と冷静な自分がいることに、内心少しだけ驚いていた。
というか。げんなりしていた。
「まったく、最後の不意打ちは寒気がしたよ。あれは間違いなく、神谷 満の『
ああ、そういうことなのかと、言われてやっと理解した。
名無しの黒鎌。その能力は、擬獣退治専門でもなければ浄化なんて神聖じみたものでもない。
吸収、或いは搾取というような力。擬獣を取り込んだ場合はまだよく分からないが、能力者を取り込んだ場合は、その界装具が使えるようになる。笑い話だ。それが俺の心象が形を持ったものだと言うなら、朏のことをとやかく言えない。
善悪はともかく。それは確かに、強い力だ。――強すぎる能力には、必ず代償が付きまとう。そういう話は、ひとまず、今は置いておくことにする。
「冬笠さん。とりあえず、離してもらっていいですか。俺、行かなきゃならないんで」
色々な問答を省略して、単刀直入に要求する。億劫だった。探りを入れるのも、説明だとか説得だとかも、今はともかく、煩わしいと思った。
俺の言葉に対し、冬笠さんは残念そうな顔を作って、首を振った。
「ああ、何やら吹っ切れたようだね、さっきよりいい顔になっている。なによりだ。しかし――」
意味ありげな含み笑いをしてから、冬笠さんは恭しく一礼した。
記憶の中の、ピエロに扮し、ステージに立った彼の影が、重なる。
「それは私が困る。申し訳ないが、私たちが受けた依頼は、君の死を見届けることだ。ゲストが仕事に失敗した以上、次は私が、君を殺さなくてはならないんだ」
だからどうか、大人しくして欲しい。
そう言った冬笠さんの背後に、巨大な影が浮かび上がった。
その姿は、雄々しい
生臭い空気が立ち込める。獰猛な瞳は完全にこちらを見定め、しかし待てをされたペットさながらに、荒い呼吸を繰り返しながら、べっとりとした涎を垂れ流している。
巨大な獣。ただ大きいという、人はそれだけで恐怖を感じるものだ――と、抱いた感想に、記憶にない既視感を覚えた。
「紹介しよう。我がサーカスきっての狩人、表舞台には決して上がらない真のスターだ。名前は、ああそうだね、ない。そうそう披露することもないからね。言ってしまうならば『名前のない怪物』ではあるか、今はその方が
嘘だろうなと直感した。名前がなかろうが、そう呼ばれた時点で『標的』だ。その名前が、まったくの嘘でない限り――だから、俺の能力をよく知っているらしいあの人の言は、嘘なのだ。
「念のため君の動きを封じてはいるが、その実、その必要はほとんどない。なぜなら彼は、先程君が辛くも倒した朏 千里馬より、遥かに強いのだからね」
自信に満ちた断言。そんなこと言われなくても分かる。強さがどうとかじゃない。冷汗が流れる。こうして対面しただけで、その容貌を見上げただけで、どうしようもないということが分かりきってしまう。
喰らう側と、喰らわれる側。
絶対的な捕食者と、活きのいい餌。
俺は、古い物語の中で、巨大なドラゴンに戦いを挑む勇敢な主人公などでは、断じてないのだから。
「依頼って。誰が」
「建辰くん――三鬼 建辰だ。君も会っただろう。今頃は
三鬼 建辰。ミキが忠告していた相手、ミキの兄。そいつに、俺は会ったことがない――いや、あのときか。やっぱり、双町で会ったあの男は、弟の光曜ではなく兄の建辰で。
それから、どこか知らない町でも、会った記憶がある。その時はなぜか白髪だったが、ご丁寧に学校裏サイトの存在を教えてくれた、あの親切そうな顔をした男。これは――カミヤの記憶か。
「じゃあ、冬笠さん。アンタ最初から、こういうつもりでこの町に来たのか」
「こういうつもりだったよ。もちろん本業は本業できちんとやっている。正味、最近はあちらの方が実入りはいい。私の執念と、団員たちの苦労のたまものといったところだ」
だけど、と冬笠は笑う。
それはまるで、別人のような。おぞましい仮面に描かれた狂笑のような、その表情で、
「彼の依頼はいい。なにせ大手を振って、人を殺せる」
後始末はあちらがやってくれるからね、と。愉快そうに口元を吊り上げ、苦しんでいるかのような笑いを漏らした。
「チリ君は聞いたことがあるかい? 猛獣に食われる人の叫びを。食物連鎖の頂点などと驕り高ぶった人間が、己の矮小さを痛感しながら少しずつ獣にかじり取られていく瞬間を! ああ、覚えているよ、忘れない。私の父はそうやって死んだんだ。ああ、覚えている、覚えているとも! 私はそのとき、肉の千切れる咀嚼音を聞いたとき、恐怖や悲しみよりもずっと刺激的な、かつてない興奮に包まれていた!」
「…………」
なんだかもう、話すことが無意味な気がした。
残念なことだけれど、こういう人間もいる。
手を伸ばした先にいるのが、必ずしも自分といい関係を築ける人間だとは限らない。
ましてそれが、自分に対して積極的に害を及ぼす人間だとしたら――
「……ああ」
まだ会ってはいないけれど。ミキの気持ちがまた、少しだけ分かったような気がした。
そして、自分の手前勝手さも。
「冬笠さん」
蛇足だ、こんなものは。
殺すとか。殺されるとか。そんなのは、やりたい奴らだけでやってればいいんだ。いちいち関係ない人間を巻き込むんじゃない。
「アンタ、俺と
「うん? ああ、したね」
「アンタ、俺に
「それも、まあしたね。それが何か?」
だから、もう終わってる。
俺は確信を持ってそう思えた。
恐らく取り込みは不完全で、そのうえ一人二役の俺だから。きっと、さほど自由に使える力ではないんだろうけど。
充分だ。
俺が、今ここで死ぬことは、ない。
「だったら。そのバカでかいライオンに食わせるのは、俺じゃないだろ。――ほら。その隣の女をさ、喰い殺させろ」
何を馬鹿な、と。冬笠は笑いかけた。死を目前に、気でも狂ったのかと。或いは生き汚い足掻きなのかと。込み上げる嘲笑を隠すこともなく晒す。
そのとき。
どこかで。
ばきばきと、骨の砕ける音がした。
冬笠は、呆気にとられたような顔で、音の出た方向――女性が立っていた傍らに視線を送る。
その先にあったのは、人間の下半身のようなもので。下腹部から上にあるはずの胴体は、見当たらなくて。
代わりに、崩れ落ちる下半身の上の方で。顔を突き出した怪物が、何か肉片や泥水のようなものを絶え間なく零しながら、品もなくむしゃむしゃと、何かを美味そうに食べていた。
或いは、傘の骨組みが砕ける音だったかも知れない。
「――は」
気が抜けて裏返った、冬笠のうわごとのような声が漏れる。
二の句を継ごうとして、身体がぐらつく。女が死に、俺の拘束も解けたらしい。
そのことに気付く余裕さえない冬笠に向けて。再び、
「おい」
静かな凪。
「次は」
穏やかな無感情。
「お前の番だろ、上蚊野 冬笠」
次に起こる出来事を思い描いた冬笠の、半泣きのような顔を最後に、それは消えて失せた。
女と同じように。
冬笠は、自らの界装具に食い殺された。
雨音を遮って、つんざくような悲鳴が、聞こえたような気もしたけれど。
きっと本望だろう。嬉しかっただろう。
好きな音を、最期に間近で聞けたのだから。
「は」
そう思ったら。
「はは――」
笑い出して、止まらなくなった。
「ははははは――!」
絶え間なく顔を出す後悔を打ち消すためか。
少しだけ涙ぐんでいる自分を誤魔化すためか。
もしくは、その程度の感傷しか抱かなかった自分への恐怖を、忘れたかったのか。
笑う。
笑う。
腹をよじって。喉を掻き毟って。身体が引き千切れるほどに。
生まれて初めてだったかも知れない――こんなにも、笑ったことなんて。
ああ、父さん。
ああ、母さん。
生きていくって、こういうことなんだね。
「は――」
笑い転げていた不意に。強烈な風圧と共に、巨大な何かが突っ込んできた。
かと思えば、身体が宙を舞っていた。
重力に引きずられ、間もなくぬかるんだ地面を削り、泥まみれになって、地面に倒れ伏す。
左半身が痺れている。目立った外傷もない。無意識に飛び退いて、衝撃を和らげたか――いや。それだけでもないように思う。今までになく、全身が充実しているような感覚がある。
ともすれば万能感にさえ結びつきかねない、飛躍的な能力向上。朏を取り込んだ結果か。
だとしても。
目の前の獣に、俺は喰われるだろう。
冬笠の界装具――名前のない怪物。飼い主を失ったソレの瞳は、心なしか凶暴さを増していた。制御を失い暴走する機械仕掛け。獰猛さに憑りつかれ、一切の見境も情け容赦もなく、眼下の
揺れ動く鬣が、無数の蛇のように映る。
大人の身体がすっぽりと収まりそうなほど太い四肢からは、踏み潰されればぺしゃんこにされる未来しか連想できない。
勝てるわけがなかった。
逃げられるわけがなかった。
身体能力の差は比べ合う気さえ起きない。もともと弱い人間が、少しくらい強くなった程度で、巨大な肉食獣に叶う道理などない。
そして、名前も知らない。催眠も、どうやら制限が掛かってる風だ。使えない、どうにもならない。
とんだ置き土産だ。
一片の勝ち筋もない。
生き延びる手立てはない。
獅子が吠え、内臓が痺れる。
獅子は爆音と共に駆け出し、その顎を剥き出しに突っ込んでくる。
その口が閉じるまで、コンマ数秒。
無傷なはずの手も足も、動き方を忘れてしまったように、硬直しているから。
つまり、もう、お終い。
抵抗する気力は、流石に起きなかった。
ただ生きたいだけなのに。次から次へと障害が立ちふさがって。
何度乗り越えても、何度だって邪魔が入って。
うんざりだ。
俺が生きることを許さないという、何者かの意志さえ感じられるようで。
終わりにしたかった。
どんなに強くなっても、叩き潰されるしかないっていうなら。
もういい。
ひと思いに終わらせてくれ。
袋小路だったんだと思い知らせてくれ。
俺は、もう。
生きることを、諦めて――
『いいワケないだろ――!』
気が付いたら、跳んでいた。
ほんの少し。身体の端が、獣と肉薄するほどに、紙一重で。
呼吸が弾む。呼吸さえ忘れていたらしい。視界の明度が上がる。
獣は、すぐに追いすがってくることはなかった。一瞬獲物を見失ったようで――空振るとは思っていなかったのだろうか。
いや、それは、俺も同じか。
距離を取る。何が起こったかよく分かっていないが、ぼんやり立っているほど呑気でもいられなかった。
『てめぇ、諦めてんじゃねぇぞ馬鹿野郎が』
叱責する声が聞こえる。
聞き慣れない――が、分かる。なにせついさっきまで、話をしていた相手だから。
「なんで、お前が」
『問答なんて時間の無駄だ。泣き言なんかクソくらえ。いいからちゃんと立て。前を向け。武器を構えろ。分かるだろう、
言われるがままに、界装具を持ち上げる。
そこにあったのは、名無しの黒鎌ではなく。
一振りの刀。
黒い刀身は細い割に重く、黒い柄はずんと手に吸い付くような感触だった。
『刀の振り方を教えてやる。俺の記憶もありったけ持ってけ。そうすれば大分マシになる』
いや、それはとてもありがたいけれど。
『ああ、所詮化け物どもには通用しない剣道だけどな、そこはこれからお前が何とかしていけ』
何とかって。いや、そうじゃなくて
『相手をよく見ろ。あんなの、怪力を振り回してるだけの木偶の坊だろうが。目ぇ瞑ってたってかわしてみせろ』
意味が分からなかった。
混乱して足元までふらついてくる。
なんで。
どうして。
この刀の持ち主が、俺を助けてくれるんだ。
この刀は、ついさっき。俺の心臓さえ、貫いたっていうのに――
『理由、なんてな』
その声に迷いはない。
けれど、どこか自問するような調子も、確かに含んでいて。
『大層なものなんかねぇよ。知らねぇし、誰かに知って欲しいとも思わない。ただ、ただな、気に喰わなかったんだよ。あの野郎、まさか、よりにもよって――この俺が、あんな
それが、何より許せないだけだ。
その怒りを知っている。
その
朏 千里馬は、そうだ、そのために戦っていたのだ。
誰かのためでなく、自分のために。
ただ一度の敗北が、彼の目を曇らせてしまったが。それでも彼は本物だった。いや、本物に立ち向かうだけの己を持っていた。
傲慢は絶対的な自信となり、あらゆる敵を知らぬと断じて斬るだろう。
苦境は元より、誰かの抱いた夢も希望も乗り越え、不遜にも踏破して、望んだ勝利を掴み取る。彼の心は最初から、そういった『強者』のカタチをしていた。
だから彼の、自尊心を守ろうとする在り方は、決して卑しいものなどではない。勝ち残り、勝ち続けることは、生き物として当然の戦略なのだから。そもそも優等な生き方なんてものを、勝手に定めようとすることこそがおこがましい。
これが己だと。いかなる障害もあらゆる他人も及ばず、ただただ自分を貫く強い在り方は、もしかしたら。
俺は、下手をしたら。
憧れてしまったかも知れないよ。
「なあ、朏。一つ聞きたいんだけど」
獣が、再度の攻撃準備を終える。
思いのほか素早い獲物を、今度こそ捉えるために。巨体を屈め、気配を読み取り、必殺の一瞬を見定める。
「お前、さっきさ。どうして――界装具の能力を、使わなかったんだ?」
使っていれば、一瞬で勝負はついた。
今、俺の手にある刀『怒りの
俺の問いに、朏 千里馬は沈黙した。
もう声の聞こえない、父さんやカミヤのように。いなくなってしまったのだと思ったが。
『俺は。俺は、ただ』
拗ねたような、ふてくされたような声で、そいつは。
『他の誰かがいなくちゃ、何もできないような
獣が跳躍する。
――構えは中段。
意味のある距離は、最初から開いていない。
――大事なのは重心、そして足さばき。
回避は不可能、であるならば。
――切っ先を下段へ。その巨体の
自分を貫き通す不遜さで。
刀を振り上げ、両断する。