5  実兄――三鬼 建辰を相手に、ミキが敗北する要素は一切なかった。  いかに敵が策を練り、奇をてらおうとも、地力の差は覆しようもなかった。  そしてミキには、油断も出し惜しみもない。  赤鬼、青鬼、そして黒鬼からなる三鬼(さんき)を駆使するという、過剰ともとれる戦力の投入。全開の赤鬼は建辰の戦闘性能を凌駕する。その後方にて支援する青鬼は、蜘蛛の糸を排除することでその異能を徐々に発揮し始める。糸を侵食しきれない黒鬼は本来の力を出し切れていないが、敵の動きを一瞬止められるというだけでも、戦況は自在に動かせた。  ミキは負けることはないと確信していた。  詰将棋のように、一つ一つ最善手を重ね、敵の反撃を潰し、追撃を重ねていった。  負けるわけがない。それは疑いようがない。どう足掻いても動かせない。  だが、どうしても。  終わりが、遠い。  今もまた、赤鬼が渾身の一撃を見舞ったにも関わらず、白い鬼人はなもお立ち上がる。  そうして、幾度となく確信した『最後の攻撃』を、敵は悉く凌いできたのだ。 「兄さん――」  その要因は三つある。  一つ、建辰が握る一振りの刀。  見間違えはしない。それは宝刀『鬼切丸』、その真打。生前の三嘉神 朔夜を討ち取ったと言われる概念武装は、鬼という属性そのものを斬り裂く。赤鬼の強靭な肉体をも、その刃の前では古木に等しい。  影打のひと振りは三鬼本家にて封印されているが、真打は八剣家が所持していたはず。――この策謀にして詰めの甘さ、八剣の老獪が裏にいると見て間違いないと、ミキは数名の顔を思い浮かべた。  一方で、赤鬼が恐怖しているのがミキには分かる。建辰の技量では赤鬼に致命傷を与えることはできないが、天敵を前にした今の赤鬼もまた決定打を放てない。三鬼家の操る鬼の中でも類を見ない赤鬼の繊細さは、この敵とっては僥倖といったところか。  二つ、鬼蜘蛛の糸の応用力の高さ。  既に敵の手足は三本飛んでいる。本来ならば、その四肢のうち一角が削がれた時点で勝負はついたはずだった。  だが、どのように引き裂かれても、粉々に打ち砕いても、糸が傷跡をつなぎ留め、補強して戻してしまう。今や剥き出しとなった建辰の両手両足は隙間なく糸に巻き付かれ、伸びた頭髪と共に全身を真白に染め上げていた。その膂力は減衰するどころか、時間を追うごとに強化されているようにさえ見えた。  三つ、これが最大の脅威だった。  三鬼 建辰は、己の勝利はおろか、己の生存さえ、目指してはいない。  この戦いに勝利したところで、最早建辰は普通の生活には戻れない。このままミキが退いたとしても、勝手に自滅するだろう。それは建辰が、この戦いで負った傷とは無関係なところにある。自らを鬼にするなどという出鱈目な業が、彼を生かすはずがないのだ。  だが。己の利を、己の生を顧みないその意志、その覚悟は、確実に彼我の戦力差を埋めていた。  歴戦の勇士であろうとも、腕や脚が切断されたという事実を、完全に消し去ることなどできない。痛覚の問題だけではないのだ。一瞬脳裏をよぎる恐怖、それによる硬直を、怯懦を、生きた人間が抑え込むことなど不可能なのだ。ノアール――フタツギノヒトカタの持つ強さはそこに起因しているが。今の建辰は、それを忠実に再現していると言えた。  傷つくことを厭わず戦う姿を、勇ましいとして言い表す言葉は幾つもある。だが建辰の場合、そのどれにも当てはまらない。  鬼人の如き強さ、鬼気迫る戦陣――あるいはそのような言葉が相応しいのかともミキは思ったが、しかし違う。まったく違う。  彼はただ、死のうとしている。  彼はこの数時間ほどずっと、自殺行為を続けているだけなのだ。これまでの一連の動きは、高速で駆け抜ける鉄の塊に、自ら飛び込んでいく暴挙に等しい。  矛盾している。こんなにも死のうとしている人間を、どうして殺すことができないのか。 「は――」  笑う。  白鬼は、笑う。  声高に。建物の合間を反響するように。  赤鬼の鉄拳で脇腹を抉られながら、それでも凶刃を振りかざし、ミキへと迫る。  或いは、その自殺行の道連れにでもするつもりなのか。  周囲を覆っていた糸の半数が千切れ、青鬼の千里眼が見え始めてもなお、糸に覆われた彼の思考を知ることはできない。  ただ、ミキには分かる。  青鬼の眼は、すでにその情景を映している。  そう、つまり。  三鬼 建辰の思惑は、すでに成功している。 「もう終わりにしよう、兄さん」  ミキが口を開くのと同時に、建辰の口から大量の吐血が見られた。 「貴方の願いは既に叶った。それは貴方にも分かっているだろう」  彼は。  チリ君は。  とっくに、死んでいる。  朏 千里馬によって心臓を貫かれた。あれで死なない人間はいない。  生きているはずがない。  死んでいないはずはないのだ。 「もう、充分だろう」  死んでいる。  死んでいる。  もう、死んでいるのだ。  手の施しようがないところまで、進んでしまったのだ。  ミキの声は、平時と同じ、諭すような調子だが。  ミキの表情は、毒でも飲み干したかのように、酷く陰っている。 「やぁ、まだ分からない、分からないじゃないか」  ひりつくように笑って、建辰はうそぶく。 「弥生、お前のことだ。私を欺く策の一つや二つ、予め打っていたとしても不思議はない。違うかね?」  そんなものはない。  十戒との闘い以降、ミキは療養と現状維持で手一杯だったのだ。アオが動けない以上、来るかどうかも分からない刺客のために割ける時間などどこにもなかった。だからこそ今、こんな状況に陥っているのだ。 「さあ、もう少し遊ぼうじゃないか。待とうじゃあないか。彼が、朏 千里馬が、チリ君の首を提げて戻ってくるのをね」  だから、そうしたら。  お前の、絶望した顔を見せてくれ。  そんな風にささやいて、再び建辰は特攻する。  負けはしない。何があろうと、三鬼 弥生は負けはしない。  だが、目の前の敵を下したところで、それは勝利などとは呼べはしない。  ミキの傍らで、アオの潰れた双眼が未来を捉える。  恐らく建辰には、現状が(・・・)分かって(・・・・)いない(・・・)。  自身の負傷のせいか。もしくは何かしらの制限があったのか。建辰の遠見は不完全だ。  それだけではない。鬼蜘蛛がアオと同質――因果を辿る能力を持っていることは間違いなかったが、しかし。得意とするところは全くの逆なのだろうと、ミキは看破していた。  鬼蜘蛛が本来秀でているのは因果の逆行、即ち過去視なのだろう。糸を手繰り、その原因となった事象を読み取る能力でしかない(・・・・・)。未来視においては、状況証拠から成る推測が多分に含まれているように思える。察するに、欲する未来を掴む最良手を探るための力なのだ。  実質、その点はアオも同じである。だが、無数に存在するあらゆる可能性を掌握し、正確な未来を見出す視野が、鬼蜘蛛のそれを圧倒的に上回っている。手繰り寄せる能力と見通し認識する能力、その意味合いの差は歴然としていた。  だからこそ建辰は、この状況(・・・・)を予測しきれなかった。  今ここに向かってきているのがどちら(・・・)なのか、建辰にはまだ見えていないのだ。 「三鬼 建辰」  ミキは呼ぶ。狂える獄卒と化した兄の名を。  もうどうしようもない。  手遅れなのだろう。  かけられる言葉などない。  でも。  それでも、訴えかけずにはいられない。 「見失ってはいけない。貴方の在り方は――貴方の敬愛した母が貴方に望んだ在り方は、こんなものではなかったはずだ。本当に貴方は、このまま無意味に死ぬつもりなのか」  三鬼家の次期当主として。現当主を含めた多くの者たちは、古き慣習になぞらえ、第三子たるミキに次代を任せようとしていた。  だが、ミキは辞退するつもりだったのだ。それは、自分が生まれるより前に決まっていた通り、長子である建辰がなるべきだと、最初から言い続けていたのだ。席を奪うつもりなどない。最も相応しいのは、父母の愛を正統に受け継いだ長兄の他にいないと、その立場を崩したことは一度もなかった。  なぜならそれこそが、亡き母の遺志だったからだ。三人目(ミキ)を懐妊してなお、建辰を当主とすることを願い続けたのが、建辰とミキの母だったのだから。  しかし。建辰の方こそ、そんなものはどうでも良かったのだ。 「知ったような口を利くなよ、母殺し」  建辰は吠えだしそうな勢いで呻きをあげ、伸びきった白髪の合間から、怒りの形相でミキを睨む。 「かくあれかしと。そう導いてくれるあの人がいたからこそ、私は立っていられたんだ。それを奪ったお前が平然と生きていられる、こんなにもふざけた世界を私は認めない」 「それは――」  あの人がいたからできた。ゆえに、その人がいなくなってしまった以上、もう進むことはできないと。そのような依存は理解できないものではないし、そこに甘んじていることを軟弱だなどと、蔑むつもりもミキにはない。  だが、それでは前に進めない。あんなにも苦しそうなあの場所から、彼は一歩たりとも進まない。それでは、死ぬまで苦しみ続けるしかないではないかと。ミキは心底、その苦悶を哀れんだ。 「お前さえ生まれなければ、すべて上手くいっていたんだ」  真実だろう。そもそもミキがいなければ、彼がここまで堕ちることはなかった。 「今でも聞こえるんだ、声が。痛い、苦しい、悔しい、憎い、早くあの鬼子を殺してくれと、すすり泣く母の声が」  否定はできない。死んだ人間の思考など分からない。最もミキの死を望んでいるのが実母だったとしても、なんら不思議なことはない。 「私は失敗してしまった。お前を殺す千載一遇のチャンスは、お前に敗れたあの日に逃してしまっていた」  今日この日、ミキの計画を潰すと。そんな、たったそれだけのことのために、この男は残った人生の全てを費やした。合理性などない。損得勘定も破綻している。憎悪、ただ憎悪。憎しむことでしか己を生かすことのできなかった死人の贖罪は、ミキでさえ止めることができない。 「殺したい――ああ、殺したい殺したい殺したい! 殺したいほど憎いのに! 持て余す感情が不快で不快で不快で、この内蔵を晒して掻き毟って、ぶちまけてしまいたいほどに! お前を殺してやりたいのに! ああ、それがどうしてもどうしてもどうしても叶わない――」  狂おしい激情が刃を研ぎ澄ませる。それは赤鬼を圧倒するほどの荒々しい咆吼となって、黒く滴る雨粒を吹き飛ばす。 「弥生。お前は言ったな、どうか許して欲しいと。謝罪ならばいくらでもしよう、だから自分を受け入れて欲しいと。その答えは今も変わらない。ただ一つ、生き返らせろ。お前が喰らったあの人を、私の母を、今すぐ、今すぐに生き返らせろ! なんでもできるんだろう。それが、それだけが、お前を生かしておいてやれる最低条件だと! でなければ疾く己が首を裂いて死ねと! 一体何度告げればお前は、私の願いを叶えてくれるのか!」  受け入れられるはずがない。だというのに建辰は、どうして受け入れないのか分からないと、不平等を強いられたような顔で訴えた。  母を――愛する人を失うということは、こんなにも人を狂わせてしまうのか。アオを経由すれば理解できる、一緒に嘆くこともできるだろうが。しかし、一体どうしたら、そんな絶望の袋小路で迷う人々を救えるのか、ミキには見当もつかなかった。ただただ、そんな小路がありふれて存在できてしまうこの世界の不条理を、破壊してやりたいと思うばかりだった。 「気持ち悪い――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 光曜(おとうと)、父も、祖父も、義母(おば)も妹(ひのえ)もみんな、ヤツらはなんだ、なぜだ、なぜ平然としていられる! お前たちの目の前で笑っているその女こそが! 母を殺した張本人だというのに! なぜ、どうして、受け入れることができるのか! なぜ許すことができるというのか! 馬鹿げているふざけるな! 母は、母は――」  赤鬼の左腕が、宙を舞った。  深淵より、無限に湧き上がるマグマのように。その怒号は駆け巡り、烈火の斬撃となって赤鬼を追い詰めていく。 「大事な家族だったじゃないか! 掛け替えのない存在だった筈じゃないか! それを! なぜ! どうして! 忘れて笑うことができるッ!」  冷静に、しかし穏やかではない心で、ミキは兄を見つめる。  ただ一人、悪夢の中で目が覚めたかのように孤立していく建辰の姿は、ミキにとっても決して愉快なものではなかった。家族として、血を分けた実の兄弟として、もっと近しい存在になって欲しい。そう願って願い続けて、結局決裂してしまった縁。ミキには分からない。あのときどうしたら、どう声を掛けたら、このような未来を避けることができたのか。  分からない。  分からない。  何一つ分からない。  なぜなら。そう、なぜならば。  アオが、それは避け得ないと結論づけてしまったから。  抗うことなどできはしないと、確定してしまったから。  鬼蜘蛛のそれとは次元が違う。青鬼の未来視は、実際に未来が見えているのと何も変わらない。ミキはこの十年で、その事実を延々と思い知らされてきたのだ。 「どうにもならない。ねえ弥生、私は無力に過ぎたんだ。私の力ではどうすることもできなかった。仇を討つこともできず、歪み続ける家族を助け出すことさえできなかった。だから、だからせめて――」  道化師の断末魔が、今もミキを苛んでいる。いや、道化師だけではない。ミキが退けてきた多くの者たちが最期に残していった呪いは、永劫ミキの心身を刻み続けている。  そう、或いは、それは。誰か一人を愛することのできない自分への、当然の報いであるのかも知れなかった。 「これ以上お前の――望みどおりになど、させるものかよ、弥生ぃ!」  違う。  違う。  違う。  建辰には何も見えていない。  過去も。未来も。目の前の今でさえも。  そんな状態でなお、建辰は突き進むことをやめようとしない。  やめられないのだ。  彼はとうに死んでいる。  新たに、別の生きる道を見出すなど、そもそもに不可能なことなのだ。  だというのなら、なおのこと―― 「幕を引くのは、私の役目だ」  片腕をもがれたアカに命じる。  断腸の思いで、兄の首を刎ねろと、希う。 「だから」  だから、待って欲しいと。  ミキは、言葉を紡ぐことさえ忘れて懇願した。  建辰の背後に現れた、その人影に向けて。  待ちわびたという、狂喜に震えたような建辰が振り返って。  その表情が、一転して驚愕に染められた気配を、アオが伝えてきた。  人影は、黒い刀を振り下ろし。  三鬼 建辰を、脳天から両断した。