夏夜の -4-


*T・M*

 だから、俺は死にたいと思った。

 そこは暗い闇の中なのか、白い靄に包まれているのか。起きているのか寝ているのか、落ちているのか浮かんでいるのか、暑いのか寒いのか、――有るのか、無いのか。

 自分が今いる場所がどこなのか、どんな場所なのか、その一切が分からないまま。それでも俺は、その場に在り続けた。

 それは数分程度のことのようで、何十年も経ったような気さえした。

 身体の感覚もまるでないのに、ただ自分の意識だけが辛うじてそこにある。或いは、それこそが死ぬということなのかも知れなかったが、だとすれば俺には納得がいかなかった。『俺』はまだ『ここ』に『いる』。確かに存在している――何も存在しないのに、自分というものは残り続けていたから。

 まるで、悪い夢を見続けているようだった。無限に続く時間の中、気が狂いそうなほどに『何もなかった』。

 脳味噌のごく一部だけ、培養液に浸けられ生かされ続けているのなら、こんな風になるのだろうかと。そうして、今の自分がそんな姿であることを想像して、ありもしない身体が震えたような錯覚を覚え――明確に、恐怖した。おぞましいと思った――何より、自分のそんな姿を確認する術の一つさえ、失ってしまったのだという現実が恐ろしかった。

 ふと、視界に色が芽吹いた。いや、視覚なんかないんだから、それもまた錯覚だったとは思うのだが。確かに何かが、微かに残った思考に流れ込んできたのが分かった。

 それは、恐怖だった。

 ただ、俺のものではない。ほかの誰かが胸に抱いた、異なる恐怖だった。

 他人の想い。他人の恐怖。他人の願い。他人の心。知ったことかと、かつての俺ならば考えただろう。そんなものを背負わされるなど、貧乏くじ以外のなんだというのかと。それが俺の役に立たないなら、無視するのも捨て置くのも当然の選択であると。利己的、自己中心的だという自覚はあったが、それでも。そのスタンスが間違いだなんて、こんなことになった今でさえ、思ったことは一度もない。


 ただ一人。

 唯一一人きり、例外と呼べる人はいた。

 友人ではない。

 肉親なんかじゃもっとない。

 ただ、ひとり。

 たとえこの身がどうなろうと、笑っていて欲しいと思えた人がいた。


 だから、ある意味。外から流れてきたその恐怖は、胸の内に巣食った果てのない恐怖よりも、もっとずっと俺を苛んだ。

 できることなら、今すぐあの人の側に戻り、一緒に戦いたかった。

 或いはあのときのように、また拒絶されるかも知れないが。あの人のためと言いながら、結局それは自分のためかも知れないが。

 それでも放っておけなかった。

 あの人が涙を堪えて耐えたその痛みが、その想像を絶する苦しみの日々が、あまりに辛すぎたから。

 俺が必ず救うんだと誓った。

 誰に恥じることのない願い。

 その悲しみから、その恐怖から、あの人を助け出すこと。

 それこそが、俺の生きた証になるのだと。


 だから。

 だからこそ、俺は。


 殺してやると、思った。

 家に帰れば、真っ暗な部屋の連なりが、鬱屈とした気分を更に押し下げてきた。

 それはもう消え失せたものと思っていた。父親が失踪してから――いや、もっとそれ以前から。一人での生活には、飽きるほどに慣れていたから。一人が寂しいと感じたり、暗闇の奥に潜む何モノかの陰に怯えたりする時期は、とうに過ぎ去ったものだから。それと同時に、終わったものだと思っていた。この家に、馴染んできた気になっていた。

 でも、そんなのは錯覚だ。

 俺はなぜ、あの双町を離れたかったのか。それは、ずっと求めていた家族という残影が視界をちらついて、手元の幸せさえ穢してしまうからではなかったか。

 だというのなら。この空っぽでただ広いだけの家など、それ以上の汚点であるはずじゃないか。

 真っ当な家族が暮らすために建てられた家に、たった一人で暮らす自分なんて。俺が最も目を逸らしたい現実だったのではないか。

 賃貸の一戸建て。子どもの頃から知っている高齢の大家さんは、俺相手にも優しかった。高校入学から隣のアパートに住み始めたマツイさんは非常識で鬱陶しかったが、でも思い遣りはあった。父親の同僚だった人も、何かと心配してくれた。

 そうやってなんとか、ここでの生活はギリギリのところで保たれていた。保たれてしまっていた。

 でも本当は、すぐにでも離れるべきだったのかも知れない。こんなことになる前に、俺はここを出るべきだったのかも知れない。

 惰性が。甘えが。俺をここへ引き留めた結果がこれだ。

 誰も幸福にしなかったし、俺自身のためにもならなかった。

 俺は捨てるべきだったんだ。新しいものを手にするために、今持っているものを離さなければならなかったんだ。

 だからこうなった。

 その重さとやるせなさで倒れ伏し、坂道を転げ落ちている。

 そのまま。

 死んだ方が楽なんじゃないかと、思い至ってしまった。

 そんなだから――

 そんなだったから、鬼に目を付けられる羽目になった。

 かぶりを振って、よろけながらも立ち上がる。自宅の玄関を入った先の廊下はフローリングで、長く座っているような場所じゃない。疲れたのか、雨で気が滅入ったのか、二階の自室にすら辿り着けず、どれだけの時間を過ごしたのだろう。

 いいや、そもそもこの深夜、いつもなら当然床に就いている時間帯で、そのまま寝てしまわなかったことの方が問題だろうか。眠気らしきものはあるのに、寝る気というものがまったく起きない。特段、朝寝坊や昼寝をしていたわけではなかったはずなのに。

 それでも、とりあえずはベッドに行こうと、階段へ足を向けた、そのとき。

 呑気な、そしてこんな時間に鳴るはずのない、玄関の呼び鈴が、鳴った。

 思わず振り返り、玄関扉を凝視してしまう。

 人の気配はない。夜更かしが過ぎて、幻聴が聞こえたのではないかと思うほど、あたりは静寂に包まれていた。

 家の照明は一切つけていない。外から見れば、就寝中か留守中のどちらかだとすぐにわかるはずだ。呼び鈴は一回鳴っただけ、火急の用事だから叩き起こしてやろうという風もない。

 しばらく様子を見てから、音をたてないようにゆっくりと玄関に近づき、覗き窓に顔を近づける。――誰の姿もない。動く何かしらもない。

 やはり聞き間違えだったか。それとも悪戯の類だったのか。扉の向こうが荒らされたりしていないか、異常を確認したい気持ちもあったが、それは昼間の方がいいだろう。鍵がかかっていることを確認し、念のためにと、普段は一切使わないドアチェーンに手をかけた、――次の瞬間。

 心臓が、突き抜けるほどに高鳴った。

 全身に緊張が走り、両脚の感覚が抜け、なすすべなく尻もちをついた。

 信じられない思いで、ドアノブの左上を見る。

 そこから、鉄の扉を突き破った黒身の蛇が、顔を出していた。

 いや。唐突に現れたそれは蛇ではない。刀、真っ黒い刀身が、五十センチ弱ほどの切っ先が、何かの冗談のように、扉から生えていた。

 ――血が。

 黒い刃の先端に、赤い血が滴っていた。

 ふいに右手に熱を感じて見てみると、手のひらが真っ赤になっていた。熱は、いや痛みの中心は、どうやら親指の付け根あたりにあるようだった。右手の感覚が鈍く、力も入らない。

 そんなだから、今自分の身に起きていることが、他人事のようにしか感じられなかった。突然現れた刃物で傷つけられたという、普通なら気が動転してもおかしくない状況を、俺は上手く飲み込めずにいた。

 それでも、背中を汗が伝う。

 長距離走後のように、息が荒くなる。

 心臓が、身体を殴りつけるように、鼓動する。

 知っている。

 これは、知っている。

 カミヤのときと同じ、この感じは――

 金属を叩きつけたような派手な音がして、思わず肩がびくりと反応した。

 気が付けば、黒い刀は姿を消していた。根本部分だった扉の位置には、歪んだ楕円形の穴が開いている。その向こう側には、確かに、何かが蠢いて――

「夜分遅くに、なんていう挨拶は要らないか、この場合」

 声がして。

 戸が開く。

 或いは擬獣のような、おぞましい化け物が現れる予感があった。ミキと出会ったあのときから、俺の人生はそういうものに塗れていたし、だから今回もそういった類の、アイツが招いた災厄なのだと直感していた。

 けれど。そこにいたのは、想像していたような異形ではなかった。

「久しぶり――いや、初めましてとでも言った方がいいのか。正直俺も、お前の顔だけは曖昧だった」

 それは、俺と同じ学校の制服を着ていた。冬服だったが、見間違えではない。その服装は自分を、夏臥美高校の生徒だと名乗っている。

 確かに、年齢帯は近い。頭頂部がモヒカン気味になったツーブロックの丸刈りは、運動部なら飽きるほどいる人種だ。それだけにガタイもいい。背丈は俺と大差なさそうだが、並んだ時の印象はまったく異なるだろう。見上げる形となった今の視点では、鉄塔のような高い建造物を眺めているような気分になる。

 その顔には、覚えがない。

 覚えはないが、ただ。ちぐはぐな表情だと思った。

 視線も、口元も、皴の寄った眉間も、武道家然とした厳格さを備えているのに。

 そういった人間がたいてい兼ね備えている、直向きさ、前向きさというものが、一切抜け落ちていると。そんな風に、感じたから。

「なにを、死にそうな顔してやがる」

 お互い様だと思った。

「被害者面が気に喰わねぇ」

 お前絶対、普段はもっと強気で、人を見下してて、自分が拒絶されるなんて毛頭思ってないような顔してるだろう。

「どのみち、いい隣人にはなれなかったろうな、俺たちは」

 ああ、そうだ。そうだった。俺は初見で思ったんだ、こいつとは合わないなと。合わない側の人間だろうなと。

「それでも、ああ、だから先に言っておくぞ。こうなったのは、俺達がここまで行き着いちまったのは、誰かのせいなんかじゃない。何も知らず、何もできず、そして何もしようとしなかった、お前自身のせいなんだってことを」

 黒い刀身は、人の活力を糧に増長する傲慢の化身。その根底には激情があり、強い自己愛に満ちた界装具すがたみの理。

 故に、その銘は怒り――『怒りの吸血衝動ストリガ』。他人を軽んじるが故に他人を消費し、己を活かす生贄としてくべ続ける最悪の罪、罪悪の咎、人食いの外法。

「ミカヅキ――朏 千里馬」

 俺は、その名前を思い出した。

 名無しの黒鎌。それを持つ俺が、戦闘に向かない能力者だというのを指摘したのは、あの金髪の少女――ノアールだったか。

 擬獣専門の能力、というのはミキの狂言だろうが、しかし戦闘に不向きという評価は的を射ていたと、今ならば理解できる。

 界装具は持ち主の肉体を強化するが、どうやらそこには個人差があるらしい。それ自体が能力と呼べるほど甚大な強化だったり、ほとんどおまけ程度の強化に過ぎなかったりと、それこそピンからキリまでの幅がある。

 俺やカミヤなどは後者だろう。名前を狩る、分身を作るというような特殊能力を行使することがメインであって、戦う力なんてものを求めてはいない。実際、仮に肉体能力が大きく向上したところで、それを扱うだけの技量というものを持ち合わせていないのだから、宝の持ち腐れにしかならない。そういう意味で、界装具の能力というのは上手い具合にバランスが取れていると言える。

 現代人が異能を開花するとすれば、大抵は同じことになるだろう。まともに戦う力は宿らない。蹴ればお粗末なダンスとも呼べないし、殴れば自分の拳の方が砕けてしまう。

 ミキのような、素の状態で武術を極めている浮世離れした人間からすれば。そんな半端な能力者など、どれほど特質な異能を持っていたとしても相手にもならないだろう。

 名を知り、刃で切り裂けば、どんな擬獣も――或いは生きた人間であろうとも、浄化、ないし消失、ないし殺害――できてしまう能力だとしても。当たらなければ意味はない。当たる前に殺してしまえばどうとでもなる。欠陥だらけの力なんだ。

 だから、分かる。

 俺はどうあがいても、目の前の男――朏 千里馬には勝ち得ないと。

 狭い家の中、武器を振り回すような設計になど当然なっていない空間を、朏は何ら苦にせず迫ってくる。古い武家屋敷などは、刀を振り回しづらいような設計になっていると聞くが、恐らくそれさえ、朏にはなんの不利にもならないだろう。

 朏が正眼に構えているのは、日本刀のような界装具だ。こちらも界装具を手にしていなければ、残像さえ捉えられないほど鋭い突きが、それに連なる斬撃が、既に数えきれないほどの斬り傷を俺に作っている。

 痛い、痛いが、そんなことを気にしていたら、あっという間に勝負がついてしまう。激痛を堪え、血と汗を振り払い、歯を食いしばって前を見る。反撃の隙なんかどこにもないし、あったとしても俺にはどうしようもなく、ただ攻撃の軌道を逸らすことで精いっぱいだった。

 小回りの利かない大振りな武器だから――いいや、関係ない。得物の形状の差なんかじゃない。膂力の差、速力の差、そういったものも間違いなくあるが、それだけじゃない。明らかに、使い慣れている。剣道、ないし剣術という技能を、朏 千里馬は一定以上のレベルで修めている。双町の一件以来、この鎌の扱い方が少し掴めただけの俺には、その力量差を漠然と感じ取れる程度のことしかできないでいた。

『彼は優れた能力者だった。けれどだからこそ、道を踏み外す可能性を捨てきれずにいたんだ』

 そう語ったミキは、そのときはそこまでしか言わなかった。結局は、自分に都合が悪かったから排除したということなんだろうが、それでもミキは確信していただろう。直接的な戦闘能力で比べれば、俺よりもずっと、朏の方が使えた・・・のだろう、と。

 ともあれそうやって、ミキは俺を選んだ。朏の刀ではなく、俺の鎌を選んだ。だから、朏に対しなぜを問うのは無駄だと分かっていた。死んだとばかり思っていた朏が、今の今までどこで何をしていたのかは知らないが――いや、俺が知らないことそれ自体が、朏からすれば我慢ならない不条理なのだろう。こうして、俺に殺意を向けるに値する理由として、成立してしまっているのだろう。

 初撃――不意打ちで裂かれた利き手が、思うように界装具を握れない。長い防戦で、誤魔化しさえ通用しなくなってしまった。堅く構えて防いだつもりの一撃で、鎌が大きく弾き飛ばされる。左手で、辛うじて離さずにはいられたけれど。もうだめだと、死んでしまうと、そう理解できてしまったら、もうその場には留まれなかった。溢れる恐怖。全身を駆け抜ける悪寒。言葉にならない悲鳴を漏らしながら、脇目も降らず、リビングの先の窓へと駆けた。締め切ったカーテン越しに窓を叩き割り、ガラス片を被るのも気にせず、家の外――真っ暗な夜へと逃亡した。


 ――これから飛び込み自殺でもするんじゃないかと――


 ――なにを、死にそうな顔してやがる――


 うるさいな、ああうるさい。他人が、俺を勝手に決めるんじゃない。

 死ぬわけがないじゃないか。

 生きていたいに決まってるじゃないか。

 俺は、家族が作りたくて。

 俺は、そのためにずっと生きてきて。

 最近やっと、手が届きそうな気がして。

 それを邪魔するならミキだって殺すんだ、なんて無謀なことすら考えるほどに。

 俺は、生きていたいんだから。


 ああ、そうだ、そうなんだ。

 ミキ、俺は。

 俺はお前が、羨ましかったんだ。

 妹が、親戚が、親が、兄弟が、――家族がいて。

 みんな、お前を慕ってるみたいで。心配してくれて、気にかけてくれて、大事にしてくれて。

 それを誇らしそうに語るお前が。

 そんなお前が、俺のことを憐れむのも、殺そうとするのも。部下だとか身内だとか仲間だとかで、導いて、助けて、大切にしてくれるのも。

 全部、全部が、憎らしかったんだ。

 どんな企みが、どんな裏が――なんて、本当はどうでも良かったんだ。

 俺の欲しいもの、全部持ってるお前のことが。憎らしいほどに、殺したいほどに、羨ましくて仕方がなかったんだ。


 謝りはしない。

 お前を殺すことになっても。それでお前の家族全員に恨まれようとも、俺は後悔なんてしない。

 俺は、俺だから。

 俺の生き方は、俺が決めることだから。

 これまでの人生が、今置かれている境遇が、泣きたくなるほど悲惨で、死にそうに見えるほど無惨であっても。

 俺は俺として生きるんだ。

 どこか遠くにある俺の夢を、いつか掴むために生きるんだ。


 生きたい。


 生きたい。


 生きたい。


 生きて、生きて、それで、俺は――


 身体が、動かなくなる。

 身体が、熱くて。

 身体が、寒くて。

 呼吸が、苦しい。


 胸元に、視線をおろす。

 既視感を抱く。ついさっき、そう、玄関扉の異変を見た時、みたいに。

 蛇のような。

 黒い、刀が。

 胸元から、生えていて。


 ずっと、ずっと、うるさいくらいだった、心臓の音が。


 音が。