前
「事情を、話してみてくれないか」
前触れもなく、冬笠さんが切り出してきた。
二人してしばらく黙って座っていて、時刻はもうじき午前一時になろうとしていた。俺の方は、不思議と眠気を感じることもなく、ただ重苦しい気だるさに苛まれていたが。考えてみれば、無理にでも寝てしまうべきだったかも知れない。関係のない冬笠さんを巻き添えにしてしまった。
「まあ、なんだ。あまり、部外者が足を踏み入れていいことではないとは思うんだが」
冬笠さんの口ぶりは躊躇いがちだったが、それでも視線だけは逸らさなかった。手を組んで、リラックスした体勢を自身に強制しているようにも見えた。
「やはり、無視するには余りある。私が君と、似たような境遇だからと取ってくれてもいいし、単にお節介なオヤジの妄言だと考えてくれても構わない。私が力になれるとは限らないが、それでも。誰かに話すことで、見えてくるものもあると思うんだ」
話すことで、打ち明けることで、解消されるような問題ではない。それは俺の性格上、そして事の性質上、動かしようもない事実だったが。
「泣いている子どもに風船を配るのが私の生き甲斐でね。どうだろう、何でもいいから、話してみてはくれないだろうか」
話してみようかと思えた。袋小路の思考に救いを求めたのか、或いはそれほどまでに追い詰められた結果だったのか、それは分からない。
でも、ただ、このままではいけない気がして。
何かしなくちゃいけないような気がして。
「アイツは――」
話すことは億劫だった。自分を説明するなんて無意味だとさえ思っていた。
だからきっと、これはまるで夢のように。崩壊していく現実が、目を覚ませば元に戻っていることを願いながら。そんなことはありえないと、心のどこかで理解しながら。
どこへ繋がっているかも分からない扉を開け、身を投じる。
「三鬼 弥生は、人殺しだ」
中
三鬼 弥生は、生まれた瞬間に人を殺した。
双町で出会ったミキの兄は、そんな昔話をしていった。
誰を殺したのかについてはあからさまにぼかしていたが、とにかく家族親類の誰かを殺したのだという。
産まれたばかりの赤ん坊に誰を殺せるのか、というのは当然の疑問だが、今回は当てはまらない。それどころか、三鬼という特殊な一族では、過去にもまれにあったことらしい。
鬼が、殺すのだ。
産声を上げたそのとき、赤子と共に現れる鬼が、制御も利かず人を殺すのだという。
そして確かな事実として。そうして人を殺してしまった者は、生まれながらに精神に重大な欠落を持っている。その欠落が、鬼を暴走させてしまうのだと考えられているらしい。
だから、人を殺してしまった三鬼 弥生もまた、そのように見做された。
そして、その末路は厳格に閉ざされている。その場で殺すか。何らかの理由で殺せない場合は、地下に設けられた座敷牢にて、死ぬまで監禁するのだという。
『待ちに待った第三子だ。八剣を始め、機関の関心も尋常ではなかった。ともすれば一族復権の足掛かりにもなり得るその鍵を、あっさり殺すわけにはいかなかったんだ』
そんな風にミキの兄は語ったが、あまりピンとは来る理由ではなかった。またぞろかび臭い、意地の張り合いだったのかも知れない。とにかくそうして、ミキは生き長らえることとなったのだ。
――座敷牢。一部の旧家には未だ、その名残が残っているそうだ。
精神病を患った人間など、世間に晒すことのできない恥である――と、かつての人々は本気で考えていた。いや、その痕跡は今もなお、人間の意識に根ざし続けていると言わざるを得ない。
しかし、心を病んでいようが、意図的に殺してしまえば殺人罪だ。目障りなのに排除できない、死んで欲しいのに殺せない、目の上のたんこぶ。
ならばせめて隠しておこうという、そういう目的で住居に設けられたのが、座敷牢。見た目は単なる地下座敷で、だから監禁罪で訴えられることもない。しかし実態は、問題児を死ぬまで飼い殺す、非人道極まる軟禁場だ。
死ぬまでというのは、およそ十年。たったそれだけのタイムリミット。
本来鍛錬と儀式によって手に入れる二体目の鬼。それをその身に宿さず成長していけば、三鬼家の人間はいずれ狂い死ぬ。一体目の鬼に、精神を完全に喰い尽くされる。それまで存在そのものを、世間から隠し通そうというのだ。
三鬼 弥生は、そのまま死ぬ運命だった。
三鬼家の誰もが、そう信じて疑わなかった。
そうあることを願ってさえいた――
はずだった。
異変の兆候が見えたのは、今より十年前。普通であれば、ミキは小学校に上がって二年目といった頃の話だった。
ミキの世話係として雇っていた外部の人間が、ミキを外へ出してやりたいと、しきりに訴え始めたのだ。
世話といっても、大した情報も役割も持たされてはいない。ミキに対して、食事は充分な栄養を与えていたし、生活に必要な設備も最低限ではあったが揃っていた。だからただ、三鬼家に悪影響を及ぼすような死に方をさせないよう、監視するためだけに雇った人間だった。最初に取り決めた約定さえ守るのであれば、
――だというのに、その綻びは生じたのだ。
当然、外へ出すなど認められはしなかった。食い下がるその者は即座に解雇され、また新しい世話係をあてがった。秘密さえ守れる人間であれば良いのだから、代わりなどは幾らでもいた。
しかし。
しばらくして、その新しい世話係も同じように、ミキを外へ出したがった。
その者を解雇して、次も。
次も。
その次も。
そのまた次も。
世話係を命じた人間が悉く、三鬼 弥生の解放を訴えだした。
あの不憫な子を、どうか外へ出してやって欲しいと。
ついには、雇い主の判断を仰ぐことさえなく、勝手に外へ連れ出そうとする者まで現れた。
そうなればもう、外部の人間には任せてはおけなかった。始めは三鬼家の使用人、分家筋、そして直系の家族。何人もの人間がミキと接触し、監視の役割を引継ぎ、そして――
三鬼家は、変わった。
その様子を離れて見ていたミキの兄からすれば、それはあまりに異様で、あまりにおぞましい出来事に思えてならなかったという。
一族の人間を殺したミキは、憎悪の対象でしかなかったはず。それがいつの間にか溶け込んで、愛すべき家族に成り代わっていた。
身内を殺された一族内の者でさえ、三鬼 弥生の自由を願い始めたのだ。
三鬼家は、三鬼 弥生によって侵略された。いつの間にか、何か別のものに塗り替えられていた。
彼女は改心したのだ、もう心配は要らない。
ミキの祖父がそう号令を出し、ミキに関するすべての不義は解消したとされた。
だが、ごく一部であるが、その違和感を見過ごさなかった者が、三鬼家の中にもいたのだ。
本当に、三鬼 弥生を信じてもいいのか。
一族の、あの一連の様変わりは、もはや洗脳なのではないのか。
そうして慎重に調査を行った結果、信じがたい事実が浮かび上がった。
最初にミキの解放を願った、世話役を命じられていた外部の者たち。
その全員が、行方不明になっていたのだ。
一人の例外もなく、全員が。
まったく関連性のない、てんでバラバラの状況で、忽然と姿をくらましていたのだ。
三鬼家の持つ情報網を用い、さらに秘密裏に六条家にまで依頼を出して後を追ったが、結局その行方は掴めなかった。
本当に最初から、この世界にいなかったかのように、完全に消失していたのだ。
偶然だなどと誰が思うのか。
そうして疑念を呈したが、しかし三鬼家の誰もがそれを聞き入れなかった。そんなものは偶然だと、何かの間違いに決まっていると、有無を言わさず一蹴されたのだ。
疑いようがなかった。三鬼 弥生は、三鬼家にとっての敵である。
三鬼 弥生は三鬼家を乗っ取り、そして不都合な情報を持ちえた者たちを『消し去った』のだ。それはつまり、決して見つからない方法で『殺した』に違いないのだ。
三鬼 弥生は、自身を閉じ込めた恨みで以て三鬼家を掌握し、奪い取り、さらに殺人の罪を重ねた。
最初に一人を殺したことは事故で片付けられても。
罪なき人々――己の解放を願ってくれた者たちまでも、自身の都合で殺害したのだ。
そして、最後に。
その惨状を見かね、ついにミキの排除に乗り出した長兄――三鬼
三鬼 弥生の『支配』は、完成してしまったのだ。
後
「それ自体は、俺には関係のない話だ。そんな内輪揉め、俺には関係ないし、絶対に関わる気もなかった。……何より、信じられなかった」
話の節々をぼかしていたから、冬笠さんに伝わりきったのかは分からなかったが。
冬笠さんは神妙な顔で、俺の話に耳を傾けていてくれた。
「だけど、気付いたんだ。それは間違いなく、俺にとっても無関係じゃないんだと思い知ったんだ。だって、だって――」
身体が震える。
恐ろしくてたまらない。
憎らしくてたまらない。
ミキにとって、俺は何者なのか。その答えは、結局のところ――
「それは、夏臥美町でも起こっていたんだ。原因不明の行方不明。そうだ、アイツは――
偶然だなんて、とても思えなかった。
その行方不明に、ミキが関わっていないだなんて、とても信じられなかった。
「詳しいことは、知らない。確証だってない。だけど、もしも本当に、本当にそうだったら――」
双町で、ミキの兄から話を聞いて。その繋がりに気付いてしまった段階で。その予感はずっと、俺の頭から離れてはくれなくなった。
だって。
だって、それは、つまり。
「いつか、
声が震える。
歯がガチガチとぶつかる。
これまでの出来事が。価値観が。矜持が。感情が。すべてが折り重なって、冷たくて真っ黒い、ヘドロのような気持ちに置き換わる。
「俺は、三鬼 弥生に、殺される」
言葉にすれば、もうそのことしか考えられなかった。
行方不明とはなんだ。
誰にも見つけられない殺人とはなんだ。
俺は一体、どうなってしまうのか。
どうやって殺され、これ以上、どんな風に苦しむのか。
それが、それが、そればかりが。頭の中を渦巻いて消えてくれない。
楽観なんかできるものか。アイツは目的のためなら、実の妹さえ見放す人間なんだから。赤の他人でしかない俺のことなんか、いつでも取り替えられる部品だとしか思っちゃいない。
或いは。
或いはもう、それは始まっているのかもしれない。
上蚊野のことが。
綾辻のことが。
先刻出くわした擬獣のことが。
終わりの始まりなのかも、知れないと――
「チリ君」
肩を揺さぶられ、悲鳴のなりそこないのような弱々しい嗚咽が漏れる。
それでようやく、まともに呼吸ができていなかったことに気が付いた。
「全て憶測だ。誰に吹き込まれたか知らないが――いや、仮にその話が事実なのだとして、なぜ君が消されなければならないんだ。邪魔だから消すだの殺すだの、そんな馬鹿げた身勝手が、この法治国家でまかり通ってたまるものか」
静かにまくし立てられる冬笠さんの声に、心音が抑え付けられるようだった。荒い息が細くなって、動悸が徐々に収められていく。
異常だった。今になってようやく自覚できてきた。おかしい、確実に何かが狂ってきている。上蚊野の一件から胸の奥にあった違和感が、気のせいなんかじゃないんだと今更に実感した。
違和感。それは、外来の異物が這入り込んだような不快感ではない。そうじゃなく、もっと根本的に違う奇態。
――そうだ。これまで当たり前にあったものが、いつの間にか抉れて、消失していたような、空洞。穴だらけの地平にできた、最も致命的な空白。
思考が途切れる。無理につなげようとして誤作動が起きる。
無意識のうちに流れていた回路が途中で切れて、継ぎ接ぎだらけに荒らされてしまったかのような。
喪失感、とは違う。
これは、違う。これでは、まるで。
自分が、自分で、ないような。
「チリ君、君は――」
冬笠さんが更に言葉を連ねようとした、そのとき。サイドテーブルに置かれた冬笠さんの携帯電話が、よく響く振動音を発し始めた。音は思いのほか大きく、思わず身体が飛び上がりそうになるほどだった。
冬笠さんはすぐさま手を伸ばし、携帯電話を開いた。着信だろう、画面を一瞥してからすぐ、受話口を左耳に押し当てた。
「――もう次の案件か。少し性急過ぎるな、これでは寝る暇もない。早く決めてくれと彼に伝えてくれ。――分かってる。予定通り、次の公演はホームだ。そう、ゲストの手配も忘れないでくれと、重ねて彼に頼んで欲しい。ああ、それでは」
短いやり取りのあと、冬笠さんは通話を切って、携帯電話をポケットに戻した。話の内容からして、仕事の電話だったのだろうか。
「すみません、忙しいところ」
「ああ、いや。気にしないでいい。ただ――」
冬笠さんは立ち上がり、今度はサイドボードから鍵の束を取り上げた。鍵は都合三つで、何の変哲のない――恐らく、車か何かのキーだろう。
「これから出かけなければならなくなった、仕事でね。家まで車で送るよ。案内してもらっていいかな」
いかにも気乗りしなさそうな顔で、冬笠さんはそう提案してきた。
帰りたくない、などとは流石に言えなかったから。俺は表情を変えないよう努めながら、頷いて返した。
「……力になれず済まない」
ぼやくように、冬笠さんは言った。
けれど、そんなのは仕方がないことだろう。たかが二度顔を合わせた程度の相手に、一体何ができるというのか。そんな簡単な話なら、そもそも俺はこんなことになっていない。
「別に。俺は、大丈夫ですから」
愛想笑いを浮かべる気にもなれないが、それでもなんとか言葉にはした。解決する方法を持たないのだから、関わらないで欲しい。そもそも無理な難題を前に、自分の無力など嘆かないで欲しい。俺に必要なのは、そんな誰かの優しさや思いやりじゃない。
分かってる。分かってる。死にそうだったと言われようが、それでも俺は生きている。自ら死ぬ選択をしなかったんだ。後腐れもない。そんな終わりはクソ喰らえだとさえ、今の俺は思うことができる。
だから悩むことなんかない。なすべきことはたった一つ。最初から何一つ、変わってなんかいないんだ。
ただ、時間が。考える時間さえあればいい。
ミキと対峙する、その覚悟を決める時間が欲しい。
他でもない、俺自身の命を守るために。
俺が俺として、俺の生き方を貫くために。
ミキと戦って。
ミキを、殺す。
それができるだけの覚悟が欲しい。
ただ、それだけのことなんだから。