夏夜の -2-


「事情を、話してみてくれないか」

 前触れもなく、冬笠さんが切り出してきた。

 二人してしばらく黙って座っていて、時刻はもうじき午前一時になろうとしていた。俺の方は、不思議と眠気を感じることもなく、ただ重苦しい気だるさに苛まれていたが。考えてみれば、無理にでも寝てしまうべきだったかも知れない。関係のない冬笠さんを巻き添えにしてしまった。

「まあ、なんだ。あまり、部外者が足を踏み入れていいことではないとは思うんだが」

 冬笠さんの口ぶりは躊躇いがちだったが、それでも視線だけは逸らさなかった。手を組んで、リラックスした体勢を自身に強制しているようにも見えた。

「やはり、無視するには余りある。私が君と、似たような境遇だからと取ってくれてもいいし、単にお節介なオヤジの妄言だと考えてくれても構わない。私が力になれるとは限らないが、それでも。誰かに話すことで、見えてくるものもあると思うんだ」

 話すことで、打ち明けることで、解消されるような問題ではない。それは俺の性格上、そして事の性質上、動かしようもない事実だったが。

「泣いている子どもに風船を配るのが私の生き甲斐でね。どうだろう、何でもいいから、話してみてはくれないだろうか」

 話してみようかと思えた。袋小路の思考に救いを求めたのか、或いはそれほどまでに追い詰められた結果だったのか、それは分からない。

 でも、ただ、このままではいけない気がして。

 何かしなくちゃいけないような気がして。


「アイツは――」


 話すことは億劫だった。自分を説明するなんて無意味だとさえ思っていた。

 だからきっと、これはまるで夢のように。崩壊していく現実が、目を覚ませば元に戻っていることを願いながら。そんなことはありえないと、心のどこかで理解しながら。

 どこへ繋がっているかも分からない扉を開け、身を投じる。


「三鬼 弥生は、人殺しだ」

 三鬼 弥生は、生まれた瞬間に人を殺した。

 双町で出会ったミキの兄は、そんな昔話をしていった。

 誰を殺したのかについてはあからさまにぼかしていたが、とにかく家族親類の誰かを殺したのだという。

 産まれたばかりの赤ん坊に誰を殺せるのか、というのは当然の疑問だが、今回は当てはまらない。それどころか、三鬼という特殊な一族では、過去にもまれにあったことらしい。

 鬼が、殺すのだ。

 産声を上げたそのとき、赤子と共に現れる鬼が、制御も利かず人を殺すのだという。

 そして確かな事実として。そうして人を殺してしまった者は、生まれながらに精神に重大な欠落を持っている。その欠落が、鬼を暴走させてしまうのだと考えられているらしい。


 だから、人を殺してしまった三鬼 弥生もまた、そのように見做された。

 そして、その末路は厳格に閉ざされている。その場で殺すか。何らかの理由で殺せない場合は、地下に設けられた座敷牢にて、死ぬまで監禁するのだという。

『待ちに待った第三子だ。八剣を始め、機関の関心も尋常ではなかった。ともすれば一族復権の足掛かりにもなり得るその鍵を、あっさり殺すわけにはいかなかったんだ』

 そんな風にミキの兄は語ったが、あまりピンとは来る理由ではなかった。またぞろかび臭い、意地の張り合いだったのかも知れない。とにかくそうして、ミキは生き長らえることとなったのだ。

 ――座敷牢。一部の旧家には未だ、その名残が残っているそうだ。

 精神病を患った人間など、世間に晒すことのできない恥である――と、かつての人々は本気で考えていた。いや、その痕跡は今もなお、人間の意識に根ざし続けていると言わざるを得ない。

 しかし、心を病んでいようが、意図的に殺してしまえば殺人罪だ。目障りなのに排除できない、死んで欲しいのに殺せない、目の上のたんこぶ。

 ならばせめて隠しておこうという、そういう目的で住居に設けられたのが、座敷牢。見た目は単なる地下座敷で、だから監禁罪で訴えられることもない。しかし実態は、問題児を死ぬまで飼い殺す、非人道極まる軟禁場だ。

 死ぬまでというのは、およそ十年。たったそれだけのタイムリミット。

 本来鍛錬と儀式によって手に入れる二体目の鬼。それをその身に宿さず成長していけば、三鬼家の人間はいずれ狂い死ぬ。一体目の鬼に、精神を完全に喰い尽くされる。それまで存在そのものを、世間から隠し通そうというのだ。


 三鬼 弥生は、そのまま死ぬ運命だった。

 三鬼家の誰もが、そう信じて疑わなかった。

 そうあることを願ってさえいた――

 はずだった。


 異変の兆候が見えたのは、今より十年前。普通であれば、ミキは小学校に上がって二年目といった頃の話だった。

 ミキの世話係として雇っていた外部の人間が、ミキを外へ出してやりたいと、しきりに訴え始めたのだ。

 世話といっても、大した情報も役割も持たされてはいない。ミキに対して、食事は充分な栄養を与えていたし、生活に必要な設備も最低限ではあったが揃っていた。だからただ、三鬼家に悪影響を及ぼすような死に方をさせないよう、監視するためだけに雇った人間だった。最初に取り決めた約定さえ守るのであれば、どう・・扱おうと・・・・構わない・・・・――そうやって雇った駒でしかなかった。

 ――だというのに、その綻びは生じたのだ。

 当然、外へ出すなど認められはしなかった。食い下がるその者は即座に解雇され、また新しい世話係をあてがった。秘密さえ守れる人間であれば良いのだから、代わりなどは幾らでもいた。

 しかし。

 しばらくして、その新しい世話係も同じように、ミキを外へ出したがった。

 その者を解雇して、次も。

 次も。

 その次も。

 そのまた次も。

 世話係を命じた人間が悉く、三鬼 弥生の解放を訴えだした。

 あの不憫な子を、どうか外へ出してやって欲しいと。

 ついには、雇い主の判断を仰ぐことさえなく、勝手に外へ連れ出そうとする者まで現れた。

 そうなればもう、外部の人間には任せてはおけなかった。始めは三鬼家の使用人、分家筋、そして直系の家族。何人もの人間がミキと接触し、監視の役割を引継ぎ、そして――

 三鬼家は、変わった。

 その様子を離れて見ていたミキの兄からすれば、それはあまりに異様で、あまりにおぞましい出来事に思えてならなかったという。

 一族の人間を殺したミキは、憎悪の対象でしかなかったはず。それがいつの間にか溶け込んで、愛すべき家族に成り代わっていた。

 身内を殺された一族内の者でさえ、三鬼 弥生の自由を願い始めたのだ。

 三鬼家は、三鬼 弥生によって侵略された。いつの間にか、何か別のものに塗り替えられていた。

 彼女は改心したのだ、もう心配は要らない。

 ミキの祖父がそう号令を出し、ミキに関するすべての不義は解消したとされた。


 だが、ごく一部であるが、その違和感を見過ごさなかった者が、三鬼家の中にもいたのだ。

 本当に、三鬼 弥生を信じてもいいのか。

 一族の、あの一連の様変わりは、もはや洗脳なのではないのか。


 そうして慎重に調査を行った結果、信じがたい事実が浮かび上がった。


 最初にミキの解放を願った、世話役を命じられていた外部の者たち。

 その全員が、行方不明になっていたのだ。

 一人の例外もなく、全員が。

 まったく関連性のない、てんでバラバラの状況で、忽然と姿をくらましていたのだ。

 三鬼家の持つ情報網を用い、さらに秘密裏に六条家にまで依頼を出して後を追ったが、結局その行方は掴めなかった。

 本当に最初から、この世界にいなかったかのように、完全に消失していたのだ。


 偶然だなどと誰が思うのか。

 そうして疑念を呈したが、しかし三鬼家の誰もがそれを聞き入れなかった。そんなものは偶然だと、何かの間違いに決まっていると、有無を言わさず一蹴されたのだ。

 

 疑いようがなかった。三鬼 弥生は、三鬼家にとっての敵である。

 三鬼 弥生は三鬼家を乗っ取り、そして不都合な情報を持ちえた者たちを『消し去った』のだ。それはつまり、決して見つからない方法で『殺した』に違いないのだ。

 三鬼 弥生は、自身を閉じ込めた恨みで以て三鬼家を掌握し、奪い取り、さらに殺人の罪を重ねた。

 最初に一人を殺したことは事故で片付けられても。

 罪なき人々――己の解放を願ってくれた者たちまでも、自身の都合で殺害したのだ。


 そして、最後に。

 その惨状を見かね、ついにミキの排除に乗り出した長兄――三鬼 建辰けんしんを返り討ちにして。

 三鬼 弥生の『支配』は、完成してしまったのだ。

「それ自体は、俺には関係のない話だ。そんな内輪揉め、俺には関係ないし、絶対に関わる気もなかった。……何より、信じられなかった」

 話の節々をぼかしていたから、冬笠さんに伝わりきったのかは分からなかったが。

 冬笠さんは神妙な顔で、俺の話に耳を傾けていてくれた。

「だけど、気付いたんだ。それは間違いなく、俺にとっても無関係じゃないんだと思い知ったんだ。だって、だって――」

 身体が震える。

 恐ろしくてたまらない。

 憎らしくてたまらない。

 ミキにとって、俺は何者なのか。その答えは、結局のところ――

「それは、夏臥美町でも起こっていたんだ。原因不明の行方不明。そうだ、アイツは―― 千里馬・・・ミキが・・・この町に来た・・・・・・直後に・・・消えたんだ・・・・・

 偶然だなんて、とても思えなかった。

 その行方不明に、ミキが関わっていないだなんて、とても信じられなかった。

「詳しいことは、知らない。確証だってない。だけど、もしも本当に、本当にそうだったら――」

 双町で、ミキの兄から話を聞いて。その繋がりに気付いてしまった段階で。その予感はずっと、俺の頭から離れてはくれなくなった。

 だって。

 だって、それは、つまり。

「いつか、俺も・・消されるかも・・・・・・知れない・・・・んだ。アイツにとって用済みになったら、不都合な存在になったら、それで、たったそれだけのことで、俺は――」

 声が震える。

 歯がガチガチとぶつかる。

 これまでの出来事が。価値観が。矜持が。感情が。すべてが折り重なって、冷たくて真っ黒い、ヘドロのような気持ちに置き換わる。

「俺は、三鬼 弥生に、殺される」

 言葉にすれば、もうそのことしか考えられなかった。

 行方不明とはなんだ。

 誰にも見つけられない殺人とはなんだ。

 俺は一体、どうなってしまうのか。

 どうやって殺され、これ以上、どんな風に苦しむのか。

 それが、それが、そればかりが。頭の中を渦巻いて消えてくれない。

 楽観なんかできるものか。アイツは目的のためなら、実の妹さえ見放す人間なんだから。赤の他人でしかない俺のことなんか、いつでも取り替えられる部品だとしか思っちゃいない。

 或いは。

 或いはもう、それは始まっているのかもしれない。

 上蚊野のことが。

 綾辻のことが。

 先刻出くわした擬獣のことが。

 終わりの始まりなのかも、知れないと――

「チリ君」

 肩を揺さぶられ、悲鳴のなりそこないのような弱々しい嗚咽が漏れる。

 それでようやく、まともに呼吸ができていなかったことに気が付いた。

「全て憶測だ。誰に吹き込まれたか知らないが――いや、仮にその話が事実なのだとして、なぜ君が消されなければならないんだ。邪魔だから消すだの殺すだの、そんな馬鹿げた身勝手が、この法治国家でまかり通ってたまるものか」

 静かにまくし立てられる冬笠さんの声に、心音が抑え付けられるようだった。荒い息が細くなって、動悸が徐々に収められていく。

 異常だった。今になってようやく自覚できてきた。おかしい、確実に何かが狂ってきている。上蚊野の一件から胸の奥にあった違和感が、気のせいなんかじゃないんだと今更に実感した。

 違和感。それは、外来の異物が這入り込んだような不快感ではない。そうじゃなく、もっと根本的に違う奇態。

 ――そうだ。これまで当たり前にあったものが、いつの間にか抉れて、消失していたような、空洞。穴だらけの地平にできた、最も致命的な空白。

 思考が途切れる。無理につなげようとして誤作動が起きる。

 無意識のうちに流れていた回路が途中で切れて、継ぎ接ぎだらけに荒らされてしまったかのような。

 喪失感、とは違う。

 これは、違う。これでは、まるで。

 自分が、自分で、ないような。

「チリ君、君は――」

 冬笠さんが更に言葉を連ねようとした、そのとき。サイドテーブルに置かれた冬笠さんの携帯電話が、よく響く振動音を発し始めた。音は思いのほか大きく、思わず身体が飛び上がりそうになるほどだった。

 冬笠さんはすぐさま手を伸ばし、携帯電話を開いた。着信だろう、画面を一瞥してからすぐ、受話口を左耳に押し当てた。

「――もう次の案件か。少し性急過ぎるな、これでは寝る暇もない。早く決めてくれと彼に伝えてくれ。――分かってる。予定通り、次の公演はホームだ。そう、ゲストの手配も忘れないでくれと、重ねて彼に頼んで欲しい。ああ、それでは」

 短いやり取りのあと、冬笠さんは通話を切って、携帯電話をポケットに戻した。話の内容からして、仕事の電話だったのだろうか。

「すみません、忙しいところ」

「ああ、いや。気にしないでいい。ただ――」

 冬笠さんは立ち上がり、今度はサイドボードから鍵の束を取り上げた。鍵は都合三つで、何の変哲のない――恐らく、車か何かのキーだろう。

「これから出かけなければならなくなった、仕事でね。家まで車で送るよ。案内してもらっていいかな」

 いかにも気乗りしなさそうな顔で、冬笠さんはそう提案してきた。

 帰りたくない、などとは流石に言えなかったから。俺は表情を変えないよう努めながら、頷いて返した。

「……力になれず済まない」

 ぼやくように、冬笠さんは言った。

 けれど、そんなのは仕方がないことだろう。たかが二度顔を合わせた程度の相手に、一体何ができるというのか。そんな簡単な話なら、そもそも俺はこんなことになっていない。

「別に。俺は、大丈夫ですから」

 愛想笑いを浮かべる気にもなれないが、それでもなんとか言葉にはした。解決する方法を持たないのだから、関わらないで欲しい。そもそも無理な難題を前に、自分の無力など嘆かないで欲しい。俺に必要なのは、そんな誰かの優しさや思いやりじゃない。

 分かってる。分かってる。死にそうだったと言われようが、それでも俺は生きている。自ら死ぬ選択をしなかったんだ。後腐れもない。そんな終わりはクソ喰らえだとさえ、今の俺は思うことができる。

 だから悩むことなんかない。なすべきことはたった一つ。最初から何一つ、変わってなんかいないんだ。

 ただ、時間が。考える時間さえあればいい。

 ミキと対峙する、その覚悟を決める時間が欲しい。

 他でもない、俺自身の命を守るために。

 俺が俺として、俺の生き方を貫くために。


 ミキと戦って。


 ミキを、殺す。


 それができるだけの覚悟が欲しい。

 ただ、それだけのことなんだから。