0 *K.M*  母の愛は私のものだった。  母性に包まれ、慈愛に育まれ。私を形作るありとあらゆる要素はすべて、母から受け継がれたものだと言っても過言ではないだろう。  人を生み出した存在が神であるというのなら。  私にとっての神とは、即ち母のことで間違いなかった。  それが掛け替えのない存在であることはすぐに理解できたし、いつかは別れが訪れるのだという事実さえ空想に思えた。  母体より分かたれてなお、私は母の一部だった。そう考えれば、己の四肢も頭も顔も、五臓六腑に至るまで愛おしかった。  私とは、母の愛そのものである。  ある種の崇拝に陥るほど、当時の私は母を慕ってはいたが、しかしそれを諌めたのもまた母であった。  旧家の長男として。  人の上に立つ者として。  父にも祖父にも劣らぬ家長として大成すること。それが使命であると、それこそがこの命の役割なのだと。母は私に言い聞かせ、そして相応の教導を示してくれた。  それはときに父よりも厳しく、また激しいものではあったが。けれどその地盤に母の愛情があることを、私は決して忘れはしなかった。  愛故に。愛故に。  私は幸福であったのだ。  あの母の下へ生まれてきたことを、私は何より誇りに思っていたのだ。  弟が生まれた。  母を奪われた嫉妬に狂うような、そのような愚挙に私が陥らなかったのも、また母のおかげであった。私は弟を家族の一員としていち早く認め、長男として、将来の当主として、守るべき対象であると決意を固めた。  或いはその結果、命を落とすことになろうとも構わない。そのときは全てを弟に引き継げば良かった。一族の存続のためならば、命も地位も、私の胸には何も要らない。  なぜならそれが、母の望んだ私の姿であったからだ。それでいい。構わない。あの母から生まれ落ちた兄弟なれば、私の理想を託すことにためらいなどない。我が身は英霊となりて、永劫、一族を守護する礎となればいい。  愛が。母の与えてくれた愛があれば、それさえあれば私は進める。  それが世界、その全て。  家族との愛が。母との愛が。私の胸に、この心に、繋がっている限り。  私は戦う。  私は生きる。  私は糸を手繰り寄せる。  この命、尽きるまで。  ――――  妹が、生まれた。 1 「少しは落ち着いたかい、チリ君」  ノックのあと。開いた扉から、上蚊野 冬笠さんが顔を覗かせた。まだ顔を一目で認識できるほどの回数会ってはいないが、その特徴的な鷲鼻を見れば、なんとかその人だと判別することができる。  上蚊野――あの秋佐屋(ピエロ)の、実の息子。だからどうということはないが、俺の中に若干の気後れがあることも、また否定できないでいる。  ベッドから立ち上がろうとする俺を、冬笠さんは身振りで制止した。 「ええ、まあ。すみません、色々」  冬笠さんの手からコーヒー入りの紙コップを受け取り、両手でその冷気を包んだ。  ミルクの少量入った茶色い液体に、死人のような顔が映っている。 「気にすることはない。サーカスの公演は今日――いや、昨日で終わったからね。稽古もしばらくないし、ちょうど良かった」  鏡台前の椅子に腰掛けると、首に掛けていたタオルで、冬笠さんは濡れた腕を丁寧に拭った。七歩袖のシャツから覗く浅黒い両腕は細長くも筋肉質で、日頃の鍛錬の成果を窺わせた。  マツイさんに連行され見に行った彼のサーカスは、実際に面白いと思えた。曲芸とはつまり、死と隣り合わせにある非日常だ。それを笑顔で、ひょうひょうと成し遂げてしまう離れ業は、確かに人の目を惹くのだろう。  憧れ、とは少し違う。どちらかと言えば恐怖映画に近い。自分でやりたいとは思わないが、だからこそ疑似体験で満足する。そのスリルに心を躍らせる。  そんなような話を――そういえば、ミキとしたことがあった気がする。 「雨、まだ強いですか」 「強いね、さっきよりも。最近は多いらしいが、まあ予報通りならじきに止むだろう」  明日はまた暑いらしいと、冬笠さんは苦笑いをした。夏臥美町の夏は暑い。観測史上最高気温を記録したとかで、時折ニュースに名前が挙がるくらいだ。町で暮らしている人間ならともかく、ふと立ち寄った程度では相当に堪えるのだろう。 「君の服は乾かしてもらっている。もうしばらくは、私の服で我慢して欲しい」 「いや、充分です。すみません」  今着ているのは、冬笠さんの部屋着らしいポロシャツとジーンズだった。体格的にはさほど違いないのか、別段着心地の悪さは感じない。こうしてホテルの一室で休ませてくれるばかりか、雨でぐっしょりと濡れた服を乾かし、着替えまで貸してくれるのだから、文句がないどころか、感謝の言葉さえなかった。 「さて、何があったのかな。この雨の中、雨具もなしに一人で外を出歩いて。気を悪くするかも知れないが――荒れた川の前に立つ君の姿を見かけたとき、これから飛び込み自殺でもするんじゃないかと思って、ひやりとしてしまった」  そう、見えたらしい。  だからわざわざ車を停め、俺に声をかけたということか。 「はあ――まあ。ちょっと、嫌なことが重なって」  ふむ、と冬笠さんは天井を仰いだ。深入りすべきかどうなのか、扱いに困っているのだろう。皺がくっきり刻まれた眉間を揉むような仕草は、実に悩ましげで、本当に。  本当に、申し訳なかった。 「以前、君と一緒にいた女の子から聞いたことの確認なんだが」  言いづらそうに、冬笠さんが切り出してきた。 「ご両親は、いま?」 「ええ、いないです」 「ご親戚なんかも?」  頷いて返す。  いない。  誰も、いない。  どこにも。  本当に、もう。 「そうか――苦労をしているね、君も」  言い終えて、冬笠さんは自分のカップに口をつけ、中身を不味そうに啜った。 「私もまあ、少しは分かる。私も幼い頃に、事故で両親を亡くしている」 「…………」  知っている。少なくとも、父親のことについては。 「しかし、それでも私は幸運な部類だったのだろう。私にとっては、この劇団の皆が家族同然だった。悲しかったし、辛かったが、さほど寂しくはなかったんだ」  だから、今日までやってこられたんだと。  冬笠さんはぎこちない笑みを俺に向けた。 「いい気分はしないかな、そんな恵まれた奴に世話を焼かれるのは」 「――いえ」  緩く首を振って否定した。  否定した、けれど。 「そうか。それならそのまま、気にしないでいてくれればいい。私はただ、私の都合で動いているだけなんだ」  相変わらずの渋く、けれどどこか若さの残る声が、芝居がかった仕草に乗る。 「私たちは、観客を楽しませるために芸道を磨いているのだから。折角出会えた新しいお客さんが、暗い顔をしているのは忍びない」 「…………」  多分それは、本心なんだろうと思った。こんなわざとらしい言動を、どうしてそう思えたのかは、自分でもよく分からなかったけれど。  だからこそ、思い知らされる。  俺はいま、そんなにも酷い顔をしているのかと。  正直なところ、何がなんだか分からない。  どうして俺はこんなにも、ミキに対する不信感を持て余しているのか。  いや、というより。これまでが異常だったのか。信じられるけど、信じられない。嫌いだけど、見続けていたい。そんな明らかな矛盾を、これまでずっとほったらかしにしてきたことが間違いだったんだ。  信じるのか。信じないのか。  俺はもっと早く、決断しなくちゃならなかったんだ。  諦めて、面倒臭がって、後回しにし続けてきたツケが、いよいよ回ってきたというだけなんだ。  最初に出会ったときにでも。  或いは、大五郎さんにミキの話を聞いたときに。  俺は決めるべきだったんだ。どちらの側に立つのかを。  そうすれば。  そうしていれば―― 「は――」  そうしていれば、なんだというのだろう。  俺が何をどう決めたところで。  全部あいつが招いたことだっていう、その事実は消えないだろうに。  俺が知ろうが知るまいが。  全部ミキが、アイツがいけないんじゃないか。  アイツさえ、いなければ―― 「チリ君」  冬笠さんに呼ばれてから、内面に向いていた意識が外に戻ってきた。  そして、まだたっぷりとコーヒーの入っていた紙コップが、俺の手に握り潰されていることに気が付いた。  冷たい不快感が右手を伝い、フローリングの床にこぼれている。 「あ――すみません、これ」 「いや、問題ない。何か拭く物を貰ってくるよ。君は手を洗ってきなさい」  嫌味ではなく、やれやれといった風に口元を緩ませて、冬笠さんは立ち上がった。ホテルのフロントへ行くのだろう、部屋の出入り口に歩いていく。 「……冬笠さん」  若干の躊躇いのあと、俺は無意識のうちに呼び止めていた。  最初から、の話ではあったが。  この人のことを、苗字で呼ぶのは気が引けた。 「なんだい」  振り返り、問い返され、また言葉に迷った。  明確な目的があって呼んだわけじゃなかった。ただ、離れようとするその背中を見て、焦燥感にかられたようだった。  もしくは。一人にされるのが怖かったのか。  また。  あの家にいるときのように。  1人で。  ――だとしたら。  だとしたら、ああ。  なんて、無様な。 「冬笠さんは」 「うん」 「たとえ幽霊であっても、死んだ両親に会いたいと思いますか」  つまらない質問をしたと、思った。  どうしてそんなことを聞いたのか、考えたくもなかった。  死んだら何もできないんだ。  遺した息子に会いに来ることなど、彼らにはできやしない。  できちゃならない。  その場しのぎにしても、何でいまさら、そんなことを――と、頭を抱えたかった。 「まあ、会いたくはないかな」  少し黙って、視線を泳がせたあと、冬笠さんはそう答えた。 「再会するには、時間が経ちすぎたんだ。きっともう、私のことも分からないだろう」  それは、辛いことだから。  冬笠さんが部屋を出たあとも、俺は呆然と立ちすくんでいた。  ほっとしたような気もしたし。  恐ろしくなって、身震いしていたようにも思えた。  自分の心のことでさえ、今の俺には分からない。  滅茶苦茶だ、本当に。心の中を、芝刈り機か何かが無軌道に蹂躙していったのではないかと思うほど、荒れに荒れて、荒れ果てていた。  このまま壊れてしまえたら、どんなに――  何度目になるか分からないその願望に、否応なく身体が引きつる。    ――これから飛び込み自殺でもするんじゃないかと――  手を伸ばすことさえ嫌になったから。今抱えているもの諸共に、全部終わらせようっていうのか。  それは俺が、もっとも忌避していた死に方じゃないのか。  このまま何もせず、この気持ちの願いそのままに、ひっそりと死んだとして。  それは結局、アイツの思い通りってことになるんじゃないのか。  そんなふざけた死に方、ないだろ。  そんなの絶対、何があろうと御免だって、ずっと考えてきただろう。  死ねない。死ねるわけがない。  生きていればいいことある――なんていう、無責任な与太話じゃない。  俺は。  俺には。  死ぬ前に、やらなきゃならないことが、きっと―― 「……くそ」  身が縮こまる。  視界が霞む。  想像しただけで、あの吐き気が蘇る。  こんなにも、こんなにも、憎くて憎くて、堪らなくても。  やっぱり、俺には。  人を殺す覚悟なんか、できるわけが、ない。