10 *Y.M 前*  そこは、何ら特徴のない普通の一軒家の中だった。  時刻は深夜なのだろうが、それでもどこからか漏れ出た光によって、ミキが自分の居場所を見失うことはなかった。  二十二インチほどのテレビ。僅かに埃の被ったビデオデッキ。四人は囲めそうな円卓に、小さな座布団が一枚きり。フローリングの床に敷物類はなく、周囲を無機質なタンスやチェストが取り囲んでいる。ポスターや置物のような装飾は見当たらない。必要最低限の、住人の性格が窺えそうなリビングだった。  ミキはざっと周辺を見渡す。階段が目に付いたことから、おおよそ二階建ての2LDKといったところだろうか。やや経年劣化が目に付きつつも、子持ちの家族が慎ましく過ごすのには、ちょうど良さそうな家に見えた。  家族が過ごすには。  その事実に、ミキは心を痛めた。  ミキは知っている。よく知っている。今この家に、そんな家族が住んでいないことを。そんな家族に憧れる子どもが、一人住んでいるだけという、その現実を。 「誰だ」  背後からの呪詞のような声に。ミキは静かに振り返った。 「やあ、チリ君。これが初めてだったね。私が、君の家に招かれるのは」 「招いた覚えなんかねぇよ」  そこに立っていたのは、必然、この家に住む最後の一人。今まさに、あの黒い部屋で眠っているはすまの、チリ君の姿があった。 「まあね。悪いと思ったが、玄関の扉はこじ開けさせてもらったよ。あまり悠長に構えてはいられなかったから」  その顔から、ミキは目を背けたくなった。  目の前の少年は、確かにチリ君ではあったが。その背丈はミキよりも数段低く、五年程度の年月の遡行を感じさせた。  そして、その瞳は。揺れる瞳孔は。  あまりに暗く、あまりに孤独で。  自ら首を吊った死体のようにさえ見えた。 「助けに来た、とでも言うつもりかよ、お前が」  その声が、怒りに震えた。  憎悪と嫌悪が、凍てついた風に混じって吹き荒ぶ。  否定、否定、否定。そのような欺瞞は認めないと、そのような偽善は許さないと。烈火の激しさでもって断じる。 「お前の、せいだろ」  その暴威は、目の前の少年から来るものだけではなく。まるでこの部屋、この家全体が、敵意を剥き出しにしているかのようだった。  底冷えする炎が、熱くミキを包み込む。  それが根本から、なんの膜も防壁もなく流れ出す、芯からの感情なのだと――ミキは、静かに悟った。 「お前が、お前がいたから、こんなことになったんだろ。お前さえ来なければ、お前さえいなければ、俺がこんな目に遭う必要なんかなかった。なかったはずだろうが、ミキ!」  すべては、ミキのせいなのだと。  その言葉を、ミキは否定しない。  そのとおり。  そのとおりなのだ。  実際に彼が、何のことを指して、その言葉を吐いていたのだとしても。  或いは、この家がこんな有様で、目の前の少年がこんな姿であることさえ、ミキが元凶なのではないかと。そう問い質されようとも。  その通りだと、ミキは全てを受け入れる。  だからこそ、いま自分はここにいるのだから、と。 「もう、いいだろう」  ミキの目から、感情の揺れが消える。 「前座はもう充分だろう。あまり主役の登場を引き伸ばせば、気の早い観客は愛想を尽かすぞ。そのくらい、君なら当然弁えているはずだ」  ミキは知っているのだから。ここがどこなのか。なぜここに彼がいるのか。全て理解しているから。  故に答えを叩き出す。真に対峙すべきその姿を、その黒い瞳に捉えるために。 「いい加減、初対面といこうじゃないか――上蚊野 秋佐屋」  その名を、口にした途端に。  蔓延していた負の感情が、停止した。 「クハ――」  少年の、少年だった者の口が裂け、笑いを浮かべたような造形に歪む。  暴力じみた狂笑が漏れ出す。そして瞬く間に、目玉が転げ、鼻が溶け、歯が抜け、耳が腐り、首が落ちる。  その光景、イメージは――ミキであっても知る由もないが――いつかの青柳 晃一朗が見せた幻と、日野 明里の末路が混ざったようなものだった。形作るのは、擬獣の姿。今や彼の恐怖と根強く結びついた、そのおぞましい在り方そのもの。  そして原動力は悪意、隠しても隠しきれないほど明確な害意。この半年足らず擬獣と向き合い続け、歪ながらも空を目指して築き上げられた彼の心の造形を、その魔手によって握り潰し、手前勝手に弄ぶ。 「は――くふ、ひひ、ひひひハハハ――!」  そして生まれる。黒い顔の演者、曲芸を食む道化師。道化恐怖症(コルロ・フォビア)にて栄(は)える者―― 「さあさご来場の皆様、長らくお待たせ致しました! これより本日のメインイベント、名無しの少年の復讐劇が幕を開ける! 席につけ、チケットを握り締めろ、パンフレットは鞄の中へ! どうぞ厚手のハンカチをご用意ください! 穢すも涙犯すも涙、罪深き白髪鬼の首が飛ぶ様を、とくとご覧くださいますよう!」  泣き顔の化粧、異形の両手、均衡を唾棄する衣装。擬獣『上蚊野 秋佐屋』が今、最終幕の舞台に上ったのだった。 *Y.M 中* 「率直に、目的を聞かせてもらおうか、戯曲の王よ」  その異形を前にしても、ミキはあくまで余裕を崩さなかった。至って普通、午後の喫茶店で冷たいミルクティーを楽しむときのように、ミキは穏やかに問い掛けた。  それは、ミキならば当然聞いたことだった。いかに相手が擬獣であろうと、気が狂っているとしか思えない邪悪であろうと、だから即座に斬り付けるようなことはあり得ないと。  ミキにとっての常軌。ミキであるが故の常道。  だが、それにしては。いつも通りというのなら、僅かばかり。  瞳に、喜悦が足りない。 「ああ、いいとも。演者には台本が必要であり、台本の奥に隠された意図を理解する義務がある。そうとも、教本をなぞるだけのくだらない役者なんか、早く首吊った方が世のため人のためだよね! その手のマヌケヅラが一生懸命歯を食いしばって甘い夢とか語りながら努力しちゃってる様とか超傑作、というか、やだ、やめて、僕を笑い殺そうとしないでよぅ!」  ケラケラと嘲笑を続ける上蚊野の声は、反響する度にこの部屋を壊していく。外郭が崩れ、瓦礫のように落ちていき。その先に現れたのは、周囲を観客席が取り囲んだステージ、曲芸の舞台だった。  スポットライトが幾重にも重なり、道化師を照らす。 「それではお聞きください、卑しき私めの歩み、これまでと、そしてこれから織り成す物語を」  金属同士を擦り合わせるような雑音が、断続的に飛び交う中で。  芝居がかった一礼をして、上蚊野はゆっくりと語り始めた。 「夢があったんだ、昔からの」  奇形の両手を広げる。眩しげに光を仰ぎ、その輝きを一身に受けて。 「別段突飛な夢じゃあない。僕は生粋のエンターティナーだから。より多くの客を招き、より大きな舞台で脚光を浴びたかった。僕の人生はそのためにあり、そのために僕は生まれてきたのだから。おかしな夢では、決してない」   その話しぶりには、一つの調子と言うものはなく。穏やかと思えば激しく、唐突に思えばたどたどしく。 口早に話したかと思えば、睡魔に身を委ねたかのように停滞し。 「この世界全ての人が、僕のことを見ていたらいい。僕だけを見て、僕だけを笑い、貶し、軽蔑し、そして怒り、悲しみ、あらゆる感情を向けてくれたらいい。見てくれ、ああ見てくれ、もっとだ、もっともっと、僕を見てくれ! 僕を見逃すものは一人として許さない。僕を無視するものは誰一人として逃がさない。男も女も幼児も老人も生ける者も死せる者も全て、全部全部全部全部が! 僕だけを注目していたらいい! それが! それだけが! お前らに与えられたただ一つの役割だと知れ!」  汚らしくも唾を飛ばしながら、ソレは顔をぐちゃぐちゃにして叫んだ。  その理由は、実に擬獣らしいものだった。衆目に晒されることが快感であったと、それが生前からの性癖だったとしても。ただそれだけのことに、ここまで執着することは、人間にはできない。  人は生きているのだから。何か一つ、たった一つのことだけを追い求めるには、人間の生は雑多に過ぎる。喰わねば弱る、飲まねば朽ちる。肉体を持つが故のあらゆるくびきから解放された死者であるからこそ、これほどまでに偏愛を貫くことができるのだろう。  或いは、それがミキの目指す理想の一端だったとしても。  それが、未だ旧来の姿を残すこの世界に対し、及ぼす影響は悪辣に極まるが故に。  三鬼 弥生は決して、それを看過する訳にはいかない。 「率直にと、頼んだはずだがね、道化師」  ミキは右目を手のひらで覆い、優れない顔色で上蚊野を見た。  未だミキは万全ではない。ましてここは、ミキが居やすい場所ではない。ミキはある意味で外敵であり、反して上蚊野にとっては今や本拠である。時間がどちらに味方するかなど、誰の目にも明らかだった。 「あれぇ、あれあれあれぇ?」  だから、道化師は余裕の笑みで応えた。 「どおぅしたのミキちゃ〜ん。君らしくないじゃあないか、ん? おしゃべり好きの君が、いつもチリ君を苛立たせていた君がさ、この問答を手短に済ませたいと?」  それはおかしな話だよね、と。  普段のミキを真似するかのような口ぶりで言ったあと、上蚊野は吹き出して笑った。 「ああ、ああ、知ってるよ! 知ってるともさ! モチロン僕は分かってるよぉ。辛いんだろう? 苦しいんだろう? 早く綺麗なベッドに横になりたいだろう? 疲労困憊神経衰弱、本当はとてもとても、立ってなんかいられない。ましてここでは――そう! この、今や僕の秘密基地(あそびば)でもある、チリ君の心の中にあってはねぇ!」  昂ぶるピエロの背後に、青の巨人が降り立つ。巨腕から繰り出された横薙ぎの掌底は、細長い道化の身体をへし折りながら、大きく弾き飛ばした。  手ごたえはあった。複数の骨が砕け散る音も鳴った。だが飛ばされた先には、既に道化師の姿はなく、 「痛いなぁ、もぅ」  アオの目の前、さっきまで立っていたまさにその場所に、上蚊野は平然と立っていた。 「痛い。うそ。痛くない。いたい、いたい、ない、いたくない、うそ、ない、痛、ないないない、痛くな、なななないたい、い、い! い! いぃ!」  かすり傷一つなく。血の一筋も流さず。そこに。道化は変わらず、狂った容貌を晒している。  やはり、無駄かと。ミキはアオを自身の背後に呼び戻しながら、その口角を押し下げた。 「ふは、ふは、ふはははははひは!」  腹を抱え、身体をくねらせ、転がるように道化師は笑う。それこそ隙だらけで、その頭をいつでも踏み潰せそうな状態でありながら。 「今だ、と思ったかい? ここだ、と思ったかい?」  血走ったような赤の走る目が、飛び出るほどに見開かれる。 「無駄だよ。ムダムダ、絶対に無理。言ったろう、知ってるだろう、ここはチリ君の心の中であり、そして僕はチリ君だ。僕がここにある限り、僕が僕である限り、それが何者あろうとも! 僕を傷つけることはできないの! サ!」  それは真に不死身の怪物。  人の想い。人の願い。人の思い描く想像の世界。神も悪魔も、すべてはそこから生まれ出でた、幻想の母胎。  人の心。  ここは、チリ君という人間の精神世界、または、精神そのものだ。 「どうやってここへ来たかぁ知らないけども、まあムダな努力ご苦労様でした! 君は異物! 僕オーサマ! 踏み潰されるのがどちらなのか、そのお利口さんな頭使ってよぉく考えてみることだね!」  その世界に、己もまた他人であるはずの上蚊野が、我が物顔で居座っている。それも、ミキのような単なる『侵入』ではない。この世界のありようを、思うがままに変容できている。  その異質さ、おぞましさに、ミキは知らず身震いした。 「ああ、言われるまでもなく理解したよ。想定通りだった。君自身の能力で、チリ君の精神に寄生したのだろうが、それだけでこうはならない。ここまで自在に支配するほどの力ではない。だから君は、チリ君の中にいた、もう一人の彼(・)に取り憑いたな?」  大正解、とピエロは高らかに歓声を上げる。  それはいつかチリ君へ向け、ミキが語り聞かせた理論だ。理性的な人間は、心の中にもう一人の自分を持つというもの。感情的に動く自分を律する、理知的なもう一つの自己がいるというもの。  チリ君の性質もその類だった。それはミキとの出会いに関わらない。彼が生まれ、これまで生きてきた中で形成してきた精神構造。それ自体は取り立てて異常ではない、よくある話であって。その程度の在り方でしかないのだから、そこに異物の這入り込む隙間などないはずだった。  だが。  だがミキは、その異変を察知していた。 「――ドッペルゲンガー。やはり、そこまで成長していたか」  界装具の副作用。覚醒の代償。機関の定義する、ドッペルゲンガーという現象。神谷 満の一件で、最初に疑われたその事象。  やはり彼にとっても、『名無しの黒鎌』という能力は大き過ぎたのだ。本人さえ知らない間に精神が分断され、元々存在していた『理性的な自己』に、明確な存在を与えてしまっていたのだ。  それでもなお、問題はないはずだった。  チリ君の中で生まれたもう一つの自己が、彼自身に悪影響を与える気配はなかった。元々の役割が自制であり、社会に適合しようとする方針であり、彼の性質に合致していたことが幸いしたのだろう。あってせいぜい、チリ君の生命の危機に際して過剰な防衛本能を発露し、ときに金縛り、ときに強烈な頭痛、果ては眩暈や失神という形で、チリ君の行動を抑制しようとしていた程度だった。  だがそれでも、彼の中のもう一つの自己があり続けるため、彼の精神に明確な境界を作ってしまったから―― 「それを奪ったのか、上蚊野。明確にそこにあったから、掴み、侵食し、成り代わることができた。もう一つの彼もまた彼自身なのだから、即ち今の君が、チリ君自身であるという主張も間違いではないと」  己の中の己、仮面、或いは仮面に隠された本当の自分。そうして確固たる存在を得てしまったからこそ、道化師に見つかり、そして呑み込まれたのだ。  まるで今このとき、この現象を成すがために配置されたような、その異能。それこそが、上蚊野 秋佐屋が持つ、擬獣としての特性。精神を司り、記憶を覗き見て、心を蝕む――人間にとっては、最悪に等しいの力である。人は、目に見えない病に対して、あまりにも鈍感だから。  そしていま、ミキの目には、微かな希望さえ映らない。  なぜなら、完全に同化している。  チリ君と、道化師。その境が見えないのだ。  道化師もまたそうであったように、見えないものは掴めない。識別できないものは認識できない。  殴っても殴れないし。  引き裂こうとも引き裂けない。  つまり―― 「さあ、そろそろ理解できたかな? 三鬼 弥生」  道化師の余裕は、油断でも慢心でもなく、論理的に裏付けされた絶対の自信によるもの。 「ここまで辿りつこうとも。そんなデカブツ引き連れようとも。君にできることなんか、何一つありはしないんだよ」  にたりと、下卑た笑みを口元に浮かべ、道化師は勝利を宣言した。  ミキには何もできない。チリ君を救うことなどできはしない。  それは、どうしようもないほどに。  ミキ自身が、理解していたことだった。 「――君は」  ミキは言葉を止め、唇を硬く結ぶ。そして大きく息を吐いて、疲労を隠し切れない瞳で道化師を見る。 「君こそ、それでどうするつもりだ。チリ君の半身――いや、チリ君自身に成り代わり、君は何をするつもりだ。私を殺すのか。殺して、それからどうする」  ミキの背後で、アオが微動する。  何をするつもりなのか。そんなものはとうに看破している。あえて聞いたのは、三嘉神 朔夜のときのような時間稼ぎのためではない。それがどちらの意志なのかを、はっきりと見届けるため。ただそのためだけの理由で、その言葉を、ミキは―― 「殺すのさ。殺しつくすのさ」  道化師は楽しげに笑って、言う。 「『名無しの黒鎌』は、狩れば狩るほど強くなる。永久に餓え、乾き続ける暴食(グラトニー)だ。そしてミキ、お前を――お前さえ取り込んでしまえばもう、俺を止められる奴は誰もいない」  道化師の顔が、遠くなる。一人の男の顔が浮かび、重なって、笑う。 「そうして俺は、新たな十戒となり。史実にかつてない天災を刻み、人々の記憶に残り続ける。生ける人間の敵として、この世界にあり続け、生まれ逝く全ての人間に恐怖(コルロフォビア)を刻む」  舌なめずりをしたのはピエロの顔だったが。影がそれに追従する。浮かび、重なった、チリ君の影が、世界への憎悪に塗れている。  やはり、そうだ。  悪魔や、道化師に囁かれたからではない。  操られているわけでも、誑かされているわけでもない。  彼が。  彼自身が。  その意思を、抱いてしまっている。  したいことも。  やりたいことも。  未だ何も見つけられない彼が、世界に居場所を感じられるわけがないのだ。  何のために生まれて。  何のために生きるのか。  そんな自問に疲れ果てた彼は、だから諦観に身を浸していた。そうせざるを得なかった事実を、どうして責められる。  欲したものは手に入らず。  真に願うものほど遠ざかり。  手を伸ばしただけで、心が軋む。  そんな地獄のような世界で、なお生き続けなければならないこの現実を前にして。  それでも、憎むなと。  ミキには、そんなことは言えなかった。 「なあ、ミキ。俺の力になってくれよ」  それこそ、産声を上げたばかりの鬼のように。その声は寒気を呼び寄せた。 「知ってるよ。お前、俺に引け目があるんだろう」  だから、俺に嫌われるようなことばっかり、してきたんだろう――  ミキは黙って、その言葉の羅列に耳を向ける。 「なあ、ミキ。頼むから。頼むから、さあ――」  俺を、助けてくれよ――  そのおぞましい言葉が、蟲惑的にさえ聞こえたから。  ミキは緩く首を振り、濡れた視線を地面に落とした。  引きつった笑い声が、喧騒のように耳に届いて。  この世界の誰もが、それを望んでいるように思えて。  その中で、唯一。  誰かの掠れた泣き声が、ミキの胸に突き刺さった。 「残念だよ、上蚊野 秋佐屋」  ミキは弱さを押し退ける――否。  抱えて、その上で、前を見る。 「生前、貴方の演技は、本当に素晴らしいものだったのに」  目の前の、チリ君そのものの姿になった道化師に、ミキは語りかける。 「貴方にだって見えていたはずだろう、本当に楽しそうな観客の、その笑顔。紛れもない、貴方の演技が巻き起こした、その熱狂を。なのに、――なのにどうして、それでは満足できなかったんだ、貴方は」  飽くなき欲望。叶った先から生まれ出る、果てのない望み。  誰かの特別ではない。  この世界に生まれた者、その全ての心に宿った呪詛。  故に、三鬼弥生は絶望する。  この世界は――救いきれない  この世界が、この世界である限り。  生き物に。死者にさえ。  本当の幸せは、訪れない。 「貴方の願いは、叶わない」  苦悶の表情と共に、ミキはその台詞を口にする。  何度目のことか分からない――そしてこれから、何度口にするかも分からないと、心が折れても捨てられない、その言葉を。 「私がどうやってここへ来たか。貴方はさほど興味を示さなかったね」  そして右手を差し出して。手のひらの上で輝く、小さな光を眼前に掲げた。 「これは、愛だ。寄り添い、補い、支え合う、他者を愛する心の結晶だ。彼を愛する一人の少女の、ひたむきな心。どんなに小さくても、何者も照らせない光でも、それでも輝くことをやめなかった感情。独りで、誰にも理解されず、遠くを眺めていた彼へ、必死で手を差し伸べようとした彼女の、果たされなかった想いだ」  それを言葉にするたびに。ミキの心が痛むのは何故なのか。  分かる。分かるとも。ミキにはそれがよく分かる。なぜならそれこそが、かつて恐怖を選び取った三鬼 弥生という人間が、代償として捨て去ったもう一つの可能性だったからだ。  ミキはその光を、閉じられた空へと投じる。  そして希う。報われざる光に、せめてもの救いがありますようにと。 「――無明に立ち、行を成し、識を得ん」  それは遥か彼方、紀元前より続く解脱の夢。 「――名声を与え、六処に於いて、触に至る」  この世界は苦しみに満ち、この世界は悲しみに満ち。 「――受を以て、愛に歪み、取を見出す」  だから解き放たれたい。そう願って、願い続けた先人たちの、見果てぬ信仰の成りの果て。 「――万事我が有を示す。この苦、即ち我が生語らん」  そして連綿と続くその道筋を、永劫辿り続ける妄執が、潰れた双眼で以て色(シキ)を暴く。 「ここに成れ、十二支縁起」  光が、降りる。  光が、落ちる。  今や傀儡に身を堕とした青鬼の、その瞳の中へ。 「――識(み)ろ、目無しの青鬼(アカズ)」 *Y.M 後* 「あ、あ、あ、あ、あ」  背景は緩やかに後退していく。  ミキの、そしてアオの脚は動かずとも。最初にこの場所へ来たときのように、不確かな記憶を遡っていく。 「あ、ああ、ああああ、い――」  姦しいなと、ミキは微笑んだ。その表情には、先ほどまでの苦悩は映っていない。暖かなベッドで眠りにつこうとしているかのような、柔らかな笑みで。その様を見る。 「いたい、いた、いたい、いたい、痛いぃぃぃ――!」  その、無様な道化師の末路を見る。 「な、なんでっ、なんで、捕ま、掴まれてるんだっ、僕はァ!?」  酷く取り乱しているが、しかしろくに身動きは取れていない。  なぜなら、その枯れ木のように細長い胴体が、アオの手の中に、完全に握られているからだった。 「何故って、聞くまでもないことだろう。そこにいるんだから、掴めない訳がない。不思議なことがどこにあるのかな」 「そんな馬鹿なことがあるか――!」  掴める訳がない。  触れられるはずがない。  事実、最初にアオが仕掛けた攻撃は、上蚊野になんら影響を与えていなかった。殴り飛ばされたように見えたのは、彼が面白がって、そういう演出をしたに過ぎない。  だというのに、今は。 「ぼっ、僕は、精神だぞ! 心だぞ! こんな、物理的に掴むなんて、あり得――」 「私たちだって精神さ。ああ、ようやく興味を持ってくれたようで何よりだ。私はとても嬉しいよ。なぜ私たちがここにいるのか――そう、言葉にしてしまえば陳腐に過ぎるが、幽体離脱のようなものでね。実のところ、私の肉体は今もなお、チリ君や華ちゃんと同じ部屋で眠っている最中なんだ」  ミキがチリ君の精神に潜行したのは、華との対話を終えたすぐ後のことだ。あれからミキの体感、まだ一時間ほどしか経っていない。  喜ばしいことだとミキは語る。道化師の能力が精神を汚染するものである以上、チリ君の精神に長く居座るほど、その後の悪影響に繋がったのは明白なのだから。  ――悪影響。  ただしそれは、決して。いますぐに解決したとしても『間に合ってはいない』のだろうと、ミキは確信していた。 「だ、だとしても! ここはもう、僕の場所だ! 僕に都合の悪いことなんて、僕をこの場から連れ去る、引きずり出すだなんて、そんなこと、絶対に――」 「それはまあ、至難ではあったがね」  チリ君の精神と同化した上蚊野に影響を及ぼす。それはつまり、一人の人間の心を、力ずくで動かしているに等しい。静かな湖に紛れ込んだ外来種を排除するために、湖そのものを巨大なミキサーで掻き回すような出鱈目だ。当然望ましい行為などではないが、それ以前に、そんなことができる者などそうはない。見えないものは掴めないし、識別できないものは認識できないのだから。己は既に無敵であると、道化師が高を括ったのは至極当然のことだと言えた。  だが、だからこその、アオの能力だった。  完全認識。ログの取得、解析、そして干渉。その瞳はあらゆる隙間を探し出し、その場所への道筋を映し出し、いかなる障害さえも看破して、要塞の中枢を暴き立てる。  この色(シキ)の世界において、アオに読めない事象などない。  チリ君の中に巣くった擬獣を、寄生されたドッペルゲンガーごと掴み取り、大本の精神から切り離してみせる。それが、解放された『目無しの青鬼』の成し得る能力である。  まして、極めて(・・・)良質な(・・・)餌(・)を喰らったいま、このときであるならば―― 「アオは、神様だって識(み)えるのさ」  ならば、精神(あなた)に触れられるのも道理だろう、と。  ミキは自らの足で歩き始める。  記憶のトンネルも、終点が近い。目覚めのときはすぐそこに来ている。 「なんだ、な、なんだよ、僕に何をする気だよ、おまえ――!」  その黒い化粧のように、本当に泣き出しそうな哀れな声で。道化師は最後の足掻きとばかりにわめきたてた。 「先達の後を追ってもらおうと思って。君は十戒になりたいんだろう? 喜びなさい。つい先日、大先輩が通った道だよ。まあ、その先に彼女がいるかどうか、有るのか無いのかどちらでもないのか――そんなこと、私にも分からないんだがね」  最後に現れた鉄のドアを開け、ミキの視界が白に染まった。  そして一瞬の暗転と浮遊感ののち、ミキは黒い部屋の中、黒いソファの上で目を覚ました。  軽い眩暈は、まるで映画館で上映が終わったときのような感覚だと、ミキは朦朧と考えていた。  そしてアオを現界させると、金切り声のような悲鳴と共に、道化師『上蚊野 秋佐屋』も転(まろ)び出た。 「ひ、ひぃ、なんだ、なんだコレ、やめろ、離せ、離せっ」 「だってさ、アオ」  アオによって床に叩きつけられた道化師は、黒い部屋の端々から伸びる触手に、一瞬にして絡み取られた。  原初の鬼姫を捉えたクロの領域――今更侵食するまでもなく、この部屋は最初から、黒い鬼に呑まれている。  天に輝くシャンデリアが、それを示している。 「さて、少々性急ではあるが、そろそろご退場願おうか。何か言い残すことはあるかな、上蚊野 秋佐屋。――いや。その名、そのあり方、どこまでも夢を追い続けるその姿勢に敬意を。現実という即興の悲劇において喜劇に涙し、劇的なる道化を演じ続けた夢の王(ペドロリーノ)――『戯曲礼賛(コメディア)・喜劇王(デラルテ)』」  底無し沼に嵌るように、道化師の身体は沈んでいく。  逃げ場などない。もとよりこの部屋に扉はなく、仮にその拘束を逃れたところで無意味だった。  そのことに、上蚊野は気付いたのかどうか。身体の半分が沈みきって、ようやく抵抗をやめ、荒い呼吸を整え始めた。 「ふ――ひ、ひひ、ひひひひひッ」  そして、一転して、笑う。  笑う。  笑う。  笑う。  意味もなく。意味も分からず。腹を捩らせ千切れるほどに、笑い声を響かせた。 「全てを、愛してるんだろう?」  その血走った瞳が、ミキをねめつける。 「なあ、助けて、助けてくれよ。死にたくない、死にたくない、死ぬのはもうたくさんだ。愛してるんだろう? すべてと言うのなら、僕の事だって、ねぇ、ねぇ、ねえ。愛しいているなら、助けてくれるはずだろう?」  それは、脅しに近かった。  それは断じて、弱者の命乞いなどではなかった。  助ければ、殺す。  助けなければ、嘲笑う。  それだけのことだ。  既に死した道化師にすれば、それはどちらでも良いことなのだろう。  命を燃やし。命を失い。  なお追い求めたものであるのなら。  この世から、その痕跡を完全に失う、その最期のときまで。  その身は、道化であり続ける。 「ああ、愛しているとも」  ミキは迷わず、そう告げる。  けれど、道化師の身体が浮上する気配はない。  再び喉を切り鳴らそうとする道化師へ、ミキはゆっくりと近づいていく。 「愛しているからこそ、一足先に還ってもらうんだ。ああ、それは救済ではないのかも知れなくて、だから本当に、申し訳ないのだけれど。今を生きる若者――私の大事な友人を、三人も悲しませてしまった君だから。少しの間くらいは、どうか、頼むから、我慢をしてもらえないだろうか」  歪に肥大し、血と泥にぬかるみ、腐臭さえ漂う道化師の右手を。  ミキは、その白い両手で包み込んだ。 「済まない。けれど礼を言おう。ありがとう、上蚊野 秋佐屋。貴方の存在、貴方によって与えられたこの恐怖は、永劫私の胸に刻み込もう。貴方を先に送ったという事実が、この私に更なる恐怖を、そして力を、与えてくれる。だから」  ありがとう、と。  ミキはもう一度、道化師に向けて繰り返した。 「ふ――」  その表情が、きっと。あまりに真摯だったから。震えていて、けれど人の温かさは確かにあって、心の底からの言葉を、語っていたから。 「ふざけるな」  道化師は、呻く。  歯軋りと共に、その呪言が漏れ出す。 「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな――」  そして、叫ぶ。  慟哭は怒りに燃え、嫌忌に歪み、憎しみに染まりきった。  この狭い黒の部屋が、まるで震えているかのように。  その怒号は、生者の存在を揺さぶった。 「お前は――あぁそうだ、お前は結局矛盾だらけ! 見下してんじゃねぇよ偽善者が! すべての人を愛するだって? 僕のコトだって愛しているって? だから救う? ありがとう? 済まない? 頼むって? ハッ、い、ひ――ひひ、いひひ、ぎひひひひ、げひゃひゃひゃひゃッ!」  ミキの手を振り払い、震えるその手でミキを指差す。  既に沈んだ右目の分まで、代わりに。左目がその感情を、射抜くような憎悪を、ミキへと差し向けた。 「チャンチャラおかしいねぇ! 人間全部を平等に愛するってことは、特別な人間がいないってことさ! そんなものは愛なんかじゃない! 愛玩! 玩弄! 幼女のおままごと! 違う違う、断じて違う! それを愛だと、何か綺麗で素晴らしいものだと、そんな風に信じているのは、この世界全て浚い尽くしてもお前だけさ!」  ミキは、何も言わない。  荒々しい言葉を耐え忍ぶように、一瞬もその根源から視線を外さない。 「お前は、お前は、お前なんか――」  ただそれを、その糾弾を、当然の報いだと受け入れて。癒えない病巣に、新たな腫瘍を抱えるのだ。 「本当は、誰も! 誰一人として! 愛してなんかいないくせに!」  ――ここに、喜劇の王は朽ち果てる。  どのような経緯か、莫大な思念を食い尽くしてなお自我を保ち続けた、その脅威。  だから、その最期は。  最期の瞬間に撒き散らした、その穢れは。  ミキの不芳な意識を、稚児の首を捻り切るほどに、容易く刈り取った。 ***  ミキが、信じられないものを見たような顔をして、俺の目の前に姿を見せた。  アオに抱えられ、全速力で走ってきたようだった。俺はぼうっとしていたから、突然、いきなり現れたようにしか見えなかった。  不思議な話だ。こいつは何故、こんな場所にいるのだろうか。俺をここへ来させたのはいつもの依頼で、いつもどおり、ミキはその依頼主だったはずなのに。いつもあの黒い部屋で待っているミキが、どうして今日に限って、俺を迎えになど来たのだろうか。  夏臥美町の北、東西を流れる川のほとり。目と鼻の先になだらかな山を備えた、人気のない夜の砂利道だ。ミキの家から駆けてきたのなら、町を縦断する必要があったのに。なにを、そんなに急いで、らしくもなく血相を変えて、こんなところへやってきたのだろうか。  あれから。  上蚊野 秋佐屋の件が片付いてから、ミキの様子が変わった。  いや、ひょっとしたら、ミキ自身は変わっていないかも知れない。  変わったのは、俺か。  俺の見方が、変わったのか。  ミキの言動、その一つ一つに疑問が浮かび。  それに重なるように、別の声によって上書きされていく。  ――あの女のことを、決して信じてはいけないよ。  それは些細な懐疑心として募り。  ――結局みんな、アイツのせいだ。  いつの間にか、無視できないほどに膨れ上がっていた。 『あ、おはよう、チリ君』  夏休みが明けて。  新学期の教室で、綾辻と会った。 『夏休みの宿題どうだった? 私は数学で躓いちゃったから、叶ちゃんと勉強会をしてね。その後は毎日、色んなところに遊びに出かけて――』  あんなに流暢に喋る綾辻を、俺は、初めて見た気がした。  他の誰かと話しているときのように、普通に。当たり前のように笑みを浮かべて。 『あ、叶ちゃんが呼んでる。じゃあね、チリ君。また声を掛けてね』  そんな風に、なんでもない他人と別れるように、綾辻は離れていった。  コルロフォビア絡みの記憶を、失ったというだけではない。  俺は知っている。ミキに聞いて知っている。 『彼女の気持ちを、どうか忘れないでいてあげて欲しい』  綾辻が、俺を助けるために、その心を捨てたことを。  俺は知っていた。アズマに忠告されて、最初から知っていた。 『お前、もう少し周りのこと見た方がいいぞ』  綾辻が、俺のことを、好きでいてくれたことを。  心を、捨てた。  アオに、食わせた。力の行使の対価として。  ミキが、アオに。  ミキが。 「――――」  ミキが、俺のことを呼ぶ。  いつものように、俺に付けられた名前を呼んだ。  名前。そう、名前。  俺はいま、ここで、また名前を狩った。  いつもの依頼。いつもの擬獣退治。  他人の、知らない誰かの名前を口にして、この黒い鎌で刈り取った。  知らない、誰か。 『帰らなくては。私は、帰らなくては』  死んでなお、生きた人間を害そうとする、おぞましい擬獣。  川で泳いでいたかのような――いいや、荒れる海に飛び込んで溺れ死んだような、無残な亡霊が。  いたんだ。  さっきまで。  俺の目の前に、確かに。 『頼む、行かせてくれ。ミズキ(・・・)が――息子が一人、家で待っているんだ。だから――』  俺は。  俺は、その息子とやらが、父親(ソイツ)のことなんかもう、待っていないことを知っていたから。  よく、知っていたから。 『池鯉鮒(チリフ) 茂(シゲル)』  躊躇いなく斬り殺した。  死んだ人間が、いつまでも出しゃばってくるんじゃないと拒んだ。  いつもどおりに、ミキからの依頼をこなしたんだ。  だから―― 「チリ君」  ミキが、俺のことを呼ぶ。 「済まない、チリ君。本当に済まない。こんなことになるなんて、私は――」  知らなかったと?  ああ、そう言えば、擬獣の情報は事前には分からない、とか言っていたな。  それももう、怪しい話だが。 「……雨が」  雨が、降り始めた。  記録的豪雨に見舞われた夏臥美町に、再び雨が降る。  まだ暑い日々。元々降水量の少ない夏臥美町にとっては本来救いの雨のはずだが、しばらくはそうも言ってはいられないだろう。  砂利が斑に染まっていく。  雨音は川の波に攫われて聞こえないが、それでも雨脚は強い。  何かを急き立てるように。  雨が、降る。 「俺は、帰るよ」  嘘だ。  帰りたくなんてなかった。  もう誰も帰ってこない、あの家になんか。 「待ってくれ、チリ君。話を――」  肩を掴まれそうになって、その手を振り払う。  そのとき初めて、俺はミキの顔を見た。  泣いているのかと思った。けれどなんてことはない、雨粒が頬を伝っていただけだ。  青白い顔で、今にも顔をぐしゃぐしゃにして、泣き崩れてしまいそうな、そんな顔に見えた。  きっと俺も、同じ顔をしている。  もう疲れた。疲れたんだ。  頼むからいい加減、一人きりにして欲しい。  どうせみんな、いなくなってしまうんだから。 夏夜の鬼 第六章「戯曲礼賛・喜劇王」 ―― 完 ――