名無しの -6-


 駆け抜けるは空(いつしか輝きを取り戻した星々)、俯瞰するは目を覆いたくなるような眩しい町並み(いつも見下ろしていた、あの)。不自然な速度で流れ行く風景(ああ、これは俺が……)は自然、一切の滞りなくそこにあって。両脚を交互に踏み出すのが人間の歩法(それは常軌)で、その行程を可能な限り強く速く行うのが疾走(それも常軌)ならば、徒歩以上に間隔を開けた脚の流動で、疾走以上の速度を生じさせているこの身体(俺の器)――この俺(意識は再び霧散し始め)は、一体何なのだろう(『化け物め……』)。

 化け物……今し方アレは、俺を見てそう言った。想像以上に流暢な人語で、確かに。……そうだ、化け物だ。常軌を逸した――逸してしまった者は『異常者』であり『化け物』であり。前者はそれでも人間を指し、後者は既に人ならざる者を指し示す言葉――否、そこには些かの差すらもありはしない。

 しかし、嘆くべきはそこではない。やはり(そう、あの姿を見た時から、なんとなく……)アレは、未だに気付いていない、それこそが嘆くべき(許されざるべき)亡骸(だってソレは既にシんでいるのだから――)。

「か、は――」

 粘ついた熱気が喉を蹂躙し、俺の意識は漸く浮上した。酷く息苦しくて、貪るように呼吸する。……ああ、どうやら呼吸すら忘れていたらしい。とは言え、これまでの記憶が飛んでいる訳ではない。激痛の中、自分の頭を探ってみれば、今からでも十分に思い返せる。


 あの、悪夢にも似た世界を。

 突如変貌を遂げた世界の中で。正体不明の何かが急速接近するその様は、本能的な恐怖を呼び覚ます。けれど、俺の身体は驚く程冷静に動いていた。それは恐らく、接近するソレの目標が俺ではないのだと、接触直前に気が付いたからだ。だが、俺以外にソレの標的に成り得る何かがいるとすれば、それは(それは隣の……いや、しかし、この違和感は……?)――

 無我夢中でマツイさんを突き飛ばす。反動で道脇の塀にぶち当たり、ゴツリと予想以上に強く鈍く響いた音に気を回す暇すらない。ソレは信じられない速度で突っ込んで来たにもかかわらず、その速度を一瞬で殺し、間髪入れず、塀に寄り掛かったまま崩れ落ち動かなくなったマツイさんに向かおうとしているのだから。

 止めなきゃ(――さなきゃ)、止めなきゃいけない(――さなきゃいけない)、アレをそこにいさせる訳には行かない――!

 右手の得物をソレ目掛けて真横に振り抜く。手応えはない、だが目的は達した。ソレは俺に――多分、今初めて――気付き、片足で地面を蹴り飛ばしその場から離脱している。

 ぎょろりと赤い眼光が俺を貫く。

 一間、息の詰まるような緊張の中、ソレの動きは停止した。最初は残像を目で追うのがやっとの、とんでもなく素早く見えたソレも、今では十分に目で捉えられる(動体視力の強化という、非現実の中の常識……)。目算で十メートル弱、またマツイさんを狙って来たとしても、十分に追い払える距離の筈だ。

 ソレを視界に収めたまま、右手に視線を送る。およそ重さのない長柄の武装(ああ、これは……)。マツイさんを突き飛ばす一瞬前、右掌に電撃が走った(それは繋がった証)ような記憶がある。それ以降ずっと、俺はこの凶器を握り続けていたようだ。

 脈動を感じる。血流に乗って全身に行き渡る“力”が、言い知れない不快感を伴ってのたうち回る。呼応するように胸が高鳴るのは恐怖故なのか。……それにしても、この異様な高揚感は一体何だ。

 頭痛は今も変わらず、俺の頭をぶち壊してやろうという意志でも伝わってきそうなくらいの力強さで居座っている。……そして、先程のマツイさんの声のように、それを助長しているものがある。それは外界が俺にもたらす何かではなく、他ならぬ俺自身の“思考”。心の声が、“考える”現在進行形が俺を、内側から執拗に苛んで仕方がない。

 それでも。それが分かっていても……広がった視界が、より明瞭になった世界が、俺の中に入ってくる限り、この思考が途絶えることなどない。高ぶる精神が、嵐の如く言霊を撒き散らす。故に、この疼痛が止むことは決して有り得ないのだ。

 夜闇は変わらない。空に太陽はなく、辺りも暗色に紛れてどんよりと沈んでいる。だが正常とはかけ離れている。大量の血液を蒸発させて散布でもされたのか、視界に入る全てに気色の悪い赤(ああ、本当に、血液そのものの色……)が滲んでいる。赤色のコンタクトレンズでも入れればこんな光景が見えるのだろうか。淀んだ色は、まさに地獄の情景そのものである。赤色の靄が肌に突き刺さっているようなこの感触は――凍えるような寒さは、間違いなく、もう何度目になるかのあの世界。反して、沸騰するように吹き上がる炎熱、この拍動は、あるいは一筋の命綱。

 そして、目の前にいるモノ(知っている。アレは“擬獣”)。人の形をした何か。両腕両脚、そして胴体が、影絵のように真っ黒で、本当に影が浮き上がってきたような姿。闇に紛れるようにそこにあって、けれどこの赤黒い世界には決して溶けきることはない。あれが、例えば本当に影のように薄っぺらいのかどうかは、今のところ分からないが。

 そして首から上、頭部は――ない。それはどこの怪談の話かと突っ込んでやりたいがそれどころではない。額も頬も顎も鼻も、そして口もないというのに、目だけはある。首の上、本来目があるのだろう位置に、異常に血走った眼球が浮いているのだ。……赤い目が擬獣の特徴だとか聞いた覚えはないけど顔がないなら目だってなくてもいいだろうにホントこんなの嫌がらせ以外の何モノでもないって怖すぎる!

「痛っ――」

 心の中で思わず上げた叫びが頭が軋ませる。先程――擬獣が現れる直前――よりは幾分紛れているようではあるが、頭と身体の連結が酷く曖昧で、地震でも起きてるかのように視界が揺れる。まるで熱にうなされているような心地、しかしそれでいて世界は明確な輪郭を保ち続けている様は、異常を通り越した何某かの“別の次元”に足を踏み入れてしまったのでは、という不安を掻き立てる。――冗談じゃない。こんな不安定な状態、少しでも隙を見せて、もしまたあの人を狙われたら、そしたら――

 と、その時だった。ジワリと空間が波打った。恐らくは目の前にいるアレを中心から波紋が広がるように、なだらかに穏やかに、そして身が縮む程静かに、波はこの世界全体へと波及する。そして、

「化け物め……」

 歪な世界は、声を発した。

「……なんだ、これ」

 声は前方からだけではない。後ろから、右から、左から、死角なく全方向から響いてきた。声質は、僅かにノイズを含んではいるが人間の、恐らくは成熟した男性の低音。……思えば此処はアレの住処。迷う間もなく、その声の主は限定出来た。

「奪いに来たのか」

「奪う?」

「また、奪いに来たのか」

「また……?」

 立体的に届く言葉、その発音ははっきりしているものの、内容はまるで掴めない。これもまた擬獣だからなのか。思念が寄り集まった事による混乱故なのか。分からない。今までだって、ミキが種明かしをする前に、擬獣である固体の内情を理解出来た試しなんてない。

 ……当たり前だ。アレだって元は人間だ。会って五分足らずで理解出来るものなら、対人関係で苦しむような人間なんていなくなるじゃないか。

 意識が別の場所に飛びそうになるのを、かぶりを振って抑え込む。

「……もう、なんでもいいよ。そういうのは俺、専門外なんだ。悪いけど終わりにしよう。ただでさえ頭痛いってのにさ、お前みたいなのがいると胃まで煮えくり返りそうだ」

 遊んでいた左手で頭を抑えながら、そう言って、

(――煮えくり返る?)

 自身の台詞を反復し、戸惑いを覚えた。

 胃が、腸が煮えくり返る。口をついて出たその表現は確か、どうしようもなく苛立たしい感情を表すものではなかったか。――俺は今怒っているのか? それは何故、何に対して(執着と嫉妬、と誰かが……いや、でもあれは――)? そして怒りとは、こんなにもはっきりとした“恐怖”と共に浮かび上がるものなのかだろうか。

 僅かに引っ掛かる程度の小さな疑問の筈が、それが起点となって新たな疑問を次々と沸き上がらせる。そしてそれらは、どうしようもなく頭を――いいや、もうこれは全身に及ぶ程の規模で、俺自身を突き破ろうと踊り狂う。

「邪魔を、しないでくれ」

 これは、聴覚器官を介して流れ込んできた――目の前の、首無し男の声だ。静かに震え、悲愴に駆られたような声。それはどこか、酷く必死な声色であるようにも思えた。

「駄目、なんだ。僕は、もう――」

 ふと気が付いた。影のような真っ黒い右腕、右手、その先に、不自然な青白い光沢を持った何かが(この世界としてもまた異質な、あれは……)握られていることに。

 まず頭を掠めたのは、鋭利な刃物。刃渡り七センチ程度のナイフだろうか。夜に紛れ徘徊する暴漢なら兎も角、あの“擬獣”がそんなものを手にしているというのはどうもしっくり来ないが、だとすればあれは一体何だ? ――いいや待て。あれが必ずしも俺の理解出来る代物であるとは限らないじゃないか。だったら、そんなことまで考える必要なんかないだろうが。

 考えるべきは、アレが何かではなく、今何をすべきか。

 いつも通り消せるのなら(消す? 違う、俺がやるのは――)それが最良。だがそれが出来るか? アレは今まで俺が見てきた擬獣とは違う。初めからマツイさん――人間を襲ってきた。いつアレがまたあの人を狙わないとも分からない。それを警戒しつつ接近して斬り付ける……。そんな漫画みたいな真似が俺に出来るかよ。幾ら力が強くなったって、それを扱う技術のない俺じゃあ限界がある。

 それ以外の手段は一つしかない。けどそれは俺が“ニゲ君”に逆戻りする悪路だったりするから、いつも出来ないでいた――

「……あれ」

 ふと、思い出すことがあった。次いで視点も割と定まり始めたものだから、こういうのを“閃く”というのかと、頭の片隅で思ったりもした。ああ、そうだ、今までが今までだっただけにすっかり失念していた。

 今は逃げてもいいんだ(今は、ああ――)。いや、ミキの言葉を優先するなら、むしろ逃げなきゃ(逃げなくては)いけないんだ。

 再び、首無し男を直視する。先程とは違い、外見だけでなく動静も把握できる。

「もう、ああ――ああ、ああ、ああ、あァっ、あんな、あんなところにィっ――」

「――っ」

 挙動が激しい。暴風に攫われる影絵さながらに全身を揺らす首無し男。見た目こそ二本の脚で立っているように見えるが、実際はただあの場所にあるだけ。既に立つことなど出来ず、宙に浮いてしまっているというのに、立っていた時を思い起こし、未だそうあるかのように自らを騙している。その様は、まるで水に溶けることの出来ない油。何に対しても異質な黒は、闇に抱かれることすら叶わず、苦悶に歪み続けている。

 そして薄れる俺への威圧。鮮血の眼は俺を捉えてはいない。……アレは最早、俺のことを忘れている。俺が思考した僅かな時間で。――そしてアレはもう一度、最初の標的を狙い始める。

 そう察した後は速かった。右脚の一踏みで移動し、壁にもたれ掛かっていたマツイさんを抱え上げ、一目散に逃走する。マツイさんの身体は空の人形のように軽く、駆けることにはまるで支障もなかった。

 追いつかれたらどうなるかを考えなかった訳じゃない、だが、兎に角全力で逃げる(なんて屈辱、だが忌まわしき暗示が今でも――)しかなかった。

 一足ごとに頭痛は収まっていく。けれど今度は、目の前がどんどん明るくなっていく(夜明け、であるはずが無く)。全身がぼうっとと熱い。首から下の感覚が薄れていき――


 そして(そして)意識は(意識は)此処に(此処に)霧散する(顕現する)。

「ミキ!」

 滑り込むように英雄マンションに侵入し、黒い部屋へと続く扉を蹴りつける。扉は勢いよく開いたが壊れはしなかったようだ。いや、壊れていようが構わない。むしろ激痛が走った頭の方が深刻なのだが……最早自力での制止は出来ない。あの擬獣の出現も、塞がれた両手も、俺の心情も、そしてこの行動も、あいつは全て予測しているはずなのだから。

 見渡す限りの黒い一室には、一点の白もなかった。……いないのか? いや、そんなはずない(あの女は此処にいる)。

「いるんだろ。さっさと出てこい。言ってやりたいことが山程あるんだよ」

 自分の声が、気持ち悪い程はっきりと反響する。空調の所為か、夏とは思えない程ひんやりと冷めた空気。およそ人気を感じないこの開けた空間には、確かに何かがいる。矛盾した情報はそれでも揺らぐことなく、部屋の奥、いつもミキが座っていた見るからに高級そうなソファの前まで歩み寄る。両腕で抱えていたマツイさんをソファに寝かせると、急激に身体が冷えていくような気がして、安堵するような、嫌悪するような、複雑な想いがすり抜けて、消えていった。

 踵を返し、いつもミキが見ているのだろう風景を視界に収める。何もない黒。永遠の黒。黒いが明るい。明るいが闇。――ミキは此処でいつも何をしているのだろう。何を見ているのだろう。

 そう言えば、この部屋には更に奥へと続く扉が二つあった。或いはそのどちらかの先にミキがいるのかも知れない。

 ……と。

「……ない」

 視界を左右に散らしても、部屋は一面の黒のみ。いつも見る扉はなく、側面の壁は一様に真っ黒に染まっていて、扉は二つとも――

「いや待て、待て待て待て」

 目を擦ってもう一度確認する。確かこの部屋には三つの扉があった。どこに続くか分からない扉が二つと、もう一つ、今し方蹴り開けた、玄関へと続く扉。……ない。本当にない。一面が真っ黒。一面が平坦な壁。見間違いでも何でもなく、扉が三つともなくなっている。

 黒い密室、黒い箱。逃げ場など疾うに断たれた、如何なる場所とも繋がりを持たない密閉空間。壁も床も天井も、何もかもが黒に染まった異界。そう言えば例のシャンデリアも見当たらない。まるで何かを閉じこめておくための牢獄……しかしこの、学校の体育館のようなただっ広い部屋を牢と呼んで良いものなのだろうか。牢獄ならば、もっと狭い部屋にしても良かった筈(そう、此処は“可変”なのである、という確信が――)だから。

 もしかしたら、此処は“閉じこめるための場所”ではなく“逃がさないための場所”なのではないだろうか。“閉じこめられた”のは結果であって、目的は別のところにあるのではないか。それは一体如何なる場所か……そうだ、古の闘技場は確か、そういう用途を持ち合わせていたそうだが。

「いらっしゃい、チリ君。来てくれて嬉しいよ」

 突然美しく鳴る声は――背後。ハッとして振り返る、けれどそこには、場違いにも程があるマツイさんの呑気な寝顔が転がっているだけだ。

「どうかしたのか、チリ君。狐にでも抓まれたか?」

 確かに、ミキの声は聞こえる。けれど姿はどこにも見えない。ソファにも、ソファと壁の十数センチ程度の隙間にも勿論。部屋の隅から隅まで見回してみても、どこにも。

「どこにいる、ミキ」

「此処にいるよ。勿論ね」

「ふざけんなよ」

 知らず怒気が強まる。漸く頭痛が治まってきたというのに、気分はまるで晴れない。

「なんで巻き込んだんだよ、この人を」

「ああ、マツイさん、だったか。成る程、そこに来るか、チリ君」

「当たり前だ。もう少しで殺されるとこだったんだぞ」

 俺の心中を余所に、ミキはいつもの調子で含み笑いをする。

「良かった。なかなかに優秀だよチリ君。ちゃんとあの擬獣の正体に気付いているんだね、君は」

「お前は……」

 普通に話をしているようなのに、何か、越えられない壁を隔てて話しているように、まるでこちらの意図が伝わっている気がしない。

「なら話は早いと思うんだがねチリ君。あの擬獣は女性がいなければ出現しない。だから彼女に同行して貰ったんだ」

「だったらお前が来れば良かったんだろ。……大体なんで俺なんだ。アレはお前が消さなきゃいけない側の奴だろうが」

 相手の名前を知らなければ俺に出番はない。いつかミキが言っていたとおり、俺にとって名前を尋ねるのは必須事項だ。だからこそ、口が利けなかったり、そもそも名前がなかったり、或いは名前を聞く暇もないような化け物相手は、全てミキが担当してきた。そう思っていたのに。

「うん、そうだね。けれど君でも相手が出来ない訳じゃなかっただろう? 人間主体の擬獣でも、人間離れした要素を持つ者程記憶はより薄れ、自分の名前なんて覚えてはいないもの。だが、君は彼の名をもう知っている」

「だからって関係ない。わざわざ関わりのない奴を連れて行く必要なんかなかった。……まさかお前また、無駄なことだからとでも言うつもりかよ」

 いつか聞いたことがあった。

 ミキには擬獣の正体が分かる。人格も身分も、勿論名前も含めて、全て。だからこそ、事を終えた後に例の説明会ができる。

 だったらミキが俺と一緒に行ってくれれば、もっと楽に対処出来るんじゃないか、って。そう思うのは至極当たり前な筈だ。

 けれどミキは、そんな無駄なことはしたくないと、事も無げに一蹴したのだ。

「ああ、無駄になってしまうね。だがいつもとは勝手が違う。分かるだろう、チリ君。あの時、あの擬獣が現れた時点で、君の隣にいたのが私だったなら……」

 ――次の瞬間、あの擬獣は確実に消滅させられていた。

「ね。それじゃあ駄目なんだよ。前にも話をしただろう。擬獣を“救う”ことに関しては君の界装具の専売特許だ。私にも彼等を打ち倒すことは出来る。だが、君のように浄化してあげることは、簡単には出来ないんだよ」

「…………」

 ぎり、と右手を握る。温かくも冷たくもない感触が心地悪い。

「……いや、君が怒るのも分かる。だがねチリ君。君ならば彼女を守りきることが出来ると確信したからこそ、彼女に着いてきて貰ったんだ。分かるね、チリ君」

 優しく、小さな子どもに言い聞かせるような声で、ミキは言った。

「……分かって、るよ」

 そうだ(ああ、また――)。全て分かっていた。間違っているのは俺の方だってことも、ミキが俺なんかに言い負かされるような相手でないことだってことも、重々承知していた。けれど感情が、行き場のない怒りが、どうしてもそれを認めようとしなかった。自分が、自分の世界が侵害されたのだと、生温い被害妄想に耽っていたかった。それだけだ。これ以上は進まない。たとえ俺がどんな理由で憤ったところで、ミキにはただ、子どもが駄々を捏ねているようにしか見えないだろう。ならもういい。俺が抑えればいいだけのこと。何かを見限り、諦めることなど、俺にとっては何の苦にもならないことだ。


(そう――それが、俺なんだ)


 ああ、また頭が、割れそうだ。


「何か、疲れているようだがチリ君。残念ながら君の仕事はまだ終わってなくてね」


 風が吹いた。完全に密閉されていたはずのこの黒い部屋で、冷たく一陣。そしてザワザワと、無数の虫が這うようにして全体に広がる、赤。

「一度彼に 此処を譲る ・・・・・ 。分かるね、チリ君。君が、彼の幕を引くんだよ――」


 今一度振り返り、そしてこの広壮な部屋を一望する。いつの間にか、逃げ場を失っているのは二人ではなく、俺一人となっていた。いや、それだって今更な話だ。俺の大嫌いなミキという女は、だからこそ信じることが出来るのだ。

 バチリと、再び繋がる意識。右手から全身へと周り、次々と連結していく狂気。分かっている。分かってきた。分かっていた。――感情の行き場は、此処にちゃんとあったんだ。


「――いない。嘘だ、なんで、いるのに、此処にちゃんといるのに、なんで、なんでいないんだよぅ……!」

 分かる。分かっている。“いない”のに“いる”。――今なら、お前を分かってやれるかも知れないよ。


 赤い眼球。そうだ、こっちを向け。俺に気付け。

 心からの絶叫が届き、視線が再び交差する。


 ――切り替わった主は首ナシの影絵。

 ――迎え撃つは、怒りに狂う浄化の死神。


『青柳 晃一朗。……終わりにしよう』