第六章「戯曲礼賛・喜劇王」 6 前 「あのコマーシャル、最近見ないと思ってたけど、まだやってたんだね」  若干疲れの見える声で、綾辻が呟いた。車道に面した施設内であるが、時間帯の問題か車の往来は少なく、やや小さなその声も難なく俺の耳に届いている。  ゆかちゃん先輩の住む学生マンションの一階エントランスは、日光の降り注ぐ屋外に比べれば随分涼しく、時折吹き込む風のおかげで汗ばむこともない。思いのほか湿気も少なく、人を待つにはいい場所だった。 「多分、そろそろ打ち止めだろ、アレで。あっちこっちの国で問題になって、反対運動まで出てたんだ」  だから、この国に影響が出ないはずがないと。たまたま俺がネット上で見かけたその事情を、綾辻はまったく知らなかったようで、意外そうな声を上げた。 「ずーっと、あのハンバーガーショップのイメージキャラクターだったのにね、あのピエロさん」 「だからこそ槍玉に挙がったんだろ。あんな不健康な食べ物を陽気に勧めて、子どもたちの未来を壊すんじゃない、とかって口上でさ」  それは、世界展開している大型チェーンだからこそ起きた、世界的な反対運動だった。昨今の健康志向は、今では不健康の代名詞のような扱いを受けるジャンクフードを目の敵にしたのだ。アフロと黄色い服に、赤と白の縞模様がトレードマークのピエロは、俺でさえよく知っているくらい、この国でも慕われていたが。だからこそ憤りを一身に受けた。あのキャラクターがテレビの中で踊ることも、もうないのだろう。 「ハンバーガーとか、ファストフードが不健康なのは、確かにそうだと思うけど。それでも、その、なんていうか……」  綾辻は言い淀んだが、言いたいことは俺にも分かる。小さい頃から馴染みがあって、殊更口にするほどではなかったにせよ、それなりの愛着はあったのだろう。  ミキが語ったように、世界の健康に対する意識向上は、魚や和食の注目度を急激に上げることになったが。それはつまり、逆に注目されなくなった食が存在したということになる。  その一つがこれだ。手軽に空腹を満たせ、それもなかなか旨いハンバーガー、フライドポテト、コーラにシェイク。たまに食べる程度ならまだしも、そんなものを日常的に口にしていれば、肥満を始めとする健康問題を招くことは想像に難くない。  ただ、その想像ができなかった人間が、思いのほか大勢いたという、これはそういう話なのだ。 「まあ。店頭の人形を焼くくらいのバッシングは、流石にどうかと思うよ」  何の不満もなく、ミキに言わせれば思考停止して、それを選び食べ続けていたのは自分自身ではなかったのか。好き好んで口にして、何かしら健康に問題が出たとして、それは自己責任ではないのだろうか。  原因と責任の所在は、必ずしも一致しない。ジャンクフードを食べ過ぎた、健康問題が起きた。だが自分たちは悪くない。悪いのは、その原因を作ったのは、笑顔で購買意欲を煽ってきたアイツらなんだ。だから責任を取らせてやるんだ――なんて。責任転嫁も甚だしいじゃないか。 「でもっ」  慌てて、取り繕うように、綾辻は声を上げた。 「そういうことも、そうなっちゃうことも、ある……ん、だよね」 「あるんだろうな。あったんだからな」  ――ともあれ。  そうして絶滅危惧種となったピエロが、最後のあがきだとでも言うように、俺たちの前に現れたのが、ついさっき。  それから。  それからは―― 「おっまったー!」  マツイさんが、元気よく階段から飛び降りてきた。七段目くらいからジャンプしたように見えたが。足腰が強い、というか、普通に危ないからやめて欲しい。 「お疲れ様です、松井さん」 「おつかれいただきましたー!」  綾辻が丁寧に頭を下げるのを見て、マツイさんは満足げに頷いていたが。俺にとっては非常にどうでもいいことなので、無視して話を進めることにする。 「で、どうでした? ゆかちゃん先輩の様子」 「いんや、どーも。あれ以降は普通だったよ。ちょっと顔色悪かったくらいカナ」  俺と綾辻はほっとして、顔を見合わせる。まああのあと、普通に会話できて食事もしていたから、大丈夫そうに見えてはいたが。本当に、一時はどうなることかと思ったのだ。  一時は。  そう、あのコマーシャルを見た直後だけは。 「二人にごめんね、って言ってたよ、ゆかちゃん先輩。ビックリさせちゃったし、部屋の片付け手伝ってもらっちゃったりしたからってサ。ガラス割れて飛び散ったりしてたけど、ケガはなかったよね?」  どちらも無傷なのは確認済みなので、迷わず肯定しておく。実際一番危なかったのは、悲鳴に驚いた綾辻が放り投げた包丁が、首元すれすれのところを通過した俺だったと思うんだが、辛うじて生きている。 「良かったよぅ。や、私も油断してたや。まさかゆかちゃん先輩があの症状(・・・・)持ちだとは思わんかったもんでさ。知ってたらもうちょい、警戒してたんだけどねぃ」 「心当たりがあると?」  マツイさんの物言いから確信を持ちつつも、あえて質問を投げかける。 「精神面の異常、ですよね。突然叫んで、錯乱して、手当たり次第物を投げたり、暴力を振るったり。それまでの様子からは想像もできないような豹変だった。なんだってんです、あれは」  絶叫とともに、人形やクッションから、鋭利な文房具やガラス小物までが、部屋の中を飛び交った惨状を思い出す。あんな症状を俺は見たことがない。俺が知っている病気の種類なんて高が知れているから、すぐさま奇病だなんて決めつけやしないが。それが何か、薬の副作用のようなものでないとするなら。どうしようもなく、深刻な病理を思わせた。さっきのあの騒動は、それくらいの大事だったのだ。  ――否応なく。カミヤの顔が、頭の中をちらついている。 「道化恐怖症(コルロフォビア)」  マツイさんが、短く、その名前を唱えた。 「このお国じゃあともかく、海外では割かし知れた名前だよ。コルロってのは、サーカスなんかによくいるピエロ、クラウンのことね。高所恐怖症とか暗所恐怖症みたいなのと同じでさ。パニクっちまうんだ、ソレ(・・)を見たってだけのことで」  ピエロという存在、そのものに起因した、恐怖症。――だから、つまり。あのコマーシャルを見たことで、あの事態に陥ったという俺と綾辻の予想は、当たっていたということか。  あのコマーシャルに出ていた、ピエロの姿を見て。 「しかしまあ、恐怖症っていうのは、ものによってはあんな風になるのか。高所恐怖症とかのイメージじゃ、あんな過激な反応があるとは思ってなかった。苦労してきたんだろうな、あの先輩も」  そうだね、と綾辻も頷いた。  あそこまで重度の病状であったならば。じゃああのイメージキャラクターは、ずっとあの先輩にとっての天敵だったわけだ。並び立つチェーン店と共に立つ人形やポスター、玩具、テレビで唐突に表れるその白面は、それこそ焼いてしまいたいほどの存在だったに違いない。本当に、不運な話だ。 「違うよ」  ほとんど納得しかけていたから。  マツイさんが、いったい何を否定したのか、すぐには分からなかった。 「ゆかちゃん先輩は、そういうんじゃない。今までずっと、あんな風にはならなかった。ハンバーガーだって、みんなで普通に買いに行ってたもん」 「――なんだって?」  先天的、或いは昔からの症状ではない――いや、それ以上に。マツイさんの今の言い方は、『最近突然、そうなった』というものではなかったか。 「恐怖症なんて、風邪みたく流行するようなものじゃないでしょう、普通」 「だーからさ、フツーじゃねぇっつーハナシなのよ」  普通じゃない。なるほど、医学分野ではなく、オカルト分野だってことか。マツイさんが詳しいわけだ。綾辻も首を傾げていて、ちょっと安心を取り戻す。 「流行ってんのよ、この町で。ピエロを見た途端、あんな風にパニック起こす人が、ここ数日で六人、いや七人だ。けど道化恐怖症っつったって、必ずあそこまでになるもんでもないんよ。そいで、私もマユツバだと思ってたから、ゆるーく調べてたんだけどさ。まさかって思うよね、目の前で見ちまうとは」  マツイさんは深刻そうな顔をしている。流石のマツイさんと言えど、身内の話となれば、不思議発見だ何だと喜んでばかりもいられないということか。いや、同じ顔でドーナツを選んでいるところを見たことがある身としては、あまり信憑性はないんだが。 「あ、じゃあ」  綾辻が、ここぞとばかりに入ってくる。  これまで綾辻の様子を盗み見ていたが、会話に入ろうにもなかなか入れず、ひっそりと肩を落としている姿を何度か目撃していた。今回は、稀な成功例だ。 「駅前で、ピエロの人を見ていたのも?」 「ウン、そーそーそーよ。何か知らんかなって、準備中に話し掛けたのが最初。芸を見たのはそのついで、っていうかお礼? だったワケよ」  マジかよ。あれそんな伏線だったのか。 「でもま、結局分かんなかったよ。知らないってさ」 「まあ、そうでしょう。そう上手く行くわけもない」  ピエロ恐怖症が多発している――からと言って、たまたまやってきたピエロが事情に精通しているなんて、そんな都合のいいことがあるもんか。もしあったとしたらそんなもの、悪意以外の何ものでもないだろう。  ともあれ、原因不明のままだ。しかし、謎と呼ぶほどのことかというと、まだ疑問が残る。目の前で事が起こったのは確かではあるものの、俺からすれば未だに眉唾物の域を出ない。たまたまそういうことが重なった、という偶然だって、あり得ないことじゃないだろう。  とても自然なものとは思えない異常行動――とか。昔からそういうのは多々あったけど、後々研究が進んで、結局不自然でもなんでもない現象だった、なんてオチのついた前例は、その実枚挙に暇がない。  火のないところに煙は立たない、とミキは言うが。本当に煙が立っているのかどうかを、普通の人間が確認する術なんか、実は存在しないのではないか。 「ところであの大道芸、なんの催しだったんです?」  話の流れが止まってしまったので、方向転換を試みる。そう言えば、あれが一体なんだったのか、俺たちは知らないままだったはずだ。 「あーあれね、宣伝だってサ。来月、このあたりにサーカス団が来るらしくって。ほらこれチラシ、貰わなかった?」  マツイさんの肩掛け鞄から取り出された、一枚の紙を受け取る。若干赤ら顔で覗き込んできた綾辻と一緒に見てみると、そこには『大山シャイニーサーカス』とやらの公演予定が記されていた。ボールの上に載ったゾウ、火の輪をくぐるライオン、空中ブランコでゆれる人間。夏らしい夜空と花火をモチーフにしたであろう背景と相まったイラストは、なかなかに賑やかな出来だ。  よく見れば、チラシの片隅には、一輪車に乗ったあのピエロもいる。しかしそれは、なんというか、他のモチーフに比べて随分と地味な印象を受けた。あの印象的な顔ははっきり映っていないし、衣装もかなり荒っぽく描かれていて判然としない。さっきの芸を見たから、或いはサーカスのチラシだと分かっているから、ピエロだと連想することができたが。そうでなければ、単に一輪車に乗った変な服装の人間、としか思わなかっただろう。 「これ知ってるか?」  団体名を指して綾辻に聞いてみたが、ゆるゆると首を振るだけだった。やっぱり聞いたことのない名前だ。まあ、サーカス団なんか、そもそもそんなに知りもしないが。 「私も知らなかったんだけどねぃ。なんか、南の方ではそれなりに有名なとこらしいよ」  マツイさんが、そんな情報を口にして。 「南の――?」  それが、なにか。頭の片隅に、引っ掛かる。 「この噂聞いたのが今日でなければねー。ついこないだ、別件で私らも南行ってたから、ついでに軽く調査して来られたんだけど」 「……ああ」  ――ああ、そういえば。マツイさんたちオカルト研究部が、先日向かったのが南だったか。引っ掛かりを覚えたのは、それを聞いていたからか。――多分、きっと。そういうことなんだろう。 「じゃあ、あのピエロの人も、有名人なんでしょうか?」  綾辻の問い掛けに、らしいよ、とマツイさん。 「ちょいと調べたら、素顔はなっかなかのイケメンでサ、奥様方に大人気なんだと。ちぃ、定職就いて運動神経抜群で顔面偏差値勝ち組だなんて、ミーちゃんとなんかとてもとても比べられないぜっ」 「うるせぇ」  そろそろマツイさんの脳内が、真面目な会話に我慢できなくなってきたらしい。まあ、呼ばれた用事も済んだんだし、そろそろ話を切り上げて、一同解散ということでいいんじゃないだろうか。一番暑い時間帯は乗り越えた、あとはのんびり帰るだけだ。  だから。そう思ったから、気を抜いて。  脱力が、過ぎてしまって。 「誰が呼んだか、ピエロ界のザ・プリンス! その名は、上蚊野(かみがの) 冬笠(ふゆがさ)!」 「――――」  耳にしたその名と共に。  頭蓋の内側を悪意が駆け回り、神経を焼き焦がした。 「チリ君?」  綾辻の声が、遅れてマツイさんの声が聞こえたが。  それに反応を返す間もなく。 (いやいや、返す気がないだけだろう? 君は)  意識は、急速に薄れていった。 中  暗くて、鈍い。  どんよりとして、あやふやで。  ふらふらと揺れ動く身体は、どこかへと向かっている。  光のない夜の街路。月明かりだけが輪郭を指し示す。  その心は、行く当てなく、闇に怯え、恐怖と不安に導かれ――  (否、否 否 否 否 否 否 !)  その心は、果てなき旅路に歓喜し、歌い踊り、宙を舞うかのごとく。  夢を見るのだ。  夢を見るように駆けるのだ。  あらゆる枷を省き、あらゆる楔を解き、鳳(おおとり)を称して疾走するのだ。  我は我なり。  我が事は我が意思の基に決定されねばならない。  その矜持を胸に奔るのだ。  獲物を探せ。野に湧く兎や狐のような。  肉を喰らい、血を啜り、骨を舐め、そして心を飲み込むのだ。  その先に、我が願いの果てがあるのだから。 (さあ) (ほら) (見えるだろう) (人だ、女だ、無垢に未来を描く少女の姿だ)  悲鳴が響く。  この世のものとは思えない怪異に出会い、追われ、呑まれた犠牲者の末路は凄惨だった。  例えその記憶を失っても。  その精神は、生々しい裂傷を残したまま。  そう、これが。  これが(・・・)、七人目だ(・・・・)。  どこか、見覚えのあるこの場所で。  その光景を客観視する。  襲われた被害者と。  襲った何モノか――  いや、俺は。  俺は、ソイツを、知っている。  それはあの日、あの場所で目にした、おぞましい化け物の―― (ハァイおしまい、おしまい。ヒントはここまでだよ、お兄ちゃん)  暗闇は混濁する。  光と白と黒と青と赤と火と緑色と紫のマーブルが溶け出し侵食し合い融解して爆ぜて散る。  それはスクリーン。  それは配水管。  それは分岐するワークフロー。  それは葉桜を薙ぎ倒す外来虫。  それはアプリケーション。  それは飴と風邪。  それは幻と偽り。  それは愚か者の権力者。  それは晴れの日の転落死。  それは一輪車に乗った道化師の臓物。  我が名を呼べ。  泣き顔を晒せ。  林檎をぶつけて頭蓋を砕け。  獲物(あわれなるもの)の精神に、我が存在を刻み付けろ。  我らは輩(ともがら)。  人に疎まれ、なお止まることを許されなかった悲劇にて、人々の笑いを誘うモノ。  故に謳う。ご笑覧あれ観客(ウジムシ)どもよ。  我が名、『戯曲礼賛(コメディア)・喜劇王(デラルテ)』。見世物小屋の残酷劇を。 後 「は――」  それはなんとも、荒唐無稽な夢だった。  笑ってしまうような、泣いてしまうような。  心臓の音がいやに響く。  白い天井に、斑のカビが生えたような、そんな錯覚があった。 「――?」  ――天井。白い、天井。  ベッドに沈み、ぼんやりとした意識で、薄暗い天井を見ていた。  ここは、俺の部屋じゃ、ない。  椿屋邸を連想して、しかしそれはあり得ないことを思い出す。  少し寒いくらい、空調の効いた狭い部屋。  ここは、一体、どこなのか。 「やあ、目が覚めたようだよ」  俺が部屋を見回し始めるのと、ほとんど同時に。  聞き慣れない声と、その出処と思しき男の顔が、頭の中に入ってきた。それは、ベッドを囲むカーテンの隙間から覗く、唯一の人の姿だった。  彫りが深く、鷲鼻が特徴的な、初老の男だった。黒い光沢を映し、ウェーブの掛かった長めの髪は、ヘアワックスを使っているのだろうか。肌は若干黒く、黒いシャツと黒いスラックスのせいもあって、全身が黒い印象の男だった。 「やはー、ミーちゃんおはよー。げんきー?」  マツイさんもカーテンから顔を出した。普段より半減した声量での挨拶だったが、それでも通りはいい。いつもこれくらいで話せばいいだろうに。  カーテンを退けて、ベッドの近くへと歩いてきた男とマツイさんの後ろから、もう一人。別の女子――綾辻の顔も見えた。随分不安そうな顔だな、と思ったがアイツは普段からあんな感じか。 「……病院すか、ここ」 「そだよー。ミーちゃん覚えてる? ぶっ倒れたんだよ、熱中症で」  熱中症……は、覚えがないが、確かに倒れた記憶はあった。あれは、オカ研の先輩のマンションで、だったか。 「大変だったのよー。ミーちゃんいきなしバッタンキューするし。すわイチイチキューか!? ってハナちゃんと盛り上がってたトコ、たまたまこの人が通りがかってくれて、自前の車で運んでくれたのサ」  さあ感謝せよ! などと、まるで自分の成果であるかのような顔をしつつ、マツイさんは先の男を指し示した。  男は茶目っ気のある笑みで、俺を見る。 「はあ。ええと、ありがとうございました」 「いや、これも合縁奇縁というやつだ。困ったときはお互い様だよ」  朗らかに、厭味ったらしいところ一つない笑顔で、その男は右手を差し出してくる。 「初めまして。僕は上蚊野 冬笠という者だ」 「――――」  その名前に、知らず身構える。  だが、身構えた意味もなく。その名前は、この限られた空間の中を難なく通り過ぎていった。 「……ああ。駅前にいた、ピエロの」  手を握り返しつつ、その顔を眺める。メイクがなくて、パッと見では全然分からないが。その名前は確かに、マツイさんから伝え聞いた、あのときのピエロのものだ。 「そうだよ。君も観に来てくれていたね、ありがとう」  なんでそんなこと覚えてるんだ。あれだけ人がいる中、一瞬目が合った程度なのに。公演とかやってる人は、みんなそんなものなのか? 「あのっ、すみません!」  ぎこちなく挨拶を交わしていると、綾辻が割って入ってきた。マツイさんがびっくりするほどの大声で何事かと思い、差し出されたペットボトルを思わず受け取ってしまった。 「その。お水、飲んでください」  綾辻は赤い顔をして、視線を落とした。  貰ったのは、さほど冷えていないスポーツ飲料だった。 「ああ、水分は摂った方がいい。軽い熱失神だろうということで、ひとまず点滴はご遠慮したが。目が覚めたなら、ちゃんと飲んでおきなさい」  男――上蚊野さんにも促され、とりあえずキャップをはずし、一口飲む。別段、喉が渇いているという感覚はなかったし、熱中症らしい症状もないんだが、かと言って従わない理由もなかった。 「ミーちゃんだけお茶おかわりしないからだぞ。ちょー心配してたんだから」 「はあ。すみません」 「ハナちゃんにもだゾ」 「……悪い、綾辻」  マツイさんの言い方に、若干腑に落ちないものはあったが、おおよそ患者の立場など低いものだ。素直に謝っておいた。  当然だと口を尖らせるマツイさんと、恐縮したようにおどおどする綾辻に対して。心配を掛けたというのは、事実だったのだろうし。 「持病は特にないと聞いているが、間違いないね?」  上蚊野さんの問いに、ええ、と返す。言われてみて、少しだけ頭痛がぶり返したが、こんなのは大したことがない。しかし、つい最近まで、目眩さえ経験がなかったというのに。双町から続いてこのザマはなんなんだと、自虐的な笑いがこみ上げた。 「では、目が冷めたことをスタッフに伝えてくるよ。それで僕は退散だ。長居しても悪いからね」 「ああ、ええ。ありがとうございました」 「ふ、恩に着せたからね。公演の折にはどうぞよろしく」  なにか、わざとらしいキザな仕草で、例のチラシを俺に渡して。マツイさんと綾辻の挨拶にも会釈をしつつ、上蚊野さんは去っていった。 「いやあ、やっぱしダンディな男前だよネ?。あれマジで婚歴ないの? はっはー参ったねこりゃ。ミーちゃんも将来はああいうオジサンになれや」 「はいはい」  言われたとおり飲料水を飲みつつ、一息をつく。なぜ倒れてしまったのか、状況はよく分からないが――  とにかく今は、それどころじゃなかった。 「――いま、時間は」  マツイさんから、午後四時前だと返事が来る。  日没には、まだ早い。  夢に見た内容を、思い出す。 「このあとはもう帰ろうかって、ハナちゃんと話してたんだけどさ。ミーちゃんも一緒に帰るよね? みんなでへいタクシーしようぜ、ブルジョアっぽく」  三人とも町の東側の住人だから、それで問題はないだろう。タクシー代は惜しかったが、この状況で徒歩帰宅を希望しても通るわけがない。 「――大丈夫? チリ君」  綾辻の不安げな顔が、まだそこにあった。 「ああ、悪いな」  とにかく今は、戻らないと。  一旦家に帰って、また出かけるのは夜からだ。  ――確かめないといけない。  夢で見た、あの光景を。  なんにもないかも知れない。それで済んでくれるなら、それはそれで別にいい。  ただ、無視はできなかった。ここ最近、ずっと抱いていた懸念が、もしも現実のものだったなら。  ミキが動けない以上。それはどうしようもなく、俺の役割なんだから。  昼の、取り乱した先輩の姿を思い出す。  同じくその場にいた、マツイさんと、綾辻の姿を思い出す。  俺は。  俺は、ただひたすらに。  二人を、守りたいと。  二人には、あんな風になって欲しくないと。  ――そう、思った。