第五章「Gracial Jardin」 9 前  そこは既に、一つの異界と化していた。  枯れ果てた木々のごとく並び立つ工場群は虚ろで、打ち棄てられた廃墟はおぞましい妄想を呼び立てる。風雨に晒され傷んだコンクリートは、巨大な生き物のようにそびえ立つ。次の瞬間、踏み潰されるか、或いは掴まれて喰われるか。いずれにせよ忌避すべき事柄。心臓を打ち鳴らす恐怖に従い、すぐさま離脱すべき暗闇の中で。 「まあ、ここしかないよね」  三鬼 弥生は、真新しいレインコートで雨を避けながら、満足そうな笑みを浮かべていた。 「なんだ、ここ」  傍らのノアールが零す。随分と小さな声は、そのまま強い警戒心を表しているのだろう。足取りもいつになく慎重で、足音が完全に殺されていた。 「不吉、としか言いようがない。意味も原因も分からない、ただひたすら嫌な感じがする。まさかこんな場所が、夏臥美にあったなんてな」  ノアールが『こんな場所』と呼んだここには、ミキももう何度も訪れていた。夏臥美町南工業団地。人に造られ、人に忘れられた、華やぐ町の中心と対極を成す、荒れ果てた都の末端、その死骸である。 「まだ結界の外だっていうのに、ここまで影響が出るのか。流石に、十戒の本体っていうのは伊達じゃないってことか」 「いや、それはあまり関係ないよ」  ノアールの言葉を否定して、ミキは楽しそうに人差し指を立てた。 「朔弥がこの場所をこうしたんじゃない。ここがこうだったから、朔弥が来たんだよ」 「――なに?」  どういうことだと、ノアールはミキに問い掛ける。だがミキに答える気はなく、微かな笑みで流してしまった。 「まあ、要するに。無事に朔弥姫を倒せたとしても、私の仕事はまだ終わらないというわけだよ。肩の荷を下ろすのは、まだまだ先になりそうだ」  困ったものだと言う、ミキの顔は至極愉快そうだった。  その本心を、ノアールは掴み損ねたのだろう。じっとミキを見つめて、言葉の意味を探ろうとしているようだった。 「さて。見送りありがとう、ノアール。ここまででいい。これ以上近付くと君も捕捉されかねない。さっき伝えたとおり、この先は、私一人で行くよ」 「――弥生」  ノアールは苦い顔をして、ミキの名を呼んだ。  じゃあね、と。それが、あまりにあっさりとした、別れの挨拶だったから。 「どうしたんだい、そんな顔をして。この話はもう決着したはずだろう。三嘉神 朔弥は、私一人で倒すと」  その話だけで、三時間ほどを要しただろうか。十戒『原初の鬼姫』の核――朔弥姫と氷鬼を、ミキはノアールの手を借りず、一人で打倒すると言っているのだ。  ノアールは当然の如く反対した。ここまで来て、最後の戦いに参加しないなど、敵前逃亡どころの話ではないと。ノアールの性格的にも、とても受け入れられる申し出ではなかっただろう。  これから、尋常ならざる強敵と相見えようというのだ。人間の敵、およそ並ぶ者のいない最悪の存在を前にして。今この時、例え誰であろうと、それこそ猫の手でも借りたいと、そう考えるのが当たり前だ。それを断るというミキの主張は、ノアール以外の誰であったとしても、異様だと感じたことだろう。 「まだ納得がいかないというのなら。この際だ、はっきりと言うよ、ノアール」  そう言って、ミキはノアールと視線を合わせた。 「これから赴く最後の戦いに、君は足手まといだ。片腕が使えず、切り札をも既に切って――金剛の符とやらが一枚だったかな? それしか残されていない君では、かの敵に有効な攻撃などできないだろう。それに、隠しているつもりなら生憎だがね。熊鬼戦以降、君が本調子でないのは目に見えて明らかだ。このままでは、ただ死にに行くようなもの。違うかい?」  ノアールは否定しない。益々顔を顰めて、苦虫を噛み潰したように歪めながら、反論一つできないでいる。  奥の手を使った代償か。ありとあらゆる反応の鈍さ、コンマ数ミリ未満の体幹の揺れ。大抵の人間が気のせいと流すか、そもそも気づきもしないほどの差異だが、それでもミキは見逃さない。十年、アオの観察眼を肌身で感じ続けたミキのそれは、既に人の枠を大きく越えている。そして、その塵ほどの落差が、紙一重を争う死闘において致命傷を招くことを、ミキはよく知っていた。 「そして、これも何度だって言おう。私は君に助けられた。君がここに来た意味は確かにあった。能力の温存もそうだし、熊鬼との戦いをほぼ避けられたアカも、随分と力を取り戻すことができた。ともすれば熊鬼に敗れていても不思議ではなかった私が、これほどの好条件で最終戦に臨めることに、私は心底驚いている。もしも今宵仕損じたなら、この世界が終わるまで待ち続けようと、これほどの好機は二度と来ない――そう思えるほどに」  それはミキの本心だった。危ない橋だったが、ノアールの存在は大きく、ミキを後押ししたのだ。この先、時間にしてほんの一瞬の違いが、ミキの精神を守るのだ。  怪我の功名、と言えばその通りだ。元よりこの戦いにおける全ての他人は、ミキにとってのイレギュラーでしかなかったのだから。  名前のある擬獣に対する特効能力を持つ『チリ君』、生存しさえすれば必ず敵を滅ぼせるひのえ、戦力として申し分ない三鬼家に連なる者たち。また、ミキがこれまでに親交を深めてきた能力者も同じだ。ミキはその全てに、協力要請を出すことができた。更に当然の如く、三鬼家現当主――ミキの実父『三鬼 玄陽(げんよう)』、次兄『三鬼 光曜(こうよう)』も名乗りを上げており、彼らの参戦を疑う者は誰一人いなかった。  そもそも、かつて原初の鬼姫に挑んだミキの祖先たちは基本、三つの結界に対しそれぞれに八卦陣――つまり総勢二十四人という、界装具同士の戦いにしては極めて大規模の編成を組んでいた。そしてその都度、八割を上回る犠牲を払うという絶望的な状況の中で、三嘉神 朔弥を辛くも封じてきたのだ。それほどの相手、それほどの戦い。三鬼家は真実、最初から総力戦の構えだった。それにより三鬼家の力がどれほど削がれようとも、あの鬼姫を止めなくてはならない。そう誓って揺るがなかった  だからこそ。そんな彼らを、たった一人で挑もうなどというミキが説き伏せるのには、根回しを含め丸一年という長い時間を要した。  そうまでしてミキは、他者の介入を拒んだのだ。それはもちろんミキなりの都合があったからだが、周囲の理解を容易に得られるような類の話ではなかった。ミキからすれば勝算はあったが、それは誰かと共有できるものではなかったのだ。  ノアールにしても同様である。彼女に助力を求めるつもりなど、ミキには毛頭なかった。事前にノアールの方から申し出てきたとしても、絶対に受け容れはしなかっただろう。実際リスクはあったし、最悪の場合共倒れの危険さえあった。今こうしているように、ミキの描いたとおりの未来を掴むことができる確率は、決して高くはなかった。ミキの機転、そして予想を遥かに超えるノアールの奮闘あってこそ。故にミキはノアールへの感謝を示し続け、そして幾度となく気を引き締め直すのだ。  ミキの計略は既に成っている。後は最後に、黒い幕を引くのみである。 「勝てるんだな?」  長い沈黙のあと、ノアールは探るように問い掛けた。恐らくは、その言葉を引き出すまでにも、相当な葛藤があったことだろう。 「もちろん。私はね、ノアール。絶対に、死ぬまで負けないと決めている」  それは虚勢に過ぎないと、指摘されたところで否定はできない。それでも、ミキは自信を持ってそう告げた。こんなところで負けられない、まだ死ぬわけにはいかないのだと、今一度――何度目かも分からない決意をしたのだ。 「じゃあ――もう、オレがこの町にいる意味もないな」 「そうだね。腕の修復もしなくてはならないだろうし。戻った方が――そう、聯の意にも沿うだろう。彼女とブランセちゃんによろしく」  そんな、余計な一言を添えて。ミキは、動かない右腕を抱えたノアールを残し、決戦へと参じるのだった。 中  雨が漏れているのだと、ミキは最初に思った。  きらきらとした微小な何かが、絶え間なく降り注いでいるのだ。しかし結界の外の豪雨に比べれば、レインコートが弾く音は極めて弱く、目を閉じていたら何も感じない程度でしかない。  だが、今この夏臥美町に降り注いでいる雨は、ただの雨ではない。あれは、ミキが仕掛けた結界が降らせる、異能の産物である。この擬獣の領域内においては異物で、相反する存在で、内外を跨いで干渉することなどあり得ない現象の筈だ。  そして、やはり一面の青に覆われたこの世界が、これまでの結界とは全く別のものであるという事実に、ミキはすぐに気が付いた。  湿り気を帯びた地面、無機質な建造物――それらに根ざし、あらゆる場所から生えるように、半透明の岩のような物が出現していたのだ。その大きさはまちまちで、高さはおおよそ二メートルから三メートルほど。点々と存在し、視界に入るだけでも二十はありそうだった。触れるまでもなくそれらは冷気を発しており、周囲の熱を根こそぎ奪っているらしかった。昇華した水蒸気が時折、微かに目の端に留まる。  氷塊。この時の止まった世界を象徴する、氷の結晶体。それが意味するところは、天邪鬼と熊鬼、彼らが核として展開していたあの強力無比な結界さえ、この場所が生み出す力の余剰でしかなかったという現実である。  ミキは細心の注意を払いながら、懐中時計を取り出した。瞬く間に水浸しになるガラス越しに、微動だにしない針を見る。この時計がなければ、時が止まっているなどという実感は、ミキには得られない。  普段は机の引き出しの中で、煩いくらいに時を告げる懐中時計は、父親からの贈り物だ。黒塗りの、地味だが品のある代物。春、夏臥美町へ向かう折、餞別を迷っていた父に、ミキが自らねだったのだ。親にプレゼントをせがむ機会など、これが最初で最後だろうと、ミキは思って。緩やかに不快な感情が起伏を見せたことを、気のせいだと、頭の隅に追いやった。  そんな親子関係は、きっと『チリ君』には鼻で笑われるのだろう。それがはっきりと分かったから。ミキは濡れた時計を、レインコートではなく、その下のドレスに忍ばせて。一つ、大きく息をついた。 「――氷結庭園(グラシャルジャルダン)」  呟くミキの瞳は見開いて、その尋常でない世界を見つめている。降り注ぐのは細氷、即ちダイアモンドダスト。風も時も停止したその中で、自由に、奔放に、舞い踊るように視界を埋め尽くす輝きはしかし、紛れもなく、命を奪う悪夢。ここに、全てを飲み込み、殺し尽くす悪鬼が君臨している。その事実、白銀の雪山で遭難したも同然の状況で。 「美しい――」  ミキは、その世界を生み出した創造主に、心からの敬意を感じていた。その力の強さに。その在り方に。練磨された技術と、込められた願いの膨大さに。幾万幾億の思念が混ざり込んでなお、一つの個を失わなかった十戒――三嘉神 朔弥の意志が、どれほど甚大なものなのか。ミキでさえ、それを推し量る術を持たない。  ミキは間違いなく見とれていた。その姿を目視する以前から、魅了されていたのだ。生者も死者も、聖なるものも邪なるものも、分け隔てなく愛すると誓った三鬼 弥生が、その特別性から目を背けられないでいた。  しかし、そんなミキですらも、 「――――」  氷塊の中で腐り果て、半ば白骨化した五つの死体を、見逃すことはできなかった。 「ようやく来たか。随分と焦らせてくれたものよな」  艶やかな高音の女声と、老婆のような掠れた声が重なって聞こえた。  その瞬間、ミキの全身を寒気が襲った。反射的にアカを現出し、臨戦態勢を取らせるほどに、どす黒い殺意。 「妾の鬼を討った強者と言えど、所詮は現人(うつしおみ)に過ぎぬか。手に取るように分かるぞ、汝の抱く恐怖の波が」  それは空から降りてきた。直径一メートルほどの小振りな氷塊の上に座し、悪戯好きな子どものような笑みを浮かべ、ミキを見下ろしていた。  黒く長い髪は、それ自体が生き物であるかのようになびく。和風の白装束は整然として無垢を象徴していたが、両腕と胴の辺りに付着した血痕が、その美しさをそのまま惨烈さに換えていた。 「――――」  そして、どうしてか、ミキは。  自分とは正反対の姿を前に、鏡を見ているかのような錯覚に陥った。  その顔が、あまりに自分と似通っていたから。 「――原初の鬼姫、三嘉神 朔弥とお見受けするが」 「如何にも、それが妾の名じゃ。影武者というのか、その手の奇策を警戒しておるのならば、無駄なことはよせ。妾の手の内は知っておるのだろう? 生前の記録は全て焼かせたが、これまでの戦いが嘘はつくまいよ」  つまり目の前の、二十代半ばほどにしか見えない細身の女性こそが、あの鬼たちを支配するモノ、この戦い全ての大元であるということ。  ミキもそこを疑っていたわけではないし、不要な警戒をしていたわけでもないが。ただ、やはり。人は見かけには寄らないのだと、改めて認識するより他になかった。 「そう言う汝は、天の字の奴に名乗っておったよな。確か、三鬼 弥生と」  ミキは頷き、その言葉を肯定する。  熊鬼がそうであったように。朔弥もまた、これまでの戦いを見ていたのだろう。だとすれば、やはりノアールは救世主だった。熊鬼との戦いで、アオを使わずに済んだことは、幸運だったと言って間違いない。 「その白髪、そしてその赤き鬼。ああ、ここに至って相違なぞあるまい。よくぞ来たよ、我が愛し子。妾の眼下に立つその剛胆さ、賞賛に値する」 「ふん、光栄だね」  ミキの方は、既に平静を取り戻していた。ほんの僅かな時間とは言え、この惨状に揺さ振られたのは認めざるを得ないが、もう持ち直した。ミキはレインコートを脱ぎ、黒のドレスで、最後の敵を迎え撃つ。 「とは言え正味、本当に単身で乗り込んできたことには、少しばかり戸惑ってはおるのよ。あの小賢しい人形はどうした? 他に仲間はおらんのか?」 「もう故郷へ帰したよ。貴方を相手にして、誰かを守り切る自信がなかった」  朔弥の瞳が一瞬、この結界にも劣らないほど冷淡な色に染まった。  だがすぐに見えなくなり、何事もなかったかのように微笑んで、朔弥は続ける。 「あの短刀は、持ってきてあるのだろうな」 「もちろんだとも」  ミキは懐から、赤い布が巻き付けられた十字架のような形の物体を取り出した。それは本家に安置されていたのを、ひのえが届けてくれた秘宝だ。  ミキは布を外し、中身を検める。それは鍔の細長い、西洋刀に近い短刀だった。鞘に収められ、刀身は見えないが、それで正しい。鞘の端と鍔に巻き付く黒の紐が、この刀の封印なのだから。 「ああ――」  朔弥は感嘆し、惚けたようにその短刀を見つめた。 「懐かしい――という気分になるのだが、汝に理解できるかの?」 「どうかな。自分を封印し、幾度となくその行く手を阻んできた祭具を前に、憎しみを抱くというのが常軌だとは思うけれど」  そうだ、その短刀こそが。三鬼家が持つ、原初の鬼姫に対する切り札である。三鬼家の者が、直接刃を朔弥に突き立てれば。それだけでこの戦いは終わるのだ。朔弥の思念は封印され、数十年以上の長い眠りにつくことになる。前回も、そしてそれまでもずっと、朔弥はそうやって封じられてきたのだ。  そのための、代償と共に。 「まあ分からずとも良い。さあ、疾く始めようぞ。汝に残された時間は僅か。手遅れになる前に、妾を討たねばなるまいよ」  朔弥の右手が合図を送ると、同時に地鳴りがした。そして、朔弥との間に割って入るような位置の地面が、段々と隆起し始めた。  やがて現れたソレを、ミキは氷の彫刻のようだと捉えた。周辺に散らばる氷塊と全く同じ物質が、人の形を取っているのだ。それも、姿としてはアカやアオに近い。三メートル弱の身体、不自然でない程度の筋肉質な四肢。自ずと金剛力士像を思わせる影と、それを否定する額の一角。苦痛を表すように歯を食いしばり、脈動を開始する。長い白髪をなびかせて、『氷鬼』の名に相応しい、三嘉神 朔弥最後の鬼が、今ここに顕現したのだった。 「――?」  その姿に、ミキは違和感を覚えた。確かにそれは鬼である。それは紛れもない事実なのだろうが、しかし―― 「そこな、赤鬼よ」  ミキが氷鬼を注視している最中、朔弥はアカを指して呼び掛けた。 「憐れよな。それほどまでに恐怖に怯え、今にも砕けてしまいそうではないか。分かろうともよ、我が同胞(はらから)。戦いとは外敵との闘争ではなく、己が心との鬩ぎ合いである。戦うことが恐ろしいならば、すぐに安息をくれてやろうぞ」  それは、開戦の合図のようで。  しかし、戦いの終わりを意味していた。 「止まれよ、『耳無しの赤鬼(キカズ)』」  ミキは真実、仰天する心地で、隣のアカを見る。  その光景が信じられないというように、ミキの視線は釘付けになった。  朔弥に名を呼ばれたアカが、一瞬にして氷塊に包まれ、完全に停止してしまったのだ。 「アカ――」  ミキの呼びかけも、虚しく空に消えた。アカとの接続は感じるが、一切の応答がない。  アカに触れようとして伸ばしたミキの手が、氷塊に触れた瞬間に引き戻される。――冷たいのだ、尋常ではないほどに。氷塊に囲まれたこの世界でも、時間を掛けて準備した護法が、寒さからミキの身を守ってくれる。だが触れてしまえば、その力の猛威が直接ミキを襲うのだ。最悪、ミキまでも停止してしまうかも知れない。今まさに、アカが凍り付いたように。 「言霊による封印、真名解放。なるほど効率的な力の運用だろうの。しかし、真名を晒さなければ戦えぬなど致命的な欠陥じゃ。鬼使いが妾を相手にするならば、それは氷鬼を粉砕できる機まで取っておくべきだったよな」  真名が分かれば、三鬼の操る鬼さえも止められる。朔弥はそう言っているのだ。そしてそれが偽りでないことは、既に目の前で証明されている。  確かに、朔弥もまたミキの上を行く鬼使い。同じ鬼ならば、真名を知ることで、制御権を得ることや、氷鬼への対抗力を弱めることができても不思議はない。だが、誰にでもできるほど容易ではないはずだ。つまり現状、両者の間には、それが成されてしまうほどの格差があるということ。ミキと朔弥の違いは、単純な鬼の力量差だけではない。鬼を統べる血の力そのものが、隔絶した階層に位置しているのだ。 「アオ――!」  ミキが跳び退くと同時に、景色が歪んだ。それはやがて独自の色を持ち、アカと対を成すアオの姿を形成する。  その様は、当然のように朔弥の目にも、追い詰められた人間の苦肉の策として映ったことだろう。アカと比したアオの戦闘能力は、それほどまでに劣ってしまうのだ。対する氷鬼も、熊鬼ほどの威圧は持たないが、それでも途方もない力を誇ることに疑いはない。直接ぶつかれば、勝敗は見えている。 「まあ、そうせざるを得ぬよな。しかし良いのかの? 鬼を二体も並べて、あとどれだけ立っていられる?」  アオの隣には、未だ氷付けのアカがいる。アカを消すことはできなかったのだ。停止の氷塊は、それ自体が氷鬼の領域なのだろう。アカに対する一切の命令が通じない。そしてその状態でアオを出せば、二体の鬼を同時に顕現していることになる。  二体を同時に行動させるのと比べればマシとは言え。それがどれほど術者を消耗させるかは、ミキの表情が物語っていた。 「意地が悪いね。そうさせたのは貴方だろうに」  ミキの右目が淀んでいる。急激に増した負荷によって、一時的に視力を失っているのだ。朔弥を見上げる左目は揺れ、明らかに無理をしている。息は深く、荒く、不規則だ。そもそもこれまでの激務に、アカの解放と続いて、疲労は極限まで蓄積しているのだ。いつ倒れても可笑しくはない。そう映るも何も、実際にミキは追い詰められている。 「は――」  だが、それでも。  ミキはやっと、安息を得たように。ふっと、柔らかな笑みを浮かべたのだった。 「――底が知れぬ」  ミキの表情に、何を感じ取ったのか。朔弥は初めて顔を顰(しか)め、ミキを睥睨した。 「まあ良い。妾の与り知らぬこと。どのような趣向かは知らぬが、汝が最後の砦だというならば押し潰すまで。終わりにしよう、我が愛しき子よ。せめて氷に包まれて、苦しみなく、緩やかな死を迎えるがいい」  朔弥の覇気と共に、氷鬼が始動する。同時に、氷鬼の周囲にあった氷塊が、圧力に耐えきれず砕け散った。殺意で織られた鬼神の気迫は肌を刺し、常人の危機感知を激しく揺さ振るだろう。  数秒先に迫る、死。  避けきれぬその現実を前に、ミキは。  三鬼 弥生は、囁く。  悪魔のように。  悪鬼のように。 「そう言うなよ、朔弥姫。私は貴方と話がしたいんだ。例えば、そうだね――」  命乞いかと、朔弥は笑う。  だから次の瞬間の、その言葉に。原初の鬼姫はまさしく、鬼の形相でミキと対することになる。 「貴方が愛した、一人の異邦人のことについて」 後 「なんだと?」  底冷えのする低い声で、朔弥はミキを咎めるように言った。それまでの超然とした態度はなりを潜め、今にも飛び掛かってきそうなほどの激しさで、ミキの笑みを睨み付ける。 「何と言われても、別段どうということはないだろう。かつて貴方が、世界を敵に回して戦った理由がそれではないかと、私は述べたに過ぎないんだ。今更それを不純だと、責める者など誰もいないだろう」  突然の豹変、というように、朔弥の目には映っただろうか。しかし、ミキをよく知る人間からすれば、その認識は間違っているとしか言いようがなかった。 「何故それを――」 「知っているかって? ああもちろん、そんな記録はどこにも残っていなかったよ。貴方の理由。戦う大義。八剣に言わせればそれは三嘉神 朔弥の増長だったし、三鬼からすれば行き過ぎた一族への情愛だった。それが大方の見解なのだが、しかし私には納得できなかった。貴方が、一族を愛するが故に戦うならば、何故今なお戦っているのか。擬獣となってまで現世に留まり、やっているのは現代に残った同族との殺し合いだ。最初こそ、三嘉神と三鬼に線引きをしているのかとも思ったよ。けれど、私を愛し子と呼んだ時点でその可能性は失せた。ああ、本当のところを聞かせてもらいたいものだ。貴方が貴方である、そのわけを」  これがミキだ。これこそが、三鬼 弥生なのだ。今まさに、彼女は最も彼女らしく振る舞っている。命を賭けた戦いに身を投じ、余裕を失い、口数を減らしていた彼女はもういない。いや、命懸けであることも、余裕がないことも、ギリギリまで追い詰められているという事実は今なお変わらない。だがそれでも笑い、独劇の中で語らう彼女こそ本物である。このとき、二つの死線を乗り越えてようやく、三鬼 弥生は本来の体勢に立ち戻った。 「妾が戦う理由を、問おうというのか」 「いかにも。一個の人間に、それだけの決意をさせる事柄などそうそうあるものではない。何十年、何百年という時を経てなお原形を保つなどという奇跡の源とは何だ。擬獣とは思念体、思念とは無念。やりたいことが、やり残したことがある筈だろう。貴方ほどの強者が、否、貴方ほどの強者だからこそ抱いた願いを、私はこうして尋ねているわけだよ」  数秒、短いようで長い沈黙のあと、朔弥は口元を装束の裾で隠し、それでも視線を、警戒するようにミキへと注ぎ続けて、言う。 「妾に理由を求めるなど。そのような酔狂な真似をした者はこの数百年、誰一人としておらなんだわ」  そう呟く朔弥は確かに、どこか意外そうな目をしていた。 「妾は所詮死人。ただそこにあるだけで厄災を招く存在、人にあだなす擬獣に過ぎぬ。四の五の言わず首を狙うのが道理というものであろうよ」 「ふん、そうだろうか?」  ミキは懐疑的な返しをしたが、しかし朔弥の言うとおりだ。擬獣は危険なのだから、いち早く排除しなければならない。それが一般的で、大多数の力ある人間が導き出す答え。そこに異を挟もうというミキが普通ではないのだ。 「ああ。汝の行いは、そうさの、例えるならば。疫病に、なぜ人を苦しめるのだと問うておるに等しい。およそ、生きた人間の感性では有り得ん言葉じゃ」  そこに理由など求めない。あるとすれば精々、これは神が与えたもうた試練なのだという前向きな曲解程度だ。厳密に、明確な理由を求めようなどとはしない。何故なら、仮に理由と呼べるものがあったとして、そんなものは大抵、一個人がどうこうできる代物ではないのだ。正すことも、解きほぐすこともできないならば。知らぬまま、排除してしまった方が早いのだから。 「そもそもに。汝は知っているのではないか? その理由を」 「分かっていないね、朔弥姫。私はこう言ってるんだよ、貴方の口から聞きたいと。ねえ、何故貴方は言語能力を残しているんだ? その口は何のために言葉を吐き続ける? 無精は感心しないね。口が利けるのならば、言葉を尽くすのは義務というものだろう」  違うかね、というミキの問いに、しかし朔弥は答えない。黙したままミキの様子を慎重に窺っているようだった。  その様を見て、ミキは満足そうに頷いた。 「ああ、なるほど。こんな物を大事に抱えていては、その警戒心は仕方のないものと言えるかも知れないね」  言ってから、ミキはこれ見よがしに封印の短刀を持ち上げて。  そして、徐に。  その短刀を、朔弥に向けて放り投げた。 「な――」  朔弥は驚きを隠せず、声を詰まらせる。  誰も動くことができないまま、短刀は氷鬼の足元まで転がっていった。こうなってしまっては、ミキにはもう、短刀を取り戻すことは至難である。  何かの陽動かと、朔弥は思ったに違いない。ミキとアオへの氷鬼の視線が、一瞬たりとも外れなかったのがいい証拠だ。  だがミキは動かなかった。十戒――原初の鬼姫を仕留める唯一の切り札を、何かの布石にすることもなく、ミキは捨て去ったのだ。 「最後にそれを振るったのは、私の曾祖父にあたる人物だそうだね」  未だ現状を掴み切れていない朔弥を前に、ミキは構わず話を続けた。 「その短刀は、かつての二木が鋳造した特別製だ。正しく使えば、十戒と言えどたちどころに封印できる。その代わり、使用者は鬼を一体失うことになる。界装具である鬼が死ぬのか、制御を失ってどこかへ消えてしまうのかは分からないが、兎に角、術者の元から消え去るという。強大な力の塊である鬼を代償に発動する封印式。それが何を意味するか、貴方にならば分かるだろう、朔弥姫」  ミキの瞳が、ほんの少しだけ影に濡れる。その背中は今、夥しいほどの屍に見詰められている。 「……あの若人は、死んだのか」 「ああもちろん。相剋する属性の二鬼を使役することで均衡を保つのが三鬼の生存策だ。それが崩れれば、術者は残った鬼に精神を喰われ、ひと月と経たず狂い死ぬ。だから貴方を封じた一週間後、彼は祝福と悲観に包まれながら自ら腹を切った。まだ幼子だった祖父も、そのときのことだけは覚えているそうだよ」  ミキにそのつもりは欠片もなかったが、それは紛れもない恨み言であり、三鬼家の者全てが抱くべき憎しみに違いなかった。目の前の敵を倒すため、積み上げてきた犠牲はあまりに多い。  封印を成功させた英雄は、そのとき死んだ全ての同族を、冥府へと先導する役目を担うのだ。一族から二度と、擬獣となって迷う者を出さないように、鎮魂の儀式を挙げるのだ。どれだけ強くても。どれだけ若く、健康であっても。三鬼の寿命はそこで尽きる。それが運命なのだと、受け容れる以外に道はなかった。 「分かるだろう、三嘉神 朔弥。私の言わんとしているところが。貴方の言うところの愛しい我が子が、貴方のために死に続けてきたんだ。それを知っていてなお戦い続ける理由は何なのかと聞いている。どのような大義があって、死者が生者を殺すんだ。一体何を求めていれば、それだけのものを捨てることができるのか。貴方のために死んでいった者たちを覚えているのなら、そこに何かを感じたりはしないのか?」  ミキは『チリ君』の顔を思い出しながら言う。  彼の擬獣に対する並々ならぬ怒りは、抑圧された不満の発露に他ならないのだろう。死んだ人間は何もできない、何もできてはいけない。かつて死んだ人間に、叶えてもらいたかった多くの願いを捨てきれずにいる彼にとって。擬獣という存在はあまりに理不尽で、その行いの一つ一つが、勘に障ったに違いないのだ。  ミキはその怒りを持たないが。もしも擬獣の存在に意味がなかったならば、それを不条理と呼ぶことに抵抗はない。 「初めは」  少し間を空けてから、朔弥は呟くように言う。表情も、声も、何十倍という重力の中にあるような重さで。 「初めは、一族に愛着などなかったよ。産んでくれた感謝もなく、死んでいく姿に度を超した悲しみも湧かない。ああ、そこに三嘉神と三鬼の区別はないぞ。妾にとってはただひたすら、煩わしく邪魔な機構でしかなかった」  言い切ってから、朔弥は乾いた声で、自嘲気味に笑った。 「それがな、不思議と今は違うのよ。この数百年、妾の血を引いた、数えきれぬほどの子どもたちがな。妾を憎み、妾に刃を向け、そして死んでいった様を見続けた。それだけの地獄を見て、ようやく。妾は思い至ったのだ、悪いことをしたと」  語り続ける朔弥の顔が、次第に能面じみたものに変わっていった。表情は、内面を欠片たりとも映してはいなかったが。しかし、その悔恨が嘘偽りで濁ってはいないことを、ミキは疑わずにいることができた。  恐らくはそれほどまでに、朔弥の言う地獄というものが、壮絶で凄惨なものだったのだろうと――ミキは、胸を押さえながら想像した。 「それでも、貴方は止まれなかったのか」  だからこそ、ミキは強く問い掛けた。問い掛けずにはいられなかった。 「止まれぬ。変わらぬよ、それだけは。元よりそれだけの覚悟をしたのだ。親も、夫も、腹を痛めて産んだ実の子さえも裏切って。妾は切に願ったのだ。第三子、つまり次代の三嘉神家当主には、必ずやあの人の子を、と」  それが、つまりどういうものなのかは、最早問うまでもないほどに明白だった。  三嘉神 朔弥という女は、夫子ある身でありながら、別の男を愛したのだ。  三嘉神の当主である朔弥には、しかしそこまでの自由を許されてはいなかったのだろう。それでも変わらない。変わることができなかった。たとえそれが、己を不幸のどん底に叩き落とす結果を招こうとも。  それもまた、人間という生き物の咎である。ミキはそうして断じ、拳を握った。 「貴方の言うその男の存在は、今ではほとんど伝えられていない。数少ない記録の中で、ほんの微かに断片が散見される程度だ。それを繋ぎ合わせて、辛うじてその朧気な残影が浮かび上がった。白髪にして碧眼、文字通り頭一つ抜けた偉丈夫、戦場では大地を揺るがすほどの豪傑。恐らくは、渡来人だったのだろう、と」  朔弥は頷き、そしてどこか熱に浮かされたような吐息を漏らした。 「一騎当千にして万夫不当、そして高潔な瞳の男での。三ツ鬼の山裾で行き倒れていたところを妾が救い、三嘉神の客人として遇した。……言葉の通じない中で、それでも心は通い合っておった。公にはせなんだし、あれも私の立場を案じてくれたが、だからとて気持ちはねじ曲がらん。若輩とは言え、汝も女ならば理解できよう」 「まあ、理解はね」  実体験は伴わないが、とミキは付け加えた。そのとき、言い知れないざわめきが胸の中で反響したが、ミキは錯覚だとして処理した。  それよりも、とミキは思考する。その男の存在こそが、失われて伝説となった真実なのではないかと。即ち、三鬼家の女児に表れる、原因不明の限定的な先天性の白髪。朔弥本人が黒髪で、それ以降に異常が表れるようになったならば。ミキの信じてきたとおり、その繋がりが、この髪の根源に宿っているのではないかと。 「しかし、得心はいった。要するに、見初められたのは貴方だったというわけだ。ああ、この髪の原因が、実は人のまだ知らない遺伝情報の欠損だなどという、興ざめな話だったら嫌だなとは思っていたけれど。不倫? 禁断の愛? 結構なことじゃないか。その結果が今の三鬼家、そして私であるならば、それはむしろ歓迎すべき事柄と言えるだろう。惜しみなく祝福しよう。貴方と、貴方の愛したその男――言うなればそう、原初の白髪鬼を」  その言葉を口にした瞬間。  ミキは、自身の首が飛ぶ光景を幻視した。  息を飲んで、ミキは指先で首筋をさする。 「図に乗るなよ、女餓鬼風情が」  想像の及ぶより遥か上の殺意。冷たく静かに、中空に蔓延する激情。ミキをして身体の震えを抑えきれないそれは、最早質量さえ纏っているかのごとき重圧を有していた。 「お前が、鬼などと呼ばれることを受け容れるのは勝手だがな。負け犬の分際であの人を語るなど、調子に乗るのも大概にせよ」  三嘉神にとっても三鬼にとっても、鬼とは、押し付けられたアイデンティティに過ぎない。鬼とは、鬼(あく)だ。お前たちは悪であり人非人であり、生まれながらの罪人なのだから、討ち滅ぼされて然るべき存在であるという、客観的に見れば何かの冗談ではないかと思えるほどえげつない差別思想。実際に、敗北を受け入れ三鬼となった一族は、その後百年あまりを、ありとあらゆる迫害の中で過ごしたという。勝者は何をしても許される正義であり、敗者は黙して贖罪に努めるべき邪悪であるという、歪みに歪んだ勧善懲悪。そのような未来を避けるために、最期まで抗い続けた朔弥にとっては、八剣も、現代の三鬼も、何もかもが許し難い業なのだろう。  まして。何人も侵すべからざる最愛の人までもが、悪と呼ばれる侮辱など。例え天地が砕け散ろうとも、見過ごすわけにはいかないのだ。 「下らぬ女、度し難い無知蒙昧よ。傲慢にして自意識過剰、それがお前の本質じゃ。ああ、お前は確かに強い、強い強い。鬼の持つ力そのものも強力ならば、それらをその歳で完全に御しきるなど、正気の沙汰ではない。それどころか、天邪鬼の力を継承したこの結界内で、未だ両の脚で立ち、二体もの鬼を維持し続けられるなどやや常軌を逸している」  やはりそうか、とミキは内心で頷いた。ミキはただでさえ燃費の悪い行動に出ているが、それを考慮したところで、体力の消耗が早すぎると言えた。  つまり、打倒した鬼たちの思念は消滅したのではなく、一時的に、主の思念と融合しているのだ。故に今、主である朔弥は、それぞれの鬼の特性を行使することも可能なのだろう。天邪鬼の吸血鬼じみた性質、結界内の外敵から精気を奪う能力が、今も働いているのだ。恐らくは、先刻目にした氷付けの死体も、そうやって力を吸い尽くされ、死してなお朔弥に活力を供給しているのだろう。 「しかしな。お前程度の使い手ならば、妾の知る長い歴史の中で言えば、さほど珍しい存在ではなかったわ。見る影もなく力の衰えた、今の三鬼においては最強なのやも知れぬが、言ってしまえば井の中の蛙というものよ。かつて妾に挑んだ、お前より力のある者たちであっても、妾に一人で立ち向かおうなどという愚行を犯す者はおらなんだ。それで正しい。万全を期すとはそういうことじゃ。如何な英雄であろうとも、所詮はただの一人なのだという自覚が、あらゆる危機に際して己を活かす」 「――――」  或いは、それは朔弥の自戒だったのか。  英雄に超人たれと願うのは、いつもただの第三者である。各々の思い描く身勝手な英雄像を押し付け、そこに背こうものなら、呆気なく裏切り者の烙印を押す。そんな無責任な大多数が群れを成したとき、英雄は物言わぬ伝説へと溶けるのだ。  それも所詮は、取るに足らない他人に言われるがまま、英雄として生きることを自らに強いたその者が、思い上がっていたというだけのことである。自分本位、自由気ままに生きることで、社会を敵に回すかも知れないが。それでも、命を失うよりはずっといい。 「それがお前は、守り切る自信がないから一人で来たと? ああ、そういったものをして慢心と呼ぶのじゃ。自覚なきまま、自ら高く築いた牙城より身を投げる――分相応の末路よな」  それは死の宣告のように、一切の容赦なく突き付けられた。  朔弥はミキにこう告げているのだ。三鬼 弥生という人間は今、己の抱いた慢心故に滅びようとしているのだと。現存する全ての戦力を結集して、その大多数を犠牲にしてでも、封印を成し遂げることこそ正解だったのだと。 「私を、殺すというのかい? 貴方の愛した男の、生きた証とも言うべきこの私を」 「黙れよ痴れ者が。お前ごとき、何人産まれようが無意味なのじゃ。我が大望果たされんとき、お前も、三鬼も、これまで人が歩んできた歴史諸共に灰燼と化すだろう。そして全ては、あの逢瀬に回帰する。あの日々こそ、妾にとって唯一本物だったのだから」 「……」  その言葉が、ミキを限界まで悲観させる。目を閉じ、その結末に、人知れない嘆きを覚える。 「それが。貴方の理由だというのか、三嘉神 朔弥」 「然り。この止まった世界、永久氷室の結界が全てを飲み込んだとき、この色を進行させる『時』は、我が支配下に落ちるのじゃ。なれば私は、その秒針を逆しまに回そう。あの人と歩いた平穏を、今度こそ踏破するために」  その宣言に、迷いはなかった。  時間を支配し。  時間を巻き戻し。  儚く消えた過去、二度とは戻らないいつかを取り戻す。  もっと上手くできたのだ。名も、立場も、何もかも捨て去って、ただ愛しき人と添い遂げることを選んでいれば、あのような滅びはなかったのだ。  だからもう一度やり直したい。それが三嘉神 朔弥の存在理由であり、十戒『原初の鬼姫』が生まれた最初の願い。  ミキにもそれは分かっていた。アオが顕現した時点で、全ての秘密は暴かれているのだ。だが、それでもミキは。アオの言う真実の過去と未来が、間違っていたらいいと。いつも、いつでも、願っていた。  アオの告げる未来は、いつだって残酷だったから。 「残念だが」  ミキは両目を拭う。  涙を、堪えることができなくて。 「残念だが、その願いは叶わない。人を愛するわけでもなく、人を憎むわけでもなく、ただ氷の中に閉じ籠もって夢を見る貴方では、どうあっても相容れない」 「だから抵抗すると? 知ったことかよ。元より妾は、この世全ての敵――鬼となることを誓った身。全ての人間を殺し尽くそうと、界の終末まで時を費やそうと。この願い、必ずや成し遂げてみせようぞ」  氷の鬼が、再び戦意を滾らせる。その意志は既に、先程の比ではない。力量の差など歯牙にも掛けず、遠慮会釈の欠片もない圧倒的な暴力で、目の前の生き物を肉塊に変えようとしている。  アオはまだ健在だ。アオの真名を解放すれば、逃げることくらいはできるかも知れない。それはつまり、ミキが今後の朔弥姫との戦いにおいて完全に無力になることを意味していたが、そうでもしなければ、逃げることさえ叶わない。そういう選択肢がミキの中で挙がるほど、状況は切迫してきているのだ。 「ふん、少し無駄口が過ぎたかな。どうだろう、できれば一度退かせてもらいたいのだが」 「この期に及んで何を言う。そうして油断させて、封印の短刀を拾おうとでも言うのか?」  バレたか、とミキは笑う。おどけた仕草も、もう悪あがき以外の何ものでもなかった。酷いものだと、ミキは自嘲する。 「案ずるなよ弥生。足りない頭から、わざわざ小細工を捻り出す必要もない。逃げも隠れもできぬよう、最早死に体なのだと理解できるよう、これより見せてやろう――我が全身全霊を」  上空より、何かの気配が、異常な速さで近付いてきている。それを察知して、ミキが空を見上げようとした、直後。凍てついた空気を激しく振動させ、ソレは氷鬼の前に降り立った。 「――月融(つきくずし)だと?」  氷鬼を覆い隠すほどの長刀は紛れもなく、熊鬼の振るった斬軍刀『月融』、そのものだった。ノアールに砕かれたはずの刀身は一切の欠落もなく、今まさに造られたばかりにさえ見えるほどの完全な姿を保っていた。 「なるほど、それも喚び出せる訳か。しかしそれでどうする。氷鬼にその刀を扱うことは不可能だろう」 「そう、単体ではな」  氷鬼が、月融の柄を取る。  そのあまりの重量故に、熊鬼の怪力がなければ持ち上げることさえできないそれを。  氷鬼は、軽々と天高く持ち上げ、そして切っ先を鋭くミキに向けた。  視界の中の細氷が全て散り、露と消える。その風圧は激しく、月融が何一つ弱体化していないことを物語っていた。  氷鬼の力を見誤っていたのか。ミキはまずそう思ったが、すぐに真相に辿り着いた。それはつまり、 「――天邪鬼か」  強きを弱く、弱きを強く。天邪鬼の力で、氷鬼と熊鬼の身体能力を入れ替えたのだ。今の氷鬼は、熊鬼と同等、熊鬼そのものであるということ。 「だが、それでも熊鬼には劣るだろう。自身に不釣り合いなほど膨大な力を扱える器用さは、天邪鬼の特性だ。何より、氷鬼に倍する身長の熊鬼が持ってようやく様になる月融は、その鬼には大きすぎる。身の丈に合わない力を持ったところで脅威はない、むしろ隙だらけで付け入りやすい」  好都合だというミキの強がりを、朔弥は不敵に笑う。  氷鬼は月融の刀身を両の手で持った。すると、硬質な音と共に、月融に亀裂が走ったのだ。  刀身が上下に割れる形で、月融が分離していく。柄の付いた刀の下半分の内部から、上半分と繋がるもう一つの柄が現れたのだ。形は歪、しかし確かに刀と呼べる形状の武具が、二つ。それもそれぞれ三メートル前後、氷鬼が扱うために誂(あつら)えたかのような二刀。 「これこそが、この刀の真の姿。熊鬼の力を継承した氷鬼がため、あの人の伝えた技術と三嘉神の刀匠が生み出した、二刀一対の『斬界刀』」  氷鬼が、二振りとなった月融を握る。その気迫は熊鬼をも凌駕し、万全のアカとノアールが揃っていたとしても勝ち得ない存在と化していた。今この状況においては、もう戦いと呼べるものさえ起こるまい。アオをして、逃げることさえ不可能であると回答を寄越すほどの、かつてない強敵。  ミキにはもう、戦うという手段は残されていなかった。 「そして『月融』とやらは、後世の八剣らが勝手に付けた名前。奴らは何もかも、自分たちの都合のいいように奪っていきおった。妾からすれば偽史とは言えど、ああ――実に忌々しい。平穏、争いのない世界を望むのは分かろうがな。自身らに対する辱めに対し、どうしてそこまで無頓着でいられる。時間が経ったからか? 自分の生まれる遙か前の出来事など知るものか、と? 傷ましいな……。戦に負けるとは、つまりそういう結果を招くのだろうの」  身に染みた、それこそ遺伝子単位にまで組み込まれた、敗戦の記憶。それが三鬼をここまで弱くし、卑屈にしたのだと、朔夜は言う。  ミキはそれを否定しない。確かにその通り、三鬼の歴史は敗者の末路だった。負けたから悪、負けたから鬼、負けたから全ての責任を背負う。そもそも対立したことも、戦争になったのも、それで双方数え切れない人間が死んだのも、全ては敗者が悪かったのだと。勝者にして正義である者たちがそう判決を下したのだから、そこに間違いはないと断じられ、反論一つ許されない。それが争いに負けるということ。どれほどの理不尽、どれほどの不条理も、勝者から敗者に下される一切は、勝者の名の下に正当化される。  だが、敗者がそこに迎合することが卑屈だというのは、あまりに酷な言い草だろう。それがどれほどの屈辱だったか、一番よく知っているのは三鬼の一族だ。それでも子どもたちを、再び戦乱に送るようなことがないように、必死で一族の存続のため戦ったのだ。そう、真実、命を賭けて戦い続けてきた。手段は違えど、志は違えど、目的を同じくして戦った三嘉神が、三鬼を蔑んでいい理由などどこにもない――。ミキは、そうやって叫びたくなるのを懸命に堪え、息を整え、耳を澄ませた。  そんなミキの様子を知ってか知らずか、朔夜は一層冷たくなった瞳をミキに向け、その名を謳う。 「告げよう、汝を絶命させるものの名を。その真名は、右刀『満ちる月』、左刀『陰えぬ日』。妾が名付けた、愛しき我が子らよ」  何者にも犯されることなく、永劫の繁栄を願ったその名を持って、戦いの日々に明け暮れた、双子のような刀剣。朔夜の思念によって形作られるそれらは今や、紛れもなく朔夜の意志を継いだ、朔夜の子どもと言えるのだろう。 「よもや三鬼相手に、この双刀を振るう機が来ようなど、思ってはおらなんだよ」  それは、どういう意味だったのか。問い糾すより先に、アオがすぐさま答えを返す。  ミキは呆れる思いで、ここが分岐点だと、戦況を見極める。  彼我の戦力差は歴然。此方は二鬼、それも主力(アカ)は無力化され、消耗も激しい。対して彼方は三鬼(さんき)、その力を結集し、最大戦力で挑もうとしている。拮抗することだけを考えても、アオでは足りない。少なくとも全開のアカとの共闘が必要だが、仮にアカが動けたとしても、それを維持できるだけの体力を、ミキは残していない。このままぶつかれば、勝負は一瞬で決まる。これ以上の先延ばしはできない。 「ここまでか……」  ミキは膝を落とし、項垂れてみせる。そこには最早、戦う意志が残っていないことは明白だった。 「漸く敗北を悟ったか。懸命、と評するには遅過ぎるがの。ならば死ぬ前に、一つ聞いておきたいのじゃが」  嘲りながらも、朔夜は気をよくしたように明るい声で問い掛ける。 「その青鬼の能力――恐らくは、我が過去を暴いたものであろう。それは過去視か、それとも思念を読み取る能力か?」  ミキは顔を上げ、黙ったまま朔夜の表情を窺ってみせた。 「そう訝しがらずともな。今更意味のない、妾の戯れじゃ。自慢の鬼の能力くらい、最後に教えてくれても良いだろうよ」  ミキは躊躇してみせた。再び顔を下げ、表情が隠れる。しかしすぐ、観念したように口を開く。 「――そのどちらかで言えば後者だろう。だが、アオの能力はそれだけではない」 「ほう。まあ確かに、その程度の能力では、赤鬼との釣り合いは取れまいな」  心臓の鼓動を数えながら、ミキは懐に差し込んだ手で懐中時計を握り締める。父と子の絆など、三鬼はこれまで感じたことはなかったが。今はそんなものさえ、信じたいと思えてしまう。 「言うなれば――そうだね。システムのログを読み解くような能力だよ」 「炉愚?」  ミキの耳に届いた朔弥の声は、いかにも得心がいかないといった風だった。 「悪いが、近代の世俗には疎くてな。外来語の知識も多少は得ているはずだが、充足しているとは言えぬらしい」 「そうか、それは配慮が足りなかったね」  誰が知ることになるだろう。そのときのミキが、この三日間の中で最も速く、思考を巡らせていたことを。常に三十秒先の未来を予測し続けながら、綱渡りのような繊細さで、台詞を編み出していたという真実を。 「つまり、アオの能力は……」  ミキは、言葉の一つ一つ、単語、発音に至るまで精査を続け、シミュレーションを繰り返し、次に掴むべき最良の選択を模索した。一つの選択肢は、一秒先には十の可能性を生み出す。更に一秒後には百、次の一秒後には万。絶えず削除と更新を交えながら、気の遠くなるほどの取捨選択を繰り返す。その集中力は想像を絶し、残された左目までもが色を失いつつあった。  臨界点を超え目まぐるしく回転を続けるミキの脳裏に鳴り響く、二つの音。機械じみた正確さで、まったく同じ時を刻む鼓動。その違いはただ一点、有機か無機か。どちらもミキの身体の芯に響いては、思考の合間に這入り込んで、なけなしの意識を剥ぎ取っていった。 「アオ、は――」  ミキがそのとき垣間見たのは、自分と同じ顔をした、青い瞳の少女。自分のものとして認識できる最古の記憶で、最初で最後の邂逅を果たした、青の求道者の姿。 『三鬼 弥生。君が生きたいと願うなら――』  何かが始まり、何かが終わった。頷いた白い少女は、ただ幼気に、ただ純粋に、唯一の願いを抱いて手を伸ばした。 『知恵と力を分け与えよう。だからどうか、私の願いを叶えておくれ』  ――契約をここに。この世全ての救済を誓おう。  契約は、まだ果たされていないから。  ――私は、鬼(あく)になったということなんだね。  その誓いを、ずっとずっと覚えている。  それは三鬼 弥生にとって、真実永遠のものだったから―― 「アオは、色(シキ)の読み手。色を識り、色を暴き、色の全てを以て空(カラ)へと至ることを望んだ高僧の、成れの果てだ」 「――なに?」  朔弥は一瞬呼吸さえ忘れ、信じられない言葉を聞いたと、そんな風に目を見開いた。 「いま――何と言った?」 「ああ、だからね」  ミキは、手にしていた懐中時計を掲げる。  有機の音は、ミキの胸から。  無機の音は、その懐中時計から。  この時の止まった世界で。  その元凶である鬼の眼前で。 「貴方の敗北は確定したと言ったんだよ、朔弥姫」  懐中時計の秒針は、何者にも止められることなく、確かに(・・・)時を(・・)刻んで(・・・)いた(・・)。 「――!」  殺せと、朔弥の叫びより早く氷鬼が跳ぶ。その身は瞬神。巨大な刀の二振りを、ミキの命を絶つべく叩き落とす。 「侵せ、『身無しの黒鬼(ココニアラズ)』」  地面から、氷塊から、空から、あらゆる場所から無数の黒い触手が伸び、宙の氷鬼を絡め取った。いや、伸びて絡めたと言うよりも、触手が最初から、氷鬼を覆っていたと言う方が正しいのかも知れない。事実、そうでもなければ捉えられないほど、氷鬼の速さは法外だったのだ。  氷鬼は身動きも取れず、強かに地面に叩き伏せられる。熊鬼から移した腕力が尋常では無いのは間違いない。だというのに、その抵抗が全く効いていない。一本一本はか細く、今にも千切れてしまいそうな触手だが。伸縮、膨張、断裂、破損、そんな概念は知らぬ存ぜぬと、氷結の鬼を束縛し続ける。 「これは――なんだ」  朔夜が唖然として氷鬼を見る。そしてすぐにはっとして、周囲を見渡した。  青かった結界内が、いつの間にか漆黒に染まっていた。空も、氷塊も、地面の隅々までも、一面の黒。それで何故視界が暗闇に閉じないのかが不思議なくらい、完全な黒い世界。その有り様はまるで、三鬼 弥生が住処とする、あの黒い部屋そのものだった。 「――ありがとう、『クロ』。もう大丈夫だよ」  黒い世界で、唯一の白を携えたミキが、姿無き何モノかに感謝を述べた。  同時に、赤鬼が氷塊を自ら砕き、氷の停止から抜け出した。咆吼が上がる中、その身体は黒い空間の中に掻き消えていった。 「クロ――黒鬼、三体目の鬼じゃと? 馬鹿な、今の三鬼にその力は無いのではなかったのか」 「ああ、そういう短絡思考は良くないな。何事にも例外は存在する。これまでの評価が未来永劫通用する、なんていうのは単なる思考停止だよ。三鬼に無いからと言って、三鬼 弥生(わたし)にも無いという根拠にはなり得ない」  青鬼(アオ)。  赤鬼(アカ)。  黒鬼(クロ)。  此れ即ち、三鬼(さんき)纏いて人世を蹂躙する災厄の源禍。 「そう、だから、朔夜姫。千年の時を経てついに、貴方が消滅する夜がやってきたんだよ」  三鬼 弥生は、千年続く三鬼家の歴史の中で、唯一三嘉神の力を再現した担い手である。 「虚けが、それがどうした――!」  朔弥が激高する。氷塊の上に立ち、今にもミキに飛び掛かりかねない勢いで、甲高い叫声を上げる。 「お前程度の鬼が何体群れたところで、我が鬼を凌駕することなど叶わぬ! 時よ止まれ――我が領域は、何人たりとも逃しはせん!」  朔弥の言葉が呪詛のごとく、黒の世界に響き渡る。主の厳命である、隷下に跪くあらゆる爪牙は、仇なす敵に喰らい付くべく動き出さなければならない。 「……!」  だが、その呼び掛けに応えるべきモノは何一つなく、停止の結界は沈黙を続けた。氷鬼の身動きが封じられようと、稼働し続けられるはずの結界が。 「何故だ、なぜ動かぬ、なぜ動ける。結界は健在、綻びさえないのだぞ、だというのに何故っ!」  朔夜は苛立たしげに氷塊を踏み付ける。黒髪が狂ったように波打ち、外敵を求めて揺れ動いた。 「ああ、きっと、そう言って七夜(かなし)は滅びたのだろうね。一度張った己の結界を、破られるのでも潰されるのでもなく、浸食され奪われるなど、貴方の時代はおろか、ほんの五十年も前にさえ存在しなかった概念なのだから」  或いはそれが、結界師という者たちが辿る必衰の未来だったのかも知れない。ミキはそう続け、そして狂気に身を染めつつある原初の鬼姫を見上げた。 「ここは既にクロの領域だ。いや、そもそも貴方が現れる以前に、クロはこの夏臥美町自体の大半を飲み込んでいた。今回に限り、貴方が私の準備した場所に都合良く現れてくれるように、三箇所、わざわざ場所を譲ってあげていただけのことだよ。ああ、クロには本当に苦労を掛けた。私もついさっきまで、間に合わないのではないかと肝を冷やしたよ。四方を取り囲んでなお耐える不落の要塞、実に見事だった。貴方に気付かれることなく、もう一度この領域を、結界ごと浸食し直すのに、三日という期限はあまりに短すぎたね」  そのミキの長台詞の一つ一つを咀嚼していくにつれ、朔夜の表情が明確に曇っていった。『場所を譲った』『浸食し直す』『三日という期限』。それらが何を示すのか、否が応にも理解に至るだろう。 「時間稼ぎだった、と? 先程までの遣り取りが――否、此度の戦いその全てが、この策を成すための布石だったと――?」 「策と呼ばれるのは業腹だけれど、まあ概ねその通りだよ。貴方本人を相手に勝率は泣きたくなるほど低かったし、かといって封印の短刀を使えば私は長く生きられない。どんな理屈を並べようと、筋道を立て、論理的に戦術を練ろうと、貴方を倒すことができないなら。それはもう、このような禁じ手に頼るしかないだろう。因果も道理もかなぐり捨てて、どのような難事であれ一瞬で解決する万能の導き手、神の御技と呼ぶより他にない大どんでん返し、世界観を破壊する掟破りの愚策。これこそ、最強の鬼使いの幕を引く一撃、機械仕掛けから(デウス・エクス)出てくる神(・マキナ)――ああ、だからつまり。貴方にとってクロは、まさにジェームズ・モリアーティだったという訳だ」  尤も、クロにとっての朔夜は、シャーロック・ホームズなどではないのだが。興ざめに過ぎないからと、ミキは嘲笑しながら、その言葉を飲み込んだ。  元よりミキは朔弥を相手に、力も技も競う気は毛頭なかったのだ。結界が広がり、住民を飲み込み始めるまでの三日という期限の中で、いかにクロの浸食を進めるか、ただそれだけに心血を注いだ。術者本人が対象に近付けば近付くほど効率がいいからと、自らを敵陣の真ん中に放り込むほどに。  特に朔弥との対決には苦心した。天邪鬼と熊鬼を予定より早く倒してしまったため、なるべく決着を引き延ばす必要があったからだ。言葉も、仕草も、表情も、すべてはそのために仕組んだロジックの束だ。  その点、アオの存在は大きかった。話術に関しては自信のあるミキでも、相手の禁句を的確に、決して一線を越えない絶妙な位置取りで踏み抜くには、やはりアオの存在は必要だったのだ。  閉じられたアオの両眼は、今も朔弥と氷鬼、そしてクロが飲み込んだ結界の内外をも、完全に見据え続けている。千里眼に類する視覚とミクロ単位の観察力からなる、完全認識能力。今ある十から百を識り、未来と過去の十さえ導き出す。それが、ミキが全幅の信頼を置く存在、アオである。 「その、減らず口をやめよ。これで、この程度で、妾を下した気でいるなど千年早い」  一筋、明確な殺意がミキの感覚の中を抜ける。同時に、再び細氷が舞い、ミキの方へと吹き付ける。  そして、ついに氷鬼は拘束を破り。  ミキの至近距離へと躍り出る。 「要らぬわ、青二才が」  結界を奪われ、著しく精彩を欠く氷鬼の動きは、未だ高速。アカならばまだしも、アオにもミキにも止めようがなく、手出しのしようがない決定打。双刀の強襲にはクロの触手さえ間に合わず、今度こそ終わりだと朔弥は確信した。いや、終わらせなければならないと。  それでも。  それでも、ノアールならば、止められる。  閃光の如く金の髪を煌めかせ、一瞬にしてノアールが姿を現した。ミキに覆い被さるようにして攻め入った氷鬼の背後を取る形で、ノアールは渾身の跳び蹴りを放った。 「木偶が――!」  朔弥も氷鬼も、ノアールの存在は完全に意識の外だった。でなければ今の、金剛力に振り回されたノアールの攻撃など、氷鬼ならば容易くかわせたはずなのだ。 「ノアール――」  黒い地面に叩き落とされた氷鬼が、再びクロの触手に捕まるのを確認してから、ミキはノアールを見やった。  ノアールは受け身も取らず、不自然な形で地面に墜落した。それは隻腕のせいではない。蹴りを放った体勢から、ノアールの身体は全く動いていない。止まっているのだ。結界を無効化したとは言え、氷鬼に直接触れれば力は及ぶ。氷鬼に痛恨の一矢を喰らわせた代償として、ノアールは停止したのだ。恐らく彼女は、結界の気配が変わったことに勘付き、状況も何も分からないままで突入した。そして視界に入った、ミキに襲い掛かっていた敵を蹴り飛ばしたのだろう。  それを知って、ミキは深く息を吐いた。ようやく、最後の懸念を払拭することができたのだと。  ――最初は、ノアールを犠牲にするつもりだった。  初めの二戦でアカとアオを使い切り、ノアールと氷鬼を戦わせて、その後ろでクロの完成を待とうとしたのだ。  確かにそれならば、より安全に時間を稼ぐことができただろう。しかしそれは、ノアールを失う選択肢でもあった。  ミキは自身に課したルールとして、相手一人に対し、見せる鬼は一体だけと定めていた。自分の能力は必要以上に広めない、それが己を守るための最善策であることは、最早一般常識とさえ言える。ましてクロの存在は秘中の秘、仲間であろうが家族であろうが、是が非でも隠し通すべきだと認識していた。  それは何より、ミキの持つ本当の目的を果たすため。ミキにとって、三鬼(さんき)全てを見せるとは即ち、その目撃者を一人残らず、絶対に排除するという宣誓に他ならない。  だが、辛くも踏み止まった。安全性を捨ててでも、ミキは友(ノアール)を活かすことを願った。その無理を実現するために、二戦目でノアールが切り札を使い切るように仕向け、アオの素性を隠しつつ三戦目から遠ざけた。今にしても、ノアールが踏み込んでくるタイミングで氷鬼の拘束を緩め、ノアールが氷鬼を先制せざるを得ない状況を作った。敵に指摘されたミキの失策も、慢心と罵られた態度も、全てはこの結末を掴み取るための秘策。そうだ、これならば、ノアールは何の情報も得ていない。  ミキがノアールを消す必要は、どこにもない。 「ありがとう、ノアール――」  それは、聞きようによっては嫌味にも取れたかも知れないが。ミキが抱いていたのは、感謝の気持ちただ一つ。ミキが自ら危険に身を晒した状況で、ノアールは何も知らずに、何度も飛び込んできてくれた。性格上、それはアオの力を借りずとも、容易に予想できた展開ではあったけれど。だとしても、そんなノアールの、仲間(じぶん)を想う心の所在を、掛け替えのないものだとミキは思った。  信じて、そして応えてくれた。それは些細なことのようで、けれど何より難しい。ミキの張り巡らせた無数の策も、その誠実さに比べたら、本当にちっぽけな小細工でしかない。  故にミキは万感の思いを込め、最後の敵を前にする。 「終わりだよ、三嘉神 朔夜」  朔夜は怒り心頭といった風で、般若の如き形相で迎え撃った。 「三鬼 、弥生――!」  朔夜の身体を、黒い触手が絡め取っていく。氷鬼の身動きさえ封じる、万力のような拘束が全身を覆っても、朔夜の目から力は失われない。恨めしいその視線は、ミキを呪い殺さんとしているかのようだった。 「封印――先延ばしなどもうしない。貴方も、貴方の鬼も、貴方が喰らってきた思念全て、一足先にクロの世界へ行ってもらう。もう二度と、擬獣として蘇ることもない。十戒が一『原初の鬼姫』を、今宵ここで断ち切ろう」  朔夜の脚が、そして氷鬼の身体が、黒に飲み込まれていく。消滅では無い。底なしの沼に沈むように、ゆっくりと、しかし確実に。朔夜は終わりを迎えようとしている。 「クロの世界――鬼の腹の中に取り込もうというのか。だが所詮、それは一つの封印術であろうが。あらゆる存在はいずれ滅びゆく定め。お前と、お前の鬼が朽ち果てたとき、再び妾は蘇るのよ。そのときこそ、妾の願いは果たされる。もう数十年、いや数百年であろうとも、妾は抗い続けよう」  朔夜の意志は、強い怨念。飽くことも、疲弊することもなく、ただ目的の為に邁進する精神は、妄執というより他にない。原初の鬼姫は、時間などでは消滅しない。  それは、そんなことは、三鬼 弥生は疾うに、理解していた。 「貴方は結局、気付くこともできないのか」  だからこそ、ミキは落胆を隠せなかった。 「なに?」  ミキの顔が、哀れみに染まっていたことに、朔夜は初めて気付いたようだった。先程から、言葉や表情に、少しずつ混じっていたその感情が今、完全に朔夜に晒されていた。 「クロの腹の中と言ったが、その認識は誤りだ。封印というのも違う。先延ばしはしないと言ったはずだ」  誤りだと、違うと、断言するミキが、朔夜にはどうしても解せなかった。再び上がる火種を原動力に、朔夜は問い掛ける。 「ならば何だと言う」  そしてミキは、緩く首を振って、答える。それは、私にも分からない、と。 「いや、貴方にも、誰にも、この世に生きる何ものにも、理解し得ない。そう、完全なる色の読み手である、アオでさえも。何故なら全てが、この色の(・・・・)産物で(・・・)あるが(・・・)故に(・・)」 「―――ッ!」  火種、どころではなかった。  色とは、世界だ。有と無で構築されるこの世界、そのものを指し示す言葉。であるならば、その読み手に理解できないものとは、つまり―― 「まさか――」  その意味に辿り着き。その最悪の繋がりを見留め。  朔夜は今に至り、苛烈な狂気を喚き散らした。 「まさか、お前は、お前はッ! あの信仰を取り戻したというのか? あの忌まわしき理想を、真に叶えんとしているのかッ!」  怒りを隠す性質ではない朔夜であっても、その半狂乱は異常だった。生き物であれば、声帯を潰してもおかしくないほどに、朔夜は絶叫した。 「忘れたなどとは言わせん! それが、その信仰を三嘉神が捨てられなかったからこそ、あの大戦は起きたのだぞ! 三嘉神が、そのような盲信を続けたからこそ、あの人は死んだのだぞ!」  朔夜の身体が半ばまで黒に沈んだとき、ようやく朔夜の下にあった氷塊が崩れ落ちた。破砕音と共に原型をなくすほどに壊れ、粉々になっていく。  その残骸の中から、朔夜は這いずり出て、ミキに近寄ろうとする。未だ半身は埋もれたままで、それでも止まることはない。氷鬼さえ凌駕する力、それは極まった感情である。先程の、あえて氷鬼の束縛を緩めたのとは違う。黒の触手が抑えきれずに、朔夜の前進を許さざるを得なかった。 「名は奪われ、誇りも奪われ、陵辱の限りを尽くされた三鬼の歴史において、あの信仰を捨てた英断だけは、唯一絶対の美点だったはず! それを、それさえも、お前は無駄にしようというのかッ!」  三鬼(さんき)の力を失い。三嘉神の名を失い。第三子が産まれなくなったのも、辿れば全て八剣との敗北に端を発した。しかし、同時に失った、三嘉神の信仰だけは、かつての当主たる朔弥をして、捨て去るべきだったと断言する。それほどまでの危険思想――それこそが八剣を、そして中立だった二木さえも敵に回した、最大の要因だったのだから。 「三鬼も三嘉神も関係ないよ。これは私だ。私の問題だ」 「そのような詭弁が通用するものかッ!」  ミキの誓いは。ミキの目的は。  かつて三嘉神が願い、そして目指した理想郷、そのものなのだ。  それも三嘉神のように、ただの祈り子では終わらない。  色の読み手だという青鬼と、その鬼でさえ理解し得ない黒鬼。それが本当に、朔夜の想像する通りの存在であるとするならば―― 「通さぬ、通さぬぞ! 確信した――お前は! 今! ここで! 殺さなければならない! 妾の過去も、我が愛し子たちの未来も、お前などに断じて奪わせはしないッ!」  朔夜はミキへと手を伸ばす。  三嘉神 朔夜は、否定しなければならない。  それこそが過ちだったと、何よりも排除すべきだった元凶だと、頑なにそう信じている朔夜だから――否。  三嘉神 朔弥が、この世界で生まれたものだから。  三鬼 弥生の存在を、許すわけにはいかないのだ。 「過去、未来――か」  ミキはまた、泣きそうな顔をして、朔夜を見下ろした。 「気付けない。錯乱、改竄、誤認、囚われ、永劫空転を続ける思考回路。やはり貴方も人ではなく、擬獣なんだよ」 「何を――」  あと一息で、手が届くというところで。朔弥とミキは、硬く視線を交差させた。 「氷鬼の能力は、時を止める力だ。三鬼以外の――いや、力を研ぎ澄ませれば、三鬼さえも止められるかも知れない。そこは疑いようがないし、貴方も否定することはないだろう。だが、その能力を以て貴方は、『時を支配する』と表現した。秒針を戻し、時を戻すのだと」  ミキの首へと差し向けられた両手が、止まる。ミキのその言葉が、何か致命的な過失を言い当てようとしているのだと――朔弥にも、察せられたのかも知れない。 「時を止める、時を戻す――その二つは、全く(・・)別の(・・)能力だ(・・・)。カテゴリは同じでも、向いている方向が全然違う。おかしいとは思わなかったのかい? いや、生前の貴方ならば当然認識していたはずだ。貴方に、貴方の鬼に、時を巻き戻すことなんて不可能であると」  一瞬、朔弥が惚けたような顔をした。ミキの言うことが分からない、何を言っているのか理解できない、そんなような。今までの、まるで生きているかのような様子は、見る影もない――幽鬼のような気配が漏れ出る。 「この世界全てを、停止の結界で覆ったところで。その先には、何もかもが止まった無の世界があるだけだ。決して戻らない過去を、そうとは知らず永劫待ち続ける――とうの昔に死んでいる貴方が、行き着ける未来はそれだけだ。貴方にとってそれ以上の結末など、絶対に訪れはしない」  認識のずれ。記憶の混濁。それは擬獣の特徴でもある。初めから、死者の思念は当人全体の一部でしかなく。更には時を経て、大量の思念を取り込む中で、限りなく劣化していくものだ。生者から見れば明らかな矛盾が生じていても、本人には気付くことができない。十戒という強大な存在であっても、それは例外ではないのだ。 「もう一度言おう、三嘉神 朔弥。貴方の願いは叶わない。私が阻むからではない。現実が、この世界が、そもそも成就を許さない」  その現実を突き付けるミキの心情が、果たしてどのようなものだったのか。少なくとも、愉快なものではなかったことは、ミキの表情が語っていた。 「貴方に大義名分などない。貴方という擬獣は、ただ己の妄想に浸りながら、人に死を与え続けるだけの厄災に過ぎない。受け容れがたい己の過去を、現実に起きた出来事を、認めることをしなかった。そんな貴方の願いを叶えてくれるほど、この世界は優しくない」  朔弥の首元までも、黒に呑まれていく。氷鬼も向こう側へ消えた。ここに至って、朔弥には何も為す術は残されていない。 「さようなら、三嘉神 朔弥。私は私の愛する者たちのため、貴方を許すわけにはいかなかったが。それでも決して、貴方を否定することなどしない。貴方は貴方の願いのため、愛のため、一人の人間として戦い抜いた。そのことは、私が私である限り、この記憶に刻み続けよう。貴方という存在が、貴方の与えてくれた恐怖が、私を最後まで走らせてくれるから。だから」  ありがとう、と。  そう告げて、ミキが朔弥への視線を切った、そのとき。 「あ――」  朔弥の、擦り切れた声が。 「ああ――あああ――!」  壊れた悲鳴が、鳴り響いた。 「お前、のが、願望、にわざ、禍よ、あれ――」  その瞳は、血に濡れて。黒く変色した肌は、人ならざるものであり。長い歴史の中でただ一人、自ら悪鬼へと身を落とすことを選んだ姫君が、 「其の、行く末、に、呪い――在、れ――!」  最期に遺した言葉を。三鬼 弥生は、背を向けて聞き届けたのだった。