第五章「Gracial Jardin」 8 『ごめんなさいっ。大雨だからって、店長命令で今日はお店開いてないんです。私も自宅待機するよう言われてて――』  受話器の向こう側で、綾辻 華は慌てたようにまくし立てた。  彼女のベッドの上で、或いは勉強机に座った状態で、忙しなく何度も頭を下げている様が、ミキの脳裏に浮かぶようだった。 「いや、いいんだよ華ちゃん。この雨では客も来ないだろう。むしろまだ働いているようなら、店長に文句を言ってやろうと思っていたくらいだよ」  他に誰もいない黒い部屋で、ミキは安心したように顔を綻ばせた。その言葉に嘘などはないけれど、華の私用携帯電話を呼び出した段階で、彼女が今まさに働いているという状態にないことは、既に把握していたミキである。 『えっと、でも、本当にスゴい雨ですよね。ずっとこの町に住んでる友達に聞いても、こんなの初めてだって言ってました』 「全国的に見ても、間違いなく記録的な豪雨と呼ばれるだろうね。明日になってもまだ止まないとなると、そろそろ避難勧告が出ても可笑しくはない」  などと、雨を降らせている犯人は、素知らぬ顔で推察する。  実際のところ、避難勧告などは、普通ならばとっくに発令されて然るべきである。夏臥美町を襲う異常気象は今や、それほどまでの規模になっているのだ。なのにどういうわけか、大雨注意報さえ出てきたという話がない。結界が消えたあとになって、行政や専門家が揃って我が目を疑うだろうと、ミキは確信している。そういう意味でも、限度は三日だった。それ以上雨が続けば、十戒とは無関係のところで、被害者が出ても不思議ではないのだ。 「まあ、そういうことだから、外出は極力避けるようにね。私も今日は自室に籠もって、夏休みの宿題でもまとめて片付けるとするよ」  そうですね、と華は健気にも返したが、ミキの言葉は勿論方便である。あと半日経てば、最後の十戒を倒しに行かなければならない。それに夏休みの宿題など、ミキは夏休み最初の三日間で全て終わらせている。そればかりか自由研究と称して、自発的にセントポーリアの観察日記など付けている始末。擬獣の件を隠して他をそのまま話せば、ミキの生活は単なる暇人のそれである。 『でも、すごいなぁ。私は、その、雨のせいか落ち着かなくて……。毎日のノルマをこなすだけで精いっぱいです』 「いや、充分立派だよ。計画通りに進めることすらできない男子生徒を私は知っているが、それと比べたら何の問題もない」  ミキは至極愉快そうに言った。その男子生徒というのは勿論『チリ君』のことで、彼の宿題計画に遅延が生じているのは、双町出張を命じたミキのせいなのだが、悪びれる気配は微塵もなかった。 『夏休みは毎日歩こうって決めてたんですけど、雨が上がらないとだめですし』 「ウォーキングかな? やあ、健康的でいいね。容姿の醜美などは、土地や時代と共に書き換わるものだけれど。健康体であることの価値は古今東西不変のものだ。若いうちから、健康を維持する努力を続けるのは素晴らしい心掛けだと言える。私も見習わなくてはいけない」  華の恐縮している気配が伝わって、ミキは思わず目を細めた。  華は少々引っ込み思案なところがあるものの、感性は常識的で、基本的に人を嫌わない。人間的な弱さも持っているし、その自覚もある。地味で、平凡で、ありきたりで、穏やかで。いずれは、人並みに母性的な包容力も身に付けられる。大勢の目を惹くような人気者にはなれないかも知れないが、家族を大事に想う母にはなれるだろう。  例えば、『チリ君』のようなひねくれ者を更生させられるのは、或いは彼女のような人物なのではないかと、ミキは思っていた。 「きっと彼も、ど――」  そして、それは。  それはやはり、どこまで行っても。  自分にはできないことであるのだろうと。  ミキは、思うのだ。 『ミキさん?』 「ああ、いや。つい先程解いていた、ドップラー効果を体系的に表す問題が、ふと脳裏を過ぎっただけだよ」 『はえ?』 「おっと」  失敗である。夏臥美高校の一年生はまだ習っていない範囲であったようで、話の広げようがなかった。ミキとしては、現象として不可解で不可思議で、ネーミング的にも嗜好ド真ん中の物理現象が、一つの数式で表現されるという美しさについて、深く語り明かしたいところだったのだけれど。  数式のカタチが云々ではなく。  人間が、その努力と長い研究の末に掴み取った功績たる、真理について。  やはり上手くいかないなと、ミキはずっと抱き続けてきた心細さを再認識する。一人では何もできないと、ノアールが嘆いていたが。そんなことを目の前で言われたら、私の立つ瀬がないじゃあないか――と、ミキは、本当は笑い飛ばしてやりたかった。 『あっ、すみません、勉強に集中していたところで、変な世間話なんかしちゃって』 「いいや、いい気晴らしになって助かっているよ。人間、日の光を浴びないと、モチベーションも維持できないようだからね」 『日光浴で、セロトニンっていうのが出るらしいですよ。それがですねっ、ダイエットにも効果があるって聞いたことが――』  そんな話を、結局小一時間ほど続けることになった。『チリ君』相手に留まらず、ミキとの会話を端的に終わらせようなどという目論見など、通る道理がないのである。  そしてふと、前触れもなく、玄関の扉が開いた気配がした。  ノアールが戻ってきたのだろうと、ミキは当たりを付ける。話を切り上げ、華に礼を言ってから、思い出したように要件を告げた。 「次の月曜、朝の八時半頃が、散歩には最適の気候になるようだよ。いつものコースを歩いてみたらどうだい?」  通話が切れる直前に、ノアールが黒い部屋に踏み込んできていた。レインコートは部屋の外に置いてきたらしく、いつものゴスロリ風の姿である。黒い部屋に黒い服で、金色の髪だけが異様なほど目につく。右腕はあるべき場所になく、今はミキの隣に座っている。 「なんだ、今度は誰と話してたんだ?」 「華ちゃんだよ、華ちゃん」 「あー、誰だっけ、それ」 「駅前にある喫茶店のウェイトレスだよ。昨日も会ったし、一昨日は服を借りたろう」 「ああ、そうだっけ」  どうやら、ノアールの記憶に彼女の顔は残っていないらしかった。少し会話もしたはずだが、その程度でノアールの無関心は揺るがないようだ。 「ほら、買ってきたぞ、新しい雨合羽。これでいいんだろ?」 「ああ、済まないね」  ミキは、ノアールが左手に持っていたビニール袋を受け取った。  中身は大人用のレインコートだ。ノアールに貸していた予備が使い物にならなくなったため、買い換えをノアールに頼んだのだ。お使いは飽きるほどしてきたと公言するノアールなだけに、そこで間違いは起こさなかったようだ。 「どうだったかな? コンビニの様子は」 「思ったよりは普通だったな、客もそこそこいたし。でも確かに、品薄ではあったみたいだ。昼飯時だってのに、保存の利かない売り物の棚はスカスカだったよ」  おおよそ予想通りの回答に、そうか、とミキは頷いた。  ミキは今回の結界を起動する前、主だった食品売り場には、可能な限り在庫を肥やしておくよう進言していた。唯一の補給手段と言っていい貨物列車が、旅客列車と共に運行停止してしまっている。夏臥美町と外界を繋ぐ線路周りは、今やそのレベルで危険地帯となっているのだ。予め手を打っておかなければ食糧難となり、それを起点にして様々な問題が発火しかねなかった。  町会の非常用備蓄も増えているはずだから、もうしばらくは、住民の飢える心配は無用の筈である。あとは、主に町の外側に住む高齢者世帯へのフォローだが、これも自治体が上手くやってくれているだろう。  今回の町単位での孤立は、当然誰にも予想し得なかった。三鬼本家の権力圏外であり、本来手足である『チリ君』の性質が、この件に対し致命的に不向きであったから、ミキが直接動くより他になかった。しかしそのためには、前提として生半可ではない信頼関係が求められた。春から先の四カ月ほど、ミキがどれほどこの町を奔走したかは、ミキ以外の誰にも、勿論『チリ君』にも、分からない話だ。 「お前、よくやるよな、そんな面倒なこと。十や二十くらい、必要な犠牲だって割り切らないと、やってられなくないか」 「そうかも知れないが、それでも尽くせる手は尽くすさ。犠牲者なんて、いないに越したことはないんだから」  それに、恐らく。既に犠牲者は出ているのだ。  夏臥美町の外からもたらされた影響だった。城壁の隙間を縫うようにして侵入してきた、イレギュラー。それにより少なくとも五人、一昨日の段階で姿を消した者たちがいる。結界の構築で身動きできなかったミキには、それ以上の犠牲が出ないようにという、事後対策しか取れなかったのだ。 「お前のケータイの着歴、凄いことになってるだろ。今日半日だけで、履歴全部埋まってるんじゃないかってくらい、ひっきりなしに電話してるんだから」 「いつものことさ。情報収集は私の日課だ。数日の間に多少増えたところで、どうということはない」  ノアールの不満そうな顔は、ミキにも分かる。そんなことで、十戒との戦いに支障は出ないのかと、そう聞きたいのだろう。  しかしむしろ、そうしなければ落ち着かないのだ。全てが予想通りにいっているか、いないのならば原因は何か、どうすれば軌道修正できるのか。すべて把握し、記憶として蓄積していかなければ、普段のミキの態度は有り得ない。一つ一つ丁寧に構築してきた、膨大な交友関係コネクションもまた、ミキの持つ武器の一つなのだ。 「夏臥美の外には、今のところ異常もないようだった。結界の動作に狂いもない。八剣の密偵も今のところは見付かっていないが、こちらはまあ、今は気にしすぎない方がいいかな」  収集した情報を事細かに確認し、吟味し、精査しながら、記憶として格納していく。町の外で起きる事象に対しては、こうした地道な作業を省くことはできないのだ。その辺りはどうも、『チリ君』には過大評価というか、勘違いされているきらいがある。 「八剣ね。なに、連中がお前の邪魔をするかも知れないって考えてるのか?」 「可能性としては低いと思うけれど、一応ね。それに、チリ君の件もあるし」 「んん、誰だって?」  ノアールが、本気で分からないといった顔で聞いてきた。  ミキは、まあそんなところだろうな、と半ば呆れながら続ける。 「チリ君だよ。君も双町で会ったんじゃないのかい?」 「双町で……ああ、アイツか」  なんとも詰まらなそうに眉をひそめてから、ノアールは自分の右腕を拾い上げ、勢い良くミキの隣に座った。 「チリだっけ? テリーとかって名前じゃなかったっけ? いやまあ、パワーゲイザーもブレーンバスターも、全然使えなさそうな身体してたけど」 「彼はサウスタウンのヒーローでもなければ、正義の超人レスラーでもないよ、ノアール」  ミキは笑いを堪えながら言う。なんでそんな知識が豊富なのだと、突っ込みたくて仕方がなかった。如何にあの二木 聯が、彼女らを放任しているかが窺えるというものだ。 「ともあれ、彼が私の、この夏臥美町で組んだ『両義陣』の相方だよ。君の目から見て、彼はどうだったかな」 「アイツは――」  ノアールは、興味のなさを隠そうともせず、その先を告げる。 「アイツは、駄目だ、弥生。とても使えない。信頼に足るような器じゃない」 「おや、辛口だねノアール。まあ、元々武術の心得もない一般人だったし、界装具による身体能力強化も不安定だから、君の好みには外れるかも知れないが。それは彼の本質ではないだろう」  ノアールは首を横に振ってから、ミキの方を見据える。 「アイツはいつかお前を裏切るぞ。お前が窮地に立ったとき、自分には関係ないと目を反らすぞ。アレは、そういうヤツだよ」  能力ではなく、人格が。使えない、信頼できないと、ノアールは重ねた。  それでミキはおおよそ、ノアールがどんな状態の『チリ君』と出会したのか、見当がついてしまった。 「彼は、随分と気落ちしていたんじゃないかな」 「は、どうだか。仲間がやられて平然としているようなヤツが、落ち込んだりなんかするものなのか?」 「それはもちろん、するだろうさ」  理解できないと首を傾げるノアールを、ミキは自信を持って見つめ返した。 「私が思うに、君たちはよく似ているよ」 「なに? オレが? アイツと? 冗談だろ弥生。オレは、あんな軟弱野郎なんかとは違う」  微熱のように憤慨するノアールを、ミキは涼しい顔で受け止める。 「強く、譲れない自分というものを持っている。他者にどう言われ、どう思われようと、それでも揺るがない自我だ。それは、君にだって覚えはあるだろう」 「ふん」  一笑に付して、ノアールは遠い者を侮蔑する。侮辱するかのような顔で中空を睨んだ。 「真逆だろう、アレは。自分の感情を押し殺して、自分っていう存在を蔑ろにしてる。アイツの中の優先順位で上の方にあるのは、下らない見栄と世間体、ただの言い訳だ。譲れない自分? 揺るがない自我? もしそんなものをアイツが持っているというのなら、それはきっと、ただの張りぼてでしかあり得ない。ああ、きっと赤ん坊が四つん這いで突撃したくらいの衝撃で、微塵になって崩れ落ちる程度の強度だろうさ。そんなものを一人前のツラして抱えて、バカみたいだ。結局自分を大事にできない、自分を一番に考えられない奴は、他人を大切にすることだってできないよ」  脆すぎて、儚すぎて、弱すぎて。そのくせそんな自分を恥じないで、口先だけは一丁前。  だからこそ、苛々すると。ノアールは言う。 「――ふん」  ひのえの脱落を知って、それでも『チリ君』は行動を起こすことを躊躇ったのだろう。その前提条件として、『チリ君』はひのえを、ある程度大事に思い始めていただろうし。それでも動かなかった『チリ君』は、きっと既に、自らが抱いていた理想の虚ろさにも気付いていたのだろう。夢と現実の狭間で迷走するその姿を以て、軟弱だと、ノアールは断言しているのだ。それが己が望みなら、何をおいても手にしたい未来なら、どこに迷う必要があるのかと。ノアールは強く、誰よりも強く、糾弾する。  双町での出来事は、チリ君へ直接掛けた電話一回以外は、ひのえや他の知り合いの伝聞でしか知らないから、ミキもあまり詳しくはないのだが。むしろミキとしては、自分の役割として、昼神姉妹についての情報を重視せざるを得なかったから、現場に任せるしかなかったのだが。大筋のところは、アオの予見通りの事運びとなっていたようだった。  だからこそ。  ――そんな馬鹿げた死に方、俺は絶対に御免だからなッ!  だからこそ、彼の心中を思うと。ミキの胸は、いたたまれない気持ちで埋め尽くされてしまうのだ。 「ノアール。君は、お腹が空いたらどうする?」 「……んん?」  唐突なミキの質問に、ノアールは何とも形容し難い顔をした。 「そりゃ、何か喰うだろ」 「食べ物を所持していなかったら?」 「どこかで買うだろうな」 「どうやって?」  何の謎掛けかと勘ぐったのだろうか。ノアールは腕を組んで、しばらく唸っていた。 「そりゃあ、買うんだから……。金を渡して、商品を受け取って。真っ当な売買の遣り取りだ。そういうことか?」 「そう。そうだよね。そうするものだよ。『チリ君』もそうだし、私もそうする。そしてそれが、例え君であっても変わらない。自分を大事にして、自分の感情、欲求を一番に考えて、そのために如何なる障害をも撥ね退けると強く、頑なに誓った――君であったとしても」  でも、とミキは否定した。  抗って。  覆した。 「それは可笑しな話ではないかな。そんな、自分を大事にする君が、空腹を覚えたならば、何をおいてもすぐにでも、それを満たそうとするはずだろう」 「可笑しくないさ、その通りだ。そんなに腹が減ってるなら、好みはとりあえず置いておいて、手近で手軽な店で手を打つわけだろ。幸いにも、オレはジャンクフードにも買い食いにも食べ歩きにも抵抗はない、一切ない。むしろ好きな方だ」  その辺りも、ミキはブランセから話を聞いて知っていた。彼女は、ハンバーガーに齧り付きながら町を歩いているノアールを目撃して、行儀が悪いと抗議をしたのだそうだ。ブランセのそんな切なる訴えも、ノアールにとっては雑音でしかないらしく、軽くあしらわれるのが常だというが。 「手近な店に入って、お金を払う?」 「そうだよ」 「なんでお金を払うんだい?」  なに、とノアールが目を見開く。その宝石のような青い瞳を。作り物めいて、否、作り物だからこその美しさを湛えた、その眼球を。 「空腹だ、何か食べたい。それは君自身の欲求であり、願いであり、君が優先すべき問題である。それは間違いない。異論を挟む余地などない。ならば、それを何よりも最優先する君ならば、食料を求めるという行動と、空腹を満たすために食べるという行動の間に、何故余計な手順を挟むんだ。お金を払い、商品を購入する? それは君の願望か? 君がしたいことなのか? まあね、お金を使う、金銭で物やサービスを購入するという行為に満足感を覚える人種がないでもないけれど、君はそこには属さないだろう?」  そこが、可笑しいと言っているんだよ――。  ミキはそう断じ、ノアールを見つめる。  愛おしそうに。  慈しむように。 「自分を一番に考えているという君が、自我を、自分の欲求を曲げているじゃないか。早く空腹を満たしたいという願いを我慢して、言ってしまえば後回しにして、優先度を下げて。君からしてみれば無駄な、対価を支払って食料を購入するなどという余分を差し込んだんだ。それはどうしてだ? 食べ物なんかそこら辺に陳列されているのだから、それをひょいと取り上げて、そのまま口に運べばいいじゃないか。君ならば、ガラスケースを破壊して、中に並んだものを貪るのも容易い話だ。ふん、まったく不思議だね、私には不思議で仕方がない。君はそうしたいんだろう? 食欲はあくまで人間にとっての三大欲求だが、あれらは君にとっても無視し得ないもののはずだろう? ならば何故それに従わない。何故君は、それを無視して通っている」 「いや、待て、待てよ弥生」  ノアールは慌てた風にミキを制止した。何やら面倒なことになったと眉を寄せながら、頭の中で思考を巡らせ、言葉を探しているようだった。 「それは、話が違うだろう」 「何が違うね?」  必死で言葉を探すノアールを、ミキは幸福そうに口を吊り上げ、見つめ続けた。 「対価を払わなければ、それは窃盗か強盗だ。盗む、奪うってことじゃないか。そんなこと、できるわけがないだろう」 「ふむ」  つまり言えば、犯罪である。それは本来の、ノアールほどの背格好の、人間の子どもでも分かることだ。ノアールがそのように聯から躾けられているのかは、ミキにも分かりようがないが。その程度は常識として、当然把握して然るべきだと、誰にでも察することはできただろう。 「それと、君に何の関係がある?」  それでも、ミキは追求を止めなかった。 「何を、社会のルールなんてものに縛られているんだい、ノアール。君にとって、それはそこまで大事なものではないだろう。ルール、マナー、条例、法律、憲法だとか、そういった代物はね、形態は様々であるけれど、元を正せば、人と人が折り合いを付け、共生していくために設けられたレギュレーションだよ。自分が何より大事だと主張する君のような存在にとって、それらは酷く息苦しい、邪魔でしかないもののはずだがね」  子が親から教わるそれとは、恐らく逆のことを。ミキは、ノアールに語り始めた。  それは奇しくも数日前、双町にて昼神姉妹が語った持論と似たようなものだったけれど。  同じではない。  似て非なる論理。  軸にあるのは、異能ではなく、人心だ。  誰もが持つ、当たり前の、心。 「ああ、君の言うとおり、人間は誰しも自分を一番に考えるべきだ、それは正しい。自己犠牲は偽善に過ぎないし、自虐性癖は単なる病理だ。しかしそれだけでは、人間同士が一つの社会を築くことはできない。いや、できなかったんだ。人それぞれが自分の欲望だけを主張し合えば、自ずと争い事に行き着いてしまう。ぶつかり、擦り合って削り合い、傷付け合って潰し合うより、他になくなる。そういった実に初歩的なことを、人類の祖先は何百万年だかそこら掛けて学んだわけだよ。自分を生かすという大目的のために、あえて小賢しいルールで雁字搦めにされるコミュニティを形成し、そこに属することを良しとしたのさ。そうして文明と呼ばれる枠組みが初めて生まれたのが、一万年ほど前の話」  ノアールの視線が斜め左下に流れた。彼女が面倒くさがって、思考を止める方針を固めたことを、ミキは見逃さない。  つまりね、と。ノアールの頬に手を添えながら、ミキは強引に結論を引き寄せる。  否応なく、視線が合う。 「どれほど自意識が、自我が強い者であっても、時として己の意志や欲求を自制することはあるんだよ。分かりやすい例として、さっきは食事について挙げたけれど、他にも心当たりはあるだろう? 人間社会における罪だから、できない。やりたくてもやれない、遠回りしなくてはならないことも、当たり前に存在する。君もまた、その例外ではないという現実がそこにある。別段、それで君が弱いなどと言うつもりはないよ。君の心は強い、本当に強い、冗談や揶揄の類ではなく。そうとも、今でも信じられないくらいさ。君の持つ力が、全て後天的、界装具として生まれ持った性能ではないという事実を。何の能力も持たない、精々人並み以上の持久力と腕力を持つというだけの人形が、たかが五年足らずでアカの、正真正銘の全力に匹敵するほどの域に達したなんて、常軌を逸しているとしか言いようがない。一体どれほどの意欲が、強くなることへの純粋な欲望が、君をそこまで突き動かしてきたのか、誰に想像できるという」  そんな、ノアールほどの強者でも、自分を後回しにせざるを得ないことはある。特別、殊更に語られるほど強い理由がなかろうと。ノアールが無意識的、常識的にこなしている行動の中にも、それらは潜んでいる。それはノアールが異例だということではない。人間社会に生きるということはそういうことなのだ。自由気ままに、本当の自分本位で生きていこうとすること、それは人間社会を敵に回すこととほぼ同義である。  人に迷惑を掛けるな。その大原則を遵守することをやめたとき、人は人の道を踏み外すのだ。少なくともそれが、現代の人間の在り方だ。そこに、どんな理由があろうとも。 「君だって、君なりの都合があって、そういった行動を取っているんだ。同じだ、同じなんだよ。彼も、『チリ君』もね、自分を守る為に、ああやって――苦しんでいる」  初めに視線を切ったのは、ミキの方だった。  それでノアールが少し驚いていたのを、ミキは辛うじて、視界の端で捉えたのだった。 「ねえ、想像できるかい、ノアール。本来、君と同じくらい強い自我を持ってる人間がいて。その人が、君が信じられないくらい投げやりに、自分の感情を押し込めて、なお普通の人間として、この社会で生活しているんだよ。目に見えないからと、誰にも、自分にさえ気付いてもらえない。嘆くことも許されず、常人として生きることを強いられている。その心労、悩乱は計り知れない」 「…………」 「その人生は、幸福なんてものとはまるで逆を行く。そうは思えないか、ノアール」  自分がそうだからと、他人も同じだと考えるのは、間違っていると。  ミキは常々、誰彼構わず、そう言ってきた。言い続けてきた。  善悪、強弱、優劣。あらゆる尺度を、人は持っているけれど。  それが正しく機能するのは、自分という個人が、一生の中で視界に入れられる、ごくごく小さな世界でだけだ。  自分からすれば愚かな行為に。目の前の誰かは、人生を賭けているかも知れない。  自分が容易く越えられる問題が。どこかの誰かにとっては、人生の命題に成り得るかも知れない。  そして当然、逆も然り。  同じ人間だから、価値観も何も全て同じだなんてことは。  同じ人間だから、その行動原理の全てを理解し、納得できるなんてことは。  ないのだ。  絶対に。  断じて。  三鬼 弥生は、その全てを賭して、否定する。 「君が、興味が無い、関心を持てないと切り捨ててきた人たちの中にも。きっと、君と仲良くなれる人はいたはずだよ。君を、今よりもずっと強くしてくれる誰かはいたはずだよ。君が君だけの物差しで以て、失格の烙印を押してきた人たちの中にも、ね」 「……それは」  ノアールは、叱られた子どもがふて腐れるような顔をして、瞼を落とした。  多分、納得などしていないだろうと、ミキは思っていた。この程度で自分を曲げるような人格ならば、そもそもノアールはここまで強くはならなかっただろうから。  それでも、そういうことを言ってやる誰かは必要なのだと。ミキは、この三日間をノアールと過ごすことで、確信していたのだ。  ミキからすれば。ノアールは、まだ幼い。 「……昔、それと似たようなことを、オレに言ってきた奴がいたよ」  呟く言葉は、どこか寂しそうで。  それはきっと、本当にもう、昔の話。  今のノアールには、いないのだ。  そういうことを、言ってくれる相手が、いないのだ。 「まあ、それなら。今一度自問してみるといい。それで何かを変えるのも、変えないのも、君の自由だ。それは君の都合で、君の思うとおりに決めればいい。私はそこまで干渉しない。すべきではない。ただ――」  ノアールを解放して、ミキは前を見据える。  その人を、いつも迎えるように。ソファに座って、正面を向いて。 「彼ともう一度会うことがあったなら。もう一度、彼のことを見つめ直してあげて欲しい」  そう、ミキは言って。  渋々ながらも、ノアールは頷いて。  そのとき――ノアールが『チリ君』と再び会う機会が巡ってきたとき。彼がどうなっているのかを、思って。  ミキはまた、泣きたくなったのだった。