Gracial Jardin -7-


 ノアールの様子がおかしい。ミキがそのことに気付いたのは、天邪鬼との戦いが終わったすぐ後だった。口数が減り、視線を下に向けていることが多くなった。声を掛けても気の乗らない生返事が多く、不機嫌そうな気配が絶えることはなかった。基本的に遠慮というものがなく、初対面の相手にさえ物怖じしない性格のノアールが、思い悩む姿を見せるというのは珍しい。少なくとも、ミキにとっては初めて見る姿だった。

 そうなった原因は、ミキにも思い当たるところはあった。

 ノアールは、先の戦いで善戦こそしたものの、終わってみれば、結局は敵に翻弄されていただけだった。そればかりか、切り札を切っておきながら、手痛い反撃に倒れてしまったのだ。これでは不満も残って当然だろう。敵や味方がどうこうではなく、力不足の自分が、きっと何より許せないのだ。

「そう気に病むことはない。君がいてくれて、私は助かっているよ」

「別に」

 天邪鬼を倒してからの丸一日を共に過ごすにあたり、そんなやり取りも何度か繰り返した。ノアールの機嫌は戻らなかったが、その切り返しが『チリ君』に似ていて、ミキは微笑ましい思いだった。

 事実として、ミキにとってノアールの存在は大きい。

 天邪鬼を倒すのには、アカ一体で事足りた――それはその通りだ。だが忘れてはいけない。この戦いは三連戦であり、ミキにはただ一度の敗北も許されない。二勝一敗でも負けなのだ。最後に勝つためには、ミキ一人ではどうしても、危ない橋を渡らざるを得なかったのだ。

 既にミキはノアールに伝えたが。アカ――つまり耳無しの赤鬼キカズは、この戦いではもう封印を解除できない。つまり、全力で戦うことができない。戦力比で言えば、五割にさえ届かない。そういう状況なのだ。

 アカの全力は強大すぎる。だからこそ、普段は封をした状態で使役しているのだ。そうしなければ、瞬く間にミキの体力が尽きるうえ、アカの『精神』も保たない。強すぎる能力には相応の代償が付きまとう――それはミキとて例外ではないのだ。そして一度解放すれば、次に解放可能となるのは、少なく見積もっても五日後。その頃には夏臥美町はおろか、この地方の半分が敵の手中に落ちる。恐らく、折角倒した天邪鬼も、より強い擬獣として復活を遂げているだろう。

「次の鬼――『熊鬼』と呼ばれる十戒を、君とアカで倒せれば。私は戦力を大きく温存した状態で、朔弥姫に挑むことができる。つまり次の戦陣が、この戦いの趨勢を決する分水嶺となる」

 最後の確認として、ミキはノアールにそう告げた。

 ノアールは相変わらず暗い顔をしながら、それでも確かに頷いたのだった。

 二人がいるのは、ミキの家から南南西に一キロほど歩いた林道だ。夏臥美町の南部を覆う山への入り口、林に囲まれた、天然の遊歩道のような場所だった。荒くうねった一本道が百メートルほど続き、その先は鬱蒼と木々の茂る森と化している。時刻は既に深夜、まともな装備も無しに踏み込めば、間違いなく遭難するであろう山道である。

「熊鬼――全長六メートルを超える大型の鬼で、武器は野太刀、って話だったか」

「そう。斬軍刀『月融つきおとし』。熊鬼の振るうその一太刀は、月を砕いたとも、十戒の一『山座の巨人』を両断したとも言われている。まさしく鬼に金棒だよ」

 ノアールは胡散臭そうな眼差しをミキに送る。ほとんど夢のような話であるし、吸血鬼改め天邪鬼の前例がある。信じられないというノアールの感想も致し方ないと言えた。

「まあ月云々はともかく、こちらはそれなりに信憑性のある話だよ。生前の朔弥姫の正確な資料はほとんど残っていない中で、月融は唯一の例外だ」

「例外?」

「八剣が欲しがっていたからね」

 ああ、とノアールが呆れ顔で言う。刀剣マニアで知られる八剣が絡むとなれば、流石に納得できるらしい。

「その刀は、どんな刀なんだ。何か、特別な力が宿ってたりするんじゃないか? こう、……相手に幻覚を見せる、とか」

「そういう面白いモノではないよ。ただ大きく、ただ重いだけの刀。故に人間には使いこなせない刀だが、それ以外は普通の武器だ」

 とは言え、その大きさと重さだけが取り柄の刀が、熊鬼に握られるだけで、界装具と互角以上に渡り合える攻撃力を得るのだ。それだけでも充分な脅威だと考えられる。熊鬼は、単純な攻撃能力という視点において、ミキたちを大きく上回っている。

「敵の攻撃は可能な限りいなし、刀の直撃は何としても避ける。そしてこちらは手数で勝負だ。頑丈な相手だが、天邪鬼のような時間制限はない。一晩掛けてでも、手脚を一本一本潰して無力化し、とどめを刺す。焦れれば負けの根比べだね」

 アカに持久戦は厳しいものがある。特に、解放を行った昨日の今日、ミキのコントロールが利かないことも考えられる。

 その点、継戦能力に優れたノアールには得意分野の筈だ。小回りの利く技巧派で、体力は無尽蔵に迫る。本人の嗜好はともかく、一対多、ゲリラ戦などの変則的な戦いにこそ、ノアールの本領は発揮される。ノアールとアカが連携すれば、熊鬼を倒すことは決して不可能ではない。

 ――ノアールが、平静を保つことができたなら、だが。そんな思考で見つめるミキに、ノアールは気付かない。

「ノアール、これを」

「ん、ああそうか。毎回飲むのか、それ」

 ミキが昨日と同じ採血管を手渡すと、ノアールはまたも勢い良く中身を飲み干す。もう慣れたようで、トマトジュースか何かを飲んでいるようにしか見えない光景だった。

「いい飲みっぷりだね。頼もしいよ」

「ふん。馬鹿言うなよ、弥生」

 世辞と取ったのか、ノアールは一層むすっとした顔でそっぽを向いた。

 ミキにすれば、可愛らしいとも思える仕草だったが。その苦悩を思うと、やはり少し、いたたまれなかった。

「なあ」

 ノアールが問い掛けるのを、ミキは黙って待った。今この時に限っては、下手に言葉を選ぶよりもいいと思ったからだ。

「最初に会ったとき、アカと一戦やらせてくれただろ」

「ああ、懐かしいね」

 一年と少し前、主である聯と交渉して、ノアールを三鬼本家に招いたときの話だ。

 そのときのミキの思惑を、一言で言い表すのは難しい。一目会ってみたいという興味もあった。アカの力が、どの程度通用するのかを確かめる必要もあった。ノアールの特殊な立ち位置から、二木 聯という人間がどのように見えているのかも知っておきたかった。そして、当時まだ存命中だったノアールの姉が、八剣の子女と親しいという話を聞いたというのも、無関係だったとは言い難い。

 最初はそんなものだった。様々な思いや企みがあって、ノアールと接触を試みたのだ。それ自体、間違いだったとは今も思わないし、後悔しているわけでもない。ただ、二木とのパイプ役にできたらそれで充分だ、などという詰まらない考えを早々に捨てられたことを、ミキは幸運だと感じている。

「あの時さ。アカはどのくらいの力で戦ってたんだ?」

 アカが全力を出していなかったことは、どうやらそのとき既にバレていたらしい。本当に、ノアールの感性は戦闘向きだと、ミキは黙したままに敬服した。

「あのときは七割程度だ。当時の君ならばそれで互角だった」

 そしてそれは、擬獣、界装具の使い手を含め、大抵の相手を圧倒できる強さだ。アカにそれ以上の力を出させる相手ならば、ミキにとってはそれだけで賞賛に値する。

「今のオレなら?」

「今の君なら、アカは封印状態の十割で戦えるだろうね」

 ミキの言葉に嘘はない。例の呪符を見て、なおその評価なのだ。ノアール相手なら、アカは封印を解かなくても勝てるだろうという、それがミキの正直な印象だった。体術において数段劣るアカでも、力に振り回されたノアールなど相手にはならないのだと。

 そうか、と言ってノアールは空を見上げる。素っ気ない一言だった。ミキの言葉がショックだったとか、そういう気配は読み取れない。

 その心中、奥底に眠る何かを見通すまでは、今のミキにはできなかった。だからこそ、ミキは安堵する。ノアールに見せたのがアカで、本当に良かったと。世の中には、分からないからこそ尊いものもある――そう、理解していたから。

 ミキも、ノアールに習って夜空を見る。相も変わらず大粒の雨が、潸々さんさんと降り注いでいた。レインコートが弾く雨音ばかりが耳に押し寄せる中で、そこに割って入る懐中時計の針の音が、妙に大きく聞こえてくる。

「さあ、行こうか、ノアール」

 顔を下ろして、ミキは言う。

 ノアールはゆっくりと、ミキと視線を合わせてくる。精巧に、かくあるべしと造形された美しい顔が、夜霧と憂いを帯びて、淡く滲んだ風に見える。

 どうやら今回は、突撃はしないらしい。そう受け取って、ミキは先に歩を進める。その数歩先のアカに先導させながら、三嘉神 朔弥の二つ目の結界に侵入する。


 時計の針が止まったことを確認してから、またしても青い世界で、ミキは敵の気配を探る。

 そのとき既に、巨大な刀を振りかぶった影が、ミキの間近で躍動していたことに――

 ミキは、気付くことができなかった。

 それは、あまりにも。あまりにも手痛いミスだった。結界に入ったところを狙うという容易に想像できる戦法を、ミキは完全に見過ごしていた。

 手数で劣るなら、先制することで敵の出鼻を挫き、その差を埋める。単なる擬獣ならば、そのような理に叶った行動は取らないかも知れないが、しかし相手は天災たる十戒だ。膨大な思念を練り集めることで高度な知能を取り戻し、流暢に話すことも、戦術を駆使して戦うことも、できて当然である。

 それをミキは見逃した。

 だから目の前の出来事は、どうしようもない必然で。

「弥生ッ!」

 ノアールが横からミキを突き飛ばし。

 振り下ろされた凶刃が、ノアールの肩口に吸い込まれた。

 レインコートに包まれたノアールの右腕が、冗談のように宙を舞うのを目の当たりにして。

 その損害の大きさを、ミキは全て受け止めなければならなかった。

「ノアール!」

 重力に引っ張られるように崩れていくノアールは、完全な無防備。それを見逃す敵ではない。人の持つ刀と言うよりも、業務用に特注された巨大な裁断機のような刃が、二撃目を放たんと振り上げられた。

 ミキは体勢を立て直しながら、アカに指示を飛ばす。細かい動きを指示する暇はない。アカを最大速力で走らせ、敵をノアールから遠ざけるしか、この窮地は乗り切れない。

 アカも、ミキからすれば充分に巨人のようであるが、敵の全長と比較してしまえば小さいとさえ感じてしまう。その体格差を覆すには、技も策も何もない、玉砕覚悟の体当たりに頼るしかなかった。

 それでも、果たして通用するものかどうか、ミキは確証を持てなかったが――幸いに、本当に幸運に、アカの身体は敵を巻き込んで突き放し、ノアールとの距離を取ることに成功したのだった。

 ミキはノアールの側に駆け寄り、敵から守るように立ち塞がった。敵の動向から注意を逸らさないまま、視界の端で、切断されたノアールの腕を確認する。

「これは――拙いな」

 ミキが思ったよりも、その呟きは大きく響いた。

 ノアールとアカが連携すれば、熊鬼を倒すことは可能である――それは、それぞれが十全の状態であればこそだ。多少の手傷など取るに足らないだろうが、しかし、片方が腕一本もがれて、なお同じことが言えるものだろうか。

 何よりも。目の前にした敵は明らかに、想定よりもずっと、強大だった。

「熊鬼――」

 アカを蹴り飛ばして立ち上がったその鬼は、文字通り熊のような出で立ちだった。

 刀を握る手と、怒りの形相を浮かべた顔は人間に近いが、それ以外は艶のない体毛に覆われている。全長六メートルという巨大は、こうして肉眼で見ると、更に一回りも大きく見えた。血に飢えた肉食動物とは違う。数千年を生きた老樹の如き荘厳たる在り方と、理性や感情を感じさせない昆虫じみた挙動は、およそ人間の思い描く典型的な怪物のようであった。

 そして、斬軍刀『月融』。アカでさえ持て余すだろう無骨な刀身は、野太刀という枠さえ越えている。それは本当に、人間が鍛えた刀であるのかも疑問である。熊鬼が持ってようやく釣り合う刀身は、この青い結界の中で唯一、純粋な鋼色に満ちている。

 ミキはアカを呼び戻す。アカの肉体は一瞬消滅し、ミキの傍らで再生する。だがそれは、策あってのことではなかった。

 アカの力を奪った天邪鬼の一撃ですら無傷で耐えたノアールに、重傷を負わせるほどの攻撃力。そんなものを前にして、真正面からの接近戦を挑むのはあまりに無謀だ。しかし、自軍に遠距離攻撃の手段はない。やはり攻撃を避け、隙を突くより他にないのだろうが、アカだけでどれだけやれる? 八分――いや、五分と保つまい。アカの技術では、解放状態でようやく勝機が見える程度だ。致命的な枷を嵌めたこの場面で、勝利を望む姿勢は勇敢ではない。

 もう一体の鬼――即ち『アオ』を出せば勝ち目はある。直接戦闘ではアカにも大きく劣るアオだが、その特殊能力を駆使すれば、熊鬼のようなタイプの敵にはまず勝利できる。元々ミキは、ノアールが現れなければ、そしてノアールを犠牲にしないと決断していなければ、熊鬼はそうして倒すつもりだったのだ。

 今ならばまだ引き返せる。より安全で、より確実に、あの熊鬼を倒す道を、今ならば選ぶことができる。あえて危ない橋を渡る必要性がどこにあるのか。人類の生み出した人類の敵、人類の天敵、人類悪とでも呼ぶべき存在を倒す。その大目的の前で、それ以外の問題など些事であると、迷いなく吐き捨てるべきなのではないか。

 ノアールをこの世界に留めることと。

 数十万の命を危険に晒すという天秤。

 どちらが重いかなど、確かめるまでもなく明らかである。

 熊鬼が、刀を振り回して迫ってくる。邪魔な木々を、爪楊枝か何かのように容易くへし折って、嵐のような爆音を響かせながらやってくる。

「ノアール――」

 近付かれ過ぎては手遅れだ。

 選択すべき時は、今。今をおいて他にない。

 願いを抱いて命を落とすか。

 使命を抱いて己を棄てるか。

 二つに一つ。二つは選べぬ別れ道・・・

 アオならば――

 アオならば間違いなく、後者を選んだ。選ぶべきだと強く訴えた。

 それが、確信に近い形で胸を過ぎったから、だから。

 だからこそ、三鬼 弥生は――

「力を貸してくれ、ノアール――!」

 己の願い、その信頼を、しがみついてでも守ると誓った――!


 振り下ろされる刀と、為す術なく腕を差し出すアカの間に、


「当たり前だろ――!」


 黒衣の獣が立ち塞がった。

 ノアールの放った足技は月融の腹を捉え、大きく横へ弾き返した。そして、その勢いを一切殺すことなく胴体をねじり、全ての力を乗せた回転蹴りを見舞う。踵を熊鬼の顔に直撃させて、その巨体ごと地面に叩き伏せた。

「反応悪いな、熊野郎。たかが片腕を切り落とされたくらいで、このオレが戦意を失うとでも思ったのかよ」

 ノアールは平時と変わらない、何事もなかったかのような威勢で言い放った。しかし彼女は間違いなく、月融の直撃を受けたのだ。その証拠に、目の前に立つノアールは隻腕――右腕を丸々失っている。

 だというのに、ノアールは痛がる素振りを全く見せない。いやそれどころか、一滴の血さえ流れていない。

「ノアール、平気なのか? 腕が……」

「当然だろ。死なない程度の痛みなんか、オレにとっては何でもない。ああ、死ななきゃ安いってやつだ」

 そんな格闘ゲームか何かの理論を、まさかこの場で耳にするとは、ミキも予想していなかった。だがそれが、強がりでも何でもない彼女の本質なのだと、ミキはよく知っていた。

 何故なら。

 何故なら、ノアールは――

「人に非ず」

 そのとき、女性のものではない、野太く深い声が響いて、ミキは飛び上がるような錯覚に陥った。そう思ったときには、反射的に本当に跳躍して、後方へ下がっていた。アカとノアールも一緒に、熊鬼から距離を取った形だ。

 ミキたちは熊鬼の様子を注視する。

 熊鬼はゆっくりと立ち上がってから、ノアールを見たまま、完全に静止する。

「不可思議な、ものだな」

 気のせいではない。これは確かに、熊鬼の声だった。天邪鬼と違い、熊鬼が人語を解すという情報がなかったため、ミキも内心驚愕して、目を見開いた。

 その熊鬼が、何を言わんとしているのか。どのような意志を持っているのか。ミキとノアールは、静寂を以てその先を促す。

「腕を、落として。血も出ぬ、悲鳴も上げぬ、顔色一つ動かさぬ。そのような人間が、この色に、いるものか」

 それは、独特の間を置く奇妙な喋り方だった。停止した音のない世界――風の音も木々のざわめきもなく、その声だけが反響する様は、得体の知れないおぞましさを訴えてきていた。

「我、汝に問う」

 熊鬼がノアールを見据え、その問いを投げ掛ける。

「汝、何者なるや」

 ハ――と、乾いた笑声をノアールが漏らす。そして一歩踏み出して、強大な敵と対峙する。その背中、その意気は、欠片の恐怖も含んではいなかった。それは黒金の自我――紛う事なき、強者の姿だった。

「分かってないな、お前。作法ってものがなってない。相手に聞くなら、まずは自分が名乗りを上げろよ」

 その台詞を聞いて、ミキは少しだけ驚いていた。ノアールが、熊鬼を指して『お前』と呼んだことに。

 本人が意識しているのかはミキにも分からないが、ノアールは慣れない相手や、あまり信頼していない相手に対し、『アンタ』という呼び方をする。そして、ある程度信頼関係を結んだ相手に対して、『お前』という呼称を使う。ミキ自身、最初は『アンタ』と呼ばれ、アカとの一騎打ちが終わったところで『お前』に変わったのだ。

 その境の基準は分からない。少なくとも時間ではないことは確かだったが。

 ミキが予想するに、熊鬼を『お前』と呼んだノアールにあるのは、惜しみない賛辞だ。膨大な力、相手を侮らず全力を尽くす姿勢――たとえそれが敵であり、自らの腕を斬り落とした、本来憎むべき対象であろうとも、ノアールはそんな強敵に喝采を送る。

 ノアールにとって敵とは、自らを高みへと導く踏み台なのだ。相手が強ければ強いほど、ノアールはその相手に興味を持ち、関心を抱き、歓喜して拳を突き放つ。そこには善も悪も介在しない。己の試金石として相応しいか否か――それだけが、ノアールの持てる他者との繋がりだった。

「我が名は『熊鬼』」

 人間じみた異形の眼孔を差し向けて、洪大なる鬼が呻きを上げる。

「三嘉神、朔夜の影、後門の吽鬼」

 ノアールの左手が、強く握り締められる。そこにはきっと、喜びがあった。雀躍の中で、新たなる階段を駆け上がる、その実感に打ち震えながら。

 求道の果て、幾多の困難を踏み越え、最果てを望むと誓った一体の人形が、その矜持をここに刻む。

「かつて十字クロア機関を形成した主要十家の一角、二木家が現当主、二木 聯の創りし界装具・・・、『フタツギノヒトカタ』――ノアール」

 黒い手は、昨夜見た呪符を持っていた。それも一枚ではなく、十枚余り。全て異なる色と紋様で成り立っている。ただの一枚で、アカを越える力をもたらした二木 聯の呪符。ただの一枚でさえ使用を躊躇っていた、ノアール最大の切り札。恐らく彼女は、所持するほぼ全ての手札を、この戦いに投入するつもりなのだ。

「悪い、弥生」

 振り向かず、熊鬼から視線を外さないまま、ノアールはミキの名を呼んだ。

「随分悩んだけど。やっぱりオレはこれ以上、負けるのは嫌みたいだ」

「ノアール?」

「なんとかできると思った。思い上がってたんだよ。十戒の本体ならいざ知らず、その眷属如きに、ここまでやる必要なんてないと思ってた。今のオレならきっと、一人でだって戦えると、お前の力にだってなれると、思ってたのに。結局オレはどこまで行っても――聯がいなくちゃ何もできない、聯の操り人形でしかないのかもな」

 悲しげに自嘲して、手にした呪符を握り締めるノアールを前に、ミキは、

「それは、違う」

 ノアールを抱き締めたくなる衝動に駆られながら、声が震えるのを堪えながら、ノアールの言葉を否定する。

「今日、ずっと言ってきただろう。ああ、何度も言った筈だ。私は君に助けられている。君は私を助けられるだけの力を持っている。今まさに、君はそれを証明しているじゃないか。ねえ、ノアール。謙遜と卑下は違うものだ。君は君を信じなさい。その力を、その決断を、その心を。君だけは、君自身を信じ抜きなさい。例えその結末が、大切な誰かを失う残酷な未来だったとしても――君は、君のままでありなさい。その直向きさに準じたなら、いつかきっと、その気持ちは主にも届く。届くから――」

 込み上げるものに耐えかねて、ミキはその先を言えなかった。それは今、立ち上がったノアールと、退いたミキの、決定的な対比だったから。

 ノアールもまた、最初から強かったわけではないのだ。それどころか今もなお、その感情はとても不安定で、脆く綻びやすい。だというのに、こんなにも違う。強くあろうという誓いを自らに課すノアールと、弱いまま歩き続けるしかない自分が、対等だなどと粋がって並び立とうとした姿が、滑稽で、惨めで、見窄らしい。こんな現実をあと何度、耐え忍べばいいのだろうと――ミキは誰知れず、唇を噛み締めた。

「さあ、どうだろうな。アイツは変わらないよ、弥生。根っこのところで、聯はずっと変わっていない。アイツを変えることができる奴は、きっともう、この世のどこにもいないんだから」

 振り向いた顔は、胸を締め付けるほど悲痛な笑みを浮かべていた。

 界装具は、持ち主の願いの結晶である。

 三嘉神 朔夜の鬼たちが、揃って己を『影』と称したのも。

 ミキにとってまさに、アカとアオが自身の分身であることも。

 全て同じことなのだ。

 その力が、強大であればあるほどに。

 持ち主の心は、歪んで、傷んで、飢えている。

 ノアールの笑顔は、歪で、退廃的な、二木 聯という人間の影、そのものだった。

「ああ――」

 そのときのミキには、その事実を嘆くことしか、できなかった。

「アカと一緒に下がってろ、弥生。あの鬼は、オレが倒すから」

 何かを言いかけ、それでもミキは黙って後退する。

 ノアールに助けを求めた張本人であるミキが。そうやって立ち向かうノアールを、否定する理由など、あるわけが、ない。

「――『獣化サルトゥス』」

 ノアールの手にした呪符が、揃って青い炎に包まれる。触れるものの熱を奪い、万物を焼き焦がす、幽かな篝火かがりび

 そのまま放り投げられた炎は、ノアールの頭上から螺旋状に全身を包み込んで、徐々に意味のある輪郭を表し始める。まずは耳、特徴的な漏斗形状が天に向けて立つ。鼻と口に当たる部位は前方に突き出て、鋭利な二本の牙は剣歯虎を思い起こさせる。流麗で細く、それでいて力強い四肢が伸びる。それは健在な手脚を覆い、より長いリーチを得ると共に、失った右腕に取って代わる。脊椎を延長するように尾が乖離して、全長四メートル弱にも及ぶ、一頭の大型捕食動物の姿を露わにした。その気配は霊的、神秘に類する超常の脈動。あふれ出す眩いばかりの光が、蛍のように小さな欠片となって浮遊し、周囲の森を照らしていく。

 結界が揺らいでいる。許容を遙かに越えた質量に、完全にこの地を制圧している筈の領域が、軋みを上げているのだ。

 獣化――サルトゥスはラテン語で跳躍、或いは進化といった意味合いを含む。招く現象は文字通り、形態変化。それはアカにも近い、一部の界装具が発揮する能力解放の顕現である。本来、所有者である二木 聯が行うべき解放を、特殊な呪符が擬似的に実行したということ。吸血鬼に対して見せた力だけの強化は、この解放のごく一部に過ぎなかったのだろう。つまり、今のノアールは、昨夜のアカと同じ――

「フタツギノヒトカタ」

 それまで沈黙していた熊鬼が口を利いた。

 ノアールが今の姿に変成するまでには時間を要した。ほんの一秒程度だったが、それでも熊鬼が一撃を加えるのには充分な時間だった。

 だが熊鬼は動かなかった。それどころか、ノアールとミキの会話を黙って聞いてさえいた。

 武人のような佇まいだと、ミキは感じた。今ではどちらも野獣じみた姿をしているが、その性質は、獰猛とはまた違うものなのかも知れない。

「覚えて、いるぞ。二木――あの忌まわしき刀を鍛えた、ツクリテで、あったか。なるほど、つまりお前は人間ではなく、二木が作り出した傀儡の片割れ――命無き、人形である・・・・・、わけか」

「――そうだよ」

 そうノアールが断言しても、ミキには未だ、信じられないという気持ちが残っていた。血の通わない身体を見ても、どれだけ身体が損傷しても支障なく戦えようと。それでも、顔を合わせて会話していると、すぐに分からなってしまうから。

 ノアールは、そしてその妹であるブランセは、人間ではない。泣き、笑い、怒り、悲しむ、感情を持って自ら行動する、二木 聯の手によって生み出された自律人形。それこそが『フタツギノヒトカタ』――二木 聯の界装具の正体である。二木家とは、強力な界装具のもたらす副作用を、界装具そのものを自ら創り出すという神業によって打ち消した、最も特殊な一族なのだ。

「何を以て、再び、我らが前に立ち塞がるか」

「ふん、知らないよ。遠い先代がどうこうなんて話、興味もないしどうでもいい。それよりさ、オレはここまで見せたぞ。なあ、ガッカリさせるなよ、十戒。一分――いや、せめて三十秒ぐらいは保ってくれないと、元が取れないんだ。一瞬たりとも気を抜くな、その刀が見掛け倒しじゃないことを証明しろ。そして――」

 ノアールの――いや、ノアールを覆う虎影の手足が、四足歩行の獣のように、地面を確と踏み締める。

「誇れよ熊鬼! お前こそが、歴代最強の誉れ高い二木 聯のヒトカタ、その全力戦闘の犠牲者第一号だ!」

 ノアールのいた場所が、炸裂したかのように弾けた。ただ踏み出したと言うだけで地面が砕け散り、尋常ではない風圧が、間合いの遙か外側まで退避したミキのいるところまで猛威を振るった。

 月融の刃と、青い獣の鉤爪が衝突する。爪は両手それぞれに三本、短いが固く、鋭い。大きさで言えば比べるまでもないが、しかし明らかに、その力は拮抗し、そして、上回る。

「――熊鬼に、力で押し勝つのか」

 ミキの独白も、最早完全に意識の外だ。

 何よりも、膂力の強化が半端な域ではない。アカを軽くあしらう程の熊鬼を、ノアールは片腕で押している。恐らく今のノアールは、解放状態のアカに勝るとも劣らぬ力を、昨夜と違って完全に制御しているのだろう。それも、必然的にノアールが抱える体格差というハンデを、あの青い炎が十二分に補っている。巨大な虎のような姿――それでも熊鬼に比すれば一回り以上も小さいのだが、全く意味を成していない。一挙手一投足が、見えざる力によって後押しされているようだった。

 一合、十合、五十、百――。瞬きをする間もなく、苛烈な攻防が繰り返される。一撃一撃が致死の威力を遥かに超え、ただの余波が大木を薙ぎ、大地を抉る。だが単純な力だけではない。熊鬼の剣術は八剣にも匹敵し、そしてノアールの体術も達人の領域に達する。これほど激しいせめぎ合いの中で、両者の立ち回りは美しいとさえ言えた。

 十戒の一『原初の鬼姫』、その眷属たる熊鬼を前に、全く引けを取らない。機関の双璧などと呼ばれる両家、八剣と三鬼にさえ比肩し得る。これが、『界の両腕』二木 聯の最大戦力、『フタツギノヒトカタ』ノアールの、本当の実力――

「解せぬ。それほどの力があって何故、天邪鬼ごときに敗退した」

「貴重な消耗品だからな、おいそれと使えるものじゃないんだよ。ああ、また聯の小言を聞きながら、新しい符を用意してもらわなきゃと思うと、今から憂鬱で仕方が無いな――!」

 炎の腕で刀身を掴み、ノアールの手前に引き寄せる。体勢が崩れ、がら空きになった敵の側面へ、もう片方の腕を叩き付ける。

 直撃は免れない――ミキでさえそう思ったその一撃を。熊鬼は、刀から両腕を離した上で、身を屈めて回避してみせた。

「――ッ!」

 そうなれば、次に体勢を崩すのは、意表を突かれたノアールだ。刀を持たされたまま、自らの力で後ろに蹌踉めいた。後ろ足を駆使してすぐに立て直せたものの、腕の力が抜けた隙を突いて刀を取り返される。

 その切っ先が、獣の頭部に向けて突き出される。月融は炎を突き抜け、ノアールの眼前に風穴を穿たんと迫った。

「ぎぃ――ッ!」

 獣の顎門がばっくりと開き、次の瞬間、刀に噛み付いた。摩擦熱が深紅の炎上を起こし、金属の削れる音がする。それによって刺突は停止したが、その状態ではノアールも動けない。両者はほぼ同時に飛び退き、再度間合いを取った。

「汝、何者なるや」

「なに――?」

 二度目の進撃に入りかけたノアールを牽制する形で、熊鬼がその問いかけを繰り返した。

「その力を、持って。何を願う。何を成さんと欲す」

 熊鬼の体毛が逆立つ。手にした月融が暗色の輝きを帯びる。

 何か、これまでとは違う力が発揮される。その予感をノアールも感じたのだろう。改めて身構え、闘気を放出する。炎の出力が増し、明量が跳ね上がる。

「今更聞くことかよ。だけど、ああ。それはきっと結局は、お前と同じところに行き着くんだろう」

 その問答の意味を、ミキは受け取りかねていた。だがそれでも、なんとなしに、隣に佇むアカを見遣った。

 三鬼の鬼は基本的に、言葉を口にできない。いや、そもそも界装具と対話しようなどという発想が例外的だ。天邪鬼や熊鬼が話せるのは、彼らが擬獣となり、人間の思念を取り込んだため。ミキも、アオとは感覚で意思疎通ができるし、アカの感情も少し読み取れるが、それ以上のコミュニケーションを取ることができない。

 だからミキには、熊鬼とノアールに通じるところが分からない。界装具が、何を思い、何を願い、主を守るのか。

 三鬼 弥生という人間が始まったあのとき・・・・から、もう十年もの月日が流れたのだ。あの地下牢で交わした誓いを、今も変わらず彼らが抱いているかなど、確認する術はない。

「それでも、私は――」

 止まることなど、許されない。例え既に、誓いを覚えているのが自分だけになってしまっていたとしても、三鬼 弥生は走り続けるしかない。もしもその先に待ち受けるものが、ミキの望まない結末だったとしても――。

「我らの存在理由が、汝らと重なることなど有り得ぬ」

「ふん。なら何だってんだよ」

「知れたこと」

 短い遣り取りのあと、数秒、静寂が訪れた。時間が止まったこの世界でただ、それ自体が刃であるかのように研ぎ澄まされた殺気が、両者の中間でぶつかり合っていた。

 それを双方が唐突に破ったのは、やはり同時。

 真っ向から一刀両断せんと振り下ろされた、熊鬼の月融と。乾坤一擲の決意で打って出たノアールの腕。そこあるのは、策謀や小細工の臭いが僅かにも混じらない、純粋な力と力の勝負のみ。対峙する二体の界装具は今此処に、己が存在をぶつけ合う。

「我が主、朔夜姫の大望を果たさんがため――!」

「我が主、二木 聯と、同じ道を歩むため――!」

 二匹の獣が咆吼を上げ、青い軌跡が交差した、そのとき。

 ミキは、確かに見た。

 砕け散る月融の破片と。

 熊鬼の胸を貫いた、ノアールの空虚な右腕を。

「オレの、勝ちだ」

 血肉が弾け飛び、断末魔の叫びが木霊した。青の炎が熊鬼に伝播して、業火がその巨体を包み込む。この時既に、勝敗は決していた。

「主の願いを果たすこと、それだけがお前の理由だって言うなら。オレは絶対に、お前にだけは負けられない」

 ノアールが腕を引き抜くと、熊鬼に移った炎も徐々に収まっていく。だが、指先から消えていく炎の跡に、熊鬼の身体は既に無い。炎と共に、熊鬼もまた消滅を始めているのだ。

「解らず」

 月融の柄も朽ち果て、崩壊していく身体をよそに、熊鬼は低く唸った。

「我には解らず。我には解らず。我には解らず。我には解らず。我には解らず。我には解らず――」

 壊れた玩具のように、それだけを繰り返す熊鬼を、ミキはじっと見つめていた。その姿に、己の鬼の姿を重ね、その末路に、或いは同情のような気持ちを抱きながら。

 ――そのとき、ミキは、熊鬼の白濁した瞳が、自分を見ていることに気が付いた。

「汝の胸懐は、いずれ汝に、災いを呼び起こすだろう」

 薄れゆく結界の下で。ミキの脳裏では、最期に遺されたその言葉だけが、いつまでも反芻されているのだった。