第五章「Gracial Jardin」 2 前  不吉な天候だった。  風のない土砂降りの雨が、今朝目を覚ます前から続いている。締め切った室内にいても、うるさいくらいの雨音が届いて止まない。時刻が正午を回っても、雨脚は強くなる一方だ。夏臥美町は小さな山に囲まれていたはずだから、土砂崩れのおそれがあるかも知れない。  どこかのマンホールから水が溢れでもしたのだろうか。ビル三階のオフィスから見下ろす車道が、小さな川のように成り果てている。断続的にやってくる自動車が、飛沫を散らして走行している。  そんな状況でも歩行者はそれなりにいる。傘のせいで姿は見えないが、速度からしてほとんどが若者だ。逞しいというか、まあ無頓着なんだろう。町の外縁部には田畑があるらしいが、少なくともこの中心街は我関せずだ。  よくある豪雨と、それに付随するよくある街並みだ。この程度なら大したことはない。大陸の、馬鹿みたいにでかい川に隣接しているような街じゃ、大人の胸が浸かるほどの洪水になることだってある。まあ一概に比べられるものでもないが、何にせよこの国の雨など、ほとんどは殊更に騒ぎ立てるほどのものではない。  ならば、何が不吉なのか。  空を覆う暗雲を見て、頭の奥がざわめくのは何故だろうか。  この町に来てまだ三日。異変に気付けるほどには土地に馴染めていない。だから気のせいだと言われれば、否定する気にもならない。  だが、なんだ、これは。  何が、こんなに引っ掛かるのか。  オフィスの最奥、安っぽいデスクチェアの背もたれに体重を掛けると、ぎしりと、不快感を煽るような音が鳴った。 「だから、雨降ってんだっつってんだろーが!」 「バカやろう、ラジオに当たんじゃねぇよカズ」  最早有り触れていて驚きもしないが、オフィスに突如怒声が響いた。  正確に言えば、古いラジカセの置いてある段ボール箱を足蹴にしたカズを、雅巳(まさみ)がうんざりした顔で咎めたのだった。 「だってよ雅巳さん。このキャスター、さっきからデタラメばっかり言いやがるんですよ」  懲りずにもう一発、段ボール箱を軽く蹴ると、カズは苛立ちを露わに弁明した。ラジカセがぐらぐらと不安定に揺れ、今にも倒れそうになったが、カズはお構いなしだ。  カズは最近になって流れてきた――つまり俺の次あたりに組長(オヤジ)さんに拾われた、まだ二十歳そこそこの若輩だ。その割に顔は厳つく、異様にスキンヘッドが似合うものだから、ガキどもの元締めをやらせている。意外と要領は良いようで、集金もきっちりやるから、表立っては誰も文句は言わないが。短気で粗暴で増長傾向、良く思わない人間も少なからずいる。実際、組長さんが暗に庇わなきゃ、若頭あたりが制裁に乗り出しても可笑しくはなかった(というか俺は直接嫌味言われた)。今よりもっと酷い癇癪を起こすのも何度か見たことがある。お守り役の雅巳からはよく愚痴を聞かされる。 「それより、遣いにやった連中とはまだ連絡取れねぇのかよ。地元の奴らなんだろ。大雨だからっていつまでもダラダラやられちゃ話にならん」 「分ぁってますって雅巳さん。もう少し待ってくださいよ。戻ったらちゃんと言っとくんで」  カズには、夏臥美町の南にある、ほとんど廃墟になっているという工場群の調査を命じてある。  発案したのは俺ではなく、若頭か、その相談役衆の誰からしい。曰く、夏臥美に縄張りを広げるにあたり、管理不行き届きで人も寄りつかない、末端のアジトや交渉現場に丁度いい物件がゴロゴロと転がっているから、条件のいい場所を幾つか拾ってこい――そんな話だ。  そして、カズがその仕事を託したガキ連中と、一向に連絡が取れないのだ。午前中には一報が入る手筈だったが、午後になっても音沙汰がない。それどころか、どうもケータイの電源を切っているようで、こちらからも確認が取れない。流石に雅巳も不可解に思い始めているようだが、それ以上にカズが、内心我慢の限界に差し掛かっているように見えた。  この件に関して、カズに大きな落ち度はない。それなりに信用できる奴に土地勘のある奴を付けて、数は確か五人だったか。何かあっても、大抵のことなら自前で対応できる面子を遣いに出していた。だから誰かの不手際というより、何か想定外の事態が起こっていると考えた方が妥当だ。もしも警察沙汰になるような問題なら、早々に別ルートからタレコミが入るから、それではない。  恐らくは、それ以上に拙い、何かだ。 「誰か、場所分かる奴いるか」  言ってから、室内を見渡した。目に入るのは、雅巳とカズを含め九人――がたいはいいが柄の悪い、スーツ姿の野郎ども。来たばかりで荷物は少ない上にほとんど段ボール箱の中だが、四十五平米のオフィスでは些か手狭だ。 「いないな。双町ならまだ勝手は分かるが」  雅巳が答える。雅巳は双町の生まれだと聞いたが、すぐ南の夏臥美町には来たことがないらしかった。双町の橋が崩れたとかで酷く狼狽していたり、今夜あるという花火大会を観に行きたがっていたりと、変な郷土愛に溢れる中年だ。 「下に立たせてる二人もか」 「誰もいねぇっすよ。俺も前に聞いて回りましたけど、いねぇっす」  カズも雅巳に追従する。どうやら本当にいないらしい。 「ならいい。地図寄越せ。俺が行ってくる」  俺が立ち上がるのを見て、相変わらずアグレッシブな奴だと、雅巳が手帳サイズのタウンマップを渡してきた。  攻撃的(アグレッシブ)とは心外だと思ったが、今の俺の身分を考えれば、まあ不当な評価でもないか。ならず者が穏健派を名乗ったところでジョークだろう。 「え、アンリさんが行くんすか? じゃ俺も行きますよ。つーか、俺が行くのが筋でしょ。そもそも一番下っ端なんだし」 「待てカズ。もうじき次の荷が届くんだ。二人も出払ったら、今日寝る場所が作れなくなる」 「そんなのメンド――じゃなくて、どうせ雅巳さん俺を扱き使いたいだけ――でもなくて。片したってどうせ雑魚寝じゃないっすか。俺そろそろ布団で寝たいっすよ」 「思考ダダ漏れてんだよしばくぞ」  カズと雅巳の漫才はまだ続いているが、付き合っていたら日が暮れる。雨の中の外出など億劫なのだが、室内は室内で湿度が酷いことになっている。体感的に熱帯林より酷い。早いところ空調を何とかしないと、黙って座っているだけで頭がどうにかなりそうだ。 「一人で充分だ。お前ら大人しく留守番してろ」  デスクの引き出しからレンタカーのキーを探り取り、結び付けられた鈴の音が鳴った、そのとき。 「まあ、そう言わずに。折角の新居だ、もうしばらくくつろいでいたらいいんじゃないかな」  ゆっくりと開き始めていた、出入り口の扉から。あまりに場違いな、女の声が這入ってきた。 中  この場にいた誰もが、前触れもなく現れたその女を注視した。  スキップでも踏むように軽い足取りで、影のようなシルエットが露わになる。  その招かれざる客の在り方を見て、俺は――死人が歩いているような恐怖を感じた。 「おい。誰だ、デリヘルなんか呼んだ馬鹿は」  仲間の一人が、冗談めかして言った。 「あ、ああ――なんだ、そういうこと? なのか?」  乾いた笑いが伝播していく。理解の及ぶ答えを提示されて、縋るように現実感を保とうとする。  だが。心の底から分かっていない奴なんて、ここには誰もいない。  この女は、何かが可笑しい。単なる売女などではない。恐らくは一人の例外もなく、そう感じていたはずだ。  それは、先端まで純白の頭髪や、その若さ、女性的に豊満な肉体、そして身に纏った高級感ある黒一色のドレスが、十二分に物語っていただろうが。しかし、俺が感じた恐怖の根源は、そんなものではなかった。  一歩一歩、ただ足を踏み出すだけの所作が、あまりに洗練されすぎている。直立して微かにも揺らがない体幹、明らかに人を殴る仕様に鍛えられた両手の形。覗く手足は細く長いが、しなやかに引き締まっていて、無駄というものが欠片も見当たらない。年齢は――恐らく二十歳は超えていない、十八か十九ほどのガキだとは思うが。その覇気は、夥しいほどの修羅場をかいくぐってようやく成る、熟練の老兵を想起させた。 「ふざけるな、どう見ても高価(たか)いだろうが。そんな余裕のある奴いるわけないし、会社にもねぇよ。おい姉さん、あんた呼んだの誰だ」  雅巳が、癖になっているらしい威圧的な口調で言って、嫌悪感を剥き出しにした。生真面目な男だから、悪ふざけと思って憤慨したのだろう。その視線は主に、女が現れてから明らかに好色を示していた、相方のカズに向けられていた。 「ふん」  問い掛けられた女は愉快そうに笑うと、ゆっくり全員の顔を眺めてから、口を開く。 「誰に呼ばれたのだと聞かれれば、君たちの上役ということになるのかな。招かれたわけではないけれど、私がここに来た理由を考えれば、やはり君たちの行動が私を呼び寄せたと言って間違いはないだろう。まあ、自分の行動や決定がどのような結末を招き、そして誰に影響を与えるか、真っ当な人間に全て把握しろというのは無理な話だよ」  行動が、呼び寄せた。その言葉に、仲間は顔を見合わせる。俺たちはまだ、この町に来てからは何もしていない。新しい会社を立ち上げ、オフィスビルの一室を借り上げ、つい先日引っ越してきたというだけ。その目的は不純かも知れないが、摘発されるには幾ら何でも早過ぎる。  とは言え、夜に町を歩いただけで職務質問を受けるような悪人面もちらほらいるが。だとしても、この女の言っていることは寝耳に水だ。なんら心当たりがないと言っていい。 「意味が分からないという顔をしているね。だが、そんなわけがないだろう。君たちが何をしたか、何をさせたか、誰より理解しているのは君たちだろう。さあ、よく考えてみるといい。君たちは、自らの思考にフィルターを挟み込んでいるんだ。常識や経験といった取るに足らないものに縛られて、自由な発想力にブレーキを掛けている。まったくね、私は酷く悲しいよ。本当に、泣いてしまいたくなる。その気になれば、人間は神様だって創れるのに。どうして、自らの力に制限を掛けてしまうんだい?」  饒舌に語る女に、場が飲まれているのを感じた。事実、仲間の半数は、既に魅入られたように、視線に虚ろなものが滲んでいる。一流の詐欺師と会話したときも、何か得体の知れない強制力を感じたが、この女のそれは比較にならない。隔絶しているとさえ思えた。こいつは、拙い。 「この、おい。もういいから、出てけよお前」 「いや、なんでですか雅巳さん。そんな勿体な――」 「黙ってろカズ!」  流石の雅巳も、カズの軽薄な笑みを見て、堪忍袋の緒が切れたようだった。だが当のカズは、萎縮するどころか、顔をしかめて舌打ちを零した。 「まあまあ。そう大声を出すものではないよ。部下の教育に怒声は必要ない。人間は感情を礎として生きるものだが、誰もが感情任せでは衝突するばかりだ。分かるかな? 正しいことを教えているという自負があるのなら、それを懇切丁寧に説明することが肝要だ。ちゃんと相手を見て、その相手が理解できるようにね。それはとても労力を要するけれど、だから諦めてしまっては結局、目的は果たせない。根気よく、自信を持って。言葉が通じるのなら、ちゃんと話せば、誰とでも分かり合えるさ。それができれば苦労はしないと、嘆く気持ちも分かるがね。自分にできることを本当に全てやっているのか、今一度自問してみることも大事だろう」  相手を見ろという割には、こちらの事情など一切気にしないといった風に、女は続けた。その言葉の意味を、一つ一つ追っていては埒があかないだろう。実際、容姿にでも気を取られたか、柄にもなく律儀に耳を傾けている連中は、無様なほど隙だらけだ。  正体不明。それが、ここまで影響を及ぼされてしまったのは相手の手管故だろうが。それだけならまだどうとでもなる。 「目的は何だ、ガキ」  意図して、有無を言わさない語調で問い掛ける。それに、はっとしたような顔を何人かが向けてきた。  思い違えてはいけない。ここは俺たちのホームで、主導権を握りやすい優位な状況だ。冷静に対処できれば、たかが女一人、男十人で充分に抑えられる。いや、仮に目の前にいるのが、格闘技の世界チャンプだったとしても、そこに違いはない。数を圧倒できる質など、現実ではそうそうあるものではないのだ。 「ああ、済まないね。つい話しすぎてしまったかな」 「前置きはいい。質問にだけ答えろ。心してな」  そう言うと、女はしげしげと俺を見つめながら、少しの間口を閉じた。陽気な音楽を流すラジオの音だけが、雨音を背景に、嫌に大きく鳴り響いていた。  女は一切の動揺を見せない。虚勢でないならば見上げた度胸、もしくはただの馬鹿だ。そのどちらなのかは、今のところ何とも言えないが。どちらにせよ、ただで帰すつもりは毛頭ない。 「アンリ」  雅巳が、心配するように、或いは釘を刺すように、俺の名を呼ぶ。雅巳は、どうやら仲間内では最も冷静だ。  当然、言われるまでもない。荒事にするわけにはいかない。設立直後に不祥事を起こして倒産したとあっては、組長さんにも顔向けできない。それは確かだが、しかし。  誰にも知られず、人一人処分するくらい、簡単なことだ。 「――君たちにね、立ち退いてもらいたいんだよ」  相変わらず余裕の溢れる微笑みで、女がそう言うと。流石に周囲の空気も一変した。 「立ち退く? 俺たちがここを不法占拠しているとでも?」 「いいや、そうは思っていないさ。別に君たちが、ここを不法占拠していようが、勝手に借り暮らししていようが、私にとってはどうでもいいんだよ。むしろ、違法性があった方が、わざわざ私が出向く必要はなかったのだから、有難かったというのはあるけれど」  ――どうやら。こいつは俺たちのバックを知っているらしい。有り得ない話だが、どこかからその情報が漏れたのだ。 「じゃあ何だ。理由もなく立ち退けと言われて、素直に出て行く奴がいると思うのか」  誰の差し金か知らない。いや、こうして話している限り、こいつは単独で動いている印象がある。いずれにせよ、情報源は吐かせなくてはならない。出口付近の仲間に視線をやり、扉の前へ移動させる。 「理由? だからさ、言っただろう、よく考えてごらんと。まだ思い至らないのかい? であれば君たちは自戒すべきだ。自らの認識や常識に囚われてはいけない。行動を起こすのは君たちだが、それを受け止め評価するのは君たち以外の誰かだ。同じ人間であろうとも、価値観が違えば善悪の基準も違う。どれほど高尚な作家の著書に対してでも、それが名作か駄作かの裁定を下す者は、いつの世も変わらない――才覚も天眼もない、有象無象の凡人たちだ。大義名分なんてものは、結局行動を起こす者にしか意味がない。君たちが何を思い、何を願っていたとしても。それを否定する何者かは必ず存在する。そして今回、それがたまたま私だったというだけの話だ」  また長々と喋り通したあと、身から出た錆なんだよと、女は締めた。今はあえて、その長話を止めない。女の視線が外れた隙を狙って、下にいるはずの二人が持つ携帯電話に手探りで発信し、コール一回で切る。無事なら、こちらの様子を窺いに来るだろう。 「知らないな。仮に何をやっていようと、お前みたいなガキに文句を言われる筋合いはない。一人前を気取って大人に盾突こうってんなら、まず酒が飲めるようになってから出直してこい」  この女が言っている理由というのは、十中八九ガキどもを南の工場区に遣った件だ。部外者がそのことを知ったとして、その目的まで嗅ぎ付けられたとは思えないが。しかし、それだけなら言い逃れは容易い。問題は、それ以上の事情がどこまで知られているかどうかという点で―― 「それは、君の本心かな? 東堂(とうどう) アンリ」  何人かの表情が、一斉に強張る。俺自身も、きっと同じだったろう。  名前を呼ばれたことはどうでもいい。立場上、表向きはこの会社の代表者なのだから、いくらでも調べはつく。こんな新設の零細企業、調べようと考えることがまずないとは思うが、絶対に有り得ない話ではない。  だが。  だが、その問いは―― 「力のない子ども。か弱い子ども。先に生まれたか、後に生まれたかの違い。ただそれだけのことにもかかわらず、軽視され、虐げられ、挙げ句命を落とすような――ねえ。それは君が、誰より呪ってきた罪過だったのではないかな」 「――――」  途方もない不快感が、血流に乗って全身を侵し回った。それこそ、ガキだった頃の俺ならば、殴り掛かっていただろう程の、おぞましい侵害行為だった。 「アンリ?」  雅巳が、眉にしわを寄せてこちらを窺っていた。カズも訝しげな顔をしていたし、仲間たちの反応も似たり寄ったりだった。 「もう一度だけ聞く」  それを、振り払うように通告する。 「お前は、何しにここへ来た」  立ち退く意思など毛頭ないと、暗に示して。今一度問い質す。  女は、大輪の花のように頬笑んで、この場に全く相応しくないほど嬉しそうな顔で、言う。 「まあ、強制的に退いてもらうことになるんじゃないかな。気は進まないけど、お巡りさんにご足労いただくのが一番手っ取り早いだろう。嫌疑は、そうだね、例えば――下で倒れている男性二人に対する暴行罪、とか」  ラジオから、一昔前に流行った洋楽(ロック)の、エレキギターを掻き鳴らす音が流れ始め。  誰が合図をしたわけでもなく。俺を除いた全員が、女を取り囲んだ。 後  まず二人が飛んだ。  真っ先に駆け寄り、迂闊にも正面から女に殴り掛かった仲間が、次の瞬間に宙返りしていた。そしてそのまま別の仲間を巻き込みながら、入り口横の壁に激突した。鐘を鳴らしたような音が伝播する。どうも運悪く、二人揃って頭を強打したようだった。  間髪入れず、今度は真後ろから女を襲った。だがこれも迂闊。幾ら背後を取っても、背後にいることがバレている以上ほとんど意味がない。あと足音がうるさい。案の定、完璧なタイミングで避けられ、突き出した腕を取られ、手本のような背負い投げに持っていかれる。それでもドラマのアクションシーンのように見えないのは、やられてる側の表情や悲鳴が、本気で痛がっているのを表しているからだろうか。  当たり前だが、力勝負で女は良くても互角、普通に考えればそれ以下だ。どれだけ鍛えていようとも、所詮は身長百七十センチ程度の細躯。自分より大きな男相手に、真正面から殴り合って勝てる道理はない。体格が違うのだ。近接戦なら、投げ技に偏るのは最初から自明だった。  一連の動作の最中でさえ、女の姿は、僅かにもぶれない。手足に迷いの震えもなく、重心の移動に一切の隙がない。距離を置いて、注意して見ていなければ、どうやって投げたのかさえ分からない流動。付け焼き刃ではない。相当な手練れであることに疑いの余地はない。  一方で、こちらの攻め手は的外れだ。  今度は羽交い締めにしようと近寄った仲間が、軽々抜けられた挙げ句に投げられ、顔面から床にダイブした。あれでは少なくとも鼻骨が折れ、戦意を根こそぎ持っていかれる。  こちらは、素人よりは喧嘩に強いとは言え、所詮はそこまでのゴロツキだ。格下や同業相手の立ち回りを想定してきたのが、今は完全に裏目に出ている。最初から力で勝負する気のない相手に、力比べを挑んで何の意味がある。物の見事に型に嵌められ、撃退されるのが目に見えている。  まったく無駄な行為だ。  力で戦えないなら、頭を使え。  使う頭がないなら―― 「やあ、恐いね」  雅巳が取り出したナイフを見て、全く怖がっていない様子の女が、そう呟いた。  遅れて、他の仲間も刃物を手に取る。うち二人、カッターとドライバーを構えている奴がいるのがかなり間抜けだが、まあ素手よりはマシだ。  しかしそれも――半分外れ。  雅巳が、ナイフを抱え込むように持ち、女に向かって走る。同時に、女を挟んで反対側にいたもう一人も、鏡写しのように駆け出す。  手を伸ばせば投げ飛ばされる、という先程の光景が、雅巳たちの脳裏に焼き付いているのがありありと窺えた。だが、投げられまいと身体を強張らせ、縮こまって余計な力が入っては、そこにつけ込まれるだけだ。  女は、尋常ではない反応速度で後方に跳び、後ろから迫っていた男の脚に自分の脚を合わせる。そうかと思えば、男の方が大きく上に弾けた。――何も見えなかった。いつの間にか女の右手にあったナイフの柄頭が、持ち主だった男の顎を突き上げたという結果だけが、辛うじて視界に映った。  雅巳が強く床を蹴る。ナイフの切っ先が、無謀にも背中を晒した女に突き刺さる、その直前に。  ガランと、冗談のような金属音が、コンクリートの床から舞い上がる。  全員の注意が足下に逸れた、その刹那。  雅巳は首筋に手刀を喰らい、崩れ落ちようとしていた。 「雅巳さ――」  カッターを構えたカズが、普段では考えられないほど情けない声で、雅巳を見送った。数の上で圧倒的に有利だった味方も、気が付けば四分の一。地獄絵図のようにでも見えたのだろう。  残ったうち二人も、ほとんど捨て身で突っ込んで、敢えなく沈没した。気付けばたったの十数秒で、大の男が八人、小娘の前にひれ伏す結果となっていた。  女は、難なく奪取したドライバーをジャグリングのように回し、弄びながら。  俺たちに、黒い眼差しを送った。  ――視線が交差する中で、俺は覚悟を決める。  利口なやり方は色々あったが、全てゴミだ。  この女は、なんとしても、俺が。  ここで、殺さなくてはならない。  その妖艶な笑みは、あまりに容赦なく。  己の死に様を、思い描かせたから。 「こ、のぉ、ばけもの――!」  蚊の鳴くような声で叫んだカズが、黒い鉄の塊を握っていることに。不覚にも、気付くのが遅れてしまった。 「馬鹿がッ、カズ止せ――」  俺の声が、けたたましい銃声によって掻き消された。幾重にも反響して轟いた雷鳴に鼓膜を揺さ振られる。  その中で、女は。  僅か半歩、身体をずらしただけで銃弾をかわし。  舞踏のような脚捌きで、カズの目の前に降り立ち。  こめかみを打ち付ける回し蹴りで、カズを払い除けた。 「――――」  ここだ(・・・)と。本能が告げるままに、目の前のデスクに飛び乗る。同時に、ずっと手に持っていた車の鍵を、右斜め前方に投擲する。  銃声の余韻を掻き分けて響き渡る、鈴の音と。  鍵がぶつかることで、段ボール箱から転がり落ちたラジカセと、床がぶつかる和音に。  女の視線が、右に逸れた――  デスクを踏み抜き。  懐からナイフを抜き。  一足で女の死角(ひだり)に滑り込み。  その眩しいほどに白い首へ、刃を差し込んだ。