第五章「Gracial Jardin」 0  溢れ続ける血潮と共に流れ出すように、その体温は瞬く間に失われていった。  腕の中で、虚ろな目をした男が、いよいよその瞼を閉じようとしていた。  その神秘的な碧眼の輝きが、何より愛おしかったのに。  その瞳が最早、何も映してはいないことに、奈落の最果てを俯瞰するほどに絶望した。  なぜ。  一体何故、このようなことになったのだ。  愛しい人とただ二人、平穏に暮らしていられたらそれで良かったのに。  一族の誇り?  信仰の果てに至る理想郷?  なんだそれは。なんなのだ。  そんなもののために、何故我らは朽ち果てなければならないのだ。  血も。空も。全ては、我らを生かすための装置でしかないはずだろうが。  どうして我らが、その道具ごときに殉じなければならないのだ。  界(かみ)よ、ああ界(かみ)よ。この悪辣な趣向が神意だというのか。この結末が、汝に背いた神罰だとでもいうのか。その座より我らを玩弄することが、汝らの言う正義であると嘯くのか。  許さぬ。  認めぬ。  断じて受け容れぬ。  それが運命だというならば。我は人を捨て、真の悪鬼へと変じよう。汝らが我をそう呼んだように。かくあれかし、かくあれかしと、この身を外道へと投じよう。  満天下に広がれよ、無間の氷原。  白く、白く。  蒼く、彼方へ。  我は大紅蓮を統べる者也。  ――時よ、止まれ。 1  漆黒の空に開いた花弁が、ひらひらと散り広がっていった。七色の炎色反応が瞳を焦がし、残像を置いて薄れていく。ほんの数秒の間だけ、巨大なスクリーンに描かれた大輪は、夢のように掻き消えていった。 「夜空に炎の花が咲き、その種が星だなんて。名付け親はきっと、相当なロマンチストだったのでしょうね」  なんてことを、隣に立つひのえが、ロマンの欠片も感じさせない無表情で言い放った。 「いや、まあ。いいんだけどさ」  特大の花火を目の前で見て、最初に出てくる台詞がそれとか。周りを埋め尽くす観客に申し訳がないくらい、風情のふの字も見当たらなかった。俺も他人のことを言えた義理でもないが、せめて黙って眺めているべきではないのだろうか。  もう一つ、打ち上げ花火が空をのぼっていく。大太鼓を叩いたような衝撃が腹の底に響き、瞬く光が夜を照らした。  なんとなしにひのえを見る。白い肌と白い髪が、花火の色に染まっていた。  元々肩までしかない長さの後髪は古めかしい朱色の元結で縛られ、隠れていたうなじを晒している。身に纏うのは淡い桃色の浴衣だ。どちらも勿論ひのえの持ち物ではなく、桜さんが箪笥から引っ張り出してきた代物である。どうもあの人、怪我に託(かこつ)けて、ひのえを着せ替え人形にしているような気がしてならない。  湖が燃えている、と誰かが言った。一応見てみるが、当然、実際に火が立ち上っている訳ではない。空の花火を映して、湖が輝いているのだ。実物の花火ほどはっきりとした光じゃない。広大な湖面にぼやけた煌めきが、蜃気楼のように揺らめいて見える。 「よく見えませんね」 「ん、ああ」  ひのえは視線を下げて、湖の方を見ようとしているようだった。今いる湖周りの散策路は人で埋め尽くされていて、ひのえの背丈では前が見えないのだろう。  肩車でもしてやろうか、と一瞬思ったが、命が惜しかったので飲み込んでおいた。炎なんてものは、対岸で離れて見るに限る。自分が燃えている様など、一生に一度たりとも目にしたくはない光景である。  ――それにしても。  それにしても、まったく暢気なものだ。双子タワーブリッジの崩壊、謎の殺人事件が起きてから、まだ一日二日しか経っていない。にもかかわらず、よくも平然と花火大会なんか開きやがる。安全保障の観点から、警察は反対したとかしないとか、そういう話は小耳に挟んだが。地元の一大イベントを中止に追い込むには足らなかった、ということなのか。  二つの事件それぞれの犯人は、既にこの双町を離れている。そのことを知っている身としては、別に構わないとも思えるのだが。大多数の一般人には正直、危機感が欠如しているという感想を抱かざるを得なかった。わいわいがやがや玉屋鍵屋と騒ぎ立てる、ここに集まった観衆どもの気が知れない。  結局のところ。双子タワーブリッジについては、爆発など人為的な破壊の痕跡がなかったことから、設計上の不備を発端とする自壊だという見解に落ち着いたらしい。殺人の方は、当然犯人はまだ捕まっていないが、捜査は迷走しているそうだ。目撃情報が全くないなんてことはないと思う。しかし、誰かの目や監視カメラに映った神谷 満は、もうどこにもいないのだ。捜せというのがそもそも無茶な話だろう。  だから。この町は今、比較的平穏を取り戻しつつあると思う。この町にいる九分九厘の人たちは、この町で何が起き、誰が泣き、叫び、戦ったのかなんてことを想像だにせず。ごく普通に、当たり前のように過ごしている。  多分、そうあるべきなんだと思う。俺自身がつい最近までそうだったように。この世界には、知らない方がいい、むしろ知ってはいけないことなんて幾らでもある。真理を追い求めてパンドラの箱を開けるなんて、馬鹿馬鹿しいし迷惑の極みだ。進化も発展も結構なことだが、見ちゃいけないものを見て見ぬ振りをする大人げも、忘れないようにしないと。  そうじゃなきゃ―― 「……はあ」  花火の明かりで時折顔を出す、晴れ渡った空――その南端。夏臥美町の上空に居座った積乱雲を見る度に、重苦しい気分に苛まれる。  双町と夏臥美町を内包するこの地域の天気予報は、一週間先まで快晴だった。事実、双町には雨の気配なんか微塵もない。まさに夏真っ盛り。少しは手加減してくれよと、過労気味な太陽を睨み付けたくなるような天候だ。  ただ、夏臥美町の空だけに。真っ黒い色をした雨雲が、山のように凝縮されている。  夏臥美町への電車は、朝から期限未定の運転見合わせ状態だ。元々、夏臥美町と双町を往き来するには、このローカル線を使う以外に真っ当な手立てがない。夏臥美町を囲む山々は、標高こそちんけなものだが、軽い気持ちで踏み込もうものなら、遭難必至の樹海だ。つまり、夏臥美町は今、人も物も出入りができない孤立状態にある。ミキならば、絶海の孤島(クローズドサークル)だなんだと大喜びするのだろうが、町単位で『そして誰もいなくなった』を再現などしたらそれどころではない。いや、あの中で何も怪奇な事件が起きなくとも、補給路の断たれたこの状態が長く続けば、冗談じゃなく住人の命に関わりかねない。  本気で笑い話では済まない事態だ。誰がどう見ても異常の一言に尽きる。なのに誰一人、その異変に気付かない。テレビも、ラジオも、人間も、至って平常運転だ。  あれ、今日はピーカンの筈だったのに、あっちの方は天気悪いぞ。また予報外しやがったのか。  電車が止まって夏臥美町に行けない。まああの路線じゃ仕方ないな、よくあることだ。  夏臥美に住んでるあの人、今日会社来られなかったけど、羨ましいな。私も休みたいよ。  大雑把にまとめてそんな具合だ。おい愚民ども今はそれどころじゃねぇんだよ、などと言ったところで、誰も耳に留めやしない。記憶しない。気に掛けない。いや、認識できないようにされている、というようにも思えた。何か不可思議な、集団催眠のような力の働きが見え隠れする。日常が、いつもと何も変わりなく流れているように見えて。致命的に違った別の何かに侵されている。そんな気がしてならないのだ。  一体、あの町で、何が起こっているのだろうか―― 「今ここから見て分かる異常なんて。夏臥美町が抱えている真の脅威に比べたら、本当に些細なものでしかないんですよ」 「どういう意味だ」  ひのえが、明らかに真相を知っている口振りだったから。すぐさま聞き返すと、ひのえは呆れたように小さく溜息を吐いた。 「先程から何をぼんやりしているのかと思えば、それですか」 「俺のことはどうでもいい。ありゃなんだ」  ひのえは何か、苦悶に満ちた瞳で空を見てから、諦めたように目を閉じて、俺の方に向き直った。 「あれは、結界です」 「結界?」  何故だかミキの顔を想起しながら、話を続ける。 「結界っていうのは、あの雨雲のことか」 「あれを形成しているのが結界です。そもそもが二木の技術ですから、私も詳しくありませんが」  また二木か。最近出張りすぎなんだよ。そしていい加減にしろ。人間離れも大概にしてくれ。 「今の夏臥美町は、誰も、何も、出入りすることはできません。ですが、例えばぶつかれば弾かれてしまうような、分かりやすい結界などは程度が知れる。本当に上等な結界は、ああして擬態して、或いは隠れ蓑を用意して、超常の事象を自然現象のように見せる」  つまりカモフラージュですよ、とひのえは付け加えた。だが確認できる限り、その結界とやらの効果はそれだけじゃない。恐らくは、界装具を持たない不特定多数の人間の、認識さえも操っている。異常を異常と思わせない誤認の強制だ。そんな真似ができるなら、悪意さえあれば、もっとえげつないことが幾らでもできる。ある意味で、核爆弾が可愛く見えるレベルの戦略兵器ではないか。 「そんなものを使って、何をしようとしているんだ――ミキは」  それだけは、分かる。  その結界を張ったのがミキであり、ミキが何かをしようとしているということは。 「町を孤立させたのは、イレギュラーを持ち込ませないため。後顧の憂いを断つためだと言っていいでしょう。混乱に乗じて隙を狙っている、お姉さまの邪魔になるようなものの介入を防ぐ必要があった。今回の事件は、お姉さまのお力を以てさえ、そうやって万全を期さなければ成し遂げられない。そして」  ひのえは、険しく強張った眼差しを投げてくる。それはきっと、色んな感情を孕んでいた。だから、言葉を一度溜めなければ、その先を口にすることもできなかったのだろう。 「万が一にもお姉さまが失敗したとき。内に潜む真の脅威を、夏臥美町もろとも封印する」 「は――?」  意味が、すぐには分からなかった。  ミキが失敗するかも知れないと、そう言ったのか。  ミキに全幅の信頼を置いているひのえが?  崇拝さえしているひのえが? 「いや、封印って」 「無論、そんな封印など時間稼ぎにもなりません。そこに至れば、三鬼本家が総力を以て討伐を引き継がなければならない。恐らくそれで、三鬼家は滅びることになるでしょうが。私たちは、元より覚悟の上です」 「討伐って、だから」  一体、何を。  その問い掛けに、ひのえは答える。 「十戒」  その返答に、ほんの僅かな怯えの色が見えたのは、気のせいだったのだろうか。 「十戒って――なに、仏教? それとも聖書?」 「どちらでもありませんよ。一般には知られていない、機関が秘して継承する、一種の伝説です。その意味は、書いて文字の通り、十の戒め。かつてこの国の能力者たちが、無知故に生み出してしまった、十体の擬獣を指します」  うわ、だか、げえ、だか、よく分からない感嘆詞が口から漏れた。  擬獣という名で雑多にカテゴライズされている中の、ネームド個体。恐らく、ミキが(趣味で)名前を付けているのとは明らかに別物だろう。超人集団であろう機関においてさえ名指しで警戒される、正真正銘の化け物。いてもおかしくはない。おかしくはないが、いないで欲しかった。そういう連中だ。 「それって、やっぱり危ない奴らなんだよな」 「はい、極めて危険です。十戒は、完全に消滅させるか、永久に封印するまで、数十年から数百年ほどの周期で、各地に出現し続けます。その被害は、対峙した能力者に死をもたらすだけに留まりません。それらは自然災害という形で裏返り、社会的脆弱性と交わることで広範囲に絶大な被害をもたらし、多くは史実に名を残します。今のこの国の基準で言うならば、激甚災害認定が下りる規模になる可能性も否定できません」  それはつまり、今夏臥美町は、未曾有の大災害に見舞われる危機に瀕しているということではないのか。 「なんで、閉じ込める? 危険が分かってるなら、住民を避難させるべきじゃないのか」 「十戒の出現場所が変わる恐れがあるためです。十戒ほど強大な力の顕現には予兆があり、機関では唯一、六条がそれを察知できます。しかし、その土地の人々の営みを大きく変えた場合に、予知が外れたという事例が報告されています。事前に準備し迎え撃つことができるというメリットを失えば、かえって被害を広める結果になり得るのです」 「じゃあ――」  向きになって反論しようとして、言葉に詰まった。俺自身の立ち位置が、よく分からなくなったから。 「――双町は、安全なのか?」 「一先ずは安全です。最悪の場合でも、避難できるだけの時間は作ります。だからチリさんは、どうか冷静に。自身の無事を第一に考えてください」 「安全……」  やっぱり、そうだ。  この件で俺は、戦力として数えられていない。いや、それどころか。  他の人間が閉じ込められた中で。俺だけ、外に逃がされた。  なんでだよ。なんで俺だけ、危険度の低い外へ飛ばされることになる。俺を危険に晒すのは、いつだってミキだったじゃないか。それがどうして、今回に限って俺を遠ざけた?  確かに、俺は。自分の身を犠牲にしてまで、見ず知らずの誰かを救いたいと願うような、痛烈な(いたい)ヒーローなんかじゃない。身内のためならいざ知らず。言われなくたって、大事なのは自分自身だ。巻き込まれたら巻き込まれたで、なんで俺が身体を張らなくちゃいけないんだと、文句を言ったに違いない。  だけど。  だけど、でも。気持ちが悪い。  これじゃあ、俺が今何を言ったところで。安全圏にいながら無責任に難癖だけ付ける、卑怯者にしかならないじゃないか。 「いいんですよ、それで」  ひのえが、俺の顔を直視しながら、肯定の言葉を作った。 「十戒は――いえ、今回現れる擬獣は、三鬼家が生み出し、三鬼家が持て余してきたモノです。機関に入ったばかりの、三鬼家の一員でもない貴方が、関与すべき問題ではないのです」 「だけど、俺なら――」 「お姉さまにとっては、皆イレギュラーなのですよ。貴方も、そして私も」  ひのえは悲しげに空を仰ぎ、黒い瞳に暗い七色を灯した。 「十戒は、残り二体。ここまで討伐するために、機関の主要十家は、半数以上がその力を失いました。それでもお姉さまは、ご自身の手で決着を付けるおつもりなのです。たった一人で、十戒の一、原初の鬼姫を斃(たお)すつもりなのです」 「――原初の鬼姫?」  その名。畏怖と崇敬と怨恨と共に囁かれるその名前に、名を求める死神が面を上げる。 「三嘉神 朔弥(みかがみのさくや)。かつてこの国の万人を相手に渡り合い、世界を恐怖させた鬼軍の総大将。――私たち三鬼の者、全ての母なる存在です」