第四章「Doppel Ganger 後編」 10 *M・K*  咽に異物が絡んだような感覚に幾度も咳き込んだ。まるで空気が粘着性を持ったかのようにさえ思えた。深い呼吸をし続けて、身体中に腐臭が充満した気分だ。脳が溶けて半ば液体となり、頭蓋の中を波打っている。  密室に生ゴミを撒き散らしたような裏路地がもたらす酷い不快感の中で、僕は電池の切れた玩具のように、薄汚れた土の上に座り込んでいた。その様は否応なく、かつての自分を思い起こさせた。今でも時々恐ろしくなる。この手が、この脚が、あるとき急に、また動かなくなってしまわないだろうかと。力なく崩れ落ち、爛(ただ)れ、痩せさらばえた老犬のようにか細い鳴き声を上げるだけの木偶人形。考える度に身体が震えた。もう夏になっている筈の外気は、僕にとっては冷たくて、冷たくて、仕方がなかった。  再び自壊する幻覚の苦しみを忘れていられたのは、夢の中でだけだった。夢の中の僕という『自分』は、紛れもなく僕自身が思い描き続けてきた希望だった。上手くいかないこともいっぱいあった。辛くて痛くて、迷いだらけの道だったけれど、それでも前に進んでいた。進むことができた。それはいつか『自分』の夢ではなく、僕が迎える未来になるはずだった。真実、あと少しで手に入るものだった。だから今日まで、頑張ることができたのに。  なのに。  ――もう、要らない。  ――死んでしまえばいい。  あいつら――あいつらは! それを、蟻でも踏み潰すかのような気軽さでぶち壊した!  許せない。絶対に許さない。必ず息の根を止めてやると誓った。今まで殺してきた奴らのように、僕が、この手で――! 『だ――れ――だぁ――』 「っあ――」  まただ。  また、何処かで何かが、僕を見ている。  無数の虫が背骨を這い上ってくるような悪寒がざわめく。  これは、覚えがある。忘れられはしない。僕が僕を認識したそのときから、ずっと僕の近くにあったものだ。ひたひたという足音と共に近付いてくる。決して目には見えない、でも、すぐ側にいるそれは。 『だぁまれ――だぁまれ――』  歌が、聞こえる。  地の底から地鳴りと共に木霊(こだま)する、何か途轍もなく大きくて不吉な喚び声。  振り向けばそこに立っているように。息遣いが聞こえているかのように。視界には入らず、だが決して離れることなくそこにいる何か。 『だぁまれだぁまれ――じの――とも――んな――』  ああ、うるさい、うるさいうるさい、消えろ消えろ消えろ消えろ。  お前は疾うに去ったモノだ。過去の遺物、完結することなく担い手を亡くした物語。もう二度と、僕の前に現れるべきではない悪夢である筈だ。  それがなんで、どうして、今になってまた、こんなにも近くに感じるようになったんだ。 『だぁまれだぁまれ――』 『きじのこうんともいうな――』 『へもひんな――』 「あ――ああっ、あああ、アアアア――!」  頭が、痛い。芯を削られるような激痛に、頭を押さえる手が震える。縮こまっていたところで何が楽になるわけでもないが、それでも、身を固める。そうしなければいられなかった。  ――なにコイツ。今まで学校来なかったようなヤツが、急に馴れ馴れしくなって。  ――勝手に入ってくるなよ、ジャマくさい。  ――病気だったんじゃなかったの? 普通に元気じゃん。  ――実はサボってただけなんじゃないの?  ――へらへらして、なんか気持ち悪い。  ――センコーども、アイツにだけすげぇ優しくしてさ、腫れ物扱うみたいに。  ――なんか見ててムカつく。  ――お前、学校来るなよ。  ――うちのクラスにお前なんか要らないから。  ――最初からいないもの扱いだったもん。  ――お前なんか、 「ぎ、ぃ――」  ノイズが走る。ノイズが、ノイズが、ノイズが、ノイズが、ノイズが――    ――お前なんか、死ねよ。  絶叫する。  喉が張り裂け焼け焦げるほどに。  いやだ。  いやだいやだいやだいやだ。  僕は、生きるんだ。  自由な身体、願いを叶えるための手段を、ようやく手に入れたんだ。  誰にも邪魔はさせない。させてたまるか。  殺してやる。  一人残らず殺してやる。  僕を否定する奴なんて、みんなみんな、死んでしまえば――  ――神谷さん。 「っ――」  ――似てるんじゃないかと思ったの。私と、貴方。  ひのえは。  ひのえのことは、最初から、殺すつもりだった。  殺すつもりで、騙していた。  だって、ドッペルゲンガーに接触してきた彼女は間違いなく僕の敵で、根本から僕を否定する存在だったのだから。  僕が彼女と真っ向から対峙すれば、勝つことは絶対に不可能だろう。界装具なんていう妙な代物があろうとも、素の僕はただの子ども以下の力しか持ってないんだから。それでも、ひのえの能力を知りさえすれば、何かしら対抗策の一つも浮かぶのではないかと考えたが。ただの思い上がりだった。ひのえの能力を前もって目にする機会を得て、分かったのは、どうあっても勝てる見込みなんかないという現実だけだった。  だから。最初から選択肢なんてなくて。  だから。  ――私がみんな、守りますから。  なんで、よりにもよって、あんな小さな女の子だったんだ。歳が近くて、もしも同じ学校に通っていたなら、友達になれていたかも知れないだなんて、そんな風に思ってしまった。もしかしたら、僕の事情を知れば、味方になってくれるかも知れないだなんて、有り得ない期待をしてしまった。  願ってしまった。夢の中ではなくて、ドッペルゲンガーではなくて。本当の僕と、一緒にいて欲しいなんて―― 『だぁまれだぁまれ――』  あの小さな背中に、ナイフを突き立てるとき。 『きじのこうんともいうな――』  手に、腕に、力が入らないのを。歯を食いしばって堪えた。全身をしならせて、全力で刃を振り下ろして。 『へもひんな――』  白いシャツが真っ赤に染まり、返り血があちこちに飛び散り。ぴくりとも動かなくなったひのえを見て、僕はやっと。 『てっぽうかためがとおったぞ――』  自分が泣いていることに、気が付いた。 「――あ」  あれは、なんだ。  路地裏を形成する建物の、その天辺から。何かが、こちらを見下ろしている。  夜空を背景にして、何かが、その一つ目をギラギラと輝かせ。  ふいに、既視感を覚える。それは夢の中で見た景色だ。瓦礫と呼べるまでに崩壊した巨大な橋の、その影から。人に害を及ぼす危険な何かが、じっとこちらを見つめている。そんな妄想――そう、それは所詮、夢の中の自分が見た妄想に過ぎなかった筈だ。  なのに、どうして。  どうしてこんなにも、心臓が強く痛むんだ。  サガシテハイケナイ――  ミツケテハイケナイ――  ミトメテハイケナイ――  アラームが鳴り響く。何重にもエコーして頭の中を掻き乱す。それは決して、決して、見てはならない禁忌なのだと。  それでも、僕は僕を止められない。視線が止まり、焦点が定まり、その姿を、直視し―― 「それは夢だ、神谷!」 前  耳に届いた悲鳴に不安を煽られながら、やっとのことでカミヤを見付けたとき。その異様さに一瞬、身体が硬直した。  カミヤは路地の奥、古びたビルに寄り添うように倒れ込んでいた。  暗がりの上に若干遠目だったが、界装具(黒鎌)を手にしていたこともあってか、少なくとも気を失っているのだろうということは見て分かった。  時刻は既に約束の時間を過ぎ、日が変わってしまっていたが。なんとか間に合ったのだと束の間の安堵に溜息を吐いて。  そして、その手前で膝と頭を抱えている、『もう一人』に気が付いた。  子どもだった。恐らく中学生くらいの。かなり思い切ったタメージデニムに大きめのスカジャンという、夏にしては暑苦しい、むしろ春頃に丁度いいような服装。それらは日に焼け泥に塗(まみ)れ、元々の色や模様は見る影もなくなっていた。伸び放題の頭髪は無造作に跳ね上がり、やはり汚れきっている。ほとんど浮浪者と言って差し支えないほど、くたびれ見窄らしい姿だった。  唐突に、その子どもが顔を上げ、空を見上げた。その様を目の当たりにした俺は、冗談じゃなく、心臓が口から飛び出しそうになった。 「カミヤ――」  見間違えようもなく、それはカミヤの顔だった。  二人の神谷 満。  自己像幻視。  影の病。  双子ではない。同じ顔、同じ姿、魂、名前の、同一の二人。  つまり、あれが。  ドッペルゲンガーであるカミヤを生み出した、本物の神谷 満―― 「おい」  神谷 満は空を仰ぎ、焦点の定まらない視線をどこかへ向けていた。俺のことには気付く様子もなく、ただ中空を凝視していた。その挙動が、明らかに正常なそれではなかったから。すぐにその可能性に辿り着き、声を張り上げ、叫ぶ。 「それは夢だ、神谷!」  身体の中心を棘の塊が通り抜けたような、耐え難いほどのむず痒さに脳まで痺れる。それが功を奏してか、神谷 満は弾けたようにこちらを見た。表情は驚愕――目を大きく開いて、呼吸さえ忘れているように見えた。  視線が絶え間なく交差する。それは今日まで、何度も繰り返してきた行為であったように思いながら。  その実、これは一回目だ。  俺と神谷 満は、このとき初めて出会ったのだった。 「――せん、ぱい」 「――っ!」  だから。そう呼ばれた瞬間、身体を銃弾で撃ち抜かれたような気がした。  神谷 満とそのドッペルゲンガーは、どうやってか意思疎通をしているのだということが分かっていた。だが、その手段や程度は分からなかった。テレパシーのように会話ができるのか、それとも意識や記憶を共有しているのか。ミキの話しぶりだと前者のように思えたし、ひのえの仮説通りなら後者の可能性もあった。本当のところがそのどちらなのか、今となっては知りようもないことだ。  だが。こうして対面すると分かる。  目の前の神谷 満の中には、確かにカミヤがいる。  昨日まで顔を合わせていた、あのカミヤそのものが、そこにいるように感じられた。  重いと。守りたいと。そう思った、あいつが。 「……カミヤ」  だから俺も。神谷 満ではなく、カミヤと。そう呼ぶことに決めた。 「せんぱい――ああ、せんぱい、せんぱい、先輩――っ」  よろめきながら、不規則な動きで四つん這いになり、数歩分、カミヤはゆっくりと近付いてきた。  その右手に――否応なく注意が行く。刀身が赤黒く染まった、ナイフのようなものを握り締めていた。形状は、ミリタリーマニアでもない俺の目には、ほとんど包丁みたいな代物に映ったが、家にあるような物と比べて明らかに一回り大きい。小柄なカミヤの手にあって、それは実寸以上に巨大な刃物に見えた。  あれが、ドッペルゲンガーたる分身を生み出す、カミヤの界装具。カミヤの命を救い、そしてカミヤを人殺しに仕立て上げた、――いや。  血を浴びているのは、ナイフの刀身だけでなく。それを持つカミヤの手も、赤い。  界装具もまた道具であるのなら、そこに善も悪もない。道具を嫌悪して何の意味がある。そもそも、界装具で誰かを救うなんて物言いは、言ってしまえば上から目線の、極めて癇に障る表現だ。  カミヤが今、ここにいるのは。  カミヤ自身が選んで、歩いてきたからだ。 「来てくれた、来てくれた、来てくれた。せんぱい、先輩は――やっぱり、僕の味方なんだ」 「――――」  目を逸らしたくなる。痛ましくて、見ていられなかった。笑っているような泣いているような、顔をぐしゃぐしゃにして、不気味なものを感じさせた。何かに縋り付くような話し方は、そう、麻薬中毒者ならこうもなるだろうか。何をしでかすか予想がつかない。ふとしたことで激高しかねない、張り詰めた風船のような印象を抱かせた。  総じてやはり、まともな精神状態とはほど遠い。それは、『モウゾウ』の気配を感じているからか。それとも、ひのえを殺めたからか。或いはそれ以前、一人目を殺してからずっと? 自身の目的のために進み続けたカミヤは、しかしどんどん追い詰められていったのだろう。  それ自体は、想定の範囲内だった。ひのえもまた、そんなカミヤを更に追い立てるために策を練った。崩れかけた心は、必ず弱点になると確信していたから。  だが。こうして向かい合って感じるのは、言い知れない憤りと、胸のざわめきばかりだ。  いつか誰かが言っていた――ミキか、それともマツイさんだっただろうか。人を殺してしまうような人間は、まるで別の生き物のように思えるものだ。違う常識の中で生きていて、特異なものの考え方をして。反社会的人格、精神病質者(サイコパス)、理解の及ばない何か異常なモノ。――しかし、彼らもまた、紛れもない人間なのだと。  俺は、カミヤを知っている。今に至っては、理解しているとまではとても言えはしないが、それでも。カミヤが、普通の子どもと同じように生きることができるのだという事実を知っている。誰に否定されようと、そんなものはカミヤの見ていた夢(ドッペルゲンガー)でしかないのだと諭されようと。  それだけは、誰にも絶対に譲らない。  例えそれが、カミヤ自身であろうとも。 「せんぱい、せんぱい……っ。早く、早く教えてください。あいつらの、あの双子の居場所を、早く――早く、早く、早く早く早く早く!」  早く僕に、あいつらを、殺させて。  振る舞いが、禁断症状を起こした患者そのもののようだった。または、そうやって走っていなければ、自我を保っていられないという強迫行為なのか。いずれにせよ、まともではない。それは恐らく、神谷 満としての基準からも既に逸脱しているのだろう。何故なら完全に逆転している。生きたいという目的と、それを支えるための殺人という手段が。  最初から歪だったものが、ここにきて大きく破綻し始めている。少なくとも、前回この場所で会ったときには、こうも壊れてはいなかった。歪んでいた、狂っていた、でも惑ってはいなかった。  もしも、カミヤがこうなった原因が『モウゾウ』にあるというのなら――ひのえ。お前は二度と、その鬼を起動させちゃいけない。  いや、それを言うなら、そもそもに―― 「お前はもう、誰一人殺せやしない」  悪い、カミヤ。ごめん、カミヤ。俺だって、叶って欲しかったんだよ、お前の夢が。思ってなかったよ、こんなことになって欲しいなんて、これっぽっちも。  それでも、俺は。  前に言ったことと、逆のことを言うよ。 「お前は、俺が。今ここで――殺すからだ」  お前や、ひのえばっかりに。痛い思いはさせたくないから。 「死んでくれ、カミヤ」 中  カミヤが、走ってくる。  怒りに狂いながら、絶望に泣き喚きながら。両手で構えた恐ろしい凶器で、許し難い裏切り者を刺し殺すために。  疾走する殺意の塊を前にしたこの刹那、名無しの黒鎌が歓喜に打ち震えるのが分かった。  早くその名を呼んでくれ。  深く繋がり、刈り取れと。  大喜びしているような黒い得物を、不意打ち気味に隣の壁に叩き付けた。手加減なし、思いっ切り。その割に軽い音と共に、刃の先端が薄灰色のコンクリートに突き刺さった。軽く引いた程度ではもう抜けなくなったことを確認してから、手を離す。  なぜって、それはまあ、なんというか。うん、なんか、すごくムカついたから。  有り体に言って、邪魔なのだ。  ちょっと五月蝿いから、そこで大人しくしてて欲しい。  こんなモノを振り回す俺たちは、紛れもなく異常者だけど。社会からすれば白眼視されるあぶれ者だけれど。だから真っ当に振る舞っちゃいけないなんて思わない。そんなこと、誰にだって言わせない。  俺はカミヤを殺すことになるかも知れないし、下手をしたら殺されるのかも知れないけれど、だからといって殺し合いがしたかった訳じゃない。  そうだ。これは異常な殺し合いでも、時代錯誤の決闘でもない。単純で、有り触れていて、溢れかえっていること。人間誰しも、性格や主義主張の合わない奴がいるんだ。些細な意見の食い違いだって当然のようにあり得る。話せば分かる、言葉を交わせば必ず通じ合える――そんなものは妄言だ。互いに譲れないことで、話し合っても埒があかなくて。それでも相手を想うなら。自分と相手が、対等であると信じるなら。俺たちはちゃんとぶつかって、ちゃんと喧嘩をしなくちゃいけないんだ。  狭い路地だから。そんなことを考えていたら、すぐにカミヤは目の前まで迫ってくる。中学生どころか俊敏な野生動物並の速度で、笑ってしまうくらいあっという間に間合いを詰められていた。  バネのようにして突き出されるナイフを。俺は、上に大きく跳躍して回避する。  加減が分からないものだから、カミヤを、その身長の二倍や三倍、それ以上の高さで跳び越えた。やり過ぎである。もう少しでビルの屋上に手が届くところまで来た。空中で半回転して振り返り、最初にカミヤがいた辺りに着地すると、無様にもバランスを崩し、尻餅をつく。屋根の上を跳び回るのはもう慣れたものだから余裕だと思っていたが、どうも立ち幅跳びは勝手が違うらしい。  急いで立ち上がり、前を見る。俺を見失って立ち竦むカミヤの後ろ姿と、ビルに刺さったままの鎌が見えた。カミヤはともかく、鎌の方はどうにも間抜けに見えた。 「どこ見てんだカミヤ。俺はこっちだ」  声を掛けてやると、カミヤは愕然とした顔で振り向いた。  そのまま、また向かってくるかと思った。だが、その様子はない。カミヤは何か、躊躇っているようだった。さっきは衝動的に動いてしまったが、一拍置いて少し冷静になれたと、そんなところだろうか。 「うそだ」  荒く呼吸をしながら、カミヤが呻く。 「うそ、ですよね? 先輩……。だって、だって先輩は、僕に、生きてって――」 「嘘じゃない」  残念なことに――  本当に残念なことに、どっちも嘘じゃないんだ。 「お前はもう、死ぬんだよ、カミヤ」  カミヤが片手で、頭を掻き毟る。表情に、段々と憎悪が募っているのが見て取れた。なのに、カミヤはそれに耐えようとしている。抗おうとしている。  俺が。  先輩が、そんな酷いことを、言うはずがないんだと。あんなのは聞き間違い、錯覚に違いないんだと。  それを見て。ああ、俺はまだ甘かったんだなと、思い直した。 「死ね」 「――ア」  火中に素手を突っ込んだ気分だ。口にしてみれば、思った以上に胸くそ悪い台詞だった。あまりの不快さに、思わず眉間に皺が寄る。  だけどそう感じるのは、きっとまだ、覚悟が足りない証拠だろう。  もう一度。今度はもっと強く、言葉にする。 「お前は、俺が殺す」 「あ、ああ、あ、あ、あ、あ、あ、アアア――」  再度、接近を確認。  だが、何故だろう。さっきもだが、違和感がある。カミヤの動きが、子細に認識できる。それに対してどう備え、どう動けばいいか、考えるだけの余地がある。界装具の恩恵で、肉体のみならず感覚器官の能力も底上げされるのは前からそうだが、今はそれが更に、飛躍的に上昇しているように思える。昼神とやり合ったときにはこんな感覚はなかった。あれから、何かが変わったのか? 心当たりはない。身に覚えがない。だが好都合だ。いくらなんでも、犬死にするのはごめんだから。 「カミヤ――!」  打ち出された刃が、俺の胸部に届くギリギリで。左手を伸ばし、ナイフを持つ両手を掴む。そして後方へ引っ張ってから、両足で踏ん張って投げ飛ばす。  突撃するカミヤの勢いをそのまま乗せて後に流した。だからカミヤは、それに引き摺られるように地面にダイブする。ナイフから手を離さないものだから、腹を強かに打ち付けたように見えた。 「まだ気は済まねぇんだろうが――立てよカミヤ!」  叱責するように、言葉で追い打ちを掛ける。  その声に応じた、訳ではないだろうけど。カミヤは五体投地の状態から、瞬時に跳び起き立ち上がる。  振り返って刃を向けようとするカミヤに合わせて、右足で地面を蹴り。一歩踏み出して突き出した拳が、カミヤの顔面を捉える。  抗力を押し退け、右腕を振り抜く。弾かれたカミヤは、ゴム鞠のように頭を地面でバウンドさせながら奥へと転がり、壁に叩き付けられた。思いの外派手な結果に目を丸くしてから、 「いってぇ……」  ズキズキと痛む右手を見る。殴った箇所が真っ赤になっている――と思いきや、表皮が破れて血が滲んでいた。拳が当たったのは、カミヤの額あたりだったと思ったが、鋼の剣山でも殴り付けたかのようだった。強化されていなければ、こっちの方が砕けていたかも知れない。  塀や煉瓦程度なら、殴ってもこうはならなかった筈だが、……そうか。人を殴るっていうのは、こういう感じなのか。  今の時代なら珍しくもないだろうが、俺には殴り合いの喧嘩の経験なんてない。空手だの合気だの、武術の心得だって勿論ない。幾ら界装具の力で諸々が底上げされていたとしても、それだけで戦えるようになるなんて、ご都合主義もいいとこだ。単なる右ストレート一つ取っても、プロボクサーとそこらのゴロツキとじゃまるで別物になる。身体の使い方が違うだろうし、思考回路も着眼点も、心のありようも全く違う。俺に至ってはただの真似事、もっと言えば下手くそなパントマイムみたいなものだ。そりゃあ一発殴っただけで怯みもする。  相手が、同じ土俵のカミヤだからまだ通じてる。だけど、そうじゃなければとっくに殺されている。カミヤの手を取って転けさせたのだって、成功したのはほとんどまぐれだ。同じ条件でももう一度やれば失敗して刺されるかも知れないし、二度目となればカミヤだって警戒する。簡単なフェイントを入れられるだけで、俺は対処しきれずやられるだろう。  だから、つまり。稼げる時間は、あまりない。 「――そんなもの、いつまで大事そうに抱えてるつもりだよ」  よろよろと立ち上がりながら、それでもナイフを握り締め続けるカミヤを見る。  カミヤは一度両の脚で立ったが、すぐにバランスを崩して転びそうになっていた。そのまま壁際まで行って寄り添い、縋るように静止する。  恨めしそうにこちらを睨むカミヤの顔に血が伝う。額のあたりから鼻を伝って一筋、顎へと流れていく。  打ち所が悪ったせいか多少動きが鈍っているようだが、意識があるなら差し支えない。やはり相当に頑丈になっているようだ。 「そんなに俺を殺したいのか」  答えはない。答えられないのか、答える気がないのかは分からないが。その沈黙が肯定を意味するなんてことは、聞かずとも分かった。 「ああ、そりゃそうだ。俺は殺害を予告したんだからな。実際、このまま殴り続けたらいつか死ぬだろう。わざと急所を外すとか、そういう器用なことはできないんだし。だったら、お前のそれは正当防衛なんだよ。一般的かどうかは知らないが、社会的には許されてる。何も特別じゃないし、異常でもない。まあ、正当か過剰かは微妙なところだけど、弁護の余地くらいあるだろ」  それに、機関の人間もそうだ。全く信用ならない。大体機関ってなんだよ。誰も知らない、知っててもよく分からない、正体不明で胡散臭い集団だ。言ってることも荒唐無稽で滅茶苦茶で、とても正気とは思えない。そんな連中に付きまとわれて、危機感を覚えたとしても不思議な話じゃない。少なくとも俺は、そこに理解を示すことができる。 「だけど、お前のクラスメイトは違った。ナイフを向けてきた訳じゃないし、殴ってきた訳でもない。単に、ケータイのボタンを六回かそこら押しただけなんだぜ。本気で死んで欲しいなんて思っちゃいない。殺意も害意も、行動を起こすには不十分、下手すればゼロだ。あっちは壁にでも話し掛けてる気分だったんだろうよ。そんなもん、律儀に真に受けてどうするんだ」  逆に、それが問題なのだということは分かっている。小さなディスプレイの向こう側にいるのは、機械でもなければ架空の人物でもない。本物の、生身の人間なんだから。冗談でも言っちゃいけないことは沢山あるし、文字だけのやり取りでは気持ちが間違って伝わることだって多々ある。この便利な道具は、そういう融通の利きないところもあるんだと、知った上で使わなければいけないし、誰かがそう教えていかなくちゃいけない。  それは、伝える側の人間にはもちろん、受け取る側の人間にも言えることだ。 「……だから?」  カミヤは呻く。  俺の声が聞こえるかさえ疑問だったが、どうやらまだ聞く耳は持っているらしい。 「殺す気が、ないなら。何を言っても――死ねって、言ってもいいなんて、そんなことを言うの? 僕が望んだ、ただ一つの願いを、踏みにじられても――許せって言うの?」  カミヤは震える声で、この路地裏に辛うじて響く言葉を紡いだ。ただ喋るだけで息苦しそうに、不規則な呼吸を繰り返す。危うさの見え隠れする視線は、それでも俺から外れることはない。  殴られて、その反応か。  普通の人間なら、今度こそ爆発するように、怒りに任せて暴走しても可笑しくないだろうに、カミヤはそうではなかった。むしろ、頭に上っていた血が流れ出て、冷静になってるんじゃないか。  既に感情が飽和しているのか――いや、違う。多分そうじゃない。カミヤの中ではもう、殺すか殺されるかのどちらかしかないんだ。今さら過程なんかに影響されない。滑ろうが躓こうがどうでもいい。殺せさえすればそれでいい。生きてさえいるなら、それでいいんだ。  それしか、考えられないんだ。 「――お前が望んだ、ただ一つの願い」  だけど、それは。  ああ。何処かで、聞いたような台詞だな。 「それは、つまり何だ。俺を殺すことか? 昼神姉妹を殺すことか?」 「――っ」  その通りだと、言おうとしたのだろうか。迷わず口を開けてから、カミヤは言葉を詰まらせた。 「僕は――」  カミヤは自問するように、視線を手元に落とす。  その姿を見て、俺は心底安堵した。  まだ、その矛盾に気付くことができる。  こうして言葉を交わすことに、意味はある。  カミヤは擬獣になるかも知れないと、ひのえは言った。カミヤの姿に、俺は擬獣を重ねていた。  だけど、カミヤはまだ、擬獣なんかではないんだ。  死んだら何もできない。そして同様に、何もしてやれない。  生きている者同士だからこその、関わりを持つことができるのだ。 「カミヤ」  ひのえと約束したんだ。後悔はしないと。 「お前は、生きたいと。そう願ったんじゃなかったのか」  だから俺は、言葉を尽くす。  踏み込むことが痛いから。いままでずっと飲み込んできた声を、俺はきっと生まれて初めて、絞り出すように口にする。  掴み取るために。必死の思いで手を伸ばす。 「僕はっ」  ナイフを握る両手を、カミヤは額に押し当てる。それは懇願するように、祈りを捧げるように。けれど、何かを糾弾するように。 「僕は、生きていたかった! みんなが当たり前にそうしているように、普通に生きていたかった! ただ、ただそれだけのことだったのに!」  それは何も、大それた夢じゃない。それこそ空を穿つような、海を分かつような、途方もない大望なんてことはない。生まれ落ちた命ならば、誰もが例外なく考えていることの筈だ。でもそのほとんどは、少なくともこの平和な国ならば、意識しなくても叶えてしまえる願いだから。中には、それを軽んじてしまう人間がいることは否めない。 「だから僕も願った。一体それの何が可笑しい? 何が、誰の迷惑になる? 何故みんなは許されて、僕は咎められなくてはならないの? 死ねだとか、要らないだとか、どうしてそんな酷いことを言うの?! なんで、なんでなんでなんで! なんでだよ! 僕がただ生きていたいと願うことの、どこがいけないって言うんだよッ!」  その叫びが、カミヤの起源であり、カミヤの全てだった。  例外なく抱かれる願いの中で、例外的に『それは叶わない』と宣告される人間は、実のところそう少なくはない。生まれつき障害を持つ子どもは一定の割合産まれるし、中にはカミヤのように、致命的な病気もある。ある日突然交通事故で命を落とす者もいれば、罪もなく通り魔に殺される人間だっている。未来の話をすれば、この国が何処かの国と戦争を始めないとも限らないし、そうなれば人命なんてものは簡単に費やされる。そもそもこの世界には未だ、飢餓や貧困で日々の暮らしすらままならない人間がごまんといる。カミヤは決して珍しい存在ではない。ただその中で、少しだけ運の悪い部類ではあったかも知れないというだけで。  だからこそ、生きたいという願いは尊いし、否定されるべきものではない。それは確かで、揺るぎようのない真実だ。 「――それが、間違いなんだよ、カミヤ」  その真実を踏まえた上で、俺はカミヤの願望を否定する。  成就を望まないのではなく。その願いそのものに、異を唱える。 「確かにお前は、生きていたいと願ったんだろう。生きてさえいればいいと、ずっと思い続けていたんだろう。そうしなければいられなかった。どうせ無理だと諦めながら、願い続けていたんだろう。何年も、何年もずっと。そうだ、お前が、二人に分かれるまでは」  視界の端で、死んだように動かないドッペルゲンガーを見る。それは、この僅かな期間、俺と行動を共にしたカミヤの記憶を呼び覚ます。 「少なくとも、お前のドッペルゲンガーは気付いていたはずだ。手にしてこそいなかったかも知れないけど、視界に捉えてはいた筈なんだ。だってドッペルゲンガー(カミヤ)は、確かに手を伸ばしていたんだから」  あんなに一生懸命だったじゃないか。  あんなに、頑張っていたじゃないか。  分かるよ、少しぐらい。すぐ側で見てたんだから。  お前は、俺とは違った。  手を伸ばしただけで傷付くということを知っても、それでも手を伸ばし続けていたじゃないか。  独りで。誰にも理解されずに。 「痛くてさ、苦しくてさあ」  腹立たしくて。憎らしくて。  そして泣きたくなったから。奥歯を噛み締めて、噛み砕いて、耐えた。 「ズタボロになってるところを、何も知らねぇ連中が横からぎゃあぎゃあ言ってきやがったから、ついやり返しちまったんだろうが。運良く恵まれて幸せに生きてきただけの奴らが、調子乗って上から目線でいやがるから、ぶちのめしてやりたくなったんだろうが」  だけど、と俺は否定する。強く強く、否定する。 「なんで分からないんだ。こんなことになるまで、なんで気付けなかったんだよ。ああクソ、ホントに――滑稽なんだよお前は! ただ生きていたいだけだ? そんなもん、とっくに叶ってるじゃないか! 界装具だか何だか知らないが、それがどうにかしてくれたんだろ! 産まれてからずっと、十何年も見続けてた夢だからって、叶ったことに気付かないまま願い続けるなんて、どこまで馬鹿なんだよお前!」  カミヤの顔が、ぼやけて見えない。  今突っ込んでこられたら、確実に避けられない。目隠しして歩いているような危機感の中で、それでも俺は止めたりしない。 「お前は、普通に、他人と同じように、当たり前に生きていたかったんだろ! 病院のベッドの上で、出来損ないの心臓を動かしているだけの、ただ生きているだけの、先の短い人生が嫌だったんだろ! それはもう終わった、もう叶ってるだろ! 叶えることができただろ! だから違うんだよ! 間違ってんだよ!」  ろくに精査もしないまま、思い浮かんだ言葉を並べていく。酷い有様だ。ミキの愉快げな表情が目に浮かぶようだ。ああ、アイツだったら、もっと上手くえげつなく、カミヤを言いくるめられたのかも知れないな。  でも、だからって。ここにいたのが、俺ではなくミキなら良かったなんて、思わない。ノアールでも、ひのえでも、大五郎さんでも、駄目だ。  ここには、俺がいなくちゃならなかった。 「そこらに売ってる旨そうな食い物をさ、料理の上手い誰かの作ったご馳走をさ、ぶっ倒れるくらい腹一杯、食ってみたいとは思わなかったのか」  大五郎さんに奢ってもらった飯は旨かっただろ? 桜さんの作ってくれた料理は最高だっただろ? 「花火大会、興味あったんだろ。でかい打ち上げ花火を、間近で観てみたいって思わなかったのか」  花火大会、もうすぐあるんだよな。お前は、行きたいんじゃなかったのか? 「甲子園、球場へ行って直に観たくはなかったのか。気が狂ったみたいに野球ばっかやってる高校球児どもへ、自分の声援を届けたくはなかったのか」  病院のベッドから見える小さなテレビに映される甲子園の中継を、どんな気持ちで観ていたんだ? 「お前自身が、野球することだってできただろうが。バット振って、ボール追い掛けて。そういうのに憧れながら、眺めていたんじゃないのか」  誰もが例外なく、生きていたいと願っている。そのことを忘れてしまいがちなのは、それが当たり前すぎるからという理由だけじゃなくて。生きて、やりたいことが、他にもいっぱいあるからだ。それはカミヤ――お前だって、同じ筈だろう。やりたいことがありすぎて、抱えきれずに溢れかえって。結局、集約された形が『生きたい』という願いだっただけだろう。 「間違えるなよ。お前は生きて、その上で、そういうことがしたかったんだろう。やりたいことが、したいことが、たくさんあった筈だろう。お前が必死で求めてたのはそれだろう。今更誰かに――俺に! 死ねだの殺すだの、言われたからなんだよ! そんな言葉に従って、お前が死んでやる必要なんかどこにもない。外野の言うことなんか笑って流せよ。そんなの一々反応してやるだけ時間の無駄だ。そんな暇お前にはないんだよ。十五年、ずっと我慢してきたんじゃないか。だったらやれよ! 好きなこと! やりたかったこと全部! やってから死ねよぉッ!」  馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎。てめぇの夢を、てめぇで台無しにしやがって。お陰で、俺までとばっちり喰らったじゃねぇか。  許さない。絶対に許さない。一生恨んでやるからな。俺は一生、お前のことを―― 「ッ――!」  気が付いたら、懐に駆け込んできた何かが、思い切り身体にぶつかってきていた。その衝撃に弾かれそうになるのを、一歩退いて、何とか堪えた。 「せん、ぱい――」  駆け込んできたのは、やっぱりカミヤだった。密着した体勢からすぐに離れ、ふらふらと、ゆっくり後退していくカミヤは、虚ろな目で俺を見て。  泣いていた。  ぽろぽろと、雨にでも打たれているかのように。 「あ、つ……」  腹の辺りが、途轍もなく熱かった。それに隠れて、痺れるような痛みも感じた。  手をやってみたら、そこには、カミヤの手に握られていたはずの、ナイフが、刺さっていた。  埃でも吸い込んだように、急に咳き込んで。口を押さえた手の平が、赤く染まっているのを見て。  ああ、なんだ。刺されたのか、俺。  道理で痛いわけだ。 「は――」  じゃあ、そろそろ……潮時だな。 「気は済んだかよ、カミヤ」  ナイフを抜くと、ずるりと内蔵を撫でられるような感触が気持ち悪くて、また咳が出た。血だか唾だか、よく分からないものが飛んだ。 「せん、せんぱい……ごめ、ごめんなさ……」  ナイフを後ろに放り投げる。手足は、なんとか動く。よくもまあ、腹なんか刺されて、まだ普通に立っていられるもんだ。むしろさっき殴った手の方が、痛みは強いような気さえする。脳内麻酔でも出てるのか、感情任せはこれだから危ない。  でも、まあ。これはこれで、悪くないか。 「ぼく、生きて……生きて、いたいん、です。だから、だか、ら……」  ごめんなさい、とか。  勝手なこと言うなよ、どいつもこいつも。  それなら俺も、勝手にしてやる。  溜息を吐く。一瞬、ぐらりと、頭が回転したような感覚に陥る。  唇を噛んでやり過ごす。まだ、寝落ちするには早いんだ。 「俺の夢はな、カミヤ」  ああ、まったく。他人の夢なんて、青臭くて気恥ずかしくて。愚痴以上に、聞くに堪えないだろうに。  悪いのはお前だぞ、カミヤ。お前がいつまでも駄々こねてやがるから、俺がこんな話をする羽目になったんだ。  そう、俺の夢は。  カミヤと、ひのえと。大五郎さんと、桜さん。  みんなに重ねて見ていた、俺の夢は。  俺が、欲しかったものは。 「家族」 「え――」  カミヤが、唖然として口を開く。 「家族。そう、家族だ。俺はそれが作りたかった。温かい、家庭。大切な人がいて。母親がいて父親がいて子どもが、まあ何人かいて。誰も彼も気の置けない相手で、距離感がどうとか最良の選択がどうとか、そんな損得、考えなくてもいいような、本当に気の置けない和が欲しい。それだけだ。それだけの夢だ。そんな夢をいつだって夢想してる俺は――」  身体が、痛い。  それは、刺されたよりももっと上の。  刃物で刺されたのよりもっと、ずっと痛い、それは。 「――母親を殺した」  誰にも問われなくたって。誰にも責められなくたって。それでも刻まれる、罪はある。 「自分で断ち切ったものをさ、俺は今になって欲しがってるんだぜ。そんな当たり前のものを、どうして与えてくれなかったんだと、他人事のように喚いているんだぜ」  遠くから見える家族の気配が眩しかった。  いつか自分もあの中に。そう思って、思い続けて。でも同時に、諦めてもいた。  狂ってるだろう。馬鹿げてるだろう。本当に、笑い話にもならないだろう。 『ねえ、チリ君。最後に一つ、教えてくれないか』  一度、名無しの黒鎌を消し、再び右手に戻して掴む。  その重厚な鉛のような塊を持って、実感する。 『君は何かの存在を許せなくなった時、……消えて欲しいと願うモノを見つけた時。どんな行動を起こす?』  俺もまた、ほんの少しの掛け違いで、神谷 満に成り得たのだろうと。 「それでも、俺は――」  俺たちは、異常者だ。  言い逃れのできないあぶれ者だ。  でも、生きていていい。  誰に笑われようが、蔑まれようが。貶されようが、否定されようが。  それでも俺は、ちゃんとここに生きてるぞ。 「自分の過ちが認められないか。それならそのままでいい。罪を知られて、償いを求められるか。それも仕方ない。けどそれでも、生きていたって構わないだろうさ」  俺は俺で。お前はお前だろう。  誰が何を言おうが、関係ない。  自分の在り方くらい、自分で決めろよ。 「生きることに条件なんか要らねぇよ。何か満たしていなきゃ、価値がなくちゃ、誰かに許されなきゃ、生きてちゃいけないなんてこと、そんなのあるはずない。俺もお前も、ここにいるんだから。だから、生きていていいんだよ」  生きていていい。  死ぬ必要なんてどこにもない。  生きていて欲しい。  生きていて、欲しかった。 「お前は、……生きてて、良かったんだよ、カミヤ」  俺が言い終わるのと同時に、カミヤは崩れ落ちた。  相変わらず涙を流して。信じられないようなものを見ているような顔で。そこにもう、殺意は見られない。だけど決して、諦めて全てを投げ出したような、捨て鉢な態度ではない。 「……先輩」  カミヤは静かに、俺を呼んだ。 「先輩、僕は」  その頬を、新しい涙が伝う。  それはきっと、悪い夢から覚めたように。 「僕を、否定して欲しくなかったんです」 「ああ」 「僕を、仲間に入れて欲しかったんです」 「ああ」 「僕を、好きになって欲しかったんです」 「……ああ」  ――ずっとずっと、願い続けてきたことだから。  例え死んでいなくとも、寝たきりで、何もできないような人生なんて、意味がない。そう思いながらも、カミヤが生きていたのは。生を諦めなかったのは。  もしかしたら。この願いは叶うのではないか。  そんな期待が、心のどこかにあったからではないか。  生きてさえいれば、可能性はある。どん底から、何度だってやり直せる。  それを誰よりも知っていたカミヤだから。  ちゃんと気付くべきだったんだ。  それは、カミヤが殺し、殺そうとした人たちもまた、同じだったということを。 「カミヤ」  カミヤが今、何を思っているのか――後悔しているのか、悲観しているのか、それは分からないけれど。少なくとも俺は、カミヤの中の何かを、変えることができたと思う。  そう、思いたい。 『神谷 満』  名無しの黒鎌を振りかざす。  刃の理は反転し、両手を起点に全身へと接続し。これまでよりも遥かに深く繋がった感覚に、意識を奪い取られそうになりながら。 「さよならだ――カミヤ」  あらゆる音も、あらゆる心も、一つに束ねて。  名を狩る名無しの黒鎌は、カミヤを斬り殺した。 後―1  路地裏の薄汚れた地面にばらまかれた吐瀉物が、視界を埋め尽くしていた。  ほぼ二日間、何も口にしていなかったから、ほとんどは胃液だろう。微妙に血が混じっているのが見えたが、よく分からない。どうにも頭が回らない。  なんだ? 血? 胃液? なんでそんなものが。これは俺が吐いたのか? それよりも、そうだ、カミヤは? さっきまで、目の前に、いたはずなのに―― 「――ッ」  訳も分からないまま嘔吐(えず)く。口の中に嫌な苦みが逆流してくる。  目の前にあるものが――いや、目の前にないものが、あまりに醜悪だったから。  カミヤは、いない。  カミヤがいた形跡が、ない。  あの顔も、目も、鼻も、口も、首も、髪も、胴も、腕も、脚も、血も肉も骨も、何もない、どこにもない。煙になって何処かへ消えてしまったかのように、消えてなくなっていた。  それは。 「――俺が」  俺が、この手で。 「俺が、カミヤを、殺した」  心臓の鼓動が、いやに強く響く。  不定形の化け物が、耳元まで忍び寄って、囁くように。  殺した。  殺した。  殺した。  ころした―― 「――違う」  仕方、なかったじゃないか(何が?)。  放っておいても、カミヤは、モウゾウに殺されていたんだ(本当に?)。  そしたら、カミヤは擬獣になって、また人殺しをしていた(何の根拠があって?)。  俺なら、それを阻止することができたから(できたのか?)。  名無しの黒鎌は、殺すんじゃなくて、浄化するだけだから(何が違う?)。  俺の言葉は、カミヤの何かを変えることができたはずだから(だから?)。 「俺は――」  身体から、血の気が引いていくのが分かった。急速に冷え込んで、力が抜けて、悪寒が頭を埋め尽くしていく。  事実は、事実。真実は、たった一つ。  俺は、人間(カミヤ)を、殺したんだ。 「あ、あ、あ、あ――!」  違う――違う、違う、違う! 「仕方なかった、仕方なかったじゃないか! そうするかなかった、俺にはそうすることしかできなかったんだ! やめろ、俺じゃない、俺じゃない! 誰かが――そうだ、ミキが! 全部アイツが仕組んだことで、だから、だから!」  衝動的に吐き出した言葉に愕然とする。頭を振って、なんとか冷静さを取り戻そうとする。  今更、誰かの所為になんかしていい訳がない。俺は何のためにここへ来たのか。何のために、カミヤと対峙したのか。忘れてはならない。自分の感情を守るということと、感情に流されるということは、きっと違うはずだから。 「――くそ」  なんて醜態。なんて、無様。結局俺に、人殺しをする覚悟なんか、全然できていなかったってことか。――いや。そんなの、当たり前のことだ。そんな覚悟、まともな人間にできるわけがないんだ。例えそれが犯罪でなかったとしても、人を殺すなんてこと、平然とできる訳がないんだ。  だから、俺は。 「……ああ」  だから俺は。カミヤを殺したという現実を、一生背負って生きていくのだ。 「……そうだ、俺は」  俺は、絶対に忘れない。  何年、何十年経っても。  誰と出会い、誰と別れ、何を思い、何を願っても。  カミヤという人間を、ずっとずっと覚えている。 「う、ぁ……」  背後から誰かの声がして、反射的に振り返る。比喩ではなく跳び上がり、危うく吐瀉物の池に踏み込みそうになった。  カミヤが消えた今、この狭い路地には、俺以外に、誰もいないと思っていた。  思っていたから。 「あ、――え?」  そこにいた人物を見て、訳が分からなくなった。  一瞬で、色々な可能性を思い浮かべて、それらは露のように消えていった。  何が起きたのか、何が起きているのか。まるで異世界にでも迷い込んだような心地で。しかし間もなく、たった一つの現実だけを直視する。  夢や幻ではない。  気が触れてしまったのではないかと、本気で自分を疑った。  だって、そこには。  夏臥美町で、最初に見たときと変わらない姿の、ドッペルゲンガー――カミヤが、眠っていたのだから。 後―2 「一先ずは、ありがとうございましたと、言っておくべきなのでしょうか」  病室に入るなり、相変わらずの無表情でひのえは言った。またワンピース姿だが、今度は水色で、ウェストマークの革紐が緩く巻かれていた。手に持っているいつもの帽子は、ここに来るまで被っていたのだろう。  ベッドから上体を起こして出迎えると、ひのえは「お構いなく」と形式的に返してきた。 「……桜さんたちは?」 「遅めの朝食に。お二人には、後でちゃんとお礼を言ってくださいね。気を遣ってくれた大五郎さんにも、引っぱたいてくれた桜さんにも」  そう言われて、右頬の痛みが甦ってきた。ノアールに殴られた左頬もまだ腫れは引いていないが、右頬も負けじと赤く膨れて、まるでおたふく風邪にでも罹ったかのような有様だ。さっき鏡を見てかなりのショックを受けた。 「仮にも怪我人にやることじゃない……」 「これも言っておきますが、私も同情などしていませんから。今思えば昨夜、私は貴方を、殴り倒してでも止めるべきだったんです。貴方の顔を見るなり詰め寄った、桜さんの姿を見て思い知らされました。それ以前に桜さんは、私だって叩(はた)いてもよかったんです」  怒られはしましたけどね、とひのえはそっぽを向いた。その様子からはよく分からないが、ひのえも相当に絞られたのかも知れない。  カミヤとのいざこざが終わったあと。俺は大荷物を背負いながらも、自力で双町の西病院まで辿り着いた。荷物を下ろしたらさっさと退散するつもりだったのだが、服に滲んだ血に気付かれ、腹部の刺し傷に気付かれ、敢えなく治療室に連行されてしまった。  診察の結果、怪我自体は大したことがなかった。というより、傷はほとんど塞がっていたという話だ。吐血した時点で間違いなく重傷だったはずだが、痛みもさほどなかったし、さして気にもならなかった。  むしろ、怪我の原因をしつこく追求されたことの方が困りものだった。しかも途中から、明らかに医療関係者ではないおじさんたちまで出てきたのだから堪ったものではない。考えてみれば、病院に駆け込んだのは失敗だった。双町には今、凶悪な殺人犯が徘徊していることになっているのだから。無能な政治家ばりに『記憶にありません』を連呼し続けるのも、存外疲れるものである。間一髪でひのえが手を回してくれなかったら、人生初のパトカー乗車を体験するところだっただろう。  ようやく解放されたのが午前七時。同時に到着した大五郎さんたちが病室を訪れ。そして涙目になった桜さんに一発貰ったというのが、事の顛末である。 「まあ、怒られるだろうとは思ってたよ。殴られもするだろうとも。ただ、桜さんにっていうのが予想外だっただけで」 「そうですね。桜さんがやらなければ、私か大五郎さんのどちらかがやっていました」 「揃いも揃って怪我人を殴りたがってんじゃねぇよ」  酷い連中である。  だが、そう考えれば、一番肉体的なダメージの少ないだろう桜さんに殴られたのは幸いだったかも知れない。刺されたり殴られたり刺されたり殴られたり、いい加減身体が悲鳴を上げていたところだったんだ。生傷を拵えた腹にひのえのもう一発を喰らうのは勘弁だったし、熊になど襲われようものならひとたまりもない。  ただ、精神的な被害を一番与えてきたのは、間違いなく桜さんだっただろう。  思い切り頬をぶたれて。軽快な音がして。  そして痛いくらい、頭を抱き締められた。  心が、砕けるようだった。 「あの人たちは優しすぎます。本当なら、そもそも関わるべきではなかった」  壁際にあった安っぽいストゥールをベッド脇に置くと、ひのえはそこに腰掛けた。脚をぴったりと揃え、無駄に品のある座り方だった。 「そう言えば、最初から嫌そうだったからな、お前。ミキに言われて渋々って感じだった」 「人聞きの悪い言い方をしないで下さい。あまりに友好的すぎて、少し苦手だというだけです。何も支障はありません」  そう言って、ひのえは口を尖らせた。  そんなひのえを俺は、最初の頃は『生意気だな』とか『可愛くないな』と思って見ていたが。何故だろう、今はそこまで悪い印象を抱かない。なんと言うか、仕方ない奴だな、くらいにしか思わなくなっているから不思議である。 「何か失礼なことを考えていませんか?」 「別に」  疑念の眼差しを向けられるのも、少しの間だけ。ひのえは視線を落とすと、それきり黙ってしまった。物思いに耽るような顔をして、膝の上に置いた帽子を弄んでいる。  見上げると、壁時刻は十時を指し示していた。頬の処置(看護婦さんが淡々とやってくれた)が終わったあと、少し眠っていたようだ。頭が重く感じる。その不調は、不規則な睡眠だけが理由というわけではなかっただろう。  記憶を一つ一つ確かめて。  夢と現実の区別をはっきり付けて。  ひのえに、一番聞きたかったことを問い掛ける。 「カミヤ、は?」  ひのえは緩慢な挙動で俺と視線を合わせる。僅かに目を細め、俺をじっと見つめてから、 「先ほど、意識を取り戻しました」  幾分か低い声で、そう答えた。  そうだ。錯覚でも、思い違いでもない。  カミヤは――いや。  カミヤのドッペルゲンガーは、生存したのだ。  俺はあのとき、意識のないドッペルゲンガーを、病院まで運び込んだんだ。 「外傷はありませんでした。脳波にも異常はなし。やや深く、眠っていただけのようだったそうです」  ただ、とひのえは付け加える。  直前の言葉に複雑な喜びを抱いていた俺は、注意深くその先を待った。 「記憶に混乱が見られました」 「記憶?」 「私が誰だか、神谷さんには分からなかったのです」  ぞわり、と総毛立ったのが分かった。  記憶が、ない。  記憶喪失?  そんな、ほとんどオカルトみたいな現象が。今ここで、それもカミヤに、起こっている。  一瞬だけ、唐突に視界が遮られたような感覚に陥った。 「彼には、ここ最近の記憶――正確に言えば、今年の四月頃から先の記憶が無かったそうです。直接話してみて確認できたのは、病が回復した記憶と、そこからしばらく自宅療養していた記憶は持っていたということ。界装具やドッペルゲンガーについては、どう聞いても首を傾げるばかりで。当然、彼が起こした殺人についても、何も覚えていない様子でした」 「…………」  言葉が、出ない。  それは、その程度で済んで良かったと、喜ぶべきなのだろうか?  記憶は、その人間そのものと言っていい。膨大な記憶の積み重ねの上に人格が形成され、そしてその人間の未来を決めるのだ、良くも悪くも。  それでも、無くしてしまった方がいいと思う記憶は、ある。記憶は、同じ過ちを犯さないための薬であると同時に、過去の痛みを幾度となくフラッシュバックさせる毒でもあるのだから。  だったら、俺は。この結末を、喜べるのか? 「問診を受け持った医師に、彼は頻りに聞いていたそうです。とても不安そうに、心細そうに。『僕は、また悪くなってしまったんですか?』と。検査の結果、何ら問題がなかったことを伝えても、何度も、何度も」  突然病院で目を覚ませば、しかも数ヶ月もの間の記憶がないとなれば、そう考えるのも仕方がないだろう。だけど、記憶はともかく、身体の方には異常がないんだ。俺と共に双町を奔走したカミヤそのままに。健康で、何の力もない、普通の子どもになったんだ。  それが、ドッペルゲンガーであるということさえ、知らなければ。 「なんで、そんなことになったんだ?」 「それを知りたいのは私の方です。貴方が手を下したから、ああなったのではないのですか?」  俺が、カミヤの本体を殺したから。  名無しの黒鎌で、名を狩ったから。 「未だ、モウゾウが攻撃を仕掛けた様子はありません。発動から既に三十時間以上が経過したことを考えると、標的であった神谷 満の死を確認し、私の下に戻ったのでしょう。そう、私を襲った神谷 満が死んだのは間違いない。ならば、神谷 満を殺したのは……」  ひのえは言い淀んだ。でも、そんな気遣いはもう要らない。まだ充分とは言えないのかも知れないが、曲がりなりに覚悟は持っている。その重責は、俺のものだ。 「彼の遺体は?」 「多分、どこにもない」  カミヤの本体は、消えた。  薙いだ黒鎌の刃が、カミヤの身体を通過したのを覚えている。目測を誤ったのかと思うくらいすんなりと、でも、確かな手応えがあった。そして、目の前のカミヤは消えたのだ。霧となって、名無しの黒鎌に吸い込まれるかのように。 「界装具は、持ち主が死んだ場合はどうなるんだ?」 「通常は消滅します。同時に、その効力も失われます。ですが、絶対ではありません」 「……だよな」  カミヤの本体が死ねば、ドッペルゲンガーも消えて無くなると、何となく思い込んでいたけれど。必ずしもそうとは限らない。その辺の話は、ひのえとはくどいほど繰り返した。  更に言えば、ドッペルゲンガーが生存している現状が、カミヤの界装具の力なのかも分からない。名無しの黒鎌が、何らかの影響を及ぼした可能性もある。  仮説だけなら幾らでも立てられる。なんてったって何でもありなんだから。だけど、本当のところは分からずじまいだ。誰も知らないし、調べようもない。もしかすればミキならば、正答を知っているのかも知れないが。 「殺人犯である神谷 満のドッペルゲンガーを排除したのは、私です」 「――は?」  ひのえが何を言っているのか、唐突すぎて理解できなかった。 「界装具も、ドッペルゲンガーと共に消滅を確認。本物の神谷さんは、ドッペルゲンガーを失った影響と目される記憶障害を起こしつつも、無事に故郷へと戻った。これ以上、機関の監視の必要性もなし。これから彼は、界装具とも擬獣とも関わらない、ごく普通の生活に戻ることでしょう」  何を滅茶苦茶なことを言っているのかと思った。だが、締め括りを聞いてやっと、ひのえの言わんとしていることが飲み込めた。 「そういうことにしておこう、って話か」  はい、とひのえは澄ました顔で頷いた。 「殺人を犯したのはドッペルゲンガー。本物の神谷 満は何も知らなかった。機関はそのような認識でいます。それを敢えて正す必要はないでしょう。私たちと機関の間に軋轢を生みかねませんし。何より、神谷さんが機関からなおも危険視される可能性を残すのは、嫌ですから」  嫌だと。ひのえははっきりとそう言った。それは即ち、これがミキや誰かの指示などではなく、ひのえ自身が下した決断であるということに他ならない。 「それで、向こうは納得するのか? 俺が言うのも何だけど、少し考えれば、その認識に違和感を覚える奴は出てくるだろう。事実と違う報告をして大丈夫なのか?」 「もちろん、それが明るみに出れば問題です。しかし、私たちは機関の指示に従って行動し、機関の要望通りに事件を解決させた。そう報告して、文句を言われる筋合いはありません。そもそもに、最初に誤ったのは機関なのです。真実が正しく認識されて、責を問われるべきはむしろ彼らの方です」  それは屁理屈だろう。そう言い返すと、ひのえはあっさりと「そうですね」と答えた。 「ですが十中八九、機関はその報告を鵜呑みにするでしょう」 「どうしてだ」 「鵜呑みにせざるを得ないのです。何故なら――これは私の推論ですが。彼らは最初から、認識が間違っていると分かった上で、お姉さまにこの事件を依頼したのですから」 「……それは」  夏臥美町へと送り込んだカミヤがドッペルゲンガーであることを、そして殺人者と共犯であることを、正しく認識した上で機関は依頼してきた。ひのえはそう言っている。  もしその話が本当だとするなら、それは明確な害意だ。害意を持って、ミキにこの事件を持ち掛けた。要するに、嘘の情報を渡してきたということになる。何のために? 何の得があって? それは――妹であるひのえが、身を以て体験したことだ。 「また、三鬼家がどうとか、八剣がどうとかの問題か」 「ええ。私たちは、機関に所属してはいますが。かと言って必ずしも、機関が私たちの味方をしてくれるとは限らないのです」  特に何かの感慨を表情に浮かべることもなく、ひのえは何でもないことのように続ける。 「確かに機関は、互助組織として大きな役割を担ってきました。しかしその成立から、権力争いの絶えない暗い歴史を持っています。今回の件など、結局のところその一端でしかないのです」  暗い歴史。八剣は、かつて組み伏せた三鬼を目の敵にしているのだろうし、三鬼の方も、そのことを忘れてはいない。機関として、表向き協力関係を結んではいても。水面下では、決して穏やかではない小競り合いが絶えなかったのだろう。 「恐らくはお姉さまも、そのことは織り込み済みだったのでしょう」 「ああ。それは、そうだろうな」  気分の悪い話だ。電話でミキは、相変わらずの白々しさで『彼らがそこまで愚かだとは思えないが』なんて言っていたが、それ以前に『そう考えていた方が仲良くできる』とか言っていたんだ。ミキの真意は分からないが、アイツも機関との間で、何かしらの駆け引きをしていることは間違いない。  あまり踏み込みたくない領域だ。口にすればひのえには怒られそうだが、俺からしたら内輪揉めに巻き込まれたに等しい。  いや、巻き込まれたと言うならば、それはひのえも、そしてミキも、同じことか。一族の利権を守るために戦った結果、子孫にまで余分な厄介事を背負わせる。本末転倒とはこういうものだ。 「その件については、いいのです。最早、真実を確かめる術は残されていませんし。機関にしても、今の姿が最良だとは思いませんが、ここで私たちがどうにかできるほど簡単な問題ではないのですから」  ひのえは、らしくもなく小さく溜息を吐いて言った。  ひのえにとっては業腹だろうが、それは仕方のないことだ。相手は組織であり、その歴史なのだろう。そういったものはいつの時代も、革命という大事件によって崩されてきた。一個人が簡単に塗り替えられる規模じゃない。切っ掛けは小さなものでも、事を成すためには、たくさんの人の積み重ねてきた時間と感情、そして行動が必要だ。盛者必衰がお家芸の国をよく見習えばいい。大きな花火を上げるなら、まず火薬庫を充実させなくてはならない――どんな手を使ってでも。 「それより、貴方は良いのですか?」 「俺?」 「今回の手柄を、私が横取りする形となってしまいますが」 「あー」  俺はすぐさま「いい、いい」と首を振った。 「手柄とか、評価とか。心の底からどうでもいい。どうせ報酬は増えないんだろうし、機関とやらで出世する気も毛頭ないんだ。意味がない。大体、擬獣専門ってことになってる俺が、お前より目立ったらそれこそ拙いだろ」 「それは、確かにそうですが」  ひのえが歯切れ悪くなるのも無理はない。ひのえが、自分が負けたことを自分の責任だと信じているのもあるし。そして、機関がミキに嘘を吐いたように。俺の能力について 、ミキも機関に嘘を吐いたことも、今では明白なのだから。いや、実績はなかったとか、誰も知らなかったとか、或いはこれでおあいこだとか、言い逃れの余地を残している辺り、腹黒いミキらしいと言えるが。とにかく慎重を期さなければ、どこかで綻びが生まれてしまう。  それに俺は、これ以上悪目立ちするのは御免だ。本心を言えば金輪際、機関だの擬獣だのなんて意味不明な連中には関わりたくないんだ。功績? 名誉? 要るかそんなもん。勲章でもくれるっていうのか? 有り難く頂戴したその足で、俺は迷わず換金屋に駆け込むだろう。  だから。そんなものはどうでも良くて。 「俺が気掛かりなのは、死んだ四人のこと」 「…………」  カミヤの記憶がなくなろうが、カミヤのやったことまで無かったことにはならない。殺された人間はどうなる? その遺族たちは何を恨めばいい? カミヤに、お前が殺したんだと正直に告げて、無理に謝罪でもさせるのか? 何故殺したのかさえ覚えていないカミヤを見て、誰がどう救われる? 「それに、カミヤも。また誰かに否定されたら。死ねと、言われたら。あいつは今回と同じように、そいつを殺すんじゃないのか」  その危険性はやはり、あるのではないか。今のカミヤは、あの恐ろしい殺意を忘れてしまったのかも知れない。でも、その気持ちを生み出したのは他でもない、カミヤが積み上げてきたこれまでの人生だ。その下地が残っている以上、再びカミヤが誰かを手に掛けないという保証はできない。  そして。  そして、何より。 「俺は、どうやって償えばいい」  カミヤのドッペルゲンガーが無事だとしても。記憶を失った程度で済んだのだと考えても。  それでも結局、俺がカミヤを殺したことに、変わりはないんだ。 「後悔、していますか? チリさん」  小さく潜められたその声には、俺を咎めるような意思は感じられなかった。それはどこか怯えているようで、失敗して叱られている子どものような、そんな印象を受けた。 「いいや」  後悔なんてしない。それがひのえとの約束だったし、例えそれがなくても変わらない。何度あの時を繰り返しても。俺は必ず、同じ選択をするだろうから。 「でも、ただ」  これで一件落着だなんて。言って済ませるには、あまりに救われない。最善を尽くして、後悔なく戦って、それで得られた結果がこんなものでしかなかったなんて。笑えない話だ。今からできることがあるのなら、今度こそ、何一つ取り零さない結末を掴みたいんだ。  そのためにできることなら何でもするから。だから誰か、頼むから。  俺に、正解を教えてくれ―― 「問えば、すぐに答えの出る問題ばかりではありません」  言いながら、ひのえはポケットから携帯電話を取り出した。そのまま開いて、何か操作をしている。 「ちゃんと話し合って探しましょう。その問題を解決したいと思っているのは、貴方だけではないのですから」 「話し合うって――」  ふいに、サイドテーブルに置いてあった俺のケータイが振動した。画面には、ひのえの名前。メール着信の通知だ。 「なに、これ」  新着メールを開くと、一行目から既視感を呼び寄せるインターネットアドレスが居座っていた。 「電子掲示板のアドレスです」 「なんかすげぇ見たくないんだけど」 「見てください。下の方にパスワードも書いてありますから」  言われてスクロールしてみると、確かに、ユーザIDとパスのような特に意味を持たない文字列が並んでいた。 「パスって。まさか有料じゃないだろうな。後からとんでもない額の請求が届くとか」 「掛かるのは通信料金だけです。個人所有のサーバ上にある掲示板なので、不特定多数の利用者が閲覧できないようにしてあるだけです」  かなり躊躇ったが、こちらを見つめているひのえの眉間に皺が寄りだしたので、観念してアクセスすることにした。  ログインして開くと、確かに掲示板のような外見をしていた。タイトルバーに『掲示板』と書いてあるから、まあ掲示板なんだろう。それ以外に派手な装飾も広告もない、極めて簡素な作りである。レスポンスも軽快だ。しかも、スレッドが一つも立っていない。まだ誰も利用していないのか。 「パソコンに詳しい知り合いのお兄さんにお願いしたら、一晩で作ってくれました」 「お前それ相当無理言ったからな」  流石にゼロから作ったわけではないだろうが、無茶振りもいいとこである。そのお兄さんが可哀想だ。というか誰だそれ。 「ユーザ一覧?」  最下部に、見慣れないリンクが張ってあった。この掲示板を利用できる人間の一覧が見られるのか。普通の掲示板にはない項目だ。  誰も使っていないようだから、俺一人の名前が載っているのだろうと思った。いや、もしかしたらひのえの名前くらいはあるかも知れない。ミキの名前があったらすぐに閉じよう。そんなことを考えながら、ページが読み込まれるのを待っていると、 「あ……」  その数行足らずの一覧に、目を奪われた。  ヒノエ。  クマセンセイ。  サクラ。  チリ君。  カミヤ。  その画面は、何故か。  あの夕食時に見た、夢の残滓を呼び起こさせた。 「これでパスワードは全員に行き渡りました。神谷さんと桜さんは端末を持っていなかったので、神谷さんには私の予備の携帯電話をお貸しして、桜さんは大五郎さんのパソコンを使ってもらうようお願いしました」  ひのえの言葉が、右から左へ流れていく。聞こえてはいるけれど、返事が全く浮かんでこない。今の自分の感情が、いまいちよく分からない。  みんな、夏休みの間、この一週間だけの、短い繋がりだと思っていた。カミヤのことがあって――いや、俺のことだからもしかしたら、それがなかったとしても。すぐに途切れてしまう、別れの決まった出会いなのだと思っていた。ならば本当は意味なんかないと、心の奥では目を伏せていた。また、諦めようとしていた。  それが、まさか。こんな形で残せるだなんて、どうして予想できただろうか。 「これは、ミキが?」 「いいえ、私の独断です。……まさか、チリさん? 私が、お姉さまの指示がなければ何もできない人間だとでも思われていたのですか?」  ごめん、ちょっと思ってた。だって、あまりに突拍子のない行動だったから。発案から実行までの思い切りが良すぎる。こんなの、思い付いたからってすぐ作らせるもんじゃないだろう。 「これでも、私だって考えているのです。昨日、治療が終わって目が覚めてから。私に何ができるのか。何をすべきなのか。今回の結果を受けて、私たちはそれぞれ、大なり小なり傷を負いました。その傷を癒やすためには、どうすればいいのか」 「…………」  それぞれが、傷を負った。俺だけではない。大五郎さんも桜さんも、勿論ひのえも。カミヤの記憶喪失だって、それも一つの傷の形だ。  だからこそ俺たちは、この問題を共有して、一緒に悩むことができる。誰かの傷が癒えたのならば、それを喜び合うことができる。  きっと、多くの時間が要る。でも各々の生活があるから、みんなで顔を合わせて話し合うなんて、そうそうできるものじゃない。  だけど、ネット上であれば。遠く離れていても、言葉のやり取りができる。思いを伝えることができる。それが、インターネットの利点の一つだ。この広い空の下にいるならば、地球の裏側とだって繋がることができるのだ。  カミヤの殺人の発端が、電子掲示板――インターネットだったことは動かしようがない。その事実が世間に認知されれば、ろくに事情を考えない外様が、有害だの規制しろだのと叫ぶかも知れない。利便性が上がり、利用者が増えれば増えるほど、問題は積み上がるばかりだろう。  でも、使い方さえ間違えなければ、幾らでも有効活用はできるのだ。それは将来、インターネットというものがどのように進化し、変わっていったとしても同じこと。人間が人間である以上、繋がろうとする痛みはそのままだし。独りで悩んでいても埒があかないし。すぐに八方塞がりだと思えてしまうから。使えるものは全部使わなきゃ、とても生きてなんていられない。  そうだ。俺たちはミキじゃないから。なんでもお見通しなんて訳にはいかないから。こういう道具を使い倒して、一歩一歩自分たちの脚で、地道に進んでいく必要があるんだ。 「カミヤにはなんて言って渡したんだよ。もう、どの名前にも覚えはないんだろ?」 「新しい話友達だと言ったら、割と嬉しそうにしていましたよ」  ああ、なるほど。カミヤならそれで難なく釣れるのか。考えてみれば道理だ。恐らく、カミヤが件の学校裏サイトを訪れたのも、そういう目的があったからに違いないのだから。  カミヤとは、ちゃんと話をしたいと思っていた。もしも過去、カミヤが道を踏み外したとき、身近に誰か、カミヤを止められる人間がいたなら――。記憶を失う前に、あいつがしでかした間違いを、二度と繰り返して欲しくなかったから。  だけど正直、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。俺はカミヤを殺したんだ。生き残った今のカミヤに、記憶喪失以外の影響が出ないとも限らないし。少なくとも俺には、昨日までと同じように接するのは難しいだろうと、そう思っていた。  でも、だから。顔を合わせずに話ができるなら、それは都合のいい話だ。  人間関係としては、真っ当なものとは言えない。いつまでもそんなものを続けてはいられないから、見直さなくちゃいけない時も、きっと来るんだろうけど。  今は、今だけは。そういう緩衝に甘えていたい。 「上手くいくのかねぇ、これ」  上手くいって欲しいとは思うが、まあ。やってみないと分からないことはある。一ヶ月くらい運営して、早くも閑古鳥が鳴き始める掲示板なんて掃いて捨てるほどあるのだ。ちゃんと話ができたらいい。でも、独り善がりではすぐに保たなくなる。どんなに些末なものであれ、これが人と人のコミュニケーションであることに変わりはないのだから。 「チリさんのノルマは一日につき返信三回ですから。頑張ってくださいね」 「なんでノルマとかあんだよ。達成できなかったらどうなるんだよ」 「お姉さまに通知が行きます」 「それだけはやめて」  後生だから。 「っていうか、なんで俺のハンドルネームがチリ君になってんだよ。ホントもう大概にしろ」 「チリだけでは塵みたいで不快に思われるのではないかと」 「そういうことを言ってんじゃない」 「さんを付けろよという話ですか?」 「違ぇよ」  不安だ。ミキよりはマシだと思ったが、ひのえプロデュースのシステムも充分油断ならない。ケータイの個人情報がいつの間にか抜かれていたりとか、勝手にカメラが起動して撮影された写真がばらまかれるとか。何が起きても不思議ではない。 「お」  恐る恐るマイページを見てみると、設定項目の中にハンドルネームの変更欄があった。特に制限なく使えるようだ。ありがとう知らないお兄さん。ひのえ残念でした。さっさと変えてしまおう。  新しい名前を考えていると、ひのえが「ああ」と何か思い出したように声を漏らした。 「言い忘れていましたが。貴方も神谷さんも 、午後には退院ですから、支度しておいてください」 「そうか」  そういうことなら別に構わない。いい加減空腹が堪えられなくなってきた頃だ。早いとこなんか食わんと餓死してしまう。午後と言わず、すぐにでも外へ出たいところだ。 「神谷さんにはそのまま、電車で自宅へ戻っていただく予定です。親許へ帰した方が本人も安心できるだろうという、お医者様のご判断です」 「――そ」 「私は見送りに駅まで付き添いますが。貴方はどうしますか」  いや、と首を振る。初対面同然の相手に見送られたところで、カミヤも困るだけだろう。俺だって、何を言えばいいか分からない。最悪、カミヤの顔を見たら、泣いたり嘔吐したりするかも知れない。それはちょっと、というかかなり、気が引ける。 「それより、言伝頼む」 「ええ、いいですけど」  ご自分で言いに行けばいいのに、とぼやきながらも、ひのえは快諾してくれた。 「バットとボール、あとグローブな。買っとけって伝えて」 「はあ。野球道具ですか? なんでまた」  怪訝そうにひのえが首を傾げる。この話、ひのえは聞いてないんだったか。まあ、分からなくてもいいさ。  誰かが何かを言い聞かせるよりも。カミヤ本人が、自分の本当にやりたいことをに気付けた方が。きっと、カミヤを生かすことに繋がるだろう。  それは、俺には教えてやれないものだ。やりたいことも、したいことも。俺には何もないのだから。そんな俺があいつに会ったら、良くない影響を与えかねない。  俺のことなんか見なくていい。あいつはあいつのままでいい。あいつなら、ちゃんと分かってるから。手を伸ばすことの大切さも、それに伴う痛みも、それを耐え忍ぶ諦めの悪さだって。全部まとめて、今度こそ。正しくやり直すことができるはずなんだ。  悪い夢は、とっくに覚めているのだから。  ――そうだろ、カミヤ。 後―3 「暑い……」  半分くらいを人が埋め尽くす駅のホームでは、涼もうにも日影は既に独占されていた。  時刻は十三時を回ったところだろうか。太陽が焼け付くように暑い、むしろ熱い。病院を出て実感したけれど、本当にもう夏になっているようだ。穏やかに過ごしやすかった春日が、昨日のように思い出される……というか、本当に昨日のこととしか思えない。昨日は、そう。家の近くの公園へ脚を伸ばして、そこで出会った白い髪の人と談笑をしたんだ。詳しくは思い出せないけれど、僕のことを知っていたようで、色々と励ましてくれたのを覚えている。――あれ、白い髪? 最近は、髪を白く染めるのが流行なんだろうか。  それから今日までの、決して短くない間の、記憶が抜けてしまっていると。知らないお医者さんに言われたときは、まったく実感が湧かなかった。寝ている間にタイムマシンにでも乗せられたような気分だ。まあ、気が付いたら大人になって子どもまで出来ていたなんていう、どこかの小説のような突拍子もないことになっていなくて良かったけれど。  それでも何か、胸にぽっかり穴が開いたような、変な心地悪さがあった。  それはきっと、記憶を失った所為なのだとは思ったけれど。何故だか、それだけではないような気もしていたのだ。 「……僕は」  僕は何のために、ここへ来たのだろうか。  あの不思議な、白い髪の女の子――ひのえさんと言っただろうか。なんだか優しくて、色々と気を遣ってくれているようだった、歳が近そうな割に落ち着いた感じの子。夏らしいワンピースがとても似合う、お世辞抜きに可愛い子。あの子なら、何か知っていそうな感じだったけれど、あまり教えてはもらえなかった。知らないうちに、失礼なことをしていなければいいんだけど。  駅の外の道路が少しだけ見える。そちらへ視線を移すと、鍔の広い帽子を被ったひのえさんが静かに佇み、こちらを見ていた。ひのえさんも日影には入れていない。暑いのは平気だと言っていたけれど、あまり無理はして欲しくないものだ。身体が細くて、色が白くて。ちょっと丈夫そうには見えなかったから。  アナウンスが鳴る。電車はもうじき到着する。何度か乗り換えをして、この双町という場所から、僕の故郷へと向かうのだ。  前もって、お父さんとお母さんに連絡をしておきたかったけれど、それはひのえさんに止められた。故郷でひのえさんの知り合いが待っているから、その人を交えて話をして欲しいということだった。よく分からないけれど、そうお願いされたのなら、別に背く理由もない。とにかく、便宜を図ってくれるというのなら願ったりだ。記憶喪失だなんて、また二人を心配させてしまいそうだから、なるべく明るく振る舞わないと。僕は大丈夫だから。ちゃんと元気だから。これから先も、普通の子どものように、ちゃんと生活できるから。それを、ちゃんと伝えてあげないと。  あと、そう。ひのえさんに言われたことだけれど。バットとボールと、それからグローブを買ってもらおう。幾らするのか知らないけれど、誕生日やクリスマスになら、多分いいよって言ってもらえると思う。  どうして、ひのえさんはそんなことを言ったんだろう。記憶を失ったときに、僕が話したんだろうか。言われて思い出したけれど、確かに僕は、野球をやってみたいと思っていたんだ。ずっとテレビで試合を見ていた。高校生が一生懸命やっている野球を、いつか自分でもやってみたいと。ずっと、ずっと憧れていたんだ。  でも、急に病気が治って、色々とばたばたしていて。折角身体が自由になれたのに、そういうところに、全然手が出せていなかった。まあ、退院直後じゃあ、大事を取るように、と反対されたかも知れないけれど。  そうだ。これからはそうやって、やりたかったことを沢山やるんだ。やりたくてもできなかったことを、たくさん、たくさん。好きなように生きて、ちゃんと大人になって。やりたいことだって、これからどんどん増えていくだろう。それを、できる限りやっていきたい。もう、見ているだけしかできないなんて、そんなことはないんだから。  ――どうせいつかは死ぬんだとしても。僕は必ず、やりたいこと全部、やってから死ぬんだ。  電車がホームに入ってくる。列に並んで、電車の中に踏み入れる。冷房の風で身体が震える。席は疎らに空いていたけれど、乗り入れる人が多くて座り損ねた。仕方なしにドアの前に立つ。窓を覗いても、もうひのえさんは見えなかった。  電車が発進し、景色が流れていく。背の高いビルが建ち並んで、ちらほらと人の影が見える。知らない町、知らない人たち。今回はこれだけだけど、いつかここにも、また来てみたいものだ。記憶にはほとんど残っていないけど、きっと、この町にしかないものがいっぱいあるはずだから。 「――あ」  窓の外に、一瞬見えた一つの顔が、ただそれだけで、脳裏に焼き付いた。  踏切の向こうで、怒ったような顔で電車を睨み付けている、高校生くらいの男の人だった。飾り気のない黒い服装で、別段特徴的な姿だったという訳ではないのに。何故か、とても印象に残った。  それを見て、思い出すことがあった。あれは、いつかのクリスマス。名前も知らない、とある男の子の顔だ。直前で怪我をしてしまって、楽しみにしていたパーティに出られなくて。僕の入院していた病院の、ささやかな催しに参加していた子だった。こんなのじゃないのにって、怖い顔をして、ツリーを見ていたあの子。本当に欲しかったのは、こんなのじゃないのにって、拗ねていたあの子。ぎこちないパーティは、彼にとっては偽物だったんだ。掛け替えのないものを掴み損ねてしまった、そんな風に感じていたんだろう。  とても気になったけれど。あのときの僕には、声を掛けることはできなかった。どうして躊躇ってしまったのか――その理由は、未だに分からないけれど。  今なら。今だったら。声を掛けることが――友達になることが、できたのだろうか。 「あ、れ」  視界がぼやけた。  どうしたんだろう。  おかしいな。  涙が、止まらない。  人の目がある。訳も分からないまま、慌ててポケットを探る。ハンカチでもあればと思ったのだけれど。手にできたのは、ひのえさんに借りた水色の携帯電話だけだった。  込み上げてくる感傷を抑えて、仕方なく手で涙を拭って、携帯電話を開く。渡されたときに一通り使い方の説明は受けたけれど、メールアドレスも電話番号も知らない僕には、宝の持ち腐れだ。多分、ひのえさんから連絡を待つくらいしか、今はできないだろう。  だから何の期待もせずに。最後に教えてもらった、掲示板へと入る。  さっき見たときは、何も書き込まれていなかったから。  一件だけ書き込まれた、新しいスレッドが目に入って、少し驚いた。  気をつけて帰れよ。  TO:カミヤ。  僕宛のようだった。  簡潔にそれだけ書かれた一文が、とても温かいものに思えた。  差出人は―― 「……センパイ?」  そんな名前、一覧にあったかな。  ともかく、新しい話し相手だと、ひのえさんは言っていた。この人も、その一人なのだろう。  折角書き込んでくれたのだから、すぐに返信をしないと。きっと退屈な電車の旅だ、それだけの時間は充分にある。  早速、したいことが見付かったじゃないか。どうしよう。この調子じゃ、やりたいことを全部やる前に、寿命が尽きてしまいそうだ。嬉しい悲鳴と言えばそうだけれど。本当に勿体ないことだ。常に気を配って、目についたもの片っ端から、手を伸ばしていかなければやり切れない。  だから。  だから――ああ。  僕がもう一人、いたら良かったのに。  僕が寝ている間は、そのもう一人に意識が切り替わって。まるで明晰夢を見るように。寝ている間にも、楽しいことがたくさんできるのに。やり残しがないように、色んな事ができるのに。  欲張りな願いに自嘲して、コメント欄に文字を打つ。  顔も知らない誰かだけれど。いつかきっと、会うことができると信じて。  ――いってきます、先輩。 夏夜の鬼 第四章「Doppel Ganger 後編」 ―― 完 ――