第四章「Doppel Ganger 後編」 6 前 「……あー」  目が覚めると、今度は白い天井がそこにあった。染みとかひび割れなんか一つもない、その真新しさが、ああ、今俺他所ん家にいるんだなって感じさせる。ここは、椿谷邸だ。  部屋の中が随分と暗い。どうやら既に日は落ちているようだ。時間は、もう九時近い。感覚として二、三時間では効かない長時間ぶっ続けで寝ていたようだ。今夜は徹夜でもいけそうだ。いや、したくないけど。  のっそりと身体を起こすと、節々が痛んだ。寝違えたかなと思ったが、服を引っ張って上半身を見てみると、包帯が巻かれていたり湿布が貼られていたりで、見た感じ満身創痍だった。恐る恐る全身に意識を走らせてみたが、多少痛みがある以外に問題はなさそうだった。目が覚めたら片脚欠損してましたとか、笑えない冗談だ。  頭痛も、今はない――それを確認して、ようやく日中に起きた出来事を思い出してきた。 「……カミヤ?」  あいつは、どうなった。俺だけ助かって、カミヤだけあの双子に連れて行かれたとも考えにくいが……とにかく、無事を確認しなければ。  そうしてベッドから降りようとした丁度そのとき、出入り口の扉が無遠慮に開かれた。 「お、なんだ、起きてるじゃないか」  聞き慣れない声と共に部屋に入ってきたのは――一瞬ぎょっとするような少女だった。  端的に言って、一言目が母国語だったことが奇跡と思えるほど、その容貌は邦人離れしていた。暗がりにも関わらず輝いて見える金色の長髪に、宝石が埋め込まれたかのような青色の滲む大きな吊り目。顔の輪郭は卵のように丸みを帯びているが、これはまだ幼いからだろう。身長は、低い。下手をすれば小学生だ。ひのえよりも低いように思えるが、実際どの程度なのかは並べて比べでもしないと分からない。  服装は、黒いゴシックロリータ調で統一されていた。その上黒タイツに黒いグローブまで身に着けているから、本当に全身真っ黒だ(ミキと気が合いそうだな)。頭部のアクセサリとしては、これまた黒のカチューシャと、まるで猫の耳のようにひょっこり覗く後頭部の黒リボンがある。見事なまでに少女趣味な出で立ちだ。 「ふん。誰だって顔してるから名乗っておくけど。オレはノアール。二木(ふたつぎ) 聯(れん)の使いで来た。まあ、その用事はもう終わって、後は帰るだけの気楽な自由の身なんだがな」  その勝ち気でいかにも喧嘩っ早そうな顔は、あまりに――。よくミキなんかのことを、『作り物のように端正な顔』というように評していたけれど――このノアールと名乗った洋風の少女はそれを超えている。というより、遙か上を通り越して逆に『人間じみた人形』という表現の方が合っているような気がした。  まるでそうあるように、何者かの手によって造り込まれたかのように。  それは、奇妙な美しさを表していた。 「……なに、お前、ホントに人間?」 「は――」  ノアールは愉快そうに、想定される年齢とは不釣り合いなほど不敵に口を吊り上げて笑い、 「そう聞かれたなら、オレはこういう風に聞き返したくなる。なあ、アンタこそ、本当に(・・・)一人か(・・・)?」  よく分からないことを言った。  というか、質問に質問で返すな。 「まあ、分からないならいいさ。オレのことも好きなように思ってくれればいい。どう思われようがオレの知った事じゃないからな。で、そう言うアンタは――アレだろ、弥生んトコの……なんて言ったっけ? ツ……チ……、ああそうそう、チリーとかいう名前だっけ? はは、オレ、それと同じ名前ゲームで見たことあるぞ。氷吐き出す雪達磨のモブキャラだ。知ってるか?」 「知らん」  なにやら愉快な具合に伝言ゲームがバグっている様子である。が、その名前に愛着など欠片もないので、わざわざ訂正してやる気にもなれなかった。 「ともあれ、疲労困憊で寝込んでるっていうアンタの様子を見てきてくれと、熊のおっさんに頼まれたもんでな。そこのトコどうだ、アンタが何をやったのか知らないし興味もないが、体調は戻ったのか? 見る限り、別段問題はなさそうだけど」  熊のおっさん……大五郎さんのことか。現在の状況を把握するなら、まず大五郎さんに聞いてみるのが良さそうか。少なくとも、俺の知らない情報を持っていることは間違いないだろうから。 「その熊のおっさんに話がある。今どこにいる?」 「ああ、その辺にいるだろ。でもなんか忙しそうにしてたぞ、これから出かけなくちゃいけないとかなんとか。夜遅くにご苦労なことだよな。オレが着いたときにもデカい声で電話してたし。そうそう、その流れで小耳に挟んだんだけどさ」  ノアールは、何でもない噂話をするように、 「三鬼 ひのえがやられたらしいな」  あまり、聞き流せないことを言った。 「ひのえが?」  やられた?  まさか―― 「あの双子にか?」 「双子? 何だそれ。そんな話は知らないな。アンタらが今追ってるのは、神谷とかいう子どもなんじゃなかったか? そいつにやられたんじゃないのか?」  カミヤに――カミヤのドッペルゲンガーにやられた、というのか。俺が寝ている間に。 「やられたってのは、何だよ、まさか、死んだわけじゃないだろうな」 「あ。悪い悪い、言い方が拙かったな。別に死んじゃいないよ、まだな。意識不明の重体で、今は町の病院で治療を受けてるってさ。流石にしぶといというか何というか、まあ三鬼 弥生の妹が、そう簡単にくたばったりはしないだろうが。――同時に担ぎ込まれたもう一人の被害者は、手遅れだったらしいけど」  もう一人の被害者――それは。  それは―― 「カミヤ……」 「ん? もしかして、そのもう一人もアンタの仲間だったか? そりゃあ……何というか。災難だったな」  カミヤ……死んだのか。  あいつが……。 「ああ……」  溜息と共に、言葉にならない声が漏れた。  あいつが……殺された。  つい数時間前まで、普通に顔を合わせて、普通に話をしていたのに。  死んだ。  もういない。  言葉を交わすことも、視線を交わすことも、もうない。  先輩、なんて呼ばれることも、もしかしたらもう二度とないかもな。  それが、人が死ぬということ。  それが、人を失うということ。  あんなに恐れていたことなのに。  あんなに遠ざけていた今なのに。  俺の心は、どうしてこんなにも静かなのだろう。  涙だって出てこない。  心の奥の奥に、どす黒い塊が居座るように。  頭の中が真っ白になる。考えることを放棄したくなる――けれど、頭の中はそれを許してくれなかった。  カミヤのドッペルゲンガーが、カミヤを殺した?  なぜ?  ひのえが守り切れずに?  いや……カミヤがドッペルゲンガーに殺される理由なんてないはずだろ。  ひのえを庇った?  ドッペルゲンガーの邪魔をして、だから消された?  分からない。何がどうなっているのか、全然全く分からない。 「あれ? カミヤ? カミヤって、神谷だろ? ひのえをやったのが神谷で、ひのえと同じ被害者の名前が……カミヤ? なんだそりゃあ。偶然か?」 「……別に」  説明するまでもないことだ。  説明したくもないことだ。  今更。 「ふぅん。まあ、その辺は立ち入らないさ。興味ないし、面倒事はオレも御免だ。ただ――」  俯いている俺を覗き込むように、ノアールは言う。 「三鬼 ひのえ――あの(・・)弥生の妹を負かしたっていう奴には興味がある。弥生には及ばないにせよ、そいつもそれなりの実力はあったんだろ? それを倒した相手だ、それは――」  期待できるんじゃないか、と。  ノアールは言う。  凄惨な笑みで。  背筋の凍る笑みで。 「なあ、チリー。この件、オレに任せてみないか?」 「……どういう意味だ」  ノアールは、水晶玉のような瞳を爛々と光らせ、語り続ける。 「オレはさ、強い奴に興味がある。強い奴とガチで殴り合うのが大好きで――そう、趣味なんだ。息抜きなんだ。清涼剤なんだ。最近はろくな相手もいなくてさ、退屈してたんだ。だからその神谷って奴を、オレにやらせろよ」  ボコボコに叩きのめしてから、アンタに引き渡してやるよ――  そんな冗談みたいなことを、この不可解な少女が、冗談げもない表情で、言った。 「いい提案だと思うけどな。だってアンタ、純粋なバトルタイプじゃないだろ? 身体見れば分かる。擬獣専門って話も、まあ本当のトコなんだろう。そのアンタが、ひのえでも敵わなかった相手と戦うのは、荷が勝ちすぎってものじゃないのか?」 「それは……」  確かに、その通りだ。  俺はひのえには敵わないだろうし、ならばひのえが負けた相手に勝とうというのは無理な話だ。  やってみなくても分かる。  断言できる。真っ向から挑めば、俺は良くてひのえの二の舞、悪ければ死ぬだろう。  ならばこの少女ならば勝てるのかというのも甚だ疑問ではあったが、しかし、見た目の話を言い出したらどこにも転ばない。  この少女ならば、カミヤのドッペルゲンガーを倒し、この事件を解決することもできるのだろう。  だから。  だから、俺は言う。 「いい。お前がやることなんか一つもない。後は帰るだけと言ったな。だったらすぐに帰れ」 「ほお」  ノアールは、俺を改めて観察するように視線を動かしてから、言う。 「それは俺の仕事だ、か? 負けると分かっていても挑まずにはいられない。勇ましいな。格好いいな。ああ、それでこそ主人公(ヒーロー)の在り方だよな」 「誰がそんなこと言った」  俺は呆れた顔を作ってノアールを見る。  視線が合う。 「この件に関してはもう(・・)終わってる(・・・・・)。ひのえが脱落した時点で、どう転んでも事は解決なんかしない。お前の言うとおり、俺一人じゃどうにもならないし、かと言ってお前みたいな部外者に全部任せて、高みの見物決め込むような訳にもいかない。だから――終わりなんだ」  ノアールの笑みが、消える。  それでも、俺を見続ける。  無垢な少女のような顔で。  俺を見る。 「それは。自分の仕事を放棄するって意味か?」 「違うな。俺の仕事はひのえをサポートすることにあった。そのひのえがやられた以上、俺の仕事はもうない。強いて言うなら、ひのえの命が助かることを祈るくらいか」 「仇討ちはどうなる。ひのえがやられて、もう一人仲間が、殺されたんだろ。その意趣返しがしたいとは、思わないのか」 「欠片も」  俺は迷わず答える。  そんなものは無意味だと。 「そんな馬鹿なことはしない」  言い終わるや否や、俺は宙を舞っていた。  吹いてもいない強風に吹き飛ばされたようだった。  その後、当然のように壁に激突し、止まる。  真っ先に激突した右耳からは耳鳴りがする。  そんなことを第三者的に感じていると―― 「いっっっっっっっっっっっってぇ――!」  遅れて痛みがやってきた。  壁にぶつかった右半身と。  そして――それは目で追うことさえできなかったけれど――ノアールに思いっきり殴られたらしい、左頬が。  神経を直接触られたかのような痛みに見舞われた。 「ふざけんな」  そう吐き捨てるノアールの声が聞こえたのは、それこそ偶然だっただろう。 「見下げ果てた男だよ、アンタは。オレの提案を断るまでは合格だったんだけどな。そこからが最悪だ」  床に座り込む格好になった俺の胸ぐらを、ノアールは左手で掴んで引っ張り上げた。  軽々と目が合う高さまで持ち上げられる。  ――腕は、本当に少女のようにか細いのに。どこにそれだけの力があるというのか。 「その馬鹿なことが、アンタの役割だろうが。アンタ以外に誰がやれる。誰に遂げられる。誰かに課されなくたって、それがアンタの仕事だろ。気張って背負えよ。簡単に手放すな。仲間がやられたんだぞ。殺されたんだぞ。その仇討ちにも出向かない腑抜けが、仲間を大切にできないクズ野郎が、一端(いっぱし)の口を叩くんじゃない。それとも、お前にとってその仲間なんてものは、それにも及ばない、その程度の、大した価値もないものだったのか」  たかだか数日の付き合いで。命を賭けるような真似はできないか?  ――いや。 「それは、違う。あいつらは、掛け替えのない奴らだった。関係は浅くても、距離は遠くても、それでも、失いたくないと思った」 「だったらどうしてだ。そこまで言うのなら、アンタにとって復讐はもう義務だろうが。自分の大切なものを奪った奴が、のうのうと生きている現実を、どんな理由で無視できる? 大事だったからこそ、それを失った悲しみを、行動に代えなきゃやってられない。人間はそういう生き物なんじゃないのか」  厳しく詰問するように、ノアールはその手に力を込める。  壁に挟まれて、息が苦しい。  それでも、言う。  言わなくてはならない。 「神谷を、倒せば。死んだカミヤは戻ってくるのか? ひのえは完治するのか? しないだろう。なくしたものは戻らない。付けられた傷は治らないし、死んだ人間は生き返らない。復讐はとどのつまり、相手を害するって意味だ。害を被ったから、相手にも同じ害を与える――それじゃ終わらないんだよ。復讐は復讐を呼んで、やられたからやり返して、ただ不毛に繰り返すだけだ。死んだ誰かを理由に他者を害する人間が主人公(ヒーロー)だと? 笑わせるなよ。復讐なんて下らない。ろくな人間のすることじゃあない」  これが、擬獣相手だったら話は違った。  擬獣――とっくに死んだモノが、生きた人間を害するなんて、おぞましい。人を殺す亡者なんか、絶対に認めない。殺された人間が戻ろうが戻るまいが、必ず喉笛を掻き切って、二度とそんな真似ができないようにしてやる。俺なら、どんな状況であれそうするだろう。  でも、相手が生きてる人間なら。  そうだ。  ミキは最後まで、俺にドッペルゲンガーを捕まえろだとか、或いは殺せだとか、そんなことは一言も命じなかった。  俺にはそもそも、ドッペルゲンガーを止める義務も、理由もないんだ。 「ふん。弥生の眼鏡に適った奴だっていうから、もう少し骨があると思ったんだがな」  ノアールは、明らかな侮蔑の眼差しを容赦なく俺に突き立てる。 「ああそうだ、死んだ奴は生き返らない。生き返っちゃならない。故人に捧げる復讐なんて馬鹿げてるよその通りだ。だけど違う、復讐は自分自身のためのものだ。他の誰でもない、不運にも生き残った自分のために成し遂げるべきものだ。そうしなきゃ気が晴れない。穢された誇りを言い張れない。理屈じゃない、感情の問題。自分の心を満たすために仇を討つんだ。自分にとって大切な誰かへ送る筈だった気持ちが傷むから、片を付けてやらなきゃ、これからの人生を謳歌できない。そのための復讐だ。それを否定するのは、自分の感情を殺してることに他ならない。そうしていれば、お前は出来た大人だと世間は褒めてくれるのか? それがアンタの望みなのか。違うな、全く違う。――アンタのそれは、ただ諦めてるだけだ!」  ――諦めているだけ。  喪失した切なさを、持ってないことの寂しさを。仕方のないものだと、諦める。  は。  それの――。 「それの、何がいけない。何が悪い。そんな自己満足俺は要らない。どんなに納得がいかない事でも、それが動かしようのない現実なら諦めるしかないだろうが。諦めの悪い感情論者ほどタチの悪いものはねぇよ。それでも、そうしなきゃ生きてられねぇってんなら勝手にやってればいい。――だけど! そのひん曲がった物差しで俺を計るんじゃねぇよ!」 「吠えるなよ、不戦敗の負け犬が。痛いなら痛いって言えばいいんだ。悲しいなら悲しいって言えばいいんだ。それで誰かと衝突するなら、上等だ、行き着くところまで行けばいい。それが生きるってことだ。分かるか? 自分の人生を生きられないなら、それは死んでるのと同じなんだよ。……いいや、自分が自分でないなら、それは死ぬよりもずっと――」  そこまで言って、ノアールは俺を掴んでいた手を離した。  俺は重力に逆らえず思い切り尻餅をついてしまう。  咳き込みながら見上げると、またノアールはこちらを見下している。 「ちっ。時間の無駄だったな。アンタにやる気があるのなら――そう、勝ち目のない戦いにだって突っ込むくらいの大馬鹿野郎だったら、少し力を貸してやるくらいはするつもりだったけどさ。でも、もういい。後は勝手にしろよ」  そう言い残して。言い捨てて。  ノアールは部屋を出て行った。 後 「おお、起きたかチリく――うおぉ! どうしたんだその顔! えらい腫れてるじゃないか!」  ノアールが出て行ったあと。続いて部屋に入ってきた大五郎さんの一言目がそれだった。殴られた頬を触ってみると、そこは嫌な熱を持っていて……うわあ確かにぼっこりしてる。シリコンでも注射したんじゃないかって異物感がする。そして地味に痛い。手が触れる感覚はほとんど麻痺してるのに、痛覚だけが断続的に突っついてるみたいだ。 「どうしたんだい、それ」 「転んだ」 「いや冗談はいいから」 「ですよね」  かといって、あんなガキみたいなのに殴られたなんて言うのも気が引ける。それはそれで冗談みたいな話だし。 「とにかく、顔を強打したんだな? ちょっと待ってなさい、すぐに冷やそう」 「いや、いいですってこんなの。ほっとけば治るでしょ」 「キミね、医者を前にしてそういうこと言うか?」  あ、そういえばこの人、ドクターだった。すっかり忘れてた。 「応急処置は直ちにやるものだ。いいから待ってなさい」  有無を言わさない口調で大五郎さんは言い、部屋を出て行った。  俺がベッドに腰掛けて一息ついていると、大五郎さんはすぐに戻ってきた。無骨な手で慣れたように俺の頬にひんやりとした湿布を貼り、「これ、しばらく当ててなさい」と水色の巾着袋みたいな氷のうを手渡してきた。  氷のうを頬に当てると、冷たさで痛みが引いていくようだった。 「今のところ痛みは大したことないようだが、骨に異常がないとも限らない。すぐにしっかり診て、処置してやりたいんだが、ううむ……」  大五郎さんは何か難しい顔をして唸った。そう言えば、さっきノアールが言っていたことを思い出す。 「なんか、外出する用事があるんじゃないですか?」 「そうなんだ。実のところ結構急ぎでな。西双町総合病院まで、ひのえちゃんを迎えに行かなくちゃならないんだ」  西にある病院へ……ひのえを迎えに? 「それ、車でですよね。俺も行きます」 「んん。いや、しかし……」 「聞きたいことがあるんです。連れてってください。なんなら、俺はそこの病院で診てもらえばいいじゃないですか」  忙しなく顎髭を撫でて難しい顔をしている大五郎さんだったが、最終的には首を縦に振った。  ひのえのもとへ俺が顔を出しに行ったところで、何の役にも立たないことは明白だ。ただ、ここで大五郎さんを逃してしまうと、現状把握が先に延び延びになってしまう可能性が高いと判断した。ついでにこの目でひのえの無事を確認できれば、少しは落ち着けるだろう。そういう考えだ。  ――落ち着けるだろう、か。  なら、今の俺は落ち着いていないのか。  仲間がやられて――落ち着いていないのか。  復讐なんて馬鹿げていると言った俺が、じゃあ何をしたいのか。  もう諦めてしまったという俺が、何を成したいというのか。  考えたって分からない。  自分が何をしたいのか、いつでも明確にできる人間なんてそうはいないだろう。  だから、そのことはとりあえず置いておいて、少しでも多くの疑問を解決する方向にシフトすべきだと思った。 「まあチリ君っ、その顔、大丈夫? 痛くない?」  大五郎さんと一緒に寝室(というか、病室?)を出てリビングへ入ると、エプロン姿の桜さんに遭遇した。ふと鼻を突くのは、スパイスの香り。そう言えば、今晩はカレーなんだった。 「ええ、まあ」  そして、ノアールの姿も、もうない。本当に帰ったのか、あいつ。 「じゃあ、ちょっと行ってくるよ。チリ君も行くってさ」 「そうなの? チリ君。今日は帰れそうにないって聞いてるけど……お腹、空いてない?」  言われてみれば、なるほど空腹感のようなものはある。昼食も食べず寝ていたんだから当たり前だが、別段それで苦しいという感じでもない。今は、そういう気分じゃないのだ。  それを告げると、桜さんは残念そうな顔をした。 「じゃあ、カレーはまた明日ね。明日はきっと、また一緒に食べましょうね」 「……ええ」  また一緒に。  それは。  それはもう、決して叶わない夢だ。  昨日は、あんなに近くに感じられたのに。  あんなに輝いて見えたのに。  また、俺はそれを掴み損なう。  胸の中に、ぽっかり穴が開いたような――という、月並みな文句が浮かんだけれど。  なんのことはない。  こんなの、いつも、いつだって、感じていたものだった。  俺の中は、穴だらけだ。 「ひのえちゃんのことが心配か、チリ君」  靴を履いて、玄関から外に出ると、大五郎さんが後ろからそんなことを聞いてきた。 「そりゃあ、まあ」 「そうか」  にかりと、大五郎さんは満足そうに笑った。 「君は、あんまり表情が動かないタイプだからな。もっと感情は口に出した方がいいぞ。その方が、きっと周りは安心するし、皆に君の事を分かってもらえる」  ――痛いなら痛いって言えばいいんだ。  ――悲しいなら悲しいって言えばいいんだ。  ついさっきにも、似たようなことを言われたな。  自分がどういう人間か、相手に伝える。  傾聴と共感。  それを尊ぶ者は、相手にもそれを促す。  それが、人間関係を築くための基本。  理解はできる――理解はできるが。  どうして俺は、それを否定したがるんだろう。  そんなことしたくないと、心の奥で思うのだろう。 「ちょっと待っててくれ。すぐ車を出す」  そう言って、大五郎さんが姿を消して間もなく、車庫から出てきた黒塗りの車(バン)は、小振りなバスにも見えるほどの大型サイズだった。新車なのか手入れが行き届いているのか、車体には汚れ一つない。助手席側のドアから乗り込んで中を見てみると、後部座席が取り払われて三メートルほどにも及ぶ広い荷室空間を作っており、驚いたことにそこにベッドが一つ収まっていた。聞くまでもなく、患者の運搬用なのだろう。 「まさかこいつを、こんなに早く使うことになるとは思わなかったよ」  大五郎さんはそんなことをぼやきつつ、車を発進させた。 「ひのえの容態、そんなに悪いんですか?」  質問内容を頭の中で吟味して、慎重に口にした。なんとか現状を把握したいが、時間は限られている。優先順位を定めて、話を運ばなくてはならない。 「かなりな。背中のあちこちに創傷が十数ヶ所――刃渡り三十センチくらいの刃物で滅多差しにされたと見られている。発見された段階で既に意識はなく、失血も相当で、今も生死の境を彷徨ってるそうだ。手術は、今もまだ続いてるはず」 「――助かるんですか、ひのえは」 「助ける。そのために迎えに行く」  力強く大五郎さんは言い切った。……少しだけほっとする。確証はないけれど、これなら最悪にはならないだろうと思えた。 「一体誰が、ひのえを刺したんですか。あの双子――昼神姉妹じゃないんですか」  先程ノアールにされたのと同じく、大五郎さんは「いや」と首を振った。 「昼神美兎と昼神美狐の件は、ひのえちゃんが片を付けたと、彼女自身が言っていた」 「それって、いつの話です?」 「今日の昼過ぎくらいか。彼女が気を失った君と満君を担いで家に帰ってきたときには随分と驚かされたが。……ああ、そうか。だから、そのこともチリ君は知らないんだな」  つまりあの双子のことは、ひのえが何とかしたのか。それに、その時点ではカミヤも無事だったって訳だ。  じゃあ、そのあと、何があったんだ? 「分からない。夕方頃、ひのえちゃんと満君が二人で出て行って、……帰りが遅いと心配していたら、この状況だ。その間に何があったのか、詳しいことは何も分かっていない。そう、そのあと、満君が(・・・)どこへ(・・・)行ったのかも(・・・・・・)」 「――え?」  なんだって?  カミヤがどうなったか分からない?  それは。そんなはずはないだろう。 「ひのえの他に、同じように病院に運ばれて、死んだ奴がいるって……。それがカミヤじゃ、ないんですか?」 「ああ、それは違う」  大五郎さんはあっさりと否定して、続ける。 「亡くなったのは――ひのえちゃんと同じように刺され、病院に運び込まれたのは、北野(きたの) 勇哉(ゆうや)という中学生だ。ひのえちゃんとは違って、彼は本人の自宅で被害に遭ったんだが、傷口から見て、同じ人間の犯行って線が濃厚だろうってさ」  北野 勇哉……知らない名前だ。全く聞き覚えがない。記憶の鱗片に掠りもしない。  でも。  じゃあ。 「カミヤは、生きてるかも知れない――?」  暗い夜道を、ヘッドライトが照らしている。  それは随分と明るくて、街灯の少ない街路でも、運転に支障はないようだった。  ――ああ。  なんだよ、なんだよ、くそ……。  今になって泣きそうになってんじゃねぇよ。  ひのえは、大丈夫だ。  カミヤも、生きているのなら。  まだ何も、終わってなんかいないじゃないか。  諦めることなんて、何一つないじゃないか――!  というか、ひょっとして俺、殴られ損か?  ノアール(あいつ)め、今度会ったら文句の一つも言ってやらねぇと割に合わないぞ。 「いや……」  ノアール――。  そう言えば、あいつは、言っていたじゃないか。 「話を戻して質問に答えるが。誰がひのえちゃんを、と言っても、あの子がそんじょそこらの暴漢に易々やられる訳はない。となると犯人は――」 「ドッペルゲンガー」  そうなるな、と大五郎さん。  ノアールは現状から、単なる憶測でそう言っただけだろうが、結果としては当たりだったという訳か。いや、今だって証拠があるわけではないけど、そう考えるのが一番自然だ。  じゃあ、北野某って奴が、ひのえが監視してたっていう、カミヤの元クラスメイト――? ああ、そう考えると確かに辻褄は合う。ドッペルゲンガーは邪魔者のひのえを下し、本来の標的である北野を殺した。  ――じゃあ、カミヤは?  ひのえと一緒に襲われたというのも変な話だと思ったが、こうなるとカミヤの所在が本当に分からなくなってくる。  目的を果たしたドッペルゲンガーにとって、この町に長居する意味はない。  だが、カミヤはそれと同じではない。  カミヤと、カミヤのドッペルゲンガーは、違う。  ひのえと一緒に病院に――いるなら、それは大五郎さんにだって伝わるはず。だから、病院にいるわけではない。  だとしたら。  あいつは今、どこにいるんだ?  その疑問に向き合ったとき。  狙い澄ましたかのように鳴った俺の携帯電話の振動音が、思考の波を阻んだ。 「あ――」  ディスプレイを見て、その着信の発信者の名前を見て、俺は一瞬、胸を槍で貫かれたような衝撃を錯覚した。  妙に響く胸の鼓動を感じながら、携帯電話の通話ボタンを押す。  ――俺は、後に思う。  その電話に出なければ。  耳を塞いで、知らない顔をしていれば。  俺は、本当に何も知らないまま。  なくしたものは戻らないと、諦めたまま。  何事もなく、この事件をやり過ごせたのではないか、と。 「もしもし。何の用だ――ミキ」