第四章「Doppel Ganger 後編」 5 前  ああこれは、小学校の教室だと、思い出した。  かつて慣れ親しんだ自分の席に着き、机に向かい、同じように並ぶ生徒たちの背姿と、教鞭を執る見慣れた担任教師がそこにいる。  教師の名前は――何だったか。教え方が上手いと評判の先生だった。人当たりも良く、ジョークを交えて話したりして、生徒たちやその父兄からは慕われていたと思う。ただ、時折出来の悪い生徒を使って笑いを取る悪癖さえなければ、というのが俺の印象であり、そのため俺はその担任のことが苦手だった。幸いなことに、俺自身は当時から――友好関係の狭さに難ありという評価は確かにあったものの――成績は良く、担任の覚えは良く、叱責されたことはほとんどなかったと記憶しているが、それだけに恐れていた。一つ失敗すれば、周りの落ちこぼれた生徒たちと同じように笑いものにされてしまうという恐怖が常に頭の片隅に居座っていた。  逆に言えば、そのおかげで落ちこぼれずに済んだのではないかという意見もあるだろう。だが、幼心に言わせてもらえば、それは理由の一つに過ぎない。その担任のことがなくったって、俺は懸命に勉学に励んだであろうという確信があった。  真面目な性格だから、ではない。  そうせざるを得ない身の上だと、理解していたからだ。  振り向けば、見慣れない顔が一杯だった。我が子を見守る、親たちの姿。また思い出した。これはいつぞやの授業参観なのだ。  周囲からは、普段と違った緊張感が伝わってきていた。小学生の時分、まだ反抗期に突入するには早い頃だ。格好いいところを見せたいだとか、それで親に褒めてもらえたら嬉しいだとか、なんならちょっとしたご褒美も期待できるのではとか、そういう思考が浅いところに蔓延していても不思議なことはない。そんな心境を、当時の俺は静かな心で見つめていた。  大人びた子どもだった、と思う。そう言われて育った。年の割に自制の効くところがあった。常に一歩退いたところから自分や他人を見る癖が付いていたし、同年代の幼さと自分の性格との違いに戸惑いを覚えていた記憶がある。友達を作れなかったのもそれが原因だったと今は(今は――?)思っている。別段、それが悪いことだとは思わなかったけれど、居心地の悪い思いをしていたのは間違いなかった。  ずっとだ。  物心ついたときから――いや。  父親の、あの顔(・・・)を見たときからずっと、胸中に渦巻いていた不快感だ。  親たちの顔の中から、思い描いたその顔を探したが、見付けることはできなかった。  そこに落胆や失望はない。  分かっていたことだ。  当たり前だと、仕方のないことだと、最初から諦めていたことだった。  教師に哀れまれることはあった。同年代の子どもからはからかわれることも。俺には、何をそんなに大袈裟に扱われているのかまったく意味不明で、だから、そんなことなら一緒にいなくたって構わないと煙たがった。  それは失敗だったろうか?  積極的に誰かと繋がろうと奔走する人間(例えば、ミキのような――)を見ていると、時々分からなくなる。俺は何か、大きな間違いを犯しているのではないか。間違いを重ね続けているのではないか。そんな疑念が僅かに、しかし確実に頭の中で根を張る。致命的な、取り返しの付かない恐ろしい何か。  普遍的な答えなんかない。そんなことは分かっていたのに、俺はそればかりを見つめていた気がする。きっと俺が悩む全ての問題には明確な正解があって、それを俺が選べずにいたから、俺はずっとこんな気持ちを抱き続けているのではないのかと苦悩していた。  公園で、沢山の友達と一緒に遊ぶ誰か。日が暮れたら、親に手を引かれて帰っていく。  ブランコに一人乗って揺れる自分。長い影が、崩れた砂の城を覆う。  そこには目に見えない溝があって、どんなに手を伸ばしても届かない何かだと感じていた。  届かなくたっていい。そんなものは、とうの昔に諦めたものだから。  それは強がりだったかも知れない。胸の内に抱えた暗い気持ちには慣れていて、それがとても苦しいものだという感覚が鈍っていた。  彼らを見て、俺は何を感じていたのだったか。  遠い蜃気楼の羨望だったかも知れないし、或いは熱い溶岩のような怒りだったかも知れない。  ずっと隣にあったもの。高く掲げておきながら、振り下ろす先のない感情。  誰に文句を言えるでもない、どうしようもない意識の揺らぎ。  遅効性の毒のような甘い疼きだ。  自分の境遇に身を任せて、感情を発露したがる子どもの癇癪だ。  でも、それでも、偽りなく俺自身が抱いた願いだった。  諦めたというのは、誰より自分に対する言い訳なのだといつか悟った。  俺はいつだって夢想している。  手の届かない筈のそれを、いつか得ることができたなら。  学校の課題の『将来の夢』にだって、ついぞ書けなかった俺の思いだ。 「――――」  誰かが、壇上で何かを言っている。  誰だ。担任じゃない。姿がぼんやりしていてよく見えない。目を凝らしても、目を擦っても、変わらない。表情はおろか顔もあやふやだ。 「――だ。――い」  白い。それは長く、白い髪をしていた。それだけで、俺には一人の人物を思い描くことができた。 「ミキ?」  声を掛ける(その名前を知っているのは――)。けれど、その人物の言葉は分からないままだ。  語気は、聞いていると焦燥感を煽られるような感じだ。何かを急かされているような、注意されているような、そんなものだと当たりを付ける。よくある話だ。君は頭が悪いとか、病院に行った方がいいとか、そんなことばかりを言われ続けていた気がする。大きなお世話だ。雲の上から偉そうなことばっかり言いやがって。俺の負債は俺が返す。お前なんかに、手間掛けさせてやるもんか。  頭に血が上って、勢いよく立ち上がる。  授業は恙なく続いている。起立した俺も、白髪の誰かも、何の影響も与えずに。 「俺は――」  声を発する喉が痛い。  視界がぼやけて仕方がない。  熱病に浮かされたような、酷く不快な感触。 「俺は、お前なんかに――」  それでも俺は声を上げる。  目の前の誰かを見定めようと凝視する。  ようやく見えたその顔は――いつもの、癇に障るような、見惚れてしまうような、全てを余さず慈しんでいる、化け物のような笑顔で―― 「――せんぱいッ! それは夢ですッ!」 後  およそ、目覚めは最悪だった。  物心ついてから十年だかそこら、過去を振り返ってみても、最上級の不快感だったと言っていい。  ――なんだ? 俺、寝てたのか?  そう。何しろ、立ったまま眠っていたのだ。  立ったまま意識を失っていた経験は、残念なことに思い当たるところもあるのだけれど、今回のはまた別種の感覚だ。言語化ができる程に理解は深くないが、見えない何かに知覚の大半を塗り潰されていたような、そんな異物感。  記憶を追って、大きな声が聞こえた方を視界に収める。と、カミヤがいた。いや、さっきから目の前にいたはずなんだが、駄目だな、意識が覚醒しきっていない。カミヤは、汗で濡れた――それは暑いからか――必死の形相で何かを叫んでいるが、言葉が頭に入ってこない。思い切り腕を引かれる。既視感(デジャビュ)だ。夏休みに入る前、綾辻の奴に同じように引っ張られたことが、ごくごく最近のことのように思い出せる。もののついでに記憶を漁ってみると、昏睡していた直後だからだろうか、なんだか記憶が飛び飛びになっている。ミキから依頼の電話があった夜。意味不明なテスト結果の張り出しがあった昼下がり。奇っ怪なピエロと相対して、そのあと食べたミキのあんパンの味。ひのえとカミヤを夏臥美の駅で待っている最中には、マツイさんにも遭っただろうか。それから、椿谷宅で振る舞われた中華料理と、それを戻しかねない腹部への衝撃(ひのえの全裸という記憶は消した。消したのだ)。 「私たちの『二重催幻(デュアルヒュプノス)』を打ち破る人なんて、初めて」  ……は。なんだ、デュアルヒュプノス? ミキじゃあるまいし、またけったいな名前を考えたものだ。どこの中学生だよ……いや、そもそも中学生くらいか、この二人。  ――二人。カミヤのことではない。この二人。たった今『昼神 美狐』『昼神 美兎』と名乗った少女たち――双子、だったのか。  違いなんてほとんど見当たらない。双町の駅で会った姿そのままをコピーしてペーストしたような、まるで同じ影。刺激の強い赤い着物が視覚を苛んで――痛い。  痛い、痛い。頭が痛い。覚えのある痛みだ。心臓の鼓動に合わせて脈打つように走る、脳髄を侵食するような痛覚。掻き毟ってまっさらにしてしまいたくなる衝動を抑えるように、顔面を手で覆う。  気がつけば、カミヤに腕を握られたまま走り出していた。痛い、痛い。駆ける震動がそのまま脳を殴っているかのようだ。本当はすぐにでも止まって休みたいところなんだが、何故だろう、走ることを止められない。  ――いや、そうか。俺たちは、東の廃病院に向かっている。向かわなくてはならないのか。  ずきん、とまた一つ頭が痛んで、脊髄まで駆け抜ける。抜け落ちた記憶を補っていくかのように、過去の出来事がパズルを嵌め込んでいくように繋がっていく。その中に一つ、やけにはっきりと、ひのえの言葉が浮かび上がった。 『危ない目に遭ったら、町の東、廃病院へ逃げ込みなさい。そこなら――』  そこなら、何? 当然のようにそう問いかけていただろう記憶が、ない。ただただ、走らなければ。そうしなければならないという使命感と、明らかに妙だという違和感がせめぎ合う。それが、どうしようもなく痛くて、痛くて仕方がない。  言葉を発することさえ重苦しい。息が切れる。何が悲しくてこんな炎天下、全力疾走なぞしなければならないのか。ただでさえ運動不足なのに、準備運動もなしに走り回れば当然疲れもする。それでも走り続けなければならないという気持ちが、どうしようもなく不可解だ。先を行くカミヤに問い掛けても、疑念は払拭されなかった。  廃病院へ到達してみれば、なんということもない。双子によって張られた罠に、まんまと引っ掛かったというだけの話だった。催眠術によって密封された袋小路。虫籠の中へ自ら飛び込む愚かな羽虫だと、ミキにまた小馬鹿にされそうな話だ。  びくともしない出入り口を前に、俺にとっての切り札、名無しの黒鎌を出す。擬獣相手でないだけに能力は使い物にならないだろうが、しかしそれでも、身体能力の底上げは充分に効果を発揮するだろう。鎌だって、鈍器としてならそこらのボロ椅子なんかより上等な筈だ。正真正銘、俺の出せる全身全霊。いつも擬獣に対してそうするように、一刀両断する覚悟で振り下ろす。  ――だが結局、弾き返される。 『まあ、怖い』 『怖いわ、先輩さん。そんな無粋な物は、どうか仕舞ってくださらない?』  上から響いてくる、嘲笑うような双子の声が、苛つくくらい頭痛を呼んだ。 「ふざけるな! 俺たちをここから出せ!」  どいつもこいつも、人を何だと思っていやがる。催眠術だか暗示だか知らないが、そんなもので他人を玩具みたいに扱いやがる。冗談じゃない。俺の心も身体も、俺だけのものだ。ちょっと摩訶不思議な常識外れの力を持った程度で上から見下してきやがる連中の、腹立たしさったらない。俺は、俺だ。誰にだって渡してなんてやるもんか。  激情に任せて、飛来する数多の『敵』に向けて大鎌を振り回す。跳ね上がった基礎体力をもってしたって、ノーマル状態の体力を使い切った後じゃいつまで保つか分からない。それでも、止められない。譲れない。あいつらの思い通りになることだけは、絶対に許さない。  ――俺の背中を、カミヤが見ている。不安そうな、悔しそうな顔をして、俺を見ている。なんだろうな、こうしてカミヤの事まで守っていると、自分の心が分からなくなる。勢いで「お前が催眠に掛かったら、誰が俺の催眠を解いてくれるんだ」とか「それまで耐えろ」とか怒鳴ってしまったが、それが本音でないことが心のどこかで理解できてしまっていた。  だって、守りたいと思ったんだ。  極限状態に陥った今だから、素直に自分の気持ちを受け入れられる。  無くしたくないと、思ったんだから。  それはずっと、無い物ねだりでしかなかった。最初(ハナ)から与えられなかったものに執着し、当たり前のように与えられた者たちに嫉妬した。それ故に憧憬の眼差しを送りながら、水中を藻掻くように求め続け、しかし決して手に入らなかった渇望。永遠に満たされない欲望の権化。  それは、いつだって願い続けてきた俺の夢想だ。  暖かくて、穏やかな陽だまりがそこにあって。  もう取り返しようもないと嘆いていた大切なものの片鱗を、ようやく掴めたような気がして。  亡くしてしまったものだから。それの価値を誰よりも尊いと思っているから。  それを、もう二度と、手放したくないと思ったから――! 『……ゆるさない』  どちらだか知らないが、怒れる双子の声がする。は、何が、許さないだ。火に手を突っ込むことの危険性も学んでないガキが。自分以外の者を見下した結果がこれだ。自分で自分の首を絞めておいて、こちらを恨まれてもやりきれるか。ああ――だから、ああいう手合いは嫌いなんだよ。  眼前に突如現れた水の巨人へ、歯を食いしばって黒鎌で薙ぐ。  呆気なく姿を崩したその手応えのなさに、この数ヶ月で育ちつつあった警戒心が警笛を鳴らす。 「離れろカミヤ! 逃げるんだッ!」  そう叫んでも、遅かった。霧散した巨人は再び水として顕現し、カミヤの細い首を締め上げた。  それがあまりにも脆いから、軋む音さえ聞こえてこないようで。  真白の紙に墨汁が。  薄氷の上に鉄槌が。  枝葉を揺らす豪雨。  毒水を啜るその愚挙に。 「てめぇ、何諦めた顔してんだ、カミヤ!」  自分が今何を手放そうとしているのか、お前は全然理解できてない。  亡くしたものは戻らない。  後から手に入れようとしたって駄目なんだ。  どれだけ代わりを集めたって、同じものは返ってこないんだよ。  亡くした痛みも、苦しみも、ずっとずっと付き合っていかなくちゃいけないものなんだよ。  そんなだから――俺たちは、それを大事にできるんじゃないのか。 「こんな、こんな詰まらない終わり方があるかよ! あんなふざけた奴らに殺されて、お前本当にそれでいいのかよ!」  死んだ(・・・)人間は(・・・)何も(・・)できない(・・・・)んだぞ(・・・)。  必死になって足掻けよ。  馬鹿みたいに縋って見せろよ。  みっともなくたっていいんだ。  それを笑うような連中なんて放っておけばいいんだ。  あんな奴らの作った箱庭で、要らなくなった玩具みたいに簡単に捨てられる――そんな結末が! 「ふざけるな、ふざけるなッ! 俺は認めねぇぞ! こんな、こんなことで――」  カミヤごと斬り倒すくらいの気持ちで、名無しの黒鎌を振るう。振るい続ける。  なのに、空振りしているかのように、何の意味もない。  これが。  こんなものが。  何が異能だ。  何が異常者だ。  名無しの黒鎌?  あらゆる存在を斬り殺す最凶の刃?  馬鹿じゃないのか。  こんなクソみたいな不条理くらい跳ね返せないで、超常だなんて笑わせる。  何もできないじゃないか。  何も成せないじゃないか。  意味ねぇじゃねぇか、ざっけんな――! 「せっかく、見えかけてたのに……! 手に入るかも知れないって、そう思えたのに……!」  おぼろげで。  不確かで。  それが本当に、俺が求めていたものだったのか、今だって全然分からないけど。  代わりが、見付かるかも知れないって。ちょっとくらい期待したって、それは悪いことなんかじゃないよな? 挿げ替える何かを見付けようとする弱さくらい、誰だって持っていていいよな? 喪失した切なさに、持ってないことの寂しさに、ずっとずっと耐えてきたんだ。同じものがもう手に入らないなら、別のものを掻き集めてでも――それが、開いた穴を埋めることさえできない無意味な愚行だろうと、それで満足しようとしたって、いけないことなんか何もないよな――?  それを――目の前でちらつかせておいて、手に取ろうとしたらお預けなんて、性根が腐ってるにも程があるじゃないか――! 「カミヤ――」  俺が欲しかったものは。  優しくて、つい笑顔になってしまうような景色には。 「カミヤ――!」  もう誰一人、欠けてちゃ駄目なんだよ―― 「生きていてくれ、カミヤッ!」  そうして、最後に。  名無しの黒鎌を伝ってくる、より『繋がった』感覚と。 「――『二重催幻(デュアルヒュプノス)』」  呟いた言葉だけを残して。  意識は、暗い闇の中に消えていった。