夏夜の鬼 第三章「Doppel Ganger 前編」 5                                         前 「あっ、先輩先輩。そこの立ち食い蕎麦屋、十一時からランチタイムで安売りですって。ほらあれ、今掲示が出ました」 「あー。そうだな」  近くに備え付けれらていた双町のパンフレットを詰まらなそうに眺めながら、先輩はそれでも返事はしてくれた。  色々な服装の人が雑多に行き交う駅の中で、自分と先輩はぼんやりと立ち竦み、かれこれ三十分を経過しようとしていた。 『それでは打ち合わせ通りに。夕方には私もお伺いすると、椿谷さんにお伝え下さい』  と、素っ気なく去っていくひのえを見送った双町改札前。初めの内は頑張って情報交換に努めようと話題を振り合っていたのだが、流石に尻窄みし始めていた。それに、待ち合わせしているというのも一つの障害である。何となく近付いてきた人がいると、はてこの人が椿谷さんだろうか、と注目して、その都度会話が途切れてしまうのだ。だが自分たちに話し掛けてくるような人は今のところ一人も現れず、本当に会えるのかとそろそろ不安になってくる頃である。 「なかなか、それっぽい人来ないですよね。もしかして外――出入り口の辺りで待ってたりするんでしょうか」 「まさか。中がこれだけ涼しいんだ、待ってるとしたら外より中だって誰でも思うだろ」  と言いつつ、暑い外で待ちたくないという意図が見え隠れしている。しかし自分も同意見なので特に突っ込んだりはしない。 「お前の写真を持ってるって話だったけど、それいつのだ? まさか髪型変える前とかじゃないだろうな」 「さ、さあ。ただ、そんなに大胆なイメチェンをしたことはないので、多分分かって貰えると思いますが……」  手掛かりが写真だけというのも、よく考えてみれば心許ないものだ。せめて相手の容姿だけでもひのえが教えてくれていれば、という話題は既に三回ほど使っている。 「まあ、最悪ひのえに連絡取ればいいんだけどな。嫌味覚悟で」 「あはは……。ひのえさん、弥生さんに対して無礼な人が苦手だって言ってましたよ」 「だろうな。けど敬う気になんて全然ないし、向こうだって――」  先輩が言葉を止める。誰かが自分の側――自分の左手側から近付いてくるのが分かった。通行人の邪魔にならないよう、二人して壁際に並んで立っているので、近付いてくる人がいればすぐに分かるのだ。ただ、それが自分たちに用のある人なのか、それとも壁際に用のある人なのかまでは分からない。自分たちが待ち望むのは前者な訳だが、今のところは後者の人だけである。  先輩が、がっかりしたように小さく息を吐く。どういう理由か、今回も後者だと分かったらしい。自分も目だけで、その近付いてきた人を見てみる。  女の子だった。自分たちと同じように壁を背にし、ゆったりと辺りを見回している。背丈は自分と同じくらいで、成る程既婚者には見えない。新婚夫婦という話だったから、この年頃の子どもがいるとも考えにくく、やっぱり無関係なのだろう。  ただ、その格好は少し変わっていた。視界を絶えなく横切る人たちの、スーツ姿だったり、洒落た洋服だったり、夏らしい薄着だったり、そういった服装の中で異彩を放つ、和服なのだ。少し暗めの赤――茜色の着物に、シルク製なのか、見るからに上等そうな光沢の帯。一見したところ着物の方は色無地、帯の方に菊か何かの模様が描かれている程度という簡素な着物姿だが、知識の乏しい自分から見ても高級感が伺える。そして唯一洋風と呼べる、首から提げたアクセサリがまた目を惹く。小さな銀の鎖と、それに繋がれ胸元に添えられた円錐形の飾り。和服には合わなそうなその一点だが、小さめなためかそれ程自己主張が強くなく、むしろ着物の模様のようになって、背景の茜色を映えさせている。世間知らずな自分の感覚などアテになったものではないが、多分、センスがいいと評価出来るスタイルだろう。  どんな人なのだろう、と少し興味が湧いて、視線を少し上げてその人物の顔を見る。と、 「あ」  間の抜けた声が出てしまった。何故って、どういう訳か思いっきり、その女の子と視線が合ってしまったのだから。  急に目があって相手も驚いたのか、可愛らしく両肩をぴくりとさせてから、顔全体で微笑みを浮かべ、ぺこりとお辞儀をした。 「少し、お伺いしてもよろしいかしら」  真っ直ぐの視線を向けて、女の子は自分に話し掛けてきた。辺りの喧噪に掻き消えそうなほど小さく、しかしはっきりと耳に届く凜とした高音の声。一直線に切り揃えられたおかっぱは艶やかで、女の子の動作に合わせてふんわりと揺れた。華奢なシルエットと相まって、和人形のモデルをそのまま連れてきたようである。そしてその佇まいも、服装と釣り合うように上品で、文句一つ無く可愛かった。 「はあ、なんでしょうか」  思わぬ登場人物に多少戸惑いながらも、なんとか応対する。同時に、なんだか可愛い女の子と縁のある旅だなぁ、などと呑気に考えている自分もいて、内心可笑しかった。 「タワーブリッジという場所への行き方をご存じ? あたし、人と待ち合わせをしているのだけど、この辺りのことはよく分からなくて、迷ってしまったの」  そう言って、女の子は恥ずかしそうに頬を染め、小動物のように小さく首を傾げてみせた。不安げなところのなく堂々とし、また丁寧な口調は、知らず育ちの良さを感じさせる。その辺りは三鬼姉妹とも通じるところがあるが、二人よりも声に温かみがあるような気がする。何となくそこに感動を覚えて、どうにか助けになりたいと思ったのだが。 「あー、ええっと……」  この辺りのことを知らないのは自分たちも同じである。タワーブリッジなる場所への道筋どころか、そんな名前の建造物が双町にあるということすら知らなかったのだ。  知らないものは仕方がない、と素直に謝ろうと口を開いたところで、 「双子タワーブリッジのことなら、反対側だな」  後ろから先輩が助け船を出してくれた。 「今いるのが駅の東口改札前なんだけど、目的地は西口から出た先だ。そっちの通路を渡って行けば西口改札前に行けるから。あとは目立つところに掲示があるだろ」  先輩が指さす先には、人の流れが頻繁な箇所の一つで、確かに、南北に走る線路の上を横断するような通路だった。女の子は「まあ」と頬に片手を当て、先輩と通路の方を交互に見る。 「ご親切にどうもありがとう。こんなに大きな駅は久しぶりだから、出口が幾つもあるなんて思わなかったわ」  女の子は少し先輩の方に寄ると、にっこりと笑って、先輩と自分にお礼を述べる。自分は何も言えなかったので、苦笑いを浮かべるしかなかったが、何故か先輩も同じような反応で、居心地悪そうに「どうも」と言いつつ視線をそらした。謙虚なのか、或いは人から感謝されることに不慣れなのだろうか。 「あっ、そうだ、何かお返しをしないといけないわ。お兄様方は、お昼はもうお食べになったの?」  自分と先輩は顔を合わせて、それから自分だけが首を振って答える。それを見て、女の子は嬉しそうに手を合わせた。 「それなら、これからご一緒しましょう? 」  にっこりとそう言われて、そう言えばナンパってこんな感じじゃなかったかな、と昔観たドラマのワンシーンを思い出したりした。いや、この場合は逆ナンと言うんだったか? 「いやあんた、待ち合わせがあるんじゃないのか」  先輩が言う。自分も言いたかった。 「みんなで食べればいいわ。ほら、ご飯は大勢の方が美味しいって言うでしょう? あたしたち、ずっと二人でしか食事を摂ったことがないのだけれど、五人で食べたらきっと、とても美味しくなる筈よ」  大きめの瞳を輝かせ、か細い肩を弾ませ、心から楽しそうに女の子は言った。容姿と動作が合致する、当たり前なのにとても新鮮な光景に安堵しつつ、頭の半分で人数計算に勤しんでいると、ふいに「あら?」と、女の子がその動きを止めた。その様子は、遠くの音に聞き耳を立てる犬か猫のようで、実際彼女は何かに耳を傾けていた。  自分もそれに習ってみる。しかし聞こえてくるのは、周囲の人声だけであった。 「あの――」  どうかしましたか、と聞こうとするのと同時に、女の子はさっとお辞儀をした。それは、風に揺られて上下する柳の木のように、とてもしなやかな動作だった。そうしてから頭を上げた女の子は、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝った。 「あたし、やっぱり待ち合わせ場所に行きます」  そしてまた、ごめんなさいと繰り返した。 「い、いえ、構わないですよ。ねえ、先輩」 「ああ」  無愛想ながら、先輩からも肯定の声が出る。それを聞いて、女の子が目をぱちくりさせた。 「まあ。てっきりご兄弟だと思っていたわ。だって、とっても仲が良さそうだったから」  その言葉に、胸が鳴った。何故だろう、と思うまでもない。嬉しかったからだ。  さようなら、と笑顔で手を振る少女に、自分も同じようにして見送った。女の子はすぐに人影に紛れ、見えなくなってしまった。まるで大きな花のような人でしたね、と先輩に振ると、花は喋るもんじゃない、と放られた。全くその通りであるが、別に、喋る花があってもいいじゃないか、と少し拗ねてみる。 「ところで先輩、双子タワーブリッジってどういうところなんですか?」  なんとなく気に掛かったので聞いてみた。勿論、何かしらの橋であるのだろうとは思っていたが、やはりその通りであった。 「この町の新しいシンボルなんだそうだ。西の町境を跨ぐみたいにでかい湖があるんだけど、それの北と南を縦断する橋らしい。ずっと南北間は船で渡るか大回りするかでしか行き来できなかったんだが、橋の上を自動車で通れるようになってからは随分楽になったんだと」 「へえ」  ちなみに、その湖の名前くらいは自分も知っていた。記憶違いでなければ、この国でも三本の指に入るくらい大きな湖だったはずである。ただ、湖のほとんどは双町の西隣にある別の町に入っていて、双町側にあるのはごく一部のみなのだそうだ。つまり、双町の西側の土地を抉り取るように湖がある訳だから、成る程そういった橋があっても可笑しくはないのだろう。大きな湖と、その上に架かる橋というのは非常に風情ある景色だと思うが、電車の中からはビル群が邪魔で、その一端すら目にすることは出来なかった。口惜しい話である。 「タワーと言うことは、塔のような形をしているということですか?」 「ような形、というより塔が建ってるな。橋の両端に結構な大きさの塔が建ってて、中には店が並んでたり、レジャー施設が入ってたりするらしい」  ほらこんなん、と先輩が手にしていたパンフレットを広げて見せてくれる。上空から湖を俯瞰して撮影されたその写真には、鬼の角のようにそそり立つ二本の塔と、それらにぶら下がるように架かる橋が映っていた。外国のお城のような白い塔に、真っ直ぐと繋がった橋、そして橋の下を跳ねるように架け渡されたアーチ。湖の反射する太陽光が交ざって、塔と橋自体がキラキラと光って見えている。周辺のビル群が邪魔くさいのが非常に残念なところだが、それでも一度、この目で見てみたいと思えるような建物だった。 「先輩はこれ、実際に見たことあるんですか?」 「ない」  簡潔に答えて、先輩はパンフレットを元あった場所に戻した。 「言っただろ、最近は双町に来たこともないんだ。橋が出来たってのは新しい話だから、俺だってさっきまで名前くらいしか知らなかった」 「ああ、それは……」  勿体ない話である。自分がこの近くに住んでいたなら、開通式には間違いなく足を運んだことだろう。さっきの女の子と一緒に行けば橋を見られたのだと思うと、自分の立場がとても恨めしく思えた。溜息が漏れる。世の中、万事上手くいきそうなことでも、どこかでは必ず不満を生むものだ。 「来ないな」  いきなり、先輩がうんざりしたように言った。 「え、何がですか?」 「お前」  先輩が言うまでもなく、あ、と思い至る。そう言えば自分たちも待ち合わせをしていたのだと、あんな短い遣り取りをしている間にすっかり忘れてしまっていた。  それきり会話は続かない。長旅の疲れを思い出したかのように、脚からずるっと力が抜けた。さっきの女の子と待ち合わせをしていた人も、思えば自分たちと同じ境遇なのではないだろうか。そう思って、女の子の消えていった方に目を移す。と、 「熊だ」 「熊だな」  熊を見付けた。  行き交う人が多すぎて、背の低い女の子であればすぐに見えなくなってしまうのが普通なのだが、その熊は、人混みの中にあってなお、ありありとした存在感を発していた。黒い角刈りの頭に、揉み上げと繋がって口元を取り囲む硬そうな髭、と言うより毛皮。背は平均より文字通り頭一つ抜けていて、その上丸々とした体格をしている。そして誰の悪戯か、人間の服、それも白衣など着せられているから摩訶不思議である。能面のような顔をして歩く通行人も、その巨体が目に入った瞬間、一様にぎょっとした顔でその熊を見ているのだが、当の本人(くま)は一切気にした風ではない。手に持った小さな紙切れと前方を交互に見比べながら、その熊はのっしのっしと一直線にこちらに向かってきて、あろう事か自分と先輩の目の前で停止した。熊を前にしたときは一目散に逃げるべきか、いや確かゆっくり後退すべきだったはず、などと本気で記憶を探っていると、その熊は豪快に歯茎を覗かせ、自分と先輩の肩にどすんどすんと手を乗せた。 「いやぁ、待たせたな二人とも! 私が椿谷 大五郎だ!」  その熊は、どうやら椿谷さんだったらしい。                                         中 「そーか、こっちにいたんだなぁ。弥生ちゃんが西口って言ってたような気がしたんだが、おじさんの聞き間違いだったよ。済まないなぁ」  と、間延びしつつも大音量の声で大五郎さんは釈明した。どこかで聞いたような話である。  白衣の下は白いYシャツに黒のスラックス姿、ひのえと同じような服装なのだが、三角形と逆三角形を上下にくっつけたような体格のせいか同じとは思えない。白衣というと医者か研究者かと言ったところだが、全体を通して清潔感があり、白衣などは新品同然のように綺麗なため、医者の方ではないかと思う。どちらにせよ、誰かを迎えに駅まで出向くときまで、白衣を着て来るものなのかは定かではないけれど。 「あーっと、そっちが満君で、こっちがチリ君でいいのかな」  はい、と二人して答える。チリ君と呼ばれた先輩の顔が今どうなっているかは、もう見ないでも分かる。 「初めまして、神谷 満です。その、一週間よろしくお願いします」 「いやいやこちらこそ。だが、今は夏休みだろう? 一週間と言わず、好きなだけ泊まってくれて構わないんだぞ。私も上さんも、賑やかなのは大好きだからな」 「いえ、一週間したらちゃんと帰りますんで」  お構いなく、ときっぱり先輩が言う。例え天変地異に見舞われようと、意地でも一週間で帰るのだろうこの人は。 「まあ、先のことは先で考えておけばいい。それより、二人とも腹が減ったろう。何が食いたい?」  先輩と顔を見合わせる。朝ご飯は抜きに等しかったため、空腹なのは確かだし、自由にメニューを決めていいというのは何とも素敵で感動的な話なのだが、無遠慮に好みを言ってしまうのは悪印象、良くないことの筈だ。 「軽い物でいいですよ。駅前にファーストフード店があるでしょう? あそこらでどうです」  自分の心を見透かしてか、先輩がパンフレット情報を持ち出す。 「ううむ、バーガーか。医者としてはお勧めしちゃいけないところなんだろうが……。あ、私医者なんだ、こう見えて」  椿谷さんは誇らしげに笑う。白衣を着た肉屋がいたら見てみたい。 「そも、君らみたいな育ち盛りの子はあの辺のセットじゃ足りんだろう。よし、じゃああそこにしよう! 二人とも、はぐれるなよ!」  おー、と丸太のように太い右手を突き上げ、雄叫びのような声を上げた。きっと、他人の目など気にもならないのだろう。それが少しだけ羨ましい。  でも、ああほら。警備員さんがこっち見てますよ。                                         後 「豚ですか?」 「豚だな」  昼食はカツ丼になった。  両手でも覆いきれない丼に、山盛りの白米、金色に光る卵黄、見たこともないくらい分厚い豚カツ。風呂場みたいに立ち上る湯気からは、空腹をくすぐる芳ばしい匂い。目的地が蕎麦屋と知ったときには、成る程先輩の希望を受けた真っ当な選択だなと思ったものだが、しかし実際出てきたのは、平らげてしまえば一日動けなくなりそうなくらい重厚な一品だった。 「さあ食え、遠慮せず食え! 足りなきゃ二杯目三杯目も行って良しだ!」  向かい側に座った椿谷さんが、懐から取り出した桃色のマイ箸を手に合掌する。四角いテーブルには、三角形に置かれた三つの丼飯。しかし目の錯覚だろうか、自分から見て奥に置かれている筈の椿谷さんの丼は、遠近法に逆らって一回り以上も大きく見えていた。 「じゃ、じゃあ先輩、食べましょうか」 「カミヤ、俺の半分要らないか? どうも食欲が湧かなくて」 「お察ししますが無理です。いただきます」 「……いただきます」  先輩に習って割り箸を割り、端っこのカツを囓る。――旨い。文句なしに旨い。衣のサクサクした歯応えに反して、噛み切るのが全く苦にならない中の肉。噛めば噛むほど肉汁が溢れ、一緒に卵とご飯を口に入れれば、どれもこれも今まで食べたことの無いような旨味を引きだし合う。まだ熱くて、少し涙目になりながら咀嚼し飲み込み、水を飲んで口を冷やす。その水すらも、格別に美味しい飲み物に思えてくる。ほんの一口を済ませただけで、思わず感嘆の吐息を漏らしてしまった。 「どうだ、旨いか」  ニカニカと笑う椿谷さんに、自分と先輩は同時に頷いた。食べる前にはあんなことを言っていた先輩も、黙々と箸を進めている。余程気に入ったのだろうが、横から見ると、獲物を睨み付けつつ捕食しているような光景なので直視しづらい。 「旨いよなぁ、ここのカツ丼は絶品だよなぁ」  言いながら、椿谷さんもガツガツと食べ始める。なんて美味しそうに食べる人だろう、まるでクマが蜂蜜を貪っているようだ。 「ああ、旨い! いっそ専門店にすればいいだろうに。なあ、親父さん」 「おいおいクマ先生、ウチは蕎麦も絶品だぜ。若いのらにはそっちも宣伝しておくれよ」  悪い悪い、と椿谷さんは、丁度店の奥から出てきた黒い作務衣(さむえ)姿のお爺さんに笑いかけた。恐らくこの店の主人なのだろう。店の雰囲気は老舗らしい落ち着いた佇まいをしているが、たくさんの皺を寄せて笑う好々爺然とした人柄は、本当にこの店に合っていると思った。いや、この人あってのこの店なのだから、それは逆なのかも知れない。 「ところで親父さん、腰の具合はどうだい」  と、椿谷さんが切り出す。この人は本当に医者で間違いないらしい。 「ああ、先生に揉んで貰ってからは大分楽になったよ。俺もまだまだ現役だな、ってバカ息子にも昨日言ってやったとこだ。そのときのアレの顔、先生にも見せてやりたかったな」 「そりゃあ良かった。でももう結構な歳なんだから、あんまり無理しちゃ駄目だよ」 「そうはいかない。腰が命の蕎麦作りが、俺の生き甲斐だもんでね。ああ、そうだ先生、今度は息子の腰も見てやってくれよ。先生なら、あのへっぴり腰も治せるだろうよ」  一頻(しき)り笑い合ってから、お爺さんは「しっかり食ってけよ」と、自分と先輩にも声を掛け、席を離れていった。自分は呆然と、椿谷さんとお爺さんの遣り取りを見ていたものだから、先輩と、話しながらも食べ続けていた椿谷さんに比べ、かなり遅れてしまっていた。慌てて二口目を放り込むと、いい具合に熱も引け、カツ丼はより美味しさを増していた。 「あの、椿谷さん」  充分に味を堪能してから、さっきの会話の中で気になったことを、椿谷さんに尋ねてみることにした。 「椿谷さん、なんて堅苦しいな、せめて名前で呼んで欲しい。大五郎さんとかなんとか。ああ、学生時代はダイちゃんなんて呼ばれてたな。まあ、今は専らクマ先生だが」  愉快そうに椿谷さんは言う。あだ名に関しては、この人は先輩と正反対のようだ。 「じゃあ、大五郎さん。確か大五郎さんは、先々週この町に引っ越してきたんですよね」 「ああ、そうだな。弥生ちゃんかひのえちゃんが言ってたんだろう」 「はい、弥生さんがそう。……でも双町には、前にも住んでいたことがあるんですよね」  自分の言葉に、大五郎さんは眉間に皺を寄せ、首を傾げてみせた。 「いいや、双町に来たのは今回が初めてだな」 「ほんとですか?」 「嘘なんか言わんよ。好きでも得意でもない。んだが、どうしてそう思ったんだ」  信じられない話だったが、本当に嘘を言っているようにも見えなかった。自信があっただけに少し恥ずかしかったけれど、特に気にされてもいないようだったので、理由を話すことにする。 「いえ、その。今のお爺さんと大五郎さん、随分親しいように見えたので、昔からの知り合いだったのかな、と。少なくとも、たった半月で、あんなに仲良くなれるとは思えなくて」  自分が言い終わると、大五郎さんは合点がいったように何度も大きく頷いてから、水の入った湯飲みを仰いだ。 「時間じゃないんだ、人と人との仲ってのは。親身になって付き合えば、誰とだってすぐに打ち解けられるんだよ」  それこそ、自信満々に。大五郎さんは、その大きな顔をほころばせた。  けれど、自分には分からない話だ。誰とだって、すぐ。そんなのは不自然すぎる。人付き合いの得手不得手、向き不向き。趣味思考の一致不一致、性格の合う合わない。どんなに相性のいい相手でも、根気よく時間を掛けて付き合って、初めて親密な間柄になることができる。難しいんだ、自分と違う生き物との交流は。打ち解ける、なんて簡単に言うけれど、それは決して、誰にでも出来ることではないはずだ。 「僕には、とても真似できません」  そう、少なくとも自分には。頑張って話し掛けても、頑張って笑いかけても、上手くいくことなんて滅多にない。自分と相性のいい人なんて、きっとどこにもいないんだ、だから少しでも相性の悪くない人を見つけて、少しでも仲良くなれたら……。自分には、それくらいしか望めないんだ。  会話が途切れていた。ふと大五郎さんを見ると、太い腕を組んで、難しい顔で唸っていた。  そしてすぐ、手をぽんと叩いて、 「そうだな、少し私の話をしよう」  大五郎さんは、また笑顔を向けてきた。 「さっきも言ったとおり私は医者で、この双町で診察所を開くつもりでいるんだ」 「診察所?」  つまり開業医になろうという訳か。だがそれにしては随分と若々しい。普通開業医というものは、長年勤務医として病院で働いた医者が、その中で得た経験と資金を活かしてなるものだ。そうすると開業医は、それなりの年齢になっているのが自然なのだが。ひょっとして、見た目より若くはないのかも知れない。 「双町には元々、二つの病院があったんだ。だけど経営状態が芳しくなくて、去年統合になった。東西にあった病院の内、東の病院が潰れちまった訳だな」  近年、病院経営は非常に厳しくなっているらしい。社会的に表沙汰にされるのは医師不足の四文字だが、それはつまり人件費の高騰に繋がっている。貴重なものに高値が付くのは、なにも物だけではないのだ。医者――大病院にいるような勤務医にしても、より給料のいい仕事場を選ぼうとするから、経営側は人件費を削る訳にはいかない。削れば医師不足で倒産、削らなければ赤字で倒産。地方経営の医療機関は特に、そうやって少しずつ数を減らしているのだそうだ。 「まあ小さな町だし、西の病院しかないならそっちに行けばいいんだが、大変なのはお年寄りや、足の不自由な患者さんだ。東側に住んでいて、定期的に通院するとなれば、町の西側にしか病院がない現状は不便極まりない。そこで」 「町の東側に、個人経営の診療所を建てようと?」 「そういうことだ」  などと喋りつつも、大五郎さんの丼は見る見るうちに底を除かせた。自分はと言えば、時々思い出して、一口食べるを繰り返しているものだから、量は全然減ってくれないのであった。 「そう思って越してきたはいいが、実はまだ開業できてないんだ。手違いで、一部の医療機器の到着が遅れてね、あと二週間はお預けだ。苦労して最新の設備を整えたって言うのに、道具がなくちゃ仕事にならない。一ヶ月近く暇を持て余して、さあ何をしようかと思い悩んだすえ、始めたのが巡回医さ」 「巡回医? そんなのもあるんですか」 「まあ、正式なもんじゃなくてね。言うなれば押し掛け診察ってなもんだ。一軒一軒、ご近所に挨拶に回って、世間話なんかをして、何か悩みがあったら聞く。その場で出来ること――例えばマッサージとか、ちょっとした食事の工夫を教えたりとか、そういうのがあればやっていく訳だ」  成る程、医療器具も何もないものだから、結局大したことは出来ないけれど、医者としての免許とか経験とかが役立つところは幾らでもある、ということか。しかし……。 「それって、歓迎されましたか?」 「おう、最初の内は厳しかったな。流石に余所者がいきなり尋ねてきて、身の上相談も何もないもんだ」  ははは、と大五郎さんは、なんだか乾涸らびたような笑い方をした。相当に手痛い歓迎を受けたのだろう。その記憶を払いのけるように、大五郎さんはカツ丼を口の中に掻き込んだ。 「けど、最初だけだ。話せば分かってくれない人はいない。ここの親父さんだってそうさ。実に気のいい人だが、自分のことは自分でなんとかするって立派な方で、大の医者嫌いときてた。何度も通って、飯食って。最近ようやく、色々と話してくれるようになった」  馬鹿でかかった声のボリュームが少し落ちたのは、本人に聞かれたくなかったからか。臆することをしない人だが、他人への配慮をしない人ではないのだ。 「いいかい満君。大事なのは“無理だ”とか“できない”なんて思わないことだ。どんなに頑張っても、諦めることなく続けても、上手くいくと信じていなけりゃ何にもならない。やるからには徹底的にだ。自分の力を、心から信じてやる。そうすれば人間、できないことなんてそうそうないんだ」 「…………」  記憶の中の姿と重なる。ああ、確かにこの人は医者だ。服装とか伝聞とかではなく、自分自身の心が今、椿谷 大五郎を医者と認識したのだ。  自分の知る医者はかつてこう言った。患者に“絶対に治る”と信じさせ、安心してもらうには、まず医者がそう信じなくては始まらない、と。あれは決して、医療に関してだけではなかったのだ。  自分にも関わる話。自分だけでなく、生きているのなら誰しも関わりのある話。だって、自分を、自分の生を信じられなかったら。ただ生き続けることすら、辛いことなのだから。  ――ああ、でも。  それは、今からでも。  こんな、僕でも。  叶う願いなのだろうか―― 「まあ、今すぐ分かる必要なんて無いさ。君らまだ若いんだから。何事にも当たって砕けて灰になれ、真っ白にな!」  そこで何故ファイティングポーズを取るのかは分からないけれど。嬉しくて、笑顔がやめられない。人と話すことで、別の価値観に触れることで、こんなにも自分が大きく広がる。今の自分の悩みなど、すぐにちっぽけに見えてしまうだろう。そう思えるくらい、今の話は刺激的で、興味をかき立てられたのだ。  そして予感する。これからの一週間は、きっと自分にとって、掛け替えのない日々になるだろう、と。 「ごちそうさまでした」 「え」  それまで黙っていた先輩が手を合わせていた。いつの間にか完食していたらしい。 「おう、チリ君は食い終わったか。もう一杯いく? あ、いい? じゃああとは満君だけだな」  と、よく見れば大五郎さんのも空っぽだ。ご飯粒一つ残っちゃいない。そして自分の丼には、まだ半分以上のカツ丼が乗っていた。 「ごめんなさい、すぐ食べます」 「まあまあ、気にせずゆっくり食べていいぞ。親父さーん、キツネ一丁追加でー!」  まだ食べるのか! と、先輩と顔を見合わせる。しかしそんなことより、自分は早く食べなければ。誰かと一緒に、しかも喋りながら食事した事なんてほとんどなかったから、変に食べるペースが遅いのだろう。ゆっくり食べていいと言われたが、そういう訳にはいかない。自分は先輩と、大五郎さんと、もっとたくさん、気兼ねなく話していたいのだ。そのためには食事すら億劫だ。何故発声と食事のための機関が同一なのだろうと、人体の理不尽に憤慨すら覚えてしまう。  それくらいに自分は、彼等との対話を、楽しいと感じていたのだ。