夏夜の鬼 第三章「Doppel Ganger 前編」 4  ただ眩しかった。  なんてことのない街灯が、真昼のように夜を照らす。  行き交う人々。僅かに聞こえる笑い声。眠らない町。  少しだけ寒い。空調が効き過ぎているようだ。  柔らかくて、けれど冷たい布団にくるまり、丸くなって目を閉じる。  瞼の裏がぼんやりと明るい。部屋の電気が付けっぱなしなのだ。  ベッドに入る前、当たり前のように消灯しようとして、なぜだかそれは躊躇われた。  身震いがする。酷く足回りが冷えている。抱え込むように両腕を回す。  切り落とすことが出来たらどれだけ楽だろうと夢想する。  そうして間もなく、意識は途切れることになる。                                         前 「眠そうね。昨夜は寝られなかったの?」  そんな挨拶を寄越したのは、優雅にモーニングコーヒーなど啜っていたひのえだった。屋内にも関わらず昨日と同じ帽子を被っているのは、髪の色のせいで目立つのを避けるためなのだろうが、どのみち目立つのは変わりなく、遠くからでもすぐに彼女を見付けることが出来た。  場所はホテルのエントランスの片隅に設けられた小さなカフェである。エントランスは白を基調にした清潔感溢れるレイアウトで、カフェテーブルとイスのセットが幾つか並べてある一角をカフェと称しているらしい。一見したところ、自分たちが泊まったのはこの辺りでは一番立派なホテルのようだったが、カテゴリとしてはビジネスホテルの部類であり、基本的に朝食は付いてこない。ただ、ソフトドリンクやサンドイッチのような軽食程度であれば、このカフェで注文すれば出してくれるという話だった。  ひのえの座っているテーブルにはコーヒーカップ、空になったスティックシュガー三本とガムシロップ、そして何も乗っていない皿がある。どうやらひのえは、パンか何かの朝食を既に摂った後らしい。 「おはようございます。ええと、そんなことはなかったと思うんですけど」  なんとか笑みを浮かべて答える。実際昨夜は、近場のレストランで夕食を済ませ、このホテルに到着してすぐに床に就いた筈である。今が七時半ということは、丸々十二時間は眠っていた訳だから、寝不足な訳がない。……のだが、なんだか目がしょぼしょぼとして、身体も気怠い感じが残っている。人間寝過ぎも良くないと言うが、強ち間違いでもないようだ。 「慣れない場所では疲れが取れないのかしら。損な体質なのね、貴方」 「済みません、心配掛けて」 「道中で倒れでもしない限り構わないわ。それより、朝食はどうするの?」  ひのえの問いに、考える振りをして辺りを見渡してみる。周りにはビジネスマンらしいスーツ姿の男性がちらほらと、忙しそうに歩いていたり、カフェでノートパソコンのキーボードを叩いていたりするのだが、どうもそこここから視線を感じる。それはそうだ、ビジネスホテルに自分たちのような子どもがいることなどほとんどない筈なのだから。保護者の大人でも一緒にいればまだ自然なのかも知れないが、今は自分とひのえの二人だけ。これでは目立っても仕方がないというものなのだろう。 「あの。あまり食欲がないので、朝は――」 「食べないのは駄目よ。朝は少しでも何か口にしておかないと、身体に悪いもの」  ぴしゃりと言われて内心たじろぐ。ひのえの言い分は尤もなのだが、自分としては今起きて歩いていることだけで一杯一杯なのである。そして出来ればすぐにでもここから離れたい。 「私と同じ物でいいわね。頼んで来るから、座って待っていて」 「あ、あの……」  ひのえはすっと立ち上がって、淀みない動作でカウンターの方へ歩いていく。昨日、弥生の前でおどおどとしていた女の子と同一人物とは到底思えない。ひのえは変わらずキャリアウーマンスタイルなのだが、場違いで目立つのは僕と同じだ。なのに周りの視線を全く気にしないその言動は、本当に大人のようだった。  言われたとおり、ひのえの座っていた席の正面に座る。少し大きめのイスに戸惑って、その冷たさに一瞬身が震える。外がどうなのか分からないが、ホテル内は冷房が効きすぎていて寒いくらいだ。  ぼうっと虚空を見つめる。視界を占める白い世界が、白濁した微睡みに似ている気がした。条件反射というものか、急激に眠気が襲ってくる。冷えた空気、冷たいイスに遮られるかとも思われたが、何年もの長い間積み重ねてきた慣習は、この程度では揺るがなかった。瞼は重力に呆気なく押し負け、その道連れになるように全身の力が抜け落ちて、 「そんなところで寝ても、休まらないわよ」  ハッと目が覚める。知らない間に垂れ下がっていた首がぐいと持ち上がり、そこで変に力が入ったのか、後ろの首筋に鋭い痛みが走った。 「……忙しない人。いい反面教師になれそうね」 「は、はんめん?」  目の前で、呆れたような顔でひのえが言う。彼女はいつの間にか帰ってきていて、さっきと同じように座っていた。  手で押さえた首はヒリヒリとしているが、徐々に痛みは引いてきている。特に傷んだりはしていないようだ。 「あの、反面って、何のですか」 「いいから食べたら? 冷めるわ」  ひのえの促すままにテーブルに目を落とすと、ひのえの前にあるのと同じ食器が並んでいた。違うのは、皿の上に野菜の三角サンドイッチが四つ乗っているのと、カップの中身が真っ白だという二点である。自分と同じ物、とひのえは言った筈だが、コーヒーがミルクに化けているのは果たして如何なる気遣いだったのか。 「じゃあ、頂きます」  ここに長居するのも、ひのえを待たせるのも気が引けるので、さっさと食べてしまうことにした。さっきの痛みで大分目は覚めたし、食べ物を前にして食欲も少しは湧いてきている。差し支えはないだろう。 「今日のことだけれど」  サンドイッチにかぶりついたところでひのえが言った。「食べながら聞いて」と付け加えられたので、構わず食べ続けることにする。 「九時四十分発の電車で双町に向かうわ。チリさんとは十分前に、昨日と同じ場所で待ち合わせてね」 「え。待ち合わせとか、いつ決めたんですか」 「昨夜よ。電話でチリさんと打ち合わせたの」 「電話……」  先輩とは直接会っていたのだから、その時に決めてしまえば良かったのではとずっと思っていたが。弥生の家から先輩が出てきたのを見たとたん、さっさと帰ってしまったのはひのえであった。自分はもう少し先輩と話したかったのだけれど、ひのえを見失えばその日の寝床に迷うことになりかねず、仕方なく後を追ったのだ。  合理的とは程遠いひのえの行動に、なんとなく興味が湧いた。 「ひのえさんは、せ――チリさんのことが嫌いなんですか?」  ひのえはコーヒーを飲む体勢のまま、じっとこちらを見つめてくる。その目は、昨日見た、敵意を持って先輩を睨み付けていたものではなく、あくまで可愛らしい少女の瞳のままだった。 「私、無礼な人は嫌いなの」  ぷいと視線を逸らされる。 「無礼……弥生さんに対してですか」  ひのえは無言でコーヒーカップを置く。当たり前だと言わんばかりだ。 「じゃあひのえさんは、弥生さんが好きなんですか」 「おかしな言い方。姉を愛さない妹なんているのかしら」 「それは、いるんじゃないですか? 僕は一人っ子ですから、良くは分かりませんけど」  ほどんどが伝聞に頼る話だが。兄弟のいる子どもは一人っ子、一人っ子の子どもは兄弟という関係に、それぞれ憧れるものではないだろうか。隣の芝は青々と茂って見える。それぞれ一長一短だろうに、自分の境遇の悪いところ、他人の境遇の良いところばかりに目が行って、お互いに羨ましがり合う。自分は、そこまで兄や姉、弟や妹を欲しがった事はないけれど、そういう気持ちも分からないではないと思ってきた。 「自分に近い境遇にあって、自分より前を歩く人というのは、それがどのような人物であれ尊いものよ。お姉さまのような立派な方であれば尚のこと。それを嫌うだなんて、目が節穴なのか、でなければ単なる照れ隠しね」  詰まらない話、とひのえは心底詰まらなそうに呟く。そうやって語るひのえの顔が、記憶の中の弥生にだぶって見えた。 「でも見たところ、弥生さんはあまり気にしていないようでしたよ、無礼だなんてことは」  むしろ、蔑称らしいあだ名を連呼していた辺り、相当に気を許しているような気さえした。……が、口にしてから、気がしただけかも知れない、と思い直した。彼女の考えていることなど、自分には何一つ掴めていないと、そんな声が聞こえたようで。 「そうね。お姉さまは誰にでもお優しい方よ。誰にでもね」  自分にも言い聞かせるように、淀みなくそう口にするひのえに、 「誰にでも?」  自分は思わず、そう聞いていた。 「何か変?」 「……いえ」  首を振ることしか出来ない。身体が冷え、コーヒーカップの取っ手に指を掛けた手が震えている。カップの中で揺れる白を見て、一瞬あの白い髪が脳裏に過ぎる。有り得ない幻影を振り切るように、カップの中身を飲み込む。暖かな液体が体内に流れ込み、危うくなったバランスがどうにか保たれる。このとき、自分の中ではっきりと、三鬼 弥生に対する恐怖を感じていた。 「……本当に調子が悪そうね。今思えば、お姉さまの提案は貴方の為だったのかも知れない」 「はい?」 「貴方にホテル暮らしは合わないということよ」  ひのえは立ち上がり、皿とカップをゴミと一緒に重ねて持った。 「チェックアウトは十時だけれど、九時には荷物をまとめて此処に来て。それまでは自由にしていて構わないわ」  そう言い残して、ひのえはカウンターまで歩いていった。食器を返し、エレベーターに消えていくひのえを、自分はぼんやりと眺めていた。 「何をやっているんだろう、僕は」  肩を落として、ひのえの消えた席に視線を戻す。ホテル暮らしが合わない? そんなの当たり前じゃないか。自分は――神谷 満は普通の人間だ。普通の人間は自分の家で暮らすものだ。朝食だって、一人や、出会ったばかりの女の子と一緒に食べたりはしない。寝る時は自分の布団で、ちゃんと部屋の電気を消して寝るし、寝過ぎて体調を崩すようなこともしない。今は夏休みなのだから、日中は友達と遊びに出かける算段をしたり、山積みの宿題に頭を悩ませたり、家族でお喋りして、水入らずで何処かに連れて行って貰ったりするものだ。こんな、知らない誰かと共に自分自身を追い掛けるなんて普通じゃない生活が、自分に合う訳がないじゃないか。  皿の上に目を移す。少し口を付けただけの朝食がそこにあったが、先程までの食欲はもうなかった。胃は次の食料を待ち受けているように音を鳴らすけれど、頭がそれを拒否してしまっているようだ。それでもなんとかカップを仰ぎ、中身を空にする。ギュルギュルとお腹が不満を漏らすが気にならない。結局食べかけのまま、カフェを後にすることにした。                                         中  待ち合わせ場所は昨日と同じ、夏臥美駅南口の階段下。約束の二十分前には到着し、そして先輩がやってきたのはその十分後、九時二十分のことだった。 「お早うございますチリさん。意外です、てっきり時間にルーズな方だと思っていたのに」 「そういう体質にされちまったからな、どっかの誰かに」  出会い頭に空気が凍る。朝とは言え夏らしい暑さを保つ晴天の下、気温が少し下がったように感じた。 「お早うございます、先輩」 「……ああ、お早う」  挨拶を返して、先輩は眠そうに欠伸を漏らした。先輩の服装は昨日と似たようなものだったが、黒のTシャツには白い十字のラインが入っていた。他に見える違いと言えば、藍色のショルダーバッグを右肩に掛けているくらいだろうか。 「昨日は、弥生さんと何を話していたんですか?」 「ああ、別れ際か。二つ三つ忠告をな」  ケータイのディスプレイに目を落としながら、何気なく先輩はそう答えた。特別、変わったことは言われなかったようだ。 「ところでそっちの、ええと――」 「“ひのえ”で構いませんよチリさん。お姉さまと同じ呼び方ではややこしいでしょう」  物怖じせずにひのえが言う。先輩を良く思っていないと言っていたけれど、それでもこういうことが言えるのは素直に偉いと思う。 「じゃあ、ひのえ。まだ少し時間あるけど、早めにホーム行った方がいいぞ。この時間だとまだ少し込むから、のんびりしてると面倒だ」 「そうですね。参りましょうか」  和気藹々(あいあい)、などには程遠くとも、穏便な遣り取りに多少なり憂色も晴れた気がした。先輩は、自分からすればもう大人のようなものだし、ひのえにしても態度ならば大人そのものだ。いつまでも啀(いが)み合っているのでは、などというのは、やはり単なる杞憂に過ぎないのだろう。 「カミヤ? はぐれるぞ」  先輩に声を掛けられて、呆然と二人の背中を見送っていた自分に気が付いた。もう少しで、人混みに紛れて見えなくなっていたところである。一つ笑顔を向けてから駆け出していく。今ようやく、頭が起きたような気分だった。 「大丈夫か? なんかぼうっとしてたけど」 「すみません。でも平気ですから」  心配は要らないと、もう一度笑顔を送った。ひのえに続いて先輩にまでも心配されるほど、今の自分は挙動不審なのかと焦る気持ちもあるが、意識していればそうそう失態も繰り返さないだろう。先輩と隣り合って、先に歩くひのえの後ろに付く。 「昨日はどこに泊まったんだ? ホテルって話だったけど」  今度は先輩から話し掛けてきてくれた。人の多い場所で声も聞き取りづらいが、こんなに楽しい機会を逃す手はない。起き抜けの頭にやる気を灯して、気持ちにより勢いをつける。 「近くですよ。名前は確か、ニューステーション、とか」 「うわ。いいトコ泊まったんだな」  溜息混じりに先輩が言う。羨ましがられているのかも知れないが、身に覚えがなさすぎて気持ちが悪いだけだった。 「良すぎです。あれじゃ僕には落ち着かなくって」 「贅沢な話だな。まあ、子どもが行くような場所じゃないんだろうが。朝飯は?」 「ホテルの中にあったカフェで、少し。美味しかったですよ、ええ」  ひのえの真後ろで本当のことを言う訳にもいかず、嘘を吐く羽目になってしまった。後ろめたさも当然あるが、だからこそこれから気を引き締め、挽回していけばいいのだ。 「先輩は、どの辺りに住んでるんですか。やっぱりこの近くに?」 「いいや、結構遠くだな。駅からずっと東側に上ってった先の住宅街。この辺りなんて家賃高すぎて、頻繁に電車使う連中くらいしか住みゃしない」  先輩の言い方を疑問に思って聞いてみると、夏臥美町は随分と面白い地形で、駅を中心に抉り取りでもしたような形をしているらしい。つまり、今いる駅周辺と町の外側は坂道で繋がれているという訳だ。こうして聞いてみると、町それぞれに特徴があって興味深いものである。 「これから向かう、双町ですか。そこはどういった町なんですか」 「都心に近づく所為なのか、ここらと同じかそれ以上の都会だよ。高層ビルなんかもちらちら建ってる感じで。ただまあ、最後に行ったのって何年も前の話だから、今どんな風になってるかはよく知らないよ」  先輩の言葉を聞きながら、昨日電車の中で見た風景を思い出す。うんざりした都会風景の終端が双町だったという訳だが、その辺りの記憶は曖昧だった。無理もない、外を眺めているのも飽きに飽きた頃だったのだから。  改札口の前まで来て、一度先輩が離れていく。自分は予め、ひのえから切符を貰っていたが、先輩の分は用意していなかったらしい。弥生宅での話しぶりからして、ひのえは先輩が同行することは承知済みだったはずだが、微妙なところで悪意が覗いている気がする。 「双町の話の続きだけど」  改札を抜けたところで、再度合流した先輩が言ってきた。 「近いうちに花火大会があった筈だ。規模も大きめで、それなりに人も集まるんだと」  俺は行ったことないけどな、と加えられる。確かに、わざわざ電車まで使って花火を鑑賞したがる人には見えない。……にしても、 「花火大会?」  反応せざるを得ないのがその単語である。 「と言うと、やっぱりこう、ドカーンと、大きなのが見られたりするんですか」 「そりゃあ、花火だからな。夏臥美町からだと、標高の高い外側からなら、山の向こうに上がってる花火が見えたりするよ。音もでかいし」  聞いているだけでその情景が目に浮かぶ。ただし立体感などまるでなく、テレビや雑誌で見た記憶が元の二次元的なものではあるが。それを、ひょっとすれば今回、間近で見られるかも知れないというのだ。これが娯楽かと気持ちが逸る。これが自由かと心が躍る。 「……なに。花火、好きなのか?」  不意に、というより最早案の定、先輩がそんなことを聞いてきた。早速自分の行動を制御できていないことに不安が横切る。 「いえ、その。見たことないんですよ、そういう花火って。手持ち花火なら、少しやったこともあるんですけど」  へえ、と先輩が零す。なんとなくデジャビュ。そして改めて、自分の世間知らずを思い知らされてしまう。 「盛り上がるのはいいけど、見に行けるかどうかは分からないわよ」  ひのえが会話に割り込んでくる。見れば自分たちはとうにホームに行き着き、背の高い大人達に混じって、電車の扉が開くのを待っているところだった。中には誰も乗っていないし、なかなか開きもしない。どこのローカルラインかは忘れたが、この夏臥美駅が始発らしい。 「花火大会は四日後。その日に標的が現れないとも限らない。花火に気を取られて相手を見逃しましたなんて、一生涯の、いえ、末代までの恥よ」  これである。ひのえにとっては花火など、仕事との間に大なり記号が十や二十くらい挟める程に低い低い優先度なのだろう。雰囲気が大人でも、中身が夢見る少女のままであればもう少し可愛げはあっただろうに。  そこでアナウンスが鳴る。間もなく扉が開き、電車も発車するようだ。 「お喋りは一旦やめて頂戴ね。くれぐれもはぐれたりしないように」  はい、と返す。先輩は返事をする代わりに、ひのえには聞こえないほどの小声で「学校の先生か」と呟いていた。なるほど、ああいうのが学校の先生らしい物言いなのか。                                         後  電車内は混み合っていた。と言っても、都会の通勤ラッシュ並の混雑を予想していた自分にとってはそれ程でもなく、かなり隙間のある混み方である。それでもこうして三人揃って席に座るには、やはり早めに動いておいて正解だった。  青い座席は硬く、座り心地がいいとは言えない。効き過ぎの空調が体調を崩しそうで怖い。見覚えのある箱の中である。 「双町市街の駅までは三十分でしたか。経過駅はたった二つなのに、随分と時間の掛かることですね」  自分に向かい合って座ったひのえが、窓の外を眺めながら言う。昨日の電車内の姿を切り取って、そのまま貼り付けたように同じ姿勢だ。 「山道だからな。中間の駅で降りる客はいないだろうけど、まさか無視する訳にもいかないし」  隣で先輩が応じる。進行方向右の四人用席で、自分とひのえが窓際、通路側に先輩と、ひのえの隣の白髪の交じったサラリーマンが座っている。サラリーマンは一瞬、ひのえの格好を見て目をぱちくりしていたが、今では手すりに頬杖をついて舟を漕いでいる。顔面に刻み込まれた皺の数々が、まるで勲章のように輝いて見える。 「駅に着いたらどうするんだ。ツバキヤとかいう人の家にすぐ向かうのか?」 「そうですが、私は監視者と一度接触したいと思います。ですからチリさんは、神谷さんを連れて先に椿谷邸に向かって下さい」  監視者がどうだとかひのえは平気で口にするが、周囲の耳は気にしなくて良いのだろうか。どうせ子どもの言うことだと、聞き流されているのかも知れないが。 「いやちょっと。家の場所とか俺知らないぞ。口頭で言われても、土地勘ないからまず迷うし」 「駅へ迎えを寄越して貰えるよう、お姉さまが手配して下さっている筈です。相手方は神谷さんの顔写真を持っていますから、上手く見つけて貰って下さい」  なんだかぞんざいな落ち合い計画である。見ず知らずの子どもの世話に出迎えなど良く引き受けたものだと、その椿谷某の人も気の毒に思えてくる。 「ところでチリさん。折角の機会ですし、少々お聞きしたいことがあるのですが」 「ん?」  ひのえが居直って、真っ直ぐに先輩を見る。こうして見ると、やはりひのえは美人だった。弥生も美人ではあったが、ひのえの持つ隠しきれない稚(いとけな)さはなかった。いずれ姉のような、完全な大人の顔になるであろうその過程、成熟と未熟の中間に位置する奇跡なような顔立ちは、弥生とは違った意味で、美しかった。 「昨日の様子を見るに、お姉さまは貴方に対して、かなり信を置いているように見受けられましたが」 「気のせいだ」 「お姉さまとは、どのようなお付き合いをなさっているのですか?」 「気のせいだ」 「先輩それ答えになってないです」  思わず突っ込んでしまうと、先輩は、お前空気読めよと言わんばかりの目を向けてきた。ちょっと後悔する。 「どんなもなにも。単なる知り合い。あえて言うなら雇用関係だよ」 「そのようなことを聞いている訳ではありません」  すぐさまひのえが返した。意味がよく分からない、と自分と先輩は同時に小首を傾げた。 「え、っと。じゃあ、どういうことなんでしょう」 「貴方には今朝方言ったばかりでしょう、カミヤさん。お姉さまは誰にでもお優しいのよ。相手がどんなに取るに足らない羽虫のような人物であれ、平等に接するわ」 「それは俺のことを言ってるのか」 「ええそうです、貴方の話ですよチリさん。私が言いたいのはですね、“貴方は、お姉さまのことをどう思っているか”という、ただ一点のみです」  要するに、信頼を置いてくれている弥生に対し、先輩がどういうつもりで付き合っているのか、ひのえは聞いている訳か。 「あー、なんだ。考えたことない」 「なんですって」  ひのえの声にドスが利いた。見た目が少女なだけに、そういう邪気とのちぐはぐさが妙に不気味だ。  見た目からして怖い人は、“怖い自分”を演じている節がある。自分を何とかして強く見せようという心掛けが見え隠れして、逆に安心できるのだ。だがひのえは、そういう飾り気抜きにして、感情を剥き出しているのだと分かる。つまり、怒らせたら多分、本気で本当に怖いのだ。 「考えたことがない? あれだけ良くして下さっているお姉さまに対して、何も思うところがないと?」  ひのえの様子には、先輩も少なからず身構えてしまうのだろう。重たい空気が数秒流れた。 「良くして貰ってるってのには大いに異論のあるところだけど。まあ、あいつ――」 「どなたですって?」 「……ヤヨイサンに対する印象って話なら、精々、生活費をくれる人ってだけだ」 「お金目当てで付き合っていると?」 「聞こえ悪いけど、実際そうだよ。悪いのか」 「いいえ、ちっとも」  ようやくひのえが鎮火し、窓の外を見るボーズに戻る。 「それを聞いて安心しました。悪いかと問われましたが、全くそんなことはありませんよ。金銭目的、結構じゃないですか。まさしく健全な労働者の行動原理です」 「そりゃどうも」 「下賤な欲求が出ているだけにシンプルで分かりやすく、納得に足ります。変に建前を並べて劣情まみれの下心を隠すような素振りを見せたならば、二度と夏臥美の地を踏ませはしなかったでしょう」 「……そりゃあ、なんとも」  物騒な話である。仮にも学生同士でする話ではない。……と思ったけれど、あれ、案外そんなことはないような気もする。最近は進んでいるらしいという話は、何度か聞いたことがあった。ネットの情報なので眉唾物だったが。 「まあ、もしもそんなものがあったとして、それをお姉さまが見逃す訳もありませんが」 「ああ、それは同感だ。あいつに向かって隠し事なんて出来っこないよ」 「……私の思い違いでなければ、チリさんは確か、お姉さまより一つ下の学年だった筈でしたが」 「……ヤヨイサン」 「結構です。ただし、お姉さまの前でその棒読みを繰り返したら丸坊主にします」 「なにその罰ゲーム嫌だよ」  笑いがこみ上げる。この二人も、出会ったのは昨日が初めてだった筈だが、端から見ているともう大分慣れた仲に見える。羨ましい、と素直に思う。けれど、妬ましいだなんて思わない。だって、自分だってもう、同じ場所に立っているんだから。 「でも先輩。弥生さんと雇用関係で、生活費を貰っているって、どういうことなんですか? バイトの斡旋とか?」 「なにそれ。そういうの雇用関係って言うか?」  言わないのだろうか。いや、言わないのだろう。 「あれだよ、幽霊退治。その報酬を金で貰ってんの」 「幽霊……ああ、擬獣っていうやつですか。やっぱり、凄いんですねチリさん。僕だったら、あんなの前にしたら一目散に逃げ出しちゃいますよ」  自分でなくとも、それはみんな同じな筈だ。世間を知らない自分でも、あんな化け物が普通でないことくらいは分かる。怖い夢なら何度も見たが、それが現実に、目の前に現れたとしたら、途轍もなく屈強な人間でさえ、逃げるか立ち竦むかの二択にならざるを得ないだろう。  そうでない者がいるとすれば、それは……。 「俺だって出来れば相手なんてしたくないよ。けど、背に腹は変えられないって言うだろ」 「はあ。生活費、ですか」  疑問が生じる。けれどこれはなんとなく、口にしてはいけないことではないかと思う。誰しも、あまり人に話したくない事情の一つや二つ、抱えているものだ。生活費という単語を用いているのも、先輩なりの譲歩なのかも知れない。 「そう言えば一つ、確認しておくべきと思っていたのですが」  ひのえが、先輩に向けて話し掛ける。今度はさほど敵意も感じられない、と思う。 「次元隧道(カブリオルポルテ)の一件。あれを解決したのは貴方であると報告されていますが、事実ですか?」  耳慣れない単語が飛び出した。話の流れから察するに、擬獣に関連する事件か何かのことなのだろうか。対する先輩は相変わらずの表情である。 「……どうもそうらしい。記憶は、なんでか曖昧だけど」  自信なげな回答にひのえがむっと口を尖らせる。けれどすぐに、諦めたように顔を戻した。 「そうですか。或いはお姉さまの何らかの配慮かとも思いましたが、やはり間違いない話のようですね」  ああ、と先輩が言う。何か思うところでもあるのか、不満げな視線が宙を睨んでいる。 「お姉さまからは聞いているとは思いますが、あれの注目度は、機関の中でもかなり上位だったんです。能力者の擬獣化など、本来ならあってはならない大事件なのですから」 「大事件って、そんな凄いものを解決したんですか、先輩は」 「ええ。お姉さまもお褒めになっていたわ。チリさん、貴方随分と謙虚なんですね」  ふん、と無愛想に先輩は顔を背けた。  なんだか先輩は、思っていたよりもずっと凄い人のようだ。強くて、格好良くて、そしてやっぱり少しだけ、怖い人なんだ。 「先輩も、不思議な力が使えるんですよね。どういうものなんですか?」  ついそんなことを聞いてしまった。先輩は答えてくれないかも知れないと思ったけれど、今後のために聞いておきたいと思ったから。 「それは――」 「それは尋ねていいことではないわ、カミヤさん」  何か応えてくれようとした先輩を遮って、ひのえが言った。特別視線が鋭くなっている訳ではないが、真っ直ぐ見つめられると、やはり少しだけ動じてしまう。 「どんなに強い力にも弱点はある。どんな系統の力であるか知られるだけで、行動を敵に読まれやすくなってしまう。タネの知れた手品に興醒めするのと同じ。私たちにとって自らの力は、可能な限り隠匿するべきものなの。機関の中でそれは暗黙の了解。どんなに近しい相手であれ、自分の能力は隠すべし、尋ねるなんて以ての外、と」  ひのえに注意されている中なのだけれど、なんだか感動して、話の中身は右から左だった。先程の先輩ではないが、学校の先生に怒られるって、こういう感じなのだろうか。前の人は穏やかな気質の方だったから、何となくしっくり来なかったのだが、ひのえは確かに、何かの先生のようだ。 「済みません、ひのえさん。もう聞きません」 「ええ、それならいいわ。私やチリさんはともかく、機関の中には神経質な方も多くいるから。変に手の内を尋ねたりしたら、その場で殺されかねないの」 「あはは、まさか」  ジョークだと思って笑ったのに、笑ったのは自分だけだった。怖い。怖すぎるこの人たち。 「あのさ。俺も聞きたいことがあるんだけど」  今度は先輩から話題が振られる。視線からして、ひのえ七割、自分三割といった配分で聞いているようだ。自分に分かることなら、ひのえより先に答えてみせよう、と意気込んでみる。会話が弾むと、つられて気持ちも弾んできてしまうものだ。 「その、機関ってのさ。一体何なんだよ」 「…………」  ガタンゴトン。電車は恙なく運行中である。 「お姉さまから聞いているものとばかり思っていましたが」 「聞いてない。いや、言葉自体は会話に出てきてたけど、説明は受けてない」 「……話題になったなら、その場でお姉さまに聞けば良かったでしょうに」  同感である。思えば自分も、そうやって色々と質問攻めした経験がある。機関がどうとか、難しい話はよく理解できなかったけれど。 「いやそれないから。どうせ『君の知る必要のないことだ』とか言うに決まってる」 「お姉さまがそう仰ったんですか?」 「いいや。でも分かるよ、それくらいは」  手を扇ぐように振って先輩は言う。その真偽は、昨日一度顔を合わせただけの自分には分からないけれど、あの弥生との付き合いは先輩もそう長くはないはずだ。流石に見切りが早過ぎるのではないだろうか。 「何にせよ。お姉さまが伝えていないことを、私からお教えすることは出来ません。申し訳ありませんが、貴方の質問には応じかねます」 「なら、別にいいよ。どうしても知りたいって訳ではないしな」 「それはそれで問題発言ですね。機関の一員であるという自覚を持って頂かないと」 「……なんの自覚だって?」  聞き捨てならない、と先輩が睨む。ひのえは呆れた顔でそれを見返す。 「お姉さま――三鬼 弥生は、機関で一、二を争う名家、三鬼家の次期当主ですよ。その部下である貴方が、機関に属していない訳がないでしょう」 「部下って。冗談だろ、軍隊じゃあるまいし」 「雇用関係の自覚があるのなら否定しないで下さいませんか、ややこしい。第一、機関は既に、貴方がお姉さまの勢力下にあるという認識を持っています。貴方の意志など、疾うに意味を失っているんですよ」  先輩が黙る。ああ面倒臭ぇと言わんばかりに、通路を挟んだ向こう側の窓の外へと視線を投げる。ちょっと雰囲気が良くなったと思ったらこれである。この人たち、これから一週間同じ家で暮らす気があるのだろうか。そしてもう少し、愛想笑いでなんとか場を和ませようとしている自分のことを気遣ってくれたら、非常に嬉しかったりするのだけれど。