後ろから、ガチャリと金属の鳴る音が聞こえた。音の方を見てみると、ひのえが引いていたキャリーバッグが地面に倒れていた。金属音は、本体から長く伸びた柄が地面にぶつかった音だったようだ。安定性抜群の四輪から、カラカラと虚しい泣き声が聞こえてくる。
そして持ち主のひのえはというと、この世の終わりでも垣間見たかのように真っ青な顔で震えていた。両手で口元を覆い、今にも悲鳴を上げそうな息遣いをしている。元々大きめの瞳はこれでもかというくらい見開かれ、若干潤んでいるように見えなくもない。並大抵のことでは毛先ほども動じなさそうだと思っていたひのえが此処まで挙動不審に陥るとは、尋常ではないショックを受けたのだろうと見て取れる。
くるりと前に視線を戻す。そこにあるのは、ここが弥生さんのおうちですよ、と紹介された廃墟――もとい、限界ギリギリまで朽ち果て気味の木造アパートだった。
「おい、あれは大丈夫なのか」
先輩がひのえを指して言ってくる。先輩は先輩で、ひのえの豹変に面食らっている様子だ。しかし自分だって「さあ」と返すしかないのが現状である。
「あの、ひのえさん? 荷物、倒れてますよ」
恐る恐る話しかけてみると、ひのえはハッと我に返り、素早くバッグの取っ手を、一回の失敗の後に持ち上げる。
「失礼しました。参りましょうか」
帽子のつばを引っ張って――顔を隠しているつもりだろうか――早足で先輩と自分を追い抜いていく。その時に間近で見た、耳まで真っ赤に染めているひのえの横顔を、自分は多分、一生忘れないだろう。
ミンミン蝉の断末魔が鳴り響く夕刻。自分たちは、その魔境へと足を踏み入れた。
前
明確な異変に息を呑む。三鬼 弥生が待つという部屋に踏み込んで得た最初の感覚は、何か良くないモノの体内に入り込んでしまったような、そんな気持ちの悪さだった。真っ黒な内装よりもその広大さに目が眩む。理解の限度を超えて大きなものは、ただそれだけで恐怖の源となり得るのだろう。汚れ一つ見当たらない床は綺麗ではなく不自然で。ひんやりとした空気は快適ではなく寒気を催し。いつかの、あの飽きる程見続けた灰色の天井すら、恋しく思えて仕方がない。
そして頭上の、恐らく光源だと思われるシャンデリアの輝き……それすらも遮る黒い何モノかを一瞬、目にしたような気がした。
「ようこそ」
短く、澄んだ声が聞こえた。部屋の奥で、部屋と同じ黒色のソファに腰掛けた何かが微笑んでいた。その光景は異様としか言いようがない。真っ暗闇の中に、目を疑うほど真っ白なお化けが浮かんでいるような。けれどすぐに錯覚だと気付く。それは、普通よりも少し色白で、黒いドレスらしき服を着た、どうしてか髪の白い女性が、そこにいたというだけだった。
「遠路はるばるご苦労だったね。歓迎するよ。それから、案内をありがとう、チリ君」
前を行くひのえと先輩の後ろを、辺りを目だけで見回しながら付いていく。ひのえは扉を抜けてから真っ直ぐ、先輩は随分と右の方に逸れてから歩き出していたため、その中間の進路を取った自分とで、丁度三角形が出来るような形だ。
何を言ったらいいか見当すら付かないでいると、突然、視界に新しい白色が現れた。重力に従ってはらりと垂れ下がる幾本もの糸の束。それがひのえの、今まで帽子の中に隠されていた頭髪だということに気付くのに、少しだけ間が空いてしまった。あまりに美しかったからだ。こちらを向いて座る弥生に比べれば、肩までの長さしかないそれらは少しだけ見劣りしたが、それでも、シャンデリアの仄かな光を受けた純白の髪は、真新しいシーツのように綺麗だったのだ。
「お姉さま」
弥生の正面、五メートル強ほど離れたところで立ち止まったひのえが、静かに口を開いた。感情を押し殺したような、普段よりいくらか低めの声色で。
「お姉さまが夏臥美に赴く際、お父様はお姉さまのために、新築のアパートを手配して下さった筈でしたが」
ひのえは挨拶すらすっ飛ばし、恐らくは先程の挙動の原因となったのだろう話を持ち出した。対して弥生は、困ったように肩を竦める。
「到着早々に解約してしまったよ、あそこは。駅を囲む中心街の一角で、交通の便の良さが売りなのだそうだが、生憎とその辺りは間に合っているからね」
「だからって、こんなところに住む必要はなかったじゃありませんか」
ひのえの声に怒気が滲む。後方からでは表情は窺えないが、堅く握られた手が震えている。
こんなところとひのえが言うのは、このアパートの外装を指してのことだろう。けれど自分は思う、だから何なのだ、と。一つ大きな地震でも起きれば、あんなアパートは容易く倒壊するだろうが、ではこの部屋も同じなのか。そんな馬鹿な。たったそれだけのことで消えてしまうような場所が、こんなにも恐ろしい筈がない。難攻不落。そう、ここは三鬼 弥生の住まいであると同時に、堅牢無比の城塞なのだ。どうあっても崩すことなど出来ない。ここにいる限り、彼女に敵う者など誰一人として存在しない。
「心配させて済まなかったね、ひのえ。確かにあまり、公にはし辛い場所ではあるれど。大丈夫だよ。ご覧の通り、私はちゃんと生活出来ているから」
柔らかな笑みを浮かべて弥生は言った。感情的になった相手を前に、大人然として落ち着いた物言い、立ち振る舞い。
「それは、……そんなことは、分かっていますが」
「折角また会えたというのに、そんな顔はしないで欲しい。前にも言っただろう、ひのえ。君は、笑っていた方が素敵だとね」
「お姉さま……」
「遅れたが、久しぶりだね、ひのえ。元気そうで良かった」
「……はい」
半ば予想通り、ひのえの沈黙で以て問答は終了した。役者が違うのだと誰かが言う。非の打ち所のない言葉と姿はまさしく完璧で。誰もが憧れ、求める形でそこにあって。けれどそれ故に自分は、現実感を著しく欠如した――例えば虚ろな幽霊を前にしたような、底知れないおぞましさを抱いていた。
「神谷 満君、だね」
名前を呼ばれて、反射的に「はい」と答える。声が上擦ったのは緊張の為だろうが、それが今までのものと異質であることは、背筋を流れる冷や汗が切実に訴えかけていた。
「疾うに察しているとは思うが、私が三鬼 弥生だ。妹が世話になったね」
「……いえ、そんなことは」
向けられた笑顔に、目を背けずにはいられなかった。あまりに美しすぎるから、というのもあるだろう。だが決して、それだけが理由ではなかった。
歯切れの悪い自分を見て、弥生はくすりと、至極楽しそうに笑った。
「ふん、こうして対面してみると、成る程実感も湧いてくる。ねえカミヤ君。私にも経験がないことだから分からないんだが、一体どういう感覚なのかな。
知らず奥歯を噛み締める。昔読んだ童話に出てきたチシャ猫の顔が、さっきからずっと頭の中をちらついている。この人は
「ミキ」
弥生の問いになんとか反応しようと自分が口を開くのと同時に、右隣にいた先輩が、此処に来て初めて声を発した。
「他に用がないなら俺は帰るけど」
「ああ、済まないがチリ君、もう少しいてくれないか。後で、君には別の仕事を頼みたいんだ」
ああ、と先輩が了解の意を返す。しかし、ちらと盗み見た先輩の横顔は、やっぱり面倒臭そうに沈んでいた。……視線を戻した時、ひのえが思い切り先輩を睨んでいたような気がしたが、多分何かの見間違いだろう。そのひのえは、
「ひのえ。預かっている物を渡してくれないか」
「はい、こちらに」
早くも平常心を取り戻したらしいひのえが、A4サイズほどの茶封筒をバッグから抜き出し、弥生に手渡した。よくは見えなかったが、隅に黒字で何か刻印の入った、特別な封筒のようだった。弥生は赤い紐を引いて封を切り、中から数枚の白い紙を、丁寧な手付きで取り出していく。
「ふん、これは正式な要請書か。相変わらず形式張っていて結構なことだ」
言いながら、弥生は他の紙にも目を通していく。見た目は薄っぺらいただの紙のようだが、これもまた特別な用紙なのか、裏からは何が書いてあるかうっすらとも透けて見えることはない。
紙一杯に文字が書かれているとすれば異常な速さで、弥生はその資料を読み解いていく。自分たち三人は黙ってそれを見届けていたが、間もなく弥生は読み終え、紙は再び封筒に戻された。
「大方、事前の報告通りだ。それにしても、こんな事件を三鬼に投げて寄越すとはね」
「やはり
「機関随一の有力家ですら、遠方に回せる手が足りていない、という訳か。ああ、そう考えておいた方が、お互い仲良くいられるのかも知れないね。
――ところでひのえ。一つ足りないものがあると思うんだが」
「…………」
言われて、ひのえはすぐには応えなかった。暫く何も言わないでいたが、すぐに再びバッグを開き、中から、古めかしくくすんだ赤の布でぐるぐる巻きにされた、十字架のような形の物体を掴んで取り、弥生に手渡した。
「お姉さま……」
何か続けたそうなひのえを片手で制し、弥生はありがとう、と微笑んだ。
「そんな顔をしないでくれと言ったろう。大丈夫だよ、ひのえ。必ず、私は成し遂げて見せるから」
にこりと笑う弥生の顔は、まるで年端もいかない少女のようで、一瞬目が奪われる。……その隙に、手にしていたはずの封筒と謎の物体は、跡形もなく消え去っていた。
「さて、それじゃあ事の顛末の確認と行こうか。ひのえと、それからカミヤ君。何か誤認があったら訂正をお願いしたい」
はい、と今度はすぐにひのえが応える。自分はというと、驚きのあまり声が出ず、なんとか首を縦に振った。
「事件の発端は一人の人間の覚醒――つまり界装具の発現から全てが始まった。そして今年の四月中旬から五月上旬にかけ、その人物は自らの知人二人と、そして機関に所属する男性一人を、殺めてしまった」
最後に強調された言葉が、この場の雰囲気をより一層重くする。それを楽しむかのように、弥生は自身を囲む三人の顔を見渡していく。
「能力者が殺人を犯すというケースは、表立たないと言うだけで別段珍しくはない。運悪く特殊能力を得た人間が、その力を暴走させてしまう形でね。だが今回の事件には二つ、特異な点があった。一つ目は機関の人間――つまり犯人と同じく能力者である人間が殺されたことだ」
それはまるで、童話を朗読しているような光景だった。人殺しの話を、こんなにも淡々とすることが出来るのは、殺されたのが自分と関係のない人間だからこそなのだろうか。
「それは、機関とやらの人間は特別だって言いたいのか」
横から、仏頂面の先輩が口を挟む。バスの中で言っていた通り、先輩はこの件に関しては何も知らなかったようだ。ということは、この中で一番知ることが多いのは先輩、ということになるが……。
「重要なのは、殺されたのが能力者であるという点です。機関に属していたならば、力の扱いにもある程度は長けた者だったはず。それを殺めたということは、相手はそれ以上の実力を持っていると推測出来ます。差別と区別は違うもの。無抵抗な一般人が被害者であるケースとは分けて考える……至極当然のことでしょう」
答えたのはひのえだった。厳しい物言いは元からだが、先輩に向けられる彼女の視線は、気のせいではなく先程までより数段険しくなっている。
先輩は眉間にしわを寄せ、口を尖らせて黙りこくった。言い負かされてたじろいだ、予想外の相手の反応に戸惑った、というより、口論が面倒臭いので主張を諦めた、の方が正しいような気がした。
「大筋としてはひのえの言うとおりだよ、チリ君。油断ならない相手だ、という意味でね。けれど君が言いたいことも分かる。実際、この件を早急に片付けたいという機関の思惑がよぉく伝わってくるんだよ。組織というものは古いものほど、体面を重視する傾向があってね。末端が殺されて、顔に泥を塗られたように感じているのさ」
可愛らしい話だろう、と弥生は笑う。自分はまったく共感出来ないけれど、そういう側面は確かにあったのだろうと、以前少しだけ顔を合わせた“八剣”姓の人物の顔を頭に浮かべながら思った。
「話を戻そうか。二つ目の特異点、これが話の肝になる。事件の犯人の素性は、その知人二人が殺された直後に分かっていたんだ。決定的な目撃証言こそなかったが、能力者の犯行と推察された時点で六条の家が動いてね、犯人としてある人物の名を挙げてきた。そして情報を得た機関はすぐに適任者を向かわせ、接触を試みた。六条の報告に基づき、殺人事件の犯人と断定された人物――神谷 満にね」
身体が、分かっていても震えてしまう。怖くて、先輩に視線を向けることが出来ない。こちらを人懐こそうな笑みで見つめる弥生に、金縛りでも掛けられたかのようだった。
「どういう意味だ、ミキ」
先輩が疑問を口にする。その言葉からは何の感情も読みとれない。
「まず一つ断っておくとねチリ君。君の隣にいるカミヤ君は誰も殺してはいないよ。ただ、もう一人の神谷 満がやったというだけのことだ」
「……なに、同姓同名の別人ってことか?」
「いいや、
先輩の、短く唸るような声が届く。頭が話に付いて行けていないようだが、当然のことだ。弥生の言っていることは事実ではあるけれど、未だにそれを理解出来ないのは自分も同じなのだから。
「この現象を説明するには、もう少し詳しい経緯を話した方がいいだろう」
先輩の方を見、弥生は目を細めてそう言った。
「さっき話した六条家というのは、機関の中でも“呪い師”として地位を確立している一族でね。どうやってか、誰も見付けられないような捜しものの在処を特定してくるのさ。まったくね、西の都の住人が、何故こんなにも遠い場所でもその力を発揮出来るのか、一度尋ねてみたいところだが。
それは兎も角。その六条によって、犯人は確かに界装具を持った人間、神谷 満であると報じられた。そして機関――八剣の手の者が、事件解決の為向かった先にいたのが、今我々の目の前にいるカミヤ君だった」
そうだね、という弥生の確認に、自分は黙って頷き返す。そう、あれは突然のことだった。何の前触れもなく現れた人物に、身に覚えのない殺人容疑を掛けられるだなんて、その場で錯乱しても可笑しくないくらいの珍事だったのだ。
「誰も殺してなどいないという彼の言葉を、愚直に信じた訳ではない。だが彼には事件当時の
腐っても八剣か。そんなことを、ひのえも呟いていたのを思い出す。彼女たちとその八剣という家がどのような間柄なのかというのは、……恐らく、自分には関わりのないことだろう。
「これで食い違いが発生した。過去の功績から、六条からの情報は信頼に足る物のはず。チリ君が言ったような、同姓同名の別人を取り間違えるなどという手落ちがあるとは考えにくい。だというのに事実と合致しない。機関が探し当てた神谷 満はしかし、事件の犯人では有り得なかった」
弥生はゆっくりと、両脚を組み、右脚の上で頬杖を付いた。
「そこで機関は仮説を立てた。曰く『双方の言い分はどちらも正しい』……つまり、彼ではない別の、しかし彼と同じ“神谷 満”が存在し、その人物が犯行に及んだのだ、とね」
背筋のピンと伸びた状態で真っ直ぐ前を見つめていた先程までと違い、猫背気味の体勢で下から覗き込むように、弥生はこちらを見てくる。まるで、自分の反応を窺っているかのように。
「結果、その仮説は真実だった。……と、ここまでが経緯だ。理解出来たか、チリ君」
「いや、全然」
「うん、そうだろうね」
くっくと押し殺した笑いを漏らし、弥生は応えた。
「まあね、常識では考えられない話だよ。同じ人間が二人いる、なんて奇天烈な状況は。だが、果たしてそれは前代未聞だろうか。否、あるじゃないか。同じ人間が同時間軸上に複数存在し、それを本人やその知人の多くが目撃したという、実に有名な前例が」
先輩が「ああ」と、合点がいったように声を上げた。それに満足げに頷いて、弥生はその言葉を口にする。
「自己像幻視、二重に出歩く者、離魂病、影の病。様々な表現をされるこの現象だが、もっと通じやすい呼称がある。……そう、
後
「チリ君は、ドッペルゲンガーについてどの程度の知識を持っているのかな」
「ええと。自分と瓜二つの人間がもう一人いる、っていうヤツだろ。実在した昔の有名人も何人か体験してる。狂言か、精神病の一種っていう説もあるけど、第三者の目撃例があるのは、やっぱり本当に、同じ人間が二人いたってことなんじゃないか、って言われてる。あとは、本人がそのもう一人を見ると、死ぬとか、殺されるとか」
記憶を辿るように、先輩はゆっくりと話していく。このときになってようやく、僕は先輩の方を見ることが出来た。先輩は腰に両手を当てて、やっぱり面倒臭そうな顔をしていた。
「良く知ってるじゃないか。感心したよ、チリ君」
「……オカルト分野だからな」
深く溜め息を吐いて、先輩はそう応える。と言うと、先輩はオカルトに興味があるのだろうか。なんとなく現実主義寄りだと思い込んでいたが、どうやら改める必要があるようだ。
「まあ、現象そのものはまったくオカルトの範疇だがね。それでいて、一般的な知名度もなかなかのものだよチリ君。テレビで取り上げられたことも一度や二度ではないし、過去の作家らによって、ドッペルゲンガーに関する著書が何冊も生み出されている。だが結局のところ、最も重要な点については、未だ確たる解を得るには至っていない」
言葉に含みを持たせ、更に弥生は続ける。
「ドッペルゲンガーとはそもそも何なのか」
弥生は再び、三人の顔を順に眺めていく。そんな彼女は、不気味なほどに楽しげだった。
「自分と似た姿をした他人ならば、探せば見つかるのかも知れない。世界には同じ顔をした人間が三人はいるらしいからね。だけど、全く同じ人間――顔、肉体、人格、魂、名前、全てが等しい人間など存在しない。仮に、同じ遺伝子を継ぎ、同じ名前を与え、同じ環境で育てたとしても、同じ人間が生まれることは有り得ないんだ。だというのに、それらの条件を満たしたドッペルゲンガーが、現実に闊歩している。少なくも現段階の科学技術では、これを解明するのは難しいだろう。
――だが、我々にとってはその限りではない」
はっきりとそう言って、弥生は背筋を伸ばし脚を正した体勢に戻り、今度は腕を組んだ。
「機関において、このドッペルゲンガーという現象については一つの見解が存在している。それは、界装具の発現に伴う副作用の一種である、というものだ」
「……は?」
驚きの声を発したのは先輩である。
「ちょっと待て、なんだよ副作用って。そんな話聞いてないぞ」
「ああ、言ってないからね。いいじゃないかチリ君、今のところ君には、そういった副作用は表れていないのだから」
気楽に言い切る弥生。対して先輩は、それ以上言い返しはしなかったが、恨めしげな表情が晴れることはなかった。
「界装具は、人間にとって異常な力。人に許された領域を越えた力だ。それが強ければ強いほど、持ち主の器が小さければ小さいほど、発現と使用の代償は大きくなっていく。代償の形は一様ではない。力は、時に半身を壊死させ、時に理性を蝕み、時に周囲の人間にまで被害を及ぼす。そして稀に、精神の分化という現象が起こることがある」
徐々に先輩の顔色が悪くなっているような気がするが、弥生は特に気にすることもなく、話を先に進める。
「精神の分化。自分の中にもう一人の自分が生まれる……概要としては、俗に言う二重人格なんかとよく似た現象だ。これを発症した者は基本的に無自覚だが、時折『自分以外の誰かの声が聞こえる』と訴えるようになり、症状が進むと、その第二の人格が表に出てくるに至る。端から見れば、成る程二重人格者との区別は付かない。
そうして分化した精神が、一つの人格として存在可能なほど成長し、何らかの要因によって可視の肉体を得、本人の身体から抜け出た結果。それが、機関におけるドッペルゲンガーの定義だ」
自分の中に生まれたもう一人の自分が、外で勝手に人殺しをしているという。当人である自分でさえ、まったく現実味のない話だ。そんな予兆などなかったし、今だってそんな自覚はない。だが彼らは、それこそがこの事件の真相であると結論付けた。
「今回の事件も、その精神の分化ってのに端を発してるって事か?」
「他に、それらしい解答がなかったからね。そして私宛に送りつけて来た要請内容は一つ。『神谷 満のドッペルゲンガーが、三鬼の領内に侵入した。よって速やかにこれを処理せよ』」
弥生はやっぱり楽しそうにそう口にして、そして先輩がそれに溜め息を吐く。
「処理って……殺せってことかよ」
――ノイズが混じる。なんとか理性を繋ぎ止める。
「それが一番手早いやり方ではあるが、色々と面倒ごとが多いのも事実だ。まあ、方法は幾らでもあるさ」
そう言って、弥生は不敵に口の端をつり上げる。彼女の脳裏には今、死ぬよりも恐ろしい地獄絵図が浮かんでいるに違いない。
「しかし、どう処理するにせよ困ったことがある。そう、神谷 満のドッペルゲンガーの居場所が掴めないんだ。事件の始まった町――カミヤ君の地元は虱潰しに捜し尽くしたが、どうやら三人目の犠牲者を出した後は、町の外に逃亡したらしい。頼みの綱の六条はカミヤ君の居場所を知らせるばかり。本体であるカミヤ君がドッペルゲンガーに近付けば、何かしらの反応があると推察されたが、それもお互いが離れていては期待出来ない。次の犠牲者が出るのを指をくわえて待つしかないかと思われた。……だが、カミヤ君には心当たりがあった。そうだね?」
「はい」
この場の雰囲気にも幾らか慣れてきたようで、今度はすんなりと言葉を口に出来た。
「僕が、……その、もう一人の僕が殺した、僕の知り合いなんですけど。学校では互いに仲のいい人たちだったんです。気の合う友達同士で一つのグループを作っていた、というか」
「うん、よくある話だね」
「それで、心当たりっていうのが。その二人と同じグループだった人が、もう一人いたんです。家の都合で転校しちゃって、今年度から別の学校に通ってるっていう」
殺された二人に、標的とされるような要素はなかったか。何か共通点があるのではないか。そう問われて、すぐに思い浮かんだのがその三人目の顔と名前だった。ドッペルゲンガーの殺人に理由があったとすれば。そしてその為に、今尚彷徨い続けているとしたら。自分には、彼以外の名前を挙げることは出来なかった。
「その三人目が現在住んでいるのが、この夏臥美町の北に位置する“
後を継いだのはひのえだった。直立不動で真っ直ぐ弥生を見、すらすらと報告を進めていく。
「ただ、本当に犯人が現れた場合、その監視者には手に余る仕事になります」
「そうらしいね。私は面識がないからよくは知らないんだが。何にせよ、そのままにしておく訳にはいかないから、要請連絡を受けていた三鬼家は、まずひのえを迎えにやった。手掛かりになる可能性のあるカミヤ君を現地に連れて行く為だね。そしてひのえにはこの後すぐに、その監視者と共に犯人を待つことになるのだが……」
弥生はそこで言葉を句切り、苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「見ての通り、ひのえはまだ幼い。三鬼宗家として相応の能力を備えているとは言え、些か不安な面もあるんだ」
ひのえが顔を背ける。そうしなくとも元々顔など見えなかったが、ひょっとすると今ひのえは、ものすごく悔しそうな顔をしているのではないだろうか。
「そこで私だ。そもそもに近場にいる私に、今回だけでも全権を委ねて欲しいと無理を言ってね。機関の方はさほど苦言もなく、要請書までわざわざ送り付けてくれた訳だが。いや、難色を示した父を説得するのは少しばかり骨が折れたよ」
困ったものだね、と弥生はゆっくり首を振る。
「反対したのはお父様だけではありません。お爺様もお母様も、もちろん私も同じ意見です」
「それは過保護というものだよ、ひのえ。それとも、私はそんなにも頼りないのか」
「そうではなく。ただ心配をしているのです。それでなくとも、お姉さまは大役を担わなければならないというのに。こんなことまで……」
本人を目の前にこんなこと呼ばわりとは、まったくこの姉にしてこの妹ありである。先輩も似たようなことでも考えているのか、さっきから顰めっ面が張り付いている。
「まあ、身内話はそのぐらいにしておこうか。兎に角ね。ひのえを支援する形で、私からも可能な限りの手を尽くしたいんだ。が、実のところ私にも急務があってね、この夏臥美町を離れるわけにはいかない。だから代理を立てることにしたんだ。
そういう訳でチリ君、次の仕事だ。明日、ひのえ達と一緒に双町へ向かってくれ」
「……ハァ?」
気軽に命じる弥生に対し、先輩は盛大に声を荒げた。今のはなんだか、頭にヤの付く怖い人っぽかった。
「待てよ。可笑しいだろ。どういう訳だよ。今の話に俺、これっぽっちも関わってなかったよな?」
半分笑っているような妙な喋り方で先輩は言った。
「関係性など些細なことだと知るさ。断るのなら、冗談じゃなくアオにうっかり殺されることになるぞ」
「うっかり殺されて堪るか。大体お前、さっきの話だって変だろ。その犯人の次の狙いが双町にいる奴だなんて、確証も何もないじゃないか。なのに監視するだのちょっと行ってこいだの……」
「確証はないが、可能性はある。数少ない……いや、たった一つの可能性だ。他にアテはないのだから、被害者をただ座して待つよりは充分意味のあることだと思うがね。なに、滞在するのは一週間――
先輩が舌打ちで返す。多分肯定の意味だ。しかし、今の会話は決定的だった。この空間に驚きもしない先輩。界装具やドッペルゲンガーという単語に順応する先輩。ひのえの助けになるという先輩。それはもう、充分に普通なんかじゃないのだ。
「一応確認しておこうか、ひのえ。今件には彼――チリ君も同行することになるが」
「……電話でもお話しした通りです。お姉さまの決めたことであれば、異論などありません」
色のない声で言ってから、ひのえは先輩の方に向き直る。帽子で頭部を覆い隠した、凹凸の乏しい細い身体では、遠目には性別の区別も付かなそうなものだったが。こうして髪を下ろした姿を見ると、確かに女の子の風体だった。
「ですが。双町ではホテルに宿泊する予定です。事前に予約したのは一人部屋二つのみ。チリさんには別の宿泊先の確保、もしくはテントか何かのご持参をお願いしたいのですが」
「……それは野宿しろって言いたいのか」
「嫌ならば、私から無理にとは申しません。何も影響はありませんので」
空気が沈みきった。最早敵意全開と言っても間違いではないひのえの物言い。そして言い返そうともしない先輩。それを軟弱と吐き捨てるようなひのえの眼差し。今までの話の流れの何がこの状況を生んだのか、自分にはどうにも理解出来ない。
「ああうん、その話なんだが」
弥生が、そんな空気なんて見えてないような呑気な声色で割って入った。
「ひのえ。双町には先々週、椿谷夫妻が引っ越して来ていたね」
「え、ええ、確かに」
ひのえは身体をビクリと竦め、そして慌てて姿勢を正した。目に見えて狼狽している。
「ツバキヤ? って、誰」
「親戚だよ。主人の方が
弥生はひのえの方をしっかり見据え、
「三人で世話になったらどうだ、ひのえ。それなら問題は解決だ」
「いえ、その。ホテルの予約は既に済んでいますので、今から予定変更となると、キャンセル料が……」
「大した額じゃないだろう。なんなら私から出しても構わないが」
「そんな。でも、いきなり大勢で押し掛けては迷惑になるのでは……」
「三人くらい構わないそうだよ。丁度昨日、電話でそういうことを話してね。奥さん共々、むしろ大歓迎だそうだ」
「それは、また……」
ひのえは完全にしどろもどろで、自信なげに片手を胸元に置いている。それよりは弥生がやけに用意周到な方が気掛かりではある。彼女は本当に、先輩の宿泊先の問題を解決する為だけに、こんな提案を通そうとしているのだろうか。
「君たちはどうだ。やはり、見知らぬ人間の家に泊まるのは不安かな」
自分と先輩を指して弥生は言う。別段抵抗はないし、そもそも不安だ何だと言える立場でもないので、自分はすぐに首を横に振る。
「チリ君は?」
「いや、っていうか、俺まだ行くなんて一言も言ってないんだが。……まあ、別に構やしないけど」
思ったよりもあっさりと、先輩は身を引く結果になった。なんとなくではあるが、二人の力関係は決まっている感じである。
「決まりだ。ねぇ、ひのえ」
再度弥生はひのえに振る。ひのえは手を下ろし、姿勢を整えてから、
「分かりました。全てお姉さまの言うとおりに」
半ば吹っ切れたように、はっきりとそう答えた。
「ありがとう、ひのえ。
――さて、言うべきことはこんなところか。明日から忙しくなるんだ。名残惜しいが、今日はこの辺りでお終いにしようか」
両手を軽く広げ、本当に残念そうに笑って弥生は締めた。
「疲れていただろうに、何のお構いも出来なくて済まなかったね、カミヤ君」
「あ、いえ。僕は大丈夫ですよ」
労いに、大分自然な応対が出来た。疲れてはいるが、ここから無事に出られるという安心感で、もう少しは頑張れそうである。
「それからひのえ。くれぐれも注意を怠らないように」
「承知しています。……お姉さまこそ、お気を付けて」
それだけ言って、ひのえはさっと踵を返し、手提げ形態になっていたバッグの柄を手に、出口へと向かった。ちらと見えた彼女の表情は、口を真一文字に閉じた、少しだけ暗いものだった気がした。
「ああ、チリ君は残ってくれないか」
ゴン、と音が響く。弥生の言葉は、自分と先輩がひのえに続こうとした際に掛けられたものだったが。その妙な音とは明らかに、ひのえの手からするりと抜け、床に落下したバッグが鳴ったものだった。反響した鈍い音が、背筋がぞっとするような怪音に変貌する。
「いや、彼には少しだけ話が残っていてね。数分で終わるだろうから、暑いだろうが、二人は外で待っていて貰えるか」
弥生は、なぜか笑いを堪えるようにしてそう言った。
「わ、分かりました。行きましょう、カミヤさん」
「はあ」
きびきびと――と言うよりは慌てた風に、ひのえは再度歩き出す。自分は、先輩の顔を窺ってから、それに続いた。
先輩は相変わらず、面倒臭そうな顔で弥生を見ていた。