夏夜の鬼 第三章「Doppel Ganger 前編」 2  賑やかな町並みをバスは行く。運転手はサングラスのナイスガイ。冷房の効いた車内は快適そのものだが、バス特有の変な臭いが玉に瑕と言ったところだろうか。  座ったのは後ろから二番目、進行方向右の通路側席だった。他の乗客は、帰宅組で混み合うにはまだ少し早いのか、ちらほらと空席が目立つ程度にしかいなかったため、座る場所にはそれなりに選択の余地はあった。けれど自分が座ったのは、つい先程出会ったばかりの、あの青年の隣だった。  自分よりも先にバスに乗り込んだひのえと青年が、離れた別々の席――ひのえは真ん中、後ろから五番目の右窓側――に座った上、他に空いた窓側席がなかったため、さてどうしたものかと悩んだ結果、青年の隣席を借りることに決めたのだ。  ひのえに『チリさん』と呼ばれたその青年は、しかしどう見ても外人には見えなかった。多分あだ名か何かなのだろう。黒い半袖のTシャツは無地で、青のジーパンは若干色褪せている。アクセサリの類も一切なく、短めの髪は茶色がかった黒、多分素のままの色だろう。人の目に触れやすい町中に出てくる若者は、男女共にもう少し格好に気を配るものだと思っていたが、存外こんなものなのだろうか。  窓の外を眺める目元は、何か悩みでもあるのか、睨み付けるように険しく見える。顔そのものは可もなく不可もなく、のっぺりとした若年層のものなのだが、その目のせいで少しだけ近寄りがたい雰囲気を醸している。  背は自分より目線一つ高いくらいで、きっと歳も幾つか上だろう。年上の人と話すのもまた馴れたものだと思っていたが、年上の学生と話したことは、思えば一度もなかった。手に汗が滲んでいるのは新しい緊張が原因か。けれど隣を選んでしまったからには、こちらから話しかけるのが自然と思ってしまうのが自分の性であって。 「暑いのは、平気な方ですか?」  なんだかトンチンカンな切り出し方をしてしまった。どうやら自覚している以上に緊張してしまっているらしい。  青年が、初めてしっかりと自分を見る。一瞬でも物怖じしてしまったのは、やっぱり彼の目つきが悪いからなのか。 「……別に。普通じゃないか?」  男性らしい低音の、しかしざらざらとしたところのない、聞き取りやすい声。筋肉の目立たない細長い身体と相まって、無口な文学青年といった風だが、少し勿体ないような気がする。 「あの、いきなり済みません。僕、神谷(かみや) 満(みつる)です」 「はあ。神谷、君」  よろしくと言い合って、何故か小首を傾げ合う。なんだろう、向こうも随分戸惑っているような感じがするのだが。 「ええと、どれくらい聞いてます? 話」 「話って?」 「いえ、だから、僕の――」  そこまで言いかけたのを、「ああ」と手を横に軽く振って制止される。 「俺、妹とその連れが来るから案内してやってくれ、って頼まれただけなんだ。詳しいことは何にも知らない」  私は部外者ですと言わんばかりに、大袈裟に首を振られた。と言うことは、実はごくごく普通の人(・・・・)なんだろうか。  僕が家を出たあの日から、周囲には奇怪なものが絶えず彷徨っていた。不思議な現象を目の当たりにした。鏡もないのに自分を見た。不思議な人と多く出会った。例えば生身のままに空を飛ぶ先生と。不思議な動物も一度だけ見た。比喩も誇張も何もなく、人の腕を生やした巨大な鴉を。この一ヶ月足らずで、僕の中の常識は無惨なまでに崩れていった。いや、メッキが剥がれたと言うべきか。比較的多数の常人が語り継ぐ常識など、所詮は虚像にしか過ぎなかったのだ。紛れもない真実との直面。それが幸か不幸かはまだ分からないけれど、その変容しきった世界に身を置くことは、確かに心地の悪い状態だったのだ。  歳の近い少女であるひのえですらあの様子だ。付かず離れずの微妙な距離感に気持ちの悪さを感じていたが、……あるいはこの青年ならば、一緒にいることで落ち着きを取り戻せるのではないだろうか。 「じゃあ、普通の話をしませんか」 「いや普通って」  何の話だよ、と呆れられてしまう。言った自分でも分からないものだから、可笑しくて笑ってしまった。 「例えばそう、身の上話とか。歳、聞いてもいいですか? 学生さんですよね? 僕と同じで」  何はともあれ情報交換である。顔や名前を覚えるのは苦手だが、それなら関連づけられる情報を聞き出せばいいのだ。そういう能力は大人顔負けであると密かに自負している。多少勝手が違う所為なのか、ひのえ相手では失敗したけれど。経験上、失敗した次というのは上手くいきやすいものだ。普通の人相手なら、気後れることもないのだから。 「高校生。一年だ」  ぶっきらぼうに彼はそう答える。目はこちらを向いてはいるけれど、頬杖などついて、いかにも面倒くさがっている感じである。 「と言うと、十五か十六ですよね。もう少し年上な気がしてました」 「……老けていると?」 「いやぁ、大人っぽいって受け取りましょうよそこは」  笑顔を向けると、彼も少し笑ってくれた。口元だけの変化だけれど、ちゃんと相手してくれている分ひのえよりも数段良心的だ。 「高校って、どこに通ってるんですか? この辺りだと、清代(しんだい)、松涼(しょうりょう)、山根ヶ丘、ちょっと遠いけど早実(ささね)大付属とか……」  県内で思い付いた順に口にしていると、何か変なものを見るような顔が向けられていることに気が付いた。あれ、何かおかしなことを言っただろうか。 「あー……。夏高、知らないか? 夏臥美高校」 「名前からしてこの町ゆかりの学校ですよね。でも、聞いたことは……」 「ない?」  手から顔を少し浮かせて、彼は驚いたように僕を見た。 「……いやまあ、知らない奴もそりゃいるか。にしてもここ、一応地元だぜ、夏高の。松涼が出てきて夏臥美が出てこないってどうよ」  我ながら思うが、全く以てその通りである。きっとこの辺りで高校と言えば、その夏臥美高校なのだろう。話を弾ませるのが目的だったとは言え、知ったか振りなんてするもんじゃないなぁとちょっと後悔する。 「いえ、実は僕、この地区の学生じゃないんですよ。来るのも随分久しぶりで。有名な高校は幾つか知ってるんですけど、それくらいです」 「有名? 清代はここらじゃ一番頭いいところだし、早実も大学の関係で有名ってのは分かるけど、他はマイナーじゃないか?」 「うそ」  マイナーという言葉に反応してしまう。その評価はちょっと、納得出来ない。 「どこも甲子園出場経験がある強豪校じゃないですか。幾ら何でもマイナーってことはないでしょう」  無駄に力みそうになるのを抑えながら言った。すると彼は手の上に顔を戻して、 「ああ、そういう基準」  合点がいったように呟いた。 「ウチは一回戦勝ち抜くだけでも快挙ってくらいの弱小校だからさ、野球は。そりゃ出てこないよ」  小さく溜め息を吐く姿を目の当たりにして、……しまった、これはちょっと、良くないことを言ってしまった。 「す、済みません。その、なんて言うか……」 「いいよ。別に野球部員って訳じゃないし、野球部に親しい奴がいる訳でもないから。それに、何の奇跡だかな、今年はまだ勝ち残ってるんだよ、夏大会。次勝てば県内八強(ベストエイト)なんだと」  世の中可笑しいよなぁ、なんて苦笑している。ささやかながら、今までで一番大きな表情の変化である。なんだろう、ひょっとして今、フォローされたのだろうか。だとしたらある意味凄い気がする。こんなやる気のなさそうな地顔で気配りが出来るなんて。下手したら周りは誰もその配慮に気付かない。打算的なのが見え隠れする優しさは嫌みにすら成り得るけれど、そういう意味でこの人はとんでもなく無害だ。見た目とか取っ付きの悪さで確実に損してるけど、実はかなり、カッコイイ人だったりするんじゃないだろうか。 「凄いじゃないですか、八強だなんて。そこまで行けるなら、甲子園だって充分現実的ですよ」 「まあ、そうかも知れないけど。でも流石にもう無理だろ。所詮は弱小なんだ、偶然はそうそう続くもんじゃない」 「今年はそうでも、来年再来年は分かりませんよ。前大会の評判を聞きつけて有力選手が入学してくるってことも有り得ますし。でも、今年だって終わってみるまでは分かりません。勢いって案外馬鹿に出来ないもんです。一回勝てば快挙な弱小校がそこまで勝ち進んだのなら、ひょっとしたら……」  実際のところ、今現在の学校の評価なんてそうそう当てにならないものだ。前評判の優劣で試合結果が決まるのなら、野球、ひいてはスポーツの観戦にここまで人気など出ないだろう。けれど誰もが、強豪と呼ばれる方が勝つだろうと予測する。それが当たり前だと口にする。大抵がその通りになり、反面、ほんの一握りでその予測が覆されると、奇跡だ何だと大いに騒ぎ立てる。予測が外れたのだから普通は有り得ない話だと思うけれど、そういうドラマチックな展開が喜ばれるのは事実だ。要するに、みんなそれぞれのお気に入りチームを応援していながら、一番期待しているのは、弱いチームが強いチームを打ち負かすという予想外の結末だ。その逆転劇の目撃こそスポーツ観戦の醍醐味だと言っても、過言ではない筈である。 「熱心だな。野球やってるのか? それともミーハーってやつ?」 「ミーハーでもないですけど、まあそっち寄りです。そもそも僕、バットやボールに触れたことすらありませんから」  バスの揺れが止み、ドアの開く派手な音がする。誰も降りず、一組の老夫婦が乗り込んできただけだった。出入り口に視線を向けた僕を見てか、青年は「まだ暫くは降りないよ」と声を掛けてきた。 「そんなに遠いんですか、これから向かう、弥生さんって方の家は」 「まあ、町の外れも外れだからな。バスだってあそこまでは流石に動かない。降りた後も少し歩くことになるぞ」 「はあ……」  窓の外は幾分か明度を失ってきている。どれほどの時間をバスに乗って過ごすかは知らないが、降りる頃には過ごしやすい気温にまで下がっている、と信じたい。 「不便じゃないんですか、そんなところに住んでいたら」 「俺に言われてもな。本人が不便でないって思うから住んでるんだろうさ。どっちかって言えば一々呼び出される側の方が……」  そこで言葉が区切れる。何事かと思って見ていると、彼はがっくりと項垂れて、大きな溜め息を吐いた。 「あの、大丈夫ですか」 「大丈夫だ。ちょっとゲスい悪意に気付いてな、頭が真っ白になってた」  声が数倍老け込んだ気がする。具合が悪いようでもなかったので信用することにするが、この人にもやはり、色々と悩むところがあるのだろう。……ああ、だとしたらそれは、一体どんな悩みなのだろうか。 「弥生さんとは、どういうご関係なんですか。ひょっとして――」 「先輩。同じ学校の二年生だ、あいつは」  台詞を阻まれた上、ちょっと語勢が強かった。どうやらあまり詮索されたくないことらしい。  ――だから、そう。その明らかな矛盾も、追求する気にはなれなかった。 「……悪い。別に怒った訳じゃないんだが」 「あ、いえ、平気ですよ」  こちらが黙っていたのを勘違いしたのか、謝られてしまった。どちらかと言えば、今のは自分の方が良くなかったと思うのだが。しかしやはり、なかなか上手くはいかない。なんとか前進してはいるけれど、ドカドカと壁にぶつかりまくっている感じだ。どうして円満にいかないのだろう。失敗が続くのは流石に気分が落ちてしまう。なんとか上手くやりたい。そう思って、青年に声を掛けようとして、 「あ」  気が付いた。とても重要なことを忘れていた。 「ええと、チリ、さん? チリさんでいいんでしたっけ」  自分は名前を聞いていないから、なんと呼べばいいのか分からないのだ。呼び方すら分からない相手と仲良くやろうなんて、それは無理というものだろう。  光明を見出したつもりでいると、青年はまた、凄く疲れた顔を浮かべていた。 「あの、あだ名ですよね、それって。嫌いなんですか、そう呼ばれるの」 「嫌いって言うか、……まあ好きじゃあないけど。でも、なんて言うか、もう好きにしてくれって感じなような」  乾いた笑いがなんだか悲しい。もしかしたら蔑称の類なのだろうか。だったらそれで呼ぶ訳には行かない。それ以外の呼び方をと考えて、ついさっき、とてもいい言葉が出てきていたことを思い出した。 「じゃあ、先輩で」 「はい?」  なんだって? と聞き返され、ならばと再度口にする。ちっぽけな、けれど尊い、喜びに満たされながら。 「先輩、です。学校は違いますけど。そう呼んでも、いいですか?」 「…………」  数秒間を空けてから、「好きにしてくれ」と。そっぽを向きながら、先輩はそう言ってくれた。