夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 10  家に戻ってからは酷いものだった。感情の一つも浮かばないまま自室へと直行し、すぐさまベッドへと倒れ込んだ。身体の調子はそう悪くなかったのに、まるで心と身体の連結が外れかけていたかのようで、自分の身体ではない気さえした。その後は、三鬼の言いつけを守った訳ではないが、寝台に沈んだ身体を再び起こそうと思い至ることなく、深く沈下していった。  目が覚めたのは、眠りについてから数時間が経過した――意識としては、ほんの一瞬のうたた寝だったが――午前二時。  まるで、悪夢でも見たかのように、飛び起きた。 「なん、だ……」  動悸がする。全力疾走直後のように息が切れる。震える手には酷い汗。まともな思考を取り戻すまで五分は要した。  脅えている。何かに対する膨大な恐怖が全身に溢れかえっている。そんな自分の状態は、不気味なくらいにはっきりと分かったのに、一体何に対して恐怖を覚えているのかが分からない。原因は、眠りにつく前にはなかったもの。かといって夢を見ていた記憶もない。ここまで強烈な恐怖をもたらした悪夢を、覚醒後の一瞬で忘却してしまったとでもいうのか。  幾ら待っても、振り切れた感情が正常に戻ることはなかった。だが身体は動かせる。上手く力の入らない手足を酷使して、崩れ落ちるようにベッドから脱する。そうする頃には、朧気ながらも原因を掴みかけていた。  理由のない恐怖。どこかから、そう遠くはない別の場所で生じる重苦しい波。探ってみれば方角も場所も割れ、ようやくこの異常が、擬獣を感知したために起きたものであると察することができた。 「にしても、これは……」  強烈すぎる。肩を叩かれ続けているなんて生易しいものじゃない。見えない何かに心臓を鷲掴みにされているような気さえする。だが恐怖とは違う。これは単純に、擬獣の発生を知らせているだけ。心臓を潰されるなんてのはただの幻想で、恐怖の対象足り得ない。……やはり、伝播している。この恐怖は俺のものではない。恐らくは、その擬獣が抱いている感情なのだと。 「いや、まさか」  確信に足る推論を否定する。こんな強い感情を、あんな獣以下が生み出しているだなんて、まったく現実味がない。だが、そんな現実味のない推論こそ正しいのだと第六感が訴えてくる。  訳が分からない。これが単なる擬獣の感知だというのなら、どうしてこんなことになっているのか。不条理な恐怖を怒りが包み始める。すぐに怒りは対象を見つけ、瞬く間に膨張していく。 「あぁ……そっか。元凶が、出てきたのか」  震えは治まり、反比例して身体の奥に熱が籠もっていく。恐怖心は未だに衰えないが、それが問題にならないくらいの憤怒が、心の中を塗り潰していく。眠気なんてとっくに消え失せた。過熱した心、しかし動作は緩慢に。後も先も何も考えず、その元凶の下へ向かうべく、部屋の扉を開けた。  それは、如何なる不運だったのか。  俺は、絶対に聞いてはならない言葉を、寄りにも寄ってこんな時に、聞いてしまった。                                         前 「ひ、はは、は――」  引きつった笑いが止まらない。いや、俺は今笑っているのだろうか。本当は泣いているのでは。いや、そもそも俺は怒っていたのではなかったか。そうだ、俺は確かに怒り、それは今だって……。自分がどんな顔をしているのかも分からないまま、真っ黒な空の下を駆けていく。  足場にしている民家の屋根を、何度も踏み外しそうになる。そうやって減速する俺自身に対し一々苛立ちが走る。一体何故俺は、こんなにも取り乱しているのか。何故あんなことで俺は、こんなにも我を失っているのかと。 「は、はッ、――くそ、くそッ、くそがッ……!」  息が切れ、咽せ掛けてからようやく笑いが止まる。何かを無性に殴りたくなって、それでも何とか堪えて、自分の左腕を殴って済ませる。鈍い痛みが、拳と腕にじわりと広がる。だが気が晴れる訳がない。本当に殴りたい相手は別にいる。殺してやりたいくらい憎んでいる相手が今どこにいるか、俺は誰よりもよく知っている筈なのに。 「あいつら、あいつら、アイツらは――」  言い争うしか脳のないあの二人が、どうして未だに一緒にいるのか、俺にはさっぱり分からない。そう三鬼に零したのはつい数時間前だったか。なんのことはない。ずっと理解出来なかった、理解したいとも思えなかったその理由は、 「そんなに俺が邪魔なのか……!」  あまりにも単純だった。  矛先が揺れ動く。腕だけでは物足りない。どこかに頭を叩き付けて、いっそ砕いてしまえたら。ああ、俺はどうして、こんなにも心乱しているのか。俺があいつらを良く思っていなかったように、あいつらが俺を良く思っていなかったことは十分承知していたのに。そんなのどうでもいいって、俺には関係のないことだって、ずっと思ってきた筈なのに。  向かう先は南の工業地帯。ああ、やっぱりあの場所だ。元凶はあそこにいたんだ。ただその確信だけで突き進む。じっとしてなんていられなかった。身体を動かしていなければどうにかなってしまいそうで。目的がすり替わっていることに気付いてはいたが、そんなのはもう些細なことでしかなかった。住宅街を抜け、侘びしい農業区を横切り、工業地帯へと足を踏み入れる。ただ、絶えず伝わる恐怖の下へ。それ以外のことなんて、本当にどうでもよく思えていた。  冷たい風に不可思議な熱が籠もる。不自然な生臭さに鼻を押さえる。辺りは闇一色。記憶を辿った影響か、死神に殺された夜道を思い出す。人気なく静まりかえった夜。肌を撫でる粘ついた空気。今いるのは打ち捨てられた工場地帯。電灯などある訳もなく、視界を維持する光源は、拙く輝く虧月(きげつ)のみ。幾重にもなりそびえ立つ廃工場の、仄白く照らし出されたコンクリートの壁は、巨大な化け物の住処を彷彿させる。鬼が住むか蛇が住むか。そんな呪詛が聞こえたとき、俺は都合三つ目の角を曲がり、複数の工場に囲まれた、少しだけ開けた場所に辿り着き。 「――え」  グチャリ、と。何かの果肉が握り潰されたような音が滴った。  ――怖い。  ソレは空から降ってきた。重力に従い引き寄せられ、当たり前のように地面にぶち当たった。ソレは自ら赤く染まり、辺りを赤く染める。ソレは砕け、千切れ、中身を吐出し半壊している。暗闇の中に突然現れたソレはしかし、有り得ないほど鮮明に克明に、その有様を訴えかけてきた。  赤黒い塊をじっと見つめる。ソレには手があり足があり頭があり、ソレはまるで、そう、人間のような姿をしていた。  塊が、電気でも流れたように痙攣を起こす。それを合図に全身が動きだし、まずは手のような部位を、そして足のような部位を、人間と同じように駆使して、自身の胴体を地面から引き剥がした。  ――怖い。  真っ赤な身体は緩慢な動作で立ち上がる。頭部らしき天辺からは滅茶苦茶に縮れた糸が大量に垂れている。胴体から下は、まるで人間のように、布きれを身に纏っている。俺に後ろ姿を晒したまま、ソレは上肢を持ち上げる。それぞれ五本の指を揃えた双手をじっと眺めている。一体何を。その疑問が浮かびきる前に様子は変じる。再びだらんと遊ぶ両腕。噴出する気色の悪い朱。人で言うなら手首に当たる箇所に亀裂が走り、止めどなく液体が流れ出した。  ――怖い。  目の前にいる何モノかは、確かに擬獣である。今まで退治してきた異形たちと、根本は同じなのだと分かる。だがアレは獣であるだろうか。獣と言うよりはまるで……いや、そんな筈はない。こんなにも醜悪な化け物が自分と同じだなんて、そんなことがあるものか。  硬直した全身を叱咤する。自分が此処へ来た意味を成す為に。極悪の殺人鬼を葬る為に。そうして踏み出した足は、地面を踏みしめることなく没した。  落下の予感に、本能が危険信号を走らせる。だが意図せず踏み外した足は、完全にその行き場を失っていた。足場がないのだ。つい先程まで立っていた場所が消失している。だが予感に反し落下はしない。ばたつかせる手足に、覚えのある抵抗が絡みつく。不可視の拘束。外見としては浮遊するように。感覚としては、水中に潜っている時のように。何れしても、今この時に起こり得る筈のない現象が脳内を混線させる。この付近に溺れるような水場などなかったはずなのに、どうしてこんな。いや、そもそも俺は溺れているのか? 溺れているのなら、普通に呼吸できているのは可笑しいのではないか。  不意に、足場が戻る。拘束が解け、身体が崩れ落ちるのを制しきれず、地べたに両手両膝をつく。掌から伝わる土の感触。夜に冷え切り、多少湿り気を帯びてはいるが、水に浸っていた形跡は勿論なく、何かしら仕掛けがある風でもない。身体にも異常は認められず、さっきのは幻覚だったのだと結論付ける。普通では有り得ないこと、だからこそ、その原因を即座に断定することができる。  ……意味など、分からなくとも。アレの挙動、今の幻覚、そこに何の意味があるのか、分からなくても。  再び得物を手に、アレがいた場所を探る。まやかしとは攻撃に繋げる絶好の手段。困惑している間に返り討とうと言うのなら、俺はその裏をかく。だが――  ――――。 「しまった」  いない。慌てて視線を送ったところでもう遅い。つい数秒前まで確かにそこにいた擬獣は完全に姿を眩ませ、そればかりか痕跡一つ残していないのだ。予想外の選択。まさか擬獣が、逃げの一手を打とうとは。  逃がす訳にはいかない。急いて立ち上がり、その影を捉えようと周囲を見渡し。  グチャリ、とまた。果肉が握り潰されたような音が響いた。  ――怖い。  肝を冷やす。先程と全く同じ音と共に、全く同じ場所に、ソレは降ってきた。初めに見た光景と何一つ変わらない。壊れた姿。動き出す肢体。意味の分からない振る舞い。吹き出す液体。そうして再び、謎の幻覚に捕らわれる。  ――怖い。  今度は見逃すまいと、相手を洞察する。身体が宙に浮かぶのは俺だけではない。その様はまさに、死体が水中を漂うよう。抗うことなく闇に流れ、そしてすぐに全身が薄れ、音もなく溶けていった。  ――――。  幻覚から解放され、今度は戸惑うこともなく両足で立つ。やはり擬獣は、血も肉片も残さず消え失せていた。  同じだ。アレは、全く同じ動作をなぞっていた。俺の見た二度だけではないだろう。もっとずっと、何度も何度も何度も何度も。正気の沙汰など程遠い。化け物相手に正気も何もあったものではないだろうが、それでも異常だと感じざるを得ない。此処に現れたその時から……否、この擬獣が件の自殺事件の元凶だとするのなら、一ヶ月も前から、こんなことを繰り返してきたというのか。 「……は」  禍々しきは再度循環する。耳障りな音、落下する生き物擬き。  そして、再浮上する感情(いかり)。  ――怖い。 「何が、怖いだ」  ――怖いよ。 「生き物以下の人殺しがさ」  ――助けてよ。 「俺の周りで、気に食わねぇ真似しやがって」  ――く、ないよ。  感情のうねりが半身を燃やす。凶器を翳すは熱い渦。両断するは大罪の狂気。長く続きすぎた凶行は今ここで、  ――死にたく、ないよ――!  終わりにしてやる。                                         * 「……は?」  呆然とするしかなかった。 「こんな、簡単に?」  両断された擬獣はピクリとも動かない。ゴミのように足下に伏したまま、静かに消えていった。  一歩後退って、下から水の跳ねる音を聞いた。赤黒い水溜まり。俺は返り血など一滴も浴びていないのに、そこには人一人分はありそうな血溜まりが出来ていた。先程繰り返していた消失とは違う。あの擬獣は、俺の手で、本当に消え去ったのだと。 「終わった、のか?」  得物を握る右手が痛い。どうしようもなく歯を軋ませる。全てが終わった達成感などない。後に残ったのは、安心感でも開放感でも喪失感でもなく。 「ふざけるな……!」  理不尽に対する怒りだけだった。  意味もなく刃を振り下ろす。刀身が折れてしまいそう――それがなんだと言うのか――な程強く、何度も何度も何度も何度も。その都度血が飛沫し……それすらなくなり、擬獣の痕跡が完全に消滅した後も尚、振るい続けた。  足りない。静まらない。満たされない。もやもやとした重圧が胸の奥に巣くっている。今まで感じたことのないくらい大きな不快感、それもいつまで経っても解放されない。硬い地面を幾度となく叩いて、右腕にじんとした痺れが走る。握力が失せ、得物を手から滑らせるまで暴れても、心が晴れることはなかった。 「くそ、くそ、くそッ」  頭を過ぎるのは嫌なことばかり。つい最近のこと、ずっと昔のこと。記憶の底まで連鎖して、今現在の俺を苛立たせる。中心には、先程耳にした両親の遣り取りがあった。頭の中を反響して、延々とあの言葉を聞かせられ続ける。止めたくて、頭を押さえつけても、ただ痛むだけ。膝が折れ、倒れ込むついでに両の拳で地を殴る。それでもただ、痛いだけ。  全身が炸裂する、その姿を幻視する。何もかもに耐えられなくなって、叫び声を上げようとした、その時。 「また会ったね、朏 千里馬」  闇に光る白を見た。                                         後 「行き場のない感情を抱えた気分はどうだい、朏 千里馬」  俺の目の前で、いつものように。この場所も、ついさっきまでの出来事も、今の俺の状況すら、何ら気にした様子もなく、本当にいつもと同じように。黒い、喪服のような細身のドレスを身に纏い、彼女は一人、微笑んでいた。 「どうした、不思議な顔をして。怒りで胸が一杯なんだ。全身で表してあげなくては、そう、酷く疲れてしまうだろう。……なにも、そんな怯えた顔をする必要は、ないんだよ」  穏やかに、優しく。夜の静寂を侵すまいと努めているような、そんな声色で、三鬼は言った。 「おれ、……三鬼さん、俺は――」 「ああ、声まで震わせて。いいんだよ、朏 千里馬。私のことなど気にするな。君は君自身の怒りだけ、感じていればいいんだ」  見上げる先の三鬼の姿に、怒りも苛立ちも、全て忘れてしまいそうになる。彼女は女神だ。他人が語る空想の神が、今此処にいる彼女のどこに勝っているというのか。この暗く狭苦しい空間で、月光を受けて煌めく白髪。眩しくて瞳を焦がしてしまいそう。こんな廃れた場所ですら、彼女は誰よりも美しかった。 「……三鬼さん、俺」  言いたいことは山程ある筈なのに、声を上げることすら躊躇ってしまう。なんて情けない姿だろう。本当に、なんで、こんなことになったのだろう。 「俺は、どうしたらいい?」  何でもいい。この滅茶苦茶な気持ちを、なんとかして欲しい。三鬼ならきっと、正しい答えをくれるから。彼女の言葉に、縋(すが)りたかったから。 「うん、そうだね」  三鬼はそっと目を閉じる。俺は偏に、その次の言葉にのみ耳を傾ける。 「じゃあまず、後ろを見ようか」  疑い一つ浮かばない。言葉通り後ろを振り向いて、 「え――」  視界が赤に占められた。  反射的にその場を飛び退く。それだけでも奇跡的で、だから受け身を取る余裕はない。左半身を地に噛まれ、次いで起きた地震に身体が跳ねる。なんとか体勢を整えられた時には、元いた場所から二十メートル近く離れていた。皮膚が切れたか、腕が痛い。だがそんなことはまるで気にならない。  ただ、直前まで俺がいた場所に剛拳を振り下ろした、赤色の巨人だけが、網膜に叩き付けられた。 「流石だよ、朏 千里馬。私と出会う以前の君であれば、確実に致命傷を負う一撃だったというのに」  愉快そうに笑う三鬼がいる。これは夢なのではないかと、一瞬本気で思った。そう思いたかった。 「三鬼、さん?」 「まったく、君は見ていて飽きないね。人間味溢れて大いに結構。だがだからこそ口惜しい。私は君を、許してはいけなくなってしまったのだから」  赤鬼と並び立つ三鬼。それは完全に、俺を敵と見なすという意思表示だった。 「なんで――」 「三度」  何故、の問いを。三鬼は静かに、しかし鋭い声で遮った。 「三というのは、とても縁起のいい数字でね。三度の猶予を与えれば、或いはアオ(・・)の読みも外れるのではないかと期待したんだが。結局、そんな奇跡はなかった。君は見事、私の全ての忠告を反故(ほご)にしてみせた」  三度目の忠告。忘れてはいない。忘れていた訳ではないが、だが。 「まって、待ってくれよ三鬼さん。確かに俺は、三鬼さんの忠告を無視しちまった。それは本当に悪いと思ってる。けど仕方なかったんだ。さっきの擬獣、なんか変だった。上手く言えないけど、感じ方が今までの奴と違ってて――」 「擬獣、か」  三鬼は悲しそうに、擬獣の姿があった場所に目をやった。まるで、擬獣の死を悼むかのように。 「そう。君には擬獣の呼び声が聞こえていたんだ。ならば君は気付くべきだった。彼らの願い。彼らの想い。君に必死で投げ掛けていた、彼らの、最期の希望に」  ――気付いて欲しい。  ――助けて欲しい。  ――死にたくない。  三鬼の言葉に、喚起されたかのように。記憶の中の声なき声が、俺に問いかける。お前には聞こえていたのに、ちゃんと振り向いてくれたのに、どうして願いを聞いてくれなかったのかと。 「確かに、過ぎた願いだ。気付いたところで、君にどうにか出来る問題ではなかっただろう。だが耐えることは出来た筈だ。その為に私は君と出会った。私という存在を、君にとって最良の選択肢とする為に」  自分に任せろ。三鬼のその意思を、俺は真っ向から否定していた。擬獣の感知、尋常ではない感覚を、俺は耐えようという気すら起こさなかった。彼女は言っている。仕方のないことなどない。俺が今此処にいるのは、誰でもない俺自身の責任なのだと。 「……違う」  怒りが背中を押す。突きつけられた否定の言葉に、反発する活力を与えてくる。 「俺は、そんなの知らない。擬獣の願い? あんな化け物どもが、願いだって? 本当にそんなものがあったとして、どうして俺がそれに応えてやる必要があるんだ。俺にはそんなの関係ない。他の誰かの都合なんて、俺が気にしてやる義理なんかない!」  勝つとか負けるとか。頼るとか敵にするとか。今になっては何の意味もない。誰であろうと、俺を殺そうとする相手に、俺を否定してくる相手に、無抵抗のままでいる立ち竦んでいるなんて、どうしても我慢できなかった。 「朏、千里馬」  その苦しそうな笑顔に、胸が押し潰されそう。彼女にそんな顔をさせているのは、他でもない俺自身。どうしてこんなことになったのだろう。何よりも俺は、そんな彼女を見たくなかったのに。こんなこと、望んでなんかいなかったのに。 「本当に残念だよ。君はやはり、我々が止めなくては(・・・・・・)ならないんだね」  赤い巨人が唸る。灼熱の色をした肉体が流動する。――鬼。人を喰らう鬼。人を殺す鬼。力と恐怖の象徴。何かが欠けた姿。恐ろしい何者かの姿。堕落した人間の成れの果て。あらゆるヒトに対する敵。アレに救いなど、求めようとは思わない。俺の言葉など端(はな)から聞こえてはいまい。睨む白眼に正気などない。アレは異形。アレは人外。人のような頭、胴、四肢。だが違う。アレには何も届かない。アレには何も聞こえない。大切なものが欠けている。それではさっきの化け物――擬獣と何も違わない。ならば。あの鬼であれば立ち向かえる。そうだ、あの鬼さえ倒せれば、もしかしたら―― 「アカが敗れれば、私の気が変わるかも知れない」  それは、見えない一太刀のような鋭さで。 「分かっていないね、朏 千里馬。鬼を打倒出来るのは真性正義と相場が決まっているだろう。まあ、実際は負けた方が鬼(あく)になってきた訳だが。ああ、まったく不名誉なことだ。人如きに遅れを取る鬼などいない。酒呑童子? ふん、彼など所詮、鬼と称されたただの人間に過ぎない。本物の鬼とはね、人の心より生まれるんだ。嫉妬、憎悪、懐疑、嫌悪、不安、そして恐怖といった感情を糧に、人の描く空想の中で永遠に生き続ける存在。分かるかい? 鬼の母胎とは膨大な人間の想像力、即ちカミサマの領域だ。人である時点で、敵う道理などありはしない。  ――ねえ、アカ」  三鬼が、赤鬼の腕に触れる。愛おしそうに、まるで恋人に触れるかのように。 「いいかいアカ、ほんの少しだ。それだけでいい。君は加減を知らないけれど、私の言うことは良く聞いてくれるね。そう、それでいいんだ。怖がることはない。私の紡ぐ如何なる言葉も、君を傷付けはしないから」  その言葉には重さがあった。俺に向けて発せられた言葉ではないのに、内包された力が伝わってくるようで。危機感が募る。いつかのあの赤鬼にならば、俺は絶対に負けない。負ける筈などないと、そう思っていたのに。今は、今のあの鬼は。 「ここ暫く、酷使してしまって済まなかったね。これが終わったらゆっくり休んで欲しい。だから――」  一間、完全な無音の世界が広がって、 「行け、耳無しの赤鬼(キカズ)」  赤鬼の咆哮で以て崩れ去る。  自らを鼓舞するかのようなその叫びに全身が震え上がる。ほぼ無意識のうちに守りの構えを取り、攻撃に移るであろう赤鬼を凝視する。  瞬間、再び視界が赤く染まる。その時、既に赤鬼は俺の眼前まで迫り、容赦なく拳を繰り出していた。  武器で拳をいなす。その衝撃と鈍い衝突音が全身を巡る。間髪入れず再度襲い来る拳――あまりに速い二撃目。捌くことは不可能と判断し、後方へ跳ぶ。それは紙一重の回避だった。顔面に叩き付けられた風圧は凄まじく、行動が一瞬でも遅ければ顔が潰されていたことを知らしめる。  その攻防だけで終わる訳もない。視界から赤鬼が消失していることに気付いた直後、後方から轟音が響き、足場が揺さぶられる。臆する暇もなく前転し、その場を退避すると共に身体ごと振り返る。またしても間一髪。形容するまでもなく、それは一撃必死の凶器。空振り、大気を鳴らす赤い拳が、まるで鋭い刀のように光って見えた。  かつて俺は、その愚直な攻勢を前に、見掛け倒しと罵った。技術の伴わない暴力に勝利を確信した。赤鬼の動き方はあの時と変わっていない。攻撃は直線的。敵を追い掛け、両腕を振り回しているだけ。見切ってしまえば凌ぐのは容易く、打ち込む隙など幾らでも見い出せる動きだ。  だというのに、こんなにも違う。反撃など元より、武器で応じることすらままならず、そこから続く連撃に対してはただ逃げるしか手立てがない。動き方は同じだが、その動きが以前と全く違う。視覚だけでは最早追い切れない俊敏さ、拳に宿る破壊力、圧倒的な威圧感。全てが、三日前のそれらを凌駕している。  敵わない。敵う筈がない。辛うじて受け切れている今は、ただ単に運がいいだけだ。致命傷を負うのは時間の問題。体力が尽きれば。ほんの一瞬気が緩めば。それだけで一気に決着がついてしまう。  息が上がってくる。運動能力が底上げされているとは言え、これだけ動き回れば消耗は著しい。何より、心が磨り減る。真後ろまで迫ってきている敗北の二文字が、いつか見た死神の刃が、執拗なまでに精神を侵食していく。足が震え始めているのは疲労の為か、それともそれ以外か。確かめるより先に次の攻めが来る。次第に動きが雑になり、直撃は免れていても身体中が傷んでいく。繰り出された拳が百を超えた頃、俺は地面に突き立てた武器を支えに、漸く立っているという有様だった。 「本気のアカはどうだったかな、朏 千里馬」  いつの間にか、赤鬼は三鬼の隣に立っていた。地面は彼方此方が抉れ、数分前とは風景が変わってしまっている。より強まった廃墟という印象、けれど揺らがない、三鬼と赤鬼の存在感。 「君の界装具は確かに優れているよ。身体能力の強化幅で言えば機関の中でも上位だ。加えて君には素晴らしい技術がある。非凡な才能と積み重ねられた経験。三年のブランクを経ても尚色褪せない、純粋な君自身の強さ。……相手がアカでなければ。それを思うと君は、ああ、本当に、恵まれていないよね」  三鬼の皮肉に、笑い返す力すら残っていない。今の自分の姿を思うと、辛うじて生き残った心が潰れそうになる。 「……やめてくれ、三鬼さん。そんなの、もういいんだ。俺に技術なんてない。ないんだよ、そんなもの」  掠れた声が情けない。繰り返し敗北した自分に腹も立たない。勝てると確信した相手に負けたんだ。ただの暴力に覆される程度の技術なんて、そんなもの、あってないようなものじゃないか。 「技術がない、か。成る程、これは再現だ。でもやっぱり、私には不思議でならないんだよ、朏 千里馬」  いつか見た、心底可笑しそうな笑い。何がそんなに可笑しいのか、俺にはさっぱり分からない。 「君は言ったね。自分には技術がない、だから剣道を諦めたのだと。……それは君の本心か? 君は本当に、自分に技術がないなんて思っているのかな」  三鬼は、何を言いたいのだろう。今の俺にはもう、赤鬼と戦う力は残っていない。殺すつもりなら、今なら簡単に出来る筈なのに。 「……本気で、思ってるさ。だってそうじゃなきゃ説明が付かない。俺に技術があるのなら、なんで俺は負けたんだ。身体能力では明らかに勝っていた相手に。技術では絶対に勝っていた相手に」 「さっきも言ったろう、相手が悪かったんだよ。君は紛れもなく天才だ。が、それはあくまで常識の範囲内での話。世の天才というのは皆そうだ。そして君が敗北した相手は、そんな常識から大きく外れた規格外だった。それだけのことだよ」  初めから敵う筈のない相手だったと三鬼は語る。だがそれが何だというのか。幾ら規格外とは言え、現実に存在している以上、優劣は付けられてしまうもの。俺は負けた。俺は劣っていた。それは確かなことじゃないか。 「渦中にいた君が分からないと言うのも解せない話だ。技術というのは、あるかないかの二つで語れるほど単純なものじゃないだろう。負けがショックだった、それは分かる。だがそれによって、自分の持つ技術の全てが信じられなくなったという君の言葉には納得出来ない。何より、君の太刀筋にはそんな迷いは感じられなかった。擬獣と戦う君の姿は、逆に自信に満ち溢れていた。君は疑問に思わなかったのかい? それまでの常識を全否定するような異形を相手に、自分の力を信じられないような者が、臆せず立ち向かえるものなのか」  ……何が、言いたい。 「だからね。君は心から、自分に技術がないなんて思っていなかったんだよ。要するに、君が剣道をやめた理由は他にあるということだ。もう気付いているだろう? いや、最初から分かっていたんだろう? 君は自らを悲観してなどいない。初めて屈辱的な敗北を期した君は、もう一度それと同じ敗北を経験してしまうのではないかと考えた。しかも次は、もしかしたら大衆の面前で負けてしまうかも知れない。それは一体、どれだけ耐え難い苦痛になるのだろうか。そう思ったら、もう剣道を続けてなんていられなかった」  ……違う。 「違わないよ。君は生涯で初めての大敗を、生涯最後の大敗にしたかった。君は、絶対の自信を持つ剣道において、勝つか負けるかの真剣勝負に耐えられなくなった。つまりさ、技術だ何だと尤もらしい理由で取り繕いながら、君はずっと逃げ続けていたんだよ」 「違う!」  喉が痛いほどに叫んだ。そんなつもりはなかったのに、叫ばずにはいられなかった。だって、違うから。三鬼だってそんなの、ただの想像で言ってるだけの筈だ。俺は、そんな理由で剣道をやめたんじゃない。俺は、そんな下らない理由で心変わりするような、弱い人間なんかじゃ決してない。 「おや、否定するか。恥じることのない、実に人間らしい思考だと思うけれど。まあ、正直どちらでも構わないんだがね、私は。だが擬獣にとってはそうはいかない。何故って、あまりに哀れじゃないか。真剣勝負の出来ない君が、それでも擬獣と戦えていたということは。君は大分、彼らを軽視しているということになるのだからね」  “犬のくせに、お前――”  “あんな化け物どもが――” 「なんだよ、それ。俺が弱いモノ虐めしてたとでも言いたいのかよ、三鬼」  やめてくれ。その顔で、そんな笑顔で、そんなこと、言わないでくれ。 「虐めだなんて君、そんな生易しい表現は止さないか。……ああ、そうだ。君はまだ理解していないんだったね」  身体の芯が寒さに震える。それは、外気の冷たさによってだけでは、きっとないのだろう。 「擬獣は有害だから倒さなければならない。君の言だ。けれど、それはどういう意味で有害だったのかな。他の人間を殺してしまうかも知れないと、そう思って戦っていたのかい?」  楽しそうな声色で、それでも、どこか真剣な眼差しで。その心境が全く掴めないまま、彼女の言葉を聞き続ける。 「戦いとはね、何かを守るためのものなんだ。自分を、自分たちを、自分以外の誰かを、物を、感情を、願いを、言葉に出来ない何かを。皆理由はそれぞれだけれど、何かを守ろうとして戦うことに変わりはないんだ。  ならば君は何を守りたかった? 擬獣に襲われてしまうかも知れない誰かを守る為に戦っていたと言うのかい? ふん、やはりそれは可笑しな話だ。だって君は、他者の尊さも、遺される者の痛みも、何も知らないじゃないか」  “正直どうでもいいだろ――”  “俺には理解出来なかった――” 「重みの分からないものを人は守れない。君が守りたかったのはそんなものじゃない。君はね、ただ自らに与えられた特別な力を誇示したかっただけなんだ。擬獣という異形を打ち倒すことで、自分の特別性を実感し、優越感に浸りたかっただけなんだ。誰かの為であるかのように振る舞いつつ、君が守っていたものは、何のことはない、君自身の自尊心そのものだったんだよ」 「――――!」  叫びが言葉にならない。漏れ出た呻きは、何かが崩れていくような音だった。  違わない。違うと吐き出したい。だが何一つ違わない。三鬼の言葉は間違ってなんていない。今になって漸く“真実を視る”ことの意味を痛感した。分かっていた。嫌だっただけで。認めたくなかっただけで。本当は全部、分かっていたんだ。  あの日。死神に殺されたあの日。俺はずっと考えていた。どうしたら負けなかったかではない。どうしたら勝てるのかでもない。どうしたらあの敗北を、なかったこと(・・・・・・)に出来るのかと。かつて同門相手に負け続けていた時、相手は上段者なのだから仕方がないと、そう処理してきたように。  答えは見つからなかった。目を背けることは出来なかった。そしたら勝手に身体が震えた。自分は強いという自信と、それを否定する現実に挟まれ、身が千切れそうだった。  それを、更なる鍛錬によって乗り越えようとはしなかった。今になって言葉にしたように、全てを諦めて去る(・・)ことも、本当は出来ていなかった。三鬼の言うとおり、俺は逃げた(・・・)んだ。もう二度と負けない為に、もう二度と傷付かないように、根本から剣道を拒絶した。その時捨てるべきだった煤(すす)だらけのプライドを、後生大事に抱えたままに。  あの日。擬獣を初めて倒した時。手にした見慣れない凶器を見て、笑いが止まらなかった。嬉しかった。今自分は蘇ったのだと思った。自分はやっぱり弱くなんてなかった。見るからに人間を狩る側の生き物を、俺は打倒することが出来る。自分はこんなにも強くて、こんなにも特別で。心の底で燻(くすぶ)っていたプライドが、再び自信に繋がった。  次々と擬獣を倒し、その都度歓喜していた俺は、大会で勝ち続けていた時の俺と全く同じだった。戦うことが楽しかった、勝つことが嬉しかった、だから擬獣に固執した。これが、貪欲に勝利のみを求め、鍛錬を積み重ねたあの時の再現だというのなら、……確かに、誰かの為なんて言葉は、上辺だけのものだったのかも知れない。 「……ああ」  崩壊する瓦礫の真ん中で、何も出来ず立ち竦む。そんな自分が頭に浮かぶ。 「おれは……」  いつだって、自分が上等だなんて、思ってはいないつもりだったけれど。  なんだか、思っていたよりも、ずっと、ずっと―― 「……でも、でも――」  惨めなのは分かってる。囲っていたもの。拠り所にしていたもの。信じていたもの。正しいと思っていたもの。最低だ。みっともなくて、こんなの、今すぐ消えて無くなった方がいいんだって、分かってる。  それでも、……それでも、俺は。 「おれ、止められた、よな? さっきの、さっきのアイツ、倒せたんだ。これで、自殺、とまるよな……?」  誰かの為に、戦っていた訳ではないけれど。それでも俺は、誰かの為になれた筈だ。元凶を倒した以上、もうあんな事件は起こらない。理由のない自殺。多すぎる自殺。きっと悲しい出来事。それはもうないんだ。だからきっと、でも、あれ、変だよ、どうして、  どうしてそんな顔をしているの? 「戦っているとき。自分の中に、不思議な力が流れ込んできたような、そんな感覚はなかったかい、朏 千里馬」  思い当たる節はあり、だが今、それに何の関係が、 「不自然な事件。それを起こせるのは、自然なものでは有り得ない。……その自然ならざるものは、擬獣以外にも存在すると。知らない筈はなかっただろう、朏 千里馬」  関係を悟り、意味を察し、最悪の結末を思い描き、 「無から有は生まれないこと。あらゆる現象には必ず原因が付き纏うこと。気付いても、信じられなかっただけなら、まだ救いがあった。それはきっと、痛みの伴う戦いになっていたから。……だが結局、君は思い付きもしなかった。気付かないまま、搾取し続けた。君は、君だけは、理解していなければならなかったのに」  愕然とする。  その時の、彼女の顔を見てしまったら。  もう、否定する力の一欠片も、起きなくて。 「自殺は、止まったよ。今、この時を以てね」  頭に浮かぶのは、ただ、 「そんな――」  どうして、 「おれ、は――」  どうして、どうして、どうして、どうして――! 「どうして、こんなことに、なったんだよ……」  何もかも、消え失せた。地面に身を投げ捨てて。もう、涙を堪えることすら出来ない。 「君が、進んだからだ。その道を作ったのも、選んだのも、歩むのをやめなかったのも、そんな朏 千里馬という人間も、君自身だ」  少しずつ、三鬼の声が近づいてくる。それに呼応するように、俺の下にある地面が、どんどん黒く染まっていく。それが何なのか、なんとなく分かったけれど。もう、身体は動かない。 「最後に、言い残したいことはあるかな」  俺の右手に、三鬼の手が重なる。熱い。人の温もりとは、こんなにも熱いものだったのか。知らなかった。そうだ、俺の知らないことなんて、きっとまだたくさん、あったんだ。 「お前に、謝りたい」  視界が霞んで。身体が動かなくて。  空になった心から、唯一綺麗だった想いが零れ落ちる。 「俺はお前の、辛そうな顔が、見たくなかった。お前を怖がらせてる相手を、お前を傷付ける相手を、絶対に許さないって、思ってたのに」  もう、見ることも叶わない。そう思うと、新しい涙が流れ出た。 「悪かった。本当に、……ほんとうに」  ゆっくりと、身体が沈んでいく。まるで、地面に敷かれた黒に、飲み込まれていくように。 「自分がそうだから、相手も同じだと。そういう考えは良くないな」  その声を聞いて、ほんの少しだけ、安心した。きっと今、彼女は笑っているのだから。 「私はね、朏君。恐怖という感情を疎んではいないんだよ。感情とは活力だ。それは喜悦だろうと恐怖だろうと変わらない。何より恐怖は、私にとって特別なものだ。心が歪んで、痛くて苦しくて。けれどそれを拒絶し、反発しようとする時、大きな力が生まれる。恐れる心が、私の力になるんだ」  完全に消えてしまうまでの時間を、惜しむように。三鬼は声を、掛け続けてくれる。 「その力が、私には必要なんだよ。私の――我々の目的、我々の祈願を成就させる為に、恐怖ほど重要なものはない。  私の願いは、私が私である為の証明。故にその導き手たる恐怖とは――私が最も追い求める恐怖とは、三鬼 弥生という人間の在り方、そのものなんだ」  強く握られた右手が痛い。けれど今はそれだけが、俺がここにいることを実感させてくれている。 「ありがとう、朏 千里馬」  そうして、やっと。すべてが、おわった。